戦国時代、朝廷と幕府の関係はどのような物であったのでしょうか。
その様子がよく分かる事例として、「大工騒動」が挙げられます。
そしてこの事件に、織田信長も関わることになるのですが、信長が見せた対応は意外な物で…?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●禁裏大工惣官職をめぐる朝幕間の争い
朝廷の大工仕事を担当するのが禁裏大工で、そのトップが惣官職であり、代々 木子家が担当していたのですが、この惣官職をめぐって、16世紀に入ってから長く幕府と朝廷の間で対立が続いてきました。
神田裕理氏『朝廷の戦国時代』によると、禁裏大工惣官職には領地の給付・仕事を優先的に回される・諸役の免除などの特権が与えられていたため、惣官職をめぐる争いが起きたようです。
惣官職を狙ったのは常に公方御大工(幕府の大工仕事を担当する)の右衛門尉家でしたから、いきおい幕府と朝廷の代理戦争の様相を呈していたのです。
まず第1ラウンドは10代将軍・足利義稙の時代にあたる1509年の、右衛門尉宗広と木子国広の争いでした。
右衛門尉宗広は禁裏大工の惣官職を狙ったものの、朝廷はこれをしりぞけました。この事件では、義稙が関与していた形跡は見られないそうなので、右衛門尉宗広単独の暴走であったのでしょう。
第2ラウンドは1515年のことで、右衛門尉宗広は再び惣官職を狙い、木子広宗と争いました。朝廷はもちろんこれをしりぞけようとしましたが、今回は義稙が積極的に関与して宗広を支援したため、朝廷は宗広を惣官職にせざるを得ませんでした。
その後、12代将軍・足利義晴期のあたる1540年には右衛門尉家の定宗が惣官職に任じられていることが確認できます。
1566年には、定宗の息子の宗次が惣官職に任じられることを願い、朝廷はこれを認めています。
しかし、14代将軍・足利義栄期にあたる翌年の1567年には、正親町天皇は木子宗久を惣官職に任命することを強く望み、義栄の反対もはねつけてこれを実現させることに成功しています。
神田裕理氏は、「義栄の、朝廷への影響力はさほど大きいものではなかったのだろう」と述べています。
そして、義栄の次に将軍となった足利義昭の時に、最後の室町幕府と朝廷の惣官職をめぐってのバトルが勃発することになるのです🔥
『言継卿記』によれば、木子(六郎太郎)宗久は永禄12年(1569年)3月23日、朝廷に藤棚を作るように命じられ、翌日、午の刻(昼の12時頃)、作成にあたるなど、惣官職を粛々と務めていた様子がうかがえるのですが、26日になって事態は急転します。
幕府の奉行人・松田頼隆と諏訪俊郷が次の文書を木子宗久に渡してきたのです。
…禁裏大工惣官職のことであるが、去年、朝廷の許可もあり、幕府が右衛門尉定宗が惣官職につくように裁決をしたのにもかかわらず、木子宗久はこれに従おうとしない。改めて(義昭が)定宗を惣官職に任じるようにお命じになられたので、これに従うようにせよ。…
なんと、永禄11年(1568年)中に義昭が天皇の同意も得て右衛門尉定宗を惣官職に任じていたのにかかわらず、木子宗久がこれに従わずに惣官職を続けていたというのですね。
4月3日、山科言継のもとに禁裏御大工惣官(宗久)がやってきて、「武家(義昭)から右衛門を惣官職に任じるとの命令書を受け取ったのだが、このことについて、織田に取り成しに行っていただきたい」、と頼みに来ました。
宗久が幕府の命令を無視して惣官職に居座り続けていられたのは、朝廷からの後押しがあったからのようで、天皇は信長のもとに向かう言継に次の書状を渡し、信長に伝えさせています。
…そうかん(惣官)事、御所(義昭)から右衛門を任命するとの命令書が木子に渡されたそうだが、真実であれば「くせ事」(曲事。けしからぬこと)である。のふなか(信長)にこのことを伝えるように。…
そして、言継はこのことを信長に伝えたのですが、信長は「武家(義昭)と取り決めたこともあるし、武家はこの件について意志が固いようなので…。また、大工風情のことで、武家に無理にお願いするのもいかがな事かとも思うので、私から武家に伝えることは難しい」(「此間武家与申結子細有之、又武命此段堅固之間、大工風情之儀、達而申入事如何之間、難申入」)とこれを断ります。
この後、惣官職はどうなったかというと、『言継卿記』6月12日条に次の記事が見えます。
…禁裏御大工惣官の宗久がやって来て、「右衛門の違乱(ルール違反)がやまないので、なんとかしてほしい」と訴えてきた。そこで、幕府の一色駿河守(孝季)にこのことを伝えようとしたが、ちょうど美濃に行っていて留守であったので、龍雲院(『永禄六年諸役人付』において「奈良御供衆」と書かれている人物)に取り成しを頼むことにした。…
続いて6月25日条には、
…「禁裏御大工惣官職のことで、武家は禁裏修理の釿初(工事を開始する際の儀式)を延期するように、右衛門に命じたという。信長から武家に意見を伝えるように」との女房奉書(天皇の書状)が出され、これを持って宗久が美濃に下っていったという。右衛門はすでに5・6日前に美濃に向かったという。…
とあり、木子宗久と右衛門尉定宗の両者が美濃にいる織田信長のもとに向かい、裁定を望んだ、ということが書かれています。
ここからは、実力のある信長に朝廷と幕府のトラブルを解決することが求められていたことがわかります。
それにしても、義昭、露骨な嫌がらせをしてますね…💦
惣官職の争いの結末がどうなったかについて、その後の続報が存在していないので、知ることができないのですが、後述するように、この頃の信長は「京の事存じ間敷」(京都のことは幕府に任せて、信長は関わらない)(『言継卿記』永禄12年[1569年]11月12日条)という態度をとっていたので、おそらく幕府の意見が通ったのではないか、と思います。
信長と義昭は蜜月の関係にありました。
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