福井県警は2024年1月4日、ある男を逮捕しました。
その容疑は、カラープリンターを使って1万円札を偽造したというもの、
本人は動機について、「遊ぶ金が欲しかった」と供述しているといいます。
いつの時代もお金の偽造は行われるものですが、
戦国時代の場合は、どうやら違う理由があったようで…!?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
※漫画の5ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>●撰銭とは?
永禄12年(1569年)2月28日、織田信長は京都に対し、撰銭に関する法律を出します。
この「撰銭」とは何でしょうか?😕
高木久史氏は「売買や納税などで銭を受け渡しするときに、特定の銭を排除したり、受け取りを拒む行為」としています(『撰銭とビタ一文の戦国史』)。
受け取ってもらえない銭があったというのですが、店側はなぜ受け取る銭と受け取らない銭とを区別したのでしょうか?
現在であれば、受け取ってもらえない貨幣というのは偽造した物でしょう。
これと同じく、当時も偽造された銭があったのです。
では、撰銭令は何を命じた物であったのでしょうか。
偽造した銭を受け取るな、というものであった…と思いきや、なんと、「偽造された物でも受け取れ」という内容なのですね!😱
信長はなぜこのようなムチャを言ったのでしょうか?
その背景を見ていこうと思います。
●銭ききん!?
古代の日本は和同開珎などの皇朝十二銭を作っていましたが、人々の間には広まりませんでした。
その理由としては、次のものが挙げられます。
①当時の日本の生産力が乏しかったので、品物の数が限られており、物々交換をする方がシンプルで効率が良かった。
②当時の日本は生産力が乏しく、市場が開かれる場所は非常に限られていたので、銭を使う機会が少なかった。
③朝廷がつけた皇朝十二銭の価値設定がふざけたものだったから(和同開珎の次に出された万年通宝は和同開珎10枚分の価値があると設定したので、商人は万年通宝と商品を交換するのを嫌がったり、価格を上げたりして、市場が混乱した)。
しかし、次第に生産力が増し、余剰生産物が出てくると、売るために作物を作る者が現れたり、作物を作らず、作物を購入して生活する職人として生活する者が登場したりしてきます。
市場に多くの種類の商品があふれてくると、物々交換では効率が悪くなってきます。ある人が魚を持っていたとして、茶碗を買おうとしても、茶碗を作る職人が魚は足りているから入らない、と断ることもあったでしょうし、店頭に、商品と米はどれだけで交換、魚はどれだけで交換…と羅列して書くのも大変だったでしょうし、市場に持ち込まれる米や魚の量で米や魚の価値も変動するので、ややこしいことこの上なかったでしょう。
そこで人々は物々交換から一歩進んで、全ての人が必要とする物=米や布を交換手段として使用するようになったのですが、米や布はかさばりますし、いちいち米や布と交換してから物を買うのは面倒です。
そこに現れたのが宋銭でした。
宋銭は中国の宋(960~1279年)で作られた銅銭ですが、1080年頃には毎年600万貫(枚数にして60億枚!)あまりも作られており、非常に大量にあったので外国に向けて輸出もされていました。
横山知輝氏は『マーケット進化論』で「朝廷および鎌倉幕府は、当初、宋銭の利用を禁止していました。荘園領主が代銭納(中国銭による年貢の納入)を認めるようになると幕府は方針転換します。莊園領主にとっては、年貢・公事として輸送された物資を必要な物資と交換したりそのために換金することよりも、代銭納を認める方が早かったのです。」と述べていますが、人々は交換手段として便利な銭を好んで使用するようになり、1200年には土地の購入で使用したものの76%が米で、17%が銭であったのが、1250年には米が36%、銭が64%と逆転します。
こうして日本にも貨幣経済が浸透するようになったのですが、問題は銭の生産を外国に頼っているという事でした😓
大量に銅銭を作っていた中国ですが、次第に銅が欠乏してくると、12世紀末には「銭荒」(銭ききん)という状態になり、1199年には日本と高麗に対し銅銭を持ち出すことを禁止するまでになります。
生産量が増え、貨幣経済が進展し始めた矢先にこれです。
さらに、明(1368~1644年)の時代には海禁政策がとられ、貿易が制限されます。
明は民間の貿易を禁じ、国家間の朝貢貿易だけを認めるようにしたのです。
さらに、1436~1503年まで明は銭を発行しなくなり、その後は発行はしているものの少量で、しかも真鍮が混ぜられたものでした。中国の銅不足は深刻になっていたわけです。
これらの結果、日本の人々は銭不足にあえぐことになりました。
そこで人々が考えたのは、銭を作る事でした。
高木久史氏によれば、出土する銭のうち、14世紀の後半から、日本で作られた模造銭が見られるようになるそうです。
これに影響を与えたのは、14世紀に中国から硫化銅を精錬する技術が伝わった事でした。
それなら幕府が作ればいいのに、と思うのですが、14世紀は南北朝の動乱の時期で、幕府は銭を作るどころではありませんでしたし、動乱終結後も、室町時代は中央の力が弱く、守護大名の力が強い地方分権な時代であったので、幕府に銭を生産する力が無かった、というのもあって、幕府は銭を生産することはありませんでした。
銭の私造は進展(?)し、15世紀には模造ですらない、文字の入っていない銭(無文銭)が堺を中心に日本で作られるようになります。
また、中国でも銭不足にあえいでいたので、私造が行われました(これを南京銭という)が、これが密貿易で日本に輸出されていました。
1561年に明の鄭若曽が書いた『日本図纂』には、「倭は自ら鋳銭せずに、ただ中国の古銭を用いる。千文ごとの価格は銀四両である。福建私新銭のごときは、千文ごとの価格は銀一両二銭である。ただ永楽通宝、開元通宝の二種は用いない」とあります。
「福建私新銭」というのは、中国で作られた模造銭のことですね。品質が落ちるため、4分の1の価格で取引されていることがわかります。
しかし、これらの私造や密貿易での輸入で得られる銅銭の量は限定的であり、人々の高まる貨幣需要を満たすものではありませんでした。
『妙法寺記』には、大永5年(1525年)の記事に「銭につまること無限」とあります。
「つまる」とは窮する、行き詰る、ということですから、銭について世の中がのっぴきならない状態に陥っていたことがわかります。
享禄2年(1529年)の項には「代一向無御座候。去間銭飢渇と申候」とあります。
これは、「代」(商品を買う時に渡す銭)が全く無くなってしまったが、そのため人々は「銭飢渇」(銭が欠乏して苦しむこと)と言った、…という意味になりますが、この後、「銭飢渇」についての記述が『妙法寺記』に頻繁に見られるようになります。
・天文2年(1533年)…「銭けかちにて御座候」
・天文3年(1534年)…「銭飢渇にて御座候」
・天文11年(1542年)…「銭飢渇にて御座候」
・天文16年(1547年)…「銭飢渇にて御座候間売買安し」
・天文23年(1554年)…「銭飢渇にて候」
・弘治2年(1556年)…「銭飢渇にて御座候」
天文16年に「売買安し」とありますが、これはうれしいんじゃないか、と思うかもしれませんが、良くないことなのですね。
みんな銭が欲しい、需要が高まっている。でも銭の供給が滞っている。需要が高くて供給が減れば、その価値は急騰します。例えばキャベツが銭の代わりだったとして、それまではキャベツ1玉でレタス1個と交換できていたとします。でも、みんなキャベツが欲しいのに、キャベツが不作になってしまったら、キャベツの価値が高騰し、人々はレタス3個を出すから、キャベツと交換してくれ、と言い出すようになります。そうなると、レタスの価格は、以前と比べて3分の1になってしまったということになります。
