社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[信長居館編]

2024年10月30日水曜日

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[信長居館編]

 天皇と信長に気に入られるように努め、権限を拡大した日乗。

日乗はその権限を使って、フロイスを各方面から次第に追いつめていきます。

状況の不利を悟ったフロイスがとった作戦は、信長に会って、庇護の約束を取り付ける事でした。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●岐阜に向かうフロイス

5月17日夜に日乗から手紙が届けられた後、キリシタンを取り巻く状況が深刻なものになりつつあることを見て取ったキリシタンたちは議論を行い、その結果、フロイスが美濃に向かい、織田信長にこの件を報告する、ということを決めました。

また、フロイスが美濃に行くにあたって、ロレンソを越水城にいた和田惟政のもとに派遣し、美濃にいる信長の家臣に向け、紹介状を書いてもらうことにしました。

フロイス自身は18日朝4時に近江国坂本に向かい、そこでフロイスを待つことにしましたが、これを見送るキリシタンは涙を流すこと甚だしいものがありました。

その理由について、フロイスは書簡に次のように書いています。

「かつて1人の司祭も修道士も訪れたことが無い場所であり、私を守ろうとするキリシタンがまったく存在しない未知の国々への旅となるからであった」

美濃に向かう道中で、フロイスが殺されてしまうのではないか…と心配したのでしょう。

ロレンソと会った和田惟政は日乗の返書を見ると、「この野蛮人(Bargante)の首を切り落としてやりたい」と言ってこの返書を床に投げつけました。

そして、2通の書状…和田惟政と交友関係のある織田家臣(信長の寵臣)宛に、織田信長にフロイスを会わせるよう取り次ぎを求めたものと、「信長のいる城の麓にある」岐阜の宿の主人宛に、フロイスを丁重に泊めてあげて欲しいこと、費用は後で私が払うから、司祭殿が必要とするものを全て与えてほしい、ということを頼む内容の物…をロレンソに与えました。

また、この時、「信長の軍隊の4部将(quatro capitaens)のうちの1人にして、信長ととても親密で、和田惟政の友人でもあった」柴田勝家(Xibatadono)が美濃に帰国しようとしていたので、和田惟政は柴田勝家に、フロイスについてできる限り便宜を図ってあげて欲しい、と頼んでいます。

ここでフロイスは柴田勝家の事を「信長の軍隊の4部将のうちの1人」と書いていますが、4部将とは誰のことなのでしょうね??😓

松本和也氏は「柴田勝家・丹羽長秀・佐久間信盛・木下藤吉郎を指すと思われる」としていますが、どうなんでしょうね。

京都に残っていた武将を指すことはほぼ確実であり、この4名とも京都にいた記録が残っていますので、候補者となりえます。

この4人はどれも畿内で盛んに活動していた記録が残っているので、可能性は高いと思われます。

柴田勝家が4人で行動を共にしていたメンバーがおり、これを指しているのかもしれません。

そのメンバーというのは、柴田以外に、坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆で、この4人連名でよく書状を出していることが確認できます。

4月1日付で堺に出された書状のように、この4人に加え、佐久間信盛を合わせた5人で書状を出しているパターンもあります。

しかし、坂井・森・蜂屋はこの4月1日付の書状以後、近畿において姿を見せなくなるので、信長と共に帰国した可能性が高く、候補から外れるかもしれません。

この3人が帰国した後、代わって畿内で盛んに活動するようになるのが丹羽長秀・木下秀吉・明智光秀・中川重政の4人衆です。

明智道秀は幕府の家臣のため、候補から外れるかもしれません。残りの3人に柴田勝家を加えた4人を4部将と言っている可能性もあります。

京都に在京し、前述したように和田惟政とも交流のあった織田信広も候補に入るかもしれません。

誰が4部将かよく分からないのが実情ですが、柴田・坂井・森・蜂屋の可能性が高いのかな、と思います。でも、佐久間信盛も入っていそうなんだよなぁ…💦

さて、話を元に戻しましょう。

フロイスは18日から坂本でロレンソを待っていましたが、ロレンソと再会したのは翌日の5月19日のことでした(書簡に「6月3日(和暦だと5月19日)にロレンソが戻ってきた、とある)。

しかし書簡と『日本史』には、5日間ロレンソを待っていた、とあるのですね(!)

