これまでにも何度か登場した朝山日乗。
織田信長上洛後、信長に気に入られて様々な仕事を任せられるようになった人物ですが、その出自は不明なところが多く、荻野三七彦氏は、「怪僧」と日乗の事を表現しています。
どのような人物であったのか、フロイスの記録と、断片的に残る諸史料から見ていこうと思います。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●怪僧・日乗
フロイスは日乗について次のように述べています。
・キリシタンからは人の姿をしたルシフェル(悪魔)と呼ばれ、穏健な仏教徒からは詐欺師と呼ばれる
・黒い血筋(家柄が明らかでない、下賤の身分)の男
・小柄
・財産家
・仏教徒の中では文才も知性も低いほうであるが、頭の回転が速く、口が達者で自由奔放に発言する、日本のデモステネス(古代ギリシャの雄弁家)
・妻子がいたものの、貧乏のため離縁し、その後、兵士となる。兵士として活動するうちに自身の罪に対して恐怖を覚え、出家し、国々を渡り歩いた。
・尼子氏に対して反逆を犯したので、山口の国主のもとに逃亡し、毛利殿の信任を得た。
・10、もしくは12年前(1569年の書簡に書かれているので、1557年か、1559年ということになる)に中国製の金襴(模様を金糸で織ったもの)の布切れを買い、諸国をめぐり、「私は悟りを得た際、お釈迦様から内裏が昔のような権力・地位を取り戻させるための道具として選ばれた。これは内裏から賜った天子様の衣服であるが、このありがたい衣服を皆のものに分配するために私は来たのだ」と言った。これを聞いた人々は一筋の糸を求めて金を支払った。この金を使って、山口に寺院を建てた。
・松永久秀と三人衆が争い、久秀が奈良の城に追い詰められ、窮地に陥ったと知ると、久秀から金が得られる好機と考えて、毛利殿から、軍勢を送ること・日乗の忠告に耳を傾けてこれに従うことについて記した久秀宛の書状を作ってもらい、久秀のもとに向かったが、その途中で三人衆側に捕まり、日乗は6・7000クルザード(約2400~2800貫)を支払うから許してほしい、と言ったが、認められず、篠原長房は日乗を鞭打たせた上で、首に鉄の鎖をつけ、両手を木の杭に縛り付けて牢屋に入れた。日乗はごく少量の食事しか与えられず、死に瀕したが、手を尽くして法華経八巻を手に入れ、付近の農民たちに、この法華経を聞けば、健康は回復し、来世で救われる、と説いた。農民たちはこれをありがたく思って日乗に食物を持って行ったので、日乗は生きながらえることに成功した。その後、信長が上洛して、三人衆が失脚したので、日乗は解放された(書簡では、信長の上洛前に、日乗が朝廷に働きかけて赦免された、と書かれている)。
・内裏は窮乏を切り抜けるために、日乗を信長との仲介人とした。日乗はうまく信長に気に入られ、その家臣となり、自由に信長のもとに出入りすることを許された上、内裏修理の奉行に任命された。
さて、このフロイスの文章が正確なものなのかどうか、日本の諸史料を用いて見ていくことにします。
まずは「素性が明らかでない、低い身分の生まれであった」というものですが、
江戸時代中期に作られた「朝山家系図」によると、出身は出雲国(島根県東部)神門郡朝山郷、ということになっています。
一方で、日乗の(おそらく)史料における初見となる『兼右卿記』弘治元年(1555年)閏10月8日条には、「美作(岡山県北部)より朝山がこの度上洛してきた」とあります。
出身は出雲なのか美作なのか?
荻野三七彦氏は美作とする方が正確である、としていますが、朝山という地名は出雲にあり、フロイスも国々を渡り歩いた、と言っているので、出身は出雲であった、とするべきではないでしょうか。
フロイスによれば、日乗は初め出雲・美作など中国地方8カ国に勢力を持つ大大名尼子に仕え、その後、罪を犯して毛利氏のもとに逃れた、といいます。
日乗は朝廷や信長のもとで、特に中国地方方面の使者として活躍するので、このあたりの事は正確なのではないかと思います。
しかし、そうなると、美作から上洛した、というのはよくわからなくなります。
なぜならば、毛利氏は永禄8年(1565年)まで美作に進攻しておらず、弘治元年(1555年)の時点では美作はまだ尼子氏の勢力圏であったからです。
…ということは、この時の上洛は初めてではなく、交渉のために美作に向かっていて、そこから戻ってきた、という事だったのかもしれません。
しかし、弘治元年(1555年)には上洛していたとなると、フロイスの記述にある、1557年か1559年に諸国をまわって金襴の布切れを売って回り、それによって得たお金で山口に寺院を建てた、というのはつじつまが合わなくなります。
日乗は上洛後も毛利氏の領地と京都を行き来する生活をしていたという事なのでしょうか。
天正元年(1573年)9月7日付の、毛利氏に向けた足利義昭御内書には、「(毛利氏が)信長のもとに日乗を派遣して…」とあるので、日乗が毛利氏と親密な関係にあった事は確かです。
また、この時に既に上洛していたとなると、天皇の衣服だと偽って…というのは、本当に天皇から受け取ったものであった可能性もありますね。そしてそれを売って回り、朝廷のためのお金を用立てていたのかもしれません。
さて、先ほど紹介した『兼右卿記』閏10月8日条には、続けて上洛後の日乗について記した部分がありますので、それを見てみましょう。
