社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 「日本の力を増す事蝦夷にしく事なし」~『赤蝦夷風説考』

2025年6月6日金曜日

「日本の力を増す事蝦夷にしく事なし」~『赤蝦夷風説考』

 あ大河ドラマ『べらぼう』21話「蝦夷桜上野屁音」に『赤蝦夷風説考』を書いた工藤平助が登場しましたね!

高校で習ったものの、その内容は調べるまでよく分かっていませんでした💦

幕府の方針を転換させたという『赤蝦夷風説考』、その内容とは⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●工藤平助(1732?~1801年)

工藤平助の「平助」は通称であって、本名(諱)は球卿(きゅうけい)であったようです。しかし、幕末~明治初期に書かれた『事実文篇』(1849~1881年)には、「工藤平助、名は某、字は球卿」とあり、よくわかりません。

大槻如電(1845~1931年)の書いた小伝には「工藤球卿、字は元琳、平助と称し、萬光と號す」、『仙台人物史』(1909年)には「工藤球卿子は元琳、通称周庵、萬光と號す」と書かれています。

『仙台人物史』によると通称は平助でなく周庵とあるのですが、「髪を蓄へて名を平助と改む。時に年40」とあり、40歳の時に名前を平助に改めた、としています。

「周庵」というのはいかにも医者の名前ですよね。中川淳庵や緒方洪庵がいます。

その通り工藤平助は医者で、父は紀州藩医の長井大庵(常安)でした。あれ?名字が違う?というのは、仙台藩医の工藤丈庵にその才を見込まれて13歳の時にその養子となったからです。遠い紀州藩と仙台藩にどうやってつながりが…?と思うのですが、当時はどの藩も江戸に藩邸があり、両者は江戸で働いていたので同じ藩医同士、つながりもあったのでしょう。

平助は21歳の時養父の後を継いで藩医となります。『仙台人物史』ではこの時剃髪していて坊主頭だったということですが、大槻如電の記した小伝には「球卿敢て髪を削らず、且つ通称平助を以て行ふ。藩之を俗医師と謂ふ」とあり、医者名を用いず通称のまま、さらに剃髪もせず髪を蓄えたまま医者業を行なった、とあり、よくわかりません💦

医者業については、大槻如電は「球卿能く家業を伝へ、医療懇篤、…是を以て侯伯權貴、士庶富豪に至るまで延請絶えず、治を乞ふ者門常に市を成す」と記し、親切で手厚い治療をしたので、治療を願う者がたくさんいた、としているのですが、『事実文編』には「性医務を喜ばず。訟を弁じ、難に赴くを任と為す。家築地に住す。都下の富人争訟有る毎に、必ず球卿に請ふてて之を代弁せしむれば、訟輙ち勝ち、人皆之を德とす」とあり、医者業には熱心ではなく、それよりも関心があったのは訴訟で、人の弁護をすることを楽しみとしていた、とあります。どちらが正しいかはよくわかりません💦

『事実文編』によると、金持ちが関わる訴訟にも関わってこれを度々勝利に導いたため、平助は金持ちからお礼として「千金を得ること二たび」という大金を得たのですが、本人は「見る者驚異すれども、球卿之を視る蔑如たり」と別にうれしく思っていない顔を見せていたようです。大槻如電によれば、資産頗る豊に、性又た多力、座左常に千両箱を置き、隻手容易に之を運ぶ。人来る有れば則ち曰く、誰か能く之を挙ぐる者には、吾れ乃ち之を与へんと」…片手で千両箱(造幣局によれば約20㎏)を運んでみせ、客が来れば、同じようなことができたらこれを与えよう、と言っていたようで、ここからもお金に汲々としていなかったこと、また、かなりの力の持ち主であったことがわかります。

それだけでなく、『北門叢書1巻』によると平助は多才であったようで、「多能にして製造の事に精しく、意匠常に規矩の外に出でざるあれば、推考一再、忽にして機器立ろに成る。西洋製器械の如きも亦能く之を模成せり。又篆刻を善くし、重村、齊村二公の印章敷顆は、皆其刻する所なり。而して性左手を便とし、彫刻製図皆左手に成る。且つ割烹を嗜み、二公に調進す。其味割烹人の及ぶ所にあらず。世呼びて平助料理と稱す」とあり、工作、篆刻(ハンコ作り)、料理も上手にできたようです。

