処罰されることを恐れず、改正新聞紙条例・讒謗律に対して痛烈な批判を繰り返してきた末広重恭。
しかし、ついにその時がやってくることになります…(-_-;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇改正新聞紙条例による言論弾圧第1号
8月2日の曙新聞の社説には次のように書かれています。
…7月30日、曙新聞社長の青江秀が病気となったが、そこに扱所(裁判所・役場)から扱所に出向くようにという連絡が3度も入った。青江は病気のため出向くことができないでいたが、夕方になって、ついに警察から出頭するようにという命令が来た。31日の8時、青江が病を押して扱所に行くと、警官の高山という者が、青江の本籍・住所を聞いた後、7月10日の曙新聞に掲載された社説について覚えているか、と問われた。青江がすべての社説を覚えていない、と答えると、高山は7月10日・20日・29日の新聞を持ってきた[7月10日の曙新聞は現在残っておらず、内容が残念ながらわからない😢]。その新聞には朱線が引いてあったり、傍点が書かれていたり、二重丸がなされていたりしていた。また、細い朱の字で数十行も文章が書かれており、ほとんど余白は無いような状態であった。そして高山は、この3つの号の論説は曙新聞によるものか、投書によるものかはわからないが、掲載している以上は曙新聞のものとみなしてよいか、と尋ねてきた。青江がそうです、と答えると、高山は特別なことはしないが、あなたを町内預け[町内に監禁する]とする、と伝え、青江はそれを聞いて退出した。頭取である青江に罪は無く、論説は編集長である自分[末広重恭]が考えたもので、論説・投書に至るまで、条例に触れるものは全て自分の責任であり、禁獄・罰金は甘んじて引き受けるだけである。私は政府の命令を守り、少しも違反することはない。新聞紙条例・讒謗律は、朝・夕方に謹んで読み、執筆するときはその内容を思い出し、一言一句に至るまで、違反しないように慎重を期していた。それでも条例に引っかかったというのだから、今の世の中で新聞記者をするのは難しいものである。人の考えを制限し、議論を禁止するのは、専制の暴君・姦吏の行うことで、周の幽王・霊王、秦の始皇帝はこれを行って人民のうらみ・怒りを買い、千年の後まで悪名を残すことになった。今、賢明な政府は、欧米諸国の文明に倣おうとしているのに、なぜ論者を逮捕するようなことをするのか。賢明な大日本帝国が、千年の後まで汚名を負うことになってはならない。
これに対し、『郵便報知新聞』は8月4日の社説で次のように反応しました。
…さあさあ大変、おー怖い怖い、新聞屋が生け捕られました。一昨日の曙新聞を読み、青江氏が町内預けになったのを知って、ゾッとして魂は抜け、腰が抜けてしまった。ああ、新聞記者は前世でどんな悪い行いをしたのだろうか。三寸の舌・五寸の筆が罪を犯す機械となり、法律から逃れることができないようにしている。愚かな新聞記者。狂った新聞屋。一寸先は闇で、一歩でも踏み外せば地獄に落ちる仕事と知りながら、平然と今まで通りに仕事を続けている。ああ、新聞記者といっても木や石ではない。父母兄弟を思う心もあれば自分の身体を愛する気持ちもある。しかし、ことわざに、「乞食を三日すれば忘れられぬ」と言うように、世間の人が最も嫌い、恐怖する新聞屋も、一度始めてしまうと自分からはやめられないもので、そのため、私も危険だとはわかっているけれどもやめられないのである。以上の理由で新聞屋を続けているのだが、同業の者が捕まったと聞けば平気であるわけもなく、臆病神が出現して腰も魂も抜けてしまったのであるが、気持ちが落ち着くと恐怖は喜びに変わり、逆に政府と曙新聞に祝詞を述べたい気持ちになった。…ああ偉大なるかな日本政府。仕事を成し遂げた日本政府。一度出した法律は取り消せないので、これを無理を承知で実行した。自分の仕事をしっかり果たしたといえる。日本政府はこれまで、法律の実行は私的な利害・感情によって、ほめること・罰することは、その者に対する好き嫌いによって、左右されて、朝令暮改[一度出したものをすぐに変更すること]と批判を受けていたのだが、今日に至って、政府は恐ろしい神々も逃げるほど、無理を承知で、ためらわずに思い切って実行した。