社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: コシチュシュコの蜂起(1794年)

2023年9月22日金曜日

コシチュシュコの蜂起(1794年)

 1792年の5月から7月にかけて行われたポーランド・ロシア戦争で敗北したポーランドは、

1793年9月に、ロシアとプロイセンによる第二次ポーランド分割に遭います。

そしてポーランド分割後も、残ったポーランドに対してロシアは圧力を強めていきます。

これに対して、ポーランドは最後の抵抗を試みることになるのです…!(◎_◎;)

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



〇コシチュシュコの蜂起

第二次ポーランド分割後、ポーランドのタルゴヴィツア連盟政府はロシアの言われれるがままに政策を実行し、

5月3日憲法は廃止され、

出版物の検閲が行われて、タルゴヴィツア連盟政府・エカチェリーナ2世・ロシア軍人を批判する文書の出版が禁止され、

ロシアに対してわずかでも抵抗を考えている者は警察により逮捕されました。

また、国の財産に対する収奪も行われ、ワルシャワの7つの銀行が倒産しました。

1793年12月、駐ポーランドのロシア軍最高司令官オシップ・イゲルストロムは特使・全権公使に任命されると、

ポーランドに対し、

戦争で大きな活躍をしたポーランド人に与えられるヴィルトゥティ戦争勲章を身に着けることを禁止、

ロシアの検閲なしに議会が法律を作ることを禁止しました。

さらに、1794年2月、ポーランド軍を15000人から7500人に削減し、減らした分の兵士をロシア・プロイセン軍に編入することを決定しましたが、

強まるロシアの圧力に不満と危機感を募らせていたポーランドの人々は、この決定に我慢がならず、ついに蜂起を決意します。

1794年3月12日、アントニ・ユゼフ・マダリンスキ将軍はロシアの決定に従わずに部隊をクラクフに向けて進軍させました(ワルシャワを迂回して進むためにプロイセン領内を通ることになり、プロイセン軍と何度か小競り合いになった)。

これを受けて各地で反ロシアの暴動が起こっていきます。

ポーランド・ロシア戦争で敗北した後、国外に逃れ蜂起の計画を練っていたコシチュシュコは慌ててポーランドに帰国し、

3月24日、クラクフの教会で他の蜂起メンバーと、サーベルを手に祖国を守る決意を誓いあった後、

クラクフの広場にて蜂起を宣言します。

「不幸なポーランドの現状は世界に知られている。隣接する 2 つの大国の邪悪さと祖国に対する裏切り者の犯罪により、この国は奈落の底に突き落とされた。エカチェリーナ2世は不誠実なフリードリヒ・ヴィルヘルムと共謀して、ポーランドの名をこの世から無くそうとしてこのような不法行為をしたのだ。この2つの政府がその貪欲のために行っていない犯罪、嘘、偽善、欺瞞はない。ポーランドの独立・幸福の保証人であると恥知らずにも宣言したロシア皇帝は、ポーランドの国々を引き裂き、分裂させ、独立を侮辱し、絶え間ない災難によってポーランドを苦しめた。ポーランドがその暴力的な束縛に嫌気がさして自治権を取り戻すために立ち上がったとき、祖国の裏切り者たち[タルゴヴィツア連盟]を利用し、陰謀でもって、全国議会(セイム)と国民が全権をゆだねた国王に国を守ることを巧妙に思いとどまらせた後、すぐに恥ずべき裏切り者たち[タルゴヴィツア連盟]を裏切った。このような策略により、ポーランドの手中に収めたエカチェリーナ2世は、フリードリヒ・ヴィルヘルムとともに、彼らの飽くなき欲望を満たすために、隣接諸国を支配して暴虐の限りを尽くしている。彼らは、ポーランド共和国の永遠不滅の財産を奪い、犯罪的な議会で分割の承認を得て、隷属と奴隷の宣誓を強制し、国民に最も厳しい義務を課した。このことは、彼らが北ヨーロッパの国々を収奪するための獲物として見なし、法律も国境も彼らの好み次第であると考えていることを示している。それにもかかわらず、ポーランドの他の地域は、このような恐ろしい状況が改善しようと手伝おうともしない。その間に、ロシアの皇帝はヨーロッパ列強にとって危険な計画を隠しながら、野蛮で容赦のない仕打ちをポーランドに与えた。それは、自由、安全、個人の財産という最も神聖な権利を踏みにじるものであり、ポーランド人の考えや感情もまた彼女の迫害から逃れる術を知らず、制限をかけられた。祖国への裏切り者だけが、いかなる犯罪を犯しても処罰されない。彼らは、国民から財産を奪い取り、敗戦した祖国から戦利品を得たかのように、国家の職を自分たちで分け合った。そして、国の名を借りて、外国の言われるがままに命令されたことすべてを卑劣に実行する。ロシアから送られた特使は、議会で法律が可決されるとすぐに、法律を変更、または破壊してしまう。一言で言えば、国家の政府、国民の自由、安全、財産は皇帝の奴隷である召使いの手に委ねられており、国内にはびこるその軍隊はロシアの不法行為の盾となっている。ポーランド国民はこの巨大な不幸に打ちのめされ、敵の武力よりも裏切りに苦しめられ、国家・政府からのわずかな保護もなく放置され、そのために自由、安全、財産という最も神聖な権利を失ってしまっている。

