織田と朝倉の確執は約100年にもわたって続いてきました。
その理由は、
斯波氏の領国(尾張・遠江・越前)の守護代を初め務めたのは甲斐氏であったが、1402年に織田はそのうち尾張の守護代となった。その後、応仁の乱の際に朝倉氏は越前を手中に収め、守護代となった。この経緯から、織田は朝倉を下に見ていた。また、越前を奪った朝倉氏に斯波氏は怒り、何度も越前の奪還を試みたこともあり、織田は朝倉を正統な存在と認めていなかった。これに対し、朝倉は同じ斯波家臣としての過去を持つことから、織田に強い対抗心を抱いていた。
…というものであったと考えられます。
その確執が、一触即発の状態となるに至った要因の1つが、若狭をめぐる問題でした…。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●若狭武田氏とは
「武田」の名字は、源義家の弟・新羅三郎義光が三男の義清(1075~1149年)に与えた常陸国(茨城県)那賀郡武田郷(ひたちなか市武田)に由来しています。
この義清は1130年に甲斐国(山梨県)市河庄の荘官となって甲斐国に移り、その後甲斐源氏として甲斐国に勢力を広げることになります。
義清のひ孫の代の信光(1162~1248年?)の時に安芸守護に任じられ、安芸国にも武田氏が根付く端緒となりました。
信光の4代後の武田信武(1292?~1359年?。「武」が名前に2つも入っている…!)は南北朝の争いや観応の擾乱においても一貫して足利尊氏に味方して活躍したため、武田氏庶流出身で、甲斐守護であった武田政義が死んだ後、安芸守護に加えて甲斐守護も得ることになりました。
そして信武は長男の信成に甲斐守護を、二男の氏信に安芸守護を任せました。
しかし氏信は安芸守護職を、はやくも1371年に失ってしまいます。
河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』でその理由について、守護としての能力を問題視されたためではないか、と述べています。
こうして守護職を失ってしまった武田氏信ですが、その後も安芸国の中央部の3郡(安南郡・佐東郡・山県郡)における支配権は続けて持つことを許されていたようです。
その後しばらく安芸武田氏は守護職に就くことが無かったのですが、
1440年、武田氏栄は将軍・足利義教の密命を受けて若狭・三河・丹後守護である一色義貫を謀殺した功績により、若狭守護職を得ることに成功します。
この信栄の跡を継いだ弟の信賢は応仁の乱で活躍し、西軍に味方していた一色義直(義貫の子)から没収された丹後守護をも得ることに成功しましたが、丹後守護職はその後、一色義直が東軍に味方したため、義直に返還されることになってしまいました。
一時的にとはいえこの時に丹後守護職を得たという事が、後々、若狭武田氏が丹後にこだわる遠因となっていきます。
信賢の跡を継いだのが弟の国信(1437~1490年)でした。
国信は1487年、将軍・足利義尚の六角征伐に参加、
その子の元信(1461?~1521年)は1491年に将軍・足利義材(のちの義稙)の六角征伐に参加、1493年には義材の河内出兵にも付き従っているように、義材に忠実であったのですが、明応の政変で義材が失脚するや、その首謀者である細川政元の与党となっています。
1506年、丹後一色氏の内部で混乱が起きていることを見て取った元信は、念願の丹後を得るために出陣、9月には細川氏と共同で丹後一色氏の本拠地にほど近い宮津山城を攻略することに成功したものの、続く府中と加悦城攻めでは苦戦、その中で1507年、細川政元が暗殺されるという事件(永正の錯乱)が起こると、慌てて細川勢が撤退を開始、やむなく元信も兵を引いたものの、追撃を受けて大敗を喫してしまいます。
武田元信を撃退した一色義有ですが、1512年に25歳の若さで死去、その跡目をめぐり、石川直経と延永春信が再び丹後国内で内乱となります。石川直経が若狭武田氏に支援を求めたので、元信はこれに加勢しますが、ここでなんと丹後に隣接する地域を治める逸見氏(若狭武田氏の有力一族)が反乱、もう一方の延永春信に味方するという事件が起きます。
これによって延永勢の優位は確実となり、石川直経は若狭に逃れざるを得ない状況にまで追い込まれてしまいます。
この状況を受けて幕府の依頼を受けた越前の朝倉氏が両者の和睦にあたり、朝倉氏の当主・孝景は武田元信の娘婿であった関係もあり、元信と提携する石川直経の推す一色五郎(義清)が一色氏を継ぐことになりました。
これに不満を持つ延永勢は反抗しますが、朝倉氏の軍勢によりこれは平定されました。
