社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 織田軍の尼崎焼き討ち

2024年6月3日月曜日

織田軍の尼崎焼き討ち

 織田信長が自治都市・堺に対し、本国寺の変で三好方に味方したことを責めて、町を焼き払う事を伝えた、という話は以前にしましたが、結局これは実行されませんでした。

やはり信長も常識人、ただの脅しでブラフ(ハッタリ)だったのだな、と思いますが、実はそうではなく、実際に焼き払われた町があるのですね😨

それは堺と同じ自治都市の尼崎でした…!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●仁義なき戦い

尼崎市のホームページには、中近世の尼崎について、次のように書かれています。

「平安時代の末に、長洲の南に形成された大物と尼崎は、やがて港町として発展してゆきます。瀬戸内海を通して西国から都へ輸送されるさまざまな物資が往来し、なかでも京や奈良の巨大社寺を造営する材木を西国から運ぶ中継港として、大物や尼崎の港は栄えました。尼崎は大覚寺や本興寺を中心とした、中世日本有数の自治都市でもありました」

尼崎は堺や博多のような自治都市であったというのですね😕

その自治都市・尼崎に対して、信長は堺と同じように、矢銭(軍用金)を課すことになったのですが、この時に事件が発生します。

その模様について、『細川両家記』は次のように記しています。

…2月28日、尾張衆3千人ばかりで尼崎に矢銭を課すために別所に進んだ。3月6日、尾張衆は尼崎衆と喧嘩して、尾張衆が負けて4・5人が死んだ。そこで尾張衆は尼崎に討ち入り、男女30人ばかりを討ち取り、町を悉く放火して、長遠寺(日蓮宗)・如来院(浄土宗)だけが残った。

信長配下の者たちが矢銭の催促に行ったところ、尼崎の者たちとトラブルになり、信長の兵士数人が殺されてしまったので、これに激怒した信長の配下の者たちが、尼崎を焼き払った…というのですね。

ちなみに織田軍が進んだ別所ですが、別所と聞いて、ああ、別所氏の別所かな?と思ったら、尼崎にも別所という地域があるのですね💦

たしかに、別所氏の別所は播磨国で、尼崎のある摂津国と違いますし、尼崎よりも奥に行ってしまうことになります😅

別所の由来は、尼崎地域史事典によると、「尼崎町から西に広がった地を意味するという説や、重源上人が東大寺大仏殿再建のため各地に設けた事務所を別所と称したことから、東大寺の尼崎木屋所をも別所と呼んだことに由来するという説、本興寺の別所(寺院に付属する周辺地)とする説」などがあるそうです。

本興寺は先にも出てきましたね。現在も尼崎に残っている、日蓮宗の寺院です(織田軍の焼き討ちで生き残った寺として書かれていないので、この時に焼けた後、復興されたのだろう。信長は永禄11年[1568年]の上洛の際、9月に本興寺に対し、軍の乱妨・狼藉・放火などを禁じる文書[禁制]を出していることが確認できるのだが…)。

さて、この尼崎事件ですが、『細川両家記』を参考にしたと思われる『足利季世記』にも、次のような記述があります。

『足利季世記』…2月28日、尾張衆3千人が、尼崎に矢銭を課すために下っていったが、尼崎の者どもはこれに抵抗し、3月6日、小競り合いとなって、尾張の者たち4・5人が討たれたので、尾張衆は怒って尼崎に突入し、男女30人を斬り捨て、町に火を放った。長遠寺・如来院の二寺だけが残った。

ほぼ同じ内容ですね😅

同じく『細川両家記』『足利季世記』をベースにしたと思われる『総見記』にも、事件についての記述があるのですが、こちらは、先の両者には無い+αの内容が載っているので、紹介したいと思います。

『総見記』…2月28日に、尾張勢3千余人を摂津尼崎に派遣し、矢銭を課した。これは新たに行なったことではなく、尼崎が富裕の地なので、公方家が代々行なってきたことであったが、今回は「御代替」(将軍の代替わり)のことであったので、尼崎の者たちは困ってこれを出さなかった。3月6日、尼崎の者たちは喧嘩を仕掛けて、尾張の者を4・5人討ち取った。尾張勢は立腹して、尼崎に討ち入り、男女30余人をなで斬りにし、四町四方を焼き払った。長遠寺と如来院の2寺だけが残った。

トラブルに至った理由を書いてくれているのですが(出典は不明であるが)、「御代替」なので矢銭の支払いを渋った、というのはなかなかに意味不明です。

そこで『総見記』をよく見返してみると、「今度御代替なれば」とあり、「今度」という部分が気になりました。

「今度」の意味を調べてみると、「今回・次」といった意味だけでなく、どうやら「行われたばかり」という意味があるようなんですね。

前将軍・足利義栄が将軍となったのが永禄11年(1568年)の3月6日、義昭が将軍になったのが同年の11月7日ですから、たしかに間隔が(かなり)短く、尼崎としては、矢銭を支払ったばかりなのに、また…?という気持ちになったのでしょう。

しかし、そうだとしても織田軍の者を殺害したのはやりすぎでした😓

織田軍が横暴だったのかもしれませんけども…。

まぁ、金出せと言ってきて、ケンカになって、町を焼き払う織田軍はどう考えても暴〇団でヤ〇ザでヤバいですけどね…。

0 件のコメント:

コメントを投稿

新着記事

フロイスの岐阜探訪~「信長の極楽」⁉[岐阜城編]

  ※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● フロイスは岐阜城訪問について、書簡に次のように書いています。 …翌朝、私たちの宿は遠かったので(エヴォラ版ではこれに加えて「雨がさかんに降っていたので」とある)、ナカガウア[通称]・ファチロザエモン[本名](中川八郎左衛門重政) ...

人気の記事