社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 信長による「復古政治」~旧秩序を回復させようとする信長

2024年8月2日金曜日

信長による「復古政治」~旧秩序を回復させようとする信長

 信長はよく旧秩序を破壊した革新的な人物だと言われますが、

どうもそうとはいいきれない部分も持ち合わせた人物であったようです😕

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●信長による「復古政治」⁉

渡辺幾治郎(1877~1960年)は、『皇国大日本史』で、

天正3年(1575年)、越前国(福井県北部)を統治することになった柴田勝家に与えた書状の中に、「京家領の儀乱以前まで知行せし分は返付すべし」とあることなどを理由として、信長が、「皇室尊崇、公家の保護に注意」した、と記し、

別の機会には、信長の政治について「復古政治」であると述べています(『皇国大日本史』では「信長の革新政治」という項目があって、よくわからなくなるのだが、復古的である、革新的でもあった、という事なのだろうか)。

信長の「復古政治」について、現存する書状などを用いて、具体的に見ていきたいと思います。

〇禁裏御料所(天皇家の領地)について

禁裏御料所について、信長は永禄11年(1568年)10月21日に、

…禁裏御料所について、当知行(武家法では長年にわたって実効支配している地域は、その者に任せるという慣例の事を指すが、公家法では、その権利を持っているという由緒があるものがその地域を支配することを指す。この場合は公家法の事を指すか)に従って、直務(朝廷による直接支配)とする。

という朱印状を出しており、禁裏御料所の回復を認めていましたが、この朱印状が出たからといって、禁裏御料所を押領している者たちが、はいわかりましたと、あっさり手放すことは無かったようで、次のような話が『言継卿記』に記されています。

『言継卿記』4月13日条に、

烏丸一品(光康)・同弁(光宣)・万里小路(惟房)・同黄門(輔房)・予(山科言継)で信長のもとを訪れた。万里小路は山国・小野・細川の荘園等の事で…信長のもとを訪ねたのであった。

…とあり、その後、4月15日条に、

烏丸父子・万里小路亜相(「亜相」は大納言の事)・予など、妙覚寺にいる織田弾正忠を訪ねた。…万里小路は禁裏御料所である山国・小野・細川等についても裁決を求めに来たのであったが、これもだいたい具合良くまとまることになった。

…と続報が載せられているのですが、この「山国・小野・細川の荘園等の事」とは何なのでしょうか。

これについては、次の2つの書状が残っています。

4月16日付、立入宗継(朝廷の財政を担当する禁裏御倉職についていた土倉)宛の木下藤吉郎秀吉・丹羽五郎左衛門長秀・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀による連名の書状

…禁裏御料所である(丹波国)山国庄の事、数年にわたって宇津右近大夫(頼重)が押領(力ずくで奪い取る事)してきたが、この度、信長が調査を行い、宇津の不法を停止させるよう、山国庄の2人の代官に対し朱印状を以て次のように申しつけた。「これまでの通り、山国庄は朝廷が直接に管理することになるのだから、年貢などを確実に納めるようにせよ。宇津当人にも厳しく言い渡している」

宇津頼重本人に送った書状とは、次の書状になります。

4月18日付、宇津頼重宛の丹羽五郎左衛門長秀木下藤吉郎秀吉・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀による連名の書状

…以前から伝えているように、禁裏御料所である山国郷(その枝郷[新田開発などにより拡大した結果、新たに生まれた郷]である小野・細川も同じく)は、以前のように、朝廷が直接管理する、と朝廷から命令を受け、信長が朱印状を以て申し伝えたが、ほんの少しであってもこの命令に違反することがあってはならない。このことを伝えるようにと(信長が)私たちに命じられた。

宇津頼重というものが、朝廷の領地を押領していた、というのですね😕

この宇津頼重というのは、当時は丹波国の、現在は京都府の、京都市右京区京北下宇津町にいた、東丹波に大きな勢力を持った国衆のことです。「下宇津町」は「しもうつちょう」と読むので、宇津頼重の宇津は、「うつ」と読むべきなのでしょう。

宇津氏は天文4年(1535年)に小野山に勝手に関所を築くなど小野に対する押領を進め、天文15年(1546年)には宇津・山国庄などがある桑田郡だけでなく、隣の船井郡にも勢力を拡大しました。

これに対し、朝廷は六角義賢に対し、永禄5年(1562年)年4月に、宇津頼重に小野山での横暴を停めるように綸旨を出しましたが、頼重はこれを聞き入れず、

『御湯殿上日記』永禄8年(1565年)11月27日条に、

「おの(小野)の おさ(長?)大くら うつ(宇津)うちいりて しゃうかい(生害)させ。七かう(郷)へ うつ(宇津)かうにうふ(郷入部)し候よし」

…とあるように、小野を襲ってついにこれを我がものとしました。

どうやら相当なワルだったようですね😓

朝廷は今度は三好長逸に頼重を何とかするように綸旨を出し、これを受けて長逸は永禄9年(1566年)、『御湯殿上日記』7月21条に「おの(小野)の事。ひうか(日向。長逸の事)かたく(堅く)申つけ候て。うつ(宇津)いらん(違乱)しりそき(退き)候とて」とあるように、小野から退去するように頼重に厳しく申し伝えたところ、頼重は小野から退去しました。

