社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 『国家』~プラトンが考えた「理想国」とは?

2024年9月9日月曜日

『国家』~プラトンが考えた「理想国」とは?

 エマソン(アメリカの哲学者・作家・詩人。1803~1882年)は「「プラトンは哲学であり、哲学はプラトンである」と言われるが、これはプラトンの存在が人類にとっての栄光であるというだけでなく、(彼を超える存在が現れなかった、という事を示すことであるので)人類にとっての恥辱でもある」「すべての思想家は彼の末裔である」と語り、

ホワイトヘッド(イギリスの数学者・哲学者。1861~1947年)は、「ヨーロッパの哲学は、すべてプラトンの著作の脚注にすぎない」と言い、

日本で初めて『国家』を日本語訳した木村鷹太郎(1870~1931年)は、「プラトーンは実に世界最大一の哲学者にして後代の知識の萌芽は殆どプラトーン中に在って存すと謂うべし」「プラトーンは実に後代多数賢哲の首領たり、大将たる人なり」と述べていますが、

プラトンはそれほどまでに偉大な思想家でした。

著作を読んでも、これが2400年前に書かれたものなのか…!?と思うぐらいの内容になっています😕

プラトン(前427~前347)は、古代ギリシャのアテナイの名門に生まれました。

「プラトン」というのは実は本名でなく(本名は「アリストクレス」。本名のままだとアリストテレスと紛らわしかっただろう)、あだ名で、「広い」という意味があります。これは、彼の肩幅が広かったために着けられたあだ名であるそうです😓

プラトンの若い頃、古代ギリシャではアテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟の2つに分かれて戦争(ペロポネソス戦争。前431~前404年)が起こっていました。

この戦争は結局、

①アテナイが疫病の蔓延で衰えた

②スパルタに対して海軍力で優位に立っていたが、スパルタが仇敵のペルシアと同盟を結ぶという外交革命により、その援助を受けて海軍力の増強に成功した

…といったことにより、アテナイの敗北に終わります。

戦後、アテナイはスパルタにより、国制を変更させられます。

アテナイは民主制の国であったのですが、スパルタと同じ寡頭制の国(30人政権。30人僭主とも)になったのです。

30人政権は、はじめ最も貧しい人々に対する金銭の支払いを打ち切るなど、富裕層にとって好ましい政策をとりましたが、しばらくして圧制に転換し、市民から武器を取り上げると、鞭を持つ300人の護衛隊を雇うと共に、駐留するスパルタ軍に対し援助をあおぎ、これらの武力を背景にして、30人政権に批判的な民主派の人々に対し敗戦責任を厳しく追及し、次々と処刑(1500人を裁判なしに処刑したという)していきました。

処刑された者は多くが富裕層でしたが、歴史家のクセノポン(クセノフォンとも。前427年? - 紀元前355年?)はこれについて、「彼らの資産を没収し、それを30人政権とその支持者に分配するためだった」と書いています。

30人政権の1人で、ソクラテスの弟子であった過去を持つクリティアスは、「最初のロベスピエール」とも呼ばれるそうです。

30人政権の圧制に反発する人々は立ち上がり、内乱(30人政権の乱)が勃発することになりました。

当時のスパルタは2人の王と、5人のエフォリア(政務を決定する委員会)によって物事が決定されていましたが、アテナイに対し融和的な人物であったスパルタ王パウサニアス1世は(ペロポネソス同盟諸国が、帝国主義的にふるまうスパルタに対し反発心を持つことを恐れたともいわれる)、もう1人の王と、エフォリアの内3人の賛成を得て、駐留していたスパルタ軍司令官を解任し、使者を派遣して、寡頭派と民主派の和平を図りました。

パウサニアス1世は、前403年、

アテナイに完全な自治権を与えること

②民主政を回復すること

③スパルタの駐屯軍をアテナイから撤退させること

④アテナイがペロポネソス同盟に加盟すること

…という内容の和議をアテナイと結んだため、内乱は民主派の勝利となって終結することになりました。

30人政権下では民主派が多く殺されて、遺恨があったと思われるのですが、30人政権のメンバーが一部を除いては赦されるなど、寛大な処分がなされ、報復の応酬を食い止める措置が取られました。

こうしてアテナイは久々に落ち着くことになったのですが、この4年後に起きたのが、プラトンの師匠である、ソクラテス(前469~前399)の死刑であり、このことがプラトンに大きな影響を与えることになります。

ソクラテスが死刑となった理由について、木田元氏は、

①ソクラテスの弟子がペロポネソス戦争での敗戦に大きく影響した者であったり、30人政権のメンバーであったため、その責任が問われた

弁論術を相手を論破する目的で使用するソフィスト(弁論術を若者に教えた者たち)たちに対し、弁論は真理を理解するために使用するべきであると考えるソクラテスは、この者たちに論争を挑んでいたが、ソフィストたちは「民主主義の推進者として、民主派の政治家たちの思想的代弁者という立場」にあったので、ソクラテスは民主制に反対する立場にあると見られた(実際に寡頭派の者たちがソクラテスのもとに集まっていた)

…の2つを挙げています。

ソクラテスの死を受けて、ソクラテスの弟子でもあり、30人政権のメンバーと親戚関係にもあったプラトンは身の危険を感じて国外に逃れ、ほとぼりが冷めたのちにアテナイに帰国すると、「ソクラテスの言行とその生き方死に方が指し示すものが何であったかを見きわめよう」(藤沢令夫 岩波文庫『国家』解説文より)と、さまざまな対話篇を書き著していくことになります。

前386年頃、アテナイ北西のアカデメイアに学園を作ったプラトンは、それから10年ほど経った前375年頃、10巻に及ぶ大著『国家』(『理想国』とも。原語では『ポリテイア』)を書きあげました。

この『国家』は、木村鷹太郎が「プラトーンの著述の中心たり北辰(北極星)たり、他の諸篇は其周囲に群宿せる衆星(多くの星)に比すべし」とし、

サイモン・ブラックバーン氏(イギリスの哲学者。1944~)が「プラトンの最高の達成とみなされ、質問ばかりして結論を出すことのない初期の対話篇群と、後期対話篇群における、それほど強制的でない宇宙論的な思弁と疑問との間でみごとな平衡を保っている。何世紀にもわたって『国家』は、おそらく近代世界の基礎を築いたどの他の偉大なテキストよりも多くの注釈をくわえられてきたし、根本的で激烈な異議にさらされてきた。事実、この本の読解の歴史それ自体が学問上の1つの研究分野になっており、そこには、これまで二千年以上のあいだの宗教と文学の歴史に現れるすべてのエビソードについていくつもの専門的な章が付けられている[例えばプラトンとキリスト教・プラトンとルネサンス・プラトンとシェイクスピア・プラトンとナチス…などなど]」とし、

