社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 日本の古代貨幣史

2025年4月11日金曜日

日本の古代貨幣史

 

●和同開珎以前

708年。『続日本紀』によると、武蔵国秩父郡から「自然に成れる和銅」が献上されたことを祥瑞として、1月11日から慶雲4年を「和銅」元年とすることが決定されました。

「和銅」というのは、精錬を必要としない銅の事です。普通、銅は銅鉱石として掘り出されますが、硫黄を多分に含んでおり、これを除く作業、精錬が必要となります。銅が単品で発見されることは非常に珍しいことなのですが、そんな珍しいことがあったので、祥瑞とされたのでしょうが、今村啓爾氏『富本銭と謎の銀銭』によれば、「秩父地方には現在に至るまで採掘に値するほどの銅鉱山の存在は知られていない」そうですし、創作の可能性が強いでしょうね(祥瑞とされるものはだいたいそうだと思う)💦

この創作を仕組んだのは、おそらく、新貨幣発行にあたり、箔付けと周知を図るためであったと考えられます。

ちなみに、『続日本紀』によると、この改元に当たって、大赦が行われ、この日の夜明け以前の罪…なんとまだ発覚していないものまで…が赦されています(八虐や故意の殺人・強盗・窃盗などは除く。また、逃亡して100日以上も自首していない者も除く)。また、次の事も行われました。

・高齢者に対し、100歳以上には米3斛、90歳以上に2斛、80歳以上に1斛

・孝行な子・孫、正しい行動をとる者、貞節を守る妻の名をそれぞれの村里の門に掲示し、3年間税を免除

・夫婦であったのが片方を亡くした者、孤児、1人暮らしの高齢者、1人で生活できない者にも米1斛を給付

・役人の位階を進める

・自然銅が発見された武蔵国では1年間庸を、秩父郡ではこれに加えて調も免除

また、大宝と改元される前の年号、「慶雲」ですが、これもめでたい形の雲が現れる(これに加えて備前国から神馬が献上された)という祥瑞にともなった改元で、この際も大赦が行われていますが、この時は80歳以上のものと老人の病人に物を恵み与え、1年前までの未納の出挙を帳消しにし、神馬を献上した備前国の郡の調を免除する、といった内容が実施されています。

さて、話を戻して、和銅と改元された後、2月11日に銭貨を鋳造を監督する役人である鋳銭使が置かれ、7月26日、近江国で銅銭を鋳造させ、8月10日から銅銭を使用させ始めます。

『続日本紀』には記載がありませんが、この時に発行された銭が、あの有名な「和同開珎」です。

この和同開珎は、以前は最初に作られた銭として知られていたのですが、1999年に、ある銭が「和同開珎よりも古い可能性が極めて高い」と発表され、覆ることになります。この銭が、「富本銭」でした。

そもそも、『日本書紀』には、天武12年(683年)4月15日条に「今より以後、必ず銅銭を用い、銀銭を用いること莫れ」との記述があり、和同開珎よりも前に作られた銅銭は存在するのではないか、とは考えられてはいました。もしくは、この条文にある「銅銭」は和同開珎の事で、和同開珎はこの頃から作られていたのだ、とする説も存座していました。

富本銭の存在は江戸時代前期から知られていたようで、1694年の『和漢古今寳泉図鑑』に「冨本七星銭」として紹介されています。

富本銭は昭和時代になって1969年、1985年、1991年と平城京跡や藤原京跡で発掘されていましたが、まだ和同開珎以前というのは確定的ではありませんでした。

ちなみに、『国史大辞典』(1979~1993年)・『日本史大事典』(1992~1994年)には項が立てられていません💦

その後、1998~1999年の飛鳥寺付近の飛鳥池遺跡の調査で、33点の富本銭が見つかったのですが、富本銭が見つかった層が662年(もしくは682年)に作られたとされる飛鳥寺の禅院の瓦の下に存在していたこと、富本銭と同じ層から「丁亥年」と書かれた木簡も発見され、「丁亥年」は60年間隔で存在し、どの年のものかわからなかったのですが、662年・682年前後でいうと687年が当てはまり、和同開珎以前のものであるということがほぼ確定的となったのです。

1999年1月20日の毎日新聞には、「奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮発掘調査部によると、7世紀後半の地層から出土しており、和銅元(708)年鋳造で日本初の本格的な貨幣とされる和同開珎より古い、最古の鋳造貨幣としている。古代史の定説を覆し、日本史の教科書を書き換える第一級の発見で、貨幣史、古代経済史などの研究に大きな影響を与えそうだ」と書かれています。

