社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 2月 2025

2025年2月25日火曜日

すべては「一炊の夢」~恋川春町『金々先生栄花夢』

 大河ドラマ「べらぼう」第8回「逆襲の『金々先生』」にて、

日本史の教科書にも登場する『金々先生栄花夢』が登場しましたね!

しかし内容は?と聞かれると、答えられないのではないのでしょうか(自分もこのマンガを描くために調べるまでは知りませんでした💦)

「べらぼう」に登場する、普段本を読まない次郎兵衛でも「これがおもしれえのなんのって」と読んだその本の内容とは!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



恋川春町はペンネームで、本名は倉橋寿平(諱は格[いたる])です。

1744年、紀伊国田辺藩の家臣の子として生まれ、1763年、駿河小島藩士である伯父の倉橋勝正の養子となり、小島藩に仕えるようになります。

武士出身だったんですねぇ。というか、紀伊国出身でなんで伯父が駿河国の武士なのかが気になります💦

駿河藩士なのになんで江戸で本を書いているのかと思ったら、江戸詰(江戸の藩邸で働く)の藩士であったからだったようです。

住んでいる場所は小石川春日町だったので、ここから「恋川春町」というペンネームにしたようです。

はじめ浮世絵師を志していましたが、1773年に洒落本『当世通俗通』で文・挿絵ともに書いてデビューします。

『金々先生栄花夢』は1775年の作です。

大本になったのは唐の時代に書かれた『枕中記』です。

…盧生という若者が立身出世を目指して邯鄲に向かっていた。その途中の宿屋に泊まる。宿屋の主人は、黄梁(きび)を蒸していた。同じく宿に来ていた呂翁に対し、盧生は自らの不遇を嘆き、「男子たるもの、将軍や宰相となって、一族を栄えさせ、富裕にさせるべきである」と語った。その後、盧生は眠たくなった。呂翁は、枕を貸し、これで寝れば、思い通りの夢が見られますよ、と言った。その枕で、盧生はうたた寝をした。しばらくして体を起こした盧生は、数か月後、名族の娘を妻にする。科挙に受かり、出世し、都の長官になり、異民族との戦いにも功を立て、さらに出世する。一時左遷された時期もあったが復活し、宰相にまで昇った。しかし讒言に遭ってベトナムにまで流されるが、再び復活する。燕国公に封じられ、子どもたちも皆高官となり、全てを達して老衰で亡くなった。そこで盧生は目を覚ます。盧生は宿屋にいて、黄梁はまだ蒸しあがっていなかった。盧生は「なんと、夢だったのか」と驚く。呂翁は、「人の幸福とはこのようなものである」と言った。盧生は、呂翁に対し、「すべてを悟りました。このようになさったのは、私の欲望を抑えるためであったのでしょう。この上は、あなたの教えを受けていきたいと思います」と言った。…

これをもとに、日本で『邯鄲』という能の演目が作られました。

…盧生はどう生きるべきかわからず、日々を散漫に過ごしていた。そこで、身の振り方を教えてくれる師匠を求めて旅に出て、途中邯鄲の宿に着く。宿屋の女主人は、粟のご飯を焚いていた。眠くなった盧生は、女主人から仙術使いからもらったという、「生きるべき道を悟ることができる」枕を借りて寝る。しばらくして目を覚ますと、楚の国の皇帝の使者が来ていて、使者から、なんと皇帝が盧生に位を譲る、と言っていることを聞く。皇帝となった盧生は、思うがままの生活を50年間過ごす。即位50年を祝う宴会が開かれ、盧生は献上された寿命が1千歳まで伸びるという仙人の酒を飲む。舞人が舞を始めると、盧生もこれに乗って舞い始める。すると、周囲は四季と、朝昼夜がさまざまに変化する神仙の世界となった。しかし、次第に周りのものが消え失せ、真っ暗になっていく。そこで、盧生は女主人から粟のご飯が炊けたと言われ目を覚ます。盧生は夢だったのかと驚く。50年の栄華も、粟のご飯が炊けるまでの一炊の夢にすぎないのだと知り、何事も一睡の夢のことであるという世の儚さを悟って、「師匠はこの枕であったのだ」と言って、盧生は満足そうに故郷へ帰っていった。…