この矛盾はどう説明すればよいのでしょうか。

五野井隆史氏は『ルイス・フロイス』で、6月3日(和暦5月19日)に戻った、というのは京都のことで、フロイスのいる坂本に至ったのは6日(和暦5月22日)頃のことだろう、と述べています。

しかし京都から坂本までは、Googleマップによれば歩いて4時間強で行ける距離です。ロレンソは3日もかかったでしょうか?ロレンソは当時病気だった、という記述もありますので、京都でしばらく休んでいたのかもしれませんが…。

書簡には「ロレンソが6月3日に戻った、小西隆佐(キリシタン。小西行長の父)も坂本に戻った」とありますが、「ロレンソが6月3日に(京都に)戻った、小西隆佐はロレンソを連れて坂本に行った」と訳すこともできるので、しばらく休養説が可能性が高いのかもしれませんね…。もしくは単純に「6月3日」が誤記か。

ロレンソと合流したフロイスは翌日夜の3時に船に乗り、琵琶湖を渡りました。

この琵琶湖について、フロイスは「長さ30~40レグア、幅7~8レグアある大きな湖があり、多くの船が航行し、漁をしたり、商品を売ったりしていた」と書いています。

1レグアは5㎞ですので、30~40レグアは150㎞~200㎞、7~8レグアは35㎞~40㎞、ということになります。実際の琵琶湖は南北63㎞、幅23㎞ですから、だいぶ違っていたことになります。しかし、1リーグは昔は2㎞だった、という話もあるので、これだと南北60~80㎞、幅14~16㎞ということになり、だいぶ正確になります。

逆風であったため通常より時間はかかりましたが、アヴェ・マリアの時刻(午後5時のこと。この時刻にキリスト教徒は晩の祈りを捧げる)に朝妻(滋賀県米原市)に到着しました。14時間ほども船に乗っていたことになります。

書簡には「坂本から13レグアのところにある朝妻」とあります。実際は46㎞離れているのですが、1レグア=2㎞説だと26㎞、1レグア=5㎞説だと65㎞となり、どちらも実際と大きく異なっています。

船を降りた後のことについて、『日本史』には次のように書かれています。

…私たちは13レグア離れた場所に到着し、下船した後、近江国を2日間旅し、美濃国の境界線に入った。

書簡には書かれていませんが、どうやら朝妻から陸路2日で美濃国に入ったようです。

美濃国についてフロイスは、

「美濃の国は、山がほとんどない平坦な土地であった。木々生い茂り、 舟が行き交うきな川があった」

と記したうえで、

「道中、首のない石の偶像をたくさん見つけたが、これはすべて信長が取り除くように命じたものだった」と興味深い事実が書かれていています。

もしかすると、二条城、もしくは岐阜城のために頭部を使用したのかもしれません。しかし、胴体は残して頭部だけ、というのは、信長は石仏・地蔵を嫌っていたのかもしれませんね…💦

ちなみに『日本史』では「道には、首のない石の偶像がたくさん転がっていた。信長が石棺から取り出して捨てさせたからだ」とあり、表現がより過激になっています。これは脚色されたものかもしれませんね💦

そしてとうとう、フロイス一行は岐阜に到着し、和田惟政の紹介状にあった宿に泊まります。

『日本史』では、この宿の主人が、朝廷から出された綸旨の事を知っていたので、私たちを丁重に扱わず、会おうともせず、声だけでやり取りをした。彼は私たちを早く宿から追い出そうとしていた…と書かれているのですが、書簡にはこのことが一切書かれていません。