私たちポーランド人、クラクフ県の住民は、暴君が未だに私たちから奪えていない1つの財産として祖国に人生を捧げており、滅びて自国の廃墟に自らを埋めるか、祖国を略奪的な暴虐と恥辱的な束縛から解放するか、という揺るぎない決意を持って、私たちは最後の暴力的な手段に頼ることにします。私たちは神の前で、人類全体の面で、すなわち世界のあらゆる財産よりも自由が大切にされている諸国民の前で、次のように宣言します。

圧政と武力・暴力に対する抵抗権を行使し、私たち全員が兄弟であるという精神で力を結集します。そして、私たちの偉大な事業の成功は、私たち全員の緊密な団結にかかっていると信ずるが故に、これまで一つの土地の住民、一つの祖国の住民、そして私たち全員を分断してきた、あるいは分断する可能性があるすべての偏見や意見を放棄し、お互いに犠牲や手段を惜しまないことを約束します。ポーランドを外国の兵士から解放し、すべての国境を回復し確保し、国内外のあらゆる暴力と収奪を根絶し、国民の自由とポーランド共和国の独立を強固にすること、これが我々の蜂起の神聖な目標である。結果が失敗に終わったとしても、我が祖国とその住民の現在の状況を考えると、蜂起は避けられないことであり、私たちにとって必要なことです。そこで、私たちは全員の共通の意志により、以下のことを決定します。

1. 我々は、タデウシュ・コシチュシュコを武装蜂起全体の最高かつ唯一の司令官および統治者として選出し、この宣言により承認する。

2. 前記国軍最高司令官は、直ちに最高国家評議会を召集する。私たちは、この評議会の人選とその組織化を速やかに進める。

3. 長官の権限には、国軍の設立、すべての軍階級の人物の指名、祖国の敵に対するこの軍の使用方法が含まれる。

5. 国家最高評議会は、国軍の維持、および我が国の蜂起に必要と思われるすべての経費のために国庫を提供する。また、我が国のために諸外国からの支持と援助を得るよう努める。…(以下略)」

そしてコシチュシュコは不足する兵を補うため、クラクフのあるマウォポルスカ県に対し、5つの家につき、1人の割合で兵士を出すことを求めました。

しかし蜂起の失敗を懸念したためか、兵士はなかなか集まらず、目標の1万人には達しませんでした。

そこでコシチュシュコは他の地域から兵士を集めるために移動を開始しますが、

ロシアも黙っておらず、討伐のための兵を動かしていました。

移動する両軍は、ラツワヴィツェにおいて激突することになります…!🔥

〇ラツワヴィツェの戦い

4月1日、コシチュシュコは1000の兵を率いてワルシャワに向けて北上を開始、途中で他の部隊と合流して兵力を4000ほどにまで増加させつつ(この中には大鎌で武装した農民兵約2000も含まれていた[大鎌で武装した農民兵をコシニェジという])、まずスカルブミエシュを目指しました。

