※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●松平定信の老中就任
『文恭院殿御実紀』には、6月19日に松平定信が老中首座となったことが記されています(「松平越中守定信加判の列上座命ぜられ侍従に任ぜらる」※「加判の列」とは老中の事)が、その前日にはすでに、松平定信によって作られたと考えられる次の訓令が出されています。
…大名・旗本などは、自らの身分に応じて費用を節約し、無駄遣いをせず働くようにせよ。自身の身分に応じた家来・馬・武器などを用意するのは当然の事である。また、「文武忠孝」(文武[学問と武芸]と、主君への忠義・親への孝行に励むこと)は、「法令」(武家諸法度[天和令]のこと)の第一(武家諸法度[天和令]の一条目に「文武忠孝を励し可正礼儀事」がある)であるので、特に気を遣うこと。年若いものは、ひたすら武芸を習うこと。乱舞(歌や音楽に合わせて踊ること。この頃流行していた)その他の芸能は、気晴らしになるものなので、余力があれば学んでもいいとは思うが、そればかりに熱中すれば、自然と武芸がおろそかになるので、よくよく注意すべきである。…(「万石以上以下末々まで。常にその分に応じて用度を節し。冗費を省き奉仕すべし。然りとてをのが身に應じたる人馬武器等を嗜むは勿論なり。又文武忠孝は前々より法令の第一なれば別て心入れ。年若き人々専ら武技を習ふべし。乱舞その他の技芸は心を慰むるのみなれば。余力あらば学ぶも可なりといへども。その技に専なればをのづから武道も薄く成べければ。よくよく心すべし」)
また、7月24日には文武に励んでいる者の姓名を報告するように通達しています。
…文武の道は誰しもが身につけているのが当然の事であるけれども、特にその道に精進している者、または師範(先生)などをしている者がいれば、その名前を報告すること。
一、学問を教え、文章について説明できるほどの者。
一、弓馬・剣槍・柔術・火術(大砲などの火器を扱う技術)などの武芸について、特に精進し、また、免許目録(その流派の扇を全て学んだこと)を得、それについて教えている者。
以上の者について、その師匠の名前・流派の名前・その者の年齢についても報告すること。…
松平定信が武士に対し、文武に励むことを勧めていたことがうかがえますが、この事実をもとにして、朋誠堂喜三二は『文武二道万石通』を書くことになります。
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(源)頼朝公(モデルは将軍の家斉)は人払いをさせた後、畠山重忠(モデルは松平定信)に、「重忠よ、我が日本を治めてより、武士の者たちは落ち着いて生活できるようになったが、一方で戦に対する備えを怠る気持ちが生じてきているように思う。世の中は治まっているとはいえ、学問だけでは世を治められない。今、鎌倉にいる武士で、文(学問)に傾いている者、武(武芸)に夢中になっている者はどれだけいるか、汝の知恵を持って見定めて欲しい」と仰った。重忠は答えて言った、「所詮、文武を兼備している武士はいないので、どちらかに偏っていることでしょう。また、文でも武でもない「ぬらくら武士」も多くいます。この「ぬらくら武士」を2つに分けてみせましょう」
部屋の外にいる武士「御人払いをされて何の話をされておられるのだろう。何やら、「文福茶釜」(文武)で「剣菱」(兼備。『大辞泉』には、「兵庫県伊丹に産する酒の銘柄。江戸時代には将軍の御膳酒にもなった」とある)を飲む、という声が聞こえた」
そこで、重忠は、富士山の「人穴」という洞窟に不老不死の薬があるという噂を流したところ、これを聞きつけた武士たちが大勢富士山に集まった。
そうすると、富士山には次の3つの穴があった。
[文雅洞]…入口に「文雅(文学に巧みで、上品で優雅である事)の心が無い者は中に入ることを許さず」とある。これを見た者、「俗物(無学で、風流を解さない人)は行かれないな」