納冨信留氏(日本の哲学者。1965~)が「プラトン著作集で、『ポリティア』は晩年の大作「法律」[ノモイ])に次ぐ規模をもち、議論の壮大さや扱われる論題の範囲においても、プラトンの主著と看做されている。古代末期にプロティノスが始めた新プラトン主義の教程でこそ、『ティマイオス』と『パルメニデス』の二篇がより高次の哲学書として優先されたが、19世紀以降にはそれらに代わって『ポリティア』が古代哲学の最重要著作とされ、今日欧米では哲学史上の「古典」、また、大学の必読文献(コア・テクスト)として広く読まれているとしているように、プラトンの著作の中で代表的存在とされているものです。

どのような内容であったのか、これから見ていくことにしましょう。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



話は、ソクラテスが祭礼の帰りにポレマルコスに呼ばれて、その父である老ケパロスの家を訪ねる場面から始まります。

ソクラテスは、「私は高齢の方と話すこと以上に有益なことを知らないのです。なぜかといえば、高齢の方は、私たちがこれから歩む道をすでに通られた方なので、私たちがこれから歩む道が、平坦なのか、険しい道なのか、学ぶことができるからです。あなたは詩人の言う「高齢の敷居」を越えられた方ですが、どうです、今の時期はつらい時期なのですか」と老ケパロスに質問します。

老ケパロスは、「同年齢の者たちと話をする時があるが、ある者は、若いころのように、食べたり、飲んだり、女性と愛を交わしたりすることができなくなったので、生きていても生きていないように感じる、と言い、ある者は、親戚や身内の者たちから馬鹿にされたり、見下されたりする、多くの不幸は、老齢に起因するのだ、とこぼした。しかし、老齢であっても、別の事を感じている者もいるのだ。老詩人のソポクレス(古代ギリシャ三大悲劇詩人の1人)と同席した際に、私は、「あなたはもう高齢ですが、どうです、以前のように女性と愛を交わしているのですか?」と尋ねたところ、ソポクレスは「そう言わないでください、私は、ようやく愛欲という凶暴な主人から逃れることができたのを喜んでいるのですから」と答えた。老齢とは平穏と自由を得る事でもあるのだ。老齢を辛いと感じるかどうかは、それぞれの性質によって異なるのだ」と答えました。

ソクラテスは、世間の人は、あなたが老齢を辛いと思っていないのは、性質によるものではなく、富裕だからではないか、と疑っている、と伝えます。

老ケパロスは、富裕な者でも性格が善良でなければその心の中は平穏ではないとこれを否定します。

ソクラテスは、ここで質問を変え、財産を持っていて、一番良かったと思うことは何か、と尋ねます。

老ケパロスは、「人間、死が近づいてくると、若いころは一笑に付していた、死後の世界の事について心配になってくるものなのだ。他人に対して行ってきた不正を数え上げて、その数が多ければ、死後の世界のことが心配になって、夜も寝られなくなってしまう。しかし、まったく罪の自覚が無い者は、「楽しき希望」が老後を養ってくれる。かのピンダロスもこう言っている。『希望は、正義・清浄に生活した高齢の者の霊魂をいたわる看護者となり、また、死後の旅行の友となってくれる。希望とは、動揺しやすい人の心を平穏にする最大のものである』。これは、富裕である人すべてに当てはまる事ではなく、富裕であり、善人であるものだけに当てはまる事であるが、財産があれば、人を欺いたり、人に偽ったりする機会が無くなる。また、死ぬときに当たって、神々に献ずべき供物のことや、人々に対して返済しなければならない借金のことについて心配することが無くなる。精神が平穏であることは、富裕であることの最大の利益である」と答えます。

そしてこの老ケパロスの言葉を受けて、ソクラテスは今回のメインとなる話に入ります。

ソクラテス「お言葉の中にあった『正義』について質問させていただきたい。『正義』とは、真実を言い、借りた物を返すこと…これだけでしょうか。また、真実を言う事、借りたものを返す事、この中にも例外は無いでしょうか。例えば、ある人から武器を借りて、その武器を返すときにその人が正気を失っていたら…。また、真実を告げるにしても、その人の精神状態を考えずに、必ず常に真実を告げるということは、正しいことなのでしょうか?」

老ケパロス「あなたの言う事は正しい」

ソクラテス「…ということは、真実を語り、借りたものを返す、ということは、正しい正義の定義とは言えない、という事になります」

(この後、老ケパロスは祭礼に参加するために席をはずしたので、その子のポレマルコスとの討論となる)

ポレマルコス「かの詩人のシモニデスは、借りたものを返す事は正しいことだと、言っています。彼の言いたいのは、友には善をなし、悪をなすべからず、という事だと思うのですが」

ソクラテス「それだとつまり、友に借りたものを返すとき、逆にそれが友の害となる場合は、借りたものを返す、ということは正しいことにならない、ということになるのではないか?」

ポレマルコス「対象が敵の場合はどうでしょう?害になるように返すのが、正しいことになるのではないですか?」

ソクラテス「そうなると、正義はどのようなものであると言えますか?」

ポレマルコス「友には利益を、敵には害を与えること…になります」

ソクラテス「あなたが言う<友>とは、善い人間の事ですか?善い人間と思われている人間の事ですか?」

ポレマルコス「人は「善い人間」と思う場合<友>として愛しますが、「悪い人間」と思う場合は「敵」として嫌うのだと思います」

ソクラテス「そうなると、人は判断を誤った場合、「善い人間」を「敵」として嫌い、害を与える、という事になってしまう。「善い人間」とは、正直で、決して不正を行うことが無い人間の事であるが、君の議論によれば、悪いことをしない人を害することは正義という事になるのだろうか?」