つまり、交換手段としているものが不足しているから、物の値段が下がっているのですが、その交換手段となる銭が無いから、人々はいくら安くても買うことができないわけです。
このように、日本の銭不足は深刻なものになっていました。しかし、そのような状態であるにもかかわらず、商売をする者は撰銭を行ない、正規の銭(精銭)と模造銭・無文銭などの悪銭を区別して、正規の銭でないと物を売ろうとしませんでした。
まぁ仕方ない面はあります。
現在の日本で、ある店がカラーコピーされた紙幣を受け取ったとして、店がそれを使って別の店で買い物ができるかといえばできないでしょうから。
●撰銭令の内容
[大内氏の撰銭令]
一、銭をえらふ事
段銭の事ハ、わうこ(往古)の例たる上ハ、えらふへき事、もちろんたりといへとも、地下仁ゆうめんの儀として、百文に、永楽、宣徳の間甘文あてくハへて、可収納也、
(段銭[田地の面積に応じて課された税]は、大昔からそうであるように、銭を選んで精銭で納めることは当然であるが、庶民のために大目に見て、100文につき永楽通宝・宣徳通宝[明の宣徳年間(1425~1435年)に作られた銅銭]を20文混ぜて納めてもよいこととする)
一、 り銭(利銭)并はいゝゝ(売買)銭事
上下大小をいはす、ゑいらく、せんとくにおいてハ、えらふへからす、さかひ銭とこうふ(洪武)銭(なわ切の事也)、うちひらめ(打平)、此三いろをはえらふへし、但、如此相定らるゝとて、永楽、せんとくはかりを用へからす、百文の内二、ゑいらく、せんとくを卅文くハへて、つかふへし、
(金の貸し借りや、売買の際に、永楽通宝・宣徳通宝は排除してはならない。堺銭[無文銭]・洪武通宝[明の洪武年間(1368~1398年)に作られた銅銭]・打平[中国の大型銭の周りを削って日本で通用している銭の大きさにしたもの、もしくは、銭銘の入っていない銭。無文銭との違いは穴が開いているかいないか]の3つは排除するように。ただし、このように定められたからといって、永楽通宝・宣徳通宝ばかり使ってはならない。100文のうち30文の割合で混ぜて使用するようにせよ)
…この法令からは、当時、洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝・堺銭(無文銭)・打平が精銭ではなく悪銭として扱われていたことがわかります。
大内氏はこの状況の中で、洪武通宝を除く明銭を宋銭と同価値で扱うこと、洪武通宝・堺銭(無文銭)・打平は使用を禁止することを命じています。しかし、明銭は使用する枚数の上限を定めており、宋銭と比べて一段低く扱っています。
(この取り合わせの初見は、千枝大志氏の「15世紀末から17世紀初頭における貨幣の地域性」によると、1436年の伊勢国の記録にある、銭の貸し借りの際に「あくもん15文さし」[100文のうち、悪銭を15文混ぜて使用]であったようです。伊勢神宮地域ではその後も、「10文サシ」~「40サシ」…という割合で悪銭を混ぜて使用していたという記録が残っています)
鈴木公雄氏『銭の考古学』には、永楽通宝について次のように書かれています。
…出土備蓄銭の調査を行っていると、永楽通宝が含まれている場合はすぐにわかる。それは量が多いからではなく、永楽通宝がきわめてしっかりとした銭貨だからである。しっかりとした銭貨とはなにかというと、銭貨の大きさ(直径)、重さ、厚さなどが均一で、永楽通宝という文字も鮮明に鋳出されているからである。他の多くの銭が擦り切れて文字もあまり鮮明でなくなっていたり、薄っぺらな銭であったりするなかで、永楽通宝はひときわ目立つ存在なのである。…
明銭(とくに永楽通宝)は良質な貨幣なのです。1504年、九条氏が自身の荘園に対して出した撰銭令には、
…料足(銭)のうち、「永楽」は「往古」(大昔)から使用していたものであるのに、近年これを選んでいる。全く不当なことである。
…とあり、永楽銭が普通に精銭として通用していたことがわかります。それなのに忌避されるのは、やはり中国での明銭に対する信用低下の影響によるものでしょう(洪武通宝だけ悪銭扱いを受けているのはよくわからない。洪武通宝だけ1文、2文、3文、5文、10文の5種類が作られて、その大きさも違っていたことが関係しているのか?東野治之氏は『貨幣の日本史』で「洪武通宝については、当十銭以下、多種多様な大銭が発行されており、一文銭にも大小いろいろあったことが想起される。そうなれば、撰銭が起こるのも無理はないだろう」と述べている。また、洪武通宝について条文には「なわ切の事也」と但し書きがある[意味は不明。「新寛永通宝分類譜」のサイトでは「縄を切るぐらい薄い」ことだとしている]が、これも関係しているのだろうか。高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、九州は他地方と比べ洪武銭の出土する比率が高く、普及していたことが認められること、また、洪武銭の模鋳が行われていたことを挙げ、「九州における洪武銭の特殊な流通状況と関連するものであろうか」と述べている)。
大内氏撰銭令から70年も後の事になりますが、1555~1557年にわたって日本の五島(長崎県五島市)→松浦(長崎県松浦市)→博多(福岡市)→豊後(大分県)に滞在した中国人から日本の情報を聞き取るなどしてまとめられた『籌海図編』には、「永楽通宝、開元通宝(唐銭)の二種は用いない」とあり、この時期になっても九州地方で永楽通宝が使われていなかったことがわかります。
貿易商人にとって中国との貿易で使用しづらいというのは大問題でした。
商人たちは、中国にならって、明銭で支払いをしようとする者に対し撰銭を行なって、受け取りを拒否するか、複数枚で1文として受け取ろうとしたことでしょう。
こうなるとどのような問題が起こるでしょうか。
1480年の中国では、官僚が次のような上奏を行なっています。
…近日、商人たちは法令を守らず、悪巧みをし、洪武・永楽通宝などを選別して使わなかったり、あるいは枚数を増やして1文と換算するので、米は高騰し、雑多な日用品もみな値が上がり、兵士や庶民はますます生活が苦しくなっています。…
撰銭が実施されると物価の高騰が起こるというのですね。例えばこれまで永楽通宝1枚でAの商品が買えていたのに、2枚出さないとそれが買えなくなったとすると、値段は2倍になった、ということになります。
これに加え、高木久史氏によると、当時は大内領国で物価をさらに上昇させる次の2つの出来事が起きていたといいます。
①大内氏は撰銭令を出した年に、家臣に対し山口への集住政策を実施していた(1485年、家臣に対し、自身の領地に滞在する日数を制限。翌年には、無許可で自身の領地に戻った家臣を追放すると規定)。
高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、この政策に「伴う人口増は、都市山口における食料需要を喚起するだろう」、撰銭令は「都市人口増加に伴う食糧需要増加への対策として発令された」のではないか、と述べています。
実は、大内氏の撰銭令には第三条が存在しており、そこには、
「一、米をうりかふにふたう(不当)をかまふる事
役人判形のますにとかき(斗概)をいかにも正直にあてゝ、うりかふへきところに、てをそへて、くりはかりにてうるによりて、諸人しうそ(愁訴)在之、所詮京都はうやう(法様)のことく、時によりて一日のうちたりといふとも、そうけん(増減)ハあるへし、たとへは、今日まては百文に壱斗充たりといふとも、はいはいの米方々より出さらん時ハ、役所へ案内をへて、わし(和市)をけんすへし、
