今日の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね💦
北条時政、ついに退場ですか…。
娘婿の平賀朝雅も、かわいそうといえばかわいそうな役回りでした。
実際は、そこまで悪い人ではなかったと思います😣
今回は、平賀朝雅についてマンガにしてみました😆
※マンガの後に平賀朝雅について補足の文章を載せています。
〇平賀朝雅(1182?~1205年)
「鎌倉殿の13人」では44歳の山中崇さんが演じていて、ヒゲもあるが、実際は20代前半の若武者であったようである。
平賀朝雅の曽祖父は源義光(1045~1127年。新羅三郎義光として名高い)で、
あの源義家(1039~1106年。八幡太郎義家として名高い)の弟である。
その長男の義業は佐竹氏の祖で、三男の義清は武田氏の祖である。
そして四男が朝雅の祖父の平賀盛義で、信濃国の平賀郷(長野県佐久市平賀)を根拠地とした。
その子が平賀義信(1143~?)で、
平治の乱では16歳の若さであったが源義朝(源頼朝の父)に従って奮戦する。
その後は源頼朝の挙兵に従い、1184年には武蔵守になった。
源頼朝の乳母の比企尼の娘を妻としており、
この妻は源頼家(2代将軍)の乳母も務めているなど、源頼朝からの信頼も非常に厚かった。
朝雅の「朝」は頼朝から与えられたものであるという。
朝雅の兄の大内惟義(あの大内氏とは関係は無い)も頼朝からの信頼厚く、1195年には相模守となっている。
親子で関東の中心部である相模守・武蔵守となっているのだから、その信頼ぶりは相当である。
平賀朝雅は北条時政の娘を妻としており、北条氏とのつながりも深かった。
正治二年(1200年)2月26日、源頼家は経を納めるため鶴岡八幡宮に行ったが、この時の『吾妻鏡』の記事に『武蔵守朝政』と書かれており、これは平賀朝雅のことであるので、この時にはすでに武蔵守であった。
建仁2年(1202年)3月14日、朝雅の母であり、頼家の乳母でもあった比企尼の娘の供養が永福寺で行われた。葬儀を主に行った僧は、あの栄西である。
建仁3年(1203年)9月2日、比企討伐に加わる。この際も『吾妻鏡』には『武蔵守朝政』と書かれている。以降は『武蔵守朝雅』と書かれる。名前を改めたのであろう。時政と関係あるのかもしれない。
9月6日、比叡山内で乱闘があった。28日、再び学生(仏典を学ぶ僧。学僧)が蜂起した。
10月3日、京都守護となって上洛。
10月8日、源実朝(3代将軍)の元服があり、理髪は北条時政、加冠は平賀義信が務めた。
10月10日、比叡山の堂衆が八王子山にたてこもったので、幕府軍がこれを攻撃して鎮圧した。幕府軍も葛西重元・佐々木重綱らが討ち死にするなど、激しい戦いとなった。
10月27日、武蔵国の武士は、北条時政の言うことに反抗することがないようにと命じられた。
元久元年(1204年)2月、平維基の子孫たちが伊勢国(三重県)を、平度光の子たちが伊賀国(三重県西部)をおそい、両国の守護であった山内首藤経俊は兵力が少なく、敗れて逃亡した。
3月23日、平賀朝雅は軍勢を率いて出陣し、27日に伊勢国に到着した(朝雅は一度目の手紙では27日に到着したと言っているのに、2回目の手紙では29日と言っている💦)。4月10日から12日にかけて平氏軍と戦い、伊勢平氏の一族である進士(富田)基度、若菜五郎らを討ち取った。山内首藤経俊はこの戦いに加わった。
5月10日、朝雅は恩賞(御恩)として伊勢・伊賀守護に任じられ、伊勢平氏の領地も獲得した。
10月14日、坊門信清(前大納言)の娘が源実朝と結婚するため鎌倉に向かうので、迎えるために北条政範・畠山重保たちが京都に向かった。
11月4日、前武蔵守の平賀朝雅の館で、朝雅と畠山重保が言い争った。
