今回の「鎌倉殿の13人」で、ティモンディ高木さんが演じていた
仁田忠常、死んでしまいましたね…。板挟みとなって。。
今回はその仁田忠常に関するエピソードをマンガにしてみました。
※マンガの後に解説を載せています。
〇仁田忠常(1167~1203)
駿河・伊豆(静岡県)一帯に力を持っていた工藤氏の出身。
伊豆の仁田郷を支配していた。
現在の静岡県函南(かんなみ)町に「仁田」の地名が残っている。
「伊豆仁田駅」という駅もある。
仁田は、北条市の館からはわずか4kmほどのところにある。
源頼朝挙兵時から従い(つまり13歳の時。あのティモンディ高岸さんは13歳だったのか…💦)、
石橋山の戦いでは兄を失った。
その後各地を転戦し、1185年3月11日には、
源頼朝から「九州に渡っている御家人の中で特に優れた働きをした12人」のうちの一人に挙げられている。
※他は北条義時・小山朝政、宗政・中原親能・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景・比企朝宗、能員。
1187年1月に重病になり、
『吾妻鏡』には「たいへん苦しんで、今にも死にそうだったので、源頼朝は忠常の館に見舞いに行った」と書かれている。
その後長く苦しんで、今回のマンガの話は『吾妻鏡』の7月18日のところに出てくる。
次に登場するのは1188年3月15日で、鶴岡八幡宮で執り行われた大法会で源頼朝のお供をした、というものである。
1189年の奥州合戦では弟の忠時と共に出陣した。
1193年の富士の巻狩りでは源頼朝を襲った曽我兄弟の兄、祐成を討ち取っている。
1203年9月2日には比企能員を天野遠景とともに謀殺した。
9月5日、将軍源頼家から和田義盛と共に、
北条時政を討ち取るよう命令を受けたが、和田義盛はそれを北条時政に告げる。
翌日夜、北条時政は比企能員を殺したほうびを与えると言って
北条の館に仁田忠常を呼ぶが、忠常は館からなかなか出てこないのを怪しんだ家来が、
仁田の館に戻り「将軍から暗殺を命令されたのがばれて、殺されたのではないか」と報告する。
忠常の弟2人(忠正・忠時)はそれを聞いて仇をとろうと思い、
北条義時がいる、北条政子の館を襲って矢を放った(なぜ北条時政の館ではないのだろうか??)。
忠正は波多野忠綱と戦って殺され、忠時は館の台所で自害した。
遅れて帰る途中の仁田忠常はこれを知って驚愕し、
「もう戦って死ぬしかないではないか」と言って御所に向かい、
そこで加藤景廉に殺された。
なぜ北条時政は館で仁田忠常を殺さなかったのか、など謎な部分はありますが、
北条氏に謀殺されたことは間違いないようです。
この時仁田忠常はまだ36歳の若さでした😰
〇仁田忠常の妻
名前は『吾妻鏡』には載っていませんが、「菊子」であったといいます。
仁田忠常の妻は三島社に行った帰り、
「江尻の渡戸」というところで亡くなった、と『吾妻鏡』に書かれています。
「江尻」ってどこ?と調べると、
「現代語訳 吾妻鏡」の注釈には、「静岡県清水区の地名。巴川の河口」とあり、
グーグルマップで見ると確かにそこに「江尻」という地名があります。
しかし、これだと明らかにおかしい。
「仁田」から「三島社」に行って、なんで「江尻」まで行かないといけないのか。
遠回りすぎます😅
そこで調べてみると、
「函南町の歴史」のサイトに、
「狩野川が蛭ヶ小島の方から柏谷へ、さらに大場の方へ湾流している頃のことであった。」とあり、
当時は流れが違った狩野川で亡くなった、と書かれているのです!
おそらくこの場所が当時は「江尻」と呼ばれたのだと考えられます。
(現代語訳 吾妻鏡さん~💦(;^_^A アセアセ・・・)
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