社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 伴天連追放の綸旨

2024年10月3日木曜日

伴天連追放の綸旨

4月21日、織田信長は京都を去って岐阜に向かいましたが、

これを見て猛然と行動を開始した男がいました…💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●日乗、伴天連追放の綸旨の実行を足利義昭にせまる

フロイスは次のように書簡に記します。

…5月12日(永禄12年4月26日)午後2時、結城山城守(忠正)殿からロレンソ宛の(朝廷で起きたことについて)書状が届いた。彼はある公家(勧修寺尹豊)の娘を妻としていた(ので、朝廷の内情がわかったのである)。その内容は次のようであった。「昨日、日乗上人が司祭を都やその周辺の諸国から追放する綸旨(rinxi)を得た。日乗上人は、この内容を実行させるために公方様のもとを訪れるという。気をつけるように。和田殿には司祭たちを保護するように懇請した」

この綸旨の件については、『御湯殿上日記』4月25日条にも次のように記されています。

「はてんれん けふ りんしいたされて。むろまちとのへ申され候(伴天連今日綸旨いたされて、室町殿へ申され候)」

信長の帰国を知り、その間隙をついて、日乗がすぐさま行動を開始したのです。

状況を知ったフロイスは、ロレンソを妙蓮寺にいる和田惟政のもとに派遣しようとしますが(書簡には「雨が降っていたが」とあるが、『言継卿記』によればこの日は晴れである)、そこにベルショールがやってきて、「2人のキリシタンが公方様の家中の人物から聞いたところによれば、日乗上人が武装兵を送り、司祭だけでなくキリシタンを皆殺しにしようとしているそうです。どうか教会をお離れになってください」と伝えました。

ロレンソがこのことを和田惟政に伝えに行くと、惟政は「公家たちに事実かどうかを確認する。私は今まで通りキリシタンを保護するつもりであるので、安心してほしい」と答えました。

26日午後、日乗は足利義昭のもとを訪れ、「以前都から追放したディオス(デウス。フロイスたちのこと)は戻ってきましたが、仏教の教えに反する敵であるので、即刻追放を命じていただきたい」と伝えましたが、書簡によると、「公方様は和田殿に非常に好感を持っており、司祭たちを保護することで彼が恩を感じると知っていたので」義昭は次のように答えました。

「内裏に伝えるように。都にいることを認めるか、追放するかどうかは、帝が決められることではなく、余が決めることである。余は司祭に都に滞在するだけでなく、どの国においても住むことを許す許可状を与えている。そのため、彼を追放することはしない。また、司祭は、この件について信長の許可状も得ている」

すごいですね…(◎_◎;)

それでもあきらめない日乗は、翌日の午後、朝廷からの伝言を伝えに来た使者を伴って義昭のもとを訪れます(この日の午前中には、ロレンソが二条城を訪れているが、書簡には「建設中であった」と記されている。石垣は完成したが、内部の建物などは未完成だったのだろう)。伝言の内容というのは、

「許可状が与えられているとはいえ、彼らは仏教の大敵であるので、信長に対し、追放の命令を出すようにと今すぐ使いを送るようにせよ」…というものでした。

これに対し、義昭は、

「信長にそのようなことを伝える正当な理由が無い。だから伝える必要はない。追放を願うのならば、朝廷が信長に使者を派遣されるとよろしい」…と返答しました。

ここでフロイスが許可状を持って到着すると、これを受け取った和田惟政は、日乗と朝廷の使者に対して次のように述べました。

「私は今まで朝廷のために、朝廷と公方様・信長殿の取次にあたってきました。その褒賞として、司祭が都に滞在する許可状を賜ることを期待していたのに、それをお与えにならないどころか、追放をお命じになられるとは。これは侮辱であります。もし追放を決定されるのであれば、私は帝への奉公と、公家に対する援助を取り止めます。公方様と信長殿のお考えを知りたいのであれば、この許可状を御覧になっていただきたい」