ポレマルコス「それは道義に外れることです」

ソクラテス「「善い人間」が害を受けることは「正しい」とは言えない。<友>とは、善い人間だと思われ、実際にそうである人、と定義するのが正しいだろう。つまり、善い人間である<友>には善くし、悪い人間である敵に害を与えることが正義…ということになるが、これは、正しい人間であっても、相手が悪い人間であった場合、害を与えることがある、という事だろうか?」

ポレマルコス「そうだと思います」

ソクラテス「動物でも、人でも、害されるとその徳性(道徳心)が損なわれる。つまり、不正な人間にしてしまう、ということである。正義が不正を生み出してよいものだろうか」

ポレマルコス「良くないと思います」

ソクラテス「思うに、<友>であろうがそうでなかろうが、これを害するのは正しい人のすることでなく、不正の人がすることなのではないか。どんな場合であっても、人を害することは、正義の行いとは言えないのだ」

ここで同じ場にいたトラシュマコスが次のように発言します。

トラシュマコス「正義とは強者の利益の事である。政府は自らの利益となるように法律を制定し、これを守ることを「正義」とし。守らない者を不正の者として罰する。ここから、「正義」は権力者の利益になる事、ということができる」

ソクラテス「正しい医者というのは、疾病を治療する者か?金儲けをしようとする者か?」

トラシュマコス「疾病を治療する者です」

ソクラテス「つまり、技術というものは自身の利益を主な目的とするのではなくて、その技術の対象とするものの利益を考えるものなのである。…ということは、どのような支配においても、正しい支配者というのは、自己の利益を考えることなく、ただ、支配を受ける者の利益をその支配の目的とするのである。…そうであるからして、正義とは強者の利益と言えないのである」

トラシュマコス「そうとは言えないのではないですか。不正直者は馬鹿正直な者の上に立っており、彼らは強者であるといえます。正直者は、不正直なものに対し、常に損失を受けている。正直者と不正直者がともに仕事をする時、必ず不正直者の方が利益が多くなる。税金を納める時も、同じ収入であっても、不正直者は正直者よりもなるべく少なく納めようと企む。官職に就く時もそうであって、正直者はその職を務めるにあたって不正に利益を得ることなく、また、身内の者や知人に便宜を図ろうとしないので、彼らの憎みを受けることとなる。不正直者は全くその逆である。不正義の最大のものは僭主(独裁)政治である。詐欺または暴力により、人々の財産を奪うだけでなく、彼らを捕らえて奴隷にもしてしまう。人々は僭主を幸福の人と称える。人が不正を非難するのは、自分がその不正により損害を受けることを恐れるためであるが、非難することによりその身に危害が及ぶことが確実な時は非難を控えるのである。この僭主の行いを伝え聞いた他の国の人も幸福の人と僭主を称えるが、これは、彼をうらやましく思っているからである。人間だれしも、捕まることの無い完全な不正を行ってみたいと思っているのである。…以上の事から、「正義」とは「まっすぐで、真面目すぎる」ことで「強い者(支配者)に利益をもたらす」ことであり、「不正」とは「知恵があり要領が良い」ことで「自分自身に利益をもたらす」ことであるといえる」

このトラシュマコスの不正優位論は読んでいて、確かにそうだな、と思わせられる部分が多いものです。「正直者が馬鹿を見る」…というやつですね。

これに対し、ソクラテスは次の点から、不正が正よりも得になることは無い、と言います。

①国家・軍隊・盗賊の場合、不正の者は互いに出し抜こうとしたり、隙あらば害を与えようとしたりするので、協力して活動することができない。一方、正直で、互いに害しようという気持ちが無い場合は、協同して善く活動することができる。

②どのような物にも、目的とするものがあり、それしかできないものがあれば、(見ることは目しかできず、聴くことは耳しかできない)、ある者が特に充分な効果を発揮できるものがある(ぶどうの蔓を切るのに、短刀・鑿も使えるが、枝切り鎌がもっとも効果がある)。しかし、欠点がある場合は、目的を十分に果たすことができない(例として、盲目が挙げられている)。霊魂も同様であり、その目的は、その身体について、監督し、命令し、選択すること、生きること…などであり、これらは、霊魂特有の目的である。霊魂にもまた、優劣があり、欠点のある霊魂は、十分にその役割を果たすことができない。不良な霊魂は、不良な監督者・支配者であることは明らかである。「正義」は霊魂の長所であり、不正義は霊魂の欠点である。そうであれば、正直な霊魂と正直な人間は、善い生活を送れるが、不正直な人間は不良な生活をすることになる。

トラシュマコスはこれを聞いて、それ以上言い返せなくなったのですが、グラウコン(プラトンの兄)はこの議論に納得できず、次のように発言しました。

「ソクラテス、私はあなたの言葉を聞いても、まだすっきりすることができません。正義が不正に勝ると十分に説明し尽くせているとは思えないからです。次の3点について尋ねたいと思います。(1)正義の起源について、(2)正義はやむを得ず行うものかどうかについて、(3)正義が不正に勝るというのは正しいかどうかについて…。1つ目の正義の起源についてですが、人々は次のように言っています。不正を行なえば利益が得られるが、不正を受けることによる害は利益よりも大きい。そのため、人々は互いに不正を行わないことを約束し、後にこれを法律とした。つまり、不正を行わないことが「正義」となったのは、それが善いことだから、というのではなく、不正の害を避けるための妥協的なものであったのである…。次に、人々が正義を行なうのはやむを得ずしていること、ということですが、このことは、ギュゲスの指環の話を聞けばわかります。この伝説は、ギュゲスはある時はめると自分の姿が見えなくなる指環を手に入れ、この力を使って、王妃をたぶらかして味方につけた上で、王を殺してついに王となった、…というものですが、ある者たちはこの話を使って次のように言います。…「このような指環を人々が手に入れた時、彼らは、物を盗んだり、好きな者の家に侵入して好きな者と交わったり、人を殺したり、捕まっている人を獄中から連れ出したりすることをためらうだろうか。人々は、不正は正義よりもはるかに利益がある事だと、心の中では思っているのである。人々が不正行為を非難するのも、自身が臆病で気が弱かったり、老齢であったりして、それを行なう力が無いという妬みの気持ちによるもので、ひとたび力を得れば、できる限りの不正を行うものに変貌するのである。だから、人間が正義を行なうのは、善いことであるから、というのではなく、やむを得ずしていることなのである」。最後の3つ目ですが、例えば、不正の限りを尽くしているが、うまくその不正を隠しおおせており、一方で、周囲の人々に対してはすばらしい正直者である、とうまく信じこませている者がいるとします。このような者は、人々から信用され、その町の支配権を得ることもあるでしょうし、商売を始めれば、利益を得るのに不正を行うことも憚らないために、競争に勝って富裕になることもあるでしょう。そうすると、思い通りに結婚することもできるでしょうし、思い通りに子どもを結婚させることもできるでしょう。また、彼はその豊富な財産を使って、神に大量に供え物をすることにより、神に正直者よりも愛されることになるでしょう。こうなれば、神々も、人々が正義であるよりも、不正であることを望んでいる、ということになりはしないでしょうか」

