信長は将軍・足利義昭の為に二条城(旧二条城・二条古城・義昭二条城とも)を作りこれをプレゼントしましたが、朝廷に対しても、さまざまな物をプレゼントしたことが諸書の記録からわかります。
今回はこれについて見ていこうと思います!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●信長のプレゼント攻勢
『御湯殿上日記』は宮中で働く女官たちによって書き継がれてきた日記で、
内容は何と1477年から1826年までの長期にわたっています😕
今回は、その記述の中で、信長が朝廷に対しプレゼントを贈りまくっていたことがわかる部分を紹介しようと思います🔥
信長が本国寺の変を知って上洛したのが1月10日で、三毬打(左義長)を見学したのが1月19日でしたが、信長のプレゼント攻勢が始まったのが1月27日のことでした。
1月27日「のふなか かん しん上申」(雁)
28日「のふなか 山ふき一おりしん上申。みなみなへも御くはりあり」(山蕗)
29日「のふなか はくてう しん上申」(白鳥)
2月2日「のふなか くしら しん上申。おなしく ます 一おりしん上申。…みなみなへ御くはりあり」(鯨・鱒)
11日「のふなか くしらのうちの物と申物一おりしん上申」(鯨の内臓?)
18日「おたのたい(ん)正より くしかき 一折しん上申」(串柿)
27日「をたより うつら 4さほしん上申。みののとて。しやくのこもしとて見事のまいる」(鶉・鯉[女房言葉で「こ文字」])
3月16日「のふなかより大きなる たい しん上申。くしかき すすのほん(煤竹で作った盆?)にいり候てしん上申」(鯛・串柿)
18日「のふなかより 山ふき一おりしん上申よし」(山蕗)
4月13日「のふなかより さたうおけ20。かきのはこ1しん上申」(砂糖・柿[牡蠣?])
信長が京都から去ったのは4月21日ですから、京都にいた間、朝廷に対して断続的に贈り物を続けていたことがわかりますね。
また、『言継卿記』には、上記以外の贈り物もあった事が記されています。
2月6日 織田弾正忠が鮒を進上するので、これを汁物にして、臣下に分けられるという。近日中に「美物」(味の良いもの。ごちそう)が進上されるという。「奇特之至」である。御三間にて、晩飡の際にこれが与えられた。
2月28日 信長、朝廷に米100俵を進上したという。
3月16日 織田が朝廷に今朝串柿2盆、台物(大きな台の上に載せた料理)1つを進上した。
3月18日 朝廷から倉部(山科言継の子・言経)に鮒2つが与えられたが、これは織田が進上したものだという。
『御湯殿上日記』と被っているのは3月16日の記述ですね。串柿は2盆あったことがこれで確認できます。
…万里小路大納言(惟房)・広橋右小弁兼勝(どちらも衣冠。正装)、信長のもとを訪れ、副将軍に任ずることを伝えるが、信長は返事をしなかったという。
朝廷は正式の使者を送り、副将軍に任ずることを伝えたのですが、信長は「御返事不申」、返答せず、ついにこれを受けなかった、というのですね。
副将軍については、以前に義昭も信長に打診したことがありましたが、信長はこれを受けていませんでした。今回の一件は、義昭が朝廷を通じてもう一度アタックしたものかもしれませんが、信長が副将軍に就くことはありませんでした。
副将軍を受けなかったことについて、今谷明氏は『信長と天皇』で、「信長にとって、副将軍への就任はなにを意味するか。それはすなわち、将軍義昭の下風に立たねばならないことを明示する。弾正忠からみれば、たしかに栄転には違いないが、副将軍の肩書きを称する以上、義昭への補佐はできても、陰で義昭を操り動かすことは困難となる。それならば、弾正忠のままでいたほうが都合がよい、と考えたに違いない」と記しています。
信長の珍しいところは官職にこだわらなかったことです。
幕府に対しては先に述べた副将軍だけでなく、守護職に就くこともありませんでしたし、
朝廷に対しては、天正3年(1575年)に至るまで上洛以前から名乗っていた弾正忠(正六位)で通し、天正6年(1578年)に右大臣(正二位)まで昇った後、あっさりとこれを辞め、以後官職につくことはありませんでした。
信長が何かに縛られるのを嫌がったのか、肩書きなんてバカらしいと思っていたのかは本人が言及していないので何とも言えませんが、
朝廷としては、信長がプレゼント攻勢をするのは官位などの見返りが欲しいのだろうと思っていたのに、官職や副将軍を受けなかったことはとても意外な事であったと思います。
信長のプレゼント攻勢の目的は何だったのでしょうか。単なる朝廷への尊崇の念の発露だったのか、ただ喜ばせたかっただけなのか…。
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