永禄11年(1568年)は織田信長が上洛を果たし、大いに名声を高めた年となりました。
しかし、信長が上洛するまで畿内を支配していた三好氏は兵力を温存したまま四国に引き上げており、畿内の情勢はいまだ予断を許さない状態にありました。
そして年が明けて永禄12年(1569年)となってすぐに、三好氏は反攻のため動くことになります…!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●三好三人衆の京都進軍
捲土重来の時をうかがっていた三好三人衆は、永禄11年(1568年)末に行動を開始します。
『多聞院日記』永禄12年(1569年)1月5日条に、
三好三人衆が、松永久秀の家臣である池田丹後・寺町が100余人の兵と共に守る和泉江原城(家原城。読みは「えばら」)を攻め、80余人を討ち取って落城させた。池田丹後・寺町は討ち死に。攻め手側も十川の嶋介・松浦篠原玄蕃が討ち死にしたというが、実際にあったことかどうかわからない。
…とあるように、和泉国(大阪府南西部)の家原城を攻撃、これを陥落させたのです。
家原城攻めのことについて、諸書は次のように伝えています。
・『細川両家記』…12月28日、三人衆方は出陣し、和泉の家原に三好義継の家臣が守る城があったが、ここをまず攻めようと言って取り囲み、この日の晩には攻め落とした。100人ばかりが討ち取られたという。城主の寺町左近大夫・雀部治兵衛は切腹した。
・『信長記』…三好の一党、畿内の牢人、先の美濃の国主・斎藤龍興、その叔父の長井隼人が一緒になり、薬師寺九郎左衛門尉を先鋒として、永禄12年(1569年)年1月1日に堺の浦に兵を集合させ、まず寺町左近将監・雀部次兵衛が守る家原城を攻めることとした。この家原城は、堺から50町(約5.5㎞)ほどしか離れていなかったので、家原城の者たちはすぐにこれを知って、200余人の武士を中心に立て籠もった。雀部・寺町は、「三好勢が来たら、命の限り戦って、死をもって正しい道を守るべきである。義よりも命を大切にするものは城を出て命を長らえるがよい」と家来の者たちに伝えたところ、家来の者たちは「常日頃禄をいただいていながら、ここで態度を変えるのは人の道に背きます。敵が百万いるといっても、勝っても負けても恨みはありません」と答えて、城を出るものはいなかった。1月2日、夜も明けぬ早朝に三好勢5千余がひたひたと接近してきた。城兵は初め外構えで防戦しようとしたが、敵の勢いに押され、城に戻って門や櫓からさんざんに射たものの、敵は死傷者を乗り越えて四方から攻め寄せてきたので、寺町・雀部はこれまでだと観念して、腹を十文字に掻き切った。これを知った城兵たちも次々と自害、攻め手の兵はこの首を槍の先に貫いて、軍神の血祭である、と喜んで、この日は家原城に泊まった。
・『足利季世記』…12月28日、斎藤右衛門大夫(斎藤龍興か)・その叔父・長井隼人佐・薬師寺九郎左衛門などを先鋒として、幕府方の三好義継の家来、寺町左近大夫・雀部治兵衛が籠もる和泉国家原城に攻めよせた。寺町・雀部はここを死に場所と思い定めてうって出たが、多勢に無勢であり、寺町・雀部は城に戻って腹を切り、城に火をかけた。
『信長記』は期日を「1月2日」としていますが、リアルタイムに記録しており、信憑性が非常に高い『多聞院日記』が12月28日と記しているのでこれは誤りでしょう。
一方で、『多聞院日記』は城将は「池田丹後・寺町」の2人であった、としていますが、残りの書物は「寺町左近大夫(将監)・雀部治兵衛」と記されています。
池田丹後はその後も活動していることがわかっているので、これについては『多聞院日記』の方が誤っています。
『多聞院日記』は奈良にいる多聞院英俊が書いたものであるので、どうしても奈良から離れた情報は誤りが多くなります。