そこにはロシア軍のフョードル・デニソフの部隊が駐屯しており、ポーランド軍の接近を知ったデニソフは、4月4日の早朝、ポーランド軍を挟撃することを考えて部隊を2つに分け、1つの部隊(兵力:2500)を自分自身が、1つの部隊(兵力:3000)をトルマソフが指揮することとし、前日ポーランド軍がいたコニウザに向かいます。

一方のコシチュシュコも朝にコニウザから進軍を開始、午前6時頃、トルマソフ軍に属するアンドリアン・デニソフ(フョードル・デニソフの甥)のコサック部隊と衝突しました。

ここで得た捕虜からロシア軍の挟撃作戦を知ったコシチュシュコは、軍を迂回させて挟撃を回避する作戦を取ることにします。

トルマソフはそうはさせじと行く手を阻む形で移動しました。

午後になって両軍は本格的に衝突、戦いは激戦となりましたが、兵力的にポーランド軍が優勢だったこともあり、トルマソフ軍は敗北して逃走します。

この時になってデニソフ軍が到着しましたが、時すでに遅し(ポーランド軍がコニウザから移動したことを知らなかったことと、前日の雨で地面がぬかるんでいたため、戦場に到着するのが大幅に遅れた)。

大砲を数発放っただけで退却せざるを得ませんでした。

こうしてラツワヴィツェの戦いはコシチュシュコ軍の勝利に終わったわけですが、

この戦いでは大鎌で武装した農民兵たちの奮戦が光り、

コシチュシュコは特に活躍したバルトシュという農民をほめ、

彼を昇進させるとともに、シュラフタの身分とグウォヴァツキの姓を与えています。

一方、ポーランド軍は勝利しましたが、少なくない被害を受けていたのと、デニソフが再びやってくるのを警戒して、コシチュシュコはワルシャワ行きをやめ、クラクフに戻ることを選択しました。

ワルシャワ進軍はうまくいきませんでしたが、コシチュシュコはこの勝利を広くアピールします。

その結果、ポーランド各地で蜂起が広がっていくことになりました。

〇ワルシャワ蜂起

ラツワヴィツェの勝利がポーランド全国に伝わると、首都ワルシャワも騒然としてきました。

これに対し、国王スタニスワフ2世は、コシチュシュコの蜂起に反対する文書に署名したうえで、国民に対し、フランス革命はまちがっている、フランスを頼ってはいけない、落ち着いて行動するようにと伝えます。

そして、ロシアの特使にして駐ポーランドのロシア軍最高司令官のオシップ・イゲルストロムに、ロシア軍と共にワルシャワの外に避難させてくれるように頼みました。

イゲルストロムはこれを拒否し、ワルシャワに入ってくる郵便物の検閲を始めたり、怪しい動きを見せる人物の逮捕を命じたりするなど、蜂起の動きを弾圧を強めることで抑え込もうとします。

また、ワルシャワのポーランド人守備隊の武装解除と、兵器庫の制圧の準備も進めさせました。

一方、コシチュシュコはトマシュ・マルシェフスキを密かにワルシャワ市内に送りこみます。

トマシュ・マルシェフスキは革命同盟を結成し、仲間を集めてワルシャワでの蜂起の準備を進めました。

そこにロシア軍が兵器庫の制圧を実行に移そうとしている、という情報が入り、革命同盟は蜂起を決意します。

4月17日の3時半、まだ暗い中で革命同盟は行動を開始、兵器庫に向かいました。

5時、ロシア軍は兵器庫への攻撃を開始しますが、ポーランド守備隊と援軍としてやってきた革命同盟軍の攻撃を受けて撃退されます。

兵器庫を確保した蜂起軍は、市内各地で防衛線を張るロシア軍と衝突、激戦の末にこれを突破して王宮にせまりました。

翌日朝にイゲルストロムは降伏を伝え、蜂起軍が休戦に応じた隙を狙ってワルシャワから脱出します。

イゲルストロムを捕らえることはできませんでしたが、こうしてワルシャワでの蜂起は成功に終わることになりました。

4月23日にはリトアニアの首都ヴィリニュスでも蜂起がおこり、これもロシア軍を追い出すことに成功しています。

4月25日、リトアニアの指導者のひとりであり、リトアニアをロシアに編入することを提案したり、リトアニア軍を削減する計画を立てたりしたシモン・マルシン・コサコウスキーはヴィリニュスで裁判にかけられ、公開絞首刑となりました。