けっこう内容が違っていますね💦

まぁ、どちらも「世の中は儚いものだ」という悟りを得る、というのは同じですね。

さて、本題の『金々先生栄花夢』の内容について見ていこうと思います。

…田舎に金村屋金兵衛という者がいた。この世の中を楽しみつくそうと思っていたが、貧しいのでそれもままならなかった。そこで、「江戸へ出て、店の番頭になり、「しこたま山」もうけて、ぜいたくを極めたい」と言って、江戸へ出て奉公しようと思い立ち、江戸に向かったが、夕方になり、腹も減って来たので目黒の粟餅屋に入って、粟餅を注文した。餅ができるのを待っている間、座敷でうたた寝をした。そこに、和泉屋清三の家来という者たちがやって来て、「主人は老いたが未だに子どもがいない。そこで、剃髪し、名前も「文ずい」と改めて、跡継ぎを探すことにした。すると、万八幡大菩薩のお告げがあり、それに従ってあなたを跡継ぎとして迎えに来た」と言った。金兵衛は不思議と思ったが、これも「あいた口へ餅」だと思って受け入れることにした。和泉屋について見ると、とても立派な店であった。主人の「文ずい」は、「不思議な縁でござる。これからはあなたを随分と大事にしましょう」と言って喜んで金兵衛を迎えた。金兵衛は家督を継ぐと、だんだん調子に乗り、日夜酒宴ばかりするようになった。髪型は鬢のあたりまで剃り上げて、ネズミのしっぽくらいにしたのを本多髷にした。着物は黒羽二重、帯はビロードか博多織、舶来の「風通もうる」を着て、現代のあらゆるお洒落を尽くした。人々は「金村屋金兵衛」から字を取って「金々先生」と呼んでこれをもてはやした。手代の源四郎は、「店でばかり楽しんでいてもさえません。明日は、北国(吉原の事)へ「いき山」と出かけましょう」と金兵衛をそそのかした。金兵衛は吉原で「かけの」という女郎に入れ込み、何度も吉原に足を運んだ。金々先生のいでたちは、八丈八端(八丈島産の絹織物)の羽織、縞縮緬の小袖、役者染の下着、亀屋頭巾の目だけを出し、忍び歩いた。太鼓持ちの万八は、「旦那の御姿、どうも言えませぬ。すごい、ひゅうひゅう」(原文ママ)とほめそやした。年越しの夜には、源四郎の勧めで豆ではなく、金銀を升に入れて節分の祝儀をした。取り巻きの1人の座頭(盲人で、芸事や按摩、針などを職とした)の五市は「これは「ありがた山のとんびがらす。これで検校(盲人がなれる最高職)になろう」と言った。吉原が飽きると、次は深川の遊里に行き、ここでも散財をしたので、人々は「金々先生」ともてはやした。先生は「おまづ」にはまったが、「おまづ」は実際は源四郎と恋仲になっていた。ある時、唐言(当時はやった言葉遊びで、カキクケコを文字の間に挟んでしゃべった)で次のように源四郎に伝えさせた。「ロウサ」。源四郎は次のように伝えさせた。ニイトイテク」。先生はこれを不審に思い、「おまづ」と大きな喧嘩をして、疎遠になってしまった。先生はその後各所ではめられて、財産が少なくなっていくと、これまでは這い、かがんでいた取り巻きたちも知らぬふりをして寄り付かなくなった。それでも先生は一人で品川の遊里に通っていた。「文ずい」は源四郎の密告から財産の状況を知ると、大いに怒り、金兵衛の衣類をはいで追い出してしまった。源四郎は金兵衛に内緒で金銀をくすねていた。よって、物を盗むことを「源四郎」というのである。源四郎「ああよいざまだ」。先生は追い出され、頼る所もなく、途方に暮れていたところ、粟餅の杵の音が聞こえてきて驚いて起き上がったところ、そこは餅屋の座敷で、粟餅はまだ作っている最中であった。金兵衛はこれに感じ入り、「自分は「文ずい」の子になって30年、栄花を極めたが、これも粟餅を作る間の事でしかなかったのか。人間の一生の楽しみというのも、これと同じ(く儚いもの)なのだろうなあ」と悟り、故郷へ帰ってしまった。…


