「歴史」の「江戸時代]のところにある、
「「江戸中宛(あたか)も戦国の如し」~天明のうちこわし」の2ページ目を更新しました!😆
補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●延喜年間(901~923年)の聖代(優れた天皇が治める世の中)ということで、太平の世が続く中で、人々は上下によらず大層ぜいたくにふけるようになり、美しい服で身を飾り、無駄な出費が増えていたのを、帝(醍醐天皇)は嘆かわしくお思いになられて、身につけていた八丈島産の絹織物で作られた衣服、琥珀織の丹後縞の指貫の袴、青みがかった茶色の緞子の石帯を脱ぎ捨てられて粗末な琥珀織の絹布、西陣織の衣服に着替えられた。
延喜の帝が粗服になられてから、公卿から庶民に至るまで、みなくすんだ茶褐色の木綿のぶっさき(打裂)羽織(背中の下半分が縫い合わされていない羽織。運動をする際などに用いられた)を着るようになった。このため、後々の世まで、延喜・勘略(節約の事。天暦のもじり)の治として、聖代の例に挙げられるようになったのである。
女御「次から下着は藍染になされませ。黒では染め直しがききませぬから」
帝「なるほど、朕もそう思う」
さて、当時は菅原道真が雷となって藤原時平・清貫・平希世を殺した(930年に起こった清涼殿落雷事件。時平はその前の909年にすでに死んでいるので誤り)ため、朝廷の役人が少なくなっていたので、菅原道真の子の秀才(淳茂のこと)が召しだれて天下の政治を任せられた(実際は淳茂は926年に、落雷事件の前にすでに死んでいる)。※田沼意次の子、田沼意知が江戸城内で殺されたことを指すか。
菅公(秀才)が政治をとり行うにあたって、これまで務めていた公卿たちは時平などと不快関係にあった者たちであったので起用しなかった(※田沼派が一掃された事を指すか)。新しく役に立つものを見つけるまで人手不足であったので、古の人物たちに手伝ってもらうことにした。当時は長く平和が続いていたので、人々は文に流れて武に疎くなっていたため、まず武を習わせて兵を強くしようと考え、兵法・剣術は源義経に、弓は源為朝に、馬術は小栗兼氏(伝説上の人物)を召し出し、公卿から庶民に至るまで指導しするように宣旨が下された。
義経「とるに足らぬ身の私どもを選んでいただいて、有難き幸せにございます。しかし、私どもはあなた方より「ぐっと」後の世の人でございますから、「古人」というのは御間違いかと思います」(義経・為朝は11世紀の人物で、小栗は15世紀の人物がモデルになっているとされる)
菅公「時代違いなのは知っているが、これは草双紙(江戸時代の絵入りの娯楽本)なんだから、「うっちゃっておきやれさ」」
義経は天狗に剣を習ったので、稽古をつけてもらう人は天狗でないとできなかった。そこで、稽古をつけてもら人は天狗の面や羽を着け、近くから大うちわであおいでもらって空中を飛びながら稽古をつけてもらった。
為朝は的を射る練習は実戦には向いていないので、腹に穴が開いている国の者を呼びよせて具足を着せて吊るし、動くところを射抜かせるという練習を行わせた。
小栗兼氏は馬に乗る前の段階の練習で木馬に乗るのでは鞍の乗り心地・手綱の引き方がわからないと考え、人を木馬の代わりにして、乗ったり、乗られたりの練習をさせた。
男「権門駕籠(大名の家来が他家を訪問する際に乗った駕籠)の乗り方ならば、それがしがお教えいたそう」※田沼時代に大名の家来たちが権力者に贈り物を贈っていたことを皮肉っている。
男「しっそ(「いっそ」のもじり。まったく、の意味)もう、この頃は「せいけん」(「せけん」[世間]のもじり)みんな、ぶっさき羽織であるなぁ」※当時、松平定信は質素にすること・聖賢(孔子や孟子など)に習うことを呼びかけたが、これを茶化したもの。
男「ぶっさき羽織がきつい(大変な)流行りだ。なんでも、北野の若旦那(菅原秀才の事)がお出でなさって、何もかも改まったんだそうな」
男「向こうの長羽織を着た男は古風な格好をしている」
世の中全体に弓・馬・剣術が大層流行り、それぞれ弓を持って歩き回っては、町の小道具屋や瀬戸物屋に置いてある兜鉢(兜をひっくり返した形に似ている鉢)など鉢と付くものなら何でも、堅いものであれば何でも、「射抜いてみせよう」と言って突然射て砕いてしまった。
剣術を学ぶ者たちは、「先生(源義経)が(まだ幼名の)牛若丸といっていた時に、五条の橋で千人斬りをされたように(※千人斬りといえば弁慶だが、能楽の『橘弁慶』などは牛若丸のやったこととする)、大勢を切らなければ上手にはなれぬ」と思ったが、人を切っては後々が面倒なので、木刀や竹刀を持って、道行く人を「千人ぶち」(ぶつ、たたく事)にした。
馬の稽古をする者たちは、小栗兼氏が鹿毛の馬に乗っているのを、「陰間(男娼のこと)に乗っている」と間違え、その上、「弟子同士で木馬になっても相手のことがわかっているので(簡単に乗れてしまって)面白くない。見ず知らずの者に乗っ(て乗りこなせ)た方が、気分が良いだろう」と言って、馬具を持って陰間茶屋に行って馬の稽古をする。しかし、馬は生き物なので、乗り具合はどれも同じというわけではない。一匹乗れたからといって、馬に乗るのが上手というのが間違いないわけではない。陰間は全員乗り尽くしたので、女郎にも乗れば色々な乗り心地の違いがあって馬術の技量も上がるだろうと、毎夜遊里に行き、女郎を貸し切りにして稽古をする。馬術の稽古をする者も、金の成る木は持たないため、女郎に払う金が不足するようになったので、「仕方ない、道行く者を男女区別なく捕まえて乗れば、色々な乗り心地の違いがあって、稽古になるだろう」と、男女を見かけ次第、傍若無人に押し倒して乗ったので、とんでもない大騒動になって、喧嘩や口論が一向に止まなくなってしまった。
従者「主人の奥方に不届き千万。逃がさぬぞ」
武士「なに、不届き千万だと。聞いてあきれる。こっちは御上(天皇)のご命令で、武芸の中でも戦場の駆け引きの第一である馬術の稽古に励むのだ。黙っていやがれ」
延喜の帝は天下の政治を菅公に任され、「大国を治めるにあたっては小魚を煮るように無理にかき回さず寛大にするのが良い。大通(本当の通)が楽しむにあたっては金銭を惜しげもなく使うのが良い」と酒を飲み始めていたところ、都の様子が間違った馬術稽古によって騒がしくなっていたので、次のように歌をお詠みになられた。
「高き屋に 登りて見れば 騒ぎ立つ 民の気取りは 間違いにけり」(仁徳天皇が詠んだ「高き屋(家)に 登りて見れば 煙立つ 民の竈は 賑ひにけり」[高台に登って人々の様子を見たところ、炊事の際に出る煙が多く上がっていた。民の生活は豊かになったようだ]をもじったもので、高台に登って人々の様子を見たところ、人々が騒いでいた。民の理解の仕方は間違っている、という意味)
主上(天皇)は高殿から降りられて、菅公を召して相談をされた。
「武芸も大事であるが、高殿から見てみると、人々は大きな見当違いをしている。かの『勇を好んで学を好まざれば、その費や乱なり』[『論語』にある「勇を好んで学を好まざれば、その弊や乱なり」《勇ましいことばかり好んで学問を好まなければ、乱暴者になってしまう》をもじったもの。勇ましいことばかり好んで学問を好まなければ、金遣いが乱れる、という意味]とはこのことだ」
菅公「主上の御言葉、ごもっともにございまする。わたくしも、最初から学問が大事だと思っておりましたが、師匠となるべき儒者が欠乏しておりました。ただいま、一人適当な者を見つけ出しましたので、ご紹介いたします。えり好みしなければ儒者はいくらでもおりますが、朱子学者は生きた天神のよう(に理想主義的)で、徂徠派の者は火の見櫓の如く(気位が高く)、詩・漢文を得意とする者は田舎の俳人の如くで、経済(国を治め、世を救うこと)の道を心得ておる者は見当たりませぬ」