また、平助は勉学にも励んでおり、『北方未公開古文書集成 第3巻』(1978年)によると「金があるに任せて、容易に手に入らない蘭書などを多数買いこんで読破した」そうです。また、儒学を青木昆陽・服部栗斎、蘭学を前野良澤・吉雄耕牛、北方問題を元松前藩勘定奉行の湊源佐衛門に学びました。

その結果、平助の学名はとみに向上したようで、平助長女の只野真葛が記した『むかしばなし』には「父様御名のひろまりしは二十四、五よりのことなり。三十にならせらるゝ頃は、はや長崎、松前など遠国より、高名をしたひて御弟子にと心ざして入来りし。吉雄幸作といひしヲランダつうじ、父様御想意なりしが、其弟子のうち三人まで来りし人有し。⋯桂川甫周様など日ごとのやうに御こし。其書をかさねる時など、ヲランダの一、二を見分など被成し」とあり、全国から平助に会うために人が集まっていたそうです。

平助は面倒見の良い性格であったようで、『事実文編』には「其の家食客常に絶えず、賭博の徒と雖も皆善く之を遇す。是に於て窮人相告げて來寓」した、とあります。『海国兵談』で有名な林子平もその一人でした。大槻如電の小伝には、子平は「常に之(平助)に兄事すと云ふ。子平の四方を周遊するや、江戸に来れば則ち必ず球卿を主とし、相共に天下の形勢を論究」したといい、子平が海防問題に意識が向くようになったのは平助の影響が大きかった、と書かれています。また、『仙台人物史』には、平助が子平について「子平は疎頑(おろかで世事にうとい)と雖も心術(心の持ち方。心ばえ)の見るべきものあり」と評価した、ということも書かれています(でもけっこう厳しいこと言ってますよね💦)。

平助は世の事をただ論じるだけでなく、実際に藩の政務にも参画していたようで、『仙台人物史』には、「『管見録』(『北門叢書1巻』(昭和18-19年刊)は「かれの著書『管見録』は不幸にして今見当らず」と記す)を著はして、当世の急務を論じ、之を重村公に上る。公見て深く其取るべきを知り、大に用ふる所あらんとす。是に於て命を奉じ髪を蓄へて名を平助と改む。時に年四十。爾來政務に参与し、小姓頭より出入司(『北門叢書1巻』は「出入司とは仙台藩特有の官職で、藩政運用の幹部たる奉行を輔佐し、財務の事を司つたもの」と記す)に累遷し才量益々著る。然れども持論專ら公平を主とし、時に権変に涉ると誰も、概ね時俗に迎合せず。為に言ふ所は十の一も行はれず。識者之を惜む」と書かれています。

また、医業関係においても藩の仕事に携わっており、大槻如電の小伝には「寛政(1789~1801年)の初め、進んで侍医と爲り、同僚大槻玄沢(号は磐水。如電の祖父。1757~1827年)と約して親族と為る。六年(1794年)九月、二人君命を奉じて、仙台封内出す所の薬物三十種を検し、其の真否精粗を定め、大に其の旨を称す」とあり、藩内に産出する薬種(薬効のある植物)調査に当たっていました。

さて、その中で平助はいかにして『赤蝦夷風説考』を著すに至ったのでしょうか。

その経緯について記してくれているのが『むかしばなし』で、それには、

父様をば田治時代の人は大智者とおもゑて有しとぞ。或時公用人とさしむかひにて用談終て咄(はな)しの内、用人いふ。我主人は富にも禄にも官位にも不足なし。此上の願には、田沼老中の時、仕置たる事とて、ながき代に、人の為に成事をしおき度願なり。何わざをしたらよからんかと問合せしに。父様御こたへに、夫(それ)はいかにもよき御心付なり。さあらば国を広くするくふうよろしかるべし。夫はいかゞしたる事ぞ。(答)夫蝦夷国は、松前より地つゞきにて、日本へ世ゝ随ひ居る国なり。日本を広くせしは、田沼様のわざとて、永々人のあをぐ事よと被仰しかば、文盲てやい(手合)は、はじめてかようの事をきゝ、恐れ入し了簡なり。いざさらば其あらまし主人へ進上度し。一書にしていだされよといひし故、父様書で出されしを随分うけもよく感心有て、其奉行に父様をなさんといひしとぞ。

