社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: したたか家康~武田・徳川の今川領進攻

2024年6月14日金曜日

したたか家康~武田・徳川の今川領進攻

 大河ドラマ「どうする家康」では、ピュアだった徳川家康が世間のイメージのような古狸になるのは築山殿事件(1579年)がきっかけだった、ということになっていましたが、実際は最初の頃から「したたか者」(人の思うようにならない者)でした。

ピュアな男が今川に反旗を翻すとは思えませんしねぇ…。

まずどう考えてもピュアな男が戦国という荒波を渡っていけるとは思えません😓

しかも後に天下を取っているのであればなおさらです。

今回は、家康の「したたか」ぶりがよくわかる、武田との今川領分割を見ていこうと思います!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●武田信玄、今川との同盟を破り駿河に進撃

以前に述べたように、永禄4年(1561年)4月に徳川家康(「徳川」に改姓したのは永禄6年[1563年])が今川氏を離反、ここから今川氏の崩壊が始まっていくことになります。

永禄5年(1562年)2月、家康は上ノ郷城を攻略して城主の鵜殿長照を討ち取ります。

今川氏真はこの状況を捨て置けずに永禄6年(1563年)7月に三河に出陣、各地で戦闘が展開されることになりますが、この年の12月に遠江の引馬城主・飯尾連龍が反乱、これに西遠江各地の武将たちも続いて遠江は「遠州忩劇」と呼ばれる混乱状態となり、氏真は危機を迎えますが、同時期に三河でも反徳川の一向一揆が発生したこともあり、永禄7年(1564年)10月頃までに飯尾連龍と和睦することに成功、遠江の状況を持ち直すことに成功したものの、一方の家康は永禄7年(1564年)2月に一向宗と和睦、4月までに西三河を平定した勢いをもって東三河に攻勢を強め、永禄8年(1565年)3月には田原城・吉田城が陥落、残る牛久保城も永禄9年(1566年)5月に降伏し、氏真は三河を失うことになりました。

それにしても、氏真、よく粘りましたね…💦徳川家康は三河を制圧するのに5年もかかっているのですから。ただの暗愚な武将ではなかったことがわかります。

しかし、三河に出陣するのが2年以上も遅れたり、和睦した飯尾連龍をその後殺害して遠江の武士たちのさらなる離反を招いたりと、「この時期にそれはダメだろう」という行動をとっていること、徳川家康は織田信長と同盟していると言っても三河の一地方武将にすぎず、一方の氏真は駿河・遠江・三河の大半を支配し、しかも武田・北条と同盟して背後に敵がいなかったこと…を考えると、凡庸な武将という評価を下さざるを得ません😓

この状況を見て心変わりをしたのが武田信玄でした。

「遠州忩劇」が起こって混乱に拍車がかかった今川氏の様子を見て、信玄は永禄6年(1563年)閏12月6日に駿河方が敗れるようなことがあれば、この好機を逃さず、駿河の制圧にとりかかろうと考えている、状況をしっかりと報告するように、という書状を家来に対して出しています。

信玄としては今川氏真に対して義理は無く、徳川家康に今川領国がすべて奪われるくらいなら、駿河を手に入れたいと考えたのでしょう。

以前にも述べましたが、信玄は永禄8年(1565年)、徳川家康と同盟関係にある信長との同盟交渉を進め、これに反対した親今川派の息子、武田義信などを排除するなど、急速に方針を転換していきます。

この様子を見て今川が武田を信用できるはずもなく、永禄11年(1568年)年4月には「信玄の表裏、程あるまじく候」(信玄の裏切りはそう遠くないことだろう)と述べていますが、武田の裏切りに対する備えをするために、越後の上杉氏との結びつきを強めていくことになります(『松平記』には「北国の輝虎と氏真入魂の筋目有」と書かれている)。

平山優氏『徳川家康と武田信玄』によると、どうやら今川・上杉の同盟交渉に乗り出したのは上杉輝虎(後の謙信)のほうであったようです。この頃、信玄は永禄9年(1566年)~永禄10年(1567年)に上野国、永禄11年(1568年)に北信濃に出陣して上杉方と激しく争っていました。永禄9年(1566年)に上野国の上杉方の拠点・箕輪城が陥落、永禄11年(1568年)3月には信玄の調略を受けて北越後の本庄繁長が反乱を起こすなど、上杉輝虎は劣勢を強いられていました。この窮状を打開するためにも、上杉は今川との同盟を必要としていたのでしょう。