これで一安心と思いきや、ほとぼりが冷めると頼重は小野などに対する押領を再開しました。

困った朝廷が次に頼ったのが織田信長で、こうして、永禄12年(1569年)に頼重に対する書状が作成される運びになったわけですね。

『御湯殿上日記』4月17日条には、「山くに(国)のふなか(信長)しゆはん(朱判)まいり候て。御しきむ(直務)にもとのことく(如く)まいり。めてたし(目出度し)」とあり、信長が山国庄などを朝廷の領地と認めた上で、この回復に動いたことに対し、朝廷が喜んでいる様子がうかがえます。

頼重が信長の書状にどのような反応を示したのかについてはわかっていないのですが、長逸の時と同じく、分が悪いと思って手を引いたと考えられます。

しかし、その後、信長をめぐる状況が悪化したのを見て、押領を再開したようで、結局、宇津氏の押領が終わるのは、明智光秀の丹波征伐を待たねばなりませんでした😓

〇東寺領について

4月21日付、東寺宛の信長朱印状

…東寺領については、代々の将軍の御内書や下知状によって保証されているが、この通りに東寺がこれを管理するように。

閏5月23日付、東寺宛の信長朱印状

…東寺領について、新規に課役をかけることを禁止する。

閏5月25日付、東寺領の百姓宛の木下藤吉郎秀吉書状

…東寺領について、信長が朱印状を出してこれを保証した。年貢などを早々に東寺に納めるようにせよ。

〇愛宕権現御供料について

元亀元年(1570年)5月7日付、柴田修理亮(勝家)・坂井右近(政尚)宛の信長書状

…愛宕権現の御供料所(神仏に供える金銭や物品を納めることを請け負っている地域)である外畑村について、去年(永禄12年[1569年])朱印状を以てこれを保証したのだから、これに異議をさしはさんではならぬのに、丹波国広田の渡部太郎左衛門尉という者がこれに背いた行動をとっているという。愛宕権現の運営が滞りなく進むように確実に御供料を納めるようにとこの者に申し渡すようにせよ。それでもこれに背いた行動をとり続ける場合は、これを処罰するようにせよ。

(渡部太郎左衛門尉は、他の書状によれば、外畑村を担当する下司[現地で実務を行なった役人]であったようである)

〇久我晴通の領地について

永禄11年(1568年)10月20日付、久我晴通宛の信長朱印状

…上久我庄・下久我庄、東寺領樋爪庄・東久世庄・大藪庄(久我氏は東寺領の一部について、その年貢を収得する権利を得ていた)について、紛れもなく旧領であるとして幕府が下知状を下された以上、これらの土地すべてを領有して支配することが肝要です。

〇烏丸光康の領地について

永禄12年(1569年)4月19日付、烏丸光康宛の信長朱印状

…摂津の烏丸家領、並びに、支配権があるのに、近年治めることができていなかった上牧について、今回の(足利義昭に対する)忠義により、改めて保証するとの下知状が出されましたが、以前のように、不入(外部権力の立ち入りを拒否する権利)の地として領有して支配されることを(信長からも)保証いたします。

〇忍頂寺の領地について

永禄12年(1569年)2月16日付、忍頂寺に住む僧宛の信長朱印状

…御祈願所(天皇・公家などから祈祷を命じられる指定寺院)である忍頂寺の領地について、御内書・下知状の内容の通り、以前のように守護不入(守護が段銭を徴収しにきたり、罪人を逮捕するのにやってくるのを拒否できる権利)の地として領有して支配されることを保証します。

以上の書状などから、信長が旧秩序の回復に努めていたことがわかります。

信長のこのような行動について、昭和18年(1943年)にはすでに、文部省が作った歴史教科書である『国史概説』に「当時多年の戦乱によって禁裏御料地の荘務の妨げられることが少なくなかったので、信長は…命を四方に下して御料地の恢復を図り、更に供御の料を上り、困窮せる公卿等の所領を復し」た、と書かれています。

一方で、次のような書状も残っています。

永禄11年(1568年)11月14日付、山城上賀茂惣中宛の明智光秀・村井貞勝連名の書状

…加茂別雷神社の領地の事、(幕府が)今まで通り変わらず治めることを安堵されましたが、その考えと同じく、(信長も)領地を支配することを保証するので、お互いに話し合って、早いうちにお礼を言うために訪れるように。

『織田信長文書の研究』では、このお礼参りのことについて、「礼銭を持参したであろう」と述べ、池上裕子氏は「所領安堵に対しては、信長への御礼参上、礼銭・礼物進上が命じられた」としています。

信長も慈善活動でやっているわけではなく、旧勢力を保護する事にはうまみもあったことがわかりますね😅


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