…とあり、時の権力者田沼意次の用人(金銭の出納や雑事などの家政をつかさどった者)から、「殿は長く残る、世のためになる仕事がしたいと言っておられる、何をすればよいと思いますか」と聞かれ、平助が「それは国土を広くすることが良く、場所は蝦夷地が適当でしょう」と答えると、用人がその策について書物にしていただきたい、と頼んできたことが、『赤蝦夷風説考』を書くきっかけであったようです。

一方で『北方未公開古文書集成 第3巻』には、老中の田沼意次が内政の困難を外に転じさせる支配者の国民操縦の手に使ったのかも知れない。田沼が用人を介して、工藤平助に頼みこんで、一本を書かせたとの説もある位だから、案外そんなところだったのだろう」とあり、当時、浅間山噴火、天明のききんなどが起こり、不穏な状況であったので、人々の不満をそらさせるために『赤蝦夷風説考』を書かせたのではないか、と推測しています。内政で苦しい時は外に目を向けさせるのが政権のとるよくあるやり方ですよね💦

つまり、『赤蝦夷風説考』は人々の関心の的を移させるような、センセーショナルな内容であったということになります。それはいったいどんなものであったのか、見ていくことにしましょう。

●『赤蝦夷風説考』

『赤蝦夷風説考』は上下2巻からなるのですが、『北門叢書1巻』には、「かれは先に書いて置いた部分を下巻となし」、依頼を受けて新たに書いた「かれの意見書である上巻の部分」に「序文を附して天明3年(1783年)正月これを完成した」とあります。

また、「書名は最初「加模西葛杜加風説考」といつたらしく、それは現に内閣文庫所蔵「蝦夷地一件」中に収められてゐるものを見ると、原名「加模西葛杜加風説考」とあつたのを、二本の朱線で加模西葛杜加の六字を抹消し、傍らに「赤蝦夷」と訂正してゐることから判断される」と書かれていて、書名は最初『赤蝦夷風説考』ではなかったようです。

ではこの「加模西葛杜加」というのはいったい何なのでしょうか?

平助は次のように記します。

…松前人の物語を聞くに、蝦夷の奥丑寅(北東)に当りて国有り。赤狄といふ。…これをあかゑぞとも、あか人とも、人ゑぞとも、惣名にてはおくゑぞともいゝ習はせるよし。…赤蝦夷の国も、カムシカットとも、カムスカトカともいふ。こなたの好事の輩並に長崎人などの昔よりいゝ習わせる所なり。その根元は、万国地図唐山反訳に加模西葛杜加と有り。この儀はこの国の事を紅毛の文字にて



と有るもその儘(まま)にて、ひろひかな(拾い仮名。万葉仮名のような当て字の事)に反訳して加模西葛杜加と書くなり。…(松前人はこれを「カムサスカ」と呼ぶが、これは、)たとへば、ほととぎすも聞に、ほんそんかけた(本尊かけた)と書しるすなれど、てつぺんかけたるとも、不如帰とも、郭公とも、皆その聞人の心によりて、いづれもほとゝぎすの調子にはかなわず。このカムサスカもその通りにて、松前人の耳にカムサスカと聞ゆれば、それを証拠にしてカムサスカと記がよし。…ホルランデヤを日本にてはヲランダと聞、唐にては和蘭(ワウラン)と聞がことし。さすればカムサスカと記してよし。…万国地図もみるに、カムサスカの地、赤ゑぞなる事明らかなり。しかれば赤蝦夷はカムサスカといふ国としるべし。…

