※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●延喜年間(901~923年)の聖代(優れた天皇が治める世の中)ということで、太平の世が続く中で、人々は上下によらず大層ぜいたくにふけるようになり、美しい服で身を飾り、無駄な出費が増えていたのを、帝(醍醐天皇)は嘆かわしくお思いになられて、身につけていた八丈島産の絹織物で作られた衣服、琥珀織の丹後縞の指貫の袴、青みがかった茶色の緞子の石帯を脱ぎ捨てられて粗末な琥珀織の絹布、西陣織の衣服に着替えられた。
延喜の帝が粗服になられてから、公卿から庶民に至るまで、みなくすんだ茶褐色の木綿のぶっさき(打裂)羽織(背中の下半分が縫い合わされていない羽織。運動をする際などに用いられた)を着るようになった。このため、後々の世まで、延喜・勘略(節約の事。天暦のもじり)の治として、聖代の例に挙げられるようになったのである。
女御「次から下着は藍染になされませ。黒では染め直しがききませぬから」
帝「なるほど、朕もそう思う」
さて、当時は菅原道真が雷となって藤原時平・清貫・平希世を殺した(930年に起こった清涼殿落雷事件。時平はその前の909年にすでに死んでいるので誤り)ため、朝廷の役人が少なくなっていたので、菅原道真の子の秀才(淳茂のこと)が召しだれて天下の政治を任せられた(実際は淳茂は926年に、落雷事件の前にすでに死んでいる)。※田沼意次の子、田沼意知が江戸城内で殺されたことを指すか。
菅公(秀才)が政治をとり行うにあたって、これまで務めていた公卿たちは時平などと不快関係にあった者たちであったので起用しなかった(※田沼派が一掃された事を指すか)。新しく役に立つものを見つけるまで人手不足であったので、古の人物たちに手伝ってもらうことにした。当時は長く平和が続いていたので、人々は文に流れて武に疎くなっていたため、まず武を習わせて兵を強くしようと考え、兵法・剣術は源義経に、弓は源為朝に、馬術は小栗兼氏(伝説上の人物)を召し出し、公卿から庶民に至るまで指導しするように宣旨が下された。
義経「とるに足らぬ身の私どもを選んでいただいて、有難き幸せにございます。しかし、私どもはあなた方より「ぐっと」後の世の人でございますから、「古人」というのは御間違いかと思います」(義経・為朝は11世紀の人物で、小栗は15世紀の人物がモデルになっているとされる)
菅公「時代違いなのは知っているが、これは草双紙(江戸時代の絵入りの娯楽本)なんだから、「うっちゃっておきやれさ」」
義経は天狗に剣を習ったので、稽古をつけてもらう人は天狗でないとできなかった。そこで、稽古をつけてもら人は天狗の面や羽を着け、近くから大うちわであおいでもらって空中を飛びながら稽古をつけてもらった。
為朝は的を射る練習は実戦には向いていないので、腹に穴が開いている国の者を呼びよせて具足を着せて吊るし、動くところを射抜かせるという練習を行わせた。
小栗兼氏は馬に乗る前の段階の練習で木馬に乗るのでは鞍の乗り心地・手綱の引き方がわからないと考え、人を木馬の代わりにして、乗ったり、乗られたりの練習をさせた。
男「権門駕籠(大名の家来が他家を訪問する際に乗った駕籠)の乗り方ならば、それがしがお教えいたそう」※田沼時代に大名の家来たちが権力者に贈り物を贈っていたことを皮肉っている。
男「しっそ(「いっそ」のもじり。まったく、の意味)もう、この頃は「せいけん」(「せけん」[世間]のもじり)みんな、ぶっさき羽織であるなぁ」※当時、松平定信は質素にすること・聖賢(孔子や孟子など)に習うことを呼びかけたが、これを茶化したもの。
男「ぶっさき羽織がきつい(大変な)流行りだ。なんでも、北野の若旦那(菅原秀才の事)がお出でなさって、何もかも改まったんだそうな」
男「向こうの長羽織を着た男は古風な格好をしている」
世の中全体に弓・馬・剣術が大層流行り、それぞれ弓を持って歩き回っては、町の小道具屋や瀬戸物屋に置いてある兜鉢(兜をひっくり返した形に似ている鉢)など鉢と付くものなら何でも、堅いものであれば何でも、「射抜いてみせよう」と言って突然射て砕いてしまった。
剣術を学ぶ者たちは、「先生(源義経)が(まだ幼名の)牛若丸といっていた時に、五条の橋で千人斬りをされたように(※千人斬りといえば弁慶だが、能楽の『橘弁慶』などは牛若丸のやったこととする)、大勢を切らなければ上手にはなれぬ」と思ったが、人を切っては後々が面倒なので、木刀や竹刀を持って、道行く人を「千人ぶち」(ぶつ、たたく事)にした。
