社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: セルビアの不満

2022年6月11日土曜日

セルビアの不満

 セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人(ムスリム人)の見た目はまったく一緒なんだそうです。

違うのは宗教。

セルビア人は正教会、クロアチア人はカトリック、ボシュニャク人はイスラム教。

宗教の違いは大きい…😟

しかもそれで紛争になってしまうんだから…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇セルビア人の不満を生んだオーストリアのボスニア併合

1903年までは、オーストリアセルビアの関係はまだ良いほうだった。

なぜなら、国王が親オーストリア的なアレクサンダル1世(1876~1903年)だったからだ。

その父のミラン1世(1854~1901)はセルビア王国独立時(1878年)の王であった。

ミラン1世は1885年に退位騒ぎを起こし、その際にオーストリアがセルビアを併合するのを認める、と言ったという。

退位騒ぎはほどなくして収まったが、ミラン1世は次に突然ブルガリア攻撃を始め、撃退されてしまう。

結局ミラン1世は1889年に退位し、アレクサンダル1世が即位した。

このアレクサンダル1世は1899年に「セルビアの敵はオーストリア=ハンガリーの敵である」と話すほどの親オーストリアであった。

一方で1902年にはオーストリアは「セルビアの不倶戴天の敵」と語り、ロシアに支援を求めるなど、ムチャクチャで、

オーストリアからも、ロシアからも信頼は得られなかった。

国内でも、新聞を廃刊させたり、秘密投票を廃止したりするなど、反動的な政治をおこない国民からの反感を買った。

1903年、セルビア軍人によるクーデターが起き、

アレクサンダル1世は隠し部屋に隠れたが、見つけられ、

出てきたところを不人気の妃と共に銃で滅多撃ちにされて死亡した。

その後も死体に目も当てられない仕打ちが行われ、

最後は2階の窓から庭に投げ捨てられた。

その後はペータル1世(1844~1921年)が即位し、

「バルカンの古狐」とあだ名されたパシッチ(1845~1926)が首相兼外務大臣となった。

このパシッチはまず1905年にブルガリアとひそかに関税に関する同盟を結んだものの、オーストリアに知られ破棄させられた。

1906年、セルビアがオーストリアではなくフランスから武器を購入したことを知ったオーストリアは激怒し、

オーストリアを通したセルビアの輸出を止める作戦に出た。

当時、セルビアはオーストリア方面の輸出が80~90%に達していたため、

これで経済的に困ったセルビアが頭を下げてくるだろうと考えたのである。

しかしセルビアは貿易ルートを変更して切り抜け、さらにロシアに接近した。

オーストリアの目論見は外れてしまったのである。

1908年、オスマン・トルコで青年トルコ人革命が起きると、

オスマン・トルコの中で民族運動が活発になった。

これがボスニア・ヘルツェゴビナに影響することを恐れたオーストリアは、

ボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。

これに激怒したのがセルビアだった。

ボスニア・ヘルツェゴビナには多数のセルビア人が住んでいたからであったし、

オーストリア=ハンガリー帝国の中でハンガリーが治める地域ではスラブ民族であるクロアチア人・セルビア人が差別を受けていて、

同じスラブ民族を助けよう、その中心にセルビアはなろう、という運動が起こっていたからでもあった。

セルビアはオーストリアと戦争をすることを決意し、ロシアに援助を求めたが、

ロシアは日露戦争(1904~1905年)からまだ立ち直れていなかったので、

援助をすることができず、セルビアは仕方なくボスニアの併合を認めることになった。

しかしこれで両国の関係はひどく悪化し、オーストリアのある評論家は、

「セルビアを滅ぼすか、それともセルビアを好きになるかだ」と語ったという。

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