(米の売買の際は、決められたサイズの升に、升を平らにならすための斗概を正直にあてるべきであるのに、手を加えてそうしない[売る場合だと奥から手前方向に升をならすことか。清水克行氏「米はまへがき」には、人は米をすくう時に手前側に米が寄るので、奥から手前にならすと普通にやるより升の中の米は減る、とある]ので、人々が困って歎き訴えてきている。しかし、市場に入ってくる米の量にも日々増減があるだろう。例えば、ある時は100文で1斗売っていたとしても、市場に入ってくる米が少ない時には、役所に報告した上で、1斗に満たず減量して売ってもよい)」
…と米の売り買いに関することが書かれているのですね。しかも、撰銭令は「右事かきのことく、米をうりかい銭を用へし、若此制札前をそむくともからあらハ、けんもん(権門)其外諸人被官たりといふとも、可被処重科者也」と結ばれています。高木氏はこれに注目して、「大内氏撰銭令は米需給に対しての統制を意図している。つまり、まず何よりも米需給に関することが問題となっており、その対処策として撰銭令が発令されていると解釈できる」と述べています。
②このころ、堺商人が琉球へ銭を輸出し、博多商人が琉球から銭を輸入する、つまり堺→琉球→博多という回りくどい経路で銭が流通していた。そこに応仁・文明の乱が起こり、堺を支配する細川氏と博多を支配する大内氏とが交戦した。乱中、細川氏は堺から琉球への銭の移出を規制した。これが大内氏の領国で銭を不足させた。
銭が入りづらくなったということは、精銭が手に入りづらくなる、ということでもあります。精銭の追加供給が乏しくなったうえに、精銭として扱われていた明銭の地位が低下し、精銭から脱落したとなると、精銭はかなり貴重なものとなったでしょう。
日本で一度に大量の銭が発見されることがあります(一括出土銭)。鈴木公雄氏『銭の考古学』によると、寺院の付近で発見された出土銭は、「きわめて大量の銭貨が埋蔵されている場合が多い」そうです。当時、寺院は寺に寄進された銭に加えて、永原慶二氏『下剋上の時代』に「大荘園領主として農民から年貢をとりたてる立場にあったとともに、…年利6割ー7割2分という高利貸をやっていた」とあるように、多くの土地を持つ上に金融業も営んでおり、相当に潤っていました。他に発見される一括出土銭も持ち主としては、土倉・貿易商人・馬借・武士・村内の有力者が考えられる、と鈴木氏は述べています。さて、この一括出土銭は1998年時点で約353万枚発見されているのですが、その77%は宋銭が占めており、ここから、人々が中国と同じように好銭(精銭)を退蔵していたことがわかります。
そうなると必然的に人々が使用するのは悪銭ばかりになるということになります。
1492年、大内氏領豊前で、近年悪銭使用を禁じているが違反してこれを使いがちで、昨年からは悪銭ばかり使っているというのはけしからぬ、という内容の命令が出されていますが、ここからも、悪銭使用が一般化していたことがうかがえます。
物価が高騰する中、米などを買うのに、価値の低い手持ちの悪銭だけでは足りなくなります。そこで人々は、どのような行動に出るか…銭を自分で作る(私鋳)ようになるのですね(中国の『泉南雑志』には、1606年、干ばつにより米価が騰貴し、「私銭」が盛んになった、「私銭」が禁止されると人々は市を開くのをやめてしまった、米が流入するようになると貨幣流通も元に戻った、とある)。
そうなると、商人たちは撰銭行為をさらに厳しくとり行うようになり、2枚で1文が、3枚で1文、4枚で1文というようになっていき、物価はますます上がることになります。
大内氏としてはこの状況に対応する必要にせまられることになりました。
こうして、撰銭令が出されることになるのです。
ところで、大内氏は物価高騰に苦しむ庶民を救うために撰銭令を出したのではありませんでした。
先にも紹介したように、大内氏は悪銭ばかり使っているというのはけしからぬ、と伝える命令を出していますし、人々が一般に使用していた(使わざるを得なくなっていた)悪銭の使用を撰銭令では禁じています。
ここから、大内氏の撰銭令の目的が悪銭使用の許可…流通貨幣数の増加にあったのではないことがわかります。
高木久史氏は『通貨の日本史』で、戦国大名の撰銭令は、「あくまで政治支配者層の利益の確保が目的であり、社会の通貨需要への対応という発想はない」と述べています。
では、大内氏が撰銭令を出した理由はどこにあったのでしょうか。
ポイントは①納税を精銭で行うように命じたこと、②上限はあるものの納税の際に明銭を混ぜることを認め、明銭忌避の動きを見せる商人に対しては、買い手に明銭だけでの支払いを禁じて配慮は見せてはいますが、明銭の受け取りを拒否してはならない、宋銭などの精銭と同価値に扱うようにと命じ、明銭の通用を維持させようとしたこと、③悪銭の使用を禁じたこと、の3つです。
まず①ですが、大内氏としては精銭の確保が必要でした。
精銭は中国との貿易に欠かせないものでしたし、大内氏は、1515年の書状で、納税の際に撰銭を行う理由として、安芸・石見、土佐の材木購入に必要だからだと述べており、ここから、精銭が遠隔地交易に有効な支払手段であったことがわかります。また、高騰する物価に対し、戦国大名として軍需物資を確保する必要があったので、価値が騰貴する精銭を手に入れてこれを購入しようと考えたのでしょう。
次は②ですが、大内氏はなぜ明銭を保護しようとしたのでしょうか。
それは、永楽・宣徳通宝は国内の遠隔地交易ではまだ有効であり、中国との貿易においても2枚で1文と扱ってもらえる余地があった(堺銭[無文銭]・打平だと受け取ってもらえない)ので、利用価値があると考えられて割合は制限したものの残されたのでしょう。
しかし、この撰銭令は、はた目から見ると明銭の地位向上を狙ったもののように見えますが、大内領国においてこれまで税を納める際に、永楽・宣徳通宝には制限がかかっていなかったのが、明での明銭忌避の傾向を受けて貿易に支障が出ると考えた大内氏が永楽・宣徳通宝での納税に制限をかけたもの、と考えるのが妥当ではないでしょうか。
最後の③の悪銭の使用禁止については、農民が米を売る際に、商人が悪銭で支払うと、農民が精銭で納税することができなくなってしまうからでしょう。
つまり、この法令は大名側が悪銭を排除し、明銭での納税を制限して、納税される精銭の確保を図ったものだったといえるでしょう。
大内氏と同様の行為は、次第に中国とかかわりの深かった地域である西日本に広まっていくことになります。
(中略)※この部分は公開しません<(_ _)>
良質でありながら、中国で嫌われているという理由で精銭から格落ちした明銭。しかし、この明銭には受け皿がありました。中国との縁の薄い東日本です。
日本で出土した永楽通宝のうち、約66%は中部・関東地方で見つかっています。
出土銭は先に述べたように退蔵する必要のあった精銭ですから、東日本で永楽通宝の価値が高かったことがうかがえます。
また、鈴木公雄氏によれば、15世紀末から出土銭に永楽通宝が多くみられるようになるとのことなので、中国で明銭の評価が下がり、それが西日本に波及し、大内の撰銭令が出された頃に、東日本では逆に永楽通宝の価値が高まっていったことがわかります。
時代は下りますが、東日本における永楽通宝の地位の高さを示す、弘治・永禄年間(1555~1570年)の次の史料が残っています。