帝「「けいさい」とは何だ。夜に食べる野菜(軽菜)のことか?」
そこで源義家の師範でもあった大江匡房(1041~1111年。これも醍醐天皇より後の人物)を召し出し、文章博士に任じて、人々に聖賢の道を教えるように命じた。
菅公「最初から漢文で教えるとなると、始めようとする者がおるまい。仮名付きのものが良かろう。この書物はそれがしがしたためた『秦吉了(九官鳥)の言葉』という仮名書きの本で、天下国家を治める心得を記したものであるから、学校で講義をする間に、人々に読んで聞かせるのが良いだろう」
菅公が作った『秦吉了(九官鳥)の言葉』はこうして学校で読まれるようになったので、聞く人が日々絶えることがなかった。
大江匡房「さて、菅公が作られた『秦吉了(九官鳥)の言葉』を読みましょう。まず、天下国家を治める政というものは、時と勢いと位の3つを得なければなりません。例えるならば、春、凧を揚げるようなものだと、『秦吉了(九官鳥)の言葉』には詳しく書かれております」
こうして人々は熱心に学問をするようになり、最初は仮名付きの四書五経を読んでいたのが、今では仮名書きの四書五経に漢字をつけて読むようになった。菅公の『秦吉了(九官鳥)の言葉』も出版され、世のすみずみまで広まった。
本屋の客「菅公が書かれた『秦吉了(九官鳥)の言葉』を買いたい」
本屋「凧の例えは面白うございます」
「天下国家を治める政というものは、春、凧を揚げるようなもの」という例えを、凧を揚げれば天下国家が治まると勘違いをして、いい年をした者たちまでが、「われもわれも」と凧を揚げたところ、鳶の凧を友達と勘違いした鳳凰がやって来たというのは、まことに、延喜の御代のめでたさという事の証拠である。
鳳凰「どうして鳶凧と見間違えるものか。聖代だから出たのさ。鳳凰(ほうぼうに掛けた駄洒落。あちらこちら、という意味)歩いてみたが、日本が「いっち」(一番)いい」
この度、鳳凰が現れたのはまことにめでたいしるしであるので、広く人々に見せようと、鳳凰と響きも似ているので、大徳寺前の弘町(こうちょう。鳳凰は鳳鳥[ほうちょう]ともいう)の茶屋の主に鳳凰を与え、人々に見せることにした。同じく聖代に現れる麒麟も出現したが、これはリスと同じように隅っこに置いて見せた。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●なぜオウム?
『鸚鵡言』のタイトルの由来ですが、これについて松平定信は説明していません。
しかし、『鸚鵡言筆解』を著した藤原成徳なる人物(調べてもよくわからない)によると、次の通りであるそうです。
…『鸚鵡言』の書名は、『礼記』「曲礼」に言う、「鸚鵡よく言えども、飛鳥を離れず」(オウムは人をまねてうまくしゃべることはできるけれども、やはり鳥でしかない。口先ばかりで、行動が伴わないことを言う)にもとづいている。思うに謙遜してつけた書名だろうか。…
同様に、太田南畝が編纂した『三十輻』(みそのや)を、大正6年に国書刊行会が刊行した際に付した解説には、「『鸚鵡言』とは、聖賢の口まねの意にして、自ら徳の当らずして、言の高きを謙するなり」とあります。
●天職の事
「天」は直接民を治めることができないので、代わりに「大君」に治めさせた。「大君」は1人で世を治めることができないので、諸侯に治めさせた。つまり、諸侯が民を治めるのは、大君の命であり天命であるのである。ゆえに、民を治めるというのは、天の職であって、治める民は天の民なのである。治める者の器量・徳性がふさわしいものでなければ、天職を全うするのは難しいといえる。そこで、自分のことばかり考えて、天の民を虐げ、天職を汚すようなことがあれば、天はその者を廃して、別の者にお与えになる。だから、天職を最初に受けた者は、徳性・器量共に備わった人である。その子孫は、愚かであっても、祖先の決めたきまりを守りさえすれば、天は祖先の徳に配慮して、その子孫を廃することはなされない。これは天の寛仁(寛大で慈悲深いこと)を守る大君の情けであり、祖先のおかげであるともいえる。愚かな身であっても、祖先のおかげで万人の上に立ち、職や財産を受け継いでいるというのは、天に対して恐れ畏まらなければいけないことなのである。
●徳をつつしむ事
徳とは、直心(ひたむきなこと、まっすぐなこと)を行なうという事ではない。直心は当然の事であり、徳とは言わない。「徳を慎む」というのは、日々それまでの非を改め、向上心を持ち、功績を積み上げることを言うのである。上に立つものの徳が明らかであれば、「治国平天下」は自然と達成できるであろう。徳をどのようにして明らかにすればよいのかといえば、「聖賢の書」を読んで、自身の行動に生かすことである。実用に努めず、高尚で遠大なことばかり考えるのは、「腐儒」の論であって、言葉にできないほどひどいことである。徳が完全な物になれば、民は心から帰服するようになるので、財産が無い事、仕事が無い事を憂えるという事はどうして起こり得るだろうか。
●学問の事
読むべき書物は、特に四書五経の類、『大学衍義』、また、日本書紀・史記・資治通鑑を合せて読むのが良い。熊澤(蕃山)の『集義』(集義和書)・『大学或問』、新助(室鳩巣)の『雑話』(駿台雑話)もまた読むべきである。自身の家について書かれた書物もよく読むべきである。読むべきでは無い書物はないが、ただ特に重要なものを挙げた。
●下情の事
天気が地面を潤し、地気が天を助けるように、君・臣が重ねて慎み深くあろうとすれば、国家は簡単に治まるだろう。地面を離れては草木が生えないように、天が覆わなければ草木が育たないように、君・臣が互いに閉じふさがっていては、国家が治まることはめったにないであろう。しかし、君は尊きこと天の如く、臣は卑しきこと地の如く、両者は立場が隔絶しているので、上下の意思が通じないようになる。世間の事のような卑しいことを伝えては、君主の徳を汚すと言ってこれを禁じるのは嘆かわしいことである。人の心というのは、上下の違いが無く、夏に水を求め、冬は火を求めるように、楽な道を選び、楽しいことをして過ごしたいと思うものである。下を自分事のように思おうとするのであれば、世間の実状を知ろうとしないでいられるだろうか。赤子は物を言わないけれども、その思いがわかるのは、父母のまごころである。下を思うのにまごころをもってしなければならないのだから、心の修行は必要である。上中下の文字の解釈があって、上の字はひっくりかえせば下の字となり、下の字をひっくり返せば上の字となる。また、中の字は上と下の間にいて、その思いが通じるように、口を上下に貫いている。
●君臣の事
君主は食やあたたかい衣服に困らないが、その食・その衣服は誰が作っているのか。作る者がいなければどうすればよいのか。君主が自ら衣服を織り、耕して食わなければならない。「自分は君主である」とふんぞり返っているのは、道理を知らないことであると言えよう。君臣も同じ人である。ただ祖先の違いによって、君臣の違いがあるだけで、いつの日か花が散って、土と交わることもあると思わなければならない。自分も人の子であるというのを味わい知らなければならない。
●賢才の事
賢い者を用い賢くない者を遠ざけるというのは、聖賢の教えでもあり、当然の事である。賢い者でなければ、どうして国を治められるだろうか。ただ良いことばかり言う者は、変だ、と察しなければならないし、自分の気持ちにぴったり合う者は、変だ、と察しなければならない。「人心は面の如し」(一人一人の顔が違っているのと同じように、人の思っていることは一人一人違う。『春秋左氏伝』にある言葉)と言うように、「君臣合体」というのは目標を同じくする事であって、君の思う所の善し悪しの基準が臣と一致する事ではない。辛いのと甘いのを使って、よく味を調えることを、「和」という。甘いものだけ、辛いものだけで1つにするのは、和と言わず、「同」という。「同」であろうとする者は、悪賢く、媚びへつらっている者か、愚かな者である。良き人がいればすぐ用いることだ。どうしようか悩んでいるうちに、必ずその人が悪く見えてくるものである。花が開いても、だんだん色が薄くなっていくのと同じである。さて、人に仕事を任せる時は、惜しむことなく任せることである。だまされないようにと警戒ばかりしていると、その人は才能を発揮できないであろう。