馬の稽古をする者たちは、小栗兼氏が鹿毛の馬に乗っているのを、「陰間(男娼のこと)に乗っている」と間違え、その上、「弟子同士で木馬になっても相手のことがわかっているので(簡単に乗れてしまって)面白くない。見ず知らずの者に乗っ(て乗りこなせ)た方が、気分が良いだろう」と言って、馬具を持って陰間茶屋に行って馬の稽古をする。しかし、馬は生き物なので、乗り具合はどれも同じというわけではない。一匹乗れたからといって、馬に乗るのが上手というのが間違いないわけではない。陰間は全員乗り尽くしたので、女郎にも乗れば色々な乗り心地の違いがあって馬術の技量も上がるだろうと、毎夜遊里に行き、女郎を貸し切りにして稽古をする。馬術の稽古をする者も、金の成る木は持たないため、女郎に払う金が不足するようになったので、「仕方ない、道行く者を男女区別なく捕まえて乗れば、色々な乗り心地の違いがあって、稽古になるだろう」と、男女を見かけ次第、傍若無人に押し倒して乗ったので、とんでもない大騒動になって、喧嘩や口論が一向に止まなくなってしまった。
従者「主人の奥方に不届き千万。逃がさぬぞ」
武士「なに、不届き千万だと。聞いてあきれる。こっちは御上(天皇)のご命令で、武芸の中でも戦場の駆け引きの第一である馬術の稽古に励むのだ。黙っていやがれ」
延喜の帝は天下の政治を菅公に任され、「大国を治めるにあたっては小魚を煮るように無理にかき回さず寛大にするのが良い。大通(本当の通)が楽しむにあたっては金銭を惜しげもなく使うのが良い」と酒を飲み始めていたところ、都の様子が間違った馬術稽古によって騒がしくなっていたので、次のように歌をお詠みになられた。
「高き屋に 登りて見れば 騒ぎ立つ 民の気取りは 間違いにけり」(仁徳天皇が詠んだ「高き屋(家)に 登りて見れば 煙立つ 民の竈は 賑ひにけり」[高台に登って人々の様子を見たところ、炊事の際に出る煙が多く上がっていた。民の生活は豊かになったようだ]をもじったもので、高台に登って人々の様子を見たところ、人々が騒いでいた。民の理解の仕方は間違っている、という意味)
主上(天皇)は高殿から降りられて、菅公を召して相談をされた。
「武芸も大事であるが、高殿から見てみると、人々は大きな見当違いをしている。かの『勇を好んで学を好まざれば、その費や乱なり』[『論語』にある「勇を好んで学を好まざれば、その弊や乱なり」《勇ましいことばかり好んで学問を好まなければ、乱暴者になってしまう》をもじったもの。勇ましいことばかり好んで学問を好まなければ、金遣いが乱れる、という意味]とはこのことだ」
菅公「主上の御言葉、ごもっともにございまする。わたくしも、最初から学問が大事だと思っておりましたが、師匠となるべき儒者が欠乏しておりました。ただいま、一人適当な者を見つけ出しましたので、ご紹介いたします。えり好みしなければ儒者はいくらでもおりますが、朱子学者は生きた天神のよう(に理想主義的)で、徂徠派の者は火の見櫓の如く(気位が高く)、詩・漢文を得意とする者は田舎の俳人の如くで、経済(国を治め、世を救うこと)の道を心得ておる者は見当たりませぬ」
帝「「けいさい」とは何だ。夜に食べる野菜(軽菜)のことか?」
そこで源義家の師範でもあった大江匡房(1041~1111年。これも醍醐天皇より後の人物)を召し出し、文章博士に任じて、人々に聖賢の道を教えるように命じた。
菅公「最初から漢文で教えるとなると、始めようとする者がおるまい。仮名付きのものが良かろう。この書物はそれがしがしたためた『秦吉了(九官鳥)の言葉』という仮名書きの本で、天下国家を治める心得を記したものであるから、学校で講義をする間に、人々に読んで聞かせるのが良いだろう」
菅公が作った『秦吉了(九官鳥)の言葉』はこうして学校で読まれるようになったので、聞く人が日々絶えることがなかった。
大江匡房「さて、菅公が作られた『秦吉了(九官鳥)の言葉』を読みましょう。まず、天下国家を治める政というものは、時と勢いと位の3つを得なければなりません。例えるならば、春、凧を揚げるようなものだと、『秦吉了(九官鳥)の言葉』には詳しく書かれております」
こうして人々は熱心に学問をするようになり、最初は仮名付きの四書五経を読んでいたのが、今では仮名書きの四書五経に漢字をつけて読むようになった。菅公の『秦吉了(九官鳥)の言葉』も出版され、世のすみずみまで広まった。
本屋の客「菅公が書かれた『秦吉了(九官鳥)の言葉』を買いたい」
本屋「凧の例えは面白うございます」
「天下国家を治める政というものは、春、凧を揚げるようなもの」という例えを、凧を揚げれば天下国家が治まると勘違いをして、いい年をした者たちまでが、「われもわれも」と凧を揚げたところ、鳶の凧を友達と勘違いした鳳凰がやって来たというのは、まことに、延喜の御代のめでたさという事の証拠である。
鳳凰「どうして鳶凧と見間違えるものか。聖代だから出たのさ。鳳凰(ほうぼうに掛けた駄洒落。あちらこちら、という意味)歩いてみたが、日本が「いっち」(一番)いい」
この度、鳳凰が現れたのはまことにめでたいしるしであるので、広く人々に見せようと、鳳凰と響きも似ているので、大徳寺前の弘町(こうちょう。鳳凰は鳳鳥[ほうちょう]ともいう)の茶屋の主に鳳凰を与え、人々に見せることにした。同じく聖代に現れる麒麟も出現したが、これはリスと同じように隅っこに置いて見せた。
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