誰が朝令暮改と言ったのか。なんと堂々とした決断ぶり。政府は濡れ衣を着せられていたのだ。政府がこの決断の鮮やかさをもってすれば、文明開化は足早に進み、そうして人々が幸福になり国が平和になれば、琉球は日本と中国、両方に属することをやめるだろうし、朝鮮も中国も震えおののき、イギリス・フランス・ロシア・トルコも舌を巻いて逃げるだろう。だから私はこれを祝い、これを喜ぶのである。ありがたさのあまり涙がボロボロと湧き出てくる。続いて曙社長に対して祝詞を述べる。…ああ立派な曙社長。評判をあげた曙社長。新聞各社に対する世間の評価を曙新聞が一社で集めることになった。なんと海外にまで大きな評判を響かせるような仕事を成し遂げたことよ。…こう言うと、人々は反論するだろう。「先に述べたことと矛盾している、政府は仕事を果たしたと言ったのに、今は曙社長は評判をあげたという。正邪[正しいことと悪いこと]は両立しない。政府のしたことが邪ならば、政府が仕事を果たしたというのはおかしいし、曙社長がしたことが邪ならば、栄誉を得たというのはおかしい。矛盾が過ぎるのではないか」。まことに言うこと、もっともである。日本国内のことだけを言うならば、日本政府が法律(良し悪しに関係なく)を作り、それを無理を承知で実行した、これは仕事を果たしたと言える。曙社長は日本帝国の法律に触れて捕まえられたのだ、栄誉とは言えない。しかし、新聞というのは一国にとどまらず、世界に広まるもので、新聞紙のことは世界とからめて考えなければならない。日本に日本の法律や意見があって、外国には外国の法律や意見がある。日本で栄誉としないことでも、外国では栄誉とするものがある。我が国の新聞記者は道徳も知識もないが、外国の新聞記者は道徳や知識がしっかりしていて、地位が高く、評判が高い。遠い国外のことであっても、同業の者が自由に発言したことで捕まえられたと聞けば、これを新聞に載せこれを広く発信する。この新聞を読んだ外国の読者は、日本政府に圧制のレッテルを貼り、曙社長には自由の評価を高めたと口々に賞賛される栄誉を与えるだろう。また、このことは各国の新聞に掲載され、大日本帝国には青江氏という、自由のためにその身を犠牲にした、「マルチルドム」[殉教者]がいると評判になることであろう。このような評判は、日本人が逆立ちをしても得られないものである。だから私は、曙社長を祝うのだし、祝わざるを得ないのである。
お得意の外国の評判論です。これまた皮肉たっぷりで、青江秀が裁判所に呼び出され、町内預かりにされたにも関わらず、処罰を受けることをまったく恐れていない様子が伝わってきます。スゴイ…(◎_◎;)
8月3日には末広重恭も警察に呼び出され、同日に青江秀は裁判所で取り調べを受けることになりました。青江は7月20・29日の新聞記事について厳しく問いただされたといいます。
7月20・29日というと、三鱗・山根・中津 三氏の投書の内容が条例に触れた、ということになります。
末広重恭はこのことについて、『新聞経歴談』に、「此の2つの文章を以て罪を得べしとは予期せざるなり」「当時民間は云うまでもなく政府部内にあっても新聞紙条例を非難する者少なからず、殊に直に之を以て文字の獄を起こすことは予想せざりしに因り、此の事の曙新聞を始め各社の新聞に出るや頗る世人を驚かせり」と驚きをもって記しています。
実際、5月18日付の伊藤博文が大久保利通に宛てて書いた手紙に内務省は全体的に新聞紙条例に不服であるらしい、と書かれていたり、尾崎三良は自叙伝で、新聞紙条例が公布された際、各省の役人で新聞紙屋に同情する者が多くいた、と書いていたりするので、政府内でも、言論の自由を規制する方針には否定的であった者が多くいたことがうかがえます。
しかし出版を管轄する准刻局長になった尾崎三良が、いったん法律として公布されたものが、下の者の反対で実行されないようでは、無政府状態となり、恐ろしい結果を生んでしまう、断固として実行すべきだと伊藤博文に進言したため、改正新聞紙条例にもとづく新聞界に対する弾圧が実施されることになります(◎_◎;)