●政の事
政の字は正に文と書く(※正しくは文ではなく攵[のぶん]で、これは「攴」の略字である。攴には「たたく」という意味があり、「強制して正す」という意味があるらしい)。「正」は人為的でない天の正しい道理を言い、これは下地となる。これに文(学問。特に漢学、儒学の事であろう)を加え、見事にするのを政という。政を為すにあたっては、寛猛(ゆるやかさときびしさ)を時に応じて使い分けるようにしたいものである。寛・猛はどちらも聖人が世に情けをかける思いやりから来ているものである。秋の粛殺(秋に草木を枯らす事)も思いやりの粛殺であって、春に発生し、止まないようにするためなのである。政を行なうにあたっては、「時」(適切な時期)と「勢」(熱烈な支持)と「位」(立場。権力)を考えることが必要である。この3つは、紙鳶(凧)をあげるのに例えることができる。江戸では凧は春に揚げるが、国によっては時期が異なる。適切な時期であったとしても、風という勢いを得なければ揚げることができない。しかし、時と勢いを得ても、木が茂っているところではうまく揚げられない。自分の身を高い所に置いて、他の凧の様子を見て、風を得てから凧を離せば、高く高く飛ぶだろう。しかし、時・勢・位を得ても、風に応じて凧の重さを考えて操縦する技術が必要である。「盍徹」(『論語』顔淵第十二の9…魯の哀公が有若に対し、「不作で、財政が厳しい。どうすればよいだろうか」と言ったところ、有若は「なぜ徹[十分の一税]にされないのですか」と答えた。哀公は、十分の二でも足りないのに、なぜ十分の一にするのか」と言った。有若は、「百姓が足りていれば、公は誰と足りないことを嘆くのですか。百姓が足りていなかったら、公はいったい誰と足りていることを喜ぶのですか」と答えた)はどうだろうか。しかし、国によって、その社会によって、その人によって、事情は異なるのであるから、「刻舟」(『呂氏春秋』に載る、舟に刻して剣を求む[剣を船から落とした時に、ここで剣を落としたと船に印をつけた]のエピソードの事。時代は刻々と変化していくのに、昔ながらの方法[または一つの考え。今回の場合はこちらか]にこだわることを指す)では難しいだろう。信頼を得る術としては、商鞅が木を移す(秦の商鞅は、国の法律に対する信頼を得るために、南の門の前に立てかけた木を北の門に移動させた者に賞金を出すと布告し、半信半疑で手を出す者がいない中、それを実行したものに対し、言ったとおりに賞金を与えた事)類が良いだろう。しかし、術と聞くと皆、奇抜な作戦の事と思い、才能のある者はみな術を(時・勢・位を得るよりも)先にし、才能の足りない者は、自分には奇抜な作戦を考える力はないと考え、国を治める功績は立てられないと思いこんでしまっている。しかし、術や才も大切であるが、その大本に徳が無ければ、「庭燎の頼むべからざるが如し」(『説苑』には斉の桓公が、面会を望む学者のために庭に火を焚いたが、一年経っても学者は来なかった、という話があるが、これのことを言っているのだろうか?実効性が伴わない、ということを言いたいのだろうか)。民を救おうとしても、従わせることはできるが、民が道理をわかっていないので、その時その時においていちいち作戦を考え、いちいち一人一人に伝えなければならない。民を救うというのはそういうものではないのである。それなのに、小細工でもって、道理を理解させず、ただ従わせようとする。
●賞罰の事
与えることが取ることにつながると知るべきである(『史記』管晏列伝に「与うることの、取ることたるを知るは、政の宝なり」とある)。取るために与えると考えるのはよろしくない。賞罰は春と秋のようにして、思いやりの心を持ち、私心を去ってとりはからうべきである。
●生財の事
「入るを図りて出ずるを為す」(収入に応じて支出を考える)は、経済の基本である。倹約は、費用を抑えて「つづまやか」(控え目で質素)にすることである。惜しんでするのではない。入は陰で出は陽である。入は吸で出は吐である。古いものを吐いて新しいものを吸うのは人の自然な行動である。入は藏に財産を蓄えることで、出はその財をもって何かをすることである。息を吸ってばかりでは、出る息がなくなり、息がつまって胸が苦しくなり、大きく息を吐くことになる。入れるばかりで出ることが無いと、いざという時に大変な目に遭うことになる。呼吸を調和させることは健康の道で、出入を調和させることが財産を増やす道である。
●名器の事
正しい評価(評判)を知ることは、道理を知らなければ難しい。年の暮れの鶯の声はうるさく聞こえるが、元日の馬の声はのどやかに聞こえる。正しい評価を知ることの重さを知ることができる。
●利と義の事
利は稀にしか語らぬもので(『論語』に「子、罕に利を言ふ」とある)、『大学』の終わりには「義利」が説かれているし、孟子ははじめに義理を説いている。利を求めることが失敗を招き、利益にならないことが利益を生むことを知るのは難しい。
…このほかにも書きたいことはあるが、長くなるので略する。知るのは難しくないが、実行に移すのは難しい。私の書いた言葉は人の口真似である。少しも実行できたことが無い。同志の方々と切磋琢磨して、仁の徳を達成できるようにしたいと思っている。…
太田南畝が編纂した『三十輻』に載っている『鸚鵡言』は以上なのですが、『鸚鵡言筆解』には、他の部分の記述が載っています。『三十輻』の『鸚鵡言』の末尾には、天明8年(1788年)8月にこれを書き写した、とあります。『鸚鵡言筆解』の末尾には、天明6年卯月(4月)に「脇坂侯安菫朝臣」に贈る、とありますので、こちらがオリジナルであり、『三十輻』の『鸚鵡言』は書き写される中で省略されていったのでしょうか。では、残り部分を紹介します。省略された理由を考えてみてもおもしろいかもしれません。
●祖宗の法の事(賢才の事の次に入る)
先祖代々守られてきた法は変えてはならない。今の「風」(ならわし。やり方)をもって法というのはよくない。今の「風」は法とは違うのである。法が簡単に変えられるようなものであったならば、人々の心は崩れやすくなるだろう。琴の調べに例えるならば、「黄鐘南呂」の調子は、長い年代にわたって変わっていない。ただ、糸の新旧に応じて、柱(ことじ)の部分を動かす調節をするだけである。祖宗の法も同様である。時代が変われば世の中の風潮も変わるので、柱の位置を動かしていい状態にするように、祖宗の法を盛んにすることこそめでたいことというべきであろう。古いものは人々の心にしみこんでいるので、とてもめでたいのである。我が国の風俗・習慣はなおさらである。王安石の新法は、全て悪かったわけではないが、ついにはその法によって国は乱れた。爺は山に行って木こりをし、婆は川で衣を洗っていたところ、桃の実が一つ流れてきた…というのは誰もが知っている物語であるが、これが、昔々、婆は山に行き、爺は川に行ったところ、瓜が一つ流れてきた、というのでは驚くであろう。爺は山、婆は川でこそ、瓜ではなく、桃であろう、と腹を抱えて笑うだろう。真実の物語ではないので、どちらが山に行って、どちらが川に行っても、瓜が流れてきても別にいいはずなのだが、昔より聞きなれてきたことというのは、偽りの話であっても、心の底に深くしみこんでいるものなのである。まして祖宗の法ならなおさらで、祖宗が天の道理に合うように作った法が残し置かれているのを、後代の才能が無い者がどうして手を加えていいものだろうか。