この後、フロイスが足利義昭と対面しようとしましたが、義昭は気分がすぐれないと言って会おうとはせず、和田惟政を通じて、司祭たちは余が保護するので安心してほしい、と伝えるにとどめました。

フロイスが持参した贈り物が一束のロウソクであった事が義昭は気に入らなかったのかもしれません😓

これを知った和田惟政は、公方様と司祭の関係をいぶかしむ者が現れることを心配して、何とか2人を対面させようと考え、フロイスに対し、小さな目覚まし時計を義昭に贈ることを提案しました。

小さな目覚まし時計は以前にも登場しました。信長に贈ろうとしたものの受け取ってもらえなかったやつですね。

時計を受け取った義昭は大いに喜び、「今までこれ以上に優れたものを見たことが無いが、どのような仕組みかよく分からないので、(普段使いはせずに観賞用として)大切に保管させてもらうことにしよう」と言い、これを見せるために公家の久我晴通などを呼び寄せた上で(書簡にはおよそ60人[スペイン語版では70人。フロイス『日本史』も70人とする]が時計を見るために集まった、とある)、フロイスを引見して時計について多くの質問をしました。

久我晴通は義昭に、「私が豊後(大分県)で見た時計はもっと優れていて(豊後の大名大友氏との取次をつとめていた久我宗入は1560年と1563年に豊後を訪問している)、人が触らなくても昼夜時を告げておりました」(つまりフロイスが差し出した時計はゼンマイ式だったのだろう)と言うと、義昭は驚き、フロイスにそれを取り寄せるようにと伝えました。

義昭とフロイスの会見は、義昭が城の工事を見るために部屋を去るまで45分に及びました。

これで伴天連追放の騒動は収束するかに思えましたが、なんと日乗はまだまだあきらめていませんでした💦

●息詰まる和田惟政と日乗の攻防

1569年5月15日(永禄12年4月29日)、教会に1人の老キリシタンが血相を変えてやってきて、次のことを告げました。

…公方様や信長に計略が通じないことを知った悪魔の使い(日乗)が、今度は司祭殿を追放するだけでなく、発見次第殺害し、キリシタンの家と財産を没収する許可状を新たに得た、と各地に触れ回っています。

これを受けてロレンソと老キリシタンがこのことを和田惟政に報告しに行くと、信長に報告するために美濃に行かれるべきである、と惟政が答えたので、当時、堺での用事を終えて京都に向かっていたフロイスがすぐにロレンソと数人のキリシタンと共に出発することが決められましたが、しばらくすると、和田惟政から多くの兵を引き連れた1人の武将が派遣されてきて、次の内容の惟政の伝言を教会のある町の者たちに伝えました。

…司祭殿はどこに住んでいてもいいという許可状を得ているのだから、日乗の言うことに従ってはならない。内裏や公方様の命令であったとしても、まず自分(和田惟政)に報告するように。もし以上のことと逆のことをするならば、この町を破壊することになる。

また、和田惟政は、ロレンソを通じてフロイスに次のように伝えました。

…あの坊主の怒りが煮えたぎっている内は、司祭殿が信長殿に会うために美濃に行くことは控えたほうがよろしいでしょう。私が庇護いたしますから、安心してくださいますように。

フロイスは書簡で、和田惟政のこの行動によって、町の動揺は収まった、と記しています。

以上はフロイスが書簡に書いた内容ですが、後年フロイスがまとめた『日本史』には違う内容が書かれています。

それによると、フロイスが堺に向けて出発した直後、ジョアンという老キリシタンがフロイスに対し、「たった今、日乗が町内に伴天連様に科した罰について書かれた詔勅を届けてきて、その内容を触れ回ろうとしております」と報告してきたので、フロイスは慌てて引き返し、ロレンソや数人のキリシタンと共に上京にいる和田惟政のもとに向かった。この時和田惟政は病気であったにもかかわらず、フロイスたちをメロン(メロンの仲間で日本で古くから栽培されていたマクワウリのことか)などの果物でもてなす配慮を見せた。惟政は、「私が責任もってことに当たるので、心配なさらず、堺に向かってください。京都にはロレンソ殿が残っていれば十分です」と言ったので、フロイスは堺に向かった。フロイスが堺を訪れていたとき、ロレンソから次の内容の書状が届けられた。

