※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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「四分通拝借金」の実施後、札差たちが支障なく用を務めるようになった、とあります。これで一件落着したのでしょうか。しかし、『札差事略』を見ると、そう簡単にはいかなかったようです。
8月16日
…去年の秋に「御改正」があった後、格別の「御仁恵」をもって「御下ヶ金」を下付し、その上、この度、(出資金の貸し出しの利息を)6%とし、(武家に貸し出した金額の4割まで貸し出す)「四分通御下ヶ金」なども下付した。これにより、札旦那の用を支障なく、少しも「渋滞」無くつとめなければならぬところ、札差どもの中には、春の申し渡しの内容を忘れ、心得違いをしている者がおり、武家への貸出が「渋滞」している例がある、と聞いた。厳しく取り調べるところ、貸し出しがこれ以上遅れてもいけないので、この度「四分通御下ヶ金」を願いの通り下付する事としたのだから、今後は滞りなく三季の用をつとめるようにせよ。もしこれ以上「渋滞」することがあったと聞いたときは、その方どもの貸出金の帳面を取り上げ、詳しく取り調べた上、「渋滞」が確かにあったことが判明次第、「御下ヶ金」は残らず取り上げ、厳しく処分するので、今後は心得違いを致さず、組合の中で互いに確認し合い、もし心得違いの者がいたらば、組合の者が早々に訴え出るようにせよ。万一なおざりにし、その組合とは別の者から報告があった場合、または札旦那から申し出があった場合は、当の札差だけでなく、組合全員、「御下ヶ金」を取り上げ、厳しく処罰するので、常に「渋滞」がないか気を配るようにせよ。…
札差の中にはなおも貸し渋りをする者がいた、というのですね。
放漫な経営をしていた札差などは棄捐令によって大打撃を受けており、「四分通御下ヶ金」を借り受けたとしても、なかなか武士の要求通りに金を貸し出すのが難しい状況にあったようです。
『江戸三百年②江戸ッ子の生態』には次の記述があります。
「札差業はかつてなく萎縮してしまった。だが廃業者が続出するという程ではなかった。何人かの者があきらめて転業したが、株の売買比率からすれば、田沼期とあまり変わらない。ただ寛政3年(1791)に廃業した、堺屋金兵衛の場合は、棄捐令の被害をもろにかぶった犠牲者であろう。彼は森田町三番組に属する享保以来の札差で、一万二百両の債権を棄捐している。中堅の営業株であったといえよう。廃業してからの経緯は、次の口上書に詳しい。すなわち、…段々身上不如意に相成り、家業取続き難く終に相仕廻、夫より種々手段を尽し渡世仕来り候所、近来病身ニ相成り作業意に任せず、これに依って発心剃髪致し、此の節漂泊流浪の体に相成り、難渋至極、申す可き様もこれ無き仕合せにこれ在り候間⋯⋯止む事を得ず、各々方え御合力頼み上げ奉り度く存じ候、旧来の同家業の好ミを思い出され、何分格別の御沙汰、偏に頼み奉り候、 文化六巳年十一月 堺屋金兵衛こと、当時旅宿仕り候 秀山…棄捐令後、廃業に追込まれ、病身となったこともあって仕事が手につかず、ついに勧進僧となって諸国を乞食して歩くまでに零落したことがわかる。札差業を閉じてから十八年目、両国吉川町に宿をとった金兵衛は、さして遠くない蔵前の、昔の仲間に金の無心を頼んだのである。旧来の同業者同志の誼みを想い出して欲しいと願う痛々しい言葉から、かつて大通人を生み出した同じ札差の姿を連想する事はむずかしい」