このように政府内部でもゴタゴタがあったためか、7月いっぱいは新聞記者に対する弾圧は行われませんでしたが、8月に入ってついに実行される運びになったわけです💦
8月4日には末広重恭が裁判所に呼び出されました。そして先月5日の新聞に載せた高橋矩正の投書を知っているか尋ねられ、私が載せたのに間違いありません、と答えると、今後裁判所から追って沙汰があるだろう、今は町内預かりとする、と言い渡されます。
このことについて、末広重恭は社説で次のように書きます。
…高橋氏の投書は、事実かどうかを確かめないで人の名誉を傷つけた罪に当たる、と言われたが、この投書を繰り返し読んで考えてみても、芸者屋や花街がますます繁盛することになる、と言っているだけで、文章中一つも讒謗律に違反する部分は見当たらない。この投書をもって罪に当たる、とすれば、新聞記者たちはみんな罪人になってしまうだろうし、私のように恐れず自分の意見を言う者は、罪を免れることはできない。ああ、私の人生は自由の時間は少なく、裁判所で尋問を受けている時間ばかりになってしまうだろう。私は愚かで、適切な時期を考えて記事を書くことができないが、私は日本の開化が進むことを本心から願って書いている。このために今、私は処罰を受けることになったのである。しかし、昔の人が「身を殺して仁を成す」[世のために自分の身を犠牲にする]と言ったが、私の評価は100年後に定まるだろう。別の日に日本の開化史を書く者がいたとして、その者は次のように書くだろう。「明治の時に政府は新聞条例を公布した、世の中の人々でこれに従わない者はいなかった、しかし末広という者がいて、頑固で愚かであり、法律のことを理解せず、何度も監獄に入れられた」と。私はこのように悪名が歴史に残ってしまうことを恐れるだけである。
取り調べられた直後に、新聞に「自分は何も法律違反なことはしていない」と書いているのは勇気がありますね(;^_^A
しかも「私の人生は裁判所で過ごす時間が長くなる」とか、「歴史を書く者は末広は何度も監獄に入れられた」と書くだろう、と言っているように、処罰を受けても今の態度を改めない、政府に屈する気は無い、ということを宣言しているわけですから…。
8月8日の『東京曙新聞』には裁判の続報が社説に掲載されます。
…本社の編集長、末広重恭は世の中に遠慮することなく、人と、世の中の利害について徹底的に論じる時は、怒り、悲しむあまり、涙と汗が混じって流れるほどであり、今の出来事を心配して文章を書くときは、刑罰を受けるといってもそれを避けることを知らないようであった。本社に編集長となって3か月、論説を書くこと100篇に近いが、一つとして国を思う真心があふれ出ていない物は無かった。しかし新聞条例が公布されてからは、その鋭い弁舌をおさめ、文章の細かいところまで用心深く注意するようになり、むやみやたらに文章を書くことがなくなった。末広重恭が編集長となって、天下の豪傑や優れた評判を持つものたちが投書を新聞社に送るようになり、その数は何十・何百にもなる。その中に三鱗栄二郎先生の新聞条例について論じる投書があり、末広重恭はこれを読んで心に深く感じるものがあり、これを社説に掲載した。また別の日には山根・中津両先生の投書があり、三鱗氏の投書の内容を補助するものであったので、これも社説に載せた。その論じた内容について、何も調べるところはないのだが、何の間違いか政府の怒りに触れ、昨日7日に次のように裁判所で判決を言い渡されることになった。
「公判 愛媛県士族 曙新聞社日新堂編集人長 末広重恭
其方儀本年7月20日同29日曙新聞紙第531号同39号へ住所不詳三鱗栄二郎外二人新聞条例を諭する投書を掲載する科新聞条例第14条成法を誹毀する者に依り罰金20円禁獄2か月申付る
名東県士族 右日新堂頭取 青江秀
其方儀編集人長末広重恭新聞条例に抵触する投書を掲載する故を以取糺す所其情を知らざるに依り無構
明治8年8月7日」
(罰金20円とはどれくらいなのか…。明治初期の米1升の価格=5銭[0.05円]と現在の価格[344円]と比較すると、当時の1円は今の6880円分くらいの価値があったことになります。…ということは、20円とは今でいうと約14万円?になるでしょうか)
