●平城京造営の労賃は1日1文だったか?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
和同開珎を作ろうとした理由はその差益を得ようとしたためだと先述しましたが(和同銀銭と銅銭を同じ価格に設定したのも、富本銭の時と同じように、そうすれば銅銭を作れば銀銭並みの利益を得るようにしたかったからであろう)、なぜそんなにお金を必要としたのでしょうか?
9月14日に元明天皇が平城宮建設予定地の菅原に行幸、11月7日にその菅原の地(菅原一族発祥の地でもあるようで、菅原天満宮が存在する)に住む農民90戸に麻布と籾を与える代わりに別の土地に移住させ(770年の由義宮建設の際には銅銭が与えられている)、12月5日に平城宮建設の地鎮祭が行われ、平城宮の建設が開始されていますが、和同銅銭の発行はこの直前に当たり(8月10日)、平城宮造営と関係があることが推測できます。
研究者の方々は次のように述べています。
『通貨の日本史』(高木久史氏)…「発行の目的は、平城京の建設などのための物資の購入や労賃の支払いにあった」
『平城京と木簡の世紀』(渡辺晃宏氏)…「平城京造営の労働力に対する支払い手段として、また物資調達のための交換手段として、大量の銭貨の発行がぜひとも必要だった」
『日本古代銭貨流通史の研究』(栄原永遠男氏)…「当時、平城京の大造営事業が進展しており、莫大な出費をまかなうための財源の捻出が急を要していた。そこで、律令国家は、…法定価値を自由に決定しうる銭貨を、雇役丁の雇直や物資購入の支払いに用いることで、この問題を切りぬけようとしたのであった。…平城京の造営に投入された被雇傭者の総数は、もはや知るよしもないが、膨大な数にのぼったであろう。したがって、彼らに支給すべき功直の総額も、巨額であったであろう。律令国家は、造営工事開始以前に、投入すべき被雇傭者の概数と、功直として必要となる庸の総額とを、当然算出していたはずである。そして、巨額の功直が国家財政を圧迫することを十分に承知し、なんらかの対策をる必要を痛感していたであろう。巨額な功直の財源をどこに求めるかということが、大問題となっていたと思われる。和同開珎は、この財源問題を解決すべく発行されたのである。すなわち、和同開称には、雇役丁の功直を中心に、平城京造営の諸支出をまかなうという重大な意義がになわされていたのである。」
和同開珎は人件費捻出のために必要であったと諸氏が述べていますが、平城京造営の労働者の賃金はいったいどれくらいであったのでしょうか?
奈良文化財研究所のブログには「奈良時代、労働者たちには給料として、お米や塩などの食料が支給されました。…お米は1日2升、今の9合(1600cc、1.4キログラム)ほどが支給の基準でした。…ところで、給料は現金で支払われる場合もありました。8世紀のはじめに和同開珎が発行された頃は日当1文が原則でした」とあります。現物支給か現金支給かのどっちかだったわけです。
しかし、渡辺晃宏氏は『平城京と木簡の世紀』で「1人1日1文の功直支給を受ける」と、現金支給に限定しています。これはなぜでしょうか?
そもそも、1日=1文という日当の典拠は何なのでしょうか?『続日本紀』を見てもどこにも1日1文を支給したなんて書かれていません。
これは、どうやら栄原永遠男氏の次の考えがもとになっているようです。
①『続日本紀』和銅5年(712)12月7日条に「諸国から都に送る調・庸の物は、銭で代納してもよい。その際、銭5文=布1常に当たるものとする」とある。
②大宝令では、労役の代わりに納める庸布は、10日(10功)分につき2丈6尺(2常)とされていたが、706年には1丈3尺(1常)に半減された。したがって、庸布1常は5功分に当たる。①から、銭5文=布1常なので、銭5文=5功となり、1功=1文となるため、1日分の労賃は1文であった。
しかしこれ、計算おかしくありません!?!?
706年に半減された、とあるんですから、国は和同開珎発行の2年前に10日(10功)=庸布2常=銭10文に設定していたわけです。それが布1常に減免する、となっただけであって、布1常=銭5文=10功になるはずで、こうなると、1功=0.5文になるはずです。2日で和同開珎1枚をもらっていたわけです。
藤井一二氏『和同開珎』によると、後の事になりますが天平期(729~749年)の役人に対し1日に支給された食料は米2升であったようです。政府は、711年に銅銭1文=穀6升と設定しており、穀6升は精米すると3升分に当たります。栄原氏の言うように、1日=1文であるならば、1日の労働で1文を得、それで3升の米を手に入られることになり、役人1日の米支給を超えることになってしまいます。
やはり労賃は2日で1文だったのではないでしょうか?