『細川両家記』の著者は摂津(大阪北西部・兵庫県南東部)とされているので、この家原城の記述については『細川両家記』が最も信用が置ける、という事になるでしょう。
『多聞院日記』はまた、家原城は松永久秀所属であった、としていますが、残りの書物は三好義継の所属であった、としています。松永久秀の領国は大和(奈良県)であり、家原城は大和から遠く離れた和泉にあったので、『多聞院日記』の記述は誤りでしょう。
戦いの経過について『信長記』がかなり詳細ですが、もともと脚色が多い書物とされ信憑性が低いことに加え、日にちを間違えていることもあり、内容に信頼は置けないのですが、家原城が堺から約5.5㎞離れているというのは正確であり、まったく無視することはできないのかな、と思います。
三好三人衆がこのタイミングで家原城を攻撃した理由について、『多聞院日記』は、「松少留守故歟」(松永久秀が留守にしていたからであろうか)と推測しています。
久野雅司氏も『足利義昭と織田信長』で、「大和の松永久秀が12月24日に美濃へ下向している。そのため、実際はこの時期を見計らっての蜂起であるといえる」と述べていますが、
『細川両家記』には、
三好山城守(康長)・三好日向守(長逸)・石成主税助(友通)・三好備中守(不詳)・三好久介(長逸の子)・矢野伯耆守(虎村)・吉成勘介・篠原玄蕃允(長秀)・加地権介(久勝。堺の代官)・塩田采女正・松山彦十郎は相談して、11月13日に(京に)出陣することに決めたが、安宅をはじめとする淡路衆が篠原長房に訴え出て、長房が淡路衆が言うように話をまとめ、淡路衆が参加できるようにすべきであると裁定した、という事があったので、期日は延期することになった。
(『細川両家記』を基にして記述したと思われる『足利季世記』は、11月13日に上洛することを決めたが、大事であるので、淡路衆の安宅や篠原右京進にも援軍を頼み、この援軍を得てから攻め上ることに変更となったので、日程は延期となった。…と記している)
…とあり、松永久秀が大和を離れる前から襲撃する計画を立てていたことがわかります(著者がどうやってこれを知ったのかは謎であるが)。
また、脚色の可能性が高いですが、『信長記』には、出陣を決行するのが延び延びになっていたのを、奈良左近・吉成勘介が進み出て、「滅亡する者というのは、軍を起こすべき時に起こさず、罰すべきところを罰せず、賞すべきところを賞せず、侫人(口先が上手で心が邪悪な者)が高い位におり、賢臣が職を失い、善人の口が閉ざされ、主君におもねる者だけが権力をほしいままにし、ただ長々と話し合っているだけで年月を過ごし、酒宴ばかりしていて、ついに良くない点を改めようとしないものだと理解しております。今このように、物事が順調に進んでいない様子を見るよりは、六条に駆け行って、討ち死にするべきだと思うのですが、どうでしょうか」と進言した結果、これが受け入れられて出陣が決定された、と書かれています。
さて、家原城を攻略した三好勢は、『細川両家記』によれば、堺で兵をそろえ、1月2日、1万余の軍勢で河内の出口中堀に陣取り、3日には山城の「三つ」に、4日に東福寺の辺りに進みました。
『信長記』には、
3日、京都に向けて進んだが、途中、河内国の三好左京大夫に味方する者の土地をことごとく放火した。
…とあり、河内を進軍していたのは2日なので日にちが間違っていますが、『信長記』の内容を信じるならば、河内の各所を放火しながら進撃していたことになります。
2日は「河内の出口中堀」に陣取った、とありますが、この出口中堀、というのは、現在の大阪府枚方市の出口・中振のことだと思われます。
3日に進んだ山城国の「三つ」というのがどこなのかよくわからなかったのですが、『総見記』には「美豆」とあり、ここから、現在の京都府伏見区淀美豆町(旧・美豆村。読みは「みず」)のことだということがわかりました💦
