あ大河ドラマ『べらぼう』21話「蝦夷桜上野屁音」に『赤蝦夷風説考』を書いた工藤平助が登場しましたね!
高校で習ったものの、その内容は調べるまでよく分かっていませんでした💦
幕府の方針を転換させたという『赤蝦夷風説考』、その内容とは⁉
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●工藤平助(1732?~1801年)工藤平助の「平助」は通称であって、本名(諱)は球卿(きゅうけい)であったようです。しかし、幕末~明治初期に書かれた『事実文篇』(1849~1881年)には、「工藤平助、名は某、字は球卿」とあり、よくわかりません。
大槻如電(1845~1931年)の書いた小伝には「工藤球卿、字は元琳、平助と称し、萬光と號す」、『仙台人物史』(1909年)には「工藤球卿子は元琳、通称周庵、萬光と號す」と書かれています。
『仙台人物史』によると通称は平助でなく周庵とあるのですが、「髪を蓄へて名を平助と改む。時に年40」とあり、40歳の時に名前を平助に改めた、としています。
「周庵」というのはいかにも医者の名前ですよね。中川淳庵や緒方洪庵がいます。
その通り工藤平助は医者で、父は紀州藩医の長井大庵(常安)でした。あれ?名字が違う?というのは、仙台藩医の工藤丈庵にその才を見込まれて13歳の時にその養子となったからです。遠い紀州藩と仙台藩にどうやってつながりが…?と思うのですが、当時はどの藩も江戸に藩邸があり、両者は江戸で働いていたので同じ藩医同士、つながりもあったのでしょう。
平助は21歳の時養父の後を継いで藩医となります。『仙台人物史』ではこの時剃髪していて坊主頭だったということですが、大槻如電の記した小伝には「球卿敢て髪を削らず、且つ通称平助を以て行ふ。藩之を俗医師と謂ふ」とあり、医者名を用いず通称のまま、さらに剃髪もせず髪を蓄えたまま医者業を行なった、とあり、よくわかりません💦
医者業については、大槻如電は「球卿能く家業を伝へ、医療懇篤、…是を以て侯伯權貴、士庶富豪に至るまで延請絶えず、治を乞ふ者門常に市を成す」と記し、親切で手厚い治療をしたので、治療を願う者がたくさんいた、としているのですが、『事実文編』には「性医務を喜ばず。訟を弁じ、難に赴くを任と為す。家築地に住す。都下の富人争訟有る毎に、必ず球卿に請ふてて之を代弁せしむれば、訟輙ち勝ち、人皆之を德とす」とあり、医者業には熱心ではなく、それよりも関心があったのは訴訟で、人の弁護をすることを楽しみとしていた、とあります。どちらが正しいかはよくわかりません💦
『事実文編』によると、金持ちが関わる訴訟にも関わってこれを度々勝利に導いたため、平助は金持ちからお礼として「千金を得ること二たび」という大金を得たのですが、本人は「見る者驚異すれども、球卿之を視る蔑如たり」と別にうれしく思っていない顔を見せていたようです。大槻如電によれば、「資産頗る豊に、性又た多力、座左常に千両箱を置き、隻手容易に之を運ぶ。人来る有れば則ち曰く、誰か能く之を挙ぐる者には、吾れ乃ち之を与へんと」…片手で千両箱(造幣局によれば約20㎏)を運んでみせ、客が来れば、同じようなことができたらこれを与えよう、と言っていたようで、ここからもお金に汲々としていなかったこと、また、かなりの力の持ち主であったことがわかります。
それだけでなく、『北門叢書1巻』によると平助は多才であったようで、「多能にして製造の事に精しく、意匠常に規矩の外に出でざるあれば、推考一再、忽にして機器立ろに成る。西洋製器械の如きも亦能く之を模成せり。又篆刻を善くし、重村、齊村二公の印章敷顆は、皆其刻する所なり。而して性左手を便とし、彫刻製図皆左手に成る。且つ割烹を嗜み、二公に調進す。其味割烹人の及ぶ所にあらず。世呼びて平助料理と稱す」とあり、工作、篆刻(ハンコ作り)、料理も上手にできたようです。
また、平助は勉学にも励んでおり、『北方未公開古文書集成 第3巻』(1978年)によると「金があるに任せて、容易に手に入らない蘭書などを多数買いこんで読破した」そうです。また、儒学を青木昆陽・服部栗斎、蘭学を前野良澤・吉雄耕牛、北方問題を元松前藩勘定奉行の湊源佐衛門に学びました。
