日本の法律の基本となったのは701年に作られた大宝律令。
しかし、その内容はよく知らないですよね…(◎_◎;)
そこで、まず律の内容を調べてみました!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇大宝律令と養老律令
「律令」と言えばもっとも有名なのは「大宝律令」なんですが、
その内容を知っているか?と聞かれれば、う~ん、となっちゃうんですよね(;^_^A
そこで調べてみると、どうやら大宝律令は散逸してしまっていて、ほとんど内容がわからなくなっているそうです(◎_◎;)
しかし、757年に作られた「養老律令」は、井上光貞氏(1917~1983年。歴史学者・東京大学名誉教授)によれば、大宝律令の「若干の内容修正のほかは、たんに字句等の修正を施したにすぎないものであった」そうで、そこから大宝律令の内容がほぼわかるんだそうです😲
内容がほぼ変わらないのなら養老律令を作る必要はあったのか、と疑問に思いますが、
大宝律令のお手本を作った中国の唐では、皇帝が代替わりするごとに律令を改めて出すという習慣があり、これに倣ったものだと言われています(゜-゜)
大宝律令は701年、文武天皇の時に作られたものでしたが、
養老律令は718年に、文武天皇の死後、その母の元明天皇を経て、文武天皇の姉の元正天皇のときに律令の編纂が始められた(この時の年号は養老[717~724年])もので、文武天皇の子である聖武天皇の即位に合わせて作成が進められていましたが、編纂者の藤原不比等が720年に亡くなったために中断、757年に不比等の孫の藤原仲麻呂によって完成、施行されたものです。
その内容は、まず「律」と「令」に大別できます。
「律」は刑罰のきまり、「令」は政治を行う上でのきまりです。
「令」の内容には、例えば、官職について定めた官位令、僧について定めた僧尼令、田について定めた田令(有名な租や、班田収授などを扱っている)などの有名なものがあります。
しかし、「律」の内容となると、?が浮かんでしまうのですよね(;^_^A
そこで、今回は、古代ではどのようなことが罪になり、どのような罰が与えられていたのか、について見ていこうと思います!
(今後、「刑法の歴史シリーズ」ということで、②中世編…御成敗式目、③近世編…公事方御定書についても取り扱ってみようと思います)
〇どのような罰が行われていたのか
律は、刑罰の内容について記されることから始まります。
刑罰の内容は、有名な「笞・杖・徒・流・死」の5種類になります。
①笞罪・杖罪
笞罪は、獄令によれば、長さ3尺5寸(約105㎝)の笞でたたかれる刑罰です。
(大宝律令では3尺6寸[約108㎝]だったようです)
笞といっても、波打っているようなムチではなく、木製の棒でした(イメージと全然違う…)
木の棒であると、出っ張っている節目などが当たると痛そうなのですが、
優しいことに「皆節目削り去てよ」と書かれています。
獄令にはその太さについても書かれていて、太い部分(おそらく手元)は3分(約9ミリ)、細い部分(おそらく叩く部分)は2分(約6ミリ)でした。
かなり細いですね(;^_^A
折れちゃわないのかな??これだけ細いと逆に痛いのかもしれませんが。
杖罪は、同じく木の棒で叩く刑罰ですが、こちらは一回り太く、太い部分は4分(約1.2㎝)、細い部分は3分(約9ミリ)と決められていました。
この刑罰を受ける際は、首枷・足枷をつけることになっていました。
笞・杖を当てる場所も決まっており、臀部(尻)で、尋問する際は背中・尻を、それぞれ同じ回数分叩かれることになっていました。
笞罪には5種類ありました。
[1]10叩き・もしくは銅1斤(600g)を納める(和同開珎は1枚3~5gだったので、和同開珎で納めるとすると、120~200枚だったということになります。和同開珎は1枚100円程度だったようなので、1万2千円~2万円くらいということになります)。
今で言うと、「笞罪10、又は2万円以下の罰金に処する。」ということになるでしょうか(゜-゜)
銅を納めることで笞罪を逃れようとする場合。30日以内に納めなければいけませんでした。
[2]20叩き・もしくは銅2斤を納める