『越州軍記』には、この時三人衆方が鳥羽・竹田(どちらも現在の伏見区)のあたりをことごとく放火した、と書かれています。
『御湯殿上日記』には、3日の「あかつき、三人しゅうみなみないづるよしさたあり」とあり、3日の早朝には、朝廷でも、どうやら三好三人衆が京都を目指して進軍しているようだ、というのがわかっていたようです。
翌日の4日のことについて、『細川両家記』は三人衆の軍勢が東福寺に着いた(『越州軍記』には「今熊野」とある。今熊野は東福寺より北に1㎞程離れている)、としか書かれていないのですが、『言継卿記』には4日に次のことが起きていたと書かれています。
4日晴、南方より敵がやって来て、塩小路までやって来たという。東岩倉の山本は敵になったという。勝軍山城は焼かれ、その他田中・粟田口・角社一間・法性寺の多くが焼かれ、ぬかの小路も大半が焼かれた。京中は以ての外の騒動である。
…塩小路というのは現在の京都市下京区の塩小路町の辺りで、あと1㎞で京に入るというほどの場所です。東福寺は塩小路町よりさらに2㎞程離れています。本陣は東福寺、先陣は塩小路まで到達した、という事だったのでしょうか。
そしてこの際、現・京都市左京区の岩倉の武士、山本実尚が三人衆方に味方し、南下して勝軍山(将軍山)城を攻撃してこれを焼いています。
この日は三人衆勢によって京都の近辺にある田中・粟田口・角社(大将軍神社)・法性寺や糠辻子などにも火が放たれて、京中は大騒動になりました。
足利義昭のいる本国寺が攻撃を受けるのは間近に迫っていました。
攻め寄せる三人衆勢は1万余(『細川両家記』)、対する本国寺の兵は、信憑性の高い史料では確認できないのですが、『信長記』によれば2千余、『南海治乱記』によれば3200余と少なく、劣勢は明らかでした。
足利義昭は絶体絶命の状態にあったのです(◎_◎;)
●本国寺の変(六条合戦)
5日、いよいよ本国寺で戦闘が開始されます💦
『言継卿記』には次の記述があります。
…5日晴、三好日向守(長逸)・三好下野入道釣竿(宗渭)・石成主税助(友通)などが今日、本国寺に攻め寄せ、午の刻(12時頃)に合戦となり、寺の周囲は焼かれ、中堂寺・不動堂・竹田などが放火された。将軍方の足軽衆は20余人討ち死にしたという。攻める側も死傷者が多く出ているという。
激しい戦いが繰り広げられた様子が伝わってきますが、『信長公記』には次のように『言継卿記』より詳細な戦闘の内容が書かれています。
…三好三人衆・斎藤龍興(一色義紀)・長井隼人(一色義紀の叔父)などが、薬師寺九郎左衛門を先鋒として、公方様がおられる六条(の本国寺)に攻め寄せ、門前を焼き払い、今にも寺内に入る勢いであった。六条を守るのは、細川典厩(藤賢)・織田左近・野村越中(『永禄六年諸役人附』によれば、足利義昭の家臣[足軽衆])・赤座七郎右衛門(『武家事記』には越前の人で、美濃の一色義紀[斎藤龍興]に仕えた後、織田信長の家臣となった、とある)・赤座助六・津田左馬丞(織田氏の一族)・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛・森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七である。若狭衆である山県源内・宇野弥七は名の知られた勇士であった。薬師寺九郎左衛門の本陣に突入して切り崩したが、多数の傷を負い、2人とも討ち死にした。一進一退の、火花を散らす戦いの中で、敵軍の30人ばかりを射倒し、敵側は死傷者は数知れず、寺内に入ることは難しい状態であった。
ここに「明智十兵衛」…明智光秀の姿がついに『信長公記』に現れます!