裁判後、末広重恭はどこの監獄に入れられることになるのか、と尋ねたところ、本人の親戚に引き渡して末広重恭を監護させ、自宅で幽閉させる、との返答があった。これを聞いて新聞社中は喜ぶこと限りなかった。自宅に幽閉で済むとはなんという優待か。親戚に監護させるとはなんという慈悲深い処置か。その情けの及ぶところ、末広重恭一人にとどまらず、曙新聞社のこの上ない幸せである。…
『明治奇聞』によれば、明治の初め頃は、禁錮・禁獄であっても監獄に入れず、自宅で幽閉というのが多かったといいます。
改定律令第13条には、禁錮は一つの部屋に閉じ込め、外の人と会うことを許さず、病気になれば医者を呼び、近くの家で火事が起きた時は居場所を移すことを許す…とあります。
自宅に幽閉となると、役人が来て「どの座敷にするか」と尋ねられ、「ここにします」と答えると、「この座敷から外に出てはならんぞ」と言われ、その後時々役人が家に来て、「部屋にいるか」と尋ねられ、「はい」と答えればいいというもので、夜はこっそり出かけて芸者と遊ぶことも出来たといいますから、だいぶゆるゆるな処罰であったようです(;^_^A
明治7年(1874年)に「禁錮」が「禁獄」と改められてからは、監獄に入れられるケースも出てきたのですが、監獄に入れられるか、自宅に幽閉か、の線引きは、なんと、士族か平民か、で分けられていたようです(◎_◎;)
明治9年(1876年)1月の『評論新聞』には、曙新聞社の長谷川義孝・報知新聞社の藤田茂吉は讒謗律に引っかかり、それぞれ禁獄となったが、長谷川義孝は士族であったので自宅禁錮で済み、藤田茂吉は平民であったので監獄に入れられることになったことを報じた上で、新聞紙条例・讒謗律には士族・平民で処罰の重さが分けられていないのだから、士族・平民を同じものと扱っているはずである、それなのに士族か平民かで処罰を変えるのはおかしい、裁判所の行いが正しいのならば、そのように条例を改正すべきであり、裁判所の行いが誤りであるのならば、藤田茂吉に謝罪しなければならない、決して曖昧にしてはならない…と意見を述べています。
今回の末広重恭の場合も、末広重恭が士族であったためか、自宅禁錮で済んでいますが、当時は四民平等と言いながら、身分差別があったことがわかりますね(当時は士族の反乱[明治7年(1874年)には佐賀の乱]が起きていたので、士族に厳しくできない事情もあったのかもしれませんが)。
しかし、明治9年(1876年)2月に末広重恭は再び捕まり、禁獄8か月の判決を受けるのですが、この時は監獄に入れられているので、この頃にはもう身分に関係なく処罰を実行するようになっていたようです(-_-;)
話がそれましたが、こうして、明治8年(1875年)8月7日、末広重恭は新聞紙条例に引っかかって自宅禁錮となりました。
これは明治の言論弾圧第1号であり、末広重恭も『新聞経歴談』で「政府の忌諱に触れて罪を受るもの幾百人なるを知らざりしが、其先鋒となりて危険を試みし者は実に余にてありき」と書いています。
さて、判決が下った後、裁判所の者は末広重恭の手に縄をかけようとしましたが、裁判官は手を振るジェスチャーをして、これをやめさせたといいますから、裁判官も思うところがあったのでしょう。
末広重恭は自宅の一室に閉じ込められますが、そこは窓が低いわ、部屋は狭いわで、監獄の中にいる思いがした、しかも、子ども(おそらく長男の末広重雄[1874~1946年]。重雄は後に京都大学教授となる)は皮膚病にかかって泣きわめき、年を取った下働きの男も病気となって隣の部屋でうめいており、思わず悲しみの感情がわき上がったといいます。
しかし、自宅禁錮でゆるゆるなので、家の中の者、家の外の者とも自由に連絡を取り合うことができ、重恭は毎日社説を書いて曙新聞社に送っていたそうです(;^_^A
さて、このような経緯で、ついに改正新聞紙条例により処罰者が出ることになったのですが、
このことについて、8月9日の『郵便報知新聞』は次のように書いています。