・1556年、下総国の結城氏の定めた分国法(結城氏新法度)には「撰銭が行われていて売買に不自由なので、これからは領内で使用する銭を永楽通宝に一本化するのはどうか」という議論が行われたが、悪銭以外は使用することに決着した、ということが記されている。
・1560年にある僧が北条氏に対し意見を申し述べたが、その中に「近年、永楽通宝ばかりを使い他の銭を嫌っているが、銭を良し悪しを問わずに、商品の売買が円滑になるようにすべき」とある。
・伊勢国の1565年の記録には、伊勢の大湊へ入る際の入津料について、米がなかったら「永楽」で支払うように、と書かれている。
また、江戸時代に入ってから作られた史料ですが『北条五代記』には、次の内容があります。
…年寄りの人が言うには、近年まで関東では精銭と永楽は同じ値で扱われていたが、北条氏康公が「銭はいろいろあるが、永楽に勝るものはない。以後は関東では永楽一銭だけを使うべしと天文19年(1550年)に高札を立てたので、その後は関東では永楽通宝だけが使われるようになった。当時、他の地域では精銭の中でも永楽は選別して除かれていたので、関東にあった永楽以外の精銭はいつの間にか関西に移り、永楽は関東にとどまって用いられるようになった。
関東では永楽通宝が珍重されたので、それ以外の精銭は関西に移ったというのですが、その逆、関西の永楽通宝が関東に移ることもまたあったことでしょう。
室町幕府が出した1506年の撰銭令には、「あくせん売買の儀一切可停止事」という条文があります。精銭でない悪銭の売買が行われていた、というのですね。
当時、各地でこの銭は精銭、この銭は悪銭で何枚で1文、というのは統一されていませんでした。これを利用してもうけを企む輩がいたのです。
例えばAの地域では悪銭Xが2枚で1文、悪銭Yが4枚で1文だとします。そうなると、悪銭X2枚=悪銭Y4枚ということになります。ある商人が、悪銭Xを2枚出せば(売れば)、悪銭Yは4枚手に入る(買える)わけです。そして別のBの地域では逆に悪銭Xが4枚で1文、悪銭Yが2枚で1文だとします。商人がここに来て、先に手に入れた悪銭Y4枚を出せば(売れば)、悪銭Y4枚は2文分ですから、悪銭Xを8枚手に入れられる(買える)ことになります。こうして、商人は最初にもっていた悪銭Xを4倍に増やせたことになります。こんなボロい商売はありません。その銭が特定の地域でのみ精銭扱いされているならなおさらです。
永原慶二氏は、『戦国期の政治経済構造』で、「銭貨の流通と評価に西国と東国という2つの地域圏が存在」し、「それはおそらく東西商業の結節点である伊勢をおよその境界線として展開したであろう。傾向として、西国の人びとは宋銭を主力とする良銭を残し、永楽銭を伊勢商人等に支払う。伊勢商人等はその永楽銭を東国向け取引にあて、受取り勘定は精銭たる宋銭などで取り、畿内西国との取引にはそれで支払う。伊勢商人等はこうすることによって通常の意味の商業利潤だけでなく、永楽銭と精銭の評価差から生ずる一種の為替利潤を大きく手にすることができるはずである」と述べています。
ここに出てくる伊勢商人は、当時東日本において手広く活動していたようで、次の事例が見受けられます。
・鎌倉時代…伊勢神宮の所領である御厨が東海・関東地方に多く存在しており、この年貢の輸送を請け負う船が伊勢と関東を盛んに行き来していた。
・南北朝末期…綿貫友子氏によると、南北朝末期に関東の品川にあった船のほとんどが伊勢で作られたものであった。
・戦国時代…東海の駿河国を占領した武田氏は、小浜氏を水軍の将としているが、この小浜氏は伊勢出身であった。また、伊勢御師の蔵田五郎左衛門は越後国の上杉謙信に仕えて御用商人になっている。
また、金児紘征氏は「秋田と伊勢商人」で、「日本海に比べ太平洋は海が荒れることが多いが、操船に長けていた伊勢海賊衆はすでに中世には伊勢と東国の間で海上輸送を盛んに行っていた。船団を組んで物資を運び、それは「伊勢廻船」と呼ばれた。戦国時代末期には伊勢商人は各地の戦国大名と結びつき、物資を運んでいた」と述べています。
これらの事実から、永原慶二氏は「西国と東国の結節点的位置」にある伊勢の「大湊が東国商業の中心的港湾都市であったことは明らか」であり、伊勢において、先に紹介したように米が無ければ永楽通宝を納めさせていたほど重視されていた永楽通宝が東国において「高い評価を受けていたのも、納得できる」とし、東国では「伊勢とくに大湊をカナメとする東国永楽銭基準通貨圏」が成立していたと推測しています。
東日本の経済に大きな影響力を持っていた伊勢商人が永楽通宝を主に使用していたことが、東日本における永楽通宝の主要流通銅銭化を促したのでしょう。
さて、この「東国永楽銭基準通貨圏」にどっぷり浸かっていたのが、誰あろう、織田信長その人でした。
織田信長といえば有名なのが旗印に永楽通宝を使っていたことですね。
小瀬甫庵が江戸時代初期に書いた『信長記』には「信長公の旗は、一幅の黄絹に永楽の銭を付け、招きには南無妙法蓮華経のはね題目を書付けたる」と、信長が永楽通宝を旗印として使用していたと書かれ、1637年に作られた『諸将旗旌図』には信長の永楽通宝の旗印が描かれており、17世紀中期に書かれた『長篠合戦図屏風』にも信長の側に永楽通宝の旗印が描かれています。
また、服部英雄氏は「日本中世国家の貨幣発行権」で、信長が永楽通宝を旗印として採用しているが、「信長が永楽通宝に強固なパワーの根源を見いだしたのは、自身の鋳造に関連すると思われる」「貨幣博物館には「日本公鋳銭」として分類されている100枚以上の永楽通宝がある。金銭のみならず永楽通宝銅銭自体を秀吉が鋳造したとみることに、さほど多くの異論はあるまいが、それは信長の時代にまで遡ると考えたい」と記し、信長が永楽通宝の鋳造を行なわせていたのではないか、と推測しています。
信長が銭を作っていた!…ビックリですが、考えてみれば、全国的に中国銭の私鋳が行われていたのですから、財力のある信長が銭を作らせていなかった、とする方が難しいのかもしれません。
●信長による撰銭令
さて、いよいよ、信長の撰銭令の内容について見ていこうと思います。
撰銭条々(永禄12年(1569年)2月28日)
①ころ・やけ銭・せんとく 二文たて、
(洪武通宝・焼銭[火災で焼けた銭]・宣徳通宝は2枚で1文として扱う)
②ゑミやう・大かけ・われ・すり 五文たて、
(恵明[不明。「穢冥」をあて、汚い銭とする説もあるそうである]・大きく欠けたもの・割れているもの・文字が摩耗して見えづらくなっているものは5枚で1文として扱う)
③うちひらめ・なんきん 十文たて、
(無文銭・南京銭は10枚で1文として扱う)
④此外不可撰事、
(これ以外の銭は選んではならない。つまり、同一に扱うということで、①~③以外の銭は1枚で1文として扱う、ということである)
⑤反銭・地子銭幷諸公事等、金銀・唐物・絹布・質物・五穀以下、此外諸商売有来時のさうは(相場)以テ、此代にてとりかわすへし、付、事を撰銭ニよせ、諸商売物かうしき(高色)になすへからさる事、
(税金や物の売り買いは、①~④に記したように悪銭を取り扱う事。今回撰銭令が出たからといって、以前より高い値段で商品を売ってはならない)
⑥諸事も(の)とりかわし、撰銭と増銭と半分と宛たるへし、但此外ハ其人のあい台したるへき事、
(銭を渡すときは、精銭と増銭[複数枚で1文となる銭]を半分ずつ使用する事)
⑦悪銭売買堅停止事、
(悪銭を売買することは禁止する)
⑧撰銭の料未究ニ押入、狼藉ニおいてハ、其町として相支、注進すへし、至見除之輩、同罪たるへき事、
(撰銭令の内容に違反したものの処罰が決まる前にその店に入り乱妨をした者は、その町の者が取り押さえること。見逃した場合は、同罪とする)
過料事(処罰について)
⑨壱銭売買、於撰銭輩者、過料十文可出定、