●流弊の事
物が悪くなるのは、良い部分から悪くなるものである。車だと車輪の部分がまず壊れる。中国の周は、文化が優れていたが、文にのみ走るようになり、だんだんと弱くなっていった。…秦は逆に文を抑え書を焼き、儒学者を穴に埋めたが、これは左に曲がっていたのを矯正して、真ん中より右に曲がってしまったのと同じで、正しくないのは同じことである。それで周も秦も滅びてしまった。周は一族以外にも領地を与え諸侯とし、秦は功臣だけ諸侯としたが、周はそのために戦国を生み、秦はそのために皇帝が孤立した。漢は周と秦のやり方の中間をとって、皇帝と同じ劉氏だけを王とした。時間が経つにつれて、人々はこのやり方は弊害無きやり方だと思うようになっていったが、景帝の頃に諸王の乱が起きた。それで諸王の力を削減したところ、外戚が力を伸ばして王氏により天下を奪われてしまった。…唐は異民族と戦って力を疲弊させ、元・清が天下を取る元を作ってしまった。また、唐は規模の大きなことを好んだので天下が乱れた。また、詩の才能でもって役人を選抜したので、みな詩の文才ばかり誇るようになり、風俗は衰えて軽薄になった。次の宋は唐の失敗を受けてみな小規模にしたのでだんだん弱くなっていき、兵も弱くなり、ついに異民族に国を奪われてしまった。そして元が天下を取ったが、中国の風俗に合わなかったので、明にとって代わられた。これらはみな、先代の良くない点を改めようとして、弊害が生じたものである。
●風俗の事
風俗は「ならわし」である。梅は春を知らないけれども、春になれば花を咲かせ、夏は知らないけれども、枝が茂って実を結ぶ。立春というけれども昨日の冬と異ならず、だんだんあたたかくなっていく。立夏というけれども、昨日の春とあまり変わらず、だんだん暑くなっていく。春の日中あたたかくなるのは、夏の気配を感じさせ、夏の夕方に涼しくなるのは、秋の気配を感じさせる。その間に知らず知らずのうちに花は移り変わっていく。「知らずして帝の則に従う」(良寛の言葉。人は知らず知らずのうちに、天帝の定めた自然の法則に従って生きている、という意味)と言った例もある。
●礼の事
礼は川の堤のようである。いつもは堤を頼みにすることは無いが、提を撤去しようとは思わない。堤の上を歩く旅人も、足でその土に穴を開けようなどとはしない。川沿いの村人ならなおさらである。みな提を少しでも高くしたいと思い、蟻が掘った小さな穴でもないかと用心をする。礼も同じことである。悪いきざしを抑え、良いきざしを育てるものが礼である。身分に合った服を着、身分に合った供を連れ、あるいは輿車に乗って道を進むときに、店においしそうなものが置いてあっても、美しい景色があっても、心を奪われないのは礼の堤の力である。もし身分に合わない服を着て、供の人数を省略して道を進めば、おいしいものがある所に立ち寄ってこれを食い、美しい景色を行き過ぎるまでずっと眺め続けることになるだろう。なればこそ、礼というものは尊いものだとわかる。礼に反するものは見てはならない、聞いてはならない、言ってはならない、行ってはならない。これが仁に至る要点である。礼を軽々しく見るのは、水が無い時に堤を見るのと同じである。礼儀作法が非常に事細かく定められているのも、みな自然の法則に従ったことである。だからこそ「復礼」(礼に立ち返る)というのである。林放が礼の本質について(孔子に)質問した際に、「よい質問だ」と言われたのはよく知られたことである(『論語』八佾[はちいつ]篇。孔子は、それに続けて「派手にせず控え目にせよ、しかし葬式では控え目にせず悲しむのが良い」と答えた)。
●楽の事
鳥や虫が鳴くように、聞く人の心が和らぎ、楽しめるものでなくてはならない。しかし、楽しむところにも良し悪しがある。今流行っている歌の中でも、謡曲というものは、姿勢を正して歌う。村々での歌では礼儀に外れた座り方で歌うのもある。仕事の違いによって、心の持ちようも違ってくるのがわかる。楽の趣旨は言葉や文章では言い表すことができない。天地の中に生じた人は五行(すべてのものは木、火、土、金、水の5つの元素からなるという説)を備えるが、それに対応した五常(仁・義・礼・智・信の5つの徳目)と、それに適した五声(宮・商・角・緻・羽の五つの音階。ドレファソラに相当。宮は土、商は金、角は木、緻は火、羽は水に対応する)によって、人を育てるのがすばらしい政(民を正しく導くこと)というものである。
●政と教と人情と理の事
このようであるべき事、というのは理である。理であるからこのようであるべし、と説くのが教である。しかしこのようでありたい、というのが人情というものである。それでもそのようであれば、正しい姿になりなさいというのが政である。理をもって教とし、人情をもとに政をするのがよい。よいものを着て、よいものを食べたいと思うのは人情である。夏は葛の服で事足りる、冬は綿入で事足りる、というのは理である。悪衣・悪食を恥じるな、というのは教である。上の者はこの服を着て、次の者はこの服を着て、とか、このような食事をして、と身分に応じた制度を定めて、身分によって結婚を許さないようにしたのは教であり、結婚できるようにするのを政と言う。
●任官の事(政の事の次に入る)
『周礼』を「乱民」(社会の秩序を乱す民)の書と言うのは、「大意」(だいたいの意味)は知ってその「業」(深い意味)を知らず、理(道理)を論じて情(人情)を論じないことだと言えよう。先に述べたが、弊害を矯正しようとするのは、弊害を生むことにつながることが多い。遠回りで、いい加減なのが最上のやりかたである。左の役人は右の役人の事を知らず、右の役人は左の役人の事を知らない。車は輪・軾(車の床の前にある横木)・轅(前方に突き出ている2本の棒)・轂(輪の中心にある丸い部分)が組み合わさって車として働くことができる。それぞれ別の役割があるが、車のために用いられるという点では一致している。同じように、左右前後の役人は、役目は異なるけれども、国を治めるために用いられるという点では一致している。役人が多ければ煩わしいが、少なければくつろぎやすい。時と勢を考えて行うべきである。
●幾漸の事(名器の事の次に入る)
心を安定させて落ち着かせ、正しい判断ができるようにすべきである。医師が自分の子に薬を与えないように、私情に流されるようではまともな判断ができなくなる。今日の行いの可否善悪は、すでに前日にはそのきざしがある。現在の治乱(世が治まることと乱れること)得失(成功と失敗)はすでにその前に原因がある。「蕩蕩乎」(広遠なこと。多方面にわたって遠い将来まで見通すこと)としてこそ知ることができるだろう。
●山川の事
山の木がなくなり、川の水が枯れるのは、国が亡びる前兆である。山は木が茂っていて、川は豊かに水をたたえているのが良いのである。山や川を祀るのも、正しいことなのである。
末尾の文章も略されていたようで、正しくは次のようでした。
…このほかにも書きたいことはあるが、長くなるので略する。知るのは難しくないが、実行に移すのは難しい。私の書いた言葉は人の口真似である。私が述べたことは誰しもが知っていることで、どの本にも書いてあることであるけれども、心の赴くがままに、見たり聞いたりしたことを書き記した。ただ人は誠の一つ、これあるのみである。人の短所を言わず、自分の長所におごらず、人に恵み与える際には私情を挟まず、物を恵んでもらった時は決して忘れない。ただ天の心を謹んで承ることが、人として行うべき道である。武家はお互いに(徳川に)代々仕える譜代であることのありがたさを忘れることがなければ、何事にも慎みの心が芽生えるものである。今述べたことも人の口真似である。少しも実行できたことが無い。同志の方々と切磋琢磨して、仁の徳を達成できるようにしたいと思っている。…
