今回の「鎌倉殿の13人」も面白かったですね😄
あと2回…2回!?終われるんだろうか…💦
次回で承久の乱(おそらく戦いの描写は一瞬で終わりそう)、
最終回は北条義時の死とその後の伊賀氏の乱、御成敗式目まで…となるんでしょうかね(;^_^A いや~盛りだくさんだ…。ペース配分が💦
承久の乱は北条義時の一番の見せ場、5話くらい使ってねっとりやらなきゃダメでしょう、三谷幸喜さん!!(-_-;)
今回のマンガは、長く続いてきた「建仁の乱編」の最終話となります!😆
囚われの身となった板額御前は、いったいどうなるのか…!?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
〇浅利与一義遠
「三与一」と呼ばれた3人の弓の名手がいました。
1人は那須与一資隆(1169?~1189?)。
11男として生まれるが、兄が皆平氏に味方したため、
源平の戦いの後、那須家の惣領となる。
屋島の戦いで扇の的を射落とした逸話は有名。
戦後、功績が認められて五か国に荘園を得た。
その後若くして亡くなったため、那須家は宇都宮氏から養子で入った頼資が継ぐことになってしまった。
もう1人は佐奈田与一義忠(1155~1180年)。
三浦義明の弟である岡崎義実の子。
武勇に優れていたが、石橋山の戦いで15騎で俣野景久の73騎と戦って討ち死にした。
源頼朝からは、義忠の身なりが派手であったので、目立ちやすいから買えるようにと言われたが、
「武士の晴れの場、行き過ぎではないでしょう」と答えて服装を変えなかった。
死を覚悟していたのであろう。
そして最後の1人が、今回のマンガの主人公、浅利与一義遠(1149~1221年)です。
甲斐源氏の祖、源清光(1110~1168年)の11男として生まれる。
那須与一も11男でしたが、「与一」というのは、「余一」とも書き、
10余り1のことで、11男であることを指しています(;^_^A
『平家物語』には、壇ノ浦の戦いの場面で浅利与一義遠の活躍の場面があります。
和田義盛(弓の名人としても有名)は平知盛の船に弓矢を放ち、
「ここまで弓矢を射返せるものがいるならば返してみろ」と言います。
すると、新居紀四郎親清という者が進み出て、
和田義盛が煎る場所よりも遠くまで弓矢(通常は12束[84㎝]のところ、長さは14束3伏[102㎝]もあった)を射てみせた。
周囲は「和田義盛は恥をかいた」と笑った。
親清が「弓矢を返していただこう」と言ってきたため、
源氏方で「弓の強さでは随一」として推挙されたのが浅利義遠であった。
源義経は「向こうが射返せと言ってきている、やってくださらぬか」と
浅利義遠に声をかけるが、
義遠は「この弓矢は弱い。私の持っているものを使います」と言って、
9尺(2.7m)の弓に15束(105㎝)の弓矢をつがえ、
4町(約440m)先にいる新居紀四郎親清を射倒して見せた。
浅利義遠は、狩りの際、2町(約220m)先にいる鹿を弓矢ではずすことがなかったという。
浅利義遠はその後、奥州合戦でも活躍し、
陸奥国比内郡大舘(現・秋田県)に地頭職を得た。
戦国時代では浅利氏中興の祖で、比内郡に勢力を拡大した浅利則頼などがいる。
さて、今回の話ですが、
1201年の建仁の乱の際に捕虜となった板額御前の態度を見てほれたのか、
源頼家に板額御前の身柄を預かりたいと申し出て、許されて板額御前を妻とし、
一男一女を得たといいます。
浅利義遠はこの時52歳だったので、なかなかすごいですね(;^_^A
浅利郷の近くには板額御前の墓と伝わる、板額塚(笛吹市境川町)があるそうです。
ちなみに、『吾妻鏡』の嘉禄2年(1226年)5月4日・16日に浅利義遠・板額御前の間の子と思われる「浅利太郎」(知義)が出てきます。
白河関で、公暁だと名乗る一味と出会い、結城朝広(朝光の子)と共に
これを討伐した、2人がお互いに自分の手柄だというので、裁判となった…というものです。
裁判の結果は記されていないですし、その後浅利太郎は出てきません。
しかし、北条氏と結城氏は仲が良かったそうなので、
結城氏に都合の悪い結果を省いたと考えられるため、おそらく浅利太郎が勝ったと考えられるようです。
さすが浅利義遠と板額御前の子、武勇に優れていたんですね!😆
※マンガ家の「あさりよしとお」氏(エヴァンゲリオンの使徒サキエルなどのデザインも手掛けた)は、本名「浅利義遠」で、同姓同名の人物である(;^_^A💦
0 件のコメント:
コメントを投稿