社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 熊本城は取り壊し寸前までいったことがある⁉(1870年)

2023年2月4日土曜日

熊本城は取り壊し寸前までいったことがある⁉(1870年)

 熊本県のシンボルになっている熊本城🏯

戦国時代、16世紀前半に菊池氏により隈本城として作られたのがその始まりで、

加藤清正がこれを大改修して1607年に「熊本城」と名前が改められました。

改名した理由は、「隈」の字は「こざとへんに畏(おそれる、かしこまる)」と書くので、城の名称として相応しくないと考えたため、だそうです。

明治時代になると陸軍の施設となり、二の丸などに陸軍の学校なども作られたそうです。

また、県庁も置かれており、1876年の神風連の乱の際に襲われています。

そして1877年、西南戦争の舞台の中心となり、天守を含む城の多くは戦火で失われてしまいますが、西郷軍の猛攻を耐えきりました。

1933年には、焼失を免れた部分が国宝に指定されます。

太平洋戦争中は空襲を度々受けますが残存部分はそれもしのぎきりました(◎_◎;)

1960年、鉄筋コンクリート((-_-;))の天守が再建されます。

2007年には本丸御殿など各種の建物が再建されました。

しかし2016年に震度7の熊本地震により石垣が崩れるなど大きな被害を受け、

復旧作業が続いていますが、完全復旧にはなんと2052年までかかる予定だそうです💦

その熊本城ですが、実は明治の初め頃に取り壊される予定があったそうなのです💦

しかもその取り壊しを提案したのは熊本藩の藩主(当時は知藩事)。

いったいどういうことなのか!?

今回はその騒動をマンガにしてみました😅

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇熊本城取り壊しの上表

明治3年(1870年)、熊本藩知事である細川護久は、熊本城の取り壊しを政府に願い出ました。

その際の上表文が次です。

「臣護久、謹按するに、兵制一変、火器長をもっぱらにせしより、昔時の金城湯池、今すでに無用の贅物に属せり。加えて、今日各地の城郭あるは、応仁以来強族割拠、織田氏安土の築きあるに始まり、諸豪相倣い、務めて塁壁を高くするによる。すなわち戦国の余物也。今や王化洪流、三治一致の際、乱世の遺址なお方隅に基峙するは、四海一家の宏謨に障礙あるに近し、熊本城は加藤清正の築く所、宏壮西陲の雄と称す、臣が家祖先以来、よって以て藩屏たり、豈に甘棠の念なからんや、しかりといえども維新の秋にあたり、建国の形跡を存し、かえって管内固陋の民俗を養い、以て辺土の旧習を一洗すべからず、願わくは天下の大体により、熊本城を廃堕し、以て臣民一心の微を致し、かつ以て無用を省き実備を尽さん、伏して乞う、速やかに明断を垂れよ、臣護久、誠惶頓首敬白。庚午九月五日、熊本藩知事(弁官御中)」

(訳…私が考えますことには、戦いのやり方が大きく変わり、鉄砲や大砲が中心になったことにより、昔は非常に堅固であったものも、今では無駄なものになってしまいました。さらに、日本各地に城が存在していますが、これは応仁の乱以来、各地に大名が割拠する中で、織田氏が安土城を作ったことに倣って城を高くするようになったものであり、戦国時代の残り物です。今、天皇の政治がいきわたること、巨大の水の流れのような勢いであって、地方は府・藩・県が一致して治めていくところ、乱世の時の遺跡が四方に残っているのは、世の中を一つにしようとする広大な計画の障害であります。熊本城は加藤清正が築き、建物は広大で立派、西の果ての雄と称していました。それから子孫代々、家を守護してきたものであり、慕う気持ちもありますが、維新の時にあたって、国のあった証拠を残すと、住民は考え方が古くて新しいものを受け入れないようになるでしょう。ここは、古いものをきれいに取り除くべきです。そのため、私は、熊本城を取り壊すことで、人々の気持ちを一つにし、無用なものを無くして実際に役に立つ備えをなすべきだと考えます。なるべく早い決断を望みます。)

まず、この細川護久はどのような人物なのでしょうか?(゜-゜)

