社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 毛利元就からの「合力」(救援)要請~但州播州軍の事

2025年4月15日火曜日

毛利元就からの「合力」(救援)要請~但州播州軍の事

 


※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●毛利元就からの「合力」要請

日乗の書いた、永禄12年(1569年)8月19日付の毛利氏に宛てて書いた書状が残っており、そこには、

・出雲・伯耆・因幡3カ国への「合力」(加勢)

・備前・美作への「合力」

…のことが書かれています。毛利氏が幕府に加勢を頼んだというのですね、これはいったいどういうことなのでしょうか。

1566年に尼子氏を滅ぼすことに成功した毛利元就は、続いて北九州に狙いを定め、永禄11年(1568年)8月、二男・吉川元春、三男・小早川隆景率いる大軍を豊前・筑前に派遣、大友氏と各所で戦闘を繰り広げることになります。

毛利氏に対し苦戦する中で、肥前の龍造寺隆信が反大友の兵を挙げたので、大友宗麟はこれと戦うために永禄12年(1569年)3月17日、筑後国に向け出陣しています。これを好機と見て、4月26日にはいよいよ毛利元就も出陣、長府(下関市)に向かうことになるのですが、元就がこの時まで残っていたのは、本人が書状で書いているように、病気だったこともあったでしょうが、東部方面のことが気にかかっていたからでしょう。

備前国の浦上氏は味方につけていましたが、但馬国の山名氏は敵対関係にあり、織田信長が山名氏と共に中国地方に攻め寄せてくれば、浦上氏も不利を覚って寝返り、一大事となるかもしれない…という思いがあったと考えられます。

そこで、両面作戦を避けるために、信長と友好関係を築いておく必要があったのです。

『小早川家文書』には、織田信長が小早川隆景に宛てて送った、2月13日付の次の内容の書状があります。

「この度、元就殿に使者を送ったところ、親しく付き合いましょう(「御入魂」)とのことで、これまで願っていたことが叶う(「本懐」)結果となりました。また、今後はあなたが取り次ぎをなされるとのことで、喜ばしく思っております(「歓悦」)。こちらから送った使僧は、太刀1腰と、銀子10枚をいただくことができました。まことに手厚い対応で、感謝してもしきれませんが。今後も密に連絡を取り合っていきましょうとの言葉をいただき、まことに『晬啄の至り』(『日本国語大辞典』によると、「「啐」は鶏卵が孵化しようとするとき雛が殻を内からつつくこと、「啄」は母鶏がそれに応じて外から殻をつつくことの意」で、両者の心がピタリと一致する事。小瀬甫庵『信長記』『太閤記』にもこの言葉が見える)であります。気分がとても良いです(「快然」)。ぜひともあなたとは直接対面して、心に思っていることを述べたいと思っています。」

信長がとても興奮してはしゃいでいる様子が伝わってくるかのような文面ですね😓信長、もしかすると毛利元就のファンだったのかもしれません。

書状の内容を見ると、最初にコンタクトを図ったのは信長側だったのかな?と思います。

続いて、『小早川家文書』には、木下秀吉が小早川隆景に宛てて送った、3月18日の次の内容の書状が収められています。

「この度、信長様のもとに元就殿が派遣された永興寺殿が上洛されました。信長様が「拙子」(へりくだって言う一人称)に取り次ぐように、と命じられましたので、私が取り次いで信長様に伝えました。信長様は特に親しくつきあっていきましょう、と話をなされていましたので、今後はよりいっそう、お互いに心を隔てることなく、密に連絡を取り合っていくことが大切だと思います。私は、若輩ではありますが、相応の職を任されている者でありますので、疎略に扱っているわけではございません。よって、見栄えは悪いかもしれませんが、飛葦毛の馬を1匹お贈りいたします。今後は、それぞれの主君の考えていることを、隠さず伝え合うようにいたしましょう。」