棄捐令後に経営が悪化し、廃業した札差が出ていたことがわかります。
廃業したのは堺屋金兵衛だけではなく、他にも次の札差たちが廃業しています。
寛政3年(1791年)…田村屋長左衛門・堺屋金兵衛・小玉屋庄八
寛政5年(1793年)…江原屋佐兵衛
寛政8年(1796年)…※「笠倉屋平十郎札差株譲渡退去」※伊勢屋宗四郎・坂倉屋八九郎
寛政9年(1797年)…相模屋久兵衛・木村屋藤右衛門・伊勢屋喜八
寛政12年(1800年)…※下野屋十兵衛・米屋政八
享和3年(1801年)…※大内屋市兵衛・町屋伊左衛門
文化元年(1804年)…大口屋平十郎
文化2年(1805年)…坂倉屋権八
文化6年(1809年)…伊勢屋善三郎・伊勢屋市三郎
文化7年(1810年)…溜屋庄助 札差業が思わしくなく、会所御下げ金の返納も滞る有様だったため、札差株を会所に返納しようとしたが許可が下りなかったので、札差仲間に譲渡することとし、坂倉屋嘉兵衛がこれを譲り受け、拝借金の返済にもあたることとなった。
文化12年(1815年)…伊勢屋源十郎
文化15年(1818年)…泉屋九兵衛
このうち、※マークがついている者は十八大通として名前が挙がっていた面々ですが、「平十郎小判」「平十郎屋敷」の笠倉屋平十郎・キス遊びの伊勢屋宗四郎も過度の散財がたたって廃業するに至ったことがわかります。
廃業者を先に述べたA~Eランクに分けてみると、Aランク(棄捐高2万両~)1人(Aランクのうち5%)、Bランク(1万両~)7人(23%)、Cランク(5千両~)2人(14%)、Dランク(1000両~)7人(37%)、Eランク(1000両未満)4人(29%)、となります。
多くの財産を持っていたAランクの札差はほぼ盤石であったようですが、それ以下の札差は軒並み苦しんだようです。
しかし苦しいからといって、札差が武士に貸し出しを渋るのであれば、武士は立ち行かなくなります。
この危機に武士はどのように対処したのでしょうか。
北島正元氏『幕藩制の苦悶』には、「かれらのなかには苦しまぎれに、弁舌にすぐれ、腕っ節のたつ浪人や町人を使って札差に金融の再開を強談させるものが現われた。この借金業者を蔵宿師とよんだ」とあります。
この「蔵宿師」について、『世事見聞録』には「近来、貸借利潤の稼ぎにて、武家を犯し掠むるを業としたる浪人あまたありて、所々へすみ込み、また家来ともあらず、出入りなど唱へて大禄の身上を請け負ひて、利潤を付くるなり。武家は一時の弁用へ引き込まれ、つひにこれらに手を食はれ、瀬もなき淵に沈む族多くあることなり」と記されています。
『業要集』には、「蔵宿師」というのは、最初は「御直取世話人」と名乗り、金貸口入(仲介・斡旋)浪人、あるいは、御家人の番代(欠員が生じたときに臨時に役職を務める者)を売却し、浪人となっていた者、または、御武家方の御用人などを勤めていたが、職を失った者がこれを務め、享保から宝暦の頃までは御直取の世話をもっぱら家業のように行って、生計を立てていた、とあります。
「直取」(じきとり)とは何でしょうか?
直取とは、武士が切米の受け取りを札差に代行させるのではなく、自分で直接受け取りに行き、また、自身で米屋に赴いて米の換金を行なうことです。「御直取世話人」というのは、これを代行する業務でした。つまり札差と同じことをやるわけです。
札差ではなく「御直取世話人」に代行を任せると、武士になにか旨味はあるのでしょうか?