…梶井宮(天台宗の寺院)において遁世(仏門に入る)し、朝廷から上人号(高僧に対し朝廷が与える称号。初見は1478年の真慧)を授けられた。
日乗はすでに出家していますので、梶井宮で出家…というのは、再出家のことでしょう。改めて別の寺院で出家しなおすことです。この場合は、箔付けでしょうか。
日乗は日蓮宗(法華宗)か?天台宗か?というものがあります。
日蓮宗とする人は、日蓮宗の僧に多い「日」が僧名についている、『言継卿記』永禄11年(1568年)7月10日条に、「近衛前久邸を訪れたところ、日乗上人がやって来ていて、法華経の一巻について講釈していた」とあるように法華経とのかかわりが深い、というのをその根拠として挙げるのでしょう。
前者は確かにそうですが、後者は、正しくありません。天台宗も、法華経を根本の経典とする宗派であるからです。
そして、驚きなのは、日乗が「上人」号を得たことです。地方出身の、素性も明らかでない僧が、突然「上人」号を朝廷から与えられたのですから、人々の驚きは大きなものがあった事でしょう。
『兼右卿記』を書いた吉田兼右なんぞは、「彼為体、恐者マイスか、為一難信用」(彼の様子を見るに、おそらく「マイス」か。信用しがたい)と記しています。
「マイス」というのは、漢字で書くと「売子」「売僧」で、『日葡辞書』には「人をたらす者、人をだます者、あるいは、詐欺師」とあります。
日乗はフロイスも「頭の回転が速く、口が達者で自由奔放に発言する」と記したように、とにかく雄弁家であり、面と向かって話すとすごい人物だと思わせてしまうものがあったのでしょう。
毛利氏の外交僧、安国寺恵瓊は、「恵瓊自筆書状」(天正元年[1573年])で、「日乗はしり舞異見者、昔之周公旦、大公望なとのことくに候」(日乗が忙しくあちこちを走り回り、自分の意見を述べる様子は、昔の中国の周公旦・大公望[どちらも周建国の功臣。よく主君を支えた]のようであった)と記しています。
各地を奔走した様子は、諸書に次のように書かれています。
『言継卿記』永禄6年(1563年)1月28日条
…日乗が最近安芸から戻ったという、晩に挨拶に来て、20疋を贈られた。
(朝廷から指示を受けて毛利と大友・尼子の講和斡旋に動いていたものか)
永禄12年(1569年)1月19日付の、吉川元春宛の松永久秀の書状
…毛利元就と大友宗麟の講和を斡旋する内容の物であるが、この書状には、詳しいことは日乗が述べます、と書いてある。
やはり出身地である中国方面に主に出向いていることがわかりますね。
日乗はその類まれなる弁舌だけで台頭したわけではありません。
その金策能力も大きな理由の1つでした。
『厳助往年記』弘治2年(1556年)5月
…「禁中小御所において仁王経百部読誦が厳重荘厳に行われた。日乗上人という買子(まいす)が費用を用立てたのだという。不思議な事である」
永禄6年(1563年)2月
…「禁中小御所において仁王会が行われた。武家(将軍の義輝)が費用を負担したというが、実際は日乗上人が用立てたのだという。日乗上人の計らいにより、安芸の金山庄の禁裏御料所より毛利が進上したものだという」
『御湯殿上日記』…「日乗上人が仁王会の費用として、500疋を進上したという」
朝廷の行事の費用を日乗が工面していたことがわかりますが、そのお金の出どころの1つが毛利氏だったということもわかります。
日乗は毛利氏との関係を生かして、毛利氏からお金を引き出すことに成功していたのでしょう。
毛利元就が永禄3年(1560年)に従四位下、永禄5年(1562年)に従四位上に昇進しているのはこれと関係あるのかもしれません。
以上のように、日乗が朝廷から重用されたのは、その弁舌能力と金策能力によるものでした。朝廷にしてみると窮乏を救ってくれるありがたい存在であったわけです。
こうして活躍していた日乗ですが、受難の時が訪れます。
フロイスは、日乗が松永久秀の窮状を救おうと動いたのを三好氏に見とがめられ、牢屋に入れられた、と書いていますが、これは事実だったのでしょうか。
『言継卿記』永禄11年(1568年)4月15日条には、
「朝山日乗上人去年以来摂州に籠者也、不慮之至也、依勅定遁之、今日上洛云々」(朝山日乗上人は去年から摂津で牢屋に入れられていた。全く思いがけない事であった。勅定[天皇の命令]があって牢屋から出て、今日上洛したという)
…とあり、また、
『御湯殿上日記』4月16日条には、
「日せう上人ろうよりめしいたされて、かたしけなきとて、十てう、とんすしん上申、御れいにまいる」(日乗上人は牢屋から出ることができたが、その御礼として、朝廷に緞子10畳を進上した)
…と書かれており、フロイスの記述が事実であったことがわかります。
フロイスは『日本史』では信長の上洛によって牢屋から出ることができた、とし、書簡では日乗が朝廷に働きかけた結果赦免された、としていて、言っていることが違っているのですが、『言継卿記』などによれば、後者が正しかったことがわかります。
この頃足利義昭はまだ朝倉氏のもとにおり、信長は上洛する段階にはありませんでした。
そして、信長が上洛した後、フロイスが記述するように信長にうまく取り入り、信長のもとで活躍の幅を広げていくことになるのですが、この日乗はフロイスの書簡では「悪魔の手先で、デウスの教えの大敵」と書かれ、ひどく忌み嫌われています。
その理由は、日乗がキリスト教に対して厳しい姿勢を見せていたことが挙げられます。
0 件のコメント:
コメントを投稿