室町幕府10代将軍・足利義材(のちの義稙)のもと、
第二次六角征伐で活躍し、
さらに因縁の越前朝倉氏討伐を将来行うという約束を取りつけた織田敏定。
織田敏定の思い通りに事が進んでいたのですが、
ここで事態は急転していくことになるのです…(◎_◎;)
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇明応の政変と再びの尾張争乱
斯波義寛・織田敏定は将軍・足利義材との結びつきを強めることで越前奪還・朝倉氏打倒を目指したのですが、
その義材は1493年、管領・細川政元の起こしたクーデター(明応の政変)によって将軍職を追われてしまうことになります。
このクーデターには朝倉氏も協力しており、兵を京都に上洛させています。
クーデターの背後には足利義材―斯波義寛―織田敏定に対抗する細川政元―朝倉貞景、という対立構造があったのでしょう。
足利義材の没落によって、越前奪還の望みは絶たれることになりました。
織田広近が死ぬまでは岩倉織田家と清洲織田家の間は平穏だったので、
織田広近は清洲織田敏定と融和派だったのかもしれません。
その広近が死んだことで徐々に岩倉織田家と清洲織田家の協調関係は崩れていき、
1495年、美濃(岐阜県南部)で斎藤妙純(利国。斎藤妙椿の養子)と石丸利光(斎藤氏の重臣)の争いが起きると、
斎藤妙純の養女を妻としていた岩倉織田寛広は斎藤妙純方に、
石丸利光の娘が子の寛定の妻となっていた清洲織田敏定は石丸利光方についたため、
再び尾張は二つに分かれて争うことになります。
しかし、清洲織田敏定は美濃に向かう途中で病死(戦死という説もある)、
跡を継いだ織田寛定は明応4年(1495年)9月、岩倉織田家と戦って大敗、戦死してしまいます。
清洲織田寛定の跡を継いだ弟の織田寛村は苦境に陥ったものの、
『船田戦記』に「下強上弱」(尾張南部を治める清洲織田家が優勢で、尾張北部を治める岩倉織田家が劣勢)とあるように、岩倉織田家相手に善戦します。
『大乗院寺社雑事記』によれば、
明応5年(1496年)3月2日、清洲・岩倉織田家が戦い、お互いに多くの死者を出し、
4月10日には斎藤妙純の仲介で停戦したものの、
5月20日ころには戦いが再開されていたようです。
織田敏定・織田寛定と父・兄を失う逆境の中で、約一年間も持ちこたえていた織田寛村は優秀であったといえますが、
美濃では明応5年(1496年)5月30日に清洲織田家が援助する石丸利光が敗れて一族と共に自害してしまい、状況は最悪なものになってしまいます。
しかし、ここで国外で大事件が起こり、尾張の状況はまた変わっていくことになるのです。
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