社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 華々しい出陣~信長公越州敦賀表御出馬事

2026年6月30日火曜日

華々しい出陣~信長公越州敦賀表御出馬事

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

織田ー朝倉の不穏な関係はすでに前年から見られていたようで、永禄12年(1569年)8月19日付毛利氏宛日乗書状には、信長が伊勢一国を平定した後、阿波・讃岐両国か、または越前国の攻撃を考えている(「阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候」)、ということが記されています。

朝倉氏側もだいぶ警戒していたようで、『朝倉始末記』には二度越前で騒動があったことが記されています。

一度目は二条城築城の時の事で、信長は本国寺の変の後も大軍を京都に残していましたが、朝倉はこれを怪しみ、「普請だと言って実は越前に攻め寄せてくるのではないか」と考え、敦賀の金ヶ崎・手筒山の城を強化し、他にも「木ノ芽・中ノ河内(余呉町中河内)・椿坂(余呉町椿坂)」にも城を作っています。

当時、近江から越前に向かうルートは、

(1)東近江路…琵琶湖東岸から、椿坂峠→中河内と進む

(2)西近江路…琵琶湖西岸から、敦賀→木の芽峠と進む

…の2通りがありました。

しかし東近江路は当時は幅が狭い小道であったようで、柴田勝家が越前を治めるようになった後に拡幅工事が行われたと『越藩拾遺録』にあります。

…となると、大軍が移動しやすいのは西近江路であったわけで、そのため朝倉は敦賀周辺を重点的に固めたのでしょう。

2度目は永禄13年2月の信長上洛時でした。信長は諸国から兵を集めており、4月上旬には信長が坂本で兵をまとめ、越前に攻め入るとの噂が越前に流れ、その後、朝倉と懇意にしていた坂本商人の香取などからも報告が立て続けに入ったので、どうやら真実らしいとなり、越前は国中が大騒動となりました。

そこで、朝倉義景は敦賀郡司の朝倉景恒(朝倉四代目の孝景[初代孝景とは別]の弟、景紀の子)に対し、「早々に出陣して、金ヶ崎城を守るように」と命じます(敦賀郡司といっても普段は一乗谷におり、奉行が代わりに現地を統治していた)。これに対し、景恒は「信長の大軍を前にして、私が小勢で向かったとしても立ち向かえるかどうか案じておりますが、かねてから、このような一大事があれば、命を惜しまないつもりでおりました。この度は勝敗を決する場面ではありませんが、ともかく金ヶ崎に向かい、信長と一戦し、苦しい状況に及んだならば、その時は改めて軍勢を派遣していただきたい」と答え、4月11日、3千余の兵を引き連れて一乗谷を出発し、金ヶ崎城に入りました。すぐ近くにある手筒山城には敦賀社家衆(気比神宮に対し世襲的に奉仕する家柄。執当・石蔵・嶋・宇野・小木・寺谷などがあった)、上田・中村・吉川・萩原入道など千五百余が籠もっています。

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