秀吉が自身の事を「若輩」(未熟で経験が浅い者)と言っているのは、知名度が低かったからでしょうね😕

また、秀吉といえば、後年、中国方面軍を任されることになりますが、この時からすでに中国方面とは関係があったのですね😲

さて、2つの書状を紹介しましたが、実はこの2つの書状にはある問題がありまして、それは何かというと、実は何年に書かれたものなのかよくわかっていないのです💦

『大日本古文書 家わけ十一ノ一 小早川家文書之一』は永禄12年に書かれたもの、としていますが、光成準治氏は『小早川隆景・秀秋』『毛利輝元』で、この2つの書状は「永禄13年に比定される」としていて、意見が分かれているのですね💦

自分としては、永禄12年に出されたものであると思います。なぜなら、この2つの書状は、信長と毛利元就の最初の接触を記したものですが、信長が永禄11年(1568年)年9月に上洛して畿内を制圧したのにもかかわらず、中国の大大名である毛利氏と、永禄13年に至るまで1年以上も接触しないというのは考えにくいことだからです。光成準治氏は何を以て永禄13年と考えているのか、その理由は示されていませんが、永禄12年(1569年)年に出されたものとするのが自然かな…と私は思います。

(中略…この部分は公開しません<(_ _)>)

さて、いよいよ信長が動くことになります。

『細川両家記』には、…8月1日 尾張衆三頭・摂津の伊丹・池田が但馬国に攻め入り、成果をあげて13日に帰国した。…

『足利季世記』にも、…伊丹兵庫頭・池田筑後守に尾張から三頭が加勢して但馬国の山名や、その他の幕府に従わぬ者たちを討伐するために出陣したところ、国中ことごとく降参して、13日に皆帰陣したという。

…と同様の記述があり、まず攻撃を加えたのは但馬の山名氏であったようです。

この戦いの詳細について伝えてくれているのが日乗の書状で、それには、

…出雲・伯耆・因幡3カ国への加勢のため、木下藤吉(秀吉)・坂井右近(政尚)の2人に、五畿内の兵約2万をつけ、日乗を検使として出陣し、但馬の銀山(生野銀山)以外にも、子盗(此隅城)・垣屋城(楽々前城か?)など、18城を10日以内に陥落させました。一度の出陣だけでこのようになったのです。但馬では田結庄(鶴城)・観音寺(鶴ヶ峰城。垣屋氏の城)の2つの城だけが残っており、両城に対しては相城(付城)を築き、敵は山の下に降りられない状態になっていますので、近日中に攻略できると思います。ご安心ください。

…と記されています。

『細川両家記』と日乗の書状の相違点は、①「尾張衆三頭」とあるが日乗の書状には織田軍から参加している武将は2人しか書かれていない、②日乗の書状には伊丹・池田が参加したことは書かれていない、③日乗の書状が書かれたのは19日で、この時もまだ戦闘は継続中であるが、『細川両家記』ではすでに13日に帰国している、の3点になります。

②については、今井宗久が8月17日付の池田勝正宛の書状で「今度但州表御出勢」と書いているので、池田勝正が但馬に出陣していたのは間違いないようです。

③については、永島福太郎氏が「織田信長の但馬経略と今井宗久」で述べているように、「但馬の信長代官として駐在した」らしく、残っていた軍勢がいたのでしょう。

また、気になるのは但馬に進入したルートの事ですが、永島福太郎氏は「8月に木下秀吉に命じて播磨から但馬に攻め入らせた」と、播磨を経て但馬に進攻したとしています。後に述べるように、但馬攻めの直後に実施された播磨攻めでは、播磨国東部の実力者・別所氏も従軍しているので、播磨東部は幕府・織田の影響下にあったと言え、この播磨東部を経て但馬に向かったのでしょう(戦国大名池田勝正研究所さんのブログでは、まず播磨国の赤松義介の城を攻撃し、攻略した庄山城から北上して但馬に向かった、としている)。