これは脚色の可能性が高いと言えるでしょう💦

和田惟政が信頼している宿屋の主人がそういうことはしないと思うんですよね…。

フロイスは岐阜の町の様子について、次のように書いています。

「岐阜には1万人(dez mil。『日本史』では「8千人とも1万人とも言われる」とある)が住み、その商売と喧騒はバビロンの混雑のようであった。 さまざまな国から商人がやってきて、塩や布やその他の品物を積んだ馬をたくさん連れていた。昼夜を問わず遊ぶ者・賭け事をする者・食事をする者・商売する者・荷造りする者・荷解きする者がいて、その喧噪のため家の中では互いの声が聞こえないほどであったので、私たちは家の中で少しでも静かな2階で寝泊まりをしていた」

その発展ぶりが伝わってきますね。

さて、美濃に着いたフロイス一行ですが、和田惟政が書状で信長への取り次ぎを頼んだ織田家臣は尾張国に行ってしまっていたので、佐久間信盛・柴田勝家の帰国を待って、取り次ぎを頼むことになりました。 

2日間待った後、京都から2人が到着したので、 翌日フロイスは、まず「信長の軍隊の総司令官」(capitam geral do  exercito del Rey)である、佐久間信盛のもとを訪ねました。

佐久間信盛は好意的にフロイスを迎え入れ、その日のうちにフロイスが到着したことを信長に伝えました。 

そして、次にフロイスはロレンソと一緒に「和田殿の友人」(amigo de Vatadono)である柴田勝家の屋敷に行きました。

柴田勝家もまた、とても温かくフロイスたちを迎え入れ、まだ食事をとっていないことも知るや、すぐにフロイスたちに食事を提供しました。

そして柴田勝家は、佐久間信盛と一緒に信長を訪ねに行くと言い、信長の機嫌が良いとわかったら、フロイスを信長の館に呼んで、二人で「取り合わせ」(Toriauaxi。取り成し・取り次ぎ)をしよう、と言いました。

その日の午後、佐久間信盛と柴田勝家は信長のもとに向かい、フロイスがやって来たことを伝えました。これに対し、信長は次のように答えています。

「内裏が伴天連を都から追い出したり、殺そうとしたりするために、綸旨を出したことをとても残念に思う。 どんな国も、 伴天連がいるとすぐに滅亡してしまう、と思い込まされているが、その考えは非常に滑稽だからだ。外国人である彼に私は同情している。彼が都から追放されることの無いよう、私は彼を庇護するつもりだ」

その後、音楽を聴き終えた信長は、造営中の館を見学するために外に出ましたが、そこで、外で待っていたフロイスと遭遇します。

佐久間と柴田は、信長にフロイスと話をすることを願い、信長はこれを受け入れました。

信長はフロイスが岐阜までやって来たことを喜び、「いつ来たのか?」「このような遠くまでわざわざやって来たことをうれしく思う」と言いました。

●信長、岐阜城下の居館を自ら案内する

そして信長は、3人(アルカラ版・『日本史』は2人)の領主(家臣?高橋方紀氏は「岐阜城跡織田信長居館とフロイスの記録」で佐久間信盛と柴田勝家だとしている)と、3名の幕臣、(以前フロイスの都からの追放を願った)竹内三位、2人の都の音楽家、合わせて約10人を連れて新造中の居館に入り、中を案内しました。