(1文単位の少額の売買について撰銭令に違反した者は、罰金10文とする)
⑩十銭、同過料壱百文、
(10文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金100文とする)
⑪百文以上於撰銭ハ、過料一倍、
(100文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金200文とする)
精撰追加条々(永禄12年3月16日)
①以八木売買停止之事、
(米を銭の代わりとして使ってはならない)
②糸・薬十斤之上、段子十端之上、茶碗之具百の上、以金銀可為売買、但金銀無さハ、定之善銭たるへし、余之唐物准之、此外ハ万事定之代物たるへし、然而互有隠密、以金銀売買有之ハ、可為重科、
(糸・薬10斤[6㎏]以上、緞子[絹織物の一種]10反[約120m]以上、茶碗などの道具100個以上を購入するときは、金や銀を使用すること。金や銀が無い場合は、基準銭を用いてもよい。中国からの輸入物は同様に扱う。これ以外の品物については、撰銭令で定めた銭を使用する事。隠れて金銀を使用した者は、重罰とする)
③付、金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代二貫文
(金10両は15貫文[=15000文。つまり、金1両は1500文]と交換できる。銀子10両は2貫文[=2000文。つまり、銀1両は200文]と交換できる)
④祠堂銭、或質物錢、諸商売物并借銭方、法度之代物を以て可為返弁、但金銀於借用ハ、以金銀可返弁、付、金銀無之ハ、定善代物たるへき事、
(寺院から借りたお金や質物、商売、その他の借金については、撰銭令で定めた銭を使用する事。金銀で借りた場合は金銀で返すこと。ただし、金銀を持っていない場合は、基準銭で支払う事)
⑤見世棚之物、銭定に依而、少も執入輩あらハ、分国中末代商売停止たるへし、
(店の商品について、撰銭令で定められた悪銭と交換するのを嫌がって、商品を売らないような者がいれば、信長の領国では子々孫々に至るまで商売を禁止する)
⑥付、諸商売に依て、金銀両目替停止、并売手かたより金銀を不可好之事、
(金銀と銭を両替してはならない。売り手側が金銀で支払うことを要求してはならない)
⑦大小に不寄、荷物・諸商売之物、背法度輩有之ハ、為役人申届可相究、若不能信用ハ、荷物悉役人可被投之事、
(金額によらず、荷物や商品のことで、撰銭令に反する者がいれば、役人に報告する事。信用できない銭を使用している者がいれば、預かった荷物を役人に引き渡すこと)
⑧科銭之儀、一銭より百銭二至らハ百疋たるへし、百疋之上にいたらは、千疋たるへし、其外准之事、
(罰金について、1銭~100銭までの場合は100疋[1疋=10文。つまり、1000文=1貫文]、100銭以上の場合は、1000疋[10000文=10貫文]とする)
⑨銭定違犯之輩あらハ、其一町切に可為成敗、其段不相届ハ、残惣町一味同心に可申付、猶其上ニ至ても手余之族にをいてハ、可令注進、同背法度族於告知ハ、為褒美要脚伍百疋可充行之事、
(撰銭令に違反する者がいた場合、その町の者で処罰せよ。撰銭令に違反した者を報告しない場合は、惣町[町を束ねる組織。京都でいえば、上京や下京]が処罰せよ。惣町でも手に余る場合は、信長に報告せよ。違反している者がいると知らせた者には、褒美として500疋[=5000文=5貫文]を与える)
…だいぶ細かい法令となっていますね😧
これまでの撰銭令は、売買の際における、精銭と撰銭の対象となる銭との取り合わせの割合を指定していました。これを信長の撰銭令と比較してみましょう。
1485年大内氏撰銭令:100文に30文(永楽通宝・宣徳通宝)
1503年幕府撰銭令:100文に32文(永楽・洪武・宣徳・破銭)
1512年幕府撰銭令:100文に20文(古銭・洪武・宣徳・永楽)
1542年幕府撰銭令:100文に32文(永楽・洪武・宣徳・嘉定・かけ銭)
これに対し、信長の撰銭令では、100文に50文と精銭以外の銭の混入割合を高く設定しており、さらに、混ぜることが許された銭の種類についても、洪武・「やけ銭」・宣徳・「ゑミやう」・「大かけ」・「われ」・「すり」・打平・南京と、かなり増えていることがわかります。
また、信長撰銭令がそれまでのものと大きく違う点は、永楽通宝が撰銭対象の銭となっていないことです。これは信長が「永楽銭基準通貨圏」で暮らしていたためでしょうか。
そして、信長撰銭令の大きな特徴は、現在確認できている畿内で出された撰銭令の中で、初めて複数枚で1枚とカウントする「増銭」の存在をおおやけに認めていることです。
増銭については、畿内以外では1493年に肥後国相良氏が出した「相良氏法度」に見ることができます。
その第五条に、「悪銭之時之買地之事、10貫字大鳥四貫文にて可被請、黒銭十貫文之時者、可為五貫」とあるのですが、これは、悪銭を使って土地を買い戻す際は、精銭4貫文の場合は「大鳥」10貫文、精銭5貫文の場合は「黒銭」10貫文で支払うこと、というもので、つまり「大鳥」は2.5枚で精銭1枚、「黒銭」は2枚で1枚と扱われていたわけで、「大鳥」や「黒銭」が精銭と同価値とみなされていなかったことがわかります。
法令に「増銭」の事が記されているものはわずかですが、書状には実例がけっこうのこっていて、いくつか紹介したいと思います。
・1488年、加茂別雷神社は、悪銭1000文を「本銭」511文として扱った。この場合、悪銭はだいたい2文で「本銭」1文として扱われていたことがわかる。
・豊前国のある土地について、1555年の書状には「定銭(加地子。領主に納める税金)反別40文」「加地並銭反別100文」とあり、精銭だと40文だが、「並銭」であれば100文納めることになっていたことがわかる。つまり、「並銭」は2.5枚で1文扱いであった。
・1557年、益田氏は毛利と和睦するにあたり必要となった礼銭を用意するため、家臣たちにその費用を割り当てたが、ある家臣には「精料50文」を負担させたものの納められてきたのは「南京200文」で、益田氏はこれの受け取りを認めている。これから、精銭1文=南京4文の交換レートであったことがわかる。
・1557年の周防国の記録には、60石を売って得た「新銭96貫文」で、「古銭」「38貫400文」と「二和利半」の割合で交換した、とある。この場合、「古銭」1文=「新銭」2.5文である。
・1559年、周防国の記録には、「35貫文…但新銭105貫文」、「200文…但南京2貫文」とあり、この場合、「新銭」は精銭の3分の1、「南京」は精銭の10分の1として扱われていたことがわかる。
・1569年?、越前国二上国衙領が大徳寺に納税した際の書状に、1貫450文は悪銭4貫500文を「三文立」で売って得たもの、634文は悪銭2貫143文を「三文立」で売って得たもの、とある。ニ上国衙領は、精銭を得るために悪銭3枚=精銭1文の交換レートで売却していたことがわかる。ただし、ぴったり悪銭3枚=精銭1文になっているわけではなく、1貫450文の3倍は4貫350文のはずであるし、634文の3倍は1貫902文のはずである。つまり、それぞれ3倍分よりも、悪銭を150文・241文多く売っていることになる。
これらを見ると、だいたい悪銭は2~4枚で精銭1枚扱いされている場合が多かったことがわかります。
その中で1559年周防国の書状に見える「南京」=精銭の10分の1という、すさまじい低価値扱いが目につきますが、この「南京」は信長撰銭令でも打平とともに「10文たて」となっています。
いったい、このひどい扱いを受けている「南京」とはどういう銭なのでしょうか?
