時の人になった信長のもとには、先に述べたように、さまざまな物が贈られていくことになりますが、
一方で、信長は逸品である名物については、金を払ってこれを購入しています。
『信長公記』にはこの後も何度も行われることになるのですが、
その第一弾が永禄12年(1569年)のものでした。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●信長は名物であれば全て購入していたわけではなかった⁉
『信長公記』を見ると、信長がたびたび世の中の逸品(名物)を蒐集していることがわかります。
これを1956年に芳賀幸四郎氏は「茶器狩り」と呼びましたが、1962年に永島福太郎氏が「名物狩り」と呼んで以降、こちらが広まるようになりました。信長が集めたのが茶器だけではなかったためでしょう。
竹本千鶴氏の『織豊期の茶会と政治』によると、過去に将軍家が所有していた名物の蒐集を始めたのは三好一族や松永久秀で、これを受け継いだのが信長であり、「名物狩り」には武士や町人などを威圧するため・その忠誠度をはかるという目的があったといいます。
『信長公記』には、次のように、信長が名物狩りを行なったことが記されています。
「信長、金銀・米銭御不足これなき間、此上は唐物、天下の名物召し置かるべきの由、御諚侯て、先ず
上京 大文字屋所持の 一、初花
祐乗坊の 一、ふじなすび(富士茄子)
法王寺の 一 、竹さしやく(竹茶杓)
池上如慶が 一、かぶらなし(蕪無)
佐野 一、雁の絵(平沙落雁図)
江村 一、ももそこ(桃底) 以上
友閑・丹羽五郎左衛門御使申し、金銀・八木遣わし、召し置かれ…」
金銀や米・銭が十分にあったので、これを使って世に聞こえた逸品を京都や堺の豪商などから買い上げさせた、というのですが、信長は撰銭令の項で説明したように、大軍が京都に残っている間は米不足に悩まされていたので、この名物狩りが行われたのはおそらく二条城が完成した4月頃のことになるでしょう。
ここに登場する名物は次のような物でした。
初花肩衝
初花肩衝は、新田肩衝・楢柴肩衝と並び「天下三肩衝」と称される逸品です。もと幕府の同朋衆、能阿弥の持ち物であったといいます。天文10年代(1541~1550年)に書かれた『往古道具値段付』には、「能阿弥秘蔵の茶入れであって、将軍家の持ち物ではない」と書かれており、非常に有名なため、当時から将軍の所有物と勘違いされていたことがわかります。『先祖記』には、京都の豪商・大文字屋の宗親、栄甫、養清と3代にわたって初花肩衝が受け継がれていた。養清の代の時に京・堺の名物を信長公が手に入れることを望んで、多くがその所有物となった、とあります。「初花」というのはその季節(もしくは春)に初めて咲く花のことを言うそうなのですが、このように名づけられた理由ははっきりわかっていないようで、『往古~』には、「底の方に土があらわになっている部分があるので、初花と名付けられた、という説と、釉薬が見事なのでこのようにいう、という両説がある」と書かれています。また、『往古~』は「上々の茶入」と評価し、「以前は5万疋(=500貫)の価値があるとされていたが、今は10万疋(=千貫)と値定めされている」と書かれています。
天正5年(1577年)に信長は初花肩衝を息子の信忠に譲っています。
富士茄子
富士茄子は、「九十九茄子」「松本(紹鴎)茄子」と共に「天下三茄子」と称される逸品です。『往古~』によると、昔、京都から鎌倉公方のもとに移ったのが、めぐりめぐってまた京都の将軍家の医師・祐乗坊のもとに渡っていたようです。名前は、富士山が見える駿河の今川氏が、祐乗坊の手元に移る途中に所有していたことに由来するようです。『往古~』には「釉薬に蛇蝎(黒釉と白濁釉の二種類の釉薬を重ね掛けする技法。弘治3年[1557年]奈良の茶人が富士茄子を見た際に、「釉薬には飴か、濃柿か、かけ合わせたものが使われているようだ」、と感想を記している)という悪いやり方が使われているが、形、口の広さ、ひねり返し(口の端を丸く曲げる手法)は良い」という評価が書かれています。『唐物上古物置様の事』には、「形や全体の釣り合いは何にも増して優れているが、土があらわになっている部分・釉薬が良くない。しかし、それを忘れるほどに形が良い」とあり、天正元年(1573年)に富士茄子を見た津田宗及は「形良し、全体の釣り合い良し。しかし、土の部分、釉薬は丁寧でない」と感想を述べており、とにかく形の良さが評価されていたようです。