戦後、若狭武田氏は若狭に隣接する丹後の加佐郡を得ることとなります(河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』で、「加佐郡の少なくとも田辺以東は、戦国末期まで武田氏の支配が一定程度及んでいた」と記している)。
元信はその後1521年に亡くなりますが、亡くなる前に山城である後瀬山城を築き始めており、元信が亡くなった翌年にそれは完成することになります。
元信の跡を継いだのは子の元光(1494~1551年)でした。
この頃、畿内の実力者であったのは管領の細川高国(以前に別項で紹介)ですが、1526年、讒言を信じて家臣の香西元盛を自害させた際、その兄の波多野元清・弟の柳本賢治がこれに反発し、高国と対立していた四国の細川晴元と組んで高国に戦いを挑みました。
これに対し高国は近隣の大名たちに応援を頼み、武田元光は要請を承諾して、自ら2000の兵を率いて京都に向かい、桂川に陣を構えました。
そこに細川晴元の主力・三好勢3000が猛攻撃を仕掛けてきて大敗、これをきっかけに細川高国軍は敗北を喫することになりました(桂川原の戦い)。
元光はその後も細川高国の要請に応じて、家臣の粟屋氏を派遣していますが、結局、細川高国は1531年に追い込まれて自害しています。
1538年に元光は家督を子の信豊(1514~1580年?)に譲って引退するのですが、この信豊の代に若狭武田氏は大きく勢力を落とすことになります。
その発端となったのは後継をめぐる問題で、信豊は後継に長男の元栄(のち義統)ではなく、二男の元康(のち信由)を選ぼうとしたのですが、これにより家臣団が2つに割れ、内乱に発展することになりました。
この争いは元栄(義統)有利に進み、1558年、信豊は妻の実家である六角氏を頼って近江に逃れることになりました。
その後、周囲の仲介もあり、1561年、信豊は若狭に復帰が叶いましたが、信豊派と戦いを続けていた逸見氏(若狭武田氏の有力一族)はこれに不満を持ち、丹波国の内藤宗勝と手を結んで若狭武田氏に対し反乱を起こします。
武田義統は朝倉氏に救援を要請、これを受けて朝倉氏は1万人の軍勢を派遣、3か月で逸見氏の反乱をおさえこむことに成功します。
以前も若狭武田氏は朝倉氏に助けてもらっていましたが、今回も助けてもらって、本当におんぶにだっこのような状態です😓
若狭に朝倉氏の影響力が強まることは避けられず、逸見氏の乱後は、小浜に朝倉氏の家臣が常駐するようになっていきます。
その後、義統にとって大きな出来事が訪れます。
後に将軍となる足利義秋が、1566年、妹の婿である武田義統を頼って若狭にやってきたのです(経緯については別項で前述)。
このことについて、『多聞院日記』の閏8月3日条には、
…去る(8月)29日の夜、上意(足利義秋)様は(近江国の)矢島を離れ、若狭へ御移りになった。…若狭でも武田殿は親子で対立していると聞く(「武田殿父子及取合乱逆と云々」)が、どのようなことになるのだろうか。
…と記されていますが、「親子で対立」とは何が起きていたのかというと、
反義統派の家臣たちが、なんと義統の4歳の息子である孫犬丸(のちの元明。1562?~1582年)を擁して反乱を起こしていたのです。
残っている書状によれば、閏8月24日に、武田義統の弟の信方が反乱軍を小浜東部で迎え撃ち、これを破った、とあり、足利義秋が若狭武田氏を頼った時はまさに内乱の最中であったことがわかります。
『足利季世記』には、
…若狭国は狭く、武田義統も上洛に必要な名案を何も出そうとしなかったので、これでは幕府を再興できないとして、続いて越前(福井県北部)の朝倉義景のもとに向かった。
…とありますが、実際は、内乱中で上洛の支援を期待できそうにも無かったので、若狭武田氏の元を離れて越前の朝倉氏のもとに向かったのです。9月8日の事でした。若狭には1か月ちょっとしか滞在しなかったことになります。
この混乱の中、武田義統は永禄10年(1567年)に急死してしまいます。
跡を継いだのはまだ5歳でしかない孫犬丸で、家臣団の動揺は避けられず、その中で追い打ちをかけるように大事件が起こります。
永禄11年(1568年)8月、なんと孫犬丸が朝倉氏によって越前に連れ去られたのです。
これについては、元亀元年(1570年)頃に出された朝倉義景宛の武田信玄の書状が残っており、これには、
…同族である義統が亡くなった後、「孫犬丸幼少」のために親族や家臣が逆心を抱くようになり、国中が錯乱状態になり、(若狭)武田氏が断絶寸前となったところ、越前に招かれて大切に扱われていると聞きました。誠に優れた行いです。
…と書かれています。
朝倉氏は何を目的としていたのでしょうか。
河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』で、2つの説を挙げています。
