一度は聞いたことはあるけれども、
内容は?と聞かれるとわからない…それがお経ですね(;^_^A
私は祖母が毎朝お経を読んでいるのですが、
その内容(の意味)は知りませんでした。
祖母もおそらく、意味を知らずにただ読んでいるのではないかと。
なにしろ難しい言葉で書かれているので、ただ読んだだけでは意味がなかなか分からないんですよね💦
日本の歴史にも大きくかかわった仏教ですので、
歴史の教科書にも出てきますし…
勉強しなければ!と思い立って、
以前買って積読状態だった岩波文庫版・角川ソフィア文庫版現代語訳『法華経』に加え、
図書館で中村元氏・中村瑞隆氏の現代語訳『法華経』2冊などを借り、
『法華経』を読み込むことにしました。
すると色々と面白いことがわかったので、そのエッセンスを紹介していきたいと思います🔥
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●「法華経」とは
法華経は、数多くある経典のうちの1つで、正式名称は「妙法蓮華経」。
もっと正しく言うとサッダルマ・プンダリーカ・スートラ(サンスクリット語)で、
「サッ」は「優れた」、「ダルマ」は「法・教え」、「プンダリーカ」は「白蓮」(「尊い仏の悟り」を意味する。中国で白蓮教徒の乱があったが、あれは法華経とは異なる浄土系の教団である)、「スートラ」は「経典」を意味し、
これを「妙法蓮華経」と漢訳したのが鳩摩羅什(クマーラジーヴァ。344~413年)でした。
この法華経は6世紀後半に日本に伝わり、天台宗や日蓮宗において主要経典となるに至ります。
特に日蓮が、比叡山にある経典を読破し、その中で法華経が最も優れた経典であると結論づけ、これを広めようと他宗と激しく争ったことはよく知られています。
●序品第一…釈迦の起こした奇蹟
釈迦(ブッダ)が仏教の教えの基礎について考えるための瞑想(無量義処三昧)に入った時、空から花(曼荼羅華・曼殊沙華)が降り注ぎ、地面は6種(東西南北と上下)に震動し、釈迦の眉間にある巻き毛(白毫)から光を放たれ(「放眉間白毫相光」)、宇宙から地獄までを照らした。周囲の人々は驚き、このような奇蹟が起きたのはなぜなのか不思議に思い、文殊師利(文殊菩薩。マンジュ=シュリ―)にその理由を尋ねた。文殊師利は「釈迦が完全な悟りに到達したからである。過去にも日月灯明仏がその境地に達した時、同じようなことが起きた。そしてその後、日月灯明仏は法華経を人々に説き始めた。だから、釈迦も同じように今から法華経を説き始めるだろう」と答えた。
●方便品第二…釈迦が見つけた真理と、悟りに至る道に入る方法
釈迦は瞑想を終えて起ちあがり、周囲の者に次のように言った。「仏の知恵というものはまことに深くて底が計り知れず、理解しようとしても非常に難しく、その知恵の門には入り難いものです。仏は世の中のありとあらゆるものについて、限りなくすばらしい事を知っています。それは実相(全てのものの真実の姿)です。
(※実相について説明した部分のサンスクリット原文の和訳)
(※漢訳では以下の「十如是」が示される)
(※十如是については佼成会の公式サイトにある解説がわかりやすい。①(相)小さくて白い(性)硬くて転がりやすい(体)ゴルフボール(力)すぐれた反発力を持つ(作)グラブで打った力の加減に応じて飛んでいく。②(因)人に親切にしようと普段から思っている(縁)混んでいるバスでお年寄りと出会った(果)席を譲った(報)心が清々しくなった)