2025年2月13日木曜日

和田惟政の失脚~人の言うことを信じやすい信長⁉

 幕府の奉公衆出身で、足利義輝暗殺後、逃亡中の覚慶を助けたことから運が開け、義昭の将軍就任後、幕臣として摂津の三守護の1人、京都の政務担当者の1人まで出世した和田惟政。

彼はこれまでにも述べたように、キリシタンの熱心な庇護者としての一面もあり、キリシタンに危機が及ぶたびにこれを救うために活動していました。

義昭の重臣として、キリシタンの庇護者として、信長と関わることも増えていった惟政ですが、思わぬことが起き、惟政は一気に凋落してしまうことになります…💦

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


フロイスは1570年12月1日付の書簡で和田惟政について次のように述べています。

…彼は異教徒の領主でありながら、非常に心優しく、善良であり、常に我々に好意を寄せてくれている。日本において、善良な人々の利益と宗派の保護のために、これほど多くのことをしてくれた者はいない。…

フロイスが惟政に非常に感謝している様子が伝わってきますが、書簡では続けて、その惟政が苦境に立たされることになった、ということを記しています😧

…前述した迫害が静かになった後、われわれが油断しないように、すぐに別のもっと激しく激しい迫害が起こり、われわれを大いに狼狽させることになった。これは、説明するのに言葉が見つからないほどのものであった。悪魔の一員である仏僧(日乗)は、私たちに対する悪意を実行することができなかったので、私たちの庇護者である和田殿に怒りの矛先を向け、巧妙な策略をめぐらせることに決めた。目的を達成するために、自分と同じ考えの者たち(『日本史』には「内裏の義父である万里小路殿」とある。正親町天皇の母は万里小路賢房の娘であった。賢房、その子の秀房もすでに死去していたので、この「万里小路殿」は秀房の子の惟房の事だろうか。しかし惟房は4歳年長なだけで[正親町天皇とは従兄弟の関係]とても「義父」という年齢には当たらないので、フロイスの誤りであろう)を呼び集めたが、その者たちは皆、大いなる権勢を持つ高名な人々であった。彼らは和田殿が治めている二つの国(摂津国・山城国。もしくは、2つの領域と訳すと摂津国島上郡・島下郡になる)の統治について、多くの偽証を行ない、これを真実のように見せかけ、信長を説得して、惟政に対する好意を失わせようとした。和田殿はこのような陰謀が行われていることなどつゆ知らず、信長に会うために美濃国に向かった(『日本史』には、惟政が患っていた病気から回復したばかりであったこと、天下[Tenca]の統治に関する問題を信長と話し合い、キリシタンのことについて再び信長と話すために美濃に向かった、と記されている)が、到着する前に、馬に乗った者たちから、信長が惟政とは会いたくないと言っていること、領内の者に対して惟政を泊めることの無いように命じたことを告げられた。これは信長が生まれつき単純で、説得されやすい性質であったことによるものであった(「isto tudo porque naturalmemte nobunaga he simsero e facill de persuadir. 」)。5~10日後、信長は和田殿の豪華な城(『日本史』では「近江にあった本城」とある。甲賀の和田城のことであろうか)を破壊し、解体するように命じた。これを見た仏僧とその取り巻きは、信長に対し、和田殿に関する、より毒のある中傷をした。そのため、信長は彼から2万クルザード(1万2千貫=2万4千石)以上の土地を取り上げた。こうして和田殿が不利な立場になり、名誉・地位・土地を失うと、仏僧と、私たちに害を及ぼすことを望んでいる者たちは喜びながら次のように言った。「このことは、日本の神仏の怒りを恐れることなく、非難するような有害で忌まわしいものに好意を寄せるという、和田殿の頑迷さと愚かさを神仏が罰したのに他ならぬ」。