しかし、富本銭は当初、その使用方法は「厭勝銭」、金属の所持によって悪事を避けるためのもの、と考えられていました。

『日本歴史大事典』(2000~2001年)には、「富本銭は政府の意図としては通貨として発行された可能性が高い。しかし、その意図が実現されたのは貴族・官人の間、都とその周辺に限られたであろう。それ以外にも普及しただろうが、呪物・宝物としてであろう。」(執筆・栄原永遠男)とあり、渡辺晃宏氏は2001年に『平城京と木簡の世紀』で「厭勝銭としての機能が中心であったと見るのが妥当だと思う」と述べています。

一方で、松村恵司氏は1999年に、①厭勝銭が使用されたとしても、呪術関係が盛んになる平安時代に使われていないのはおかしい、②富本銭が厭勝銭とすると、銭がない時代に厭勝銭が作られていたことになる、③唐の開元通宝(正しくは開通元宝)と同じ重量、直径であり、祭祀用品にそこまでの厳密性が求められていたとは思えない、と指摘して厭勝銭であることを否定しました。

また、鈴木公雄氏も、『銭の考古学』で、1997年から開始された飛鳥池遺跡の発掘調査で、「金・銀・銅・ガラス細工などの製品を集中的に制作した工房群が発見され」、その中で鋳棹・鋳型・砥石などの「富本銭鋳造関係の遺物・遺構」も見つかり、それからは1回の鋳造過程で「30~40個の銭貨が一時に鋳造され」たと考えられ、この遺構は「国家的規模の銭貨鋳造工房であると考えられるに至った」、であるからして、「もはや富本銭が厭勝銭として作られたと考えるわけにはいかない」と述べています。厭勝銭をこのように大規模に生産する必要性はないですよねぇ…。そもそも、『世界大百科事典』には厭勝銭について「流通を目的としてではなく,魔よけ・まじないを目的として作られた私銭をいう」と定義されており、国家が厭勝銭を作ることは無かったことがわかります。

高木久史氏は2016年に『通貨の日本史』で「富本銭はまじないなど呪術用の銭とかつては考えられてきたが、そうではないとするのが近年の通説である」と述べており、どうやら、厭勝銭説は通説ではなくなってきているようですね😐

さて、この富本銭ですが、これが作られた理由について、鈴木公雄氏は諸説を次のようにまとめています。①藤原京の造営(680年開始、686~690年中断、694年完成)に当たって、各地から集められた建設労働者などに対し、支給する物資や食料の調達のために銭貨が用いられた、②銅銭を素材となる銅の価値よりも高く設定することで、銅銭を発行することによってその差益により国家は収入を得ることができる。富本銭は、藤原京造営に必要な財政を補うために発行された、③当時はまだ市場が未成熟であったので、通貨としてではなく、東アジア諸国と肩を並べるための国家的威信財として銭貨を発行した。

富本銭が作られた経緯を考えるにあたって、気になるのは、『日本書紀』の先に挙げた記述、「今より以後、必ず銅銭を用い、銀銭を用いること莫れ」の、「銀銭」の部分で、富本銭と共に当時銀銭も使用されていたということです。

この「銀銭」は何なのか。多くの研究者は、「無文銀銭」のこととします。

「無文銀銭」はその名の通り、何も文字の刻まれていない(中には文字が書きこまれているものも散見される)、中心に丸い穴(鈴木公雄氏『銭の考古学』には「鑿で開けたとみられる小孔」とある)がある、銀を打ち延べて作られた銭(つまり鋳造ではない)の事で、江戸時代の1761年、摂津国天王寺村で畑の中から約100枚が掘り出されたのが最初の発見でした。その後、1940年に滋賀県大津市にある崇福寺の塔の心柱の礎石に開けられた穴の中から12枚発見(その後1枚紛失)され、無文銀銭の作られた年代の解明が大きく進むことになります。なぜなら、崇福寺は『扶桑略記』によれば668年に造られた、とあるからです。「塔が崇福寺開山時に建立されていたとは限」らず、668年以後「一定の幅のある年代を推定すべき」(今村啓爾氏『富本銭と謎の銀銭』)ですが、このあたりに作られたものと考えられ、また、『日本書紀』には674年に対馬国で採れた銀が献上された、という記述があり、これを受けて製造されたのかもしれません。

さて、富本銭と同時期に銀銭があったことがわかりましたが、政府は、なぜ銀銭がありながら富本銭も鋳造したのでしょうか?国家的威信財として作りたかった、という説は首肯できます(当時中国は銀銭がなかった)。では、流通用としてはどうなのでしょうか?今村啓爾氏は『富本銭と謎の銀銭』で各地での発見時の様子からわかる「宝器的扱いからみて、無文銀銭がきわめて高価なものであり、民衆の日常的交換媒体になりえ」ず、「広く流通したものではない」、高木久史氏が『通貨の日本史』で「無文銀銭は額面が大き」く、「庶民が日常の取引で使う通貨ではおそらくなかっただろう。庶民の日常取引には、従来と同じく布や米などが使われ続けたと考えられる」と述べているように、銀銭は高額取引に、銅銭は少額取引に、という棲み分けがあったのでしょう。