永禄11年(1568年)4月、今川と上杉は、互いに裏切ることをしない、輝虎は氏真の要請があれば信濃に出陣する、などということを約束しています(この中で先に述べた、武田の裏切りはそう遠くない、というのが出てきます。この文章は、だから連絡を密にしよう、と続いています)。

一方で、信玄も信長や家康と連携の交渉を重ねていきます。

永禄12年(1569年)7月29日、信長が上杉輝虎に送った書状には、信玄と和睦した、と記した後に、「駿・遠両国間、自他契約子細候」と書かれており、今川領国について織田と武田が話し合っていたことがわかります。

どのようなことを話し合ったのか、それがわかる具体的な史料があり、永禄11年(1568年)12月23日付の信玄が家康に送った書状で、そこには、「駿河に出陣したところ、約束通りに「急速御出張」(すばやく今川領国に出陣)されたこと、「本望満足」です」と書かれており、今川領国に期日を合せて攻めこむことを約束していたことがうかがえます。

また、『三河物語』には、武田信玄と「家康殿は遠江を「河切」(川を境)に取られるように、私は駿河を取ります」と約束して、それぞれ両国に攻めこんだ…と書かれているので、今川領国の配分についても取り決めていたことがわかります

この「河切」の川がどの川を指すのか、ということについて、『三河物語』には、武田信玄が天竜川を境に川東は武田が、川西は徳川が切り取る、という取り決めだったのに、大井川まで徳川が手に入れてしまった…という話が載っているので、この通りに読めば天竜川のことだった、ということになりますが、武田側の史料である『甲陽軍鑑』には、徳川家康が信玄に「駿河は信玄殿がとられませ、私は遠江を取ります」と申し出た、と書かれており、よくわからなくなってきます。そこで、柴裕之氏は『徳川家康』で、具体的な川について取り決めていなかったので、武田方は天竜川、徳川方は大井川と解釈していた、とし、平山優氏は、川を境目とすることは決めていたが、どの川かは決めておらず、切り取り次第としていたのではないか、としています(平山優氏は駿河も含めた切り取り次第だった、と述べているが、これは行き過ぎだろう)。

さて、以上のような取り決めの上で、両軍は永禄11年(1568年)12月に今川領に進攻を開始します。

軍勢を動かしたのが12月であったことについて、本多隆成氏は『徳川家康と武田氏』で、「敵対する上杉謙信が冬場には軍を動かせないという時期を狙ったから」と述べています。

12月6日に出陣した武田軍は、事前の調略の成果もあり今川方の武将を次々と味方につけ、順調に軍を進めて12月13日には今川氏の本拠、駿府に入ることに成功しました。

今川氏真は這う這うの体で遠江の掛川城に向かわざるを得ませんでした。

一方で、その遠江にも徳川軍が12月13日に進入を開始、12月18日には引間城を攻略するなど、西遠江を次々と手に入れていきます。

同時期に武田軍も先鋒隊の秋山虎繁が遠江に入りますが、徳川方に降っていた遠江衆と衝突するという事件が発生しています。また、秋山虎繁が降伏させようとしていた高天神城の小笠原氏助が12月21日に徳川氏につくなど(『三河物語』には氏助は秋山に降ろうとしていたが、馬伏塚城の小笠原長忠が「遠江は家康のものになったので、あなたも秋山につくのはやめて、家康に従いなさい」、と助言したため、氏助は家康に降った、とある)、遠江は両軍の激しい草刈り場と化していきました。

●したたか家康

しかし、突然状況は一変します。

永禄12年(1569年)1月8日、武田信玄は次の内容の書状を家康に送っています。

…聞けば、秋山虎繁など信濃衆が遠江に進入しているとか。このため、家康殿は遠江を「競望」(争って手に入れようとする)しようとしているのではないかとお疑いのようですので、秋山には武田軍本隊と合流するように申し渡しました。掛川城を家康殿が落城させることが肝要であります…

信玄が家康の抗議(『三河物語』には「大井川を切て駿河の内をば信玄の領分、大井川を切て遠江の内をば某(それがし)領分と相定て有処に、秋山出られ候事、謂無。早々引帰らせ給え」と抗議した、とある)を受けて秋山虎繁を撤退させたというのですね😕