主は副王(和田惟政)に容易には崩されることのない、我慢強く、辛抱強い心をお与えになったので、彼は失えば失うほど、魂は安らかなものになっていった。彼に話に来た人々に対して、彼は「司祭殿が信長と公方様の好意により都に住むことができているので、自分の現在の逆境は何でもない。司祭殿は一人で、この土地ではよそ者であるが、自然の道理と善良な判断に適合した公正な教えを広めることを最終的な目的とされている。私は一度、司祭殿に反対する者たちから司祭殿を守り、保護することを引き受けたのだから、いかなる場合でも、内裏・信長・公方様が司祭殿を追い出そうとするならば、たとえインドに行くとしても、自分の財産、妻、子供などすべてを捨てて、司祭殿と共に追放されるだろう」と答えた。仏僧とその取り巻きたちは、和田殿の不屈の精神を見て、「デウス」…彼らは私たちの事をそう呼んでいます…たちから多くの金塊を受け取っているからだろう、と言っていました。

この邪悪な嵐は10~12か月ほど続いたが、これは異教徒にとっては大きな喜びで、キリシタンにとっては大きな悲しみと苦痛であった。 和田殿はキリシタンたちの柱であり、保護者であったからだ。和田殿は髪と髯を剃ったが、これは日本で言えば、具合が悪くなった時や、世俗から離れる時にするものであった。和田殿と共に200人以上の者が剃髪したが、その中には身分の高いものも含まれていた。…

信長が讒言を信じて惟正を処分した、ということが記されているのですが、驚きなのは「信長が生まれつき単純で、説得されやすい性質であった」という部分ですね😦

これについて、『日本史』では「信長は元来人の言うことを信じやすい性質があった」(「que Nobunaga, como naturalmente era facilitado em dar credito ao que lhe diziao」)と表現を少し変えて記述されていますが、確かに、信長は人を疑うことを知らないような様子があります(そのために裏切りによって度々命の危険にさらされることになるのですが…)。しかし、言うことを簡単に信じるというのでは、家臣たちは(いつ讒言によって罰を受けることになるかと心配で)たまったものではなかったでしょうね…😟

処分を受けた惟政は、『日本史』によると「inacas」(田舎)に逼塞して、1年を過ごした、とあります。書簡や『日本史』によると、惟政は高槻城にいた、とありますが、『日葡辞書』には「一般には五畿内以外の地を田舎という」とあるので、畿内外の場所(おそらく近江国甲賀郡か)に引き籠もった後、翌年1月に出された五箇条の条書で義昭と信長が和解した後、高槻城に戻ったのかもしれません。

惟政の失脚については、『言継卿記』永禄13年3月24日条でも確認ができます。

…朝食後、織田弾正忠を訪ねた。申次は村井民部少輔であった。今日あいさつにやって来ていたのは他に6・7人おり、武田下野守(若狭武田氏一族の山県秀政か)・和田紀伊入道などであった。和田は去年の秋より勘気をこうむっていた(怒りにふれて咎めを受ける事)が、武家(足利義昭)のとりなしにより復帰できたのだという。…

文中に「入道」とあるので、フロイスの「惟政が剃髪していた」、という記述も裏付けることができますね。

去年の「秋」というのが気になる所ですが(旧暦の秋は7~9月のため)、惟政が織田家臣と共に出している永禄12年(1569年)年10月20日付の書状があるので、失脚はこれ以降と見るのが正しいようです。

それにしても驚きなのは、信長が自分の家臣ではなく、「幕臣」である惟政を処分したことです😧しかし、信長は義昭の領分である畿内にある惟政の領地(摂津国島上郡・島下郡)には手を付けず、破壊を命じたのも摂津にある高槻城・芥川城ではなく、信長の領国内にある近江の和田城でした。信長は義昭の領国と自身の領国とでしっかりと線引きをしていたことがうかがえます。

そうはいっても、「幕臣」である惟政がこのような仕打ちを受けたことに対して、義昭は心中穏やかならぬものがあったと思います。大丈夫だったんでしょうか?