しかし、今村啓爾氏は異なる説を唱えています。それは、富本銭は政府によって、無文銀銭と同じ価値を与えられていた、とするものです。

2023年8月時点において、金:銀:銅の1gあたりの価格は、9800円:120円:1.2円で、だいたい820:10:1の比になっています。このような価値の違いが現れるのは、それぞれの存在する量が異なるためです。これまで人間が掘り出した量は、金は18万トン、銀は100万トンで、銅はデータが見つからなかったのですが、2005年の1年間における銅の世界生産量は1500万トンありましたので、その量の違いがよくわかります。

それなのに、古代の日本政府は銀銭と銅銭を同じ価値で流通させようとしたのですね。なぜでしょうか??

今村啓爾氏は、人気の銀銭を抑えて銅銭を銀銭と等価として流通させることができれば、「政府は無限の収入源を確保することができる」からだ、と述べています。銅銭を「きわめて高価」な無文銀銭と同じ価値と設定できれば、政府は入手の容易な銅を素材とした銅銭を作れば銀銭と同じ購買力を得ることになりますね😲

大量の物・資源が必要となる藤原京造営に当たり、この錬金術を実現するために政府は「今より以後、必ず銅銭を用い、銀銭を用いること莫れ」と命令を出したのですが、「当時の無文銀銭が国際的な価値の裏付けのある地金の実体価値で流通していたのに対し、銅で作った名目価値だけの貨幣を無理に流通させようとしたのであ」り、「不人気なのは当然で」、「そのやり方はあまりに拙速で」あったこともあり、「銀を保有した貴族の当惑や思わぬ交易上の支障にもぶつかった」ため、はやくも3日後の4月18日に「銀を用いること、止むること莫れ」との詔を出し、銀銭の使用は禁止するものの銀の地金を交易に使用することは許可するという、政策転換を余儀なくされることになったのだろう…と今村啓爾氏は推測しています。銀銭の使用は許可しなかったのは、せめてもの意地だったのでしょうが、政府の銅銭(富本銭)流通作戦はもろくも失敗に終わってしまったわけです。

しかし銅銭が流通していないというのは、国家的威信に関わることで、許されないことでした。政府は、もう一度銅銭流通作戦に挑戦する事になります。その際に作られることになったのが、和同開珎でした。

840年に成立した『日本後紀』の延暦15年(796)11月8日条には「周朝暦を撫で、肇めて九府の珎を開き、漢室期に膺り、爰に三官の貨を設く」とあり、これは「中国の周は財政を担当する九つの役所で貨幣を作り始め、漢は貨幣を鋳造する3つの役所で貨幣を作った」という意味なのですが、これだと「開珎」には貨幣を作り始めた、という意味があることになります。

●和同開珎は「かいちん」か「かいほう」か??

和同開珎の珎は「ちん」と読む漢字で、意味は「めずらしい、たから」などの意味があります。同じく「めずらしい」という意味の「珍」と同じ意味を持つ漢字で、それもそのはず、「珎」は「珍」の異体字(意味や読みは同じだが字体の異なる漢字)で、古い時期に「珎」、その後は「珍」と変化した漢字なのです。

奈良時代の人々がどう読んでいたかは残念ながら史料が残っていないのですが、その後の時代の人々がどう読んでいたかはわかります。

平安時代末期の歴史書『日本紀略』に和「銅」開「珍」とあり、中国の宋の洪遵が1149年に書いた『泉志』には、和同開「珍」とあり、江戸時代の1683年に貝原好古によって書かれた『和事始』にはた和銅開「珍」こそ「日本の銭の始と云べし」とあり、1696年に書かれた『化蝶類苑』にも和同開「珍」、江戸時代中期の中谷顧山は『和漢孔方図会』に「ワドウカイチン」とルビを振り、江戸時代後期の河村羽積も『奇鈔百円』で同じく「ワドウカイチン」と書いています。これを見ると、「かいちん」と読む人が多かったことがわかります。

一方、江戸時代後期の考証学者・狩谷棭斎(1775~1835年)は『皇国泉貨通考』で、和同開珎の「同」は「銅」の略字、同じように「珎」は「宝」の旧字である「寳」を省略した字であるとして「かいほう」説を提唱したのですね。

その後、明治時代の成島柳北が『古銭鑑識訓蒙』で、「和同開珎」は「開寳」と読む可し珎は寳の略同は銅の略と対するなり開珍にては意味をなさず陋(見識が狭いこと)極まれり」と狩谷棭斎と同様の説を唱え、これが昭和時代まで主流の説となるに至ったのですが、