熊本藩は細川忠興(1563~1646年)の子・細川忠利(1586~1641年)に始まり、

2代:細川光尚忠利の子・1619~1650年)、

3代:細川綱利(光尚の子・1643~1714年)、

4代:細川宣紀(綱利の子・1676~1732年)、

5代:細川宗孝(宣紀の子・1716~1747年。旗本の板倉勝該に江戸城で切り殺される)

6代:細川重賢(宗孝の弟・1721~1785年。「肥後の鳳凰」と呼ばれ、火の車だった熊本藩財政を改善させた名君)

7代:細川治年(重賢の子・1758~1787年)

8代:細川斉茲(支藩である宇土藩から養子に入る。1755~1835年)

9代:細川斉樹(斉茲の子・1797~1826年)

10代:細川斉護(斉樹の兄の子・1804~1860年)

11代:細川韶邦(斉護の子・1835~1876年)

…ときて、1870年、兄が引退したため跡を継いだのが細川護久(1839~1893年)でした。

幕末の熊本潘は藩校「時習館」を中心とした学校党・勤王党・横井小楠らの実学党の賛成力が争う状況で、混沌としていました。

その中で護久は1867年、新政府の名を受けて上洛、

途中で大阪城にいる徳川慶喜から招きを受けますが拒絶して、

熊本藩は新政府側につくことを鮮明にします。

護久はその後新政府の議定となり、鍋島直正の娘を妻とするなど、厚遇されます。

しかし、熊本藩は戊辰戦争に兵を出すのを躊躇するなど、ふらふらしていました。

護久はこれに頭を痛め、1869年7月には、弟で政府の参与の長岡護美に、

「諸藩が驚くような大改革を断行しなければならない」と手紙に書いています。

1870年、護久は兄に引退を強く迫り、韶邦は折れて護久に跡を譲ります(子が無かったため護久を養子にしていた)。

長岡護美は、大久保利通への手紙に、

「熊本藩を一新させます、改革に反対する輩は容赦なく一刀両断にするつもりです」と書いています。

護久はまず、役人250人以上をやめさせ、学校党の力をそぎ、代わりに実学党のメンバーを要職に抜擢して改革を断行します。

抜擢されたメンバーには後に教育勅語を起草することになる元田永孚(1818~1891年)、

函館戦争で征討総督を務めた太田黒惟信(1827~1901年)、

農民(庄屋)出身の徳富一敬徳富蘇峰・蘆花の父。1822~1914年)らがいました。

1870年6月11日に、主だったものを集めて改革宣言をしたが、それは、

①知藩事は毎日、政治堂で庶民の声を聴く。

②熊本城は塀と門を残し取り壊す。

③鷹場は全て開放する。

④雑税(上米、一歩半米、口米、諸出米銀)の廃止。

⑤役人の削減。

⑥役人は選挙で選ぶ。

⑦庄屋も選挙で選ぶ。

⑧上院と下院の議会を置く。上院は知事・役人で、下院は各町から選挙で選ばれたもので構成する。

⑨下院議員の中でも有能なものは上院議員にしたり、役人に登用する。

…という、驚くべきものでした。

さて、冒頭の熊本城取り壊しの件ですが、

熊本城取り壊しの上表は政府に受け入れられ、

取り壊される前には一般に開放し、多くの者が訪れたといいますが、

長岡護美の反対などもあって、結局は直前に取り壊しは中止となったようです(;^_^A アセアセ・・・

ここで取り壊されていたら、後の西南戦争はどうなっていたか…💦

西南戦争でも活躍しましたから、決して「無用の贅物」ではなかったわけです。

改革が始まってから約1年後の1871年7月に廃藩置県が実施されたこともあり、

他の議会制や役人の公選制なども実施されずに終わってしまいました(-_-;)

3分の1にも及ぶ減税は実施されましたが、その影響で他藩で熊本藩と同じようにしろ、と一揆が起こることにもなりました。

他にも藩校を廃止して新たに学校を設けるなど、各種の改革を実施した細川護久。

徳富蘆花は、「熊本の維新は、明治3年に来ました」と書いています。

ちなみに、79代首相・細川護熙(1938~)は、細川護久のひ孫にあたります。

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