その結果、平助の学名はとみに向上したようで、平助長女の只野真葛が記した『むかしばなし』には「父様御名のひろまりしは二十四、五よりのことなり。三十にならせらるゝ頃は、はや長崎、松前など遠国より、高名をしたひて御弟子にと心ざして入来りし。吉雄幸作といひしヲランダつうじ、父様御想意なりしが、其弟子のうち三人まで来りし人有し。⋯桂川甫周様など日ごとのやうに御こし。其書をかさねる時など、ヲランダの一、二を見分など被成し」とあり、全国から平助に会うために人が集まっていたそうです。
平助は面倒見の良い性格であったようで、『事実文編』には「其の家食客常に絶えず、賭博の徒と雖も皆善く之を遇す。是に於て窮人相告げて來寓」した、とあります。『海国兵談』で有名な林子平もその一人でした。大槻如電の小伝には、子平は「常に之(平助)に兄事すと云ふ。子平の四方を周遊するや、江戸に来れば則ち必ず球卿を主とし、相共に天下の形勢を論究」したといい、子平が海防問題に意識が向くようになったのは平助の影響が大きかった、と書かれています。また、『仙台人物史』には、平助が子平について「子平は疎頑(おろかで世事にうとい)と雖も心術(心の持ち方。心ばえ)の見るべきものあり」と評価した、ということも書かれています(でもけっこう厳しいこと言ってますよね💦)。
平助は世の事をただ論じるだけでなく、実際に藩の政務にも参画していたようで、『仙台人物史』には、「『管見録』(『北門叢書1巻』(昭和18-19年刊)は「かれの著書『管見録』は不幸にして今見当らず」と記す)を著はして、当世の急務を論じ、之を重村公に上る。公見て深く其取るべきを知り、大に用ふる所あらんとす。是に於て命を奉じ髪を蓄へて名を平助と改む。時に年四十。爾來政務に参与し、小姓頭より出入司(『北門叢書1巻』は「出入司とは仙台藩特有の官職で、藩政運用の幹部たる奉行を輔佐し、財務の事を司つたもの」と記す)に累遷し才量益々著る。然れども持論專ら公平を主とし、時に権変に涉ると誰も、概ね時俗に迎合せず。為に言ふ所は十の一も行はれず。識者之を惜む」と書かれています。
また、医業関係においても藩の仕事に携わっており、大槻如電の小伝には「寛政(1789~1801年)の初め、進んで侍医と爲り、同僚大槻玄沢(号は磐水。如電の祖父。1757~1827年)と約して親族と為る。六年(1794年)九月、二人君命を奉じて、仙台封内出す所の薬物三十種を検し、其の真否精粗を定め、大に其の旨を称す」とあり、藩内に産出する薬種(薬効のある植物)調査に当たっていました。
さて、その中で平助はいかにして『赤蝦夷風説考』を著すに至ったのでしょうか。
その経緯について記してくれているのが『むかしばなし』で、それには、
…父様をば田治時代の人は大智者とおもゑて有しとぞ。或時公用人とさしむかひにて用談終て咄(はな)しの内、用人いふ。我主人は富にも禄にも官位にも不足なし。此上の願には、田沼老中の時、仕置たる事とて、ながき代に、人の為に成事をしおき度願なり。何わざをしたらよからんかと問合せしに。父様御こたへに、夫(それ)はいかにもよき御心付なり。さあらば国を広くするくふうよろしかるべし。夫はいかゞしたる事ぞ。(答)夫蝦夷国は、松前より地つゞきにて、日本へ世ゝ随ひ居る国なり。日本を広くせしは、田沼様のわざとて、永々人のあをぐ事よと被仰しかば、文盲てやい(手合)は、はじめてかようの事をきゝ、恐れ入し了簡なり。いざさらば其あらまし主人へ進上度し。一書にしていだされよといひし故、父様書で出されしを随分うけもよく感心有て、其奉行に父様をなさんといひしとぞ。
…とあり、時の権力者田沼意次の用人(金銭の出納や雑事などの家政をつかさどった者)から、「殿は長く残る、世のためになる仕事がしたいと言っておられる、何をすればよいと思いますか」と聞かれ、平助が「それは国土を広くすることが良く、場所は蝦夷地が適当でしょう」と答えると、用人がその策について書物にしていただきたい、と頼んできたことが、『赤蝦夷風説考』を書くきっかけであったようです。
一方で『北方未公開古文書集成 第3巻』には、「老中の田沼意次が内政の困難を外に転じさせる支配者の国民操縦の手に使ったのかも知れない。田沼が用人を介して、工藤平助に頼みこんで、一本を書かせたとの説もある位だから、案外そんなところだったのだろう」とあり、当時、浅間山噴火、天明のききんなどが起こり、不穏な状況であったので、人々の不満をそらさせるために『赤蝦夷風説考』を書かせたのではないか、と推測しています。内政で苦しい時は外に目を向けさせるのが政権のとるよくあるやり方ですよね💦