その後、天正元年(1573年)に曲直瀬道三が使用していることが『天王寺屋会記宗及他会記』で確認できるため、この時までに信長は富士茄子を曲直瀬道三に譲っていたようです。
竹茶杓(浅茅)
茶杓とは、抹茶を救うための細長い匙のことで、これを竹で作ったものが竹茶杓です。
『山上宗二記』には、朱徳が作製した。名は浅茅。値は千貫、総見院(=信長)の時、火中に入り焼失した、とあり、おそらく本能寺の変で焼失したことがわかります。
浅茅茶杓は以前は三好実休(長慶の弟)が所持していたようで、この時は法王寺に渡っていました。法王寺という寺は文献上に見えないのですが、『清玩名物記』には「竹茶杓 珠徳作 上京 法園寺」とあり、法園寺の誤記だった可能性があります。
竹茶杓は、天正元年(1573年)の茶会で信長が使用していることが『信長茶会記』で確認できます。
蕪無
花瓶は蕪(かぶ)のように丸く膨らんでいますが、この膨らみが無い物を蕪無しといいます。
『中興名物記』には、天王寺屋五郎兵衛が「信長公」が持っていた「蕪なし青磁砧」を所持していた、と書かれています。砧青磁とは、不透明な釉薬のかかった薄手の青磁(青緑色の磁器)のことで、洗った布のしわを伸ばすための道具である砧と似ているので砧青磁と呼ばれるようです。
元亀2年(1571年)・天正元年(1573年)・天正2年(1574年)に信長が使用していることが確認できます。
本能寺の変の際、残念ながら焼失してしまいました。
平沙落雁図
平沙落雁図は13世紀後半の中国の画家、牧谿の作品と、同時期の玉澗の作品の2点があり、どちらのものであったかよくわかっていません。将軍家のものであったのが、めぐりめぐって堺の豪商・灰屋の佐野氏に渡った後、信長のもとに移りました。
信長は天正5年(1577年)に信忠にこれを譲っています。
桃底
桃底とは、耳の部分が無い細身の花入れのことで、桃の実のように底が膨らんでいるためそう呼ばれます。宗及は茶会でこれを見て、3つの有名な桃底の中で最も大型、紋も新しく見事、金の遣い方が良く、花入れは丈夫である、と感想を書いています。
信長がここに書かれた名物すべてを買い上げたどうかについては異論があり、竹本千鶴氏は、この後に桃底を手放したはずの江村栄紀が茶会で桃底を使用していることから、信長の目に適わなかったのか、江村栄紀が手放さなかったのかはわからないが、信長が6点を残らず入手したわけではなかった、と述べています。
これについては、桃底は有名なものが3つあった、と津田宗及が日記に書いていますので、残りの桃底であった可能性もあるのですが、竹本氏は、天正5年(1577年)に名物72点が書かれた目録を信長に贈ったが、信長はこのうち2点しか選んでいないこと、天正3年(1575年)に今川氏真が信長に会った際に、3点の名物を進上したが、このうち1つしか受け取らなかった、といったことを証拠として挙げられており、説得力があると思われるので、信長がすべてを入手したわけではない、という説はかなり信憑性があると考えられます。
平沙落雁図についても、『仙茶記』などによれば天正年間(1573~1592年)には重宗甫が信長に進上した、とあることから、江口浩三氏は永禄12年(1569年)の際には信長は入手しなかったのではないか、としています。
また、竹本氏は、信長が選別する際の基準としたのは、①名物として世に知られているかどうか、②「異相」など信長の好みに合っているかどうか、③由来がはっきりしているかどうか、の3点であった、と述べています。
買い上げにあたったのは松井友閑・丹羽長秀の両名でした。
松井友閑について、『信長公記』首巻には、「友閑」なる人物が清須の町人で、信長にしばしば呼ばれて舞を舞っていた、と書かれています。ルイス・フロイスは『日本史』1572年の項で、仏僧で、信長が大いに信頼している老人、と記しています(友閑は1593年の豊臣秀吉の能の会にも参加しており、1572年時で60歳とすると、80歳以上生きたことになる)。町人なのか僧なのかよくわかりませんが、途中で出家して僧になったものでしょうか。
友閑は信長の茶会で度々茶頭を務めているので、茶の湯に精通していることがわかるのですが、これもあって使者に選ばれたのでしょうか。
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