この居館について、フロイスは次のように述べます。

…私は優れた建築家、あるいは場所を描写する優れた目を持っていれば、と思った。 なぜなら、私はポルトガルやインドで、このような新鮮さ、鮮やかさ、豪華さ、清潔さを持った建物を見たことがないと、間違いなく言えるからだ。信長は、来世を信じず、目に見えるもの以外は信じない。そこで彼は、自身が誰よりも偉大であることを誇示するとともに、自ら楽しむための施設として、彼は莫大な金を費やして地上に楽園を作ることを決意した。美濃の人々はこれを「信長の極楽」(リスボア版:guoucuraqui de Nobunanga アルカラ版:parayso de Nobunanga)と呼んでいる。私はこの建物の様子を心にとどめておこうとしたが、私が目にしたものがあまりに多かったので、全てを記憶することができなかった。この宮殿は非常に高い山のふもとに建てられており、 山上には、2年前に信長が武力で奪取した、この美濃国の主要な城塞が築かれている。 これらの宮殿の外には、非常に幅広い石の囲いがあるが、それは、(組み合わせて固めるのに)石灰(cal)を必要としないほどの非常に大きい石で構成されている。次いで、ゴアのサバヨの1.5倍ある広場があり、広場の両側には、日陰になるように2本の大きな果樹が植えられている。広場の入り口には、公共の祭りや行事のための劇場のような大きな家があった。長い石段を登ると、サバヨと同じかそれ以上の大きさの部屋に入る。長い梁が通っているが、これはすべて、彼が同じ山から切り出した一本の木でできている。この部屋には町の一部を見渡せる場所(miradouros[見晴らしのいい場所・展望台], & varandas[屋根のある張り出した部分。ベランダ])があった。ここで信長は「今から私の屋敷に案内しようと思うが、一方で、そなたがヨーロッパやインドで見てきたものに比べれば、自分の屋敷は小さく、貧弱なものだと思うから怖くて見せたくない、という気持ちもある。しかし、遠くから来た者にそれを見せないのは愚かなことであるだろう」(『日本史』では「「自分の屋敷を見せたい」と言う一方で、「ヨーロッパやインドで見たであろう他の建物に比べれば、私の屋敷は小さいと思われるだろうから、見せるのを躊躇するのだが、せっかく遠くから来たのだから、自分が案内役になって見せたい」とも言った、とある)と正直に話した。

信長の居館は、信長が許可しない限り、何人たりとも入ることができなかったので、私と同行する者たちも居館内を見るのは初めてのことであった。中の部屋はクレタ島の迷宮のようであり、すべて職人の巧妙な技で作られている。そう言うのは、何もないように見えるところに座敷[iaxequi](部屋または宿泊所)があり、また別の部屋があるが、それらはすべて決まった目的のために作られていたからである。この部屋の1階には、金の装飾が施された屏風[bebus](画布)と、純金の留め具、鋲が付けられた15~20の座敷がある。これらの座敷を取り囲むようにベランダ[回廊・縁側のことか]があり、その床は素晴らしい木でできており、その板は鏡の役割を果たすことができるほど、とても輝いている。その壁には、日本と中国の古い物語についての精巧な絵が描かれた羽目板がある(アルカラ版では「壁には、日本や中国の昔話を描いた、豪華な絵画の幕が飾られている」。『日本史』では、「壁の周囲には、金地の上に中国や日本の物語が描かれていた」)。これらのベランダの外には5つか6つの素晴らしい庭園(アルカラ版・『日本史』では、日本で「庭」[niuas・nivas]と呼ばれる庭園、と書かれている)があり、どれもメスラクシス[mesuraxis(スペイン語版ではmezurax)。珍しい?](新奇なもの)である。そのうちのいくつかを挙げると、1パルモ(手のひらを広げた時の縦のサイズ。20~25㎝)ほどの水の下に雪のように真っ白な小石(『日本史』では、「非常に小さく、きれいな白い小石」)が敷き詰められている場所に、さまざまな種類の魚(『日本史』では「美しい魚」)が泳ぎまわっていたり、池の真ん中の岩(アルカラ版では「古い石」)の上には、さまざまな種類の花や香草(ハーブ)が咲いていたりする[苔のことか?]。同じ山から素晴らしい水の流れが来ているのを、堰き止めて、導管でいくつかの部屋に分配され、手を洗う目的や、他の場所や、宮殿などでの用に供するために、きれいな水を汲めるようになっている。

2階には王妃(奥方)の部屋と寝室、そして女官たちの部屋があり、これらは下の階よりもずっと立派である。全ての座敷には、金襴の布がかけられ、見晴らしの良いベランダがあり、町の一部と、山の両方を見ることができる。(『日本史』では、「その部屋の周囲にはベランダがあり、そこは町側も、山側も、中国製の金襴の幕によってぐるりと(円形に)覆われていた」)そこからは鳥がさえずっているのを聞くことができるし、日本で望むことができる鳥の美を鑑賞することができる(『日本史』では、「そこでは小鳥のさえずりが聞こえ、新鮮な水をたたえた池(水槽?)にいる鳥の美しさを見ることができる」)。