①「元明を越前一乗谷で養育し、成人した暁には若狭に帰して朝倉氏のコントロール可能な国主にし、彼を通して若狭国人を統制することで、若狭を事実上の朝倉領国にしようというもので、短期的には、武田旧臣らが元明を推戴して反朝倉に転じるのを防止するための人質だったのではなかろうか」
②「一乗谷に移った足利義昭が、織田信長の誘いで越前を去り岐阜に着いたのが7月25日で、…義景にしてみれば、自身の力不足を思い知らされ忸怩たる思いにかられていたであろう。この8月に決行された朝倉氏による元明連行は、…隣国の次期国主候補を「奪取」することで少しでも晴らそうとする心理はなかっただろうか」
2つ目の説について、自分的に考えると次のようになります。
ポイントは連行の8月が信長の上洛軍出発の9月7日の直前であったという事だと思います。
義景としては、孫犬丸を連行することで、若狭武田氏が上洛軍に参加できないようにしようとしたのではないでしょうか。
実際に、若狭武田氏が上洛軍に参加したという形跡はありませんし。
上洛する信長への当てつけであり、また、若狭を朝倉氏の影響下に置いておきたいという思惑が重なって、孫犬丸の連行につながったのではないでしょうか。
●織田信長と若狭武田氏
織田信長と若狭武田氏との関係をうかがうことができる書状があります。
(年代不明)4月16日付、梶又左衛門宛の丹羽五郎左衛門尉長秀・木下藤吉郎秀吉・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀の連名の書状
…今回、36人の方々が申し出られたことを、信長に伝えたところ、信長は義統に対する忠節は明白であるとし、永禄9年(1566年)12月13日付の義統の書状の内容に従って、領地を安堵するとの朱印状を出された。今後は孫犬殿に忠誠を尽くされることが肝要です。
梶又左衛門なる人物がどのような人物なのかよくわからないのですが、「義統」「孫犬」とあり、若狭武田氏の家臣であったことは確かです。
この梶又左衛門を含む36人の若狭武田氏家臣が信長に領地の安堵を求め、信長はこれを了承して彼らの領地を安堵した、という内容の書状なのですが、この書状を読んで疑問に思うのは、なぜ若狭武田氏の家臣たちが信長に領地の安堵を求めるのか?ということです。
この書状は書かれた年代が不明なのですが、前回紹介したように、この4名が連名で出している書状は永禄12年(1569年)4月に複数出されているので、これもおそらく永禄12年(1569年)のものだろうと考えることができます。そうなると、この書状は孫犬丸(元明)が連行された永禄11年(1568年)8月の翌年のものという事になります。つまり、36人の者たちが信長に領地の安堵を求めた時は、主君の…領地の安堵を求める対象である…武田元明がいなかったということになり、そのため、彼らは信長に領地の保証を求めた、という事になります。
主君である孫犬を失った後の若狭衆が動揺したであろうことは容易に想像できます。
朝倉につくべきか迷っていたところ、信長がさっそうと上洛し、義昭を将軍に就けた。
これを見て、若狭衆は、信長に心を寄せるものが多く出たことでしょう。
実際、永禄12年(1569年)1月に勃発した本国寺の変では若狭衆の山県源内・宇野弥七が参加していることが、『信長公記』の記述からわかります。
さて、この書状では、信長は36人の者たちに対し、「孫犬殿」に対する忠誠を求めていますが、この孫犬は朝倉に連行されていて若狭にはいませんでした。それなのになぜ孫犬に対して忠誠を求めたのでしょうか?
藤井譲治氏は「大阪青山短期大学所蔵「梶又左衛門宛織田氏宿老連署状」をめぐって」で、「具体的に元明を頂点とする家臣団の再構築をめざしたのではなく、信長による領知安堵を踏まえ、主人のいない若狭衆に名目的な主人として元明を戴かせることを通して再編し、それを織田氏が若狭衆として掌握しようとした極めて政治的な措置であったといえよう。またそれは、現実の場では越前の朝倉氏に対抗するための一方策であったといえよう」と自説を述べておられます。
朝倉氏に従え、といっているわけではもちろんなくて、孫犬を若狭衆を結束させるための名目的な主人として利用した、というのですね。また、信長としては、「朝倉に連行された孫犬を取り戻し、若狭国主として復帰させる」ことを朝倉氏を討伐するための大義名分にできると考えたことでしょう。
若狭を影響下に置いておきたい朝倉氏ですが、その若狭の者たちは続々と信長に従うようになっていっていました。朝倉氏と織田の衝突は間近に迫ってきていました…。
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