明智光秀は『立入左京亮入道隆佐記』によると、「美濃国住人ときの随分衆」(美濃国の出身で、土岐氏の家来)であったようです(出身は近江国という説もあるそうな)。しかし、『伊達正統世次考』には、「公方嬖人明智入道道豊」とあり、1483年の時点で、明智道豊という者が、将軍のお気に入りの家臣であった、と書かれており、『言継卿記』には、「奉公衆方…明智十兵衛」とあり、明智氏が幕府の直接の家来である奉公衆を代々務めていることがわかるので、土岐氏の家来であったわけではありませんでした。
父の妹の小見の方は斎藤道三の正妻で、信長と結婚することになる濃姫を産んでいます(『美濃国諸旧記』)。
その関係もあり、明智氏は斎藤道三の与党であったのですが、斎藤利尚(義龍)が父の道三と争いこれを殺害すると、明智氏の居城である明智城も襲って、これを落城させています(光秀の後見を務めていた叔父の光安は自害)。
このため、光秀は土地を失い流浪する牢人となる事を余儀なくされ、『京畿御修行記』によると、「越前朝倉義景頼申され、長崎称念寺門前に10ヶ年居住」することになりました。
その後、永禄9年(1566年)に足利義秋(義昭)が近江から越前に逃れてきた際に、義秋重臣の細川藤孝の家臣に転身しました(『多聞院日記』に光秀は細川藤孝の「中間」[侍と小者の間の身分]だった、とあり、ルイス・フロイスの書簡にも、彼は高貴の出ではなく、はじめは兵部大輔[細川藤孝]に仕えていた、と書かれている)。
足利義昭の家臣団が載っている『永禄六年諸役人附』には、「足軽衆」のところに、「明智」とあり、これはおそらく光秀のことで、ここからも、当時は足利家臣だったことがうかがえます。
「米田家文書」によると、その後光秀は、近江の高島郡田中城の防衛に派遣されていたようです。
そして上洛後、光秀は奉公衆という事で在京し、今回の三人衆襲撃時に本国寺の防衛にあたることになったわけです。
『武家事記』の「野村越中守」の項には、本国寺の変に関する光秀のエピソードが載せられています。
…本国寺を防衛するにあたって、門役と武者奉行を入れ札(投票)で決めよう、という事になった。その結果、明智十兵衛を門役(正門の警固役)に、という物が17枚、野村越中守を武者奉行に、という物が7枚あった。野村越中守に及ぶ者が無かったので、野村越中守が武者奉行となった。
職務を投票で決めるなんて民主主義的ですね(◎_◎;)
正門の警固役について、明智光秀は多数の票を得ましたが、『武家事記』野村越中守の項には、「門役三淵大和守勤之」とあり、正門警固の奉行となったのは三淵藤英だったようです。一方で、明智光秀の項には、17枚の得票を得たので、正門を警固して三好を防いだ、とあってよくわかりません💦三淵藤英の方がより多数の票を集めたという事でしょうか。で、明智光秀も多数の票を得ていたので、奉行ではないものの、正門警固を担当することになった…というところなのでしょう。
(『信長記』には、義昭公・細川三淵は正門を、野村越中守は敵に駆け行って戦う大将と決め…とあり、『足利季世記』には、細川藤賢・三淵藤英が正門を、野村越中守が足軽大将として周囲を守っていた…とある)
さて、本国寺の変について、他の史料ではどのように書かれているのか、見比べてみましょう。
・『越州軍記』…5日、本国寺を包囲した三人衆方は、北から三好日向入道・釣閑斎の3千余騎、西から岩城勘介[石成の誤りか]の千五百余騎、東から山城入道の3千余騎が午の刻に攻めかかって周囲に火を放った、これに対し、将軍方は北門から打って出て日向入道・釣閑斎の軍と合戦し、どちらも30人ほどが討ち死にした。
・『信長記』…5日、三好勢1万余は北の大宮(下京区四条大宮町のことか?)から押し寄せてきた。本国寺の兵はわずか2千余であった。寺の外を守るのは、先の美濃の者たち(赤座七郎右衛門尉・その弟助六郎・森弥五八郎・奥村平六右衛門・渡辺勝左衛門・坂井三右衛門)に加え、二階堂駿河守・井河山城守・牧の島孫六郎・曽我兵庫頭、尾張の織田左近将監・織田左馬允・内藤備中守・山県源内・宇野弥七郎、三河の村越孫六郎・加藤三の丞で、おめき叫んで戦った。敵味方の鬨の声、矢や鉄砲の音が響き渡り、激しい戦いとなった。奥村は見慣れぬ指物をした者が寺内に入ろうとするのを見てこれを討ち取り、家来にこの首を持って行かせたところ、義昭公は一番首の証拠とせよと言って腰物の笄を渡した。赤座は母衣武者を討ち取り、なおも敵中に分け入ったところ、敵兵は後退した。