…我々は本日の論説を書き終わり、筆をおこうとしたときに、8月8日付の曙新聞が新聞社にもたらされた。末広氏の裁判はどうなったのか心配していたところであったので、筆を投げ捨てて新聞を読むと、2か月の禁獄・20円の罰金を言い渡されたことがわかった。私はこのような「ノーブル・エンド・オノレーブル・クライム」[高潔・立派で、名誉な罪]を初めて見たので、同じ苦しみを持つ者同士、同情する気持ちがわき起こった。末広氏は本人の親戚によって監護されるということで、これは非常にめでたいことであり、さすがは賢明と言われる政府である。他の犯罪とは違うことを認めておられるからだろうか。しかし、曙の記者はどういうことで条例違反の疑いをかけられ、裁判でどのように弁解をして、このような判決に至ったのであろうか。それについて我々は知りたい。なぜなら政府がこの条例を作った理由について、これまで世の論者はいろいろな説を述べてきたものの、その真意がわかっていなかったところに今回のことがあり、そこから、条例の目的というのがわかってきたからである。裁判の様子が公開され、政府が権力でもって有罪に持って行ったのではなく、納得できるやり方でこのような判決に至ったことがわかれば、我々も安心して自由に意見を述べることができるのであるが。…
判決後、重恭はこの期待に応えて、『東京曙新聞』に裁判の様子を連載します。
…8月4日、裁判官は小倉衛門介・香川某の2人であった。
小倉氏:(7月20日の新聞を手に持ちながら)三鱗栄二郎はどのような人物か知っているのか。
末広重恭:知らない。
小倉氏:三鱗氏の住所を知っているか。
末広重恭:投書に京都村とあったので、住所は京都村だと思っているが、京都村がどこにあるかは詳しくは知らない。
小倉氏:投書を新聞に掲載した以上は、責任はあなたが負うことになるが。
末広重恭:そのことはすでに社説に書いている。
小倉氏:(7月29日の新聞を手に持ちながら20日の件とほぼ同じことを尋問する。これは略されている。続いて、)20日の社説に、「世の論者は已に蝶々~」(拙訳では「世の論者はすでに多くの事をしゃべり~」の部分)の文章は、何の意図があってのものか。
末広重恭:毎日書いている社説の内容をすべて暗記しているわけではないので、その新聞を見せていただけないと説明することはできません。
小倉氏:(しばらく黙り込んで)また取り調べることがあるから退出せよ。
第一回の取り調べはこれで終わった。
二回目の取り調べ
小倉氏は前回最後の質問と同じ事を尋ねてきたので、新聞を見せてくれるように頼んだ。今回は見せてくれたので、新聞を手に取り、一度読んでから答えた。
末広重恭:民選議院のことや、教部省達書などについて世の論者がしゃべったということです。
小倉氏:本当にそうか。
末広重恭:そうです。
香川氏:「爾来日たる猶お浅しといえども」(拙訳の「公布されてからまだ間もないが」の部分)とはどういう意味か。
末広重恭:(再び新聞を読んで)先ほどの回答は誤っていました、各新聞社が条例の出たのを不満に思って、これの誤りを攻撃したことを言います。
小倉氏:「対抗」とはどういうことか。
末広重恭:「対」は相対する[互いに向かい合う。対立する]の意味で、「抗」とは拮抗[互いに張り合う事]の「抗」です。つまり、政府によって抑圧されるのが我慢ならず、言論の自由を主張して、条例の内容の利害得失について論じたことを言います。
小倉氏:「アブソリュート・モナーキー」とは何か。
末広重恭:私は外国の言葉を理解していないのですが、社内の翻訳を担当する者に尋ねると、「専制政府」の意味だと分かりました。
小倉氏:文中に「民権党の愛国心あるものを以て昔日の勤王党の徳川氏に抗せし~」(拙訳の「民権党で愛国心のある者を、昔の徳川氏に抵抗した勤王党のように見なし~」の部分)とあるが、あなたは今の政府は末期の徳川氏といっしょだというのか。
末広重恭:そうではありません。徳川氏は言論を弾圧する際に、流刑や死刑などの残酷な処罰をしました。今の政府は罰金と禁獄に過ぎません。しかし、私が思うに、国の治安を守るためにこの法律を作り、世の中の人の思想が発達しないようにした、ということでは同じであると言えます。