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●松平定信の老中就任
『文恭院殿御実紀』には、6月19日に松平定信が老中首座となったことが記されています(「松平越中守定信加判の列上座命ぜられ侍従に任ぜらる」※「加判の列」とは老中の事)が、その前日にはすでに、松平定信によって作られたと考えられる次の訓令が出されています。
…大名・旗本などは、自らの身分に応じて費用を節約し、無駄遣いをせず働くようにせよ。自身の身分に応じた家来・馬・武器などを用意するのは当然の事である。また、「文武忠孝」(文武[学問と武芸]と、主君への忠義・親への孝行に励むこと)は、「法令」(武家諸法度[天和令]のこと)の第一(武家諸法度[天和令]の一条目に「文武忠孝を励し可正礼儀事」がある)であるので、特に気を遣うこと。年若いものは、ひたすら武芸を習うこと。乱舞(歌や音楽に合わせて踊ること。この頃流行していた)その他の芸能は、気晴らしになるものなので、余力があれば学んでもいいとは思うが、そればかりに熱中すれば、自然と武芸がおろそかになるので、よくよく注意すべきである。…(「万石以上以下末々まで。常にその分に応じて用度を節し。冗費を省き奉仕すべし。然りとてをのが身に應じたる人馬武器等を嗜むは勿論なり。又文武忠孝は前々より法令の第一なれば別て心入れ。年若き人々専ら武技を習ふべし。乱舞その他の技芸は心を慰むるのみなれば。余力あらば学ぶも可なりといへども。その技に専なればをのづから武道も薄く成べければ。よくよく心すべし」)
また、7月24日には文武に励んでいる者の姓名を報告するように通達しています。
…文武の道は誰しもが身につけているのが当然の事であるけれども、特にその道に精進している者、または師範(先生)などをしている者がいれば、その名前を報告すること。
一、学問を教え、文章について説明できるほどの者。
一、弓馬・剣槍・柔術・火術(大砲などの火器を扱う技術)などの武芸について、特に精進し、また、免許目録(その流派の扇を全て学んだこと)を得、それについて教えている者。
以上の者について、その師匠の名前・流派の名前・その者の年齢についても報告すること。…
松平定信が武士に対し、文武に励むことを勧めていたことがうかがえますが、この事実をもとにして、朋誠堂喜三二は『文武二道万石通』を書くことになります。
●
(源)頼朝公(モデルは将軍の家斉)は人払いをさせた後、畠山重忠(モデルは松平定信)に、「重忠よ、我が日本を治めてより、武士の者たちは落ち着いて生活できるようになったが、一方で戦に対する備えを怠る気持ちが生じてきているように思う。世の中は治まっているとはいえ、学問だけでは世を治められない。今、鎌倉にいる武士で、文(学問)に傾いている者、武(武芸)に夢中になっている者はどれだけいるか、汝の知恵を持って見定めて欲しい」と仰った。重忠は答えて言った、「所詮、文武を兼備している武士はいないので、どちらかに偏っていることでしょう。また、文でも武でもない「ぬらくら武士」も多くいます。この「ぬらくら武士」を2つに分けてみせましょう」
部屋の外にいる武士「御人払いをされて何の話をされておられるのだろう。何やら、「文福茶釜」(文武)で「剣菱」(兼備。『大辞泉』には、「兵庫県伊丹に産する酒の銘柄。江戸時代には将軍の御膳酒にもなった」とある)を飲む、という声が聞こえた」
そこで、重忠は、富士山の「人穴」という洞窟に不老不死の薬があるという噂を流したところ、これを聞きつけた武士たちが大勢富士山に集まった。
そうすると、富士山には次の3つの穴があった。
[文雅洞]…入口に「文雅(文学に巧みで、上品で優雅である事)の心が無い者は中に入ることを許さず」とある。これを見た者、「俗物(無学で、風流を解さない人)は行かれないな」
[長生不老門]…これを見た者、「なんだか乙(なかなか面白そう)なところだな」
[妖怪窟]…入口に「柔弱な者は入るべからず」とある。これを見た者、「たいしたこたぁねぇ、入れ入れ」
「糠武士」(価値の低い武士)たちは、恥をかくとも知らず長生不老門に入る。長生不老門を抜けたところには、とろろ汁をこぼしておいたので、みな滑り落ちていった。これは「ぬらくら武士」への皮肉である。
(滑り落ちる武士たちは田沼派の面々を指している)
「もう山は嫌だ」(田沼が掘っていた鉱山の事を指すか)
「このねばっているのが不老不死の薬だろうか」
「体がぬらぬらだ。踏みとどまっていられない」
「これが本当に穴にはまった(だまされた)というのだ。「あな」(ああ)憎らしい憎らしい」
その後。重忠は頼朝公に報告をする。
重忠「文人より武勇の人の方が多くございました。しかし、「ぬらくら」の方がさらに多くございます。このように仕分けましたのは、米の千石通しからの思い付きです」
頼朝「文より武が勝ったのは喜ばしいことだ。長く平和な世が続いていると、自然と文が勝つものだ。おれが心配しているのはそのことだ」
この「ぬらくら武士」たちを文武の道に進めるため、「ぬらくら武士」たちに対し、「山の冷気に当たって体調を崩しただろうし、落ちてしまった者もいると聞く。箱根で21日間湯治をせよ」と申し伝えて、箱根に向かわせる。
「ぬらくら武士」たちは、七湯に分かれ、思い思いに好きなことをして楽しんだ。
湯元では香合わせをしたり、茶の湯をたしなんだり。塔の沢では、将棋をしたり、めくりかるたをしたり。堂ヶ島では、乱舞をしたり、釣りをしたり。宮ノ下では、楊弓(小弓を使った的当て)をしたり。木賀では、河東節(浄瑠璃の一種)をしたり、飼鳥をめでたり。底倉では、売春をする若衆と相撲を取ったり。
この様子を見ていた重忠たちは、「ぬらくら武士」たちの仕分けを考える。
重忠「茶、香、生け花、鞠、俳諧は文の道へ引き入れられよう。碁、将棋、乱舞、釣り、網は無理やり武にこじつけるがよい。同じ浄瑠璃であっても、(語り口が激しい)義太夫節は武の方へ、(情緒的な)豊後節・河東節は文へ引き入れなければならぬ。楊弓・小鳥・めくりはどうしたものか」
本田次郎「楊弓は弓を使うので、武とし、小鳥は風流ではないですが、文としましょう。めくりは判断がつきかねます。底倉で身振り声色・相撲・拳をして遊んでいた者たちは、みな武としましょう」
石臼芸助「同じ拳でも、本拳(出した指の数の合計が言った数と同じであった場合勝ちとする。指スマみたいなものか)は文ともいえます。虎拳(虎の毛皮・女の衣装・鉄砲を用意してそれぞれ部屋に入り、いずれかの物を身につけ、ふすまを開いた時にその格好で勝負をつける遊び。虎は女に勝ち、女は鉄砲に勝ち、鉄砲は虎に勝つ)は武としましょう」
さて、武士たちが帰国する際に、大磯の手前にある馬入川(相模川)の川上の堤を切ったので川が増水し、武士たちは大磯で14・5日足止めされることになったが、ここで派手に遊女遊びをしたために武士たちは三万両もの借金ができてしまった。
頼朝公は「ぬらくら」の大小名を召して次のように仰せになった。
「先に重忠に文武のふるい分けをさせ、ぬらくらの者たちは箱根の七湯にて文武いずれに向いているかを見、大磯では財産をすっかり使い果たさせたが、これはすべて文武の二道に導かせるためである。これから以後は、それぞれに文武の道を学ぶようにせよ。必ずぬらくらの心を持ってはならない。今、戦が起こったとして、とろろ(とろろはぬらぬらしているので、ぬらくらのことか)で戦ができるものか。文とも武ッとも言ってみろ(「うんともすんとか言ってみろ」をもじった洒落)」
武士の者たち「ありがとう存じ奉ります」