北原進氏『江戸の札差』には、「俸禄米の支給手形を、なんとか札差に渡さずに、自ら受領手続きを済ませてしまえば、抵当の米を札差に押えられないし、借金の元利を、米の代金から差引かれないではないか」とあります。
札差は代行して米・金を受け取った際に、それを米屋に売却して得た金から、手数料だけでなく借金分も差し引いて武士に渡していました。
武士としては、「御直取世話人」に任せれば、借金分の引き落としが無くなり、より多くの金が手元に入ると考えたわけです。つまり武士には借金の踏み倒しが直取の目的にあったという事になります。
直取をされると札差としては商売の元手となる米が手に入らなくなってしまいますし、借金の引き落としもできなくなってしまう事にもなりますから、大変に困るわけで、何とかこれを阻止したいと考えて、武士と激しい攻防を繰り広げていくことになります。
「直取」について史料上に見られるようになるのは享保9年(1724年)のことで、
『札差事略』には、御蔵番の川井小助という者が、武士の直取の世話をしていたという事で免職になった、とあります。
享保14年(1729年)には、天野源次郎という武士が直取を行なっていた、とあります。
宝暦4年(1754年)には、札差たちが武士が「直取」をしないように、「直取」をする者が減るように幕府に嘆願しています。この際に、直取の例として山崎縫殿助(ぬいどののすけ)を挙げています。訴状によると、縫殿助は、上総屋忠兵衛に438両借りていたが、今年の冬に残る借金は毎年50俵ずつの返済にしたい、と持ち掛け、上総屋がそれは難しい、とこれを断ったところ、それならば切米手形を渡さない、というのでしぶしぶその通りにしたが、切米手形を渡すことなく、親類の家来である石渡音右衛門に直取をさせてしまった、そこで上総屋が話が違う、言われた通りにしたのだから、米金渡切手(引換券)をお渡しいただきたい、と言ったが、縫殿助は切手を上総屋に渡さず、別の札差に渡してしまった、とあります。
札差の嘆願を受けて、幕府は直取をする者の氏名を報告させています。
10月に幕府は直取をする者が減ったかどうかを札差に尋ねた際、札差は「5人解決しましたが、9月に報告した人数に加え、「御切米御手形」をお渡しにならない方が新たに109人追加でおられることがわかりました」、と報告しています。
じゃあ合計でどれくらいいたのかというと、11月の札差報告には「御直差」をされる方が170人様ほどいた、とあります。そしてこの報告書にはこのうち150人様ほどについて解決し、残りは20人様ほどです、と記されており、氏名報告の効果が大きかったことがうかがえます。
しかし、その後また直取をする武士が多く現れたようで、明和3年(1766年)11月29日には札差たちにより再度直取禁止の嘆願が行われています。
その訴状には、「近年、御切米の時期に差し掛かると、不相応の借金を要求されたり、借金の返済を非常に長い年賦に変更するように要求されたりして、これを受け入れないのならば、御切米御手形を渡さない、とおっしゃられるので、私どもの家業は苦境に陥っております。また、最近、御直取の方が時々見受けられるようになっていましたが、特に今年の冬には御直取の御方がおびただしく増え(『札差事略 六』には、一季に100人余り増えた、とある)、この具合では、来年の春にはさらに人数が増え、難儀の極みに至ることでしょう」とあります。
これを受けて、翌明和4年に幕府は札差たちを呼び出し次のように話をしています。
…7月9日、依田豊前守様から呼び出しがあったので、翌日に出頭したところ、1人ずつ呼び出されて次のように話を受けた。「武家方の浪人の者が、切米直取・借金の世話の件で、無理な金銭の要求が行っていると聞く。包み隠さずその内容について報告せよ」…
その後どのような処分が行われたかはわからないのですが、その後も直取をめぐるトラブルは続いています(安永7年[1778年]2件・寛政9年[1797年]・享和2年[1802年]・文化元年[1804年]5件・文化12年[1815年])。それでもまぁ、「直取」に対する締め付けが厳しくなり、やりにくくなったのは確かなことであるので、「御直取世話人」たちは別の稼ぎ方を探す必要がありました。