南京といえば中国南部の中心都市なのですが、この場合はどうやらその「南京」を指すのではないようで、『大辞泉』には「南京…中国から、また東南アジアから中国を経て渡来したものの意を表す」とあり、日本は中国からやって来たものを「南京豆」とか「南京米」というように、「南京」とつけて呼んでいました。
『日本一鑑』(1556~1558年に日本に滞在していた鄭舜功により執筆)には、倭人は中国の銭を貴び、龍渓(福建の漳州にある私鋳銭生産の拠点)の偽造銭さえも意に介さず輸入している、とあり、『籌海図編』(1562年成立)には、日本はもっぱら中国の旧銭を使っている。旧銭1000文は銀4両、「福建私新銭」1000文は銀1両2銭にあたる、と書かれていて、日本が弘治・永禄年間(1555~1570年)に福建産の銭を輸入していたことがわかりますが、『李朝実録』中宗39年(1544年)6月壬辰条には、「中国から漂着してきた者になぜ来たのか、と問うと、銀を得るために日本に向かったが、風に吹かれてここにやってきたのだ、と言う。…元の時代、唐人は遼東に送還していた。南京出身者なら、南京に送還していた。この者は福建出身であり、福建とは南京のことですから(「福建乃南京也」)、南京に送還するべきです」とあり、どうやらこの福建で作られた銭を「南京」と呼んでいたようです。
『籌海図編』によると「福建私新銭」は「旧銭」の3.3分の1ほどの価格で取引されていたようで、悪銭に分類されるような銭であったようです。
福建銭(南京)について貴重な記録を残してくれているのが1596年に書かれたオランダのハウトマン艦隊の日誌で、これには、「カイシィ…と名付けられた小銭…は、中国の福建で鉛に銅を混ぜた低質の金属から作られた。…純粋な銅のチエン(銭。精銭か)…は15カイシィに値する。カイシィは強く落とすと割れる。一晩塩水につけておくと錆でくっついてしまう」とあり、かなり劣悪なものであったことがわかります💦(また、ハウトマン艦隊の日誌にはカイシィのスケッチもあり、そこには「咸平元宝」とあるので、北宋銭を模造したものであったようである)。
中国の記録にも次のような物があります。
・『燕聞録』…中国では正徳年間(1506~21年)には3枚で1文、4枚で1文の質が悪い新銭が現れ始め、嘉靖年間(1522~66年)になると10枚で1文というひどい銭が出現した。この銭は、ほぼ鉛で、紙のように薄っぺらい銭であった。
・『碧里雑存』…1517年の北京では人々は「板児」(薄っぺらい銭)と呼ばれる「低悪之銭」を用いて、2枚で1文として使っていた。
・『明実録』嘉靖15年(1536年)…当時の偽造銭は触れれば崩れ、文字は何が書いてあるかはっきりしないまでに極まっていたようです。おそらくこのような銭が「南京」と呼ばれる銭の正体であったのではないでしょうか。
嘉靖年間に登場した、このような銭が日本で「南京」と呼ばれるようなものだったのでしょう。
『日本一鑑』『朝鮮王朝実録』によると、1530~1540年代に福建人が日本に多く渡航するようになった、とあります。この際に日本に「南京」が多くもたらされたのでしょう。
黒田明伸氏「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」には、日本で「なんきん」「きんせん」と呼ばれた福建の悪質銭は1540年頃から流入し、日本の撰銭問題に拍車をかけていた、とあります。
ただし、「きんせん」と読む「今銭」「京銭」は、1504年九条領撰銭令・1506年撰銭令に登場しているので、「京銭」が「南京」であれば1500年代初めには早くも日本に入ってきていたことになります。
中国の1456年の上奏には蘇松(江蘇省)で私鋳銭が作られ、それは大きさが不揃いで、錫や鉄が混じっている、とあり、1477年の上奏によると、このような悪質な私鋳銭の生産地はさらに杭州(浙江省)・臨清(山東省)に広がっていたことがわかります。1500年代初めに入ってきていた「京銭」というのはこれらの場所で作られた銭だったのではないでしょうか。
さて、日本の「南京」については、甲斐の『勝山記(妙法寺記)』には「此の年(1555年)銭に南金と云銭出き候て、代をえる事無限」とあり、弘治年間には東日本まで使用が広まっていたようです。
さて、この質の悪い「南京」(京銭?)ですが、これまで出された撰銭令を見ると、1542年の幕府撰銭令では排除対象になっていたのですが、次の幕府撰銭令である(三好氏が出したとされる)1566年幕府撰銭令では排除対象になっていません。一方で1566年幕府撰銭令は「新銭」を排除対象としています。
この「新銭」とはなんなのか?
鈴木公雄氏は「出土銭貨から見た中・近世移行期の銭貨動態」で、模鋳された日本製の明らかに新銭とわかる銭貨を指して、「新銭」とか「日本新鋳料足」と呼んだのであろう、と述べていますが、先に述べたように品質の高いものならいざ知らず、排除されるような状態の悪い銭が日本製か中国製か、区別がついたとは思えません。ではひっくるめて「新銭」と呼んだのかと思いきや、先に紹介した1559年の周防国の記録では「南京」と「新銭」が別々に登場しているため、「南京」と「新銭」が同じ銭ではなかったことがわかります。では「新銭」は何なのかといえば、日本で作られたとはっきりわかる銭、「打平」などと呼ばれた無文銭のことだったのではないでしょうか。代々出された撰銭令を見ると、排除対象に「打平」が書かれている場合は「新銭」が無く、「新銭」が書かれている場合は「打平」がありません。このことからも、「新銭」=「打平」(無文銭)説を裏付けることができます。
さて、この「新銭」「打平」ですが、1565年東福寺撰銭令・1566年幕府(三好氏)撰銭令では「新銭」が、1566年浅井氏撰銭令では「打平」が、それぞれ排除対象となっています。
しかし、信長はこれを排除対象としませんでした。それどころか、排除対象とする銭を定めず、全ての銭を使用可能にするように命じています。
ここから、信長が畿内で初めて「増銭」を公認した理由もわかってきますね。状態の良さに関わらず全ての銭を同価値でOKとしたら、市場で混乱が起きるのは必至だからです。
しかし疑問なのは、信長がなぜ全ての銭の使用を許可したのか?ということです。
それには当時の切迫した銭事情が関係していたのです…!
●銭払いから米(現物)払いに変化したナゾ
日本は奈良時代まで現物払い(物々交換)が主で、皇朝十二銭が作られてからは銭払いに進みました(使われていたのは畿内が中心であるとは思いますが)。それから貨幣政策の失敗により11世紀に現物払いに戻りましたが、渡来銭の流入により13世紀後半には貨幣経済が再び進展するようになっていっていました。物々交換から貨幣経済に移行するというのは自然な流れです。
アダム・スミスは『国富論』で次のように言っています。
「ある人がある商品を自分で必要とする以上にもっているのに、他の人はそれをもっていない、と仮定しよう。すると前者は、この余剰物の一部をよろこんで手放すだろうし、後者もそれをよろこんで購買するだろう。ところがもしこの後者が、前者が必要とするものをたまたまなにももっていないなら、かれらのあいだにはどんな交換も行われるはずがない。…このような事態の不便を避けるために、社会のあらゆる世事にたけた人たちは、…おのずから事態を次のようなやり方で処理しようとつとめたにちがいない。すなわち、…ほとんどの人がかれらの勤労の生産物と交換するのを拒否しないだろうと考えられるような、なんらか特定の商品の一定量を、いつも手元にもっているというやり方である」(中公文庫版・大河内一男訳)
ある商品を欲しいと思っていても、買い手の持ってきた物品が売り手の欲しいものでない時、それを手に入れることができない…これが物々交換の不便な点です。そこで、みんなが価値がある(欲しがる)と思うようなものを貨幣として利用する事になります。
日本だと米や布であり、朝鮮半島でも長く布が物品貨幣として用いられてきました。しかし、物品貨幣は金属貨幣にとってかわられることになります。その理由について、アダム・スミスは次のように述べています。
「…どこの国においても人々は、反対しようのない理由から、貨幣として用いるために、他のあらゆる商品に勝るものとして最終的に金属類を選ぶことにきめたように思われる。金属類ほどもちのよいものは他にないのであって、金属は他のどんな商品にくらべても保存による損耗が少ないばかりか、なんの損失もなしに任意の数の部分に分割できるし、またこの分割部分は、損耗なしに鎔解によってふたたび容易にひとつにするこる。この性質こそ、同じように耐久性のある他のどんな商品にもないものであり、そしてこの性質が、他のどんな性質にも勝って、金属類を商業と流通の用具に適するものにしているのである」