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●「打ちこわし」とは『五月雨草紙』によると「是は細民一時に蜂起し、…米を買込み置き、〆売を為す者の居宅倉庫を打毀し、其貯ふる所を、盡く道路上に撒して狼藉たらし」むことです。
この打ちこわしが最初に起きたのは、1733年のことで、前年の秋には西日本を大量のイナゴが襲い、それがもとで米の収穫量が大幅に低下し、米価が急騰、江戸の町人はこれに苦しむことになったのですが、この時、江戸の町人たちの不満の矛先が向かったのが米屋の高間伝兵衛でした。
なぜかというと、高間伝兵衛は、米の安値に悩む徳川吉宗(米が安いと、年貢米を売っても収入が多くならない)に命じられて、1731年に米の大量買い占めを実施していたからです。
町人としては、この非常時に、なぜ米を放出しようとしないのか、そうすれば米が安くなり、人々が助かるのに…という思いだったのでしょう。
享保17年12月より、江戸の町人たちは奉行所に押し掛け、米価を引き下げること、問屋を停止する事、各地の米蔵を調査する事、各地の米を江戸に引き入れること、「御救い御普請」(公共事業)を実施する事などを嘆願するとともに、高間伝兵衛の身柄を町人たちに引き渡すように訴えます。1月20日頃には奉行所に押し寄せる群衆は2・3千人まで膨らむようになっていました。これに対し、奉行所は23日に「御救米」を実施することを伝えますが、伝兵衛の身柄引き渡しは拒否しました(26日)。
一方で高間伝兵衛も不穏な状況に不安を感じており、自身の所有する米3万石を廉売する事を幕府に願い出て、23日にはこれが許可されていました。これが実施されていれば打ちこわしは起こらなかったかもしれませんが、廉売が実施される前に、「伝兵衛の身柄引き渡し拒否」の報に憤った町人たちが蜂起することになります。
26日夜、町人たちは高間伝兵衛の屋敷に赴き、門をたたいて、米を出すこと、買占めをやめることを要求したのですが、これを聞きつけた町人たちが続々と集まって来て、約2千人まで膨れ上がりました。ヒートアップしてきた町人たちは、ついに門を破って、内部に押し入ると、家財を打ち砕き、堀に投げ捨て、帳簿も破り捨ててしまいました。この時、高間伝兵衛は上総国に家族と共に逃れていたので不在であったのですが、もし残っていたらどうなっていたのでしょうか(◎_◎;)
大坂の豪商・鴻池屋伊助は、この事件について「市中のものども町人家宅を打崩し候儀是れ始めてなり」と記しています。
さて、この享保の打ちこわしの後半世紀して、1787年に天明の打ちこわしが起こることになるのですが、『兎園小説』が「昔享保17年壬子の秋、五穀熟せず。これにより江戸中の米の價、銭百文に白米1升4合を換へしかば、衆侠忽に群がり立ちつどひて、伊勢町なる坂間(高間の誤り)といふ米商人のいちぐらを破却したるこそ、未曾有の珍事なれとて、古老の口碑に伝へたれども、そは只坂間(高間)一箇のみ」と記し、『凶年起信』が、享保の昔に高間伝兵衛1軒が打ち潰されたという事は今の人の耳に残っているが、江戸中残らず騒動になるというのは、幼君(家斉。この時13歳)に申し訳ない、と記すように、天明の打ちこわしは享保の打ちこわしの規模をはるかに上回る大規模なものとなります。
なぜ天明の打ちこわしは起こったのでしょうか、まずその背景について見てましょう。
●なぜ天明の打ちこわしが起こったか
天明3(1783年)年8月に起きた浅間山の噴火などにより、米価は高騰し、天明4年3月には100文で買える米の量は5.5合にまで減少しましたが、幕府の対策などにより、100文で買える米の量は9月には1升4・5合(14・15合)まで増加しました。その後も1升以上買える低い米価がしばらく続きましたが、天明6年9月下旬に6合と、半分近くにまで減少することになります。その後も状況は改善されず、10月には天明4年3月を下回る5合しか買えなくなり、天明7(1787年)年5月上旬には4合、17~18日には3合、19日には2.5合にまで達しました。
米価高騰の原因について、諸書は次のように述べています。
『奥川船積問屋規則』…近年凶作が続いたうえに、天明6年7月15日より16日にひどい大雨が降り、関東の川という川があふれ下谷・本所で洪水となり、田畑は皆無になり、翌年に米穀が流通しなくなったので米価が上昇した。
『川辺一番組古問屋文書』…去年関東五か国で洪水となり、さらに関西・関東諸国共に意外の不作となったので米価が上昇した。
杉田玄白『後見草』…凶作が7年うち続き、特に天明6年は全国的に収穫量が3分の1になった。
『分恭院殿御実記』…近年諸国で凶作がうち続き、米価は高くなっていたのに、去年はさらに洪水が起きて江戸は特に米が少なくなったので、人々は苦しんで飢え死にしようとしていた。…世間で伝えられることには、子の年(安永9年[1780年])以来7年凶作が続き、特に午の年(天明6年[1786年])は、日本国中で収穫量が3分の1になったという。これによって今年の春に至って米価は次第に騰貴し、5月の中頃には浅草の御藏庭相場が100苞212円にまでなった。
松平定信『宇下人言』…米価が急騰し、江戸では1両で2斗までになったので、「かろきものども」は生活が苦しくなって、「御府内」の富豪の家を打ち潰した。…心ある人々はみな、「天下の御政」に「欠事」があるためにこのようなことになったのではないか、と眉をひそめあった。政治に緩みが出て、代官は自分のことばかりを考えるようになったので、「取箇」(とりか。年貢の事)は次第に減少し、また、金納の地域も多くなってきていたので、年を経るにつれて御藏の米が不足し、蓄えが乏しくなっていった。その中で天明3年・6年に凶作が起き、特に6年の大水により関東の「立毛」(収穫前の農作物)が失われてしまったので、いよいよ御藏の米が少なくなり、天明7年の夏には、「切米」(家臣に渡す俸禄米)を渡そうにも藏が空っぽなのでどうしようもなくなり、浦賀に米が入り次第、その米を渡す有様であった。蔵の状況を見て、悪賢い商人は(足元を見て)米価を引き上げてきたものの、米価を抑える手立ても無かった。
凶作に加えて洪水が起こり、米の流通量が著しく減ったことが原因として挙げられていることがわかります。
これにより、『縮地千里』によると、江戸は「江戸中大之ききん」「古今稀成るききん」という状況になったといいます。
野菜や豆腐を売り歩く者はひどく少なくなり、『天明丁未江戸騒乱記』によれば、ある豆腐売りは小さく小分けにした豆腐を売り歩いたものの、高いために売れずに悪くなってしまったため、毎日5・6丁捨てることになった、といいます。
それならば人々は何を食べたのかというと、小豆・小麦粉・挽割麦、「極貧の者」は「ふすま」を食べた、と『天明丁未江戸騒乱記』にあります。
「ふすま」!?
「ふすま」って…襖!?部屋を仕切っているあの引き戸!?と思いきや、調べると、水戸紙店のウェブサイトによると、「ふすまは『麩』もしくは『麬』と書き、簡単に言うと小麦の糠(ぬか)のことです。ブランというと聞き馴染みがあるかもしれません。…麬を含むパンの代表が『全粒粉パン』です。これは小麦を丸ごと粉にしたもの(全粒粉)を使用したパンで、小麦粉由来のパンよりも、歯ごたえと香りがあるそうです。お米で言うところの玄米のようなものと言えば、イメージしやすいでしょうか?」とあり、どうやら引き戸の事ではないそうです(;^_^A
『天明丁未江戸騒乱記』には、小豆・小麦粉・挽割麦や「ふすま」を食べていると、「脾臓を損し、病ひを引出し、ふくれ煩ふ者少なからず」あったので、分別のある者は食べるのをやめた、とあります。「ふくれ」は調べてもわかりませんでした💦お腹の張り…とか、腹痛…とかでしょうか??