「加模西葛杜加」とは北海道の北東の日本では「赤蝦夷」と呼ぶ「カムサスカ」のことだというのですが、つまりこれは「カムチャツカ半島」のことでしょう。

…然るに(赤蝦夷[カムサスカ]から)近来漂流と号して、折々ゑぞの地、「ウラヤシベツ」(網走市浦士別浦士別)「ノツシヤム」(根室市納沙布)の辺え着船す。その有様むかしとは事かわり、船の作りおらんだ船の通りして、人物衣服の仕立おらんだ人に類して、羅紗 天鳶絨 猩々緋の類を着し、通詞もつれ来る。ゑぞ通詞 日本通詞ありて、日本の言葉を遣ひ、かたかなをかき、何事も通ぜずといふ事なし。ゑぞ通詞もよくくちゑぞ言葉をつかひて能く通弁す。きせるのラウ(羅宇。キセルの火皿と吸い口とをつなぐ竹の管)などに、片かなにて、三十一文字の歌など焼印の様につけたるもあるよし。いかなるわけかとたづぬるに、通詞のいふ様、むかしより日本人この国にふきながされて来る時、厚くいたはりて妻縁をさづけ、子孫日本言葉をよくいひ、日本事に通するを家業とすなり。『タツコイ』といふ国に一郭をかまってこれを撫育す。我々も先祖は日本人なるよし物がたり、その国の名をたつぬれは『ヲロシヤ』といふ。船中に丁子、肉桂、沈香、胡椒、砂糖の類品々有り、羅紗猩々緋、びろうとの類、サラサ類、その外、諸器物類も有るよし。舟中、食器、手道具、銀器多く、至て美々しく、きらびやかなる事のよし。…

赤蝦夷方面からやってくる者の様子が変わり始めた、オランダ人と変わらない船の作り、衣服を着ている…しかも日本語を通訳できる者もいて、聞けば先祖は日本人だという、どこの国から来たかといえば「ヲロシヤ」だという。

この「ヲロシヤ」…ロシアの事ですが、これについて平助は次のように記します。

1744年、延享二(正しくは元)年開板(発行)のベシケレイビング・ハン・ルユスランド(これ書籍の名なり、ルユスランド国の事を書しるすといふ事なりベシケレイは記録といふ事、ハンは助字にて「の」の字に当る。)、1769年、明和七(正しくは六)年、開板のゼヲガラアヒ(万国のことを記す書といふ事なり。)この二書の内にて考るに、




といふ国なり。しかるを松前人の耳に聞にはヲロシヤと聞く。これ又前条のほとゝぎすのことわりあひゆへ、松前人の耳にまかせてヲロシヤと書記すなり。…一名ルユツシイン、一名ルニスランド この国の都の名ムシクハ又モスコヒイン又モスコウヒヤ又ムスカ〇ウといふ。これ即こなたにて昔より唱る所のムスコビヤにて、惣名をヲロシヤといふとしるべし。ヲロシヤの国古代は欧邏巴(「エロウロハ」)堺在国なりしが、段々はびこりて今は東西百七十度余に至りて大世界の一半も保つ、西は欧邏巴の堺中の隣国も蚕食し、東は亜細亜(「アシヤ」)堺韃而靼(「タツタン」)の故国、シベリヤ(シヘリイとも云)の地北海を限りにて残らず伏従せしめて、北亜墨利加(「キタアメリカ」)堺カムサスカ赤狄の地並に赤ゑぞよりくちゑぞにつゞきたる島々及び奥ゑぞカラフトの北サガリインの島まで一円に一国となりて各代官を置、街道を開き、河道を通じ、海舶を達して大貨殖を致す。…これによって、万国の産物何にてもなき物はなしとぞ、あかゑぞの船に珍物品々ある事、これにてわかりたり。…

このロシアの拡大について、平助は「ゼヲガラーヒ」を用いながら下巻に次のように記しています。

…一千年以前よりこの国を保て、王号を称する国なり。王城のこれある都を、ムスカウと称す。故に国をムスカウビヤとも称するなり。欧巴堺の国なり。紅毛1514年 永正8【正しくは11】年、帝号を称す。それより次第に強国となる。