その後、「同」は「銅」の略ではない、「和同」は吉祥語で、これは「調和する」「やわらいで1つになる」という意味であり、中国の古典である『礼記』『春秋左氏伝』『淮南子』などにも「和同」とあり、これから採用したものだ、だから、和同開珎の「珎」も略字では無い、という意見が出てきます。また、そもそも和同開珎は和銅年間より前に作られたもので、年号の「和銅」とは関係ない、という説も提唱されました。

また、「珎」の字についても、奈良時代の『東大寺献物帳』に「国家の珎寶」とあり、それ以前の654年の朝鮮半島の百済の「砂宅智積碑文」に「金を穿ち以て珎堂を建て、玉を穿ち以て寳塔を建つ」とあり、「珎」と「寳」が別の漢字として使われていたことは明白で、「寳」を「珎」の字に代えて使用した例は「東大寺伎楽面」(東大寺の法要で用いられた仮面)に「天平勝珎四年」と書かれている例1つしかない、と栄原永遠男氏が論じるに至って、和同開珎は「かいちん」と読む、というのが通説に変化していくことになりました。

『広辞苑』第七版には先に「わどうかいちん」で載っていますし、

『国史大辞典』(1979~1993年)には「当時の原史料では、「珎」はチンと発音されているので、カイチンと読むべきである」とあり、

『日本史大事典』(1992~1994年)には「当時の原史料では「珎」の文字は「ちん」の音を表しているので、「かいちん」と読むべきである」とコピペしたような文章が載っており、

『日本歴史大事典』(2000~2001年)には、なんと「かいほう」説についてそもそも記載がありません💦

しかし、これに反対する意見もあり、新井宏氏は「狩谷棭齊に捧げる讃歌」で「和同開珎の後に続く皇朝十二文銭の全てが寳を用いているし、当時の中国は開元通寳の時代である。寳と読むのが、むしろ素直なのである」と述べ、古代日本で作られた銭貨がみな「寳」の字を用い、日本の銭貨の手本となった「開元通寳(開通元寳とも)」も「寳」を使用しているのだから、「珎」は「寳」の略字で間違いない、というのですね。

同様に今村啓爾氏も『富本銭と謎の銀銭』で、和同開珎の後、万年通寳が出て、その後同じ3文字目に「開」の字を使う「神功開寳」が出ているのだから、「わどうかいほう」と読むべきだ、と述べています。

また、今村氏は、和同開珎は先に銀銭が出て、その後銅銭が出ているが、銀銭は稚拙な鋳造技術では複雑な字体を鮮明に鋳造するのが困難であったので、複雑な字体を避けて「珎」としたのだろう、栄原氏は「寳」を「珎」に代えている例は1つしかないというが、「一例でもあることは重要である。どうしても字画を少なくしたいという技術者の要請があったとき「寳」に代えてどのような字が選ばれたか、ことは多数決の問題ではないであろう」と述べ、銀銭に着目して「珎」は「寳」の省字説を補強しています。

両者の中間をとる、「奈良時代では「珎」と「寳」を適宜使い分けていた」とする説もあり、前述の『東大寺献物帳』には749年の東北地方での砂金発見に関すると考えられる756年の詔が載っており、そこには「神祇は祥を呈り、地は珎を惜しまず」とあり、ここにある「珎」は明らかに銅という宝=「寳」のことです。後漢時代の字典『説文解字』には「珍とは寶なり」とあり、両者の意味は似通っていて、使用する方も混乱していたのかもしれませんね。

さて、「かいちん」か「かいほう」なのか…三上隆三氏は『貨幣の誕生』で「当時の録音でも出てこないかぎり、確信をもっていずれかに軍配をあげるわけにはいかない。非科学的で無責任なことをいうが、この論争については、最終的には各人の考え・意志に従う以外にはない」と記しており、まさしくこのような状態なのですが、その中で松村恵司氏は和同開珎をめぐる諸問題」で、次のように興味深い指摘をしています。『後漢書』班固伝に、

…「「握乾符、闡坤珍」(乾符を握り、坤珍を闡き)と表現するが、これに対する章懐太子李賢の注は、「乾符、坤珍とは、天地の符瑞を謂うなり」と解説する。ここでは地のもたらせた瑞祥が「坤珍」と表現されており、『東大寺献物帳』の地珎と同意の表現である点が注目される。『説文解字』には「闡とは開なり」と見え、「坤珍を闡く」という表現が和同開珎の「開珎」に通じ、「開珎」が「闡坤珍」という字句を典拠とした可能性が浮上するのである

この通りだとすると「和同開珎」の「珎」は「珍」であり、和同開珎は開「珎」のままで良いということになります。

まぁ、先に述べたように「珍とは寶なり」で、意味は一緒なんですけどね💦

通説通り、和同開珎は「かいちん」とするのが無難なような気がします。


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