今回の「鎌倉殿の13人」もハードモードでしたね😰
次回も真っ黒な予感…。
今回は「源頼朝にののしられた男たち」です!!💦
※マンガの後に頼朝に怒られた人たちの紹介をしています。
〇頼朝にののしられた男たち
頼朝は怒る理由として、
「①頼朝の許可無しで朝廷から官職をもらったこと、
②朝廷から官職をもらうには朝廷のために仕事をするか、または財産を多く朝廷に献上することが必要なのに、功績もなしに官職についたこと」
を文書の冒頭に書いています。
①(名字?)義廉[官職:兵衛尉]
吾妻鏡に一度しか出てこない男で、名字も不明。
②佐藤忠信[官職:兵衛尉]
言わずと知れた源義経四天王の一人。
兄の継信も四天王の一人。
兄の継信は屋島の戦い(1185年)で戦死。
とむらった僧侶は義経の愛馬「大夫黒」を与えられた。
義経が頼朝と敵対した際に追われる身となり、
1186年、かつての恋人に手紙を送った際、恋人はもう結婚しており、
結婚相手が佐藤忠信のことを密告し、居場所がわかられて攻撃され、
奮戦したが戦死した。
③師岡重経[官職:兵衛尉]
今回のマンガには出てこなかった。
「昔敵対したときに領地を没収していて、そろそろ返してやろうと思っていたのに、
もう返してやんない!」とののしられている。
兄の重頼の娘が源義経と結婚している。
兄の重頼は義経が頼朝と対立した際殺されたが、重経は生き残った。
④渋谷重助[官職:馬允(うまのじょう)]
はじめ平氏に従って源氏に敵対した。
のち義経にしたがって各地で奮戦して活躍したため、
感心した頼朝は許そうと思っていたが、
それだけに今回のことで特に激怒し、重助だけは任官の取り消しを朝廷に願っている。
⑤小河(名前?)[官職:馬允(うまのじょう)]
今回のマンガには出てこなかった。
何かあって頼朝から怒られていたが、そろそろ許そうと思っていたところに
勝手に官職に就いたので、頼朝からののしられた。
⑥後藤基清[官職:兵衛尉]
1185年5月17日、源義経と共に鎌倉に向かった際、
義経の家来伊勢義盛の馬が基清の家来の足を踏んだことから基清の家来と義盛の家来で乱闘になった。
この時、義盛は基清が雇っている男を弓で射た。
基清は怒って義盛と戦おうとしたが、止められた、
頼朝はこれを聞いて源義経は思いあがっている、とますます怒った、と
「吾妻鏡」に書かれている。
のちに許されて頼朝が右近衛大将になって京都に行った際、
いっしょについていった。
讃岐守護や播磨守護にもなり、京都で活躍するなど、頼朝から大事にされたようである。
⑦波多野有経[官職:馬允(うまのじょう)]
今回のマンガでは出てこなかった。
頼朝から「とりえの少ないやつ。」とののしられている。
父は頼朝に敵対して自害した。
1188年、流鏑馬で優れた技を見せ、没収された父の土地のうち、
一番良い土地(松田郷[神奈川県])を与えられた。
戦国北条氏に仕えた松田氏の祖先。
⑧梶原朝景[官職:刑部丞]
梶原景時の弟。
梶原景時が死んだ際、北条氏に降伏して許されるが、
1213年の和田合戦で北条氏に敵対し、戦死した。
⑨梶原景貞[官職:兵衛尉]
今回のマンガでは出てこなかった。
梶原朝景の子。
頼朝から「合戦で活躍し、取り立ててやろうと思ったのに、
任官するなんてとんでもない」とののしられている。
⑩梶原景高[官職:兵衛尉]
梶原景時の二男。
1184年の一の谷の戦いでは先陣を切って突撃し、
父から「後ろのことを考えず突撃するとほうびはもらえんぞ」と
注意されるが、
「弓は一度飛んだら返ってこないのと一緒で、自分も引き返せません」と
言って突撃の勢いをゆるめなかったため、景時は死なすまいとこれを追い、
結果梶原軍の活躍につながった。
これだけ見るとバカな感じもするが、
奥州合戦で頼朝が平泉を目前にした際、和歌をよんで頼朝から喜ばれているので、
ただのバカではなかった…もしくは、バカだといわれて勉強を頑張ったのか。
のちに父とともに死亡。
⑪中村時経[官職:馬允(うまのじょう)]
のちに許されて1190年、頼朝が右近衛大将になって京都に行った際、
いっしょについていった。
⑫海老名季綱[官職:兵衛尉]
今回のマンガでは出てこなかった。
頼朝から「少し許してやろうと思っていたのに、つまらないことをしたものだ」と
ののしられている。
石橋山の戦いの際に頼朝に敵対していたので、罰を受けていたらしい。
⑬海老名能忠[官職:馬允(うまのじょう)]
今回のマンガでは出てこなかった。
吾妻鏡には「季綱と同じ」と省略されている。
季綱の父の弟か。
⑭豊田義幹[官職:兵衛尉]
のちに許されて1190年、頼朝が右近衛大将になって京都に行った際、
いっしょについていった。1196年の上洛の際もついていっている。