山と同等の高さに達する3階には、とても静かな場所(アルカラ版では「人の話し声がせず、雑音も無い場所」、『日本史』では、「この場所は、人の喧騒から離れた静かな場所で、とても心地いい」とある)に茶(Docha)の座敷がある(『日本史』には、「茶[cha]の部屋につながる廊下がある」とあり、アルカラ版では「最もすばらしい部屋で、茶という粉末でできたものを飲む場所である」と補足文がある)。この部屋の精巧さ・完全さ・調和のとれている様子は、間違いなく私の表現する能力を超えている。これと同じようなものを見たことも無いので、ほめる言葉も出ない(アルカラ版では「この部屋は、私が今まで見てきた部屋の中で、最も素晴らしく、完璧であり、調和がとれている」)

3・4階の見晴らしの良いベランダからは、町のすべてを見渡すことができる。周辺に信長に仕える者以外の屋敷は無く、主だった者たちの屋敷は、宮殿を出てすぐの長い通りに新しく建設されていた。その後、信長は私とロレンソ、2、3人の近臣を連れて行き、別の変わった工夫のされた庭にある茶の座敷を見せてくれた(アルカラ版では「茶の座敷と、変わった品々を見せてくれた」、『日本史』では「茶の湯の部屋や、彼がそこに保管している芸術品を見せてくれた」)。下の1階に行くと、信長はとても小さな男に来るように命じた。彼は大きな顔と声の持ち主で、豪華な服を着ていた。彼はすぐに籠に乗せられてやってくると、歌ったり踊ったりした。それは周囲の人々にとって、少なからぬ娯楽となった。1階のベランダに腰を下ろした信長は、招いた人々を、金色に塗られたたくさんの食籠[Giquiros]でもてなした(アルカラ版では「保存食とその他の食べ物でもてなした」、『日本史』では「彼は私たちと異なる食べ物で私たちをもてなしたが、それは甘い軽食に当たるものであった」、となっており、それぞれによって大きく異なる)。そして彼はこの日の午後、私たちに別れを告げた。…

1984年より、岐阜城織田信長居館跡で発掘調査が実施されており、これによって、戦国期の遺構が2層になっていること、そのどちらも熱を受けていることが判明しました。これは、1567年の稲葉山城落城時の火災によるもの、1600年の岐阜城落城時の火災によるものと考えられ、信長が稲葉山城攻略後に存在していた斎藤氏の居館が火災によって焼亡した場所に居館・庭園を新たに造成し、一部は斎藤氏時代の物(庭園の遺構。石など)を改修したことがわかります。また、この発掘調査によって、フロイスの記述の裏付けができるようになったのですが、調査結果と、フロイスの記述を照らし合わせて見てみることにしましょう。

①「非常に大きい石で構成」された「非常に幅広い石の囲い」

巨石が並べられた、通称「巨石列」が現存していて、最大の物は縦2.4m・横3.4mにもなる。各所で抜き取られた跡が残っており、別の城などに転用されたと考えられている(岐阜城は1600年の関ケ原の戦い後廃城となった)

②「5つか6つの素晴らしい庭園」

現在、7つの庭園跡が確認されている。

③「1パルモ(20~25㎝)ほどの水の下に雪のように真っ白な小石が敷き詰められている場所

信長居館(1・2階部分)のあったと考えられている平坦地の南西部には、深さ約15センチほどしかない池の跡がある。しかしここには「池の真ん中の岩」は無い。南部にある池の跡は、深さが約30センチ未満で、しかも石敷きであるため、フロイスの言っている池はこの池の可能性が高いだろう。