『業要集』には、借金・御宿替え(担当する札差の変更)の仲介に当たり、札差方にやって来て無理難題を吹っ掛け、金を無理に借り受けて、礼金などをもらい受けることで生計を立てるようになった、これを「蔵宿師」と呼ぶようになったが、いずれも浪人風の者たちであり、手荒なことはしてこなかったが、寛政元年の御改正による棄捐により、札差が困窮し、金を貸し出すことが容易ではなくなると、浪人風の者たちでは埒が明かないと考えたのか、寛政の中頃には武家の御隠居・御二男などで、借金・御宿替え(担当する札差の変更)の仲介に当たるものが多く現れ、「御手荒長談」(動作が乱暴なこと・長々と話をすること)をするようになったので、札差は皆迷惑するようになった、とあります。
「御宿替え」というのが出てきましたが、担当する札差を変えることで、武士に何のメリットがあったのでしょうか。
竹越与三郎『日本経済史』には、「彼等は已に、多額の借金を有し、新に借金を申込むも成立せざるを慮り、突然蔵宿を変改して、他の蔵宿と約束するものあり。之を「転宿」といふ。多額の貸金を有する蔵宿は、之に由りて旧借金を取立る能はずして、困迫すること甚し。故に蔵宿側にても、新規引請は慎重に取扱ひ、新に申込を受けたる蔵宿は、充分依頼者の負債状態を調査したる後、諾否を決し、一旦引請たる以上は、新蔵宿にて其負債を旧蔵宿に支払ふべき義務を負担するを常とせり」とあり、借金をしやすくする目的があったようです。
しかし、札差としては、変えられたら客が減って困りますし、別の札差も引き受けるとしても借金の立て替えをしなければならないので気が進むことではありませんでしたから、蔵宿師はどうにかして、旧札差と新札差にうまいこと転宿を了承させる必要がありました。
さて、棄捐令以後に札差に対する交渉が暴力的なものになった、というのですが、実際は棄捐令以前にも暴力的な事案は発生しており、「蔵宿師」という表現は出てこないのですが、『札差事略』には、明和7年(1770年)9月19日夜に、上総屋庄助方に札旦那大河原源八郎の借金の事について、窪田文左衛門・山田一学の2人がやって来て、非常な難題を吹っ掛け、その上、悪口を言い、刀を抜いてきたので、町奉行所に訴え出た、という事件が載っています。
また、『江戸三百年②江戸ッ子の生態』には、出典は不明なのですが、次の事例が紹介されています。
「明和七年(1770)、ある御家人の家に借金返済の督促にいった札差の手代が、失礼な言辞を吐いたため刀で斬りつけられるという事件が起こった。手代が血を流して帰ったので大騒ぎとなり、町奉行所でも捨てておけず両者を吟味した。その結果は、武士がいったん斬りつけながら、とどめも刺さずに逃げ帰すとは御家人とはあるまじき行為であるとして、扶持を召しあげられ牢人にさせられてしまった。一方の手代に対して慮外千万ということで罰金を仰せ付けられた」
これは武士が札差のもとに出向いているわけではないので毛色が違いますが、借金をめぐり物騒な事件が起きていたことがうかがえます。
安永7年(1778年)11月20日には、和泉屋才兵衛が次のような届け出をしています。
…担当する札旦那の石川徳次郎様が御直取をなされたので、私方に(米を売買して得た)金子をお渡しください、と伝えたところ、私方にお出でなされ、相談も済み、証文を作る段になって、直取の御世話をなされていた徳次郎様の御舎兄・石川四郎左衛門が二階で刀を抜き振り回し、「直取の金子は持っていく、歯向かうならば相手になるぞ」と大声で仰られ、金子を私どもにお渡しになられずに帰られてしまった。…
安永8年(1779年)6月2日には次の事件の判決が下されたと『業要集』にあります。
…若山衆浪人 黒沢半右衛門。その方は一旦は御先手組の同心を勤めたが、病気のため暇を請い、浪人となって自宅にいた。御蔵前札差どもの店に行き、武家の借金の交渉や担当する札差の変更の世話などをし、その代わりに武家から祝儀として目録(金の包みの事)などを受け取り、それで生計を立てていたというのは、浪人の身分でありながら、不届きである。家財没収の上、所払(追放)とする。…