1550年 天文19年、トホルスカヤ【トボルスク】を頷す。これは東方亜細亜の堺内なり。

1552年 天文21年、カサン【カザン・ハン国】を伏従す。

1554年 天文23年、アストラカン【アストラカン・ハン国】を伏従す(カサンは北高海【カスピ海】の西北なり。アストラカンは、北高海の北浜なり)。

1644年 寛永17年、イルクツコイ【イルクーツクか】を伏従す(これは亜細亜の堺内なり)。

1689年 貞享【正しくは元禄】2年、ネルトシキンスコイの内、ネルトシキ【ネルチンスク】といふ所に城を築き、唐土との境を固くす。城とは長城の儀なり。長城に関をすえて、ここより唐土の北京とヲロシヤの皇城と使幣を交ゆ(ネルトシキンスコイこれ韃而靼のうしろの国なり。即ちいにしへの韃而靼の故国なり。)。

1713年 正徳4【正しくは3】年、カムサスカも伏従す(これ則アカエゾなり。)。

1724年 享保10【正しくは9】年、カビタン某カムサスカの辺の島に来りこれを領す(これは赤ゑぞとくちゑぞとの間の千島の内の島なるべし。)、

1730年 享保15年、女帝アンナの時、カムサスカ反し、ほどなくしたがふ。…それより年々貢物を出す。人一人毎に獣皮一つを貢ぐといふ。

蝦夷と『カムサスカ』との間に千島とて島々あり。この島をも享保の頃より段々多く手に入て城郭などをかまへたるとなり。

ゑぞのすへ、カラフトの北にサカリイン【サハリン、樺太のこと】といふ大島あり。日本の九州の地ほどもあるか。この地もヲロシヤの所領なりとぞ、【実際ロシア人がサハリン(樺太)に入植したのは1853年とだいぶ後】

平助はロシアの拡大について紹介した後、

蝦夷をとりまきてカラフトの末、西北より東に及て皆ヲロシヤの境地なり。おそるべ」「かくのごとくの記事をみれば、破竹の勢とみゆ。おそろし」と感想を記しています。

このロシアについて、オランダは幕府に次のように報告していたようです。

…赤蝦夷の事を『ヲランダ」に尋るに、種々の説を云て、とかく日本え対して隠謀あるよしをいふ。この事に付御注進をも申上たき心底のよし、おらんだ通詞の物語なりしに、天明二年の風説書に、『リユス』と申す国、日本え対し隠謀あるよしの事を申上たりと風説承る。『リユス』国と申すは、即、「ヲロシヤ」の事にて、赤蝦夷「カムサスカ」国の事なり。…

ロシアが日本侵略を企んでいるというのですね💦これに対して平助は次のように推測しています。

…右風説書の一段信用しがたき事どもなり。…しきりに反逆隠謀ある由を申し唱る事不審の第一なり。よしそのきざし有とても申まじきすじなるに、まして前後の次第にて考る中に軍兵にもおこして大合戦に及ぶべき事にはおもはれず、…私に考るに、日本の金銀 銅多き事を知るゆへに、何とぞ交易をしたきの心これあり、もっともおらんだは日本と交易するゆへに、…万一その通りになりては『ヲランダ』国の衰微に及ぶ事ゆへ、何とぞこの後共に日本と『ヲロシヤ』と通路なき様にと念願して、種々の雑説を申ふらすかとおもはるゝなり。その子細は、『ヲランダ』人日本と交易の品々は皆南国より出るものなり。『ヲランダ』は極北国にて、本国の物とては細工ものばかりなり。これにより海上数万里をのり廻りて雑用も多くかゝるゆへ、買出し物の値段も次第有る事なり。又『ヲロシヤ』の国は、赤蝦夷迄は領分中の地つづきにて、赤蝦夷より日本へは、海上へだたるといへと島続にて、内海同然なりよしなり。…皆領分の内を通行するゆへ、その品々を日本へ送る事、掌の中にめぐらすが如くならん。又『ヲロシヤ』より唐えの通路は三筋ありて、交易も使幣も互にある事故、唐物類は多く北京口より運漕するなり。かくのごとく成ゆへ、諸式の値段格別下値成べき間、一度交易はじまらば、唐紅毛の長崎交易は、不益成物と成べきと遠察するゆへに、かくのごとくにさまざまの事を申しふらして、我国あざむきて、末々とも『ヲロシヤ』としたしくならぬ様にとする事か。…

