※マンガの後に補足・解説を載せています♪
政府は、銅銭を何とかして流通させようと、和銅4年(711)~和銅6年(713)にかけて、次々と作戦を考えて実行していきます。
まず和銅4年10月23日に次の2つのことを発表します。
1つ目は禄法の改定。
禄法とは、1年に2度(春・秋)役人に支給する物を定めたものです。給料日は年2回だったわけですね。
改定される前は、二位の者は絁20疋・綿20屯・布60端・鍫80口が与えられていましたが、これを絁30疋・糸100絢・銭2000文に変更したのですね。
「二位」ってなんだ?というと、序列の等級を示す官位の事で、養老令では、正一位・従一位から始まり、正四位からは上・下が加わり、一番下のほうは正八位上・正八位下・従八位上・従八位下・大初位上・大初位下・小初位上・小初位下となっています。
上・下に分かれていない三位までになった者は公卿と呼ばれ、五位以上を貴族といいます。
そして、貴族や官僚たちは官位に応じて役職を与えられていました。これを官位相当制といいますが、きっちり守られていたわけではなく、裁量の余地がありました。例えば、少納言は従五位下の官位の者が担当する役職に当たりますが、藤原道長はそれより上の正五位下になってから少納言になっています。
さて、官位について説明したところで、和銅4年にこれらの官位に与えられることになった銭を記すと、三位は銭1000文、四位は300文、五位は200文、六位・七位は40文、八位・初位は20文、召使いや門番、雑用を任された舎人など下働きの者たちには10文…となっていました。
これは貴族や役人たちにまず率先して銭を使ってもらおうとしたものでしょう。
そしてもう1つが、あの有名な蓄銭叙位令(和銅4年12月20日条には「蓄銭叙位法」とある)です。
この蓄銭叙位令を出した理由について、詔には次のように書かれています。
…銭は、「有無を貿易」(余ったものや足りないものを売買)するために使うものであるが、人民は、これまでの習慣にとらわれてこれを理解できないでいる。まれに売買のために使う者がいても、銭を蓄えていない者がほとんどである。そこで、銭を蓄えた者に、その多少に応じて位を授けることにする。…
銭を使おうにも、まず銭を持っていないと使えない。そこで、銭を持つ意識を持たせよう、というのが蓄銭叙位令のねらいでした。
内容は次のような物です。
…従六位〜八位の者は、銭10貫文(1貫文=1000文)につき位1階を進め、20貫文以上の場合は 位2階を進める。初位以下は、5貫ごとに 1階を上げるが、従八位下に入る場合は10貫を必要とする。正六位以上で10貫以上持っている者については、臨時に判断する。…
ちなみに、銭は持っているだけでは昇進できず、「報告した後政府に提出する事」となっていました。そのため、三上隆三氏は『貨幣の誕生』で「この法は蓄銭叙位法では不正確で、蓄銭納銭叙位法でなくてはならない」と言っています。
例えば従七位下の者が20貫文持っていた場合は、その20貫文を差し出す代わりに従六位下に昇進できたわけですね。
そうなると、不届きな者が現れてきそうなものですが、その対策もしっかり記されていて、
…他人の銭を借りて昇進した者は、奴婢に落とし、徒刑1年。貸した者も同罪。私鋳の罰は徒3年を改めて斬刑、家族は皆流刑とする。
…とあります。他人の銭を借りたり、自分で銭を作ったりした者は厳罰を与えられることになっていたわけです。
他にも、近隣の5戸で私鋳を知っていながら告げなかった者は同罪(斬刑)。知らなかった者は5等減じる(徒刑3年)。私鋳銭を使ったが自首した者は、罪1等を減じ、私鋳銭を使わずに自首した場合は罪を免ずる、とあります。
後年の五人組のような制度が実施されていたようで驚きですね💦これは「五保」というそうで、養老律令の戸令を見ると、次のようにあります。
…5つの家で一組とし、1人を保長とせよ。そして互いを監視させて、法に背くことが無いようにせよ。客が泊まったり、保の者がよそに出かけたりするときには、同じ保の者に報告すること。一家が逃亡することがあれば、五保はこれを追跡すること。三年経っても戻ってこなければ、計帳から除く。その土地は国に回収される。帰ってこない間は、五保と三等以上の親戚が、負担が均等になるようにしてその土地を代わりに耕作すること。租・調は代わりに納めよ。
また、闘訟律には、
…五保内の者が罪を犯したことを知りながらこれを追及しなかった場合は、死刑に当たる罪の場合は徒刑1年、流刑の罪に当たる場合は杖刑100、徒刑の罪に当たる場合は杖刑70の罰を与える。杖刑100以下の罪を追及しなかった場合については、不問とする。