調べると小豆や小麦粉は食べ過ぎると下痢・腹痛・腹部不快感を起こすそうです。食べ方の問題ですね💦
また、「きらす」(おからの事)を食べる者もあったが、今年は誰も買い求める者が無く、農村の肥やしとなった、これはお腹を壊し、病になることを恐れたためであった、とも書かれています。調べてみると、おからは食べ過ぎると便秘や腹痛を起こすことがあるそうで、また、火を通さないと傷みやすいそうなので、これも食べ方の問題であったと思います。
また、『天明雑記』には、町々では酒粕を焼いたのを売ったり、小豆飯をおむすびにして売ったりしていた、「裏店住居の至て軽き者」は木瓜や色々な草木を食べた、とあります。
「材木問屋記録」(『川辺一番組古問屋文書』)には、…江戸の米が払底したので、…財産の多少にかかわらず、朝夕の食事は、大麦・小麦・大豆・小豆・「実豆」・薩摩芋または素麺(そうめん)を町人たちは皆食べていた。しかしそれらの値段も3月以来段々と上がり、素麺は5月に払底して販売停止となった。…とあります。
『視聴草』には、大根・薩摩芋・割麦・小豆・大角豆(ささげ)を混ぜた「かて飯」または粥を食べたり、唐茄子(かぼちゃ)をゆで、「砂糖きなこ」をつけたのが売られたり、「いっこく餅」として大きな「いまさかよねまんじう」(今坂餅)が1つ8文で売られたりした。魚はたくさんとれて安く、特に鰹や「かすこ」(血鯛)・小鯛が「すさましく」とれ、生利節(鰹をゆでたり蒸したりして作ったもの)に塩を添えたものを1本4文で売ったりしていたが、これは「前代未聞珍ら敷事」であった、とあります。
魚が安かった、というのは『兎園小説』にも書かれており、それには、天明7年の夏、飢えている最中に、伊豆・上総で鰹の生節が江戸に入って来て、売り歩く者から買うと、とても大きな生節1つが14文・16文で買えた、また糟小鯛という小鯛を、毎日売り歩く者も多かったが、これも値段がとても安く、この魚肉を持って、飢えをしのいでいる者も少なくなかった、とあります。また、『天明丁未江戸騒乱記』には、今年は夏野菜物が大当たりで、茄子・小豆はもちろん、白瓜が特に安かった、魚類は栄養物であるので、町内外で買われたが、魚は安かった、鰹は48文、夕方は32文で、生り節も安かった、とあります。
また、『兎園小説』には、貧民は昆布やヒジキを食べてしのいだ、とあります。また同書の別の項には、当時の町人において最上の飯は、白粥・小豆粥・麦挽割で(5月17日付の三井家書状には、「朝夕粥麦飯」とあり、確かなことがわかる)、次が豆飯・そら豆飯・芋飯、その次が干葉飯(ひばめし)・きらず飯・うどんの粉の「つといれ」、ひどい場合は、得体のしれぬ野菜を鍋に入れ、塩で少し味をつけ、その中に稗の粉を散らして食べたり、藁を「すさ」(わらくず)のように切って、ほどよく焦がしたのを挽臼で挽き、団子にして食べた、とあります。また、宇多良直(鱗斎)は、自分の住居周辺の土手に生えていた食べられる草は皆取り尽くされていた、と言います。
人々はなんとか食いつなごうと努力していたことがわかりますが、次第に江戸では次のような光景が見られるようになっていきます。
『兎園小説』…やせた犬が集まって草を食べていたのを目の当たりにした。
『天明未年の記』…「軽き者」は食いつなぐことが難しくなり、毎日、家の道具を、鍋・釜に至るまで売って食いつないでいたが、5月頃になると道具も売り尽くし、また、買う人も無く、あと4・5日で飢え死にする、というところまで追い込まれていた。
杉田玄白の日記の5月17日条…実際に毎日飢え死にする者が多く現れた。
『とはずがたり』…「巷に餓死するあまたありて」
『麦の落穂』…生きることが難しくなり、両国・永代橋などから入水したり、または行き倒れる者が多くなった。
『宝暦天明災異録』…「道路に餓死し、或は入水し縊れ死するも数多ありて、江戸中何となく騒々敷、恐ろしく思ひし有様にてありしなり」
『天明雑記』…貧窮で行き詰った者は身投げ、あるいは首を縊った、各地で溺死人や首つりを見た。
『凶年起信』…5月中旬に両国橋の上から、6歳と3歳の子どもを縄でくくりつけて水中に落とし、続いて親も入水したという。
『天明丁未江戸騒乱記』…(物価高のために)日々町人の生活状況は悪化した。「東照君」(徳川家康)が天下を治められて以来、天明に至るまで、江戸の城下がこのような状況になったとは聞いたことがない。道や山、野原には飢え死にした者が、また、堀や川に身を投じる者もいた。市ヶ谷の御堀には10日ほど連続で2・3人の水死体が浮かんでいたから、それ以外の場所も同様だと考えられる。
御買米御用萬屋記録…5月初めには米がますます払底し、中ごろには白米100匁につき2.5合になり、買いに行っても何も無く、これにより細々と暮らして居る者は飢えてしまう者が数知れず、乞食・非人は毎日川へ身を投げ、死ぬものは数知れなかった。
非常に差し迫った状態にあったことがわかります。
苦しんだ人々は、5月上旬に町奉行所に御救い御慈悲願いを提出しましたが、これはなんと却下されてしまいます。
しかもこの際に町奉行の曲淵甲斐守(景漸。1725~1800年)が次の言葉を発したと世間にまことしやかに伝えられました。
「上の御威光をもってしても江戸中に米も無く(どうしようもない)、秋の収穫まで今少し待つように。その間、できるだけのことはするつもりであるが、前の飢饉の際は猫1匹3匁で売られていた。それと比べてみればそれほどの事態ではなかろう」と顔に少し笑いを浮かべながら話した。(『親子草』)
「田舎では猫まで食っているという。戦国では牛馬を食っていた。江戸の町には犬が沢山いる。犬がおるうちは飢えることはあるまい。鍋・釜・畳などはまだあるだろうから、それを売るなどせよ。もともと江戸の町人はぜいたくだ。裏店に住む者たちでさえ銀のキセルに銀の櫛を使っておる。去年から粥を食うようにとお触れを出していたのに、そうしなかったからいまこのように苦しんでおるのだ。100文につき米1合になってから嘆願に来るようにせよ」(『麦の落穂』)
「お前たちの願いを聞いて、米商人たちを取り調べたが、彼らは皆米は無い、と言っておった。商人であればこそ、米があれば売っておろうに、売らないというのであるから真実なのだろう。空腹であるというなら、食料を食べるほかない。教えてやろう。味噌豆をよく煮れば、砕けて二つとなる。これを麦なり、稗なり、野菜なりを加えて、炊いて食べるがよい。腹持ちが良いものであるから、一食だけでも事足りる」と言ったのを人々は承服せず、中には悪口を言う者も出たが、ついには皆追い出されてしまった、「これは人々の気持ちがいら立つきっかけとなった」(『兎園小説』)
人々が米の値段を下げてくれるように嘆願に行ったところ、奉行所が「凶作で米が無いのだからどうしようもない、秋に米ができるまで、大豆・麦などを食べて食いつなぐように」と言い、それに加えて、「粥を食べるように」とも言った。これに対して人々は「米が無いのに粥を食えとは、大きなお世話だ、炊く米があれば米が安くなるようにお願いになんて来ない」と奉行所を嘲った。(『天明丁未江戸騒乱記』)
本当にこのように言ったかはわかりませんが、噂が伝わっていくと、人々は「御威光をもってしても米はどうしようもないというのは、なんとも安心できない」(『親子草』)と不安が募ることとなります。
『兎園小説』や『天明丁未江戸騒乱記』には、奉行が人々に米の代わりに豆を食べることを勧めた、とありますが、これについて、幕府は5月19日に大豆の値段を引き下げ、米の代わりに大豆を食べるように奨励する…というお触れを実際に出しているのですね。