グラウコンがこう言うと、その兄のアデイマントスが、一方の説ばかりを挙げるのは良くないから、自分は積極的に正義を行なう理由について自説を述べましょう、と言って次のように言いました。

「父母は子どもに正しい人であれ、と言うものですが、父母が子どもにそう言う理由は、正直であれば、多くの利益が得られるからなのです。正直者という名声を得れば、官職・地位・結婚などを得ることができます。正義は善いことだからするのではなくて、「正直者という名声」を得るためにやっているのです。ムサイオスとその子(神話上の人物)はまた、神が正直者に与えるものとして、次のものを挙げています。…神々と宴席を共にできる。そこでは酔いが決して醒めることが無い。一方で、不正直者は、死後に泥の中に埋められ、篩(ふるい)でもって水を運ばせられる…」

アデイマントスは、しかし、父母が願う「正直者の名声」を得るのは非常に厳しいことだと述べます。

「正義や徳は尊敬すべき事柄であるけれども、つらくて苦しいものであり、一方で、不徳・不正義による快楽を得るのははなはだ容易である、と人々は思っています。ヘシオドス(古代ギリシャの詩人)も『不徳は困難なく数多く手に入れることができる。その道は平坦で、しかも目的地は近い。一方で神々は徳を得るには勤労を必要とした。その道は険しく、しかも目的地は遠い』と言っている」

しかも、父母が「正直者」であれば多くが得られる、と言うが、実際には次のようである、と言います。

「また、ある人は言う、「富裕であったり、権力を持っていたりする人間は尊敬されるが、善良な人間であっても、権力を持たず、貧乏な者は、軽蔑される」。またある人は言う、「神々は不幸・貧乏を善人に多く配分し、幸福と富裕を悪人に多く配分する」」

また、ムサイオスは悪人に罰が与えられると言っているが、それを避ける方法があるといいます。

「ホメロスは次のように言う、『神々も心を変えることがある。人が罪を犯し、法律を違反しても、供物をささげ、酒を大地に注ぐことによって、神々の怒りを和らげることができる』」

アデイマントスは、ソクラテスに次の事を要望します。

「私は、あなたが単に正義が不正義に勝ることを証明されるのではなく、議論を進めて、正義・不正義は本人にどのような結果を与えるのかを、妥当な根拠を挙げて説明してほしいと思います。また、その説明の際には、「名声」については排除していただきたい。なぜかと言えば、名声を得るために正義を行なう、というのは、正義そのものを賞賛するのではなく、「正義の名声」を賞賛するもので、これはつまり、不正そのものを咎めるのではなく、「不正の名声」を得ることをこそ咎め、不正を隠すことを勧めているようなものであるからです。ですから、あなたには、神や人にどう思われるか、という事に関係なく、正義と不正が、本人にどのような結果をもたらすのか、というのを明らかにしていただきたい」

ソクラテスはアデイマントスの言葉に対し、

…大きいものの方が見やすくてわかりやすい、ということは、より大きなものの中にある「正義」のがわかりやすい、ということである。だから、私はまず、国家における「正義」について述べてから、個人の「正義」について触れようと思う。

と述べ、まず国家の起源について話し始めます。

「国家は人間の必要から生じる。人間は多くの物を必要とするが、誰も1人では全ての需要を満たすことができない。そのため、必要とされる物を供給する人が必要となり、こうした人々が集まって国家ができるのである。人間が最も必要とする物は食料で、これに住居、衣服が続く。これに靴作りなど身の回りの物も加えるとすると、国家に必要な最低人数は農夫・建築者・衣服を織る者・靴作りなど身の回りの物を作る人4人という事になる。さて、この国の農夫は、1人で4人分の食料を作るべきだろうか、1人で4つの仕事をすべきだろうか?」

アデイマントス「彼はただ食料を作ることを目的とすべきです」

ソクラテス「人間は1人1人性質が違うので、向いている仕事も異なる。向いている仕事のみをするのがよい。また、仕事にはそれに適した時期というものがあり、無理にするのはよくない。つまり、人間は、自分に向いた1つの仕事を、適当な時期に行い、他の仕事は他人に任せることで、物をより多く、より容易に、より立派に作ることができるのである。そうなると、国家は4人では足りないという事になる。農夫や建築者が仕事に集中するためには、道具づくりは他人に任せる必要がある。衣服を作る者も、靴を作る者も同様である。また、農業や建築において重い物を引くのに必要な牛、衣服を作るのに必要な羊を育てる牧畜者も必要になる…。また、都市内では、物を交換するために、小売商人が必要となるし、貨幣があると便利になる。他所から何も輸入せずに済む場所などないから、貿易商人も必要となる。海から運ぶ場合は、水夫が必要となる。…私が思うに、多くの人は簡素な生活に満足できず、また別の新しい物を、もっと立派な物を求めようとする。その結果、もともとの領土ではその需要を満たせなくなり、国境を拡大する必要が生じ、他国と戦争することになる。この戦争の事であるが、兵士は、先に述べたように、別の職業と兼ねるものであってはならず、兵士に向いている性質の者を選抜しなければならない」

ソクラテスは、兵士に向いている性質を、次のように挙げています。

…鋭い視力を持ち、敵を発見した時には迅速に追跡してこれを捕らえる。戦う時に備えて、力が強く、勇気がある者でなければならない。しかし、このような者は、往々にして粗野で乱暴である。国を守る者というのは、敵にとっては危険で、国の者に対しては温和な者でなければならない。そうでないと、敵がやって来て我らを滅ぼす前に、内乱によって滅びてしまうからである。兵士は、哲学者の性質を持つ者でなければならない。兵士にあってほしい哲学者の性質というのは、犬も持っているものである。犬は知らない人には吠えるが、知っている者は歓迎する。学習したうえで態度を区別するというのは、学問を愛する者であるということであり、学問を愛するという事は、知恵を愛するという事であり、知恵を愛するという事は、哲学者であるという事になる。つまり、国の守護者というものは、哲学者的性質を持ち、気力が充実していて、敏捷性があり、力が強い者…ということになる。