…と書かれています。
連帯責任・相互監視・犯罪防止のシステムであったわけですが、ほんとに五人組とそっくりですね。たぶん五保の制度を参考にしたのでしょう。
さて、蓄銭叙位令ですが、気になるのは、これでは銭がしまい込まれるばかりで銭の使用の拡大にはつながらないのではないか?というものです。
これに対し明快に解答を提示したのが東野治之氏『貨幣の日本史』(1997年)で、これには次のように書かれています。
「有名な蓄銭叙位の法は、…政府が貨幣流通を促進する策として出したものだが、普通に考えれば蓄銭を奨励するのは流通と矛盾する。しかしこれはまぎれもなく流通促進策だった。蓄銭叙位の法は、蓄えた銭の量に応じて、一階から二階、位を授けられる定めだが、最低でも五貫(五千枚)もの銭を集めなければならない。そのためには自らの所有する物資を売る必要があった。売り惜しみをしていては、銭は入手できない。しかもこの法では、叙位の申請にあたって、蓄えた銭を政府にさし出すことになっている。有力者の財産を吐きださせた後、そのままでは隠ししまわれてしまうことになる銭を回収しようとしたわけである。政府にとって銭で支払うことは、それだけで大きな利益をもたらすが、受け取り手の側に銭が退蔵されてしまっては、銭をいくら作っても追いつかないことになる。蓄銭叙位の法は、この点にも目配りした法令だった」
先に述べたように、役人は布など銅銭以外のものも支給されています。出世には銅銭を得る必要がある訳ですが、そのためには支給されたものを銅銭と交換する必要があるのですね。これによって、市場に物が出回りやすくなるとともに、店側も銅銭を確保する必要性が生じることになります。
三上隆三氏は「蓄銭納銭叙位法の狙いは、位階昇進を願う官僚の弱みをテコに、貨幣の流通を促進することにある」と言っています。
また、別の理由でも蓄銭叙位令は流通促進に有効な作戦でした。
三上隆三氏は次のように述べています。「雑令第24条(皇親条)には「凡そ皇親及び五位以上は、帳内資人(所属部下のこと)、及び家人奴婢を遣りて、市、肆を定めて、興販(物品を安く入手して高く売り、利を得ること。つまり商行為)すること得ず」とあって、皇親および五位以上の有位者の商行為が禁止されている。逆にいえば、六位以下の者の商行為は自由ということである。それは同時に都の東西両市への物資供給増にもつながり、これが従六位以下の者への蓄銭納銭奨励のウェイトを置く理由であると考えられる」
なんと六位以下の者は位置に店を構えて商行為をすることが許されていた、というのですね😯このことは滝沢武雄氏も『日本の貨幣の歴史』(1996年)で、
「…都の東西市に、肆(常設の店舗)をおき商行為を行うことは五位以上の者には許されず、六位下の下級官人と無位白丁に限り与えられた権利として規定されていることと当然関係があったと考えられる。すなわち蓄銭叙位法は、下級官人や無位白丁の者が、東西市に肆を設けて積極的に「興販」することを奨励する法だったのである」と述べています。
店を構えて物を販売する際に、役人はできる限り「現物」ではなく「銅銭」を持ってくる者と売買をしたがったでしょう。こうなると、人々は銅銭を必要とし始めることになります。また、このことは平城京建設工事で働く労働者に給料として与えられた銅銭の使い道を保証することにもつながります。これまでは労働者は銅銭で交換を頼んでも嫌がられることが多かったのではないかと考えられますから、労働者も大いに助かっただろうと思います。
つまり、蓄銭叙位令は、①和同開珎銅銭の有効性を担保し、実用性のある通貨とすること、②労働者の生活の保障、③政府の財源の確保…の3つを同時に達成する事のできる、なかなか素晴らしい法律であったことがわかります。
藤井一二氏は『和同開珎』で「本来、庶民の貨幣利用の便宜を図るという名目はあったが、実際は制約付きの叙位と引き換えに、蓄銭額を政府が合法的に吸収するという点に究極の目的があったと見るべきであろう」と財源の確保がこの法律の最大のねらいであったと述べていますが、滝沢武雄氏は「しかし…貨幣で必要な物資を購入できなくては、朝廷も官人も寺社も雇人・雇夫・雇女も皆困るのであるから、必要な物を都の東西市などに集めることと、それらの品物の販売者が喜んで貨幣と交換するシステムを確立しなければならなかった」と述べているように、和同開珎銅銭に有効性を持たせることが最大の目的であったのではないか、と私は思います。
●蓄銭叙位令によって昇進した者はどれくらいいたのか⁉
さて、イメージに反してよく練られていた感のある蓄銭叙位令ですが、それでは実際うまくいったのでしょうか。
