社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 延暦寺、信長を訴える!~山門領勘落訴訟の事

2025年1月31日金曜日

延暦寺、信長を訴える!~山門領勘落訴訟の事

 突然帰国した信長ですが、そのすぐ後に、ある騒動が起こります。

それはなんと、延暦寺が織田信長を訴えた、というものでした😕

いった、何があったのでしょうか…⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



『朝倉始末記』にはその騒動について次のように記されています。

…信長は洛中辺土(畿内周辺。『総見記』には「洛中洛外畿内近国」とある)の成敗(政治を行うこと)のために佐久間(信盛)・村井(貞勝)・森三左衛門尉(可成)・丹羽(長秀)・御長(菅屋長頼か)の5人を置いていた。森三左衛門尉は宇佐山に城を構えて、大津・坂本を担当していたが、延暦寺の荘園をことごとく押領した。延暦寺の僧たちは「これは我が寺の破滅につながることだ」と言って、内裏に書状を提出した。その内容は、「ぜひ綸旨を出していただいて、延暦寺の荘園を安堵し、違法行為をやめさせ、天下泰平の祈祷に励めるようにお願いしたい。延暦寺は鎮護国家の寺院であり、天子様にとって第一の霊場であります。内裏を建てる時は三回(鬼門に当たる場所にある)比叡山の土地を鎮め、延暦寺を創建するときは、悪魔の障害が都にやってくるのを防ぐために七里四方に結界を張りました。内裏と比叡山が一体であることは、世の人が知る所です。去年、織田信長が張良(前漢を建国した劉邦を支えた謀臣)の策、樊噲(同じく劉邦を支えた猛将)の威を振るって将軍(足利義昭)を助け、京都を守った。また、天子を敬い、皇居を修造した。その結果、今の世を(古代中国の聖王である)尭舜の頃と同じようなものとし、民を(古代中国の)周・漢の民と同じような気持ちを持たせるに至った。それだけでなく、厳命を下し、延暦寺が支配する荘園を昔のように安堵したので、仏法・王法(政治)がようやく再興できるのだと、喜悦の眉を開いていた(非常に喜んでいた)ところ、不測の事態が起こり、延暦寺に関わるすべての荘園が錐(きり)を立てることができないほどに無くなってしまったという。ああ、これは天魔の所行か。また、謀臣の讒言によるものか。事実であれば、延暦寺の破滅の時が来たということであります。神の加護が無ければ、どうして王法が守られるだろうか。仏の威光が無ければ、どうして武運を保つことができるだろうか。一刻も早く天子様にこのことをお知らせして、弾正忠(信長)に対して綸旨を出し、横領された荘園の返還を命じるべきです。そうなれば、我々は丹誠をこめて国家の安全と、玉体(天皇)の安穏を祈ることができるようになるでしょう。…永禄12年(1569年)10月24日 大衆(延暦寺の僧侶)等 錦小路右大弁殿(宛)」というものであった。

延暦寺の三塔(東塔・西塔・横川[よかわ]。延暦寺は3つの地域に分かれ、それぞれに仏堂がある)の僧侶たちが以上の内容の書状を提出したところ、これを天子様がお聞きになり、次の内容の綸旨を出された。「延暦寺領勘落(土地を横領されること)の事、三院の衆徒山訴(寺社が集団で訴えを起こすこと)を企て、牒状斯くの如し。『台嶺(比叡山のこと)破滅に及ばば、朝廷忽ち退転(『日葡辞書』に「中絶すること、または、消え去ること」とある)』の条、(正親町天皇は)歎き思し食(め)す所なり。『且つは(一方では)国家安寧の為、且つは(信長の)武運長久(戦場での幸運が続くこと)の為、早く還補(元の持ち主に戻すこと)せしめば、神妙たるべき(立派で優れた行いである)』の由、天気候所(天皇が仰せになっている)なり。同10月26日 (甘露寺)右大弁経元 織田弹正忠殿」綸旨の内容はこの通りであった。

朝山日乗上人がこれを受け取って、まず4人(5人では?)の奉行に内容を報告した。その後、朝山から内裏に返ってきた書状には次のように書かれていた。「延暦寺領のことについて、綸旨に書かれていた通りに、佐久間·村井·丹羽·林·於長に伝えて相談いたしましたところ、さまざまに考えをめぐらしたあげく、「その通りに致します」との返答を得ました。めでたいことであります。また、押領について、追及して明らかにするとのことです。このことについては、丹羽五郎左衛門と森三左衛門がまとめあげるとのことなので、安心なさってください。同11月11日 日乗上人 朝山 山門(延暦寺のこと)三執行代 人々御中」…