・『総見記』…5日の早朝、敵方は大宮に上り、北の方から攻め寄せて来た。山県源内・宇野弥七郎は打って出たが討ち死にした。奥村は一番首を取り、義昭から笄を与えた。赤座「七郎右衛門」は母衣武者を討ち取った。
『信長公記』と『信長記』では登場する人物が異なります。
『信長公記』に出ている人物はほとんど『信長記』にも登場しているのですが(細川典厩は細川左馬になっている。細川藤英も藤孝も左馬頭になっていないので、これは「右馬」の誤りで、右馬頭であった藤英のことか。また、坂井与右衛門は『信長記』では「三」右衛門となっている)、『信長記』には『信長公記』には出ていない、三淵藤英・奥村平六右衛門・二階堂駿河守・井河山城守・牧の島孫六郎・曽我兵庫頭・織田左馬允・村越孫六郎・加藤三の丞が登場しています。
『信長記』は信憑性が低いのですが、この本国寺の変についてはやけに詳しく書かれているので、脚色や誤りはあるでしょうが、真実を多く含んでいるのではないか、と思わせられます(゜-゜)
戦闘の経過をまとめると、次のようになるでしょうか。
[1]午の刻(12時頃)に(『言継卿記』)、三好三人衆・斎藤龍興・長井隼人などが薬師寺九郎左衛門を先鋒として、(『信長公記』)北の大宮から?本国寺を攻撃(『信長記』)。『南海治乱記』には、南は七条、北は大宮あたりで戦いが繰り広げられた、とある。
[2]寺の周囲は焼かれ、中堂寺・不動堂・竹田などが放火された(『言継卿記』)。
[3]若狭衆の山県源内・宇野弥七が薬師寺九郎左衛門の本陣に切り込んだが討ち死に(『信長公記』)。奥村平六右衛門は寺内に侵入しようとする敵兵を討ち取り、義昭から笄を得る。赤座(七郎右衛門?[『総見記』])は敵の母衣武者を討ち取る(『信長記』)。
[4]一進一退の攻防が続き、将軍側は20余人、敵側は多数の死傷者を出す(『言継卿記』)。
本国寺における攻防のその後について、『信長公記』には、三好義継・細川藤孝・池田勝正が後詰にやってくるとの報が入ったので、薬師寺九郎左衛門は攻撃を停止させた…、とありますが、『細川両家記』には、京中の寺々が、明日は御所様の居場所を寺から移すからと言って停戦を申し出てきたので、三人衆方は七条道場(金光寺。時宗の寺院)に引き下がった…、とあり、別の展開が記されています。
『言継卿記』にも、三好日向などことごとく七条に移動したという…、とあるので、金光寺に三人衆方が移動したのは事実のようです。
金光寺に三人衆方が移動した理由が、苦戦を強いられ、本国寺を攻め落とすのに思わぬ時間がかかったため、援軍が到来するのを恐れたためなのか、京中の寺の者たちがかけあったためなのかはわかりません。
寺の者たちの交渉を受けて兵を後退させたのも、苦戦を強いられたため一時停戦を受け入れたのかもしれませんが、『足利季世記』には、
大勢の三好方に外部を攻め破られ、内部に侵入されようとしていたが、京中の法華宗(日蓮宗)の僧たちが、三好方に使いを送り、「今夜寺に攻め入れば、本国寺は滅亡するだろう、この寺は三好家が代々崇敬してきた寺である、この寺に何の咎があるだろう、公方様に恨みがあるのならば、明日よそに移してそれから攻められればよろしい」と伝えたところ、三好方はこれを受け入れて「今夜は総攻めは無用である」と言って、七條道場に引き上げた。これは後詰の兵が明日来ることになっていたので、このような謀を行なったのである…、と書かれており、将軍側は敗北するところであったが、計略により三人衆方と停戦することに成功した、ということになっています。
『総見記』も、三好勢は苦戦していたが、それでもなおも攻めたならば寺は落城していたであろうが、と記しています。
『南海治乱記』には、『信長公記』と同じように、三好義継らの後詰の兵が到着したと聞いた三人衆方は撤退した…、と書かれていますが、後詰の兵が来るとわかっているならば、挟撃を防ぐためにも強攻して寺を攻め落とすべきです。それなのに金光寺に後退したのは、『細川両家記』などのいうように、京中の寺からの請願を受けたためなのではないでしょうか(計略であったかどうかは不明ですが)。
しかし、それだとしても、三人衆方は敵中を突破してきている状態で、周りは敵だらけ、援軍が来ることはわかりきっている状態で、寺からの要請を受けて1日待つという悠長なことができたのだろうか、という謎が残ります。
三人衆方の真意は不明ですが、とにかく、この日、本国寺を攻め落とせなかった時点で、三人衆方の敗北は決まってしまったのです。
(※今回の話の残りの解説部分は都合により公開いたしません<(_ _)>)
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