続いて、ソクラテスはこのような兵士に育て上げる教育方法について次のように述べています。

…幼いころにはまず物語を語り聞かせる。何事も最初のものは最も重要である。特に幼少の時は、言われた事をそのまま受け入れやすいからだ。…であるからして、幼少時に不適当な物語を語り聞かせるのは良くないことである。そのため、検定制度を定め、これに合格したものだけを幼児に語り聞かせるべきである。例えば、ホメロスやヘシオドスなどの物語は良くない。間違ったことを書いているからだ。その最大のものは、子のクロノスが父のウラノスに復讐をしている場面である。これは真実の事であったとしても、分別に欠ける年少の者に語るべきではない。他には、神々や英雄による戦争の話、陰謀をめぐらす話、喧嘩をする話である。我らは、互いに争い、戦いあうことは罪深いことであり、今までそのようなことは一度として無かった、と語らなければならない。では正しい物語とはどのようなものであるか。登場する神は真に善の者でなければならない。善の者は有害でなく、有害でない者は人を害さず、人を害さない者は悪を為さない。悪を為さない者は害悪の原因とはならない。善は利益をもたらし、幸福の原因となる。…であるからして、神は一切の物の原因ではなく、善に関する物のみの原因になる、ということになる。ホメロスなどの詩人は「ゼウスとは善と悪を我らに与える者である」と言っているが、このような愚かで、罪深い言葉は、決して聞いてはならないものである。詩人は、ニオベーの苦悶(神に対し、子どもが多いことを自慢したうえ、自分の子どもたちの方が容姿が優れている、と言ったために子どもたちを殺され、悲しんだニオベ―はゼウスに願って石にしてもらったという)、トロイア戦争(ゼウスが増えすぎた人口を調節するために起こしたものだという)などは神のしたことだ、と詩人に言わせてはならない。もし神がしたことだとするならば、詩人はこう言わなければならない…神が為すことは正義である、彼らが罰せられたのは当然である…。そうだといっても、詩人たちは、罰を受けた者たちが不幸だと言ってはならない。神は善(幸福)のみの原因であって、不幸の原因ではないからである。彼らが罰せられたのは、不幸な彼らにとって幸福な事であった、と言わなければならない。善なる神が悪の原因を作った、などと言うのは厳禁である。このような言説は、国家を滅ぼすもので、有害で、不敬神のものである。また、詩人の物語によれば、神が別の物に姿を変えた、と言う場面が何度も出てくるが、これはどうだろうか。何事も、良好な状態の時は他の影響を受けにくいものである。人体が最も健康で、強壮である時は、飲食による影響を受けることがないし、立派に作られた道具・家屋・衣服などは、年月や他のものによっても影響を受けない。神は完全な物であり、最善最美のものであるから、変化するわけがない。…ということは、詩人の言うことが正しいとすれば、神々は魔法によって神が姿を変えている、と思い込ませている、という事になるが、そうなると、神々が人間をだましている、という事にもなる。時に嘘は、有用なものとなる。例えば敵に対している時…友が発狂して人に害をなそうとしている時…。しかし神はこのような嘘を必要とするだろうか。神は敵を恐れないし、発狂する者を友としているわけがないのだから、神が嘘をつく必要はない。…だから、神について語る時には、神は変化せず、神は人間を欺くことは無い…ということに注意しなければならない。

ソクラテスはその他、兵士の素質を持つ子どもへの教育について次のように述べています。

・兵士となる者は死を恐れてはならないから、物語を話すものが、死後の恐ろしい世界について語ることを制限しなくてはならないし、神々や英雄が友の死に涙した、と言う話もしてはならない。

・笑い話もしてはならない。精神が乱されるからである。

・節制できる人であらねばならない。節制の主要なものは、命令に従順であること、快楽を自制できることである。美食・美酒がこれ以上ない栄誉であると言ったり、最大の不運は飢えて死ぬことである、と語ったりしてはならない。また、神々が情欲に心を乱した、と言う話もしてはならない。また、神々や英雄が賄賂を受け取った、と言う話をして、子どもを金銭を好む者にしてはならない。また、神々や英雄が死体を引きずり回したとか、薪を積み上げた捕虜を焼き殺したといった残虐な話もしてはならない。以上の事を、神々や英雄がした、と聞けば、子どもは神々や英雄でさえもそうしたのだから、自分たちも構わないだろう、と考えるようになってしまう。

・悪人でも幸福、善人でも不幸なこともあると言ったり、不正をしても発覚しなければ利益がある、と言ったり、正義は自分にとって損で、他人の利益となる…と言ったりしてはならない。

・語り聞かせる物語を書く時には、物語の中の人物視点で語っているように書いてはならず、あくまで作者本人が語っているように書かなければならない。これは作者が作中の人物の「真似(模擬)」をしているということであるが、真似をする、というのは良くないことである。良い者の事を真似るのはよいが、悪い者の事もまた真似るようになってしまう。また、兵士の仕事に専念しなければならないのに、話の中に出てくる他の仕事の人の事も真似るようになってしまう。

・体育のみに熱中すると、粗暴なものとなってしまう。音楽・文学のみに熱中すると、軟弱なものになってしまう。兵士である者は、2つの調和がとれている者でなければならない。調和がとれていれば、勇気があるが、ふだんは温和であり、節制のできる人物となる。

続いて、ソクラテスは兵士のリーダーとなるべき人物について、次のように語ります。

・年長者のうちで最良の人物であって、知恵と能力があり、特に国家の事を思う人物であること。

・生涯にわたり、国家にとって良いことを行なうことに熱心で、国家の害となるものに対しこの上なく大きな憎悪を表す人物であること。

・リーダーを選抜する方法…若いころより兵士的素質を持つ者たちを観察し、物事を忘れない・だまされない者をまず選抜する。続いて、苦しい状況にあっても性質を維持できるかを観察する。次に、臆病でないか、快楽に流されないかを試験する。そして、どんな境遇にあっても、勇気と温和の調和がとれた性質を持ち、国家に対し有益な態度が取れるかどうかを見る。

