社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 偽造されたお金でも店は商品と交換せよ!?~撰銭令

2024年5月23日木曜日

偽造されたお金でも店は商品と交換せよ!?~撰銭令

  福井県警は2024年1月4日、ある男を逮捕しました。

その容疑は、カラープリンターを使って1万円札を偽造したというもの、

本人は動機について、「遊ぶ金が欲しかった」と供述しているといいます。

いつの時代もお金の偽造は行われるものですが、

戦国時代の場合は、どうやら違う理由があったようで…!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※漫画の2・4ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>

●撰銭とは?

永禄12年(1569年)2月28日、織田信長は京都に対し、撰銭に関する法律を出します。

この「撰銭」とは何でしょうか?😕

高木久史氏は「売買や納税などで銭を受け渡しするときに、特定の銭を排除したり、受け取りを拒む行為」としています(『撰銭とビタ一文の戦国史』)。

受け取ってもらえない銭があったというのですが、店側はなぜ受け取る銭と受け取らない銭とを区別したのでしょうか?

現在であれば、受け取ってもらえない貨幣というのは偽造した物でしょう。

これと同じく、当時も偽造された銭があったのです。

では、撰銭令は何を命じた物であったのでしょうか。

偽造した銭を受け取るな、というものであった…と思いきや、なんと、「偽造された物でも受け取れ」という内容なのですね!😱

信長はなぜこのようなムチャを言ったのでしょうか?

その背景を見ていこうと思います。

●銭ききん!?

古代の日本は和同開珎などの皇朝十二銭を作っていましたが、人々の間には広まりませんでした。

その理由としては、次のものが挙げられます。

①当時の日本の生産力が乏しかったので、品物の数が限られており、物々交換をする方がシンプルで効率が良かった。

②当時の日本は生産力が乏しく、市場が開かれる場所は非常に限られていたので、銭を使う機会が少なかった。

③朝廷がつけた皇朝十二銭の価値設定がふざけたものだったから(和同開珎の次に出された万年通宝は和同開珎10枚分の価値があると設定したので、商人は万年通宝と商品を交換するのを嫌がったり、価格を上げたりして、市場が混乱した)。

しかし、次第に生産力が増し、余剰生産物が出てくると、売るために作物を作る者が現れたり、作物を作らず、作物を購入して生活する職人として生活する者が登場したりしてきます。

市場に多くの種類の商品があふれてくると、物々交換では効率が悪くなってきます。ある人が魚を持っていたとして、茶碗を買おうとしても、茶碗を作る職人が魚は足りているから入らない、と断ることもあったでしょうし、店頭に、商品と米はどれだけで交換、魚はどれだけで交換…と羅列して書くのも大変だったでしょうし、市場に持ち込まれる米や魚の量で米や魚の価値も変動するので、ややこしいことこの上なかったでしょう。

そこで人々は物々交換から一歩進んで、全ての人が必要とする物=米や布を交換手段として使用するようになったのですが、米や布はかさばりますし、いちいち米や布と交換してから物を買うのは面倒です。

そこに現れたのが宋銭でした。

宋銭は中国の宋(960~1279年)で作られた銅銭ですが、1080年頃には毎年600万貫(枚数にして60億枚!)あまりも作られており、非常に大量にあったので外国に向けて輸出もされていました。

横山知輝氏は『マーケット進化論』で「朝廷および鎌倉幕府は、当初、宋銭の利用を禁止していました。荘園領主が代銭納(中国銭による年貢の納入)を認めるようになると幕府は方針転換します。莊園領主にとっては、年賀・公事として輸送された物資を必要な物資と交換したりそのために換金することよりも、代銭納を認める方が早かったのです。」と述べていますが、人々は交換手段として便利な銭を好んで使用するようになり、1200年には土地の購入で使用したものの76%が米で、17%が銭であったのが、1250年には米が36%、銭が64%と逆転します。

こうして日本にも貨幣経済が浸透するようになったのですが、問題は銭の生産を外国に頼っているという事でした😓

大量に銅銭を作っていた中国ですが、次第に銅が欠乏してくると、12世紀末には「銭荒」(銭ききん)という状態になり、1199年には日本と高麗に対し銅銭を持ち出すことを禁止するまでになります。

生産量が増え、貨幣経済が進展し始めた矢先にこれです。

さらに、明(1368~1644年)の時代には海禁政策がとられ、貿易が制限されます。

明は民間の貿易を禁じ、国家間の朝貢貿易だけを認めるようにしたのです。

さらに、1436~1503年まで明は銭を発行しなくなり、その後は発行はしているものの少量で、しかも真鍮が混ぜられたものでした。中国の銅不足は深刻になっていたわけです。