惟政の失脚について、谷口克広氏は『織田信長家臣人名辞典』で、「しかし、惟政蟄居の主な原因は、日乗の讒言などではなかろう。同十二年十月、将軍義昭と信長との最初の衝突があった。両者の間に立つ惟政は、当然二人の仲を修復させるべく奔走したであろう。そして、どちらかというと将軍から離れられない立場にある惟政が、信長に疎んじられてしまったということは、想像するに容易である」と記し、惟政失脚の主な原因は義昭と信長の「せりあい」にあった、と推測しています。

たしかに『日本史』でも、惟政は天下(畿内)の統治に関する問題を信長と話し合うために岐阜に向かった、とあります。これは義昭と信長の関係修復のための交渉に赴いたもの、と考えるのが自然です。

しかし信長は義昭と仲たがいをして帰国したばかりで怒りの気持ちが強い段階であったので、惟政と会うことを拒絶したのでしょう。そしてその上で、自身の怒りの気持ちを義昭に対してはっきりと示すために自身の領国内にある惟政の城の破壊を命じるとともに、領地を一部没収したのでしょう。惟政としては火の粉が降りかかる…とばっちりを受ける形になってしまったわけですね😥

その処分については日乗らの讒言も影響していたでしょうが、主な原因は義昭と信長の「せりあい」にあった、と見るべきでしょうね。

義昭と信長の「せりあい」はだいぶシリアスなものであったようです。


2025年2月6日木曜日

信長の「塩対応」⁉~山科言継の2度目の岐阜訪問

 7~8月にかけて岐阜に滞在した後、京都に戻っていた山科言継は11月、朝廷から要請されて再び岐阜に向かっています。

かなりの歓待を受けた前回に対し、今回は様子が違っていたようで…⁉😥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


前回の岐阜下向の時もそうでしたが、どのタイミングで岐阜に行くことを頼まれたのかは『言継卿記』を見てもどこにも書かれていません(困る)😓

『言継卿記』11月4日条には、

…梨門(三千院)を訪れ、伏見殿(父親が伏見宮貞敦親王である応胤入道親王の事か?)に扇10本に和歌を書き入れてもらうようにお願いした。

…という記述があり、これは岐阜に向かった際の贈り物として用意しているものなので、最低でもこのあたりで要請を受けたものと考えられます。

翌日、言継は女房奉書を受け取ります。

11月5日条…竹門(曼殊院。別名を「竹内門跡」というので、これを略した言い方であろう)を訪れ、和歌を書き入れた扇10本のことを申し入れた。…次に長橋殿に行き、書状の事について話を聞き、大典侍(おおてんじ)殿で女房奉書を受け取った。それには、こう書かれていた。「丹波の国新屋(にや)荘は、もともと上臈の局(最上位の女官のこと。戦国期は1名のみがこれを務めていた。この時は関白・二条晴良の妹が務めていた)領であったのだが、近年は無沙汰(連絡が途絶える)である。そこで信長に、赤井(忠家。丹波の豪族)の了解のもとにそうなっているので、赤井に対してこのことを言い伝えるように伝えて欲しい」

この時受け取った女房奉書は1つでしたが、どうやらこの日に作成された女房奉書は1つではなかったようで、11月7日条には、

…竹門に行くと、和歌を書き入れた扇が完成していた。長橋局から女房奉書を受け取ったが、それにはこう書かれていた。

「今度の法事(後奈良天皇の13回忌)について、水野下野守が2千疋を進上したが、これに対して帝が『神へう』(神妙。優れた行いだと感心する事。当時は「しんびょう」と言っていたことがわかる)だとお思いになっている、ということを忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

「誓願寺の泰翁上人が3百疋を進上したことについて、帝は『よくぞ』とお思いになられている、ということを忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

「9月の法事について、徳川左京大夫が2万疋を進上したが、これを帝は神妙に思われていること、(2万疋によって)御懺法講が『するすると』(スムーズに)行われたことを喜んでおられるということを、左京大夫と信長に伝えて欲しい。また、緞子を贈るので、このことも忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