ロシアと日本が貿易を始めると、領内を通して悠々と日本と貿易できるロシアは、海上を長距離運送するオランダの品物と比べ安く売ることができるので、オランダの売り上げが落ちてしまう。これを防ぐためにオランダはロシアに陰謀があるから貿易をすることの無いように、と言ってくるのではないか…と平助は考えているのですね。鋭い見立てと言えるのではないでしょうか😕

そして平助は次のように意見を述べます。

又日本にての心得をいわば、いづれにも一通りの通路はあるべきことなり。昔は、一通りの島ゑびすにて、無智蒙味の者どもゆへ、今の蝦夷人も同前なれば打すてても有るべし。かくのごとき大国になりては、一通りの御要害を申すにも、いづれの国よりも恐しき国なるに、…何事をくはだつるのも夢にもしらず打捨ておくべき事にはあらぬ事なり。これにより、ねがわくは、細吟味これあり、いよいよもって、この考の通相違無き事ならば、一通り通路ありてよろしき事なり。只今の分にては、いつまでもおもて立事はあるまじきなり。又抜荷(密貿易)の次第はしれがたきと申す内、もはや内々はこれあるかの様に察せらるゝなり。この抜荷のふせぎかた、はなはだ六ヶ敷(むつかしき)事なり。…このまゝに打捨あらば抜荷は段々功者に成て何程も出べきなり。これ等の事を考るに、表立ての交易これあるより外にはなし。交易あればその向の人情も知れ、風土もしるゝゆへ、それに向ての手当もあるべし。又その寸分をいはば、蝦夷には金山多きよし、世のいふ所なり。昔、僕の親の友にこの事を志してちからを尽したるよし。ゑぞの砂金なりとておくりたるも見たり。又松前人の物語を聞に、松前よりも昔より世話もこれあり、僕のしる人の親もこの役にて蝦夷地金山にかゝりたるよし。昔は芝したの金も多くこれあるよし。今これある所は砂金にて水中にあり。至て悪場にて、出金入用につぐのはず。その外銀山銅山もこれあるよしなれど、入用に引合はずとてほる事なしと承る。一通りの物語にて慥なることにはなし。さもあるべきかとのみおもひすぐす所なり。この一件の考に及ぶ時は、しらべ見届たき事なり。実語金 銀 銅これあるならば、この金 銀 銅を掘らしめて、これを以て『ヲロシヤ』と交易あり、交易の利潤を以、山方に入る程ならは、何程入用かゝりても興行これあるべき事なり。その子細は『ヲロシヤ』より来る所の産物、薬種類、この国に入るには、蝦夷の金銀銅に替る物ゆへ、それ丈けの国家の潤沢となり、又唐紅毛の交易にも、我国の『ヲロシヤ』との交易の事をしれば、心のはげみにて、諸色も格別下値に相成るべく、銅渡し高も減少あるべきなり。又この交易の値段をもって、唐 紅毛の値段につき合せみれば、唐紅毛の本値段、年々の相場共に明らかにしるべき事なり。又これ迄唐方は俵物を好む事国の近きゆへなり。紅毛の俵物をこのまぬは国の遠きゆへなり。『ヲロシヤ』は大国にて、城下は違国なれども、カムサスカは近国の上に極北辺なれば、我国の俵物 米酒 塩の類はいのちに懸て好む所ゆへ、交易はじまらば俵物替ばかりにても大方は事済むべし。されどヲロシヤの本心は、我国の金 銀 銅にめをつくるとおもはるゝ。カムサスカの地付の島夷の心得とは、格別成事と見極めて置べき事なり。よしやヲロシヤとの交易、通路はなくとも、ゑぞの金銀銅を以て、唐紅毛の交易となれば、それだけに国の潤ゆえ、入用に引合ぬとて捨置場所にはあらぬ事なり。いづれ我国をゆたかにするには、この手段にしく事あるべからず。又『ヲロシヤ』の大国なるを恐れて通路をせぬといふ理はなし。しらべなければしろしめされぬは断なり。しらべなさは安心ならざる事なり。又宗門の吟味も打やりにしてはいかゞなり。さて、しらべ済みての後の手段は、奉行持にして、年々交代あるべし。交易の場所も細吟味なくてはしれがたし。