天明5年(1785年)4月6日に次の事件があったと『業要集』にあります。
…小間遣衆(雑用に使われた下役)の長谷川庄八郎。伊勢屋四郎兵衛方にやって来て、同じ小間遣衆の岡田浅五郎の宿替の交渉に行った際に、支配人の勘右衛門に手傷を負わせて逃げ去った。16日に勘右衛門はこの傷がもとで死亡した。7月11日、次のように判決が下された。長谷川庄八郎→追放(判決理由に「武士なのに打ち留めず宿に帰ったのは不埒につき」とある。「打留」は「斬り殺す」「中止する」などの意味があるが、ここでは、一発で仕留めそこない、苦しめたことを指すか)、岡田浅五郎→重押込、四郎兵衛支配人・源右衛門→押込50日・支配人の役職を解く、手代・善右衛門と万蔵→急度御叱り…
ついに死者まで出てしまいました💦
天明9年(1789年。途中改元により寛政元年)1月12日には次の事件が起こっています。
…同心の中野五郎左衛門。札差の菱屋政次郎方にやって来て、借金をしに来たが、その際に手代の宇兵衛に手傷を負わせた。その後、取り調べの上、追放と処分が決まった。…
札差の史料がまとめられている『札差事略』で、蔵宿師の初出は寛政7年(1795年)5月になるのですが、その初出史料というのが、札差が蔵宿師を訴えた、というものなのですね。その訴状の内容を見てみましょう。
…先年より、蔵宿師と名乗る浪人風の者が、御武家様方の御勝手向(家計)を御世話(面倒を見る・仲介をする)していると言ったり、自分は御武家様の親類であるとか、御家来であると言ったりして、蔵宿へ入り込み、その御武家様にとって不相応の金額の借金を申し入れ、難しいので断ると伝えたところ、彼らは長時間にわたって話をはじめると、次第に話す声が大きくなり、そのうえ、「手荒成振舞」(乱暴)などをするので、とても恐ろしくなり、仕方なく、不相応の金額をお貸しすることになりました。このように貸した金について、世話人(蔵宿師)たちは、借りるのに骨を折った(苦労をした)と言って、過分の礼金を要求するので、御屋敷様(武士)の手元に入る金は少なくなっています。御武家様は利子付の金子を借りることになるのに格別の礼金を彼らに差し出しているため、非常に御武家様にとって不利益なことになっています。だいたい、世話人(蔵宿師)どもは御武家様のためになる、ならないに関係なく、借金さえできれば、その額に応じて、謝礼金を要求できるので、善悪を無視して、いろいろと迷惑な話し合いをして来るので、札差一同迷惑しております。以上のような世話人(蔵宿師)を務めるのは、浪人だけに限らず、「御歴々様」(身分や家柄の高い者)方も加わっており、札差仲間のもとにやって来られて、これまた対応に困る内容を要求なされ、思い通りに事が進まない場合は、手荒なことをなされるので、その度に非常に迷惑しております。このことについて訴えたいと思っていたのですが、そうなると、御札旦那様(旗本・御家人)方の御名前、「御歴々様」の姓名も申上げることになるので、恐れ入り、なるべく穏便に済まそうとしておりました。しかし、このまま放置しておいては、次第に世話人は増長し、私ども札差仲間一同の家業にもさし障ることになり、そうなると、御武家様方の不利益となってしまうので、やむを得ず、訴訟に及んだ次第であります。もっとも、これまで受けた被害について訴訟申上げるわけではなく、今後、世話人が増長しては、非常に苦労することになると思われるので、なにとぞ、(幕府の)御威光をもって、今後、世話人と申す者が札差仲間の所にやって来ないよう、「御慈悲之御沙汰」を賜りたく、仲間一同、願い奉る次第であります。…
文章の中に、浪人が武家の親類であると言って…とあるのは、安永7年(1778年)に札差が定め、幕府に提出した六か条の規約(『日本財政経済史料 巻1 財政之部』所収)の中に、「御屋敷様方より、米金その他の事についての御対談のことについて、御当人様がいらっしゃるのが難しい場合は、御親類様・御家来衆様を代理とされるならば、御対談いたします。しかし、その他の御方様、浪人や町人を代理とされる場合は、御対談いたすことはできません」と書かれていたためでしょう。