暇乞いのために武家(足利義昭)のもとを訪ねたが、対面はかなわなかった。鷹狩に行ってきたばかりで疲れているから、ということであった。…(義昭の乳母である)大蔵卿局のところに暇乞いに行ったところ、酒をいただいた。昨日岐阜から戻ってきたということで、その時の信長の様子について話を聞いた。一条殿・五辻・勧修寺殿などから、信長への言伝の書状を受け取った。

…とあり、多くの女房奉書が作られていたようです。なんで5日の時にまとめて渡さなかったのでしょうね?😕

続いて8日にいよいよ京都を出立します。

11月8日条…長橋局に行き、暇乞いをした。続いて、親王の方たちにも暇乞いをした。勧修寺・木村などから言伝の書状が届いた。午の刻(昼の12時頃)に出発した。…夜、坂本の坂井布屋に泊まった。丑の刻(夜の2時頃)、近所[12間(約20m]で火事があった。…

長橋局での暇乞いの件については、『御湯殿上日記』11月8日条にも、

「山しなとの(山科殿) きふ(岐阜)御ちきやう(知行)こと(事)に くたり(下り)候よし(由)の いとま(暇)御申あり」

…と書かれています。

出発した後の経路については『言継卿記』に以下のように記されています。

11月9日条…辰の初刻(午前7時頃)、乗船して(琵琶湖を渡り)、『北浜』(木浜?)に着き、乗馬して、『島口』郷(嶋郷のことか。現在地名としては残っていないが、『滋賀県八幡町史』によると、旧八幡町の市街地を中心とした地域の事を指したという)まで4里進んだ。申の下刻(午後4時20分頃)になっていたので、ここで泊ることにした。宿主の貞五郎が言うには、近年火事によってことごとく焼けてしまった、ということで、色々と不便な宿であった。宿に1本扇を贈った。

11月10日条…早朝に出発した。西荘(西庄)まで1里、豊浦へ1里、ここで馬を替え、山先(山崎)へ3里、ここでまた馬を替え、小野へ4里、また馬を替え、『馬場』(番場)・『左目がい』(醒井)へ1里ずつ、柏原まで3里進んだ。戌の刻(午後8時)に堤孫八郎の宿についてここに泊まった。宿に竹門の和歌の扇を1本贈った。

11月11日条…10町(約1.1km)ほど進んだところで、以ての外の風雨となったので、堤のところに戻った。午の刻(昼の12時頃)に再び出発し、申の初刻(午後3時頃)に美濃垂井の木村の館に着いてここに泊まった。宿に10疋を渡した。

11月12日条…寅の刻(午前4時頃)出発し、『平緒』(平尾)まで1里、赤坂まで1里、呂久・慈恩寺まで計4里、門尻『江戸』(河渡)まで1里半、岐阜まで1里半、計7里を進んだ。午の刻(昼の12時頃)風呂屋の『よご』(余語)に泊まった。宿に10疋、主人の妻に墨1丁、主人の子の光雲に扇2本を贈った。…

さて、こうして岐阜に到着した言継は、前回と同じように武井夕庵に信長との取次ぎを依頼することになるのですが、意外な反応が返ってくることになります。

武井夕庵のもとに澤路隼人を派遣したが、信長に取り次ぐことは『斟酌』(差し控える)とのことであった。その理由は、信長が『京の(「儀」の語が脱けているか)存ずる間敷』(京都の事には関わらない)と言っているから、ということであった。そこで日乗上人、坂井文介などに取り次ぎを依頼した。文介は『所労』(『日葡辞書』に「病気」とある)ということであった。日乗が泊まっている宿[丹羽五郎左衛門の館]に向かうと、門前で出くわしたので、現在の状況など、一部始終について話したところ、信長のもとに、三条大納言と共に訪ねるのが良いのではないか、とのことであった。…三条大納言が稲葉伊予守のところに泊まっていたのを訪ね、信長のもとを共に訪ねることを話し合った。…坂井文介は病気のため訪ねてこなかったが、子の隼人がやって来た。餅や黒豆を持ってやって来ていた。有難い好意であった。夜になって文介がやって来た。長く瘧(おこり。発熱が起こったり止んだりを繰り返す病気。マラリアの一種)に悩まされていて、2・3日に一度は熱が出るというが、今は治まっているという。気力が衰え、食欲がわかないという。薬が欲しいと言うので、参蘇飲(じんそいん。胃腸の薬)を3包渡した。…