[長生不老門]…これを見た者、「なんだか乙(なかなか面白そう)なところだな」
[妖怪窟]…入口に「柔弱な者は入るべからず」とある。これを見た者、「たいしたこたぁねぇ、入れ入れ」
「糠武士」(価値の低い武士)たちは、恥をかくとも知らず長生不老門に入る。長生不老門を抜けたところには、とろろ汁をこぼしておいたので、みな滑り落ちていった。これは「ぬらくら武士」への皮肉である。
(滑り落ちる武士たちは田沼派の面々を指している)
「もう山は嫌だ」(田沼が掘っていた鉱山の事を指すか)
「このねばっているのが不老不死の薬だろうか」
「体がぬらぬらだ。踏みとどまっていられない」
「これが本当に穴にはまった(だまされた)というのだ。「あな」(ああ)憎らしい憎らしい」
その後。重忠は頼朝公に報告をする。
重忠「文人より武勇の人の方が多くございました。しかし、「ぬらくら」の方がさらに多くございます。このように仕分けましたのは、米の千石通しからの思い付きです」
頼朝「文より武が勝ったのは喜ばしいことだ。長く平和な世が続いていると、自然と文が勝つものだ。おれが心配しているのはそのことだ」
この「ぬらくら武士」たちを文武の道に進めるため、「ぬらくら武士」たちに対し、「山の冷気に当たって体調を崩しただろうし、落ちてしまった者もいると聞く。箱根で21日間湯治をせよ」と申し伝えて、箱根に向かわせる。
「ぬらくら武士」たちは、七湯に分かれ、思い思いに好きなことをして楽しんだ。
湯元では香合わせをしたり、茶の湯をたしなんだり。塔の沢では、将棋をしたり、めくりかるたをしたり。堂ヶ島では、乱舞をしたり、釣りをしたり。宮ノ下では、楊弓(小弓を使った的当て)をしたり。木賀では、河東節(浄瑠璃の一種)をしたり、飼鳥をめでたり。底倉では、売春をする若衆と相撲を取ったり。
この様子を見ていた重忠たちは、「ぬらくら武士」たちの仕分けを考える。
重忠「茶、香、生け花、鞠、俳諧は文の道へ引き入れられよう。碁、将棋、乱舞、釣り、網は無理やり武にこじつけるがよい。同じ浄瑠璃であっても、(語り口が激しい)義太夫節は武の方へ、(情緒的な)豊後節・河東節は文へ引き入れなければならぬ。楊弓・小鳥・めくりはどうしたものか」
本田次郎「楊弓は弓を使うので、武とし、小鳥は風流ではないですが、文としましょう。めくりは判断がつきかねます。底倉で身振り声色・相撲・拳をして遊んでいた者たちは、みな武としましょう」
石臼芸助「同じ拳でも、本拳(出した指の数の合計が言った数と同じであった場合勝ちとする。指スマみたいなものか)は文ともいえます。虎拳(虎の毛皮・女の衣装・鉄砲を用意してそれぞれ部屋に入り、いずれかの物を身につけ、ふすまを開いた時にその格好で勝負をつける遊び。虎は女に勝ち、女は鉄砲に勝ち、鉄砲は虎に勝つ)は武としましょう」
さて、武士たちが帰国する際に、大磯の手前にある馬入川(相模川)の川上の堤を切ったので川が増水し、武士たちは大磯で14・5日足止めされることになったが、ここで派手に遊女遊びをしたために武士たちは三万両もの借金ができてしまった。
頼朝公は「ぬらくら」の大小名を召して次のように仰せになった。
「先に重忠に文武のふるい分けをさせ、ぬらくらの者たちは箱根の七湯にて文武いずれに向いているかを見、大磯では財産をすっかり使い果たさせたが、これはすべて文武の二道に導かせるためである。これから以後は、それぞれに文武の道を学ぶようにせよ。必ずぬらくらの心を持ってはならない。今、戦が起こったとして、とろろ(とろろはぬらぬらしているので、ぬらくらのことか)で戦ができるものか。文とも武ッとも言ってみろ(「うんともすんとか言ってみろ」をもじった洒落)」
武士の者たち「ありがとう存じ奉ります」
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