小倉氏:あなたは新聞条例を論者を拘束するものとするが、政府に対し建白[意見書]を出すことが認められているのを知らないのか。
末広重恭:何で知らないことがありましょうか。しかし、論者は政府に対して言いたいことがあるが、意見が受け入れられるかは役人の心次第です。文明開化を進めるのは政府だけではうまくいかず、政府のすることを有識者がお互いに議論しあうことにより、社会の利益を増加させることができるのです。今、新聞条例が出されて、議論することにいくらか障害ができました。だから私は、言論を制限するものと言ったのです。
小倉氏:西洋の国々にも新聞条例があることはあなたも知っているだろう。気ままに発言させていては、他の人に害を与えることが起きる。
末広重恭:たしかにそうです。しかし、制限するほうが害が大きいのです。
小倉氏:(29日の新聞を手に取り)朱点が打ってあるところ(「昔者秦始皇恐人民議己云~」の部分。拙訳の「昔でいえば、秦の始皇帝が自分のことを議論することを恐れて~」の部分)を読みなさい。あなたは、今の政府がこれと同じだと言いうか。
末広重恭:そうではありません。今の世の中で、新聞記者を穴に埋めたとは聞いたことがありません。また、子どもを使って新聞記者を密かに調べさせているという話も聞いたことがありません。どうして秦の始皇帝・平清盛と今の政府を比べましょうか。昔行われたことを使って、言論を制限してはならないことを論じるというのは、文筆家の常とう手段であります。
小倉氏:あなたが言う所を聞くと、新聞紙条例を良い法律とみなしていないようであるが。
末広重恭:そうです。私が考えるに、この条例は決して善良な法律とはいえない。
小倉氏:それならばあなたはどのような目的で作る条例ならばいいと言うのか。
末広重恭:どのように法律を作るか、ということをお尋ねですか。
小倉氏:(しばらく黙って)そうではない。良い法律について、あなたの考えを聞いているのだ。
末広重恭:讒謗律第1条にある、偽って人をおとしめる、というのは取り締まればよろしい。しかし、本当かどうかを確認せずに掲載するのを許さない、というのは疑問です。4条にある、役人の仕事について~というのは、例えば裁判所で、裁判官の尋問の仕方が良くなかったときに、これを論ずることができないというのは、束縛と言わざるを得ないでしょう。
小倉氏:20日・29日の社説もだいたい意味するところは今話したことと同じか。
末広重恭:おっしゃられた通りです。
小倉氏:それならば、法律の悪口を言った、ということになるのではないか。
末広重恭:ちがいます。法律の良し悪しについて論じたにすぎません。裁判官、2つの社説をよく見てください、どこの場所に悪口の言葉がありますか。
小倉氏:(新聞を見て)「不過謂妄莫議上の一言耳」(拙訳の「この条例の意図は、むやみやたらに議論することなかれ、の一言に尽きる」の部分)はどうか。
末広重恭:投書家は、条例は政府について論じてはならない、という目的で作られたのではないか、と考えただけで、他の意味があるわけではないでしょう。
その後、小倉氏は家族の人数と家禄、そして日新堂からもらっている月給について尋ねてから、明日の午前9時にもう一度来るように言い渡した。
5日12時前、末広重恭は裁判所に出向いた。裁判官は香川氏であった。香川氏は新聞の文中で過激と思われる語句を抜粋して挙げる一方で、20日の投書で述べられている思いには触れなかったので、重恭は質問した。
末広重恭:裁判官は文章全体を見て罪の有り無しを決めるのですか、それとも一部の語句から判断するのですか。
香川氏:文章全体を見て判断している。
末広重恭:それならば、なぜ本筋ではない部分の語句を羅列して、論の中心部分について放置するのですか。文章には抑揚があり、褒貶[ほめているところと批判しているところ]があり、一部分においてこれを判断すれば、人々は処罰されるのを免れることができないでしょう。
香川氏:論の意図するところを誰がわからないことがあろうか。
末広重恭:(急に激しく怒って)裁判官は論の意図するところを誤って理解している!