これらの結果、日本の人々は銭不足にあえぐことになりました。

そこで人々が考えたのは、銭を作る事でした。

高木久史氏によれば、出土する銭のうち、14世紀の後半から、日本で作られた模造銭が見られるようになるそうです。

これに影響を与えたのは、14世紀に中国から硫化銅を精錬する技術が伝わった事でした。

それなら幕府が作ればいいのに、と思うのですが、14世紀は南北朝の動乱の時期で、幕府は銭を作るどころではありませんでしたし、動乱終結後も、室町時代は中央の力が弱く、守護大名の力が強い地方分権な時代であったので、幕府に銭を生産する力が無かった、というのもあって、幕府は銭を生産することはありませんでした。

銭の私造は進展(?)し、15世紀には模造ですらない、文字の入っていない銭(無文銭)が堺を中心に日本で作られるようになります。

また、中国でも銭不足にあえいでいたので、私造が行われました(これを南京銭という)が、これが密貿易で日本に輸出されていました。

1561年に明の鄭若曽が書いた『日本図纂』には、「倭は自ら鋳銭せずに、ただ中国の古銭を用いる。千文ごとの価格は銀四両である。福建私新銭のごときは、千文ごとの価格は銀一両二銭である。ただ永楽通宝、開元通宝の二種は用いない」とあります。

「福建私新銭」というのは、中国で作られた模造銭のことですね。品質が落ちるため、4分の1の価格で取引されていることがわかります。

しかし、これらの私造や密貿易での輸入で得られる銅銭の量は限定的であり、人々の高まる貨幣需要を満たすものではありませんでした。

『妙法寺記』には、大永5年(1525年)の記事に「銭につまること無限」とあります。

「つまる」とは窮する、行き詰る、ということですから、銭について世の中がのっぴきならない状態に陥っていたことがわかります。

享禄2年(1529年)の項には「代一向無御座候。去間銭飢渇と申候」とあります。

これは、「代」(商品を買う時に渡す銭)が全く無くなってしまったが、そのため人々は「銭飢渇」(銭が欠乏して苦しむこと)と言った、…という意味になりますが、この後、「銭飢渇」についての記述が『妙法寺記』に頻繁に見られるようになります。

・天文2年(1533年)…「銭けかちにて御座候」

・天文3年(1534年)…「銭飢渇にて御座候」

・天文11年(1542年)…「銭飢渇にて御座候」

・天文16年(1547年)…「銭飢渇にて御座候間売買安し」

・天文23年(1554年)…「銭飢渇にて候」

・弘治2年(1556年)…「銭飢渇にて御座候」

天文16年に「売買安し」とありますが、これはうれしいんじゃないか、と思うかもしれませんが、良くないことなのですね。

みんな銭が欲しい、需要が高まっている。でも銭の供給が滞っている。需要が高くて供給が減れば、その価値は急騰します。例えばキャベツが銭の代わりだったとして、それまではキャベツ1玉でレタス1個と交換できていたとします。でも、みんなキャベツが欲しいのに、キャベツが不作になってしまったら、キャベツの価値が高騰し、人々はレタス3個を出すから、キャベツと交換してくれ、と言い出すようになります。そうなると、レタスの価格は、以前と比べて3分の1になってしまったということになります。

つまり、交換手段としているものが不足しているから、物の値段が下がっているのですが、その交換手段となる銭が無いから、人々はいくら安くても買うことができないわけです。

このように、日本の銭不足は深刻なものになっていました。しかし、そのような状態であるにもかかわらず、商売をする者は撰銭を行ない、正規の銭(精銭)と模造銭・無文銭などの悪銭を区別して、正規の銭でないと物を売ろうとしませんでした。

まぁ仕方ない面はあります。

現在の日本で、ある店がカラーコピーされた紙幣を受け取ったとして、店がそれを使って別の店で買い物ができるかといえばできないでしょうから。

●撰銭令の内容

撰銭条々(永禄12年(1569年)2月28日)

①ころ・やけ銭・せんとく 二文たて、

(洪武通宝[明の洪武年間(1368~1398年)に作られた銅銭]・焼銭[火災で焼けた銭]・宣徳通宝[明の宣徳年間(1425~1435年)に作られた銅銭]は2枚で1文として扱う)

②ゑミやう・大かけ・われ・すり 五文たて、

(恵明[不明]・大きく欠けたもの・割れているもの・文字が摩耗して見えづらくなっているものは5枚で1文として扱う)

③うちひらめ・なんきん 十文たて、

(無文銭・南京銭[中国で私造された品質の悪い模造銭]は10枚で1文として扱う)

④此外撰銭たるへき事、

(これ以外の悪銭は撰銭して排除してもよい…ということだと藤井譲治氏は解釈するが、⑥の条文の内容からして、撰銭=良銭・精銭・基準銭ということだろう。つまり、①~③以外は1枚で1文として扱う、ということである