つまり、『赤蝦夷風説考』は人々の関心の的を移させるような、センセーショナルな内容であったということになります。それはいったいどんなものであったのか、見ていくことにしましょう。
●『赤蝦夷風説考』
『赤蝦夷風説考』は上下2巻からなるのですが、『北門叢書1巻』には、「かれは先に書いて置いた部分を下巻となし」、依頼を受けて新たに書いた「かれの意見書である上巻の部分」に「序文を附して天明3年(1783年)正月これを完成した」とあります。
また、「書名は最初「加模西葛杜加風説考」といつたらしく、それは現に内閣文庫所蔵「蝦夷地一件」中に収められてゐるものを見ると、原名「加模西葛杜加風説考」とあつたのを、二本の朱線で加模西葛杜加の六字を抹消し、傍らに「赤蝦夷」と訂正してゐることから判断される」と書かれていて、書名は最初『赤蝦夷風説考』ではなかったようです。
ではこの「加模西葛杜加」というのはいったい何なのでしょうか?
平助は次のように記します。
…松前人の物語を聞くに、蝦夷の奥丑寅(北東)に当りて国有り。
と有るもその儘(まま)にて、
「加模西葛杜加」とは北海道の北東の日本では「赤蝦夷」と呼ぶ「カムサスカ」のことだというのですが、つまりこれは「カムチャツカ半島」のことでしょう。
…然るに(赤蝦夷[カムサスカ]から)近来漂流と号して、折々ゑぞの地、「ウラヤシベツ」(網走市浦士別浦士別)「
赤蝦夷方面からやってくる者の様子が変わり始めた、オランダ人と変わらない船の作り、衣服を着ている…しかも日本語を通訳できる者もいて、聞けば先祖は日本人だという、どこの国から来たかといえば「ヲロシヤ」だという。
この「ヲロシヤ」…ロシアの事ですが、これについて平助は次のように記します。
…1744年、延享二(正しくは元)年開板(発行)のベシケレイビング・ハン・ルユスランド(
このロシアの拡大について、平助は「ゼヲガラーヒ」を用いながら下巻に次のように記しています。
…一千年以前よりこの国を保て、王号を称する国なり。王城のこれある都を、ムスカウと称す。故に国をムスカウビヤとも称するなり。欧邏巴堺の国なり。紅毛1514年 永正8【正しくは11】年、帝号を称す。それより次第に強国となる。
1550年 天文19年、トホルスカヤ【トボルスク】を頷す。これは東方亜細亜の堺内なり。
1552年 天文21年、カサン【カザン・ハン国】を伏従す。
1554年 天文23年、アストラカン【アストラカン・ハン国】を伏従す(カサンは北高海【カスピ海】の西北なり。アストラカンは、北高海の北浜なり)。
1644年 寛永17年、イルクツコイ【イルクーツクか】を伏従す(これは亜細亜の堺内なり)。
1689年 貞享【正しくは元禄】2年、ネルトシキンスコイの内、ネルトシキ【ネルチンスク】といふ所に城を築き、唐土との境を固くす。城とは長城の儀なり。長城に関をすえて、ここより唐土の北京とヲロシヤの皇城と使幣を交ゆ(ネルトシキンスコイこれ韃而靼のうしろの国なり。即ちいにしへの韃而靼の故国なり。)。
1713年 正徳4【正しくは3】年、カムサスカも伏従す(これ則アカエゾなり。)。
1724年 享保10【正しくは9】年、カビタン某カムサスカの辺の島に来りこれを領す(これは赤ゑぞとくちゑぞとの間の千島の内の島なるべし。)、
1730年 享保15年、女帝アンナの時、カムサスカ反し、ほどなくしたがふ。…それより年々貢物を出す。人一人毎に獣皮一つを貢ぐといふ。
蝦夷と『カムサスカ』との間に千島とて島々あり。この島をも享保の頃より段々多く手に入て城郭などをかまへたるとなり。
ゑぞのすへ、カラフトの北にサカリイン【サハリン、樺太のこと】といふ大島あり。日本の九州の地ほどもあるか。この地もヲロシヤの所領なりとぞ、【実際ロシア人がサハリン(樺太)に入植したのは1853年とだいぶ後】…
平助はロシアの拡大について紹介した後、
「蝦夷をとりまきてカラフトの末、西北より東に及て皆ヲロシヤの境地なり。おそるべし」「かくのごとくの記事をみれば、破竹の勢とみゆ。おそろし」と感想を記しています。