これを理解できるのは仏だけであり、仏の知恵は先に述べたようにまことに深くて底が計り知れず、理解しようとしても非常に難しいものです。しかし、それでも仏は、物事に対する正しい認識(知見)を悟ってほしい…その道に一歩でも足を踏み入れてほしい…と思っているので、それを理解させようと如来(正しく悟りを開いた者)である私を世に出現させたのです。如来が世に遣わされるのは、その世の中がひどい時です。その世の中では、飢饉や疫病・戦乱によって余が乱れていたり(劫濁)、誤った考えが世にはびこっていたり(見濁)、欲望によって引き起こされる悪行がはびこっていたり(煩悩濁)、人々の資質が劣悪なものになっていたり(衆生濁。けち・欲張りで、嫉妬心が強い)、寿命が短くなっていたり(命濁)します。このような時代だからこそ、仏は人々を真実の教えに導くための仮の手段(方便)として、如来を派遣するのです。だからあなた達は、私の言葉をしっかりと聞かねばなりません」
続いて、仏に至る乗り物に乗る(悟りに至る道に入る)方法について、次のように述べた。
「A:布施をする。戒律を守る。侮辱や苦しみに心を動かさない(忍辱)。仏道修行に専念し、精神を集中して真理を知る(精進禅智)。仏が亡くなった後、その遺骨を供養するために金銀や宝玉で飾り立てた仏塔(ストゥーパ)を作る。仏の廟(墓を安置する建物)を石や、木や、煉瓦や、泥土で作る。子どもが遊びで砂を集めて仏塔を作るのでも良い。銅や、鉛、錫、鉄、木、粘土などでもって仏像を作る。仏の絵を描いたり、仏の絵を描かせたりする。子どもが遊びで草木や筆で、または指の爪で、仏の絵を描くのでも良い。供養のために銅鑼・法螺貝・小鼓・太鼓・琵琶・木製の笛などを奏でる。供養のために歌を歌う。
B:煩悩のために心が乱れていても、仏塔に向かって合掌をしたり、片手を挙げたり、頭を下げたりする。「南無仏」(仏さまに心から従います。もしくは、仏さまにすべてを委ねます)と一言唱えれば、悟りに至る道に入ることができる」
(これらの行為を行うことによってどのような功徳が得られるか、ということ[成仏道]について、訳者によって表現が異なっています。
坂本幸男・岩本裕…「さとり」に到達するであろう。
大角修…仏道の成就にすすんでいます。Bについては、諸仏の祝福を得るでしょう。
植木雅俊…覚りの獲得者となった。
中村瑞隆…菩提(仏道)を成ずることを得た。Bについては、「のちに菩提を得るものとなった」。
中村元…仏道を完成することになります。
石原慎太郎…すでに仏の道を成し遂げている。Bについては、「すでに仏の道に入っている」。
方便品の序盤に、釈迦は悟った理由について、多くの仏に親しみ近づき、仏のしてきたことにならって修行をし、正しい悟りを求めて精進を重ねたからである、と述べている。これを見るに、最初の方の布施・持戒・忍辱・精進・禅・智はともかく、子どもが遊びで仏の絵を書いたりするだけでは、悟りは得られることはなさそうである。そのため、「成仏道」は、悟りに至る道に入る[仏になる端緒を得る]ことができるであろう、…もしくは、やがては仏となることができるであろう、と訳すのが適当かと思う)
「以上のように、悟りに至る道の入り口は数多く存在します。仏としては、巧妙な手段(方便)でもって、人々をこの入り口に導き、悟りに至る修行をさせたい。そうして、人々を安穏にしたい…これが、仏たちの願いなのです」
●譬喩品第三
弟子たちの長老である舎利弗(シャーリ=プトラ)は次のように言った。
「私は、一切の物にとらわれない「空」の境地に至れば、悟りに至ったと考えていましたが、これは真の悟りではなく、真の悟りというのは、『三十二相を備えた体になって、人間や神からも尊敬されるようになって真に悟ったと言えるのである』という仏様の言葉をお聞きして、私の考えは誤っていたのだと悟りました。
しかし、弟子の者たちは、以前に仏様が言われた、『生老病死に惑わされないこと』が悟りだと考えており、疑惑の念が生じています。どうか、この者たちの疑惑の念を解いてあげてください」
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