④「山から素晴らしい水の流れが来ているのを、堰き止めて」利用

山に面するところにある、居館内において最大規模の庭園跡の調査で、豪雨時に水が流れ落ちてくる場所(標高差は約16m)に石敷きの遺構と集石遺構が見つかっており、どちらも「水流を受ける施設」として人工的に作られたものであると考えられ、また、前者は、「州浜」(砂浜を砂利で表現したもの)としての性格も同時に兼ね備えていた可能性がある(『岐阜城跡3』)。山から流れ落ちてきた水は堰き止められて池となっており、その大きさは南北約21m、東西約20mにもなる。池の南半分は一段低く作られており、北部は「水を流す空間」、南部は「水を溜める空間」という「機能的な差」があったと考えられている。

記述にはいくつかに部屋に水が送られていたことが書かれているが、仲隆裕氏は、「溝や木樋(懸樋)」で行われていただろう、と推察している。竹や木を使って水を運ぶ懸樋は、『一遍上人絵伝』(1299年成立)や『法然上人絵伝』(1310年成立)などにも書かれており、鎌倉時代にすでに行われていた。

・「山と同等の高さに達する3階」

3階部分の建物があったと考えられている地点は、標高39.2mにあり、両側を山に挟まれている部分になっている。

それ以外の各地点の標高は次の通り。

1:広場 18.2~19.0m

2:巨石列周辺 22.5~23.0m

3:居館1階 33.5~34.0m

4:滝のある池 31.0~31.5m

5:4階(静かな茶室) 44.5~45.0m

6:最上部の池 47.5~50.0m

●「すべては余の権力下にある」

フロイスはその後のことについて次のように書簡に記しています。

…(居館を訪問した)2、3日後、トキジロドノ(Toquigirodono)が尾張国から到着した。彼は王(信長)に非常に寵愛されている人物である。私は、ロレンソと一緒に、和田殿の手紙を届けに行った。彼は大喜びで私たちを迎え、宿が遠いだろうから、と言って夕食に招待した。彼は手紙を読むと、すぐに宿の主人に、私のために、あらゆる面で面倒を見てほしい、そのために必要なものは何でも用意するから言って欲しい、と伝言を伝えた。 そして、彼は私に、すぐに私が満足できるように物事を取り計らうので、安心するように、と言った。その後、フォキジロ(foquigiro。「f」は「t」の誤りか?)という名の者が、私が公方様(足利義昭)に向けて作成した4、5行ほどの、庇護を願う書状の草稿を持って行った。すると王(信長)は、この書状は短いし、余の意思が盛り込まれていない、と言った。彼はすぐに秘書を呼び、秘書は彼の前で膝をついて別のものを書いた。その書状には、内裏と公方様が私を庇護してくれるようにと書かれていた。 この手紙はフォキジロドノによって、王(信長)のサインとともに私に手渡された。そして彼は和田殿と日乗に向けて別の手紙を書いたが、それには、王(信長)が私に示した愛情と好意とを伝えるものだった。 その後すぐ、彼は出征したので、私は柴田殿の屋敷に行き、書状に対する礼と、別れの挨拶をするために、王(信長)と面会させてくれるように求めた。柴田殿は和田殿に劣らぬ熱意を持って私を家に招き入れた。それから彼は王(信長)のもとへ行き、その結果、私は再び彼と話をすることができた。 彼は多くの都の貴族の前で次のように述べた。「内裏や公方様のことを考慮する必要はない(nao tenhais conta com o dairi, nem com o Cubocama)。なぜなら、すべては余の権力下(debaixo de meu poder)にあるからだ。そなたは、余のいうことだけを聞けばよく、自らが欲する場所にいればよいのである」。その後、彼がいつ戻るのかと聞いてきたので、私は翌朝と答えた。彼は、私の帰りは非常に急であり、翌朝、私に城を見せたいと思っているので、帰るのを2日後まで延期すべきだと答えた。王(信長)は、すぐに主要な家臣の一人(中川重政)を呼び、翌朝、都から来た7、8人の貴族とともに私を招待し、城の中については柴田殿が案内するようにと告げた。また、シノドノ・クンゲ(Sinodono Cungue 公家の日野殿、という意味か)の息子(日野輝資。この時14歳)に、自分の代わりに私をショバ(Xoba 「一緒に食事をとること」、と注釈がある。相伴のことか)にするように言った。この場所には、信長の主だった家臣、都の高貴な人々、そして様々な国から来た高貴な人々がいたが、彼らは信長の行為に驚き、私とロレンソに次のように言った。「信長がそなた達に示した好意のような、信長にとってあまりに見慣れないことをしたのはなぜなのか、どう考えればいいのかわからず、途方に暮れている 」。彼らが理解できないのも当然である。なぜなら彼らは、すべての恩恵は、あらゆるものの永遠の源である、いと高き神(Deos)の慈悲からもたらされることを知らないからであり、私に何の功徳もないのに、神がこの場所にいた多くの者たちの中で、私たちに恩恵を与えて下さったことを知らないからである。…