このロシアについて、オランダは幕府に次のように報告していたようです。
…赤蝦夷の事を『ヲランダ」に尋るに、種々の説を云て、
ロシアが日本侵略を企んでいるというのですね💦これに対して平助は次のように推測しています。
…右風説書の一段信用しがたき事どもなり。…しきりに反逆隠謀ある由を申し唱る事不審の第一なり。
ロシアと日本が貿易を始めると、領内を通して悠々と日本と貿易できるロシアは、海上を長距離運送するオランダの品物と比べ安く売ることができるので、オランダの売り上げが落ちてしまう。これを防ぐためにオランダはロシアに陰謀があるから貿易をすることの無いように、と言ってくるのではないか…と平助は考えているのですね。鋭い見立てと言えるのではないでしょうか😕
そして平助は次のように意見を述べます。
…又日本にての心得をいわば、
けっこう長いですが、要約すると次のようになるでしょう。
①ロシアは勢力を次々と拡大させている恐ろしい国であるから、放置することなく、日本への侵略を考えているのか、それとも単に貿易がしたいだけなのか、調べないといけない。
②私はロシアには侵略の意思はなく、貿易をしたがっているだけだと考えるが、私の考え通り、侵略の意思がないと確認できれば、貿易すべきである。
③今は密貿易が問題(貿易により日本の金銀銅が流失するため)となっているが、正式な貿易が開始されれば、密貿易も止むはずである。
④蝦夷では金が豊富に取れるという。蝦夷の特産物と合わせてこれをよく調査すべきである。これらを以て貿易をすれば、日本の銅の流失を抑えることができる。
⑤現在、蝦夷の金山開発は、収入と出費が見合わないということで進んでいないが、ロシアとの貿易が始まれば出費以上の収入が見込めるので、開発も進むであろう。
⑥貿易と開発が進めば、蝦夷は自然と日本に従うだろう。逆に放置すれば、蝦夷はロシアの物となり、日本の言うことを聞かなくなるだろう。そうなっては後悔しても遅いのである。
⑦日本の国力を増す国は、蝦夷をおいて他にない。国力を増そうと思っても、何事も国内だけでは限界がある。
⑧蝦夷の者がロシアになびきつつあり、密貿易も盛んになりつつある今、この問題を放置すべきではない。
さて、この『赤蝦夷風説考』が完成すると、「工藤の熱烈な支持者であった松平【松本の誤り】伊豆守」(『北方未公開古文書集成 第3巻』)が天明4年(1784年)5月23日に『赤蝦夷風説考』の内容を要約した『赤蝦夷之儀に付申上候書付』を幕議に提出、これを受けて天明5・6年に最上徳内などによる蝦夷地調査が実施されることになりました。
このまま進めばロシアとの貿易が始まることになったかもしれません。『むかしばなし』によると工藤平助は田沼意次から蝦夷地の奉行に指名されていたといいます。
しかし1786年に田沼意次が失脚するとすべては水泡に帰すことになりました。
それどころか新しく老中となった松平定信により、『海国兵談』を著して海防問題に警鐘を鳴らした林子平が処罰され、『海国兵談』の序文を書いていた工藤平助も連座するかと思われたのですが、これは辛くも免れることができました(『事実文編』には「時人謂く、子平の事球卿に連る有り、必ず免れずと。球卿之を聞くも以て意と為さず、而して官亦た置いて問はず。」とある)。
その後、工藤平助は寬政12年12月(1801年1月)に亡くなります。大槻如電の小伝には「享年69」、『仙台人物史』には「享年67」とあります。大槻如電を信じるならば生まれは1732年、『仙台人物史』を信じるならば生まれは1734年ということになります。
平助死後の事について、『事実文編』は次のように伝えています。
「其の著述若干巻、蔵して家に在り、蓋し皆觸■(一字欠)の言、子孫之を恐れて人に出視せず、故に子平の名世に藉いて、而して復た球卿を知る者有る無し」
幕府からの処罰を恐れて、子孫は平助の著作を奥深くしまって表に出さなかった、そのため、有名な林子平を知る者はあっても、平助を知る者はいなくなった、…というのですね。残念なことですね(-_-;)
平助が再び世に知られるには、明治時代を待たなくてはいけませんでした…。
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