…本日(4月29日)、日乗の使いの者8・9名が(教会のある町に)やって来て、キリシタンに対し、「朝廷が伴天連を追放させたのに、誰が伴天連を呼び戻したのか。キリシタンたちか、この町の住民か、それとも公方様か信長の配下の者か」と詰問してきたので、私はこの尋問を受けた、当月の町役人を務めていた異教徒の者と共に、和田殿にこのことを報告に行きました。すると和田殿は、次の3つの手を打たれました。①公方様に、日乗の言うことを聞き入れませんように、と伝えた。②信長の武将である佐久間(信盛)殿に援助を願う手紙を送った。③「トビナガ」(Tobinaga)と茨木(佐渡守。重親)に大勢の兵をつけて町に派遣し、「司祭殿はどこに住んでいてもいいという許可状を得ているのだから、日乗の言うことに従ってはならない。内裏や公方様の命令であったとしても、まず和田殿に報告するように。もし以上のことと逆のことをするならば、この町を破壊することになる」と伝えさせた。また、和田殿は、私に司祭殿に次のように伝えるようにと言いました。「あの坊主の怒りが煮えたぎっている内は、司祭殿が信長殿に会うために美濃に行くことは控えたほうがよろしいでしょう。私が庇護いたしますゆえ、心配なさいませぬように」。これによって、キリシタンたちの者たちは大いに救われるところがありました。

両者の内容の違う点は、

①書簡では「4月29日」に「老キリシタン」が日乗が「フロイスを発見次第殺害し、キリシタンの家と財産を没収する」という内容の新たな許可状を得たことを報告しに来ているが、『日本史』では、4月29日かそれ以前の話になっており、「老キリシタン」は「ジョアン」であったことが示され、日乗が得た許可状の内容については触れられていない。

②書簡では「老キリシタン」の報告に対し、ロレンソと老キリシタンが和田惟政のもとに報告に行っているが、『日本史』では、フロイス自らがロレンソや数人のキリシタンと共に和田惟政のもとに向かっている。

③和田惟政は書簡では(堺から戻る途中のフロイスに対し)「美濃に行かれると良い」と答えているが、『日本史』では「心配せず堺に向かわれるとよろしい」と答えている。

④『日本史』では、フロイスの堺出発後、日乗の使者が再度町に来て、誰がフロイスを呼び戻したのか尋問した、という内容が追加されている。

⑤書簡では和田惟政は武将を町に派遣したことしか書かれていないが、『日本史』では足利義昭や佐久間信盛に連絡を取っている。

⑥書簡では町に派遣されたのは「1人の武将」であるが、『日本史』では「トビナガ」なる人物と「茨木」の2人になっている。

後年まとめられ、作為が加えられている可能性が高い『日本史』よりも、ほぼリアルタイムに書かれた書簡の内容の方が信憑性は高いと思われるので、基本的には書簡を信用すればよいと思うのですが、『日本史』には、書簡では述べられていなかった、和田惟政にメロン(マクワウリ)でもてなされたとか、和田惟政が足利義昭や佐久間信盛にも連絡を取った、ということが書かれていて、これらは真実味があるように思います。

日乗の執拗なキリシタン排斥の行動に対し、和田惟政がとった対応により、日乗は行動を停止せざるを得なくなりました。…が、これもしばらくの間のことにとどまりました。日乗はあきらめない男だったのです(;^_^A