織田信長と延暦寺といえば、あの焼き討ちが真っ先に思い浮かびますが、最初から関係が悪かったわけではなかったようで、

織田信長が香禅坊という者に対し、近江国湯園荘の代官坊・被官人・竹林寺分を安堵する、という内容の永禄11年(1568年)11月付の文書が残っているのですが、この「湯園荘」は延暦寺の荘園ですので、信長が延暦寺の既得権益を認めていた、ということがわかります

このことは延暦寺が朝廷に提出した書状にも「…厳命を下し、延暦寺が支配する荘園を昔のように安堵した…」と書かれていますね。

しかしなぜ、延暦寺と対立するような織田方の押領事件が起こったのでしょうか。

『総見記』には、近年、寺社の者たちが領地を多く持ちすぎ、修行や学問をおろそかにして贅沢ざんまい、遊びほうけているという欲望まみれの心を持ち、それだけでなく、武士に対抗して兵乱に加わることもあり害悪となっているので、これを抑えるために五人の奉行たちが寺社の領地をことごとく押領させたのである、と書かれています。

領地が多すぎるために贅沢三昧で遊びほうけているのでこれを戒めるために押領を行なった、というのですね。

今谷明氏は『信長と天皇』で「江南地方は山門延暦寺領が多数散在し、当然のように織田家臣と山門との所領をめぐる紛議が絶えなかった」、藤井譲治氏は『天皇と天下人』で「六角氏を追った後の南の諸郡…は中世以来、比叡山延暦寺の勢力が強く及んだところで、その所領も多く存在した。そこに信長の支配が浸透していくことで、信長方と叡山方とがそこかしこで衝突した」とほぼ同じような考察をしています。

どちらも『総見記』と同じく、延暦寺領が多く存在していたことを原因に挙げていますが(ただし『総見記』は延暦寺に限定せず、全ての寺社に対して押領を行なった、と書いている)、延暦寺の領地はどれくらい多かったのでしょうか。

高橋昌明氏は『湖の国の中世史』で、現存する記録などから、近江にある荘園の4割は延暦寺のものだったのではないか、と考えています。

日本の荘園についての記録がまとめられている「日本荘園データベース」によれば、近江には498の荘園があり、そのうち146が延暦寺(山門)領なので、これだと約3割(29.3%)が延暦寺のものであった、ということになります。

今谷・藤井両氏は江南に延暦寺の荘園が多かったことを紛争の原因としているのですが、江南の諸郡(滋賀・栗田・野洲・甲賀・蒲生・神崎・愛知・犬上)における延暦寺の荘園の割合は約27%なので、江南に特に多かったわけではありません(むしろ江北の方が約35%と高い)。

また、両氏は「江南」に延暦寺領が多かった、と言っていますが、『朝倉始末記』には、先述したように大津・坂本を担当していた森可成が押領を行なった、としか書かれていないので、「江南」ではなく、大津・坂本がある「滋賀郡」に着目すべきなのですね。

滋賀郡に限定してみると、延暦寺の荘園は41%を占めているので、近江国全体の平均を上回っていることがわかります。

以上、延暦寺領が多すぎたことが紛争の原因であった、というのを検証してみましたが、他の説を挙げるのが渡辺守順氏で、『僧兵盛衰記』に「叡山の大衆はいつも信長に抵抗した。そこで、信長、まず家臣の森可成に命じて、近江国と美濃国にあった延暦寺領を没収した」と記していて、「延暦寺が信長に抵抗したこと」を原因に挙げています。

しかし、「延暦寺が信長に抵抗した」ということを示すような史料は管見の限りでは見当たらないのですよね…何をもとにそう書かれたのでしょうか?😵

また、「信長が命令した」と断定しているのもビックリです😓まぁ、独断でやると信長が怒るでしょうけど…。

渡辺氏が「美濃国」の延暦寺領にも触れているのは、『総見記』の次の記述に基づいたものでしょう。

…特に美濃にある延暦寺領を念入りに押領させた。この荘園は朝廷や公家によって寄進されたものではなく、越前の国主である朝倉の先祖が手に入れた土地であったが、越前と離れていて支配が難しかったので、何年か前の年に、「朝倉が苦しみ悩むことが起こった時には味方する事」との契約の上で延暦寺に寄進したものであった。朝廷や幕府に関わるものではなく、単なる朝倉の領地であったので、(気兼ねなく)ことごとく押領したのである。延暦の者たちはこれに怒り、訴えたが織田の奉行たちはこれに取り合わなかった。これを見て、近江国の織田家臣たちは、朝廷・幕府が寄進した延暦寺領を競って押領するようになったので、延暦寺は日を増すごとに衰えていくことになった。…  

どこまで本当のことを書いているかは謎ですが、信長が延暦寺は土地を多く持ちすぎている、と信長が考えていたのは事実かもしれません。

また、信長としては延暦寺の土地を奪わなければならない事情もあった、と考えられます。

なぜなら、信長は南近江を獲得しましたが、その際に六角家臣の主だった者たちは皆信長に従っており、新たに獲得できた土地は限られたものであったため、家臣に恩賞として与える土地が不足していたからです。