(『松平記』には秋山伯耆守が信濃の伊奈より兵を引き連れて遠江の愛宕山から見付に移り、家康に味方した遠江衆と合戦してこれを破り、伯耆守はさらに引馬城まで進出し、家康と合戦して遠江を手に入れようとしたが、停戦となり、大井川を境に、駿河は信玄に、遠江は家康に渡すことになった、とある。『松平記』は一貫して武田氏と密約を結んだうえで今川領に攻めこんだとは書かない。『三河物語』は大井川の件は進攻前のこととしているが、『松平記』はこれを秋山虎繁との停戦時という事にしている。しかし、『松平記』のこの記述は先に紹介した書状などの史料からするに誤りであろう。もしくはわざと誤って書いたか。後述する家康の武田に対する行動を考えると、武田と結んでいたという事実を書くと、家康が信義のない人物ということになるので、都合が悪いと考えたためか)

なぜ信玄は簡単に遠江をあきらめたのでしょうか。それには、武田軍の窮状がありました。

武田軍が苦しんでいたのは、北条氏が今川の援軍を駿河にすばやく派遣したためでした。

北条氏は12月12日に出陣、駿河東部を抑え、13日には駿府と甲斐の途中にある薩埵峠に軍を進めました。

武田氏としては甲斐との通路を寸断されてしまったことになります。

それだけでなく、駿河各地には今川氏の勢力が根強く抵抗を続けており、信玄は駿河で反武田方に包囲される形となってしまったのです。

このため、信玄はさらに徳川も敵に回すことを恐れて秋山虎繁を撤退させたのでしょうし、徳川家康が今川氏を滅ぼすことで状況が好転する事を期待して掛川城攻略を催促したのです。

しかし、そうなるとつじつまが合わなくなってくるのが永禄11年(1568年)12月23日の武田信玄が徳川家康に送った書状です。

この書状には、

…早く遠江に軍を送らなければならないところですが、駿河を平定するのに時間がかかってしまい、進軍が遅れております。3日以内には、遠江に軍を送ろうと思っております。家康殿が掛川城に軍を早急に進められることは何よりも大切なことだと思っております。

…と書かれているのです。

これを見ると、徳川は、武田が駿河を攻略した後、遠江に武田氏が入ることを了承していたように思えます。

他にも、信玄の永禄12年(1569年)1月9日付の信長宛の書状には、

…駿河に進軍し、戦う事も無く氏真は敗北して掛川城に籠城しました。これを攻撃して決着をつけようとしていたところ、家康がやってきて、どうしてかはわからないが、武田に対して疑心を抱いているようであるので、掛川城を攻めることを「遠慮」して駿河に滞留しています。

…とあり、ここでも、武田が遠江に攻めこむことは既定路線であった、ということが書かれています。

それなのに家康が武田軍が遠江を望んだことに抗議した、というのは、信玄が困惑しているように、つじつまが合わないのですよね…。

おそらく、次のようだったのではないでしょうか。

①本当は、武田軍も遠江を切り取り次第で手に入れるはずであった。

②しかし、北条氏のすばやい登場などで思わぬ苦戦を強いられ、武田本軍は遠江に進攻できる余裕が無くなった。

③武田の窮状を見て、徳川家康は大井川を境目にすると言ったではないか、掛川城もこちらが手に入れる、と吹っ掛けた。

④信玄は弱みに付け込んでくる家康を苦々しく思いながらも、敵に回すことを恐れ、家康の言い分を吞んで遠江を放棄することにした。

徳川家康は後年の様子を見ていても相当のしたたかさがあったことがわかりますから、実際にこのようであったのではないか、と思います。

しかし、この時のことが、武田信玄が徳川家康に対して不信感を持つきっかけになったと考えられます。

今川を切った信玄も信玄なんですけどね…😓

信玄としては得意の謀略で家康の後塵を拝する結果になったのが悔しかったのかもしれませんが…。

遠江の獲得を確定させた家康は、永禄12年(1569年)1月中旬に掛川城攻撃に取りかかりますが、今川方は必死に防戦し(北条氏から海路300人の援軍も送られてきていた)、長期戦の様相を呈することになります。