さて、訴状を受けて、幕府は同心たちを札差宅へ毎日見廻らせることにしたので、世話人はだんだんと見かけないようになっていったのですが、8月6日、幕府は武士・浪人・町人に至るまで、世話人の者を一斉に逮捕し、厳しく取り調べ、翌年7月22日に判決を下しました。
その判決の内容を見てみましょう。
・佐野十左衛門(小普請組)51歳
菅沼友之丞に頼まれ、利倉屋勘兵衛方に向かい、金を借りたいと言って断わられると、勘兵衛に菅沼友之丞宅に来るように伝え、勘兵衛がその通りに友之丞宅に来たのに、佐野十左衛門は憤って、勘兵衛を鞘がついたままの刀で打擲し、そのうえ、十左衛門の屋敷へ呼び寄せると、あれやこれやと難題を吹っかけた。また、河野助次郎に頼まれ、蔵宿政次郎方で借金の話を持ち掛けたが、その後、助次郎から世話の依頼取消の申出があったのを、これは(札差の)政次郎の手代庄兵衛が手を廻して断らせたのではないかと疑い、庄兵衛の胸を壁に押しつけ、手荒に取扱った。また、長坂又右衛門に頼まれ、蔵宿次郎右衛門方に向かい、又右衛門・萩原久五郎らとともに、借金を持ちかけたところ、手代の新兵衛が平伏しなかったといって、胸ぐらを掴み、荒々しく叱るなど、手荒く取扱い、金を差し出させた。その上、小尾宇右衛門が川井七之助に頼まれ、年賦金の支払いを遅らせると共に、金を借受けた際に、一緒になって世話をした。宇右衛門は、川井七之助が借用した金額のうちから強引に半分を借受けたが、十左衛門はこの中から金を借受けた。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。
判決→重追放(家・財産を没収の上、江戸・京都・東海道周辺への立ち入りを禁止する事)
※菅沼友之丞[小普請組]38歳は差控[自宅謹慎]・長坂又右衛門[小普請組]38歳は逼塞
・小尾宇右衛門(大番組)49歳
赤井伝蔵に頼まれ、上遠野権太郎を担当する蔵宿の店へ行き、縁故のある者であると伝え、借金のことについて、あれやこれやと、難題を吹っかけた。岩瀬政之進に頼まれ、蔵宿宅へ行き借金について掛け合った際に、脅して金を差し出させた。そしてその金の一部を借用した(小野武雄氏『札差と両替』には、「ここでいう借用とは、俗にいう「お借し下され」[※『日本国語大辞典』…【貸被下】「貸した物が返却されないで、そのままになっていること。または、借りても、そのまま返さずにもらっておくこと」]の意で、返す意志など毛頭なく、口先だけで、借りるぞといったものである。体裁のいい強奪であった」とある)。また、川井七之助に頼まれ、蔵宿への年賦金の支払いを延期させると共に、金子を借受けたが、その半分を強引に借り受けた。その金を、佐野十郎左衛門等に貸し、残る金子は雑用などに使った。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。
※岩瀬政之進[小普請組]24歳は逼塞
判決→重追放
・中村吉次郎(小普請組)53歳
中村源七郎に頼まれ、親類でもないのに、親類であるかのようにふるまい、蔵宿八兵衛方で借金の仲介をした際に、八兵衛が年が若く、どう答えればよいか困っていると、大きな声を出して掛合って、金を差し出させた。その後、また八兵衛方に借金の仲介に行ったところ、普通に頼んでも貸してはくれないだろうと思い、源七郎が買い取った家の代金の支払いが終わっていないという設定にし、催促されている様子を見せれば、貸すのに納得するだろうと考え、住所不詳の太兵衛という者を家の売主として扱って催促をさせた。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。
判決→重追放
※中村源七郎[小普請組]34歳は逼塞
・池田巳之助(小普請組)43歳