又このまゝにして捨置けば、抜荷は年々出増し申すべし。とかく年々ヲロシヤの者来る事とみゆるゆへ、利を好むは人情にて、抜荷は倍増すべき事なり。このゑぞ口の抜荷に禁じがたき所あり。松前のみにては下知も行届べからず。又松前産物買出のため、諸国のもの常に入込所故、抜荷の売捌は八方なり。又東海の海路を覚て琉球と交易する段に到りては、尚知れがたき所なり。紅毛書にて考るに、ヲロシヤの日本と交易を好むは数十年以前よりの趣向とみゆるゆへ、いか様な事をしても交易すべきの心ありとおもはるゝなり。かくのごとくの次第ゆへ、かたがたに奉行を置いて支配これなくては、禁制しがたき事ゆへ、この幸便をもって、日本の富栄ん事を求るに、かくゑぞの出産物を吟味するにしくはなし。ゑぞの地の金 銀 銅をもって、我国の入用薬種そのほか国用に相成るべき程にこれあり、これにより年々異国渡りの銅をはぶき、抜荷禁制の御法令行届ものならば、数十年の内、国家のゆたかなること、 掌をさすがごとくならんかし。惣じて国を治るの第一は、我国のちからをあつくするにあり。国のちからをあつくするには、とかく外国の宝をわが国に入るが第一といふべし。外国の金 銀 銅をわが国に入る事は、外国人の専一とする所にて、その心を用いて出精すること、中々我国の心駆け引へつはならぬほねおりなり。これによりとても及ばざるなり。さて日本のちからを益には、蝦夷の金山を開らき並にその出産物を多くするにしくはなし。ゑぞの金山を開く事、昔より山師ともの云ふらす所なるが、入用と出高と相当せず、これによりすたれ有る所なり。然るに、前にいふ所の「ヲロシヤ」と交易の事おこらば、この力を以て開発有度事なり。この開発と交易とのちからをかりて、ゑぞ一国を伏従せしめば、金 銀 銅にかぎらず、一切の産物、皆我国の用をたすくべし。右交易の場所、あながちゑぞ地にもかぎるまじ。長崎をはじめ惣じて要害よき湊に引受てよろしき事なり。右に申す通り、日本のちからを益事、蝦夷にしく事なし。このまゝにすておきて、『カムサスカ』のもの共ゑぞ地と一所になれば、蝦夷も『ヲロシヤ』の下知に附従ふゆへ、もはや我国の支配はうけまじ。然る上は悔てかへらぬ事なり。下説に様々の風説を聞に、東北ゑぞのかたは、段々『ヲロシヤ』になつきしたがふと承る。かくのごとき実説にて、一旦「ヲロシヤ」にしたがひては、ちからおよばぬ事なれば、これ迄の様にしてはさしおきがたき事とおもはるゝなり。只今迄の通りにて、通路なければ何事をするも知れぬ事なり。前にいふ所の我国のちからを益国とてゑぞにしく事なし。これにより心をつくすべき事なり。如何様の国益を考るとも、我国の内計りにての手段工夫にては、はかばか敷き事はあるまじきなり。ましてかくのごとく段々の次第あれば、打捨おきがたき時節といふべきか。すべて抜荷禁制の一件は僕が多年工夫する所なるが、これヲロシヤの手筋の抜荷、只今迄の仕法にては決して禁制しがたき訳合なり。いづれ慥に穿鑿して糺したきものは、蝦夷の金山と、ヲロシヤの振舞なり。ゑぞの金山よりの出金百両を得て、ヲロシヤの千両の品と代る事なれば、随分掘続く事なるべきなれば、この書の評議はここにとゞまりぬ。されど、千両 弐千両の出高にては、一ヶ年交易の高に引あわぬ事ゆへ、唐 紅毛交易にゆづろひあはせせて、取立る事ならぬは、成就しがたかるべきか。さて又、前に申す所のゑぞの金山掘方入用の事は、他の金山と事かわりたる子細有り。ゑぞ地、金、銀通用これなく、只、米、酒、塩、たばこの類ばかりを好むゆへ入用と申すに、金銀は費へず、只山内はたらきの人の給分入用ばかりにて、これも地付のゑぞを交えてはたらくゆへ、給分は皆俵物にて、正金は入らぬ見込なり。夫ゆへ入用多くかゝりても、掘出高をもって交易金のたすけと成すべきなり。…

