明治維新となり、ヨーロッパに追いつくために
政府はどしどしヨーロッパ化を進めていきますが、
長く続いてきた習慣はそうそうスパッと変えられる物ではありませんでした(;^_^A
※マンガの後に補足・解説を載せています。
〇日本人と洋服
明治天皇は率先垂範ということで、
明治5年には洋服に切り替えていますが、
日本人が洋服を受け入れるようになるまでにはだいぶ時間がかかります。
ヨーロッパに行って、日本に帰国しルソーの著書を紹介し、
「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民や、
外国のようすを紹介していた福沢諭吉ですら、
ふだん着は着物でした。
イギリスに留学した夏目漱石も、1000円札では洋服でしたが、
家では着物でした。
洋服を着る人もチグハグなところがあり、
和服に帽子、和服に外套、などの和洋を組み合わせたスタイルが明治時代を通じて続きます。
また、明治4年10月の『新聞雑誌』には、次のように書かれています。
『西洋衣服類品々、奇なり妙なり。
世間の洋服頭に「普魯土」(プロシア[ドイツ])の帽子を冠(かぶ)り、
足に「仏蘭西」(フランス)の沓(くつ)をはき、
筒袖に「英吉利」(イギリス)海軍の装、
股引(ももひき)は「亜米利加」(アメリカ)陸軍の礼服、
婦人の襦袢(じゅばん)は膚(はだ)に纏(まと)うて窄(せま)く、
大僕[役人]の合羽(かっぱ)は脛(すね)を過ぎて長し、
恰(あたか)も日本人の台に西洋諸国はぎ分けの鍍金(めっき)せるが如し』
なんとも統一感のない不格好な様子であったことがわかります。
新聞も、外見しか欧米化していない、ただ日本人の表面にメッキをしているだけだと皮肉っています。
お雇い外国人のドイツ人医師のベルツも、
「衣裳が服装ではなく仮装になっている。固有の古代日本式衣裳を着ければ、自然でよく似合うものを。」と語っています(『ベルツの日記』)。
しかしだんだんと洋服族は勢力を広げていきます。
昭和時代の1928年11月に資生堂は、三越デパート正面を通る男女のうち、どれだけ洋服の人がいるか調査を行いました。
すると、男性で洋服の人は61%とけっこう洋服が広がりを見せていましたが、
女性は16%にすぎなかったそうです(中公文庫『日本の近代5』138P)
これはヨーロッパのコルセット文化が受けつけられなかったためであるといわれています。
ベルツも、「何しろ洋服は、日本人の体格を考えて作られたものではないし、衛生上からも婦人には有害である、すなわちコルセットの問題があり、また文化的・美学的見地からは全くお話にならないと。」と語っています(『ベルツの日記』)。
女性の洋装化は、戦後まで待たなくてはなりませんでした(しかも、戦後も地方では和服の女性がまだまだ多かったそうです)。
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