社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 信長の「塩対応」⁉~山科言継の2度目の岐阜訪問

2025年2月6日木曜日

信長の「塩対応」⁉~山科言継の2度目の岐阜訪問

 7~8月にかけて岐阜に滞在した後、京都に戻っていた山科言継は11月、朝廷から要請されて再び岐阜に向かっています。

かなりの歓待を受けた前回に対し、今回は様子が違っていたようで…⁉😥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


前回の岐阜下向の時もそうでしたが、どのタイミングで岐阜に行くことを頼まれたのかは『言継卿記』を見てもどこにも書かれていません(困る)😓

『言継卿記』11月4日条には、

…梨門(三千院)を訪れ、伏見殿(父親が伏見宮貞敦親王である応胤入道親王の事か?)に扇10本に和歌を書き入れてもらうようにお願いした。

…という記述があり、これは岐阜に向かった際の贈り物として用意しているものなので、最低でもこのあたりで要請を受けたものと考えられます。

翌日、言継は女房奉書を受け取ります。

11月5日条…竹門(曼殊院。別名を「竹内門跡」というので、これを略した言い方であろう)を訪れ、和歌を書き入れた扇10本のことを申し入れた。…次に長橋殿に行き、書状の事について話を聞き、大典侍(おおてんじ)殿で女房奉書を受け取った。それには、こう書かれていた。「丹波の国新屋(にや)荘は、もともと上臈の局(最上位の女官のこと。戦国期は1名のみがこれを務めていた。この時は関白・二条晴良の妹が務めていた)領であったのだが、近年は無沙汰(連絡が途絶える)である。そこで信長に、赤井(忠家。丹波の豪族)の了解のもとにそうなっているので、赤井に対してこのことを言い伝えるように伝えて欲しい」

この時受け取った女房奉書は1つでしたが、どうやらこの日に作成された女房奉書は1つではなかったようで、11月7日条には、

…竹門に行くと、和歌を書き入れた扇が完成していた。長橋局から女房奉書を受け取ったが、それにはこう書かれていた。

「今度の法事(後奈良天皇の13回忌)について、水野下野守が2千疋を進上したが、これに対して帝が『神へう』(神妙。優れた行いだと感心する事。当時は「しんびょう」と言っていたことがわかる)だとお思いになっている、ということを忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

「誓願寺の泰翁上人が3百疋を進上したことについて、帝は『よくぞ』とお思いになられている、ということを忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

「9月の法事について、徳川左京大夫が2万疋を進上したが、これを帝は神妙に思われていること、(2万疋によって)御懺法講が『するすると』(スムーズに)行われたことを喜んでおられるということを、左京大夫と信長に伝えて欲しい。また、緞子を贈るので、このことも忘れずに伝えて欲しい。11月5日」

暇乞いのために武家(足利義昭)のもとを訪ねたが、対面はかなわなかった。鷹狩に行ってきたばかりで疲れているから、ということであった。…(義昭の乳母である)大蔵卿局のところに暇乞いに行ったところ、酒をいただいた。昨日岐阜から戻ってきたということで、その時の信長の様子について話を聞いた。一条殿・五辻・勧修寺殿などから、信長への言伝の書状を受け取った。

…とあり、多くの女房奉書が作られていたようです。なんで5日の時にまとめて渡さなかったのでしょうね?😕

続いて8日にいよいよ京都を出立します。

11月8日条…長橋局に行き、暇乞いをした。続いて、親王の方たちにも暇乞いをした。勧修寺・木村などから言伝の書状が届いた。午の刻(昼の12時頃)に出発した。…夜、坂本の坂井布屋に泊まった。丑の刻(夜の2時頃)、近所[12間(約20m]で火事があった。…

長橋局での暇乞いの件については、『御湯殿上日記』11月8日条にも、

「山しなとの(山科殿) きふ(岐阜)御ちきやう(知行)こと(事)に くたり(下り)候よし(由)の いとま(暇)御申あり」

…と書かれています。

出発した後の経路については『言継卿記』に以下のように記されています。

11月9日条…辰の初刻(午前7時頃)、乗船して(琵琶湖を渡り)、『北浜』(木浜?)に着き、乗馬して、『島口』郷(嶋郷のことか。現在地名としては残っていないが、『滋賀県八幡町史』によると、旧八幡町の市街地を中心とした地域の事を指したという)まで4里進んだ。申の下刻(午後4時20分頃)になっていたので、ここで泊ることにした。宿主の貞五郎が言うには、近年火事によってことごとく焼けてしまった、ということで、色々と不便な宿であった。宿に1本扇を贈った。

11月10日条…早朝に出発した。西荘(西庄)まで1里、豊浦へ1里、ここで馬を替え、山先(山崎)へ3里、ここでまた馬を替え、小野へ4里、また馬を替え、『馬場』(番場)・『左目がい』(醒井)へ1里ずつ、柏原まで3里進んだ。戌の刻(午後8時)に堤孫八郎の宿についてここに泊まった。宿に竹門の和歌の扇を1本贈った。

11月11日条…10町(約1.1km)ほど進んだところで、以ての外の風雨となったので、堤のところに戻った。午の刻(昼の12時頃)に再び出発し、申の初刻(午後3時頃)に美濃垂井の木村の館に着いてここに泊まった。宿に10疋を渡した。

11月12日条…寅の刻(午前4時頃)出発し、『平緒』(平尾)まで1里、赤坂まで1里、呂久・慈恩寺まで計4里、門尻『江戸』(河渡)まで1里半、岐阜まで1里半、計7里を進んだ。午の刻(昼の12時頃)風呂屋の『よご』(余語)に泊まった。宿に10疋、主人の妻に墨1丁、主人の子の光雲に扇2本を贈った。…