また、ソクラテスは、兵士が国民に悪事を働くことが無いようにするために、次のような対策をとることが必要だ、と言います。

・私有財産を持ってはならない。

・人が自由に出入りできないような家や倉庫を持ってはならない。

・生活に必要なものは節制を守れる程度にとどめてこれを支給すること。

・食事は共にとり、生活も共にすること。

・けがれた行為のもとになる貨幣には触れさせないこと。

アデイマントスはこれに対して、彼らはなんと貧乏で、不幸で、ただ国を守る傭兵と変わらないのではないでしょうか、とソクラテスに言います。

これに対しソクラテスは、

…彼らは確かに、娯楽のために旅行をすることもできないし、金銭を持たないので娼婦と遊ぶこともできないし、他の世間一般が幸福とするあらゆることができない。非難は当然である。しかし、私が理想とする国家は、一部の人だけが幸せな国家ではなく、できるだけ多くの人々が幸福になれる国家である(ベンサムの言う所の「最大多数の最大幸福」)。彼らが靴職人であればこのような制限はしないのだが、彼らは国を守る兵士である。兵士が他の事に気を取られるようなことがあれば、国はたちまち転覆してしまうだろう。我々は、彼らの最大幸福を考えるべきだろうか?それとも、国家全体を幸福とすることを考えるべきだろうか?後者が真理であるとするならば、兵士がその仕事に専念できるようにすべきなのである。

…と答えています。そして続いて、国家はどのようであるべきか、ということについて次のように話を進めていきます。

[貧国強兵主義]

職人を堕落させるのは富裕と貧乏である。富裕となれば怠けて、仕事をなおざりにしたり、不注意になったりして、以前と同じように色々と心を砕いて物を作ることがなくなってしまうだろう。一方で、貧乏だと、物を作るための道具を手に入れることができず、十分に弟子たちに教えることもできなくなってしまう。…であるからして、国家は富裕であってはならず、貧乏であってもならない…という事になる。富裕な国から攻められたとしても、こちらは戦争の専門の訓練をした者たちであるから、2倍3倍の敵と戦うことができる。また、敵国に使者を送り、次のように言わせれば、攻められるのを回避することができる。「私たちは金銀を有しないし、その使用を許されていません(から攻撃してもうまみが無い)。そこでどうでしょう、我が国と同盟して、別の国を共に攻撃しては?その国を略奪することについてはあなた達にすべてを任せますから」。

[適当な国家の領土の範囲]

国内がよく一つにまとまっている時は、領土を拡大してもよいが、国の領土は大きすぎることもなく、小さすぎることもなく、一つにまとめることが可能で、自国が必要とする分を得ることができるくらいの範囲にとどめるべきである。

[男女同等主義]

兵士の素質がある男子は、国民の守護者となり、番犬となるべきである、と先に言ったが、同じように、この素質を持つ女子も男子と同様に扱うべきではないだろうか?オス犬とメス犬がいるとして、両方ともに番犬を任せるべきだろうか?それとも番犬はオス犬だけに任せてメス犬は子犬を産み、それを育てる事だけを任せるべきだろうか?

グラウコン「オス犬はメス犬より力が強いですが、オス犬・メス犬ともに同じ仕事をさせるべきです。」

ペットショップ犬の家&猫の里のサイトには、「一般的に雄よりも雌の方が飼いやすい、という意見が多い」が、「雄の方が体格も大きく、力も強く、攻撃的」で、「なわばり意識が強く、家の外を歩く人や犬に対して攻撃的になることがあります。雌は穏やかで、なわばり意識はそれほどありません。番犬にするなら雄犬の方が向いているでしょう」とある)

差がある動物であっても、同じことで働かせるならば、同じ方法でもって育てなければ、うまく働かせることはできないだろう。…であるからして、男子と女子も同様に、同じ仕事で働かせるならば、同じ教育を受けさせなければならない、という事になる。兵士として育てるならば、女子も、男子と同じように、音楽を習い、体操をし、甲冑をつけて、馬にまたがることになるのだが…これを見て滑稽だと思い、嘲り笑う者もいる事だろう。どうか、決して昔からの偏見の奴隷とならずに、真面目に考えていただきたい。男女で、得意な仕事が違うというのであれば…仕事は男女で分けるべきである。しかし、男女の違いが、子どもを産むか産まないか、の違いしかないのであれば、同じ教育を受けさせるべきである。仕事の中で、男子が女子に劣るものはあるだろうか?例えば、機織りやお菓子作りにおいて、女子が男子に勝っているのは明らかであるが、この点だけを見て、女子を男子の下位に置くことは間違っている、ということはできない。

グラウコン「あなたの言う事は正しい。女子が男子に勝っている点は多くあるけれども、全体から見れば、女子は男子に劣っている」

男性しかできない仕事、女性しかできない仕事が存在しないという事であれば、男性ができる仕事は女性もできるという事である。全体的に見ると、仕事の出来具合は男性には劣るけれどもね。一方が弱く、他方が強いという点を除けば、男性にも女性にも、ひとしく兵士に向いている性質を持つ者は存在している。このような同じ性質を持つ者は、同じ仕事に就くべきなのである。女性は身体の強さが男性に比べるといささか弱いので、女性が担当する仕事はいささか軽いものを任せるべきであるが…。であるからして、音楽や体操などの教育を女性にも受けさせることは、まったく不自然ではない、という事になる。これを見てあざ笑う者は、何が善いものなのかわかっていない者である。格言にもこうある…役に立つことは公正で、有害なことは不公正であると。女性が男性と同じ教育を受けることは有益な事であって、公正な事であるのだ。

[妻子共有論]

『兵士の素質を持つ男女は、同じく兵役に就くべきである』という法律以外に、国家には次の法律もあるべきである。『兵士の妻は共有のもので、その子どもも共有のもので、親はその産んだ子を、子は自分を産んだ親を知らないようにすべきである』。