蓄銭叙位令によって昇進した(と思われる)最初の例となったのは、天平19年(747)9月2日の、河俣連人麻呂です。「(と思われる)」と書いたのは、人麻呂は蓄銭叙位令にもとづいて銅銭を献上したとは書かれておらず、東大寺の大仏を作るのにあたってその費用を寄進した、とあるからです。人麻呂が寄進したのはなんと1000貫文でした(!)。人麻呂はこれを賞されて大初位下から一気に14ランクアップの外従五位下まで昇進しています。続いては天平勝宝元年(749)5月の陽侯史四兄弟(令珍、令珪、令璆、人麻呂)で、彼らも東大寺大仏の造営にあたって寄進をしており、その額はそれぞれ1000貫文ずつ(!)でした。四人は従七位上~従八位下だったのですが、全員外従五位下となっています。
彼らの他にも、銅銭を献上して昇進している例が宝亀元年(770)までに18例見受けられるのですが、その中で目立っていたのが天平勝宝5年(753)9月1日に昇進した板持連真釣で、彼は「無位」であったのが、「銭百万」…つまりこれまでに出てきた者たちと同じ1000貫文を献上することで、これまた外従五位下に任じられています。もっとも多くの金額を献上した例は神護景雲元年(767)3月27日の新治直子公と、8月23日の秦忌寸真成で、それぞれ2000貫を献上し、どちらもこれまた外従五位下になっています。天平神護以降(765~)で献上している者たちの特徴として、銭以外も献上するようになっている、というのが挙げられます。例えば新治直子公は商布1000端、秦忌寸真成は牛10頭も献上しています。
神護景雲元年(767)10月17日に昇進した伊予国の凡直継人なんぞは、銭百万に加え、紵布百端・竹笠百蓋・稲二万束を献上した功で、本人は外従六位下、その父親が外従五位下に任じられています。ここからは、地方の豪族がかなりの財力を有していたことがうかがえます。
それにしても驚きなのが、最低でも銭1000貫…つまり銭100万枚も献上しているということです。一番最初に昇進した河俣連人麻呂は大初位下でしたが、その給料は年に40文でしたから、これを全て貯金に回していたとしても2万5千年かかる(!)計算になります。いったいどうやってこんな大金を…⁉
『寝屋川市史』には次のようにあります。
「二人の河内人はどのような手段で莫大な銭を手に入れたのであろうか。まず考えられるのは商業活動であり物品の流通であり、それらの物品は市場で売買されていたはずである。…河俣郷は、大和川の諸分流が形成する湖沼地帯にあり、…魚類の豊富な自然環境であったことは確かで、人麻呂の商業活動の一面に魚類の販売があったと考えることができる。河俣の土地は、淀川を下れば難波京の市へ、 遡れば平城京の外港である奈良の木津へ直行することのできる土地であった。…五位以上の貴族は市場に店を出して商業活動をすることができない規定(養老雑令皇親条)であったから、大初位上の河俣連人麻呂も無位の板持連真釣もこの規制から外れ市場における商業活動を展開することができた。この二人が平城京や難波京の市場での商業活動により莫大な富を蓄積したその可能性は高いであろう」
商売が大成功してしこたまもうけていたのではないか、と推測しているのですね。
これに対して、鈴木公雄氏は『銭の考古学』で次のように疑問を呈しています。
「(『続日本紀』にある蓄銭叙位令に関係すると思われる)記事については、いくつかの疑問がある。まずその1000貫という量そのものが問題である。1000貫というと銭100万枚に相当するが、銭貨の使用が社会のかなりの人々にまで浸透していた中世においてすら、備蓄銭の最大銭貨量は30万枚を超えることはなかった。その中世よりも銭貨流通量そのものが著しく少なかったと考えられる古代において、100万枚以上の蓄銭を可能とした人々が20名近くいたということは、とても真実とは考えがたい。古代の史書にありがちな、一種の誇大表現だった可能性も考えなければならない」。また、「十分な量の銭貨が現に流通していたからこそ、大量の備蓄もできたのである」が、「地方における古代銭貨の出土量がきわめて少ない」ことから、地方では和同銅銭があまり流通していなかったと考えられるのにもかかわらず、「地方在住の人物が、大量の銭貨を保有できたという」のは「疑問を感じざるをえない。」
正倉院文書によれば、丈部浜足という下級役人は、772年の1年間だけで3500文(3.5貫文)も借金していました。下級役人1人だけでこれだけの銭と関わっていたのですから、当時はけっこうな量の和同銅銭が流通していたのではないでしょうか。
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