さて、こうして岐阜に到着した言継は、前回と同じように武井夕庵に信長との取次ぎを依頼することになるのですが、意外な反応が返ってくることになります。

武井夕庵のもとに澤路隼人を派遣したが、信長に取り次ぐことは『斟酌』(差し控える)とのことであった。その理由は、信長が『京の(「儀」の語が脱けているか)存ずる間敷』(京都の事には関わらない)と言っているから、ということであった。そこで日乗上人、坂井文介などに取り次ぎを依頼した。文介は『所労』(『日葡辞書』に「病気」とある)ということであった。日乗が泊まっている宿[丹羽五郎左衛門の館]に向かうと、門前で出くわしたので、現在の状況など、一部始終について話したところ、信長のもとに、三条大納言と共に訪ねるのが良いのではないか、とのことであった。…三条大納言が稲葉伊予守のところに泊まっていたのを訪ね、信長のもとを共に訪ねることを話し合った。…坂井文介は病気のため訪ねてこなかったが、子の隼人がやって来た。餅や黒豆を持ってやって来ていた。有難い好意であった。夜になって文介がやって来た。長く瘧(おこり。発熱が起こったり止んだりを繰り返す病気。マラリアの一種)に悩まされていて、2・3日に一度は熱が出るというが、今は治まっているという。気力が衰え、食欲がわかないという。薬が欲しいと言うので、参蘇飲(じんそいん。胃腸の薬)を3包渡した。…

なんと、武井夕庵は殿が京の事には関わらないと言っておられるから、と言って取り次ぎを断った、というのですね😲

言継はそれでも、使命を果たすために取り次ぎを介することなく、直接信長に会うことを試みます😦

11月13日条…坂井文介のところに澤路を派遣して、宿の事について話し合い、その後扇2本、子の隼人に葩(花?)2枚を厳重に包んで渡した。続いて島田但馬守(秀満)のもとに扇2本、蓽撥円(ひはつえん。漢方薬の1つで、悪寒に効き、痛み止めにもなるという)3貝を贈ったが、他所に行った帰りで泥酔していたという。小者の徳若にも同じ薬を2貝贈った。弾正忠に取り次ぐものがいないので、信長の鷹狩の帰りを待ち構えて、館の前で少し話をした。戌の刻(午後8時頃)に松井友閑入道の使いが来て、「今回やって来たのは勅使(朝廷の使者)としてか、自分の儀(私用)かと尋ねてきたので、私用の訴訟に関することで来た、と伝えた。弾正忠に出会った際に扇5本と50疋を贈っていたが、大津伝十郎が返礼に宿までやって来て、20疋を受け取った。…

鷹狩の帰りの信長を館の前で待ち伏せて話をした、というのですね💦

その後松井友閑から今回来たのは勅使としてか?私用で来たのか?と聞かれた言継は「私用」と答えていますが、これは何でなんででしょうね?😕女房奉書も持っているので「勅使」と答えてもいいんですが…。不穏な雰囲気を感じ取ったので、失敗した時に備えて天皇の体面に傷がつかないように「私用」と答えたのでしょうか😕

その後、信長から次の反応があった事が11月14日条からわかります。

…早朝、日乗上人より、松井友閑と共に近所までやってくる、と聞いたので出迎えるために午の初刻(午前11時頃)まで周辺をうろうろしていたが、いつまでたっても来ないので宿に戻った。三条大納言のところに向かいしばらく雑談した。夕暮れになって、好斎(坂井好斎。信長の側近)・武井夕庵が弾正忠の使者としてやってきて、2千疋を贈られた。「只今者京面之儀万事不存之間」(現在京都方面に関することはすべて関わらないことにしているので)、春になったら上洛し、知行の事について取り扱うので、それまで「堪忍」してほしい、と弾正忠が話していたことを伝えられた。三条大納言には3千疋を贈ったという。三条大納言と共に弾正忠の門前まで出向き、礼を伝えようとしたが、返事が無かったので夜中頃に帰宅した。まず好斎のところにお礼に出向き、20疋を贈った。続いて、松井友閑に20疋を贈った。坂井文介にも20疋を贈ったが、これは色々と親切にしてくれたからであった。脈を診ると、少し効き目があったようであった。茶を飲み、また、同じ薬を7包渡した。…(以下永禄13年1月1日まで残念ながら欠文)

結局、言継は目的を達することはできなかったわけですが、信長はなぜこのような塩対応をしたのでしょうか?

考えられるのは先述した信長と義昭の「せりあい」でしょう。「京都方面の事には関わらない」と言っていることから、信長が何に対して怒っていたのか、というのがだいぶ判明してきます。

京都方面の事には関わらない」という言葉から、信長がこれまで「京都方面」に関する事に加わっていたことがわかるのですが、それについて関わらない、というのは、「今後は公方様おひとりでどうぞ」と言っているのと同じです。

こう言うのは、義昭が京都方面の事について、信長を通すことなく、独断で決めるようになってきていたからでしょう。信長はこの事について怒っていたのです。

信長としては、「自分あっての公方様」という自負があり、義昭と距離を置くことで、義昭に「信長無くしてはやっていけない」と「自分の必要性を再認識してもらう」狙いがあったのでしょう。

なんだか恋の駆け引きに似ていますが、言継はこの信長と義昭の「痴話げんか(?)」のとばっちりを受けたことになりますね😅

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