社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 足利義昭、征夷大将軍となる~新公方御隑陣将軍宣下の事

2024年1月4日木曜日

足利義昭、征夷大将軍となる~新公方御隑陣将軍宣下の事

 三好三人衆たちを畿内から追い払うことに成功した織田信長。

足利義昭が将軍となるための障害は無くなりました。

いよいよ、足利義昭が4年越しの宿願を果たす時が来たのです…!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

(※マンガの3ページ目は、都合により公開いたしません<(_ _)>)

〇足利義昭・織田信長、入京する

三好三人衆などが畿内から掃討されると、宮中において、足利義昭に対し将軍宣下を行うことが決定されます。義昭は宣下を受けるために宮中に参内するにあたり、特別な服装が必要でしたので、それを用意しなくてはいけませんでした。

その時の様子が『言継卿記』に載っていますので、紹介したいと思います。

10月3日、権中納言である飛鳥井雅教に呼ばれ、足利義昭が参内・将軍宣下となった時に備えて相談を受ける。参内の時の服装について、山科言継は烏帽子・直垂・大口袴・扇、冬の場合はこれに加えて袍(上着)・指貫の袴・腰巻であると伝える。

10月4日、山科言継、信長の右筆である明印良政に面会を申し出るが、果たせず。飛鳥井雅教、芥川城に出向き、参内・将軍宣下の事について話をする。

10月5日、飛鳥井雅教が芥川城から帰還。山科言継、飛鳥井から、服装の事について村井貞勝に伝えたことを聞く。

10月6日、義昭・信長からの使者として、正実坊がやって来て、参内の服装の用意を要請することを記す、飯河山城守信堅・三淵大和守藤英からの書状を山科言継に渡す。

10月7日、山科言継、参内時の服装について、足利義輝の時の服装を参考にすることを伝え、正実坊から下袴の絹1疋(2反。22~24m)・大帷(おおかたびら。下着)の布3丈8尺(38尺分。11.5m)を受け取る。

10月8日、山科言継、陽春院に行き、足利義輝の服装を見る。袍の丈は4尺5寸(136.8㎝)、下袴の丈は3尺5寸(106.1㎝)であった。

正実坊、改めて絹2疋(44~48m)を送る。袍・指貫の袴の裏地用。

10月9日、正実坊に使用した絹の残りを返す。

10月10日、村井貞勝家臣、絹織物の職人と共に来訪し、袍・指貫・直垂などのことについて尋ねる。

10月11日、山科言継、長橋局から服を染めるための染料を受け取る。

そしてこの後、足利義昭と織田信長が摂津の芥川城から京都に戻ることになります。

『信長公記』には帰洛(京都に戻る)の様子が次のように記されています。

「14日、芥川より公方様御帰洛。六条本国寺に御座なされ、天下一同に喜悦の眉を開き訖(おわんぬ)。信長も御安堵の思をなされ、当手の勢衆召し列れられ、直(すぐ)に清水へ御出

(14日、芥川城から公方様[足利義昭]が京に戻り、本国寺[日蓮宗の寺で、1685年に本寺と改めた)に移った。天下の者たちは非常に喜んだ。信長もこの様子を見て一安心し、織田の軍勢を引き連れて清水寺に入った)

一方で、『足利義昭入洛記』には、「芥川より15日に、信長、上意様を御供有て御帰洛すすめ申さる」とあり、「15日」に京都に戻った、と書かれています。

「14日」とするのは『信長公記』『総見記』、

「15日」とするのは『足利義昭入洛記』『信長記』。

果たして「14日」と「15日」、どちらが正しいのか…??