⑤反銭・地子銭幷諸公事等、金銀・唐物・絹布・質物・五穀以下、此外諸商売有来時のさうは以テ、此代にてとりかわすへし、付、事を撰銭ニよせ、諸商売物かうしきになすへからさる事、

(税金や物の売り買いは、①~④に記したように悪銭を取り扱う事。今回撰銭令が出たからといって、以前より高い値段で商品を売ってはならない)

⑥諸事も(の)とりかわし、撰銭と増銭と半分と宛たるへし、但此外ハ其人のあい台したるへき事、

(銭を渡すときは、基準銭と減価銭を半分ずつ使用する事)

⑦悪銭売買堅停止事、

(悪銭を売買することは禁止する)

⑧撰銭の料未究ニ押入、狼藉ニおいてハ、其町として相支、注進すへし、至見除之輩、同罪たるへき事、

(撰銭令の内容に違反したものの処罰が決まる前にその店に入り乱妨をした者は、その町の者が取り押さえること。見逃した場合は、同罪とする)

過料事(処罰について)

⑨壱銭売買、於撰銭輩者、過料十文可出定、

(1文単位の少額の売買について撰銭令に違反した者は、罰金10文とする)

⑩十銭、同過料壱百文、

(10文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金100文とする)

⑪百文以上於撰銭ハ、過料一倍、

(100文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金200文とする)

精撰追加条々(永禄12年3月16日)

①以八木売買停止之事、

(米を銭の代わりとして使ってはならない)

②糸・薬十斤之上、段子十端之上、茶碗之具百の上、以金銀可為売買、但金銀無さハ、定之善銭たるへし、余之唐物准之、此外ハ万事定之代物たるへし、然而互有隠密、以金銀売買有之ハ、可為重科、

(糸・薬10斤[6㎏]以上、緞子[絹織物の一種]10反[約120m]以上、茶碗などの道具100個以上を購入するときは、金や銀を使用すること。金や銀が無い場合は、基準銭を用いてもよい。中国からの輸入物は同様に扱う。これ以外の品物については、撰銭令で定めた銭を使用する事。隠れて金銀を使用した者は、重罰とする)

③付、金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代二貫文

(金10両は15貫文[=15000文。つまり、金1両は1500文]と交換できる。銀子10両は2貫文[=2000文。つまり、銀1両は200文]と交換できる)

④祠堂銭、或質物錢、諸商売物并借銭方、法度之代物を以て可為返弁、但金銀於借用ハ、以金銀可返弁、付、金銀無之ハ、定善代物たるへき事、

(寺院から借りたお金や質物、商売、その他の借金については、撰銭令で定めた銭を使用する事。金銀で借りた場合は金銀で返すこと。ただし、金銀を持っていない場合は、基準銭で支払う事)

⑤見世棚之物、銭定に依而、少も執入輩あらハ、分国中末代商売停止たるへし、

(店の商品について、撰銭令で定められた悪銭と交換するのを嫌がって、商品を売らないような者がいれば、信長の領国では子々孫々に至るまで商売を禁止する)

付、諸商売に依て、金銀両目替停止、并売手かたより金銀を不可好之事、

(金銀と銭を両替してはならない。売り手側が金銀で支払うことを要求してはならない)

⑦大小に不寄、荷物・諸商売之物、背法度輩有之ハ、為役人申届可相究、若不能信用ハ、荷物悉役人可被投之事、

(金額によらず、荷物や商品のことで、撰銭令に反する者がいれば、役人に報告する事。信用できない銭を使用している者がいれば、預かった荷物を役人に引き渡すこと)

⑧科銭之儀、一銭より百銭二至らハ百疋たるへし、百疋之上にいたらは、千疋たるへし、其外准之事、

(罰金について、1銭~100銭までの場合は100疋[1疋=10文。つまり、1000文=1貫文]、100銭以上の場合は、1000疋[10000文=10貫文]とする)

⑨銭定違犯之輩あらハ、其一町切に可為成敗、其段不相届ハ、残惣町一味同心に可申付、猶其上ニ至ても手余之族にをいてハ、可令注進、同背法度族於告知ハ、為褒美要脚伍百疋可充行之事、

(撰銭令に違反する者がいた場合、その町の者で処罰せよ。撰銭令に違反した者を報告しない場合は、惣町[町を束ねる組織。京都でいえば、上京や下京]が処罰せよ。惣町でも手に余る場合は、信長に報告せよ。違反している者がいると知らせた者には、褒美として500疋[=5000文=5貫文]を与える)

※永禄9年(1566年)の三好氏の撰銭令に「えらふ者を告しらする族にハ、褒美として五貫文可遣之」とあり、これを受け継いだものか。

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