書簡や『日本史』には、この小康状態中に、伝染病(風気)が流行ったことが記されています。それには、ロレンソとベルショールが摂津の国で特に流行していた風気(fuqui)という疫病の一種にかかったこと、 ソファソ(?)という都の主だったキリシタンの1人がこれにかかった後、わずか11日で死亡したこと、高山ジュスト右近(『日本史』は「Justo Ucondono」(ジュスト右近殿)と記す。これが確かであれば高山右近の初登場である。1563年、高山ダリオの妻・息子・娘がキリスト教の洗礼を受けているが、右近はこの時にキリシタンとなったのだろう。しかし、6月1日付書簡には「高山殿」とあるのみで、もしかすると父の飛騨守[ダリオ]のことを言っているのかもしれない。飛騨守は当時まだ右近に家督を譲っていなかったので、フロイスの誤りである可能性がある)が伝染病にかかって倒れ、回復したがもう一度同じ病にかかったが、「彼がこの地域(畿内?)の柱であったので、主は喜んで彼に完全な健康を与えられた」(『日本史』)ということが記されています。

さて、日乗のことに話を戻すと、日乗はキリシタン排斥の働きかけの対象を再び織田信長に移します。キリシタンにとって小康状態にあった間、日乗は天皇と信長に気に入られるように努め、その結果、次の5つの権限を得るまでになっていました。

①足利義昭が重要な事柄を決定する際には、日乗の意見を聞くこと。

②内裏の再建と、その周囲に堀を設けることについて、日乗が責任者となること。また、信長は日乗にこの費用として10万クルザードを委ねていた(『日本史』では「多額の銀を与えた」になっている)。

③奈良の大仏の寺院(東大寺)の再建の責任者となること(そのためには2・3コントの黄金が必要である、と書かれている)(『日本史』では奈良の大仏の再建、とのみ書かれている。また、書簡では3番目に書かれていたが、『日本史』では5番目に書かれている)。

④畿内諸国で流通する銭は日乗の審査を経て使用されること(撰銭のこと)。

⑤畿内近隣諸国の戦争においては、日乗の意見と助言に従って和平協定を結ぶこと。

以上のように権力を強め、天皇との関係も強めた日乗は、再度朝廷から伴天連を畿内から追放するという綸旨を得て、これを信長に送り、「彼らの教えは諸国騒乱の元であり、仏教を非難しようとする悪魔の教えであって、彼らの意見を聞くことなく、直ちに追放されるべきである」と強く要請しました。

これに対し信長は、フロイスによれば、フロイスらが無実であることはわかっていたが、朝廷との関係が悪化することを心配して、「伴天連の追放に関しては、日本の君主である内裏(天皇)がすべて決められるべきです」と短く答えたといいます。

これに反発したのが和田惟政で、公家が、信長に取り次いでほしい用務を持ち込んでできても「今回の綸旨が出ることになったのは、そなたら公家のせいである」と言ってこれを断り続け、ついには3日後(5月15日)、摂津の城を巡検すると言って京都を出て行ってしまいました。

これに不安を覚えたのがフロイスで、慌ててロレンソを摂津に派遣しました。

この後、惟政は2通の書状を作成しています。

惟政が2通の書状を書いた経緯について、6月1日付の書簡は「高山殿の勧めを受けて、高槻城から2通の書状を送った」と記していますが、7月12日付の書簡では「ロレンソを派遣して、2通の書状をしたためてもらった」とあり、違いが見られます。

ロレンソを高槻城にいる高山殿(飛騨守か?書簡には「病で瀕死の状態であった」と書かれている)のもとに派遣し、惟政に手紙を書いてもらうように依頼した、ということなのでしょうか?