一番信頼が置けるのは『言継卿記』を見ると、…今日武家(足利義昭)が芥川から上洛し、六条本国寺に移るという。という内容が、10月14日条に書かれていますので、「14日」とするのが正しいのでしょうね(;^_^A

信長はあらかじめ本国寺に義昭を入れる準備を進めていたようで、

10月11日付の、堀秀政に対し、本国寺の周囲に土塁を築かせる普請を油断なく執り行うことを命じる書状が残っています(『本圀寺文書』)。

また、『言継卿記』の10月14日条には、足利義昭が本国寺に入った後、烏丸光康・光宣父子、日野輝資(1555~1623年)などが出迎えに赴き、未の刻(午後2時頃)に戻った、とも書かれています。ちなみにこの日の天気は晴れでした。

この時、信長はまだ入京せず(足利義昭もこの時入京はしていない。本国寺は下京の郊外にあるため)、京都の外にある清水寺に入りましたが、その理由として、『総見記』は、…信長は兵が乱妨を働くことを心配し、わざと京の外の東山清水寺に陣を構えた。…と書いています。

体面を気にする信長は、自軍の兵が天下の中心である京都で不法行為を働くことが無いようにだいぶ気を遣っていたようで、『信長公記』には次の話が載っています。

「諸勢洛中へ入り侯ては、下々届かざる族もこれあるべき哉の御思慮を加えられ、警固を洛中洛外へ仰せ付けられ、猥(みだりがましき)儀、これ無し」

(軍勢を京中に入れた時に、命令が行き届かない者が出てくることを心配し、不法行為が起きないように京の内外で警戒を強めさせたため、不法行為は起こす者はなかった)

また、『信長記』には、…信長は清水寺に入ったが、京都内外において、家来の者で乱暴な行為を行うものがあれば、一銭ぎり(死刑)と定め、柴田勝家・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆に命じて次の内容の制札を立てさせた。

「禁制 

一、我が軍勢が乱妨(略奪行為)・狼藉(乱暴なふるまい)を働くこと。

一、むやみやたらに山林の竹や木を伐採すること。

一、押買(無理やり安く買うこと)・押売(無理に売りつけること)・追立夫(農民を無理やり人夫にかりだすこと)。

以上定めたことに違反した者は厳しく処罰する。永禄11年(1568年)10月12日」

また、制札を立てるだけではなく、観察使・検見などに命じて厳しく取り締まらせたので、京都内外は落ち着き、罪を犯す者は一人もいなかった。はじめは織田軍が上洛する際、粗暴な田舎者がやってきて、どのようなひどい目に遭うかわからない、と京の人々は恐れていたが、織田軍が怖がられていたのは、ただ敵対する者たちが恐れる様子を、子どもや下々の者たちが見たり聞いたりして、怖がっていただけであって、実際織田軍を目にすると、予想外の者がやってきたようだ、と安堵し、みな自分の家に戻り、織田殿万歳万歳万々歳と称える声が満ち満ちた。…という話が載っています。

以前に紹介したように、『信長記』には同様の話が載っています。前回は、9月末に、京都近くに着陣したものの、入京はしませんでした。今回は、実際に織田信長が軍勢を率いて入京したので、京都の人々も、「京都の側に織田軍がやって来た時は何事もなかったが、京都の中に入ってくるとなると、中には不法行為を働く兵も出てくるのではないか」と心配した、ということなのでしょう。

10月12日に信長が京に禁制を出したことを証明する一次史料は残っていないため、この『信長記』の記述が正しいのかどうかはわかりませんが…(;^_^A

翌日(15日)、義昭にあいさつするため、「聖護院新円主(道澄)・左大将(今出川[菊亭]春季)・予(山科言継)・庭田(重保)・葉室(頼房)・若王子(増鎮?)・三条児(公仲)・倉部(山科言経[言継の子])・水無瀬(兼成)・理性院・万松軒」など数十人が本国寺を訪問しました。一色藤長・細川藤孝がこれを取り次ぎ、彼らは義昭と面会を果たします。「予・葉室・倉部」などが太刀を献上しました。続いて「左大将・予・庭田・葉室・倉部」などが織田信長のいる清水寺に赴きますが、混雑していて会うことができず、信長の右筆である明印良政に言伝をして帰っています。

そして16日、いよいよ織田信長と足利義昭は入京することになります🔥

16日のことについて、『言継卿記』は、…巳の刻(午前10時頃)、武家(足利義昭)は御供7騎とともに「細川亭」に移ったという。織田弾正忠は「古津所」に移った。「猛勢」(勢いが盛ん)であるという。…と記しています。