蔵宿へ行き、年賦金の返納を延期して欲しいと頼みに行き、受け入れられたが、手落ちがあったので、再び頼みに行ったが、これは断わられたので、手厳しく談判する必要があると思い、親戚でもない萩原久五郎を親類ということにし、弟の捨五郎も同道させて蔵宿に向かい、われわれは覚悟して参ったのだから、承知せねば凶事が起こるぞと、手代の善蔵を脅迫した。また、久五郎は「お帰り下さい」と善蔵が言うのに対し、声を荒らげてこれを咎めた。そのほか、懇意の者から頼まれて、借金の仲介などをしていた。
判決→軽追放
・赤井伝蔵(小普請組)39歳
甥の上遠野権太郎が金が必要となったので、蔵宿酉之助のもとに行き、話をしたが折り合わなかった。小尾宇右衛門という者がさまざまな札差たちのもとに行って交渉をしているという話を聞きつけ、借金の仲介を頼み、縁戚関係にあるということにし、宇右衛門が掛けあったところ、酉之助が、宇右衛門の交渉が厄介で迷惑だ、と伝えてきたので、伝蔵が酉之助の店に向かい、金を借り受けようとしたところ、宇右衛門が立腹しており、宇右衛門は酉之助の手代どもの礼儀がなっていない、もう一度酉之助の店を訪ねてこれを問いただしたい、と言うので、気の済むようにしてください、その際に金を借りてくれるように、と頼んだ。しかし酉之介方には、宇右衛門に金を借りてくれるように頼んだが、金はお貸しする事は出来かねます、とこいねがうだけにしてほしい、と伝えに行った。
判決→差控
・竹本退休(小普請組)58歳
知人の松永太郎右衛門に頼まれ、蔵宿幾次郎方に赴き、借金のことについて掛け合ったところ、玉落の際に金を用意すると返答があったので、その際に間違いなく金を用意すると書いたうえで捺印するように要求したところ、断られたので、声を荒らげて要求して書類を差し出させた。また、池田巳之助・捨五郎・萩原久五郎らが、蔵宿久四郎方で、声を荒らげて掛合った際に、退休も加わるように頼まれていたのでこれに参加し、久四郎から金を差し出させた。また、小尾宇右衛門が、川井七之助に頼まれて、年賦金の支払いの延納と共に、借金の仲介をした際に、退休と佐野十郎左衛門もこれに加わって、金を用意させた際に、宇右衛門は川井七之助に直接話をして、借受金の半分を借用したが、この際に退休は宇右衛門から二両二分を借用した。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼金を貰い受けていた。このような行為は、御扶持を受けている者の隠居の身分にある者としてあるまじき振舞である。
判決→軽追放
・萩原久五郎(小普請組)24歳
池田巳之助に頼まれ、蔵宿久郎方に巳之助の親類と偽って巳之助と共に赴き、巳之助が手代の善蔵を脅迫するのを止めもせず、帰るように言われた際には善蔵に声を荒らげて争った。また、佐野十左衛門が長坂又右衛門に頼まれて蔵宿次郎右衛門のもとに赴き、十左衛門が手代の新兵衛の胸をつかんで手荒に扱った際に、参加する事になっていた久五郎が立ち寄り、「頭を下げろ」と言いながら新兵衛の襟先に手をかけ床に押し付けた。この他にも頼まれて札差から金を引き出させていた。このような行為は、御扶持を受けている者の息子としてあるまじき振舞である。
判決→軽追放
一方で、被害を受けた側の者たちにも処罰が下っています。喧嘩両成敗というやつでしょうか。
・源助(札差小島屋酉之助手代)
小尾宇右衛門が酉之助に会いたいとやって来た時に、2度にわたって留守であったが、本来ならば翌日は在宅するように取り計らうべきであったのにそれをしなかった。宇右衛門が書類を出すように言ったときもそれを断り、その上、宇右衛門が話をする際に多葉粉(たばこ)を吸っていたのは、不敬にして不埒につき、手鎖を申し付ける。
・善蔵(札差伊勢屋久四郎手代)
その方は池田巳之助がやって来た時に、その内容が受け入れ難いものであり、時間がかかると思われたので萩原久五郎に先に帰るように伝えたが、実際は久五郎は同席であったのに挨拶もせず、勘違いのために言い争いに及ぶ結果となったのは、不束につき手鎖を申し付ける。
その後、約2週間後の8月21日に札差行事大口屋八兵衛など6名が次のように申し出ています。