(『三河物語』には、信長のもとに仕えていたが牢人して駿河に下り、氏真に仕えていた伊藤武兵衛[伊東夫兵衛。黒母衣衆の1人。信長の「女おどり」の際に弁慶の仮装をした。坂井迫盛(赤川景弘?[小豆坂で活躍])を殺害したため信長の不興を買い、牢人となっていた]が家康配下の椋原次右衛門に討ち取られた、とある。『武家事紀』には、今川氏の宴会で、今川氏の若者が、小鼓を転がして、武兵衛にこれをたたくことを求めたが、武兵衛は「私は信長に近侍して朝夕樫の柄を握って乱舞・詠曲を習う暇が無かった。また、小鼓をたたくのは勇士のやることではない」、と言ってこれを断った。今川の若者たちは、「小鼓をたたくときは叩き、樫の柄を握る時は握るのがまことの武士というものだろう」、と言って一触即発になったことがあった、掛川城の戦いでは、今川の若者たちに、「小鼓をたたいていただきたい」と言った。若者たちが「今は樫の柄を握る時ではないか」と答えると、「この外に知るる所あらじ(わしは樫の柄を握るしか能が無い)」と罵って何度も徳川軍に突撃、ついに1月22日に戦死した、とある)

この状況の中、織田信長は、2月4日、家康に次の内容の書状を送っています。

…新年の祝儀として鯉が贈られてきたこと、うれしく思います。遠江のことですが、船に軍勢を乗せて援軍を送ろうと思っております。詳細は佐久間信盛に伝えさせます。…

2月11日に家康は織田信長の家臣の加藤順盛に、

…陣中まで来られて、白鳥と鱈を贈っていただきうれしく思います。

…と書かれた書状を送っているので、これが織田の援軍だった可能性があります。

信玄は家康が掛川城を落とすことに一縷の望みをかけていたのですが、掛川城はなかなか落ちません。時間が経つごとに、信玄が不安に感じたのは上杉輝虎の動向でした。

2月8日に足利義昭は上杉輝虎に対し、

…今回、兇徒たちが京都を襲ったが、織田信長が馳せ上ってきて、ことごとく思いのままになった。次に越後と甲斐が和睦し、将軍のために働くべきである。信長とよくよく相談することが大事である。

…という御内書を送っていますが、これは武田信玄が依頼したためでしょう。

同時に、織田信長も2月10日付の書状で上杉輝虎に、

…越後・甲斐の和睦について、(義昭が)御内書を下されました。この際和睦を受け入れ、公儀(幕府)のため働くべきであり、そうして下されれば、信長としても「快然」(気分が良い)であります。

…と伝えています。

動揺の御内書は信玄のもとにも送られたようで、信玄は3月10日付の信長宛の書状で、

…上杉との和睦について、御内書の内容を了承しました。「信長御異見」について、信玄の領国ではその通りにするつもりです、…と記しています。

しかし一方の輝虎はこれを承知しませんでした。

なぜかというと、この頃輝虎はなんと長年にわたって戦ってきた仇敵の北条氏と和睦交渉を進めるという外交革命をやってのけていたからだったのですね😱

北条氏は12月19日付の書状を上杉輝虎に宛てて送りましたが、その内容は次のような物でした。

…駿(今川)・甲(武田)・相(北条)は強固な同盟を結んでいましたが、恨みがある訳でもないのに、武田が駿河に「乱入」しました。武田が伝えてきたのは、「駿・越(上杉)が示し合わせて、「信玄滅亡の企て」を図ったので、同盟を解消することにしました」というものでした。(上杉と)通じたために今川殿滅亡は間近に迫っています。こうなった以上は、当方に「一味」(味方)していただきたいと思います。(武田に対する)長年の「御鬱憤」を晴らされるのはこの時をおいて他にありません。…

輝虎は書状を受け取った後、和睦に向けて交渉を進めていくことになります。

それにしても、なぜ輝虎はこれまで何度も戦ってきた北条氏と和睦するという外交の転換を行なったのでしょうか。

関東の諸将は仇敵である北条氏との和睦など考えてもいませんでした。北条氏に武蔵国岩付城を奪われて常陸の大名・佐竹義重を頼っていた太田資正はこれは北条氏が困った時にやるいつものやり方なので、北条の甘言に乗ることの無いように、と釘を刺し、佐竹義重はこれは絶好の機会だからこれを逃さずすぐに関東に出陣してほしい、と輝虎に要請していました。

輝虎は北条氏と和睦した後、北条氏からしきりに武田氏の北信濃を攻撃するように要請されたにもかかわらず、武田氏を攻撃することはありませんでした。そのため、不信感を抱いた北条氏は、元亀2年(1571年)に上杉との同盟関係を解消し、武田氏と結ぶことになります。