なんと、武井夕庵は殿が京の事には関わらないと言っておられるから、と言って取り次ぎを断った、というのですね😲

言継はそれでも、使命を果たすために取り次ぎを介することなく、直接信長に会うことを試みます😦

11月13日条…坂井文介のところに澤路を派遣して、宿の事について話し合い、その後扇2本、子の隼人に葩(花?)2枚を厳重に包んで渡した。続いて島田但馬守(秀満)のもとに扇2本、蓽撥円(ひはつえん。漢方薬の1つで、悪寒に効き、痛み止めにもなるという)3貝を贈ったが、他所に行った帰りで泥酔していたという。小者の徳若にも同じ薬を2貝贈った。弾正忠に取り次ぐものがいないので、信長の鷹狩の帰りを待ち構えて、館の前で少し話をした。戌の刻(午後8時頃)に松井友閑入道の使いが来て、「今回やって来たのは勅使(朝廷の使者)としてか、自分の儀(私用)かと尋ねてきたので、私用の訴訟に関することで来た、と伝えた。弾正忠に出会った際に扇5本と50疋を贈っていたが、大津伝十郎が返礼に宿までやって来て、20疋を受け取った。…

鷹狩の帰りの信長を館の前で待ち伏せて話をした、というのですね💦

その後松井友閑から今回来たのは勅使としてか?私用で来たのか?と聞かれた言継は「私用」と答えていますが、これは何でなんででしょうね?😕女房奉書も持っているので「勅使」と答えてもいいんですが…。不穏な雰囲気を感じ取ったので、失敗した時に備えて天皇の体面に傷がつかないように「私用」と答えたのでしょうか😕

その後、信長から次の反応があった事が11月14日条からわかります。

…早朝、日乗上人より、松井友閑と共に近所までやってくる、と聞いたので出迎えるために午の初刻(午前11時頃)まで周辺をうろうろしていたが、いつまでたっても来ないので宿に戻った。三条大納言のところに向かいしばらく雑談した。夕暮れになって、好斎(坂井好斎。信長の側近)・武井夕庵が弾正忠の使者としてやってきて、2千疋を贈られた。「只今者京面之儀万事不存之間」(現在京都方面に関することはすべて関わらないことにしているので)、春になったら上洛し、知行の事について取り扱うので、それまで「堪忍」してほしい、と弾正忠が話していたことを伝えられた。三条大納言には3千疋を贈ったという。三条大納言と共に弾正忠の門前まで出向き、礼を伝えようとしたが、返事が無かったので夜中頃に帰宅した。まず好斎のところにお礼に出向き、20疋を贈った。続いて、松井友閑に20疋を贈った。坂井文介にも20疋を贈ったが、これは色々と親切にしてくれたからであった。脈を診ると、少し効き目があったようであった。茶を飲み、また、同じ薬を7包渡した。…(以下永禄13年1月1日まで残念ながら欠文)

結局、言継は目的を達することはできなかったわけですが、信長はなぜこのような塩対応をしたのでしょうか?

考えられるのは先述した信長と義昭の「せりあい」でしょう。「京都方面の事には関わらない」と言っていることから、信長が何に対して怒っていたのか、というのがだいぶ判明してきます。

京都方面の事には関わらない」という言葉から、信長がこれまで「京都方面」に関する事に加わっていたことがわかるのですが、それについて関わらない、というのは、「今後は公方様おひとりでどうぞ」と言っているのと同じです。

こう言うのは、義昭が京都方面の事について、信長を通すことなく、独断で決めるようになってきていたからでしょう。信長はこの事について怒っていたのです。

信長としては、「自分あっての公方様」という自負があり、義昭と距離を置くことで、義昭に「信長無くしてはやっていけない」と「自分の必要性を再認識してもらう」狙いがあったのでしょう。

なんだか恋の駆け引きに似ていますが、言継はこの信長と義昭の「痴話げんか(?)」のとばっちりを受けたことになりますね😅

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