また、そもそも、庸の代納銭が5文=布1常でこれは10功分に相当するからといって、10功分働いたら5文がもらえると考える前提がおかしくないでしょうか??
明治初期に徴兵令が出され、徴兵されたくない人は代人料270円を払うことになっていました。徴兵された人は3年間兵士として勤務する事になりますが、この3年間でもらえる給料は二等兵で計54円75銭であったようです。
栄原氏の理論でいけば、兵士として働けば270円がもらえる計算になるはずですが、その5分の1ほどしかもらうことができていません。
ですから、働く代わりに納める税=働いて得られる給料はイコールにはならないのです。負担を逃れるために納める金額の方が、高く設定されるのは当たり前の事でしょう。
また、栄原氏は石山寺増改築工事について記録した「造寺料銭用帳」も例として挙げていますが、それには天平宝字6年(762)の1月~7月にかけて、各月の雇われた人数、支払った金額が載っているのですが、例えば2月に雇われた者が566人で、これに6301文が支払われた事がわかります。ここから、1人当たり1月約11文が給料として支払われていたことがわかります(他の月は8~12文)。つまり、だいたい3日に1文が与えられていたことがわかるわけです。
ですから、平城京造営工事でも、これくらいの給料…徴兵令の代人料換算でいけば10日で1文…だったのではないでしょうか。
銀銭=銅銭という価格設定だったのですから、1日働いて銀銭1枚分もらえるというのは高額すぎますし。
さて、話を戻して、なぜ給料が現物ではなく現金支給であったと考えられているのかについてです。
栄原氏は、『続日本紀』和銅5年10月29日の詔に、
…諸国から労役のためにやって来た者、調・庸を運びに来た者が、帰る時には持参してきていた食料が少なくなっていて苦しんでいる。そこで、帰途において、各地に食料を用意して、銭とこれを交換させるようにせよ。
…とあることから、銭を支給していたと推測しています。米を支給していればこんなことを言わなくてもいいわけですからね。
しかし、それにしても、政府はなぜ銀銭をやめて銅銭を流通させたがったのでしょうか。
栄原氏は次のように言います。
「律令国家が和同銅銭にこだわったのは、国家の体面のためではなかった。そのためだけなら、むしろ貴金属の銀を素材とする和同銀銭のほうがふさわしく、べつに和同銅銭である必要はない。また、大唐帝国で銅銭の開元通宝がもっぱら使用されていたことを模倣しためでもなかった」「将来に想定される銭貨流通量の増大に対応する鋳造能力の面からも、その実行をせまられたであろう。すなわち、銀銭の材料である銀は、当時は産出額も少なく、政府保有量も、和同銀銭の流通が広範に拡大すれば、それに対応しうるほどのものであったとは考えられない。したがって、和同銀銭の数は、際限なく増大しえない。これに対して、銅の場合は、産地が各所にあり、官採制の成立ともあいまって、大量の和同銅銭鋳造を支えるだけの供給が可能であった」
国家の体面ではなかったというのは、確かにそうでしょう。先に述べたように、アジア諸国では銅銭が作られていませんでしたから、負けじと銅銭を作る必要性が低かったからです。
銀銭ではなく銅銭を流通させたかった理由は、銀が希少で銅が豊富であったからでしょう。
日本は銅が豊富に存在する国として著名でした。後年になりますがアダム・スミスの『国富論』にも、「世界きっての多産的な鉱山におけるその価格が、世界の他のあらゆる鉱山におけるその価格に多少とも影響せざるをえないのである。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山におけるその価格にいく分か影響するにちがいない」と書かれています。
今村啓爾氏は、奈良時代に開発されていた銅山として、山口県の長登銅山を例に挙げています。長登銅山では1985年に8世紀前葉~9世紀後半の須恵器破片が発見され、1988年、東大寺大仏殿から発見された大仏創建時の銅塊が長登銅山のものと酷似していることが判明、1989年から行われた長登銅山の大規模調査では、「和〇〇年」(和銅か?)「神亀3年」(726年)などと書かれた木簡が見つかっていることから、奈良時代に稼働していたことがわかっています。
「銅の量産は貨幣の銀から銅への切り替えを進めさせずにはおかなかった」(今村氏)のです。
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