この同盟で上杉が得たものは乏しいというより、関東諸将の期待を裏切り、不信感を与えたという点でマイナスでした。

実際、本人も北条が武田と結んだという事を聞いて、「馬鹿者のせいで里見・佐竹・太田と関係が切れてしまったのは後悔しかない」と悔しがっています。

いったい輝虎は何がしたかったのでしょうか。

西股総生氏は『東国武将たちの戦国史』で、北条氏との和睦中に北信濃を攻めずに越中に進攻したことに代表されるように、その後輝虎の主戦場が越中・能登にシフトしていったことから、「謙信の関心は…西へと移りつつあった」「関東や北信濃での消極的な姿勢を見ていると、謙信はこれらの戦場に興味を失っていた、としか思えない」と述べています。

輝虎としては、北条と結べば、成果の乏しい関東出陣を止めることが出来るし、北条と結んだという事で武田が北信濃に攻めこんでくるリスクを抑えられるし、関心のある越中・能登方面に気兼ねなく進出出来て一石三鳥であると考えて、北条氏と結ぶことの方を選択したのでしょう。

信玄は謙信との和睦交渉が進まないことにだいぶ気をもんでいたようで、3月23日付の家来に宛てた書状で、

…信濃・越後間の国境の雪も消えたので、輝虎が信濃に出陣するのは「必定」である。武田・上杉が和睦できるように、信長に仲介を催促するように。信玄は、信長を頼むしか他ない。信長を疎略に扱い、機嫌を損ねることがあれば、信玄は滅亡するしかない。慎重に信長と交渉するように。

…と述べています。

また、この書状には、

…家康は信長の意見に従って行動しているのだろうが、家康が氏真と和睦しようとしているという話を聞いた。いったいこれはどういうつもりなのか、信長に尋ねるように。

…とも書かれていて、信玄のもとに家康と氏真が和睦しようとしていることが伝わっていたことがわかります。

『松平記』によると、3月8日、家康が氏真に和睦を持ちかけたのだといいます。

その和睦の内容は、

…私は今川義元殿に取り立てられた身なので、これ以上今川と戦いたくありません。遠江を下されれば、永代にわたって、「御無沙汰」(無礼な・不利益となる)はしないとお誓いいたします。家康が遠江を取らねば、必ず信玄が取る事でしょう。信玄ではなく、家康にお与え下さるならば、北条氏と連携して駿河から武田氏を追い出して、氏真が帰還できるように尽力いたします。

…というものでした。

北条氏の名前が出てきていますが、実際、5月1日付の北条氏康の家康重臣・酒井忠次宛の書状に、

…蔵人佐殿(家康)と駿州(氏真)の和睦のことは、氏康が念願していることであります。

…とあり、家康と北条氏は連携して事に当たっていたようです。

ここでも家康のしたたかぶりがわかります。信玄と手を結びながら、その劣勢がわかるや今川・北条と手を結んで武田を切ろうとしているのですから…(しかも当の家康は遠江を得ている)。

家康が今川と和睦を進めていることに危機感を持った信玄は、4月7日付の家康宛の書状で次の3点について述べています。

①掛川城近辺に砦を築いて地の利を得、これを攻めるのが大切であること。

②武田と上杉の和睦について、「公方」(足利義昭)が命令され、「織田信長」が仲介して、まもなく成立すること。

③佐竹・里見・宇都宮などの関東の諸将の大半と交渉をし、共に北条を攻めることを取り決めていること。

2つ目の武田と上杉の和睦について、同じ日付の足利義昭の上杉輝虎宛の御内書には次のように書かれています。

…甲斐・越後和睦のことについて、先々月に使者を派遣したが、まだ京に戻ってこない。いかがしたのであろうか。そこで、もう一度使者を送ることにする。和睦のことをよくよく考えるように。軽率に軍を動かすことはあってはならない。

信長もまた、同じ日付の、同様の内容の書状を上杉氏重臣の直江景綱宛に送っています。

この後、和睦の話はどうなったかというと、8月10日付の御内書に、「この度の儀、然るべく候、輝虎の存分、急度申し上ぐべき段、喜び入るべく候」(和睦の件に従うという輝虎の思いを確かに伝えます、と聞き、うれしく思う)とあり、輝虎が和睦を受け入れたことがわかります。