11月5日、北条政範が京都で死去した。京都に向かう途中から病気であったという。『父母の悲歎、更に比ぶ可くも無し』…北条時政・牧の方(北条時政の後妻。政範の母)はひどく悲しんだ。
元久2年(1205年)2月21日、武蔵国の土袋郷の年貢は、永福寺(畠山重忠たちが建設にかかわった寺。二階建てであったため二階堂とも言われる)の僧の生活費にあてることにすると北条時政が命じた。
4月11日、稲毛重成(畠山重忠のいとこ)は妻(北条時政の娘)が死んだあと出家して武蔵国で隠棲していたが、北条時政に命じられて鎌倉に参上した。人々はこれを怪しんだ。
6月20日、稲毛重成の招きを受けた畠山重保が鎌倉に到着した。
6月22日、朝雅の讒言(事実ではない悪口)を信じた牧の方は畠山重忠父子を憎み、相談を受けた北条時政は畠山重忠父子を討つことにし、畠山親子は討たれた。
6月23日、稲毛重成が殺された。時政の相談を受けた稲毛重成は「鎌倉で反乱を起こしたものがある」と偽りを言って、畠山重忠を鎌倉に呼び寄せていた(重保を呼んだのも重成である。北条時政から、いとこの畠山がいなくなったらお前が武蔵のリーダーになれるぞ、畠山の土地をやるぞ、などと言われて実行したものか。しかし、畠山重忠の死に対する反感が意外に強かったので、時政が稲毛重成一人に罪をかぶせたのだろう。稲毛重成の土地は北条政子によって、稲毛重成の娘に与えられた)。
7月8日、畠山重忠の土地の配分を(時政ではなく)北条政子が行った。
閏7月19日、牧の方は平賀朝雅を将軍にしようとしている、と話を聞いた北条政子は武士たち(三浦義村・結城朝光など)に命じて、源実朝を北条時政館から北条義時館に移した。北条時政が集めていた武士たちも義時館に移り源実朝に従った。孤立した時政は出家した。
7月20日、北条時政は伊豆(静岡県東部)の北条郡に移り、北条義時が執権を継いだ。また、京都の御家人に、平賀朝雅を討ち取るよう使者を送った。
7月26日、御所で囲碁の会があり、平賀朝雅はこれに参加していたが、討手が迫っているという報告を聞いた朝雅は、驚かず、目で石を数えた後に御所から退出した。そこに後藤基清・佐々木広綱・盛綱らが襲いかかってきて、朝雅は逃亡したが、山内持寿丸(山内首藤経俊の子。通基)によって射殺された。平賀朝雅の伊勢・伊賀守護職は朝雅の兄の大内惟義が受け継いだ(これで6か国もの守護となり重きをなしたが、子の惟信は承久の乱で後鳥羽上皇方について没落した)。
『吾妻鏡』では上記のように書いてありますが、
慈円の書いた『愚管抄』には次のように書かれています。
「関東では源実朝を殺して、朝雅を将軍にしようという陰謀があった。それを聞いた北条政子は驚いて智謀に長けた三浦義村に相談した。義村は実朝を北条義時の館に連れてきて、武士を呼び集め、『将軍の命令である』と言って、北条時政を呼び出して伊豆国に送ってしまった。そして京都にいる武士に『朝雅を討て』と命令し、京都の朝雅のいる館を取り囲ませた。朝雅はしばらく戦ったが、ついに館に火をつけて大津の方へ逃亡し、山科で追いつかれて自害した。金持という武士が朝雅の首を持ってきたので、後鳥羽上皇はそれをご覧になった」
『吾妻鏡』と異なる点もありますが、大筋としては同じ内容なのではないでしょうか😕
妻は朝雅の死後、中納言藤原国通(1176~1259年)と結婚している。国通は1227年に北条時政の13回忌を執り行っている。
承元元年(1207年)1月、北条時房(義時の弟)が武蔵守となった。その後1217年に大江親広が武蔵守となるが、親広が出家して武蔵守を辞めた1219年以後は、北条氏が代々武蔵守を独占した。
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