香川氏:それならば、この論の意図するところは何だと言うのか。
末広重恭:「吾㑪は謂う云々」から「之を痛論するにあるのみ」の部分[拙訳の「世の人々よ、いたずらに新聞条例を恐れてはならない。新聞は、自由が回復できるように努力しなければならない。そのためには、新聞は手厳しく論じなければならない」の部分]である。この中心部分を理解してくださらなければ、私は処罰を受けることを認めることができない。
香川氏はわかったといい、三回目の取り調べは終わった。
7日午前10時、重恭は再び裁判所に呼ばれた。
小倉氏がこれまで末広重恭が述べてきたことをまとめた口書を読み上げた。これに対し末広重恭は反論した。
末広重恭:私が伝えようとしていることが書かれておらず、ただの新聞の記事の切り抜きと言うべきであり、口書とはとても言えません。
小倉氏:私はあなたが書いた記事を使ってあなたがしゃべったこととしたのだ。
末広重恭:取り調べにおいて大切なことは、犯人の事情を問いただすことにある。私が投書をもって社説とした目的は、先日述べたとおりである。文中に条例に違反する部分はないが、万が一違反する部分があったとして、裁判官は、それをもって違反したと決めつけて、条例に違反した事情について取り調べないのか。
小倉氏:裁判所は議論をする所ではない。あなたは口書に押印するのを嫌がっているが、口書の文中に食い違いのある部分があるのか。
末広重恭:試しに質問したいことがあります。甲という者が乙の顔を殴ったととして、裁判官は、それを一時的な怒りによるものか、計画的なものか、事情を調べないですぐに甲は乙を殴ったという口書を作って判決を下すのですか。
小倉氏:それは取り調べの都合による。あなたが質問することではない。
末広重恭:それならば、これまで私が話してきたことを口書に入れないというのは、裁判所の都合ということか。
小倉氏:これまで話してきたことを入れなかったわけではない。これまであなたがしゃべってきたことは、新聞の社説にも書いてあったことではないのか。社説の文章はあなたの思っていることと違うのか。
末広重恭:そうではありません。
小倉氏:それならばなぜあなたは押印することを承知しないのか。
末広重恭はここで、裁判官は処罰をすでに決定しており、議論の余地はないと悟った。
末広重恭:第2回の取り調べで私が話したことは記録されているのですか。
小倉氏:(笑みを浮かべながら)記録している。
ここで末広重恭は口書に押印した。それからしばらくして禁獄2か月・罰金20円を申し渡された。…
8月13日、末広重恭は裁判を総括して、社説で次のように述べています。
…新聞条例が公布されてから、少しでも条例に触れないように気を遣っていたので、裁判官の取り調べを受けた時も、必ず本当の気持ちが伝わって無罪になると思っていた。裁判の上で大切なことは、まず、犯罪に至るまでの事情をしっかりと調べることである。部分的に条例に触れる言葉があったとしても、文章には流れがあるのだから、全体を見て考えるべきである。裁判官は犯人が思いを一つ残らず打ち明けられるようにしなければならないし、文章をよく読んで、筆者の言いたいことをつかんで、それでもって有罪か無罪かを判断しなければならない。犯人がしゃべるのを待たずに、裁判官独自の判断で決断するというのは、江戸幕府の終わりころに行われていたことであり、今の賢明な政府では見られないことである。日本で陪審法が行われていない以上は、確実な証拠があったとしても、裁判官だけで判断してはならないのである。しかし、今まで裁判の模様について記してきたが、私の思いには反して、末広重恭は文章の意図するところを説明したのに、裁判官はこれを一切受け取らず、新聞の一部分でもって有罪と判断したのはどういう事だろうか。新聞紙条例について処罰を判断するのは、他の犯罪とは違うところがある。2つの投書にははっきりとその言いたいことが書かれている。これを使わずに有罪と決めるのはおかしい。我が国の賢く、善良な裁判官は人を罪に陥れるようなことはしない。それなのになぜ、末広重恭がまだ納得していないのに判決を下すようなことをしたのか。末広重恭は判決に不服で、上級の裁判所でもう一度裁判をやり直そうとしたが、青江秀は役人が判断したことだから、もう一度裁判をしても無駄だろう、と言ってこれを止めた。今、裁判について振り返ってみると、末広重恭が有罪となったのは、重恭が言葉を慎まなかったのが問題で、政府は、少しも圧制でもって人々の言論の自由を制限したわけではない。世の中の人々は判決を見て政府の行いを疑う者がいると思ったので、裁判の様子をこれまで読者に伝えてきたのである。
最後の部分はかなり取り繕った感がありますね(;^_^A
裁判の様子からもわかるように、取り調べはおざなりで、結果ありきの出来レースのようなものでした(◎_◎;)
政府が言論の弾圧を決意した以上、この後、他の新聞社にも弾圧の手が伸びていくことになります…。
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