兵士となる男子の妻は、なるべくその男子と同じく兵士の素質を持つ者であるべきである。兵士の男女は共に生活し、共に訓練し、その中で、自然に結ばれることになるのであるが…その婚姻を最も有益なものにするにあたっては、どのようなことに注意すべきであろうか。例えば、飼っている犬や鳥などの動物の子どもを作るときのことであるが…それが複数いる場合、優秀なものだけを選んで子どもを産ませるだろう。また、幼いものや老いたものではなく、成熟したものに子どもを産ませるだろう。同じように、兵士の場合も、できる限り優良な男女同士で性交をさせるべきであり、劣等なものは劣等な者同士で性交をさせるべきである…これはなるべく性交の回数を減らすべきである。性交の回数については統治者がこれを管理して、人口が国家にとって過大・過少にならないように調整する(ハーバード大学出版のプラトン『国家』の註には、「プラトンは、この法律が守護者にのみ適用されることを明らかに忘れている」とある。たしかに、国家全体の性交の回数を管理しなければ、人口は調整できない)。ひときわ優れて勇壮な青年には、性交の自由を与え、できるだけ多くの子どもを作らせるべきである。

そして優良な男女の間で産まれた子どもはこれを兵士として育て…劣等な男女の間で産まれた子どもは捨てるべきである。優良な男女の間に生まれた子どもでも障害を持って生まれた子どももそうすべきである。このことは兵士の者たちに知られずに行うべきである。なぜなら、これが知られると兵士の者たちが反乱を起こすからである。だから、法律で、『親はその産んだ子を、子は自分を産んだ親を知らないようにすべきである』としたのである。

そして、子どもは成熟した男女…壮年期の男女から生まれるべきである。女子は20歳から40歳まで、男子は25歳から55歳まで子作りに当たることとする。この時期は、男女ともに身体・精神強壮な時期に当たる。男女は、これより下の年齢で子どもを作ることがあってはならない。この年齢を過ぎた時には、好きな相手と同棲することを許可する。好きな相手といっても、男子は自分の娘・娘の娘・自分の母・母の母は除き、女子は自分の子・父親・子の子・父の父は除く。また、同棲することは許すが、子を作ることは許さない。

グラウコン「男女はどうやって自分の子・自分の父母を知ることができるのか」

男子・女子は壮年期となって、年に一定の回数開かれる、他の男女との性交が許される祭りの日から7か月・もしくは10か月後に産まれた子どもを全て自分の子として扱い、子どもはその逆を全て父母として扱うのである。父母を同じくする子どもたちはみな兄弟姉妹とみなされる。この兄弟姉妹との性交ももちろん許されないが、デルポイ(デルフォイ)の信託で認められれば性交は許可される。

国家の最大善とは、統一がとれていることであり、国内で不和・分離があることに勝る悪は無い。すべての国民が同じように喜び、悲しむのは、国民どうしがうまく結合できているということである。しかし、国会の一部分は喜んでいても、一部分は悲しんでいたとしたら、これは国家が瓦解しているという事である。この理由となるものは、「自分事だと思っているか」「自分には関係ないと思うか」によるものである。これは人間と同じである。人間が指をけがした時、それは体の一部分にしか過ぎないのに、身体全体にその痛みが伝わる。そしてその痛みが治るとともに、身体全体が快くなっていくのである。

グラウコン「つまり、最も善く、秩序がとれていて、治まっている国というのは、国民に共通の感覚がある国、という事になるのでしょうか」

そうであるからには、国民の1人が利害を感じる時には、国家全体が、それを共通の利害とし、共に苦楽を感じるべきである。

他の国家との違いを見てみよう。我が国家も、他の国家も、統治者と被統治者(統治を受けるもの)がいる。統治者・被統治者は、どちらの国であっても、国民と呼ばれるが、一部の国では、統治者は主君と呼ばれる。一方で、我らの国では、統治者は、国民から「救世主」や「援助者」とも呼ばれる。逆に、統治者は国民の事を、「雇い主、養い親」と呼ぶ。他の国家では、国民を「奴隷」と呼ぶ。他の国家では、統治者が他の統治者を、「共同統治者」と呼ぶが、我々の国では、「守護者同輩」と呼ぶ。他の国家では、同じ統治者であっても、利害関係によって、「友人(親密な間柄)」と呼ぶ者と、「他人(部外者)」と呼ぶものを分けている。我が国では、同じ統治者(守護者)である者を、他人と呼ぶだろうか?

グラウコン「呼びません。同じ統治者の者たちは、誰に会っても、兄弟、姉妹、父親、母親、息子、娘、またはその子どもや親に会っていると感じるでしょうから」

そのような状態であるからこそ、先に言ったような、ある1人が幸せなのを自分の幸せのように感じ、ある1人が不幸せなのを自分も不幸せなように感じるようになる。こうして、彼らは1つの事について共通の利害関係を持ち、全ての事を「自分事(我が物)」と感じ、快楽苦痛の感覚を同じくするようになるのである。このようになるのは、兵士(護国者)が妻子を共有しているからである。…こうして、妻子を共有とするのが国家最大の善の源となることが明らかとなるのである。

護国者たる者は、私有の財産を持たず、給料は金銭でなく食料を受け取る。これは、護国者としての性格を維持しようとするために必要な事である。財産や妻子の共有により、全てを自分事のように感じるため、その考えを同じくし、同一の目的に向かって行動する。

彼らは私有財産を持たないので、金銭・親族関係から起こるもめ事は発生しようがない。…このように、護国者間で紛争がなければ、他の国民は護国者に対して…あるいはお互いに…対立し、国家が分裂の危機に陥ることもなくなるであろう。