[3]30叩き・もしくは銅3斤を納める
[4]40叩き・もしくは銅4斤を納める
[5]50叩き・もしくは銅5斤を納める
最高刑の[5]は、今で言うと、「笞罪50、又は10万円以下の罰金に処する。」ということになります。
杖罪には5種類ありましたが、杖罪は太くなっているだけでなく、一番軽い罰でも、60叩きからスタートしています(◎_◎;)
[1]60叩き・もしくは銅6斤を納める
[2]70叩き・もしくは銅7斤を納める
[3]80叩き・もしくは銅8斤を納める
[4]90叩き・もしくは銅9斤を納める
[5]100叩き・もしくは銅10斤を納める
最高刑の[5]は、今で言うと、「杖罪50、又は20万円以下の罰金に処する。」ということになります。
銅を納めることで杖罪を逃れようとする場合。40日以内に納めなければいけませんでした。
②徒罪
獄令には、徒罪となり、労働刑となった者は、畿内のものであれば京都に送れ、それ以外の場合は現地で肉体労働をすること。女性の場合は、裁縫か、脱穀精米作業をさせる、とあります。
徒罪となった者は、鉄製の首枷・もしくは木製の首枷をつけなければなりませんでした。
しかし、病気の場合ははずしてもよい、と優しいところもあります。
また、10日ごとに1日の休日も設けられていました。
(しかし、労働刑を行なっている区域から出ることは許されない)
病気になった場合は、休むことが許されますが、休んだ日数の分、その後働かなければいけませんでした。
徒罪には5種類ありました。
[1]1年の懲役・もしくは銅20斤を納める
[2]1年半の懲役・もしくは銅30斤を納める
[3]2年の懲役・もしくは銅40斤を納める
[4]2年半の懲役・もしくは銅50斤を納める
[5]3年の懲役・もしくは銅60斤を納める
最高刑の[5]は、今で言うと、「3年の懲役、又は120万円以下の罰金に処する。」ということになります。
銅を納めることで徒罪を逃れようとする場合。50日以内に納めなければいけませんでした。
④流罪
流罪となった者は、その罪の重さに応じて、京都から近いところに移される近流、京都からまぁまぁ遠い所に移される中流、京都から遠い所に移される遠流のどれかの罰を受けることになっていました。
具体的に言うと、
近流は、越前(福井県北部)・安芸(広島県西部)、
中流は、信濃(長野県)・伊予(愛媛県)、
遠流は、伊豆(静岡県南東部)・安房(千葉県南端部) ・常陸 (茨城県) ・佐渡・隠岐・土佐(高知県)に移されることになっていました。
流罪となった者は、妻と同伴と決められていたようです(「妻妾棄放して配所に至ること得じ」)。
親や子どもがついていきたいと言ったら、これは許されていました。
また、移動中は、途中途中で食料を与えるように決められていました(しかし、その場所に2日以上とどまってはならない)。
徒罪には3種類ありました。
[1]近流・もしくは銅100斤を納める
[2]中流・もしくは銅120斤を納める
[3]遠流・もしくは銅140斤を納める
最高刑の[3]は、今で言うと、「遠流、又は280万円以下の罰金に処する。」ということになります。
期限はどれも1年と定められていました(名例律24)。
銅を納めることで流罪を逃れようとする場合。60日以内に納めなければいけませんでした。
⑤死罪
獄令によれば、死罪の執行にあたっては、逃走を防ぐために、枷を着けたうえ、囚人1人に対し20人の兵士がつけられました(囚人の数が1人増えるごとに、5人ずつ兵士は加算されていきます)。
親族や友人とは、別れの挨拶をすることが許されていました。
刑の執行は、時間は未の刻(午後1時)以降、場所は市と決められていました。
死罪には罪の重さに応じて2種類の罰があり、
重いものは斬刑、程度の軽いものは絞刑となっていました。
銅200斤を納めれば死罪も逃れることが許される場合もありました(!)
銅200斤は今だと400万円で、払えないことは無いですよね(゜-゜)
銅を納めることで死罪を逃れようとする場合。80日以内に納めなければいけませんでした。
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