しかし解せないのは、先述したように信長が当初は延暦寺に対して安堵する対応を取っていたことと、1月14日に、義昭の承認のもと、信長の名で出された「殿中御掟」に、

・寺社本所領の当知行の地、謂なく押領の儀、堅く停止の事(寺院・神社の土地を不当に奪い取ることは禁止する)

…とあることです。

もしかすると、信長は延暦寺の土地を手に入れるつもりは無く、北畠攻めが長引いているうちに、出兵した者に代わり近江に残っていた者たちが狼藉を働いたのかもしれません。実際のところは不明、と言わざるを得ないのではありますまいか😓

さて、織田の押領に対し、延暦寺は訴状を朝廷に提出したわけですが、このことは『御湯殿上日記』に書かれており、裏付けが取れます。

「10月24日、かち井との なかはしまて 御まいり候て。山りやう のふなか おさへ候まま。山のものとも のほりてそせう申。ちょくしをと申候へとも。にはかに御ととのへなり候はぬとて。りんしいたされ候[やうに]とさす御申あり」(梶井殿[京都にある天台宗の寺である三千院の住持の事で、三千院は代々藤原氏や天皇家の子弟が住持となっていた格式の高い寺であった。当時は伏見宮貞敦親王の子で、 後奈良天皇の猶子≪養子と違い相続権が無い義子のこと≫となっていた応胤親王≪1531~1598年≫が住持となっていた。延暦寺の長である天台座主は、三千院と、青蓮院・妙法院の住持が交替で就くことになっており、応胤親王は天文22年≪1553年≫に天台座主となっていた。応胤親王の前は妙法院の尭尊親王であった]が長橋局までやって来て、延暦寺領が信長に押領されている件について、延暦寺の者たちが京都に行って訴訟に及ぶ動きがある事を伝えた。親王は朝廷の正式な書状である勅旨を出すことを願ったが、[勅旨は手続きが煩雑なので]急に用意はできないと回答すると、それならばと[格は勅旨・宣旨より劣るが、手続きが簡略な書状である]綸旨を出すことを願ってきた)

「10月25日、こよひも さす御まいりにて、いかやうにも りんし いたされ候やうにと御申」(今晩も座主がやって来て、ぜひ綸旨を出してくださいますように、と話していた)

これを受けて、10月26日に、『朝倉始末記』にあるように綸旨が出されるに至ったのでしょう。

織田方が「綸旨の内容通りに致します、事態の糾明に手を尽くします」と回答したのは翌月の11日と遅れました。その後はどうなったかは『朝倉始末記』には書かれていません。

今谷明氏は『信長と天皇』で「はたしてどの程度押領地の返還が行われたかは疑問である」、藤井譲治氏は『天皇と天下人』で「実質的には返還の引き延ばしをはかる内容といってよい」と書いていますが、『総見記』には、

…一寸の土地も大切であるので、あれやこれやと言い訳をして、返還は1日、1日と延びていった。

…と書かれていて、結局土地は返還されなかった、と記しています。

『信長公記』には、後に延暦寺が朝倉方に肩入れした際、信長は延暦寺に「こちらに味方すれば領国内にある延暦寺領は元の如く返還しよう」と持ちかけているので、『総見記』の言うように返還されずに終わった可能性は高いですね。

今回の話で出てきた書状や綸旨の内容は、同時代の史料では『朝倉始末記』にのみ見える物で、他の史料には書かれていないという不思議なものです。『朝倉始末記』は何をもとにして書いたのでしょうか?いったい、どのようにして内容を知ったのでしょうか?

『総見記』には、

…(織田方の対応に)延暦寺の者たちはますます怒り、信長に謀叛することにし、越前の朝倉義景に密かに使いを送り、延暦寺が滅亡に瀕していることを伝えた。また、『明日にでも朝倉殿は何とぞ帝都に攻め上られ、信長を退治していただきたい。そうすれば我らは先手となって朝倉軍を京に引き入れましょう。とにかく早々に出馬されることを願います』と朝倉方に訴え、しきりに謀叛を勧めた。すでに大兵乱の予兆は現れていたのである。

…とあります。『朝倉始末記』は朝倉氏旧臣が書いたとされていますが、『総見記』の言うように、延暦寺と朝倉氏が永禄12年(1569年)の段階で既に密かにつながっていたので、謀叛を勧めた際に訴状と綸旨の写しを渡したのでしょうか。そうなればしっくりくるので、『総見記』の内容が真実味を帯びてくるのですが…。

ともかく、今回の押領事件は、後に延暦寺が朝倉方に肩入れするきっかけとなり、比叡山焼き討ちにもつながっていく重要な事件であった、と言えるでしょう。

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