『信長公記』に「細川殿屋形御座として信長供奉なされ」とあるので、義昭の「御供」のうちの1人は織田信長であったのでしょう。

義昭が移った「細川亭」「細川殿屋形」について、『足利季世記』は、…公方様は入京し、故細川氏綱の旧宅に移った。…と記しています。

細川氏綱は以前にも紹介しましたが、三好長慶と手を組んで、対抗する細川晴元を破り、細川氏の宗家である京兆家の当主となった人物でした。

細川氏綱が1564年に亡くなった後は、養子の昭元(晴元の子)が跡を継いでいましたが、織田軍が上洛すると、三好三人衆たちと共に四国に逃れていました。こういう経緯で空き家になっていた細川氏の館に足利義昭は移ったわけですね。

信長は清水寺から「古津所」に移りましたが、この「古津所」は、細川家臣の古津氏の館とも、三好義興(三好長慶の子。1563年に既に死亡)の館とも言われています。

また、『信長公記』にはこの時のものとして、次の話が記されています。

「御殿において御太刀・御馬御進上。忝くも御前へ信長召し出だされ、三献の上、公儀御酌にて御盃并に御剣御拝領」

(細川の館を足利義昭の居所とし、その場所で太刀と馬を献上した。この時、かたじけないことに、信長は義昭の側に召し出され、三献[吸い物と肴の膳を三度出し、その度に大・中・小の大きさの杯で酒を勧める]でもてなされたうえに、義昭が自ら注いだ盃をいただき、剣までいただいた)

信長が義昭から手厚い待遇を受けていたことがわかりますね😲

17日、『言継卿記』によると、山科言継は再び信長に会いに行きましたが、この時も多忙のため面会できず、続いて義昭のところに訪れたものの、こちらも「御礼申すの輩数多、僧俗数を知らず」という状況で対面することができませんでした(◎_◎;)

また、この日の夕方、正実坊が、袍・腰巻・指貫が完成したと言って持ってきています。

〇将軍宣下と能張行

そして18日、義昭に対してついに将軍宣下が行われます。

これは義昭が参内して行われたものではありません。なぜなら、義昭はまだ参内(内裏に入る事)の許可が出ていないからです(;^_^A

そこで、この宣下では、義昭を征夷大将軍・参議・左近中将・従四位下に任じるだけではなく、昇殿…参内の許可も出されています。

また、この日は義昭を将軍などに任じることが決定し、その旨を書状にしたためただけで、この書状はまだ義昭に送られていません。

この日の巳の刻(午前10時頃)、山科言継は宝鏡寺殿でついに織田信長に挨拶を果たしているのですが、この際に将軍宣下の情報を信長に伝えていたことでしょう。

義昭に対して宣下が行われたのは、19日の事で、中原師廉・壬生朝芳が宣旨を持って義昭のもとを訪れています

20日には義昭の直垂・大口袴が完成し、正実坊はこれを山科言継に送っています。

22日、ついに足利義昭は参内を果たします。天気も折良く晴れでした。

参内する義昭に御供したのは細川藤賢(細川氏の分家である典厩家の出身。永禄の変以降、一貫して義昭方に属した。1517~1590年)・上野佐渡守(不詳)・一色藤長・細川藤孝・三淵藤英・上野中務大輔(清信?秀政? 幕府の奉公衆の1人)・和田惟政などでした(『言継卿記』)。

この時のことについて、諸書は次のように伝えています。

『信長公記』…「10月22日御参内。職掌の御出立ち儀式相調え、征夷将軍に備え奉り、城都御安座。信長日域無双の御名誉、末代の御面目、後胤の亀競に備えらるべきものなり」(10月22日に義昭は正式の服装で身を整え、征夷大将軍の宣下を受けた。これで京都は安らかに治まった。信長が義昭を将軍につけ、天下を落ち着かせたことは、末代まで伝えられ、手本とされるべき天下無双の名誉であった