輝虎はこの後、信玄と戦うことはついぞありませんでした。それどころか、信玄死後も、輝虎は死ぬまで武田氏と戦っていません。逆に言うと武田氏も上杉氏の領国に攻めこんでいないことになるのですが、この理由について、本郷和人氏は、「内陸に領土を持つ武田信玄にとって、塩が取れ、貿易の拠点となる海辺の地を手に入れるのは念願でした。一方で太平洋側に進出できた分、日本海側の重要度は下がり、戦いのリスクと、得られるメリットを天秤にかけて戦いを止めた」としています。輝虎としても本拠に近い北信濃に武田氏が進攻して来さえしなければそれでよかったのでしょう。両者の思惑が一致して、武田・上杉の和睦は長期にわたって続いたわけです。

話を戻して3つ目の関東の諸将と互いに北条を攻めるという取り決めをした、という内容ですが、これについては4月6日付の信玄の佐竹義重宛の書状が残っており、それには、

…武田と北条が駿河でにらみ合っていますが、北条氏政が本拠を離れているこの好機を逃さずに、御味方とともに北条を攻められることが肝要です。掛川城には「松平蔵人」(徳川家康)が攻めかかっており、まもなく落城する見込みです。また、「織田弾正忠」が先月下旬に京都から美濃に帰国し、今月末に加勢のため軍を送ると伝えてきました。そこで、駿河のことは織田に任せ、自分は小田原を攻めるつもりです。佐竹殿は、その内容を上杉に伝え、北条と上杉が和睦しないように調略をお願いします。

…とあります。ここで信長の話が出てきていますが、信長が京都を立ったのが4月21日、帰国したのが4月23日なので、これは虚報でしょう。関東の諸将を動かすためにデマを流したのだと考えられます。プロパガンダというやつですね。

掛川城が徳川との和睦に応じて開城したのが5月15日なので、まもなく落城する、というのは正しかったのですが、信玄としては、徳川が今川を滅ぼすことで、信玄を包囲していた今川勢力が消滅することを期待していたのに、両者が和睦を進めていて、徳川が今川の駿河復帰を支援するという形になる事を知って、状況が好転するどころか和睦が成立することで状況がさらに悪化する(挟み撃ちにあうわけですから)ことを悟り、信玄は和睦が成立する前に撤退することを決断します。

(『松平記』には信玄が家康・北条の和睦を受けて出陣した北条と100日ほど対陣しているところに、家康の先陣が駿府に攻め寄せ、留守を守っていた山県三郎兵衛[昌景]を追い出した。信玄はこれを知って、両側から攻撃を受けてはかなわない、と言って甲斐に退却した。氏真は北条と家康のおかげで再び駿府に帰ることができた…とあるが、実際は和睦成立の前に信玄は帰っているし、信玄と家康が戦った事実も無いので、これは明らかな創作であろう)

信玄は横山城(興津城)に穴山信君、久能城に板垣信安を残して両城の死守を命じた後、4月24日、密かに駿河から撤退しました。

それからしばらく経った5月15日に掛川城は開城、今川氏真は迎えの北条氏の兵と共に駿河の大平新城に移り、駿河の回復に闘志を燃やすことになります。

さて、帰国した武田信玄ですが、次の内容の5月23日付の書状を、信長側近の武井夕庵に宛てて送っています。

…掛川城は落城し、今川氏真は駿河の河東地域に退いたという事をお聞きしました。去年信玄が駿河に攻め入ったところ、氏真は落ち延び、遠江もことごとく武田の手に落ち、掛川城1か所を残すのみとなっていました。それから10余日経って、信長の先陣だと言って家康が出陣し、先に約束していたように、信玄が駿府を手に入れて確保していた遠江衆の人質を家康のもとに送りました。その後、北条氏政が氏真を救うべく駿河の薩埵山に出陣してきたので、武田軍はこれと対陣することになりました。家康は掛川城に対して数か所の砦を築いてこれを攻め立てて、これを落城させましたが、氏真は切腹させるか、三河・尾張周辺に幽閉するべきであったのに、北条と徳川は会見して和睦し、掛川城に籠城していた者たちを、無事に駿河に送り届けましたが、これはまったくもって「存外」(思いもよらない)のことでした。今川氏真・北条氏康と和睦しない、ということを徳川と取り決めていたのに、信長殿はこのことをどう思っておられるのか。しかし、このことはもう過去のことだから仕方ないので、せめて家康が氏真・氏康と和睦を止めて敵対関係となるように、信長殿が催促されることが肝要だと思います。

信玄の憤懣やるかたない気持ちが伝わってくる書状ですね😅

この家康の行動が独断なのか信長と話し合った上のものなのかどうかはわかりませんが、家康の行動は確実に武田氏の不信感を醸成し、後の織田包囲網参加につながっていくことになるのでした…。




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