けっこう長いですが、要約すると次のようになるでしょう。

①ロシアは勢力を次々と拡大させている恐ろしい国であるから、放置することなく、日本への侵略を考えているのか、それとも単に貿易がしたいだけなのか、調べないといけない。

②私はロシアには侵略の意思はなく、貿易をしたがっているだけだと考えるが、私の考え通り、侵略の意思がないと確認できれば、貿易すべきである。

③今は密貿易が問題(貿易により日本の金銀銅が流失するため)となっているが、正式な貿易が開始されれば、密貿易も止むはずである。

④蝦夷では金が豊富に取れるという。蝦夷の特産物と合わせてこれをよく調査すべきである。これらを以て貿易をすれば、日本の銅の流失を抑えることができる。

⑤現在、蝦夷の金山開発は、収入と出費が見合わないということで進んでいないが、ロシアとの貿易が始まれば出費以上の収入が見込めるので、開発も進むであろう。

⑥貿易と開発が進めば、蝦夷は自然と日本に従うだろう。逆に放置すれば、蝦夷はロシアの物となり、日本の言うことを聞かなくなるだろう。そうなっては後悔しても遅いのである。

⑦日本の国力を増す国は、蝦夷をおいて他にない。国力を増そうと思っても、何事も国内だけでは限界がある。

⑧蝦夷の者がロシアになびきつつあり、密貿易も盛んになりつつある今、この問題を放置すべきではない。

さて、この『赤蝦夷風説考』が完成すると、「工藤の熱烈な支持者であった松平【松本の誤り】伊豆守」(『北方未公開古文書集成 第3巻』)が天明4年(1784年)5月23日に『赤蝦夷風説考』の内容を要約した『赤蝦夷之儀に付申上候書付』を幕議に提出、これを受けて天明5・6年に最上徳内などによる蝦夷地調査が実施されることになりました。

このまま進めばロシアとの貿易が始まることになったかもしれません。『むかしばなし』によると工藤平助は田沼意次から蝦夷地の奉行に指名されていたといいます。

しかし1786年に田沼意次が失脚するとすべては水泡に帰すことになりました。

それどころか新しく老中となった松平定信により、『海国兵談』を著して海防問題に警鐘を鳴らした林子平が処罰され、『海国兵談』の序文を書いていた工藤平助も連座するかと思われたのですが、これは辛くも免れることができました(『事実文編』には「時人謂く、子平の事球卿に連る有り、必ず免れずと。球卿之を聞くも以て意と為さず、而して官亦た置いて問はず。」とある)。

その後、工藤平助は寬政12年12月(1801年1月)に亡くなります。大槻如電の小伝には「享年69」、『仙台人物史』には「享年67」とあります。大槻如電を信じるならば生まれは1732年、『仙台人物史』を信じるならば生まれは1734年ということになります。

平助死後の事について、『事実文編』は次のように伝えています。

「其の著述若干巻、蔵して家に在り、蓋し皆觸■(一字欠)の言、子孫之を恐れて人に出視せず、故に子平の名世に藉いて、而して復た球卿を知る者有る無し」

幕府からの処罰を恐れて、子孫は平助の著作を奥深くしまって表に出さなかった、そのため、有名な林子平を知る者はあっても、平助を知る者はいなくなった、…というのですね。残念なことですね(-_-;)

平助が再び世に知られるには、明治時代を待たなくてはいけませんでした…。


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