それはともかく、惟政は2通の書状を書いてこれを送ったのですが、その対象となったのは、「足利義昭と親しい関係にある3人の貴人」と、日乗でした。

足利義昭と親しい関係にある3人の貴人について、フロイスは書簡で「Nomuraiecuqueuouoim batano sabusco&guorodono」と記しています。

これはエヴォラ版で、アルカラ版では

「Nomuraxicuy Vojuim Batono,Suguro Gorodono」となっています。

 1人目は野村とあるので野村越中守のことでしょうが、2人目がアルカラ版とエヴォラ版で大きく異なっています。波多野なのか?何とか殿なのか?3人目が「殿」で終わっているので何とか殿が正しいのかもしれませんが…。3人目は三郎五郎殿と読めそうです。三郎五郎と言えば信長の兄の織田信広が思い浮かびます。織田信広は当時京都にいて、足利義昭や公家との取次ぎ役を任されていたそうなので、可能性は高いですね😕

(1)足利義昭と親しい関係にある3人の貴人宛の手紙

「もし都で何か言われるようなことがあれば、司祭が公方様と信長(殿)の許可状を持っているので、彼らを保護していただきたい。また、何かが起こったらすぐに私に教えて欲しい」

『日本史』にはこれに対する3人の反応が次のように記されています。

…この手紙に関して、彼らは、何事においても司祭を庇護し、必要なときはいつでも司祭を助けることを申し出た。彼らは和田殿のためなら何でもするだろう。

(2)日乗宛の手紙

「司祭殿は公方様と信長殿から許可状を得ているので在京しているのである。今聞いたところでは、彼を追い出したがっているとか。公方様や信長殿が彼を追い出すというなら私に言うことは何もないが、私は公家を通して朝廷に尋ねたところ、朝廷の返事は、もう何もするつもりはないとのことだったので、このことについては一切相手にしない。もし司祭のことで何か言いたいことがあれば言うように。私が答えよう」

これに対し、日乗は5月17日夜、次のような内容の返書をを送りました。

…伴天連について、内裏は5年にわたって彼を追放している。それなのに貴殿は内裏に反して彼を都に復帰させようとしている。それだけにあきたらず、貴殿は今回の書状で、内裏が思ってもいないことを述べている。 貴殿が諸国(山城・摂津)の奉行に選ばれて以来、三界(この世)において、これほど不当なことをしたことは無い。内裏は公方様に彼を発見次第殺害し、教会は破壊するようにと仰せになったが、内裏の言葉というのは、一度毛穴を出れば、もはや毛穴に戻ることは無い汗のようなものである(「綸言汗の如し」)。天地開闢(かいびゃく)から今に至るまで、貴殿が繰り返し行っていることは、過去に一度もなく、未来においても、このようなことは聞くことがないだろう。信長殿はこの件について、公方様の意見を聞かれたうえで、内裏の御意見と御意思に委ねる、と言ったのであるから、貴殿は内裏にも、公方様にも、信長殿にも逆らって、悪魔の教えを守ろうとしている、ということになる。貴殿は信長殿の機嫌を損ねることになるであろう。また、信長殿は、私と明智十兵衛(「ha qbechiubeo」。アルカラ版では「quechijubeo」)にすべてを報告するようにと言われたが、貴殿がこれを顧みることなく、恐れずにこのような大それたことを行い、彼らを支持しようとしていることに私は驚いている。静謐で安らかな心で、私がこの中で述べていることの一つ一つをよくお考えになっていただきたい。私以上にあなたに助言してくれる者はいない。私の言葉はあらゆる病に対する救いの薬のようなものであり、偽りなど一つもない。信長殿がしばしば、私を師として受け入れるようにと貴殿に言ったことを思い出すべきである。 そしてそれだけでなく、私は、この畿内諸国においては、私の助言を仰ぐように、という特許状を信長殿から与えられている。 私は貴殿への愛に突き動かされて、この忠告をしているのである。貴殿が、伴天連を支持するという、これ以上ない不適切なことを行なわないならば、(a)貴殿の名声は、世の人々の満足と共にあまねく広がることになるだろう。

『日本史』では、ほぼ同様の文章が載せられていますが、(a)以降の部分が、「貴殿は、何の煩いも無く、統治を長く続けることができるようになるだろう」となぜか変化しています。

この日乗の返書を見たフロイスは自信を取り巻く状況がのっぴきならないところまで悪化していることを悟り、これを打開するために、織田信長に会いに美濃に向かうことになるのです。

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