(※この妻子の共有について、プラトンの弟子にあたるアリストテレスは『政治学』で、プラトンは『国家』で妻子と財産を共有することを書いているが、これらのものは共有した方が良いのだろうか?と問題を提起したうえで、「プラトンは国家はなるべく1つであることが望ましいと言っているが、このような国家はもはや国家と呼べないと思う。なぜなら国家は多数から成る集合体であり、同じような性質の人間たちだけでは、国家が成立しないのであって、1つになるということは、国家を破壊することになるからである。共有物というのは、私有物と比べると、配慮されることが少ない。共有物に対しては配慮の程度が下がるか自分に関わる部分に限って配慮されるかになる…誰か別の人間が配慮するはずだと考えてしまうと、人々はいっそう物事をないがしろにするのである。それはちょうど、家事を行うとき、召使の数が少ない場合より多い場合に、かえって杜撰な仕事になることがあるのと同様である。人間に親愛の情を引き起こさせるものは、「自分だけのもの」か「愛しさを覚えるもの」なのである。プラトンの考える国家では妻子の共有性が存在するため、愛情が水のように薄くならざるをえない。それゆえ、息子が父親を「私の父親」と呼ぶにせよ、父親が息子を「私の息子」と呼ぶにせよ、その呼び方に込められた愛情は最も薄くならざるをえないのである。それを譬えていえば、少し甘みがあるものを大量の水に溶かすと、甘いものが混じっているとは気づかれないほど薄くなるように、「父親」、「息子」と呼び合うことから生じる互いの肉親としての意識も極めて薄くなるということなのである。妻子の共有というのは、守護者階層ではなく、農民階層に実施した方が効果があると考えられる…本当は妻子を自分だけのものにしたいので、そうした方がお互いの親愛の情が薄くなり、共に手を結んで反乱を起こす可能性が低くなるからである。続いて財産の共有に関してであるが、自分が耕作し生産した物である場合、これは多くの困難を引き起こすであろう。なぜなら、農耕作業の苦労が少なかったのに、受け取る者が多い人々に対して、苦労が多かったのに、受け取る者が少ない人々から不満の声が生じるのは避けがたいことであるからである。財産の私有によって起こる害悪を論ずる者がいるが、害悪はどれも財産を共有しないことから生じるのではなく、堕落腐敗から生じるのである。私がそう言うのも、財産を共有にして、共同で用いる人々の方が、財産を私有している人々よりも多く対立を引き起こしているのを目撃しているからである。国家は、ある点において一体のものでなくてはならないが、あらゆる点でそうであってはならないのである。また、財産と妻子の共有は、2つの美徳を明らかに破壊する。2つの美徳というのは、婦人に対する節制(他人のものである婦人に手を出すことを慎むこと)と自身の財産を物惜しみせずに人のために使うという気前がよい態度…のことである。この「節制」と「気前のよさ」を挙げたのは、これらだけが財産の使用に関わる徳だからである」と自分の考えを述べている。また、「守護者階層以外の市民が国の多数者なのであるが、これらの人々の財産と妻子の共有については、何一つ規定されていない。守護者階層は財産や妻子が共有であるのに、農民層の間では、他の国と同じく私有の状態であるならば、1つの国家の中に2つの国家が存在するということになり、そうなると、これらの国家はお互いに対立せざるを得なくなってしまうであろう」とプラトンの意見の不備を指摘している

[優れた国家の条件]

プラトンは完全な国家には「知恵」「勇気」「節制」「正義」が備わっている、と言います。

①国家における知恵…自国の内部と、他国との関係の改善について必要な知識は、国を守護し、統治する知識であり、その知識を持っているのは我々が<守護者>と呼ぶ支配者である。

②国家における勇気…勇気とは、どのような条件下(悲哀・恐怖・欲望など)であっても、支配者の教育により形成された信念を守る、ということである。

③国家における節制…節制とは秩序のことであり、快楽や欲望を制御することである。よく節制できている人は、「自分自身の主人」となれるが、節制できない者は、「自分自身の奴隷」となる。節制ができない者は、通常、子ども・婦女子・奴隷・下等な者たちに見られる。このような大多数の者の欲望が、少数の優れた人々(守護者)の欲望や知恵によって支配されているならば、それは節制の国家であるということができる。また、少数の優れた人々と、その他の人々とが、どちらが支配者となるべきか、ということについて、両者の意見が一致している場合は、両者に節制があるということができる。

④国家における正義…正義とは、各自が自分に適した仕事を行ない、他の人のやることには口を出さない、ということである。裁判では、他人の物をとってはならない、とするが、ここからも、正義が他の人の物に手を出さないことである、ということがわかる。分限を侵して、職人や商人などが、軍人の素質が無いのに、軍人になろうとしたり、軍人が、支配者となる素質が無いのに、支配者となろうとするならば、それは国家の破滅につながるだろう。そう考えると、金儲け階級、補助者階級(軍人)、守護者階級(支配者・統治者)の 3つの階級が、互いの仕事に干渉したり、他方に取って代わろうとしたりすることは、国家にとって最大の損害を与える悪行ということになる。この最大の悪行の事を「不正」という。これとは逆に、この3つの階級が、自分の仕事を適切に行なうことは、正義であり、国家を公正なものにする。

[霊魂を構成する3要素]

国家に3階級があるように、霊魂にも3要素がある。例えば、のどが渇いているけれども、それを止めることができる。ここから、霊魂には、<欲望>の部分と、その欲望を抑える<理性>の部分があるということがわかる。そしてこれに<気概(強い意志)>が加わる。欲望を抑えることができている時は、気概が理性の味方をしている時で、欲望に負けてしまっている時は、気概が欲望の味方をしている時である。…ということは、理性が霊魂全体を監督してこれを支配し、気概がこれに服従して、味方しているというのが理想の形となる。理性と気概は、霊魂内の最大部分を占める欲望を支配し、また、この欲望が強大となって逆に理性と気概を支配してしまうことを防がなければならない。快楽の時や苦痛の時、恐怖を感じる時に、理性の命令をよく聞く気概を持っている者は、勇気ある人と言える。知恵がある人というのは、霊魂内を支配し、命令を伝えている小さな部分(理性)が、それぞれにとって、また全体にとって、どのように有益であるか、ということを知っている者のことを言う。節制の人というのは、この3つの要素の秩序がとれており、気概と欲望が、理性の支配に従うことを承認し、決して内乱を起こすことが無い人のことを言う。守護者となるべき人間は、金銀を預かっても決して横領しないし、私生活や公的な場での同志や国家に対する冒涜や窃盗、裏切りとは無縁であろうし、誓約やその他の合意において、いかなる不誠実な態度もとらないだろうし、不倫や、両親や神々への奉仕を怠ることもないだろう。このようになる理由は、彼の霊魂の各部分が、支配し、支配されるということについて、よく各自の分を守っているからである。つまり、正義とは、自己の内面に関する事なのであり…自制心を身につけることにより、自己の内部の3要素の秩序を正しくし、これら3つを調和させ、結びつけ、束ね、渾然一体のものとし、自分自身を多数の物から成るのではない単独のものとすること…これを正義というのである。このような状態になって初めて、商売や、政治活動など、何か為すべき仕事を見つけ、実践に移るべきである。


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