但馬国に攻めこんだ織田軍は短期間のうちに但馬国のほとんどを平定することに成功しました。『重編応仁記』には、「山名の子孫等皆国人に背かれ悉く滅亡して…」とあり、織田軍の進攻に対し、国人たちが戦うことなく雪崩を打って織田軍に降参したことがわかります。国人たちに背かれた山名祐豊は、日乗書状文中に「子盗」とある山名氏の本城、此隅山城をも守り切れず敗れ去ることとなってしまいました。

但馬攻めがうまくいったことについて、今井宗久の書いた8月17日付の木下秀吉宛の書状には、

…この度の但馬でのことについて、ことごとく思い通りになられたようで、評判は世間に知れ渡っており、誠にめでたいことであります。岐阜においても、「殿様」(織田信長)は一段と機嫌がよい御様子で(「一段御機嫌能」)、恐れ多いことです。また、引き続いて「取成」(仲裁・仲介)のことなどについても話があり、特に池田・伊丹についてはよくよく注意を払うように、と仰せでした。…先日、高槻に赴いたところ、滞在されているということだったので、尋ねましたところ、寝ておられるということでしたので、委細について和田伊賀守(惟政)に伝えておきました。

…とあり、これを裏付けています。この頃には秀吉は摂津国に戻っていたようです。寝てたんですね😅

また、信長にとって但馬進攻の目的の1つでもあったと考えられるのが日乗書状文中に「銀山」とある生野銀山です(『兵庫県史3』には「信長の但馬出兵は毛利氏の要請によるかたちをとってはいるが、じつは信長としては生野銀山の入手がそのねらいであった」とある)。

生野銀山は、『銀山旧記』によると、天文11年(1542年)2月に地元の者が銀鉱を発見したのが始まりだといいます。『御湯殿上日記』によれば、山名祐豊は朝廷に対し1554年に「白銀300両」、1556年に「白銀200両」を献上していますが、これは生野銀山から産出されたものでしょう。

しかしその後銀山をめぐる国内の対立があったようで、『銀山旧記』によると1556年に太田垣氏が叛いて銀山を奪ったとあります。1556年以降に『御湯殿上日記』に祐豊による白銀献上が見当たらなくなるのはこのためでしょう。ここからも山名氏が弱体化して国人たちが半ば独立勢力化していた様子がうかがえます。こんな状態では一丸となって織田軍に対抗できるわけもなく、短期間のうちに但馬はほぼ攻略されてしまうことになったわけですね。

戦後の銀山について、『銀山旧記』によると天正5年(1577年)まで太田垣氏は銀山の領有を続けていたようで、『言継卿記』には永禄13年(1570年)3月16日条に「豊後大友使僧」「備州宇喜多」などと並び「但州小田垣兄弟」が信長に挨拶に訪れたことが書かれていますが、これは引き続き銀山を任されたことに対するお礼のために信長を訪れたのかもしれません。

さて、敗れ去った山名韶凞(祐豊。永禄13年4月19日付の書状に「山名紹凞」とある。他にも「継熙」と書かれた書状もあるようだ)ですが、堺に逃れて渡辺宗陽・今井宗久に信長への取り成しを頼んだようで、『今井宗久書札留』の11月21日付の書状には、

…私(今井宗久)は山名殿と共に、近日中に罷り下る(都から地方に行くこと)予定です。

…とあり、今井宗久と共に美濃に赴いた山名韶凞は、信長から但馬一国を以前のように安堵してもらうことに成功しています。また、この際に韶凞は納めなければならない礼銭千貫の半分しか用意できなかった(融通したのは今井宗久)のですが、残り半分は今後進納するということで許されたようです。

12月には韶凞は今井宗久・長谷川宗仁と共に但馬に帰国できたようで、今井宗久が年始に韶凞夫人に対して送った書状には 「とし(年)の内御やかた(屋形)様するすると御国へ御くだり」と記されています。

(後略…この部分は公開しません<(_ _)>)


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