『細川両家記』…10月22日に、一乗院殿は参内した。名前は義秋というそうである。この時、伊丹親興は警固役となり、池田勝正は道中の警備を任せられた。

『足利季世記』…10月22日、公方様は参内して征夷大将軍に任じられた。伊丹親興は警固を担当し、池田勝正は道中の警備を任せられた。

『総見記』…21日、新公方は参内し、征夷大将軍・左馬頭に任じられた。この際、伊丹親興は警固を務め、池田勝正は道中の警備を任せられた。

22日に参内した理由が征夷大将軍の宣下を受けるためだということがわかりますね(゜-゜)

織田信長について書いている本で、18日に義昭は参内して将軍宣下を受けた、と書いてあるものが結構あるのですが、これは誤りでしょう(;^_^A

(『総見記』の21日という日付、左馬頭に任じられたというのはどちらも誤り)

23日、参内を終えた足利義昭は、将軍宣下の祝いと、上洛戦で活躍した者たちへのねぎらいを兼ねて、能を上演することにします。

このことは、『言継卿記』10月23日条に、…今日、織田弾正忠は武家(足利義昭)に召し出され、そこで能が5番演じられたという。能の大夫は観世であったという。…と書かれているので、実際にあった事はほぼ確実です(『足利義昭入洛記』にも、…23日に信長を召した上で、観世大夫に能を演じさせた、とある)。

足利義昭が主催した能について、『信長公記』は次のように詳しく記しています。

「今度粉骨の面々見物仕るべきの旨上意にて、観世太夫に御能を仰せ付けらる。御能組、脇弓八幡、御書立13番なり。信長御書立御覧じ、未だ隣国の御望みもこれある事に侯間、弓矢納りたる処御存分無き由侯て、5番につづめらる

(義昭は、今回の上洛にあたって活躍した面々を慰労するため、観世太夫に能を上演することを命じた。能の演目は、弓八幡など13番あった。信長は演目表を見て、「まだ畿内周辺が不穏で、戦いが終わったわけでもないのに、13番もするなど考えられない」、と言って13番あったのを5番に短くした。)

能は江戸時代以前は猿楽とも呼ばれていたそうですが、大和国(奈良県)で有名であったのが大和四座で、外山座・坂戸座・円満井座・結崎座がありました。

結崎座の祖があの観阿弥(1333~1384年)で、2代目がその子の世阿弥(1363?~1443年)であり、それまで物まねが主であった猿楽を芸術性の高いものに大成させました。

3代目が世阿弥の弟の音阿弥(1398~1467年)で、それから続いて8代目が、今回の話に出てくる観世(左近)太夫で、名を元尚(?~1576年)といいます。

足利義昭はこの観世太夫に能を行わせたわけですが、この能において、信長は4つの気になる事を行っています。

①本来は13番行う予定であった能を、5番に減らした。

この理由について、『信長公記』は先述したように「まだ畿内周辺が不穏で、戦いが終わったわけでもないのに、13番もするなど考えられない」とし、

『足利季世記』は、「まだ諸国が落ち着いたわけでもないのにゆったりとくつろぐわけにはいかない」と記し、

『総見記』は、「まだ諸国で戦争は終わっておらず、注意しなければならない時期に、このようにゆったりとくつろいでいてはいけない、少しでも早く能を終えさせて、京都にいる武士たちを帰国させて休息させるべきである」と考えたためだ、としています。

また、本来は上演される予定であった「弓八幡」が削られていることについて、源氏の氏神である八幡神を扱う「弓八幡」を、平氏だと自称する信長が快く思わなかったためだ、とする説もありますが、

「弓八幡」は、後宇多天皇(1267~1324年)の時代、世の中が平和になったことを祝って、(武器が必要なくなったので)弓を八幡宮に納めに行く、という内容の話であり、

信長としては、先に述べた内容と同様に、世の中が収まっていないのに「弓八幡」だと⁉何を考えているんだ⁉…という思いで削ったにすぎないでしょう(;^_^A

ちなみに『足利季世記』では演目は「13番」ではなく「10番」であり、2番目の能は「八島」ではなくて、「弓八幡」が上演されています(◎_◎;)

(※今回の話の解説の続きは、都合により公開いたしません<(_ _)>)

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