…先年より、「蔵宿師」と名乗る、浪人風の者が、御武家様方の御勝手向きの御世話をしていると申し、私どもの店に立ち入り、さまざまな難題を吹っ掛けてくるので迷惑し、その上、御屋敷様方の不利益につながることでもあり、今後、世話人風の者がやって来ないように、去年の5月に行事どもからお願い申し上げましたところ、その後、世話人風の者たちがやって来なくなり、全く見かけることも無くなりました。これもひとえに御威光・御仁慈のおかげであると、一同その恩恵について、極めて有難き幸せであると思っております。…
札差たちが蔵宿師が一掃されたことを喜んでいる様子が伝わってきますが、
実はその2年後の寛政10年(1798年)にも、次のような事案が発生、翌年10月18日に判決が出されています。
・宇野幸四郎
その方は貧窮のため、札差酉之助に対し分不相応の借金があった上に、さらに1年以上の扶持米を担保に金を借り受けていた。それでもまだ金を借りようと、手代の者たちに掛け合ったが埒が明かないので、酉之助に直談判しようと思い、手代に酉之助が店にいるようにしておけと言い残し、その後、夜分に再びやって来たところ、「もう戸締りをしてしまいましたから、案内したいのはやまやまなのですが、明日また来ていただけませんか」と戸越しに応対されたのに憤り、小刀を使って戸をくり抜き、そこから中に鞘のままの刀を差し入れたところ、内部で鞘を叩かれたために鞘が損傷し、抜身の刀になったのに気が付かず、戸を破り中に入り、酒に酔って騒ぎ立て、奉公人の長次郎をわずかばかり傷つけた。町役人がやって来てなだめたので帰ったが、その後酉之助方も人を寄こしてこないのを心外に思い、番人(町の自警組織。持ち回りで番所に詰めて警戒に当たった)を連れて、酉之助方に再びやって来て、無理難題を吹っ掛けた上、刀を抜いて酉之助を出せと呼ばわったので、店の者が町奉行所に駆けこんでこれを訴えた。以上の顛末、御家人の身分であるまじき行い、それに加え酉之助方に手荒な真似をしたのにこれを認めようとしなかったのは不届きであるので、重追放を申し付ける。
・酉之助召仕(奉公人) 弥兵衛
宇野幸四郎は、去年の10月10日夜、酉之助が留守にしているところにやって来て、戸を叩き、名を名乗り、戸を開けるように訴えた。その方はこれに応対し、「夜も更けていますし、御切米の時期であり、店の者も疲れておりますから、明日また来ていただけませんか」と戸越しに答えた。これに対し、幸四郎が「戸を開けないのならば、破って入るまで」と言い、小刀を使って戸をくり抜き、そこから鞘のまま刀を差し込んだのを、抜いた刀が差し込まれたと勘違いをし、ケガをしたくないと、この鞘を払いのけて傷つけた。以上の事、不届きであるので、手鎖を申し付ける。
小島屋酉之助は以前にも蔵宿師の被害に遭っていましたが、『札差事略』によれば酉之助は行事を務めており、棄捐高は上から46番目と、貸している金額はあまり多くないものの、なかなかの立場の札差であったようです。
この後も札差と武士の間の金をめぐるトラブルは続くことになるのですが、1つ紹介して残りは割愛して、ここで筆をとどめることにしようと思います。
天保4年(1833年)に、借金の申し出を断った店の者を武士が脇差で殺害するという事件があったのですが、このことについて、『天保雑記』は、「御蔵前開け、百何十年のむかしより、切つたはつたは儘あれ共、此の度のごとく花々しき即死なんどは初て也と云」と驚きをもって書き記しています。これまでに紹介した事件の中にも死者は出ていましたが、あれは数日後の死亡でしたね。
しかしこの事件を見ても、際立つのは蔵宿師の暴力性ですね😓
田村栄太郎『歴史の真実を衝く』(1935年)には、「無理に札差から借りねばならぬ必要に應じて、蔵宿師といふ旗本ギヤングが発生した。旗本の不良隠居や不良青年がグループをつくつて、札差に借りのある旗本の代理として強談し、応じなければ暴行を加へて、無理に用金を命ずるとか、借金するとかする。そこで札差の方でも、応対方といふ暴力団を雇つて対抗する」…ギャングだの暴力団だの、表現がユニークですね😂しかし、的確な表現だと言えるのではないでしょうか。

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