三上隆三氏は『貨幣の誕生』で、金属貨幣の優れた点を次のように挙げています。
①どの部分をとっても同じ質を持つ(品質の均一性)
②容量に比して価値が大きい(持ち運びに便利)
③時間・空間を貫いて価値が保全・維持される(摩滅[へら]ない・腐敗[くさら]ない・破損[つぶれ]ない・燃亡[もえ]ない
④量的に分割でき、そしてその分割したものが再び元の状態に合成できる
米だと重いですし、くさりますし、燃えたらなくなります。しかも食料需要を圧迫します。布は軽く、6~8年ほど長持ちするんですが、燃えたらなくなりますし、偽造しやすいというデメリットがあります。
その点、金属貨幣は貨幣に求められている点を高レベルにクリアしているといえます。繰り返し使われていると摩滅や損耗は避けられませんが(造幣局のホームページには「おおよそ30年ぐらい使われると、摩耗したり汚れが目立つようになります」とある)、こだわらなければかなり長く使うことができます。
以上のように、物の取引というのは、物々交換から貨幣経済、貨幣経済の中でも物品貨幣から金属貨幣へと移っていくものなのですが、16世紀の日本では不思議な変化が起こりました。
浦長瀬隆氏『中近世日本貨幣流通史』によると、各地の取引手段は次のように変化しました。
奈良:1568年まではほぼ銭であったが、1569~1586年には米の使用が77%となる。主に高額取引で米が使用された。
奈良以外の大和国:1570年までは銭の使用が見られるが、その後は米のみ。
京都:1570年までは銭が67%を占めていたが、その後は米が90%以上になる。
近江国:1568年まではほぼ銭であったが、その後は米。
河内国:1570年代以後は米が中心となる。
和泉国:1551~1560年は銭の使用は約90%以上あったが、1561~1570年になると68%、1571~1580年になると41%に減少する。
丹波国:1573年以後は米が主。
播磨国:1570年以後は米が主。
若狭国小浜:1573年以後は米が主。
美濃国:1560年代から米の使用が始まり、1580年代から米が主に。
越前国:1580年代から米の使用が始まり、1590年代から米が主に。
伊勢国:1570年までは銭が主であったが、1571~1580年は金・米の使用が主になる(金・米の使用はほぼ同数)。
西日本:1560年代後半から1570年代はじめにかけて、銭による支払いから米による支払いに変化。
『多聞院日記』にはところどころ何々を購入した、という記事があるのですが、それには次のようにあります(一部)。
永禄10年(1567年)
1月17日 ソトハノ代 10疋 ユエン5丁 100文
2月25日 ユエン600文ノ代米7斗
5月4日 ソメチン 200文
5月6日 脇差 2貫330文
6月3日 米1石 737文
9月3日 油1升 60文
9月9日 草履 70文
10月4日 ススノ代 180文
11月9日 干菜 50文
11月23日 菜ナヘ 60文 クイヌキ 23文 たく天 250文
12月19日 天川ススシノ装束 170文の代米2斗4升
12月26日 餅米5斗 419文
永禄11年(1568年)
1月22日 酒代 450文 油煙代 170文
2月29日 茶1斤半 50文
3月15日 米代 230文
5月27日 竹1本 8文 破木2束 8文
6月1日 ツリノカヤ1帖半 120文
6月28日 フセハシリ 15文
7月8日 布5丈5尺 250文
7月15日 染賃 150文
11月23日 「カマ」1丁 20文
永禄12年(1569年)
2月26日 塩1石 米1石2斗
3月8日 朱1包 3文
3月9日 炭1荷、「クノキ」1荷を買ったとあるが、それぞれ「36文、米6升」「42文、米7升」と併記されており、銭・米どちらで買ったか不明。
3月21日 備前より年貢が送られてきたが、銭ではなく米1石5斗であった。
3月29日 油1升80文、代米1斗
閏5月7日 灯明油 12文
閏5月23日 塩1石5升:米7斗・布長尺(金1尺)、7尺7分、二丈二尺:米5斗4升、これは銭だと335文であった、とある。
6月29日 油5合 40文
9月8日 衣帯2筋:値段150文だったのを、米3斗で購入・草履1足:値段50文だったのを、米9升で購入。
10月29日 「ウラ絹」 700文
11月26日 小袖を染色 600文
こうしてみると、永禄12年(1569年)になって米を銭の代わりに使用している回数が増えていることがわかりますね。
1573年の観心寺文書には、近年、「都鄙一円」(国全体)で「料足」(銭)によるやり取りが無くなっている、と書かれています。
また、交換手段だけではなく、税の納め方も変化したようで、この観心寺文書にはこれまで1貫文を納めるように言っていたのが、米6斗を納めるようにと変更を伝えており、これに先んじて元亀元年(1570年)12月の京都妙心寺の文書には以後は米で納めるように荘園に命じている内容が記されています。
他にも、北条氏は1564年頃には段銭について米の代納を認め、1568年に棟別銭の支払いについても、もし「精銭」が「手詰」なようであれば、米や金で代納しても良い、と伝えています。
織田・幕府に関する事だと、永禄12年(1569年)4月2日には丹波国佐伯南北庄をめぐるトラブルがあったものの、木下秀吉が間に入って佐伯南北庄は80石納めることに決着したのですが、税について米の単位である「石」を用いており、米で納めさせていたことがわかります。
4月10日には、幕府の飯尾貞遙・諏訪俊郷が、山城賀茂荘に対し、毎年400石を納めるように伝え、14日には、明智光秀・木下秀吉も同様の内容を山城賀茂荘に伝えています。
税に関連して、この時期には、土地の収穫高の表し方も変化しています。
信長は、永禄8年(1565年)11月3日に、坪内惣兵衛・坪内玄蕃允・坪内喜太郎に美濃国内の土地687貫文を与え、永禄9年(1566年)12月には浅井四郎左衛門に対し7貫200文の土地を安堵、永禄10年(1567年)11月には坂井利貞に美濃国内の20貫文の土地を安堵、矢野弥右衛門尉に美濃国内に20貫文の土地を安堵、兼松正吉に美濃国内の土地10貫文を安堵、永禄11年(1568年)7月には深尾二郎兵衛に300貫800文の土地を与えています。
収穫高は全て銭で表されています。これを貫高というのですね。
様子が変わるのは永禄11年(1568年)の12月16日で、織田信長は沢与助に対し近江国内の土地に関して「米方」64石分と「小物成」(年貢以外の雑税)12貫文分を与えています。ここで米の単位である「石」が登場しています。
『言継卿記』7月6日条には、朝山日乗が織田信長から伊勢国において1000石の土地を得た、とあります。
11月6日には、織田信長が津田一安に3510石の土地を与えています。
このように、永禄12年(1569年)になると土地の収穫高が米によって表されていることがわかります。これを「石高」といいます。
先に貫高であったのは税を銭で得ていたので、その方がわかりやすかったからです。それが石高に変化したのは、税を米で得るようになったからです。
中学や高校で「貫高」「石高」を習って何の気にも留めていなかったのですが、思えば税が銭から米に変化したというのは不思議なことです。なんで学校の先生はこれについて考えさせてくれなかったんでしょう。
以上のように、16世紀の日本では取引手段や納税方法が金属貨幣から物品貨幣へと変化するという、経済の基本原則に逆行するような現象が起きていました。
黒田明伸氏は、「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」で「歴史は非常識に満ちている。例えば「実物経済」から「貨幣常経済」へと社会の分業は発展するということが常識であるとするならば、16世紀末の日本が銭を規準とする収租方式である貫高制から米を規準とする石高制へ移行したことなど、およそ常識に逆らう事例であろう」と述べています。いったいなぜこのような変化が起きたのでしょうか…⁉
●東アジア情勢の変化に伴う銭事情の悪化
(中略)
【浅井氏の撰銭令】
一、ワれ・うちひらめ(文字のなき)、この2銭以外、撰銭をして排除しようとする者は重罰に処する。
一、他国商人が取引の際に撰銭をし、「清銭」(精銭)を送ることを禁止する。
一、この法令が出されたからといって値段を高くして売ってはならない。
一、馬借で米を売り惜しみ、値段を吊り上げようとする者がいれば、その者は馬借職を永代に渡って停止する。
【幕府(三好氏)撰銭令】
一、洪武・宣徳通宝、新銭、「ゑみやう」(恵明?)、「われ錢」、「かけ錢」(少し欠けている程度なら受け取るべし)、これらは撰銭して排除してもよいが、残りは受け取ること。
一、悪銭であれば取引はしないなどと言ってはいけない。
一、撰銭令にかこつけて、値段を吊り上げてはいけない。