⑮(名字?)政綱[官職:兵衛尉]
今回のマンガでは出てこなかった。
名前だけ書かれていて悪口は書かれていない。
⑯(名字?)忠綱[官職:兵衛尉]
今回のマンガでは出てこなかった。
頼朝から「土地を少し返してやろうと思っていたのに、馬鹿な奴だ」と
ののしられている。
⑰平子有長[官職:馬允(うまのじょう)]
三浦氏の一族。
⑱平山季重[官職:右衛門尉]
武蔵の武士。
1156年、源義朝(頼朝の父)に従って保元の乱で戦い、
1159年の平治の乱では源義平(頼朝の兄)に従って戦っていたので、
昔から源氏とつながりが深かったようである。
頼朝が挙兵すると当然のように味方して戦い、佐竹氏との戦いでは特に活躍した。
源義経に従って一の谷の戦いの奇襲作戦に参加、
屋島の戦い、壇ノ浦の戦いでも先陣を切って戦うなど、
多くの戦いで活躍した勇敢な武士だった。
今回の件で怒られたが、長年源氏に尽くしてきただけあって、
すぐに許され、奥州合戦でも活躍して鎌倉幕府の元老となった。
東京都の日野市では「郷土の誇り」とたたえ、毎年「平山季重まつり」を開催している。
まつりでは弓合戦が行われたり、武者行列が行われたりしている。
弓矢的当てゲームなどイベントやポップコーン・すえしげ焼きなど出店も充実している、と日野市のホームページに書かれている。
季重の像が残っているが「ふわふわ」してる感じではない😅
⑲梶原景季[官職:左衛門尉]
今回のマンガでは出てこなかった。
名前だけ書かれていて悪口は書かれていない。
梶原景時の長男。
1181年、頼朝の寝るところを守る11人に選ばれるなど、
頼朝からは非常に信頼されていた。
1184年、宇治川の戦いで名馬・磨墨(するすみ)に乗り、佐々木高綱と有名な先陣争いを演じた(「平家物語」)。
一の谷の戦いでは矢を入れる箙(えびら)に梅の花の枝を差して戦い、
敵からも称賛を浴びた。
1200年、父の景時と共に殺された。
⑳山内首藤重俊[官職:縫殿助(ぬいのすけ)]
今回のマンガでは出てこなかった。
名前だけ書かれていて悪口は書かれていない。
山内首藤経俊の子。
縫殿助とは、「縫殿寮の次官。 従六位上相当の官」である。
仕事は天皇・または臣下に与えるための衣服の裁縫を監督、それと女官の人事担当である。
後に北条氏と仲が悪くなり、子どもたちを丹波(京都など)に避難させた。
その子孫が山内一豊という。
㉑(名字?)舒国[官職:宮内丞]
今回のマンガでは出てこなかった。
上総広常とともに頼朝に従ったが、その際、声が臆病な感じだったという。
頼朝からは、「それなのに任官するのは見苦しい」とののしられている。
㉒山内首藤経俊[官職:刑部丞]
今回のマンガでは出てこなかった。
頼朝からは「役立たずなので官職をもらってもムダだ」とののしられている。
鎌倉郡にある山内荘を治める。
平治の乱は病気のため参加せず、参加した父と兄が戦死した。
頼朝に敵対し、石橋山では頼朝に矢を放った。
そのため山内荘を没収された。
その後は頼朝のために熱心に働き、1184年、伊勢・伊賀の守護に任じられた。
源義経と頼朝が対立した際には義経から攻撃を受けたり、
その家臣の伊勢義盛から攻撃を受けたりしたが、どちらも切り抜けた。
しかし、1204年伊賀で平氏の残党の反乱(三日平氏の乱)が起こると敗北して逃走し、伊勢・伊賀守護を没収された。
復活できないまま、1225年、88歳の高齢で死去。
㉓八田知家[官職:右衛門尉]※「13人」の1人
下野(栃木県)の豪族、宇都宮宗綱の4男。
常陸(茨城県)に小田城を築き、小田氏の祖先となった。
1156年の保元の乱で源義朝について戦った。
頼朝の挙兵にも早くから従っている。
㉔小山朝政[官職:兵衛尉]
平将門を討伐した藤原秀郷の子孫という。
下野(栃木県)に大きな勢力を持つ武士。
のちに下野・播磨守護となり、幕府に重きをなした。
以上24人である(大変だった😓)。
与えられた官職は
兵衛尉[従7上]・馬允[従7下]・刑部丞[従六位上]・右衛門尉[正七位上]・左衛門尉・縫殿助[従6上]・宮内丞[従6上]の7つである。
ランク付けすると、
①刑部丞・縫殿助・宮内丞
②右衛門尉・左衛門尉
③兵衛尉
④馬允
…という感じなので、24人をランク付けすると、
①梶原朝景・山内首藤重俊・(名字?)舒国・山内首藤経俊
②平山季重・梶原景季・八田知家
③(名字?)義廉・佐藤忠信・師岡重経・後藤基清・梶原景貞・梶原景高・海老名季綱・豊田義幹・(名字?)政綱・(名字?)忠綱・小山朝政
④渋谷重助・小河(名前?)・波多野有経・中村時経・海老名能忠・平子有長
…となるだろうか。
梶原と山内首藤の格が高い。
そしてますます「(名字?)宮内丞舒国」の存在が不思議になってくる😅
0 件のコメント:
コメントを投稿