「内裏や公方様のことを考慮する必要はない。すべては余の権力下にある」というのは、非常に有名な言葉ですね。

この発言からは、畿内のことに積極的に関与しようとはせず、一歩引いた存在としてふるまい、基本的には幕府と朝廷を尊重するものの、両者を支える軍事力・経済力を持つ者として、両者の上に立つ存在であろうとする微妙で複雑な信長の内面を推し量ることができます。

この言葉について、

今谷明氏は『信長と天皇』で「この事件からわたくしたちが得られた結論は、①人々の間に、依然として綸旨の効力が大きな権威を持っており、信長以外は、簡単にそれを否定できないということ。②天皇側が、神仏に対する侵害という観点でキリシタンを警戒したのに対し、信長が、あくまで外国人居住の保護、という立場でこの問題を処理したこと。とりあえずこの二点が注目される。ことに、信長がいったんは日乗の書状に屈して、「京都のことは天皇に任せよ」という態度を示しながら、フロイス自身の直訴によってそれを撤回した事情に、両者(天皇と信長)の立場の相違が端的に表れているであろう。またこの紛争全体を通じて、将軍義昭の権限と介在が形式的なものになっている事情も看取される。信長としては、幕府の存在はほとんど無視しうる状況になっているのである」

藤井譲治氏は『天皇と天下人』で「この一件は、キリシタン禁令を出す天皇、それを天皇の権限ではないとする将軍義昭、さらにそれを無視し超越するがごとき態度をとった信長、それぞれが自己主張をしつつも、決定的な対立にはいたらない、この時期の三者の微妙な力のバランスを良く示している」

…としています。

文章中のトキジロドノ(Toquigirodono)とは藤吉郎殿、木下藤吉郎秀吉のことでしょうか。しかし、後年に編集した『日本史』で、フロイスは伝十郎殿という若い家臣、と書き直しているので厄介なのですね。伝十郎殿というのは、信長の寵臣であった大津伝十郎のことです。後年になって、あれは藤吉郎殿ではなかった、伝十郎殿だった、と気づいて改めた、という可能性もあるのですが、気になる点がいくつかあります。

・①和田惟政と友人関係にあったのか?

・②フロイスと会った後すぐ出陣した、とあるが、彼は武将だったのか?

①については、信長と共に上洛した際に、交友関係を持った、とも考えられますが、京都に残って、奉行として仕事を執り行っていた木下秀吉のほうが、接点を持ちやすいと思います。年齢的にも、和田惟政は1530年生まれ、木下秀吉は1537年生まれ、大津伝十郎は1549年頃生まれ(谷口克広氏『織田信長家臣人名辞典』)であり、年齢の近い秀吉のほうが惟政と交友関係になれそうな気がします。

②については、谷口克広氏『織田信長家臣人名辞典』に大津伝十郎は「軍事面より内政面での活躍が多い」とあり、信長の側仕えが主だったと思われるので、大津伝十郎の可能性は低くなるのかなと。

また、この後の閏5月25日に、木下秀吉が京都で出した書状が残っているのですが、これは戦場に向かった後、京都に戻ったのかもしれません。

しかし、どれも推測の域を出ないものであり、フロイス本人がわざわざ後日『日本史』に「若い家臣」と書いているので、大津伝十郎…と考えるべきなのでしょうね。


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