以上の内容に違反した者は、身分の上下を問わず、罰金10貫文とする。撰銭対象ではない銭を撰銭しようとしている者がいることを報告した者には、褒美として5貫文を与える。…
この2つの撰銭令に共通している点は、「銭不足なのだから、複数枚で精銭1文と同価値とする「増銭」をせず、排除対象に指定した銭以外は等価値で、かつ、支払いの際にどの銭であっても上限なく使用できるようにすること」というものです。
このやり方について、大田由紀夫氏は『銭躍る東シナ海』で「銭遣いを維持しようとすれば、最劣悪銭以外の多様な流通銭をみな等価通用する方向した選択肢はなかっただろう。それゆえ、浅井氏撰銭令は必ずしも現実を無視した乱暴な法令ではなく、むしろ当時の銭貨流通の状況を踏まえた現実的な解決策であった」と評価しますが、実際は、浦長瀬隆氏が『中近世日本貨幣流通史』で述べているように、「流通界では、悪銭の受け取りを拒否したり、悪銭に対しては増銭をしていたのであるから、悪銭が善銭と同価値で通用することを受け入れることは困難」なことでした。
浅井氏撰銭令には、「最近きまりを定めたのにかかわらず、何かと理由をつけて、撰銭をしている者がいる」とあり、確認はされていませんが、この法令以前に撰銭令が出されており、それが守られていなかったことがわかり、また、幕府(三好氏)は、この撰銭令を出した後、9か月後に、「撰銭の事を先に高札を立てて知らせたが、何かにつけ、きまりに背きがちであるという。全くもって曲事である」と再度高札を立てていることから、人々が撰銭令の内容を守らなかったことが確認できます。
さて、信長撰銭令ですが、信長はこれらの撰銭令の失敗をふまえて、銭不足にどのように対応しようとしたのかといえば、「銭不足なのだから、どのような銭であっても受け取るように。ただし、「増銭」は認めるし、「増銭」を取引で使用できる上限も50%とする」というものでした。信長らしからぬ、商人に配慮した、だいぶ現実的な内容であることがわかりますね😕
また、特筆すべきは金・銀を高額貨幣として使用を許可していることですね。これにより希少化し高額貨幣化していた精銭の不足を補うことが可能になります。
撰銭令を出した時点では信長は金山も銀山も有していなかったのですが、『信長公記』には信長が4月頃に実施した「名物狩り」について、「信長、金銀・米銭御不足これなき間…」とあって、信長が金銀を大量に保有していたことがわかります。他国から流入していたのでしょう。中島圭一氏「京都における『銀貨』の成立」によると、石見銀山を手に入れた毛利氏が朝廷・幕府へ寄進したことをきっかけに1564年頃から京都で銀が流通し始めたようです。
本多博之氏は『天下統一とシルバーラッシュ』で、信長撰銭令の目的について、「織田政権としては、流通する銭貨の間に価値の差があることをまず認め、「精銭」を基準に比価を設定することで、それまで取引現場から排除されていた多くの銭貨を呼び戻し、商取引の安定化をはかったものと思われる。…信長の追加令は新たに市場に参入した金銀の(高額)通貨としての使用を公認し、その価格(価値)を「精銭」(善銭)を基準に公定することで、銭貨だけでなく金・銀を含めた新たな通貨体系を作り上げ、円滑な商取引がおこなわれるよう通貨環境を整備するものであった。…信長は永禄12年 2月末〜3月半ばの通貨法令によって、米を通貨として使用する必要性を無くそうとしたものと思われる」と記しています。
撰銭令は米を通貨として使用させないために出された、というのですね😕
米の通貨利用が永禄12年頃から広まった、ということは先に述べましたが、これは慢性的な銭不足に加え、1550年代頃から中国から粗製乱造された銅銭が流入したことによる銅銭に対する信用の低下(価値の暴落)と、1564年以後、中国との密貿易が大幅に減少したことで精銭(信用のある通貨)不足が深刻化したために、銭では取引に支障をきたすようになった(撰銭が複雑化しすぎて取引がスムーズにいかなくなった)ので、その代替品として米が選ばれたことによるものでした。
畿内、特に京都での精銭信仰はすさまじいものがあり、
・『言継卿記』天文元年(1532年)2月12日条には、山科言継が、長橋局(朝廷)から預かった銭のうち、2貫700文を井上氏に渡したところ、悪銭があるとして受け取りを担否され、言継が交渉してなんとか1貫文排除の排除だけで済ませた、とある。
・『鹿苑日録』天文9年(1540年)11月17日条には、相国寺護国廟(八幡神社)から送られてきた銭のうち、2貫150文が悪銭で、これを精銭で送り返すように命じたところ、やって来た銭のうち850文がまたしても悪銭であったので、悪銭を除いた1貫300文だけ受け取った、とある。
・『鹿苑日録』天文13年(1544年)12月11日条には、公文銭(幕府に納入した礼銭)3貫文について、悪銭を排除して、2貫427文を受け取った、とある。
…などの記録が残っています。銭不足なのに、その中で入ってくる銭は悪銭ばかりで精銭不足だというのに、あくまでも精銭にこだわったのです。
精銭では商売が成り立たないことをさとった畿内の人々は、悪銭の使用を広く認めるのではなく、米を精銭の代替品として使用する道を選んだのです。
本多博之氏『天下統一とシルバーラッシュ』はこの動きについて、「銭の信用低下は逆に米の信用を高め、その結果、米での商取引や通貨としての利用は一層活発となった」と述べています。
数あるものの中で米が取引手段として選ばれたことについて、浦長瀬隆氏は『中近世日本貨幣流通史』で「①誰もが手にいれやすい②数えやすい③価値が安定している④持ち運びに便利である」ことを理由として挙げています。
人々は通貨として米を使うことを選んだのですが、信長は撰銭令を出してこれを禁止しようとしました。信長はなぜ、米の通貨使用を認めようとはしなかったのでしょうか?
実は信長としては米を通貨として使用してほしくない事情がありました。
撰銭令を出した永禄12年(1569年)2月~3月というのは、本国寺の変の際、足利義昭救援のため各国から兵が救援のため集まってきたのを、帰さずにそのまま二条城築城に振り向け、さらには近国の農民たちも動員していた時期であり、食糧需要が非常に高まっていた時期でした(4月14日に一応完成し、義昭が二条城に入り、将兵は帰国が許された)。
4月8日には、下京丑寅組(京都の米市場を含む地域)が京都への米の移入を乞う書状を提出しています。これについて、高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、「交換手段として米の使用が普及したことで、京都に入ってくる米が減少し、食用米の需要を満たすことができなくなったからではないだろうか」と推測しています。
食糧問題を解決するためにも、さまざまな方策を立てて米の通貨としての使用を防ごうとした信長でしたが、
信長が精銭の代替品として提示した金・銀は、いかんせん米と違い「誰もが手に入れやすい」ものではなく、
精銭不足の対応のために増銭を認めたということについても、黒田明伸氏が『歴史のなかの貨幣』で、「何を精銭とし、何をそれ以外の、たとえば並銭とするかは、絶対的な基準によったわけではなく、現場の合意によった」と述べているように、地域ごとに何の銭を何枚で精銭1文扱いするというのはバラバラで、千枝大志氏『中近世伊勢神宮地域の貨幣と商業組織』によると、例えば伊勢大湊では銭は1:1.5:3:8:10の5段階に分かれたといいますから、信長撰銭令の4段階区分と異なっていたということになります。価値というのは量(野菜など)や信用の程度(株価など)によって日々変動するものであって、商人たちにとっては増銭の公定などたまったものではなかったでしょう。銭は種類によって偏在していたでしょうし、地域によって信用の度合いも違っていたでしょうから。
全ての銭の使用を許可した、ということも、現場にとっては困ったことであったでしょう。当然排除されるべき最底辺の銭でも、支払いの際に半分まで混ぜることができるようになるというのですから。
信長の撰銭令はうまくいかず、『細川両家記』の永禄12年2月条に「一銭取渡の事雖被仰出候不相調、売買は米なり」(銭で商品の売買をするように申し渡したが、結局米で取引が行われた)とあるように、銭から米への転換の流れを押しとどめることはできませんでした。
いかに信長といえど、経済を統制することはできなかったのです。
ちなみに先に述べた「名物狩り」について、『信長公記』には「金銀・八木遣わし、召し置かれ…」とあり、「名物」を金銀と「米」(八木)を使って購入したことがわかります。
信長、米使って買ってます!!!
信長は敗北したのでした。
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