これにワルシャワも続きます。

タルゴヴィツア連盟政府の主要メンバー、ユゼフ・アンクヴィチ、ユゼフ・コサコウスキ、ピョートル・オジャロフスキ、ユゼフ・ザビウォは捕らえられて裁判に懸けられました。

(ユゼフ・アンクヴィチ:第二次ポーランド分割の際、議員たちが反対の意思を無言をもって示した時、議長に対し、「沈黙は同意を意味する」と助け船を出した人物。

ユゼフ・コサコフスキ:タルゴヴィツア連盟のリトアニアにおける指導者であった人物。

ピョートル・オジャロフスキ:ワルシャワの司令官となり、政府とロシア軍に対し怪しい活動をするものを監視・逮捕した人物。裁判の尋問で分割条約に署名したこと、その時ロシアから金をもらったこと、コシチュシュコ蜂起に対し鎮圧を命じたことを認めた。

ユゼフ・ザビウォ:ポーランド・ロシア戦争で早々にポーランド軍を裏切り、タルゴヴィツア連盟に味方し、のちにリトアニアの副指揮官となった人物)

5月9日、4人は死刑を宣告され、公開絞首刑となります。

ユゼフ・アンクヴィチは「分割条約に署名したことは死刑に値する」と言い、堂々とした態度で絞首刑に臨んだといいます。

この4人の処刑だけではワルシャワ市民の不満は解消されず、6月28日、市民たちはタルゴヴィツア連盟に参加していたメンバーで、刑務所に入れられていた者たちを引きずり出して、勝手にこれを絞首刑にしてしまいます(◎_◎;)

(イグナツィ・マサルスキ:ヴィリニュス司教・国家教育委員会委員

アントニ・チェトヴェルチンスキ:リトアニア税務委員会委員

カロル・ボスキャンプ=ラソポルスキ:第二次ポーランド分割の際、反ポーランドのパンフレットを書いた

マテウシュ・ログスキ:警察署長)

他にも蜂起に非協力的で、ロシアとつながりがあると見なされ投獄されていた弁護士のミハウ・ウルファースなども処刑されました。

この頃は、フランスではジャコバン派による恐怖政治の時期にあたるため、これに影響を受けた可能性が高いですね…💦

コシチュシュコは、この動きに対し、「昨日ワルシャワで起こったことは、私の心を苦しさと悲しみで満たした…法律に従わない者には自由に値しない」と非難しています。

裁判所はまた、スタニスワフ・シュチェスニー・ポトツキ、フランチェスコ・クサウェリ・ブラニツキ、セウェリン・ジェブスキ、イェジ・ヴィエルホルスキ、アントニ・ポリカルプ・ズウォトニツキ、アダム・モシュチェンスキ、ヤン・ザグルスキ、ヤン・スチョシェフスキに対し財産没収の上、死刑を宣告、これらのメンバーはワルシャワにいなかったので、9月29日、代わりに人形や肖像画が吊るされています(◎_◎;)

〇ポワニエツ宣言

5月5日、ポワニエツに進んだコシチュシュコは、

5月7日、このポワニエツで重要な布告(ポワニエツ宣言)を出します。それは長年奴隷のような扱いを受けてきた、ポーランドの農民に関する布告でした。

その内容は農奴制を制限して農民の自由を与えるもので、

①農民の移動の自由

農民の地主に対する賦役を25~50%削減

(農民は領主の直営農場で無償で働かされていたが、週に5・6日働かされている者は2日分免除され、週に2~4日働いている者は1日分免除され、週に1日働いている者は2週間で1日分免除されることになった)

軍隊に参加している間、農民を農奴から解放する

軍隊に参加する農民を農地からの追放することの禁止

…といったことが書かれています。

コシチュシュコはこの布告の中でこう言っています。

「もしポーランド人が自分たちの強さを知っていて、その力のすべてを活用できていたら、ポーランド人は決して敵の武器を恐ろしいとは思わなかったであろう。…不幸と苦しみを終わらせる時が来た。ポーランドは一つの目標を達成するために、心を一つに合わせるべきである…」