…米が払底しているので、人々の食料として、大豆が適当な品であるといえるのであるが、その値段が高いので、問屋・仲買どもに値段を引き下げるように申しつける。下り上大豆は1両につき6斗7・8升より高値にしてはならない。下り中大豆ならびに南部地廻り大豆は1両につき7斗~7斗2・3升よりも高値で売りさばいてはならない。小売りの者たちもこの事をよく心得て大豆を売るように。大豆を食べると、腹を壊すなどと心得違いの者がおるように聞き及んでいるが、大豆は軽く煎り、湯にひたし、煮てやわらかくしたのを、米と混ぜて炊けば、うまく食べられるようになる(「大豆軽くいり、湯えひたし置、煮やわらけ、米を交、飯にたき候得は、至て給能相成候」)。…
大豆の調理法についても言及しているというのは親切ですね😅
『親子草』には、豆を煮ずに食べた者は、腹が張って悶え苦しんだ、とあり、どうやら大豆の調理法を知らない者が多くいたようですね。
大豆を食べると腹を壊す云々について、『籠耳集』には次のように書いてあります。
…江戸では次の流言が飛び交っている。「大豆のみを食料とすると、人体によくなく、下痢・脚気を患い、死んでしまうという」…
また、『兎園小説』には、小豆を食べると、「津液」(体の正常な水分)が小便をしたときに抜けてしまって、人は激しく痩せてしまう、という噂があった、と記しています。
江戸時代の人々は、豆腐など大豆の加工食品はよく食べていましたが、大豆や小豆単体では食べたことが無かったのでしょうか。
それとも、今まで米を食べてきていたのに、それを食べなくなったことに対する不安感があったのでしょうか。米を食べなくても大丈夫なんだろうか…?という。
江戸の人々はとにかくコメ信仰がすさまじく、現代人の約2倍に当たる1日に約450~600gの米を食べるなど、とにかくコメを食いたいのです。
そのため、幕府に対して、なんで米の代わりに大豆を食わなきゃならねぇんだ、米を食わせろ!と不信感を持つことにもつながったかもしれません。
まぁ、『天明丁未江戸騒乱記』によると、「当時の武士は大豆を奈良茶飯のように炊いて食う者が多かった」そうなので、武士は「なんで反発するのか?コメを食うなんて贅沢だ、自分たちは我慢しているのに」と思っていたかもしれませんが。
幕府は大豆作戦の他に、次の手を打っています。
まず、5月9日に、米の売り惜しみの禁止、「素人」の直売買の許可を命じる触れを出しています。田沼政権が天明4年に出した米穀売買勝手令と同様の内容ですね。
このお触れには次のように出した理由が書かれています。
…米の高値が続いているところ、港に入ってくる米が非常に少なくなり、そのためさらに米が高値になっている。町人たちは困窮し、「軽き者」(貧民)は生活を維持することが困難になっていると聞き及んでいる。…
5月13日には「極貧之町人」を対象に救い米を実施しています。
この際、救い米を実施した曲淵甲斐守・山村信濃守は次の内容の書状を奏上しています。
…米穀が高値になり、町の「軽き者」で飢え死にする者も出ようとしている状態なので、少しでもいいので御救米を出していただけないかと去年の閏10月に申し上げました結果、これが認められ、12月に家財を没収された者の金を、今年の春には御藏金を受け取り、3月までに御救米を実施しようとしていたところ、少々米の値段が下がり、また、麦の収穫時期にもなったので、さらに米の値段が下がると考えて先月に御救米の停止を申し上げました。しかし、上方(京都・大坂)において麦が不作で、関東近国も不作の所が出るありさまとなりました。関東に出回っている米は稀な状況で、上方から送られてくる米も数少なく、米の値段はだんだん上昇して100文で4合ほどになり、この上さらに米が入ってこないという事になれば、飢え死にする者も出てくると聞き及んだので、家で稼ぐものが1人しかいないのに養う者が多い者、病気のため働けない者、その他生活が非常に厳しい者に御救米を実施したいと思います。…
しかしこれらの政策は焼け石に水、米価は下がる気配を見せませんでした。
5月17~18日頃になると、米屋は売り切れた、と言って米を売り惜しむようになりました。ひどいやっちゃ、です。まぁ、「天明7年証無番其外書状」には「米があまりにも高騰したため、米を精米する春米屋は(卸売業者から米を買うのが難しくなり)少ない資金で商売を続けるのが難しくなり、一両日休業することにした」とあり、春米屋はかわいそうな面があったのかもしれません。
これに対し江戸の町は不穏な雰囲気になっていきます。
5月18日に年番名主(江戸は23組に分けられていたが、その組を代表する名主は1年交代制であった)たちが次の内容の救済願を提出していますが、これには次のように書かれています。
…米の高値が続いて、江戸は皆困窮しております。特にその日をやっと送っている者は、必死に働いても、粗末な食事にさえありつけない有様で、この中にはさらに病人や養っている者が多い者もおります。この状況の中で、御救米を頂戴し、飢え死にする者がなくなれば、有難き幸せにございます。また、米穀について、問屋は荷主に掛け合い、預かっていた米を仲買に限らず米商人はもちろん、素人にも直接売買しても良い、とのお触れが出されましたけれども、それでも米穀がとにかく払底している状況で、日を追うごとに米価が上がり続けており、当月上旬までは1両で玄米3斗~3斗4・5升、100文では白米4~4.5合買えていたのが、ここ1・2日は1両で玄米2斗、100文では白米3合ほどしか買えなくなりました。町人たちは、もちろん仕事に励み粗食に甘んじて生計を維持しようとしているのですが、米相場は日ごとに高値になっており、小売の春米屋は少ない元手では商売が続けられないとしてここ1・2日は休業する者が出てきております。もちろん米穀の事については奉行所様が様々な手を打っておられると思いますので、町人たちが騒ぎを起こすことが無いように取り計らっておりますけれども、毎日のように米価が上がって、生活が困難になっている者がかなり多くなっていて、町中では善悪の区別なく、みな切迫した状況になっており、みなその日の飯を得るのにもせいいっぱいで、家族を養う者はどれだけ稼いでも食費を賄えない状態であり、「軽き者共」が騒動を起こさないようによく言って聞かせておるのですが、今のように日ごとに生活が困難になっている者が多くなっている状況で、町中はみな落ち着きを失ってきております。恐れ多いことではありますが、なにとぞ御救・御慈悲を実施していただきますように、願いあげる次第であります。…
また、杉田玄白の日記には、5月12日条に「所々盗賊流行」、17日条に「盗賊縦横す」とあり、困窮の為、盗賊に走る者が多く現れてきていたことがわかります。
だいぶ荒んできていますね…。
19日になると、5月21日付の三井家書状には、次の事があった、と記されています。
…いっこうに江戸に米が入ってこず、一昨日の19日には3斗5升入り100俵が185両となり、1両につき1斗5・6升、銭100文で玄米2.5合で小売りされていました。米の相場と共に他の商品も連日値上げされ、「軽き衆中」はおおいに困窮しております。春米屋などは残らず休業しております。中心から外れた場所だけでなく、駿河町近辺でも不穏な様子は言葉に言い表せないほどです。中心から離れた場所では財産がありそうな所に行って金をねだり、承知しなければ家を打ち潰すと言ったり、また、口論を仕掛けて、無理に穀物を借り受けたりすることも起こっているそうです。…小名木川猿江橋手前に、白子屋という店があるのですが、一昨日240・50人ほどが押しかけ、施しをするように要求されたので、色々説得したものの引き下がろうとしなかったので、金40両・大豆40俵を差し出したところ、納得して帰っていったそうです。…
また、伝聞ではありますが、『一話一言』には次の事件があったと書かれています。
…19日昼にある大工