社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 日本ではサラエボ事件はどう伝えられたか

2022年10月11日火曜日

日本ではサラエボ事件はどう伝えられたか

 すみません、シリーズ『第一次世界大戦』の更新が超久々になってしまいました💦

Twitterで前回のマンガをアップしたのが6月21日(2022年)ですから、

3か月半ぶりの更新ですね(ひえー😱)💦

さて、第一次世界大戦のきっかけとなった1914年のサラエボ事件

日本ではその2日後の6月30日に新聞でニュースが報じられます。

日本ではサラエボ事件はどのように伝えられたのでしょうか?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


〇日本で伝えられたサラエボ事件

最初に現地から伝えられた第一報は、以下の内容でした。

「墺太利・匈牙利国皇嗣フランツ・フェルジナンド大公、同妃ソフィヤ・コデック両殿下は28日、ボスニヤに於いて何者かのために狙撃せられたり」

墺太利とはオーストリアのこと、匈牙利とはハンガリーのこと(現在は洪牙利)。

これまでにも述べてきたように、フェルディナントは皇太子と扱われておらず、皇嗣(皇位継承者)とされていました(現在、秋篠宮殿下は天皇の直系ではないため「皇太子」ではなく「皇嗣」)。

当時の新聞も正確に伝えているわけです(スゴイ)。

まだこの段階では「狙撃された」というだけで死亡したかどうかは分かっておらず、犯人についても不明でした。

第二報では、自動車で進んでいたところに爆弾が投げつけられたこと、車に入ったが爆発せず、大公がそれを車外に投げたところ爆発して後続の自動車の2人と6名の群衆が負傷した、とあります。

詳細が伝わってきましたが、フェルディナントが爆弾を車外に投げたことになっています(;^_^A

実際は自動車の幌にバウンドして後続の車付近で爆発したものです。

また、被害者も死者はいなかったものの20人近く出ていました。

第三報では、その後両殿下は市役所に向かい、帰る途中にセルビア人の学生にピストルで撃たれ、落命したとあります。

以上はウィーンからの電報でしたが、現地のサラエボからの電報は次のようなものでした。

別報:馬車で移動していたところに爆弾が投げつけられたが、通過後爆発し、後続の車の2名と群衆6名が被害を受けた、皇嗣は市会館を出て市内を巡視していたところ、高等学校生がピストルを2発発射し、皇嗣大公・大公妃に重傷を負わせ、2人は病院に運ばれたものの数分後に絶命した、犯人は群衆に取り押さえられ殴打された、オーストリア皇帝は行幸中であったがウィーンに戻った。

いろいろ違うところがありますが、「馬車」というのが大きな間違いであるところ。現地からの電報のはずなのに…💦

また、ドイツのベルリンからの電報では次のようにあります。

馬車で市会館に向かう途中、爆弾を投げられたが大公が爆発する前にこれを取って路上に投げたところ、後続の馬車の2名を傷つけた。市会館に到着して帰る途中に17歳くらいのセルビア人と思われる青年学生が群衆をかき分けて馬車内に入りこみ、ピストルで大公の頭部を撃ち、続いて大公妃の腹部を撃った。2人は病院に運ばれる途中に死亡した。

馬車内に入る、というのはすごいですね💦実際はタラップを踏んでいただけです。

ウィーン・ベルリンのは「爆弾を大公が車外に投げた」とし、サラエボ・ベルリンのは「馬車」とするなど、

情報が錯綜しているため新聞も複数の情報を載せています。

〇サラエボ事件の原因の予想

大阪毎日新聞は、サラエボ事件の原因を次のように予想している(要約したもの)。

「事件の起きたボスニアは数年前にオーストリアに併合された場所であるが、その住民の大部分はセルビア人であったので、併合時にはオーストリアとセルビアの開戦かと伝えられたぐらいセルビアの反発を招いた。

その後セルビアはバルカン戦争・ブルガリアとの戦争で目覚ましい成功をおさめて領土を拡大し、オーストリアへの反発心は減少した。その証拠に併合まもなくの1910年にオーストリア皇帝がサラエボを訪れたが、住民の歓迎を受け、なんの不祥事も起きなかった。

その後にオーストリアが特別にセルビアの恨みを買うようなことがあったのだろうか。

オーストリアがエーゲ海に進出したいという野心を放棄するか、セルビアが古の大セルビアを復活させたいという欲望を捨てない限り、両国の関係は仇敵の関係にあり、この問題が解決されない以上、両国の融和はありえない状態にあった。そのためバルカン戦争とブルガリアとの戦争において、オーストリアはセルビアの領土拡大を妨害するような工作を行った。しかしオーストリアの工作はセルビアの思ったほどではなく、フェルディナント大公を殺害するという手段に出るほど険悪な状態ではなかった。

だから今回の事件は何かの事件をきっかけとして起きたわけではなく、大公がサラエボに来る機会に憎悪心が爆発したものであろう。」

大阪毎日新聞は本能寺の変のような突発的暗殺説(突発的以外の説もあります)を唱えていますが、

今回の安倍総理暗殺事件のように、原因となった事件はあったと思います。

それはバルカン戦争です。

そこで、次回はバルカン戦争についてまとめてみようと思います💦

(なかなか第一次世界大戦に入らなくてごめんなさい。でも、戦争の内容を知るよりも、原因を探ることの方が大事だと思います)

0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[岐阜城編]

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● フロイスは岐阜城訪問について、書簡に次のように書いています。 …翌朝、私たちの宿は遠かったので(エヴォラ版ではこれに加えて「雨がさかんに降っていたので」とある)、ナカガウア[通称]・ファチロザエモン[本名](中川八郎左衛門重政) ...

人気の記事