コシチュシュコは、一部の者だけが反ロシア戦闘に参加するだけでは勝ち目が薄い、国全体が団結してロシアにかからなければ勝てない、と考えていました。

確かに、アメリカは一丸となって戦った結果、イギリスから独立することに成功し、フランスは外国の連合軍を撃退することに成功しています。

一方、ポーランドでは、これまで外国が攻めてきたときに戦ったのはシュラフタ身分の者しかいませんでした。

(これは日本と似ています。元寇があった時も、守ったのは武士身分だけでした。日本の場合は撃退できていますが、幕末に至って、日本は帝国主義をとる外国から国を守るためには、日本がバラバラになっていてはいけない、ということで廃藩置県を実施して藩を廃止し、農民身分にも国防意識を持ってもらうために徴兵令を実施しています)

コシチュシュコはポーランド・ロシア戦争の敗戦から、挙国一致の体制を作らなければならないと痛感していたのです。

コシチュシュコがポワニエツ宣言を出したのは、決して道徳的な面によるものだけではなく、農民兵の助力を期待した、ということも理由の1つにあったでしょう。

(これはアメリカが南北戦争において奴隷解放宣言を出したのと似ています)

ラツワヴィツェの戦いにおいて、農民兵が活躍したことも、コシチュシュコが布告を出すことを後押ししたでしょう。

コシチュシュコの苦心の跡が見られるのは、完全に農奴制を廃止しなかったことです。

これだと地主層…シュラフタたちからの協力が得られなくなることは明白だったからです。

(アメリカで完全な奴隷解放ができたのは、奴隷に頼る南部と違って、北部では奴隷を使った農業がおこなわれていなかったため、反対の声が少なかったことが大きいでしょう。むしろ北部の人たちは、南部から自由になった黒人を工場での労働力として使えると歓迎していました)

コシチュシュコは挙国一致の体制を作るために、シュラフタにも配慮した、折衷案的な布告を出したのです。

(布告の中には、この布告は農業のやる気と祖国を守る意識を増すために出したものであって、布告を悪用して農業をなまけ、地主を困らせるようなものは裁判所に連れていくことになる、という内容も書いてあります)

しかし、自分の利益のことしか考えないシュラフタはこの布告に猛反発し(そんな場合じゃないって言うのに)、この布告の効果は限定的なものに終わってしまいます(-_-;)

どこまでも重たいシュラフタ…(日本でも明治時代に、武士に払う給料を廃止して国の財政を好転させたいという政府に反発して、武士の反乱とか起きてますね…)。

国のことよりもまずは自分の生活。まぁわからなくもないのですが、その結果、この後のポーランドやシュラフタがどういう目に遭うことになるか、火を見るよりも明らかなんですけどね。。

「小を捨てて大に就く」ことが大事なのに、「大を捨てて小に就く」ようではいけません(-_-;)

〇ポーランドVSロシア・プロイセン・オーストリア

ポワニエツに進んだコシチュシュコは、ここでヤン・グロホフスキの部隊の到着を待って、ロシア軍のデニソフに戦いを仕掛けようと考えていました。

デニソフはそうはさせじと、5月13日、合流前にコシチュシュコ軍を攻撃しましたが、これは撃退されています。

5月16日、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世がポーランド蜂起の鎮圧に参加すると発表、フランス方面に展開していた軍の半分、2万5千をポーランドに移動させます。

ここにコシチュシュコはロシアだけではなく、プロイセンも相手にしなければならなくなりました(◎_◎;)

これを受けて、ポーランド軍の合流を防げなかったデニソフは、プロイセン軍がいるシュチェコチニに逃れます。

コシチュシュコはこれを追って6月6日、シュチェコチニでロシア・プロイセン連合軍と激突しました。

ポーランド軍は15000、ロシア・プロイセン軍は26500で、ポーランド軍の劣勢は否めない状況でした。

しかも主力となるプロイセン軍は国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が自ら指揮していました(直接指揮したのはファブラット将軍でした。ファブラットは怪力の持ち主であったようで、馬を乗り手ごと持ち上げたり、大砲も持ち上げることができたと言われています(◎_◎;))。

戦いの序盤はポーランド軍がプロイセン軍の騎兵隊を撃退するなど奮戦しますが、

ポーランド軍の5倍以上の大砲を有するロシア・プロイセン軍からの激しい砲撃を受け、

シュチェコチニの戦いはポーランド軍の敗北に終わります。

ポーランドの将軍ユゼフ・ウォジツキは頭に砲弾を受け死亡、ヤン・グロホフスキは重傷を負って翌日に死亡しました。

ラツワヴィツェの戦いで活躍したバルトシュ・グウォヴァツキも致命傷を負い、間もなく亡くなっています。

コシチュシュコも負傷し危うい所を、ユースタキ・サングシュコに救われています(コシチュシュコは「ここで死なせてくれ」と訴えたという)。

ポーランド軍にとってこの敗戦のダメージは大きく、この戦い以後、ポーランド軍は後退を続けることになります。

6月8日には東部方面を任されていたユゼフ・ザヨンチェクがヘウムの戦いでロシア軍に敗北してワルシャワに退却します。

クラクフにはプロイセン軍が迫り、クラクフを任されていたイグナツィ・ヴィニャフスキは、進退窮まった場合はオーストリアに降伏するように命令されていたのにもかかわらず、6月15日、プロイセンに降伏してしまいました。

6月26日にはヤクブ・ヤシンスキとイェジ・フランチェシェク・グラボウスキの部隊がソウィの戦いでロシア軍に敗北。

6月27日にはオーストリア軍も蜂起軍との戦いに参加することを発表、7月7日にはルブリンを占領しています。

7月10日、ワレンティ・クワシニフスキが騎兵隊を巧みに操り、プロイセン軍を撃退してささやかな勝利を挙げましたが、ポーランド軍は絶望的な状態に陥りつつあることに変わりはありませんでした。

7月13日、ロシア・プロイセン軍がポーランドの首都ワルシャワに到達、約2か月にわたるワルシャワ包囲が始まることになります(◎_◎;)

〇ワルシャワ防衛戦(7月13日~9月6日)

ワルシャワを防衛するポーランド軍は4万4千(3万5千という説も)で、ワルシャワの周囲に要塞と塹壕を築いていました。

包囲するロシア・プロイセン軍は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世自らが指揮するプロイセン軍が2万5千~3万、ロシア軍が1万3千~6万5千で合計3万8千~9万5千でした。

城攻めには防衛する側の3倍~5倍の兵が必要と言われますが、そうなるとロシア・プロイセン軍の兵数は3倍に満たなかったことがわかります(◎_◎;)

7月27日、重砲の到着を待って、ロシア・プロイセン軍はワルシャワ西部のヴォラ(現在は主要な金融街に発展した地区)に最初の攻勢を仕掛けますが、ここを防衛するユゼフ・ポニャトフスキとユゼフ・ザヨンチェクはこれを撃退することに成功します(!)。

しかし、8月12日にはリトアニアの首都・ヴィリニュスが包囲の末に陥落するなど、劣勢状態は変わりませんでした。

しかし、8月20日から、プロイセンが支配するポーランド地域で次々と反乱が起こり(大ポーランド蜂起)、状況は変わり始めます。

これはワルシャワ包囲のためにプロイセン支配下のポーランドに駐屯するプロイセン軍が手薄になったことによるものでした。

これに驚いたプロイセン軍は、ワルシャワ包囲の決着をつけようとあせり、8月28日、ワルシャワに大攻勢を仕掛けます。

プロイセン軍はワルシャワ西部にあるワルシャワ近郊の町・ベモウォ・ビエラニを攻略することに成功しますが、続くマリモント・ポポンスキへの攻勢はヤン・ヘンリク・ドンブロフスキがよく守ったため敗北、撃退されます。

プロイセンは8月29日、仕方なく軍の一部を反乱鎮圧に向かわせますが、これによりさらに兵力も減少し、これ以上包囲を続けることは困難であると考えたヴィルヘルム2世は9月6日にワルシャワの包囲を解き、撤退しました。

大きな戦果を挙げることに成功したポーランド軍は、対プロイセンで攻勢に出ることになりますが、ロシアはワルシャワ包囲でさしたる被害も受けていなかったため、脅威の存在であることには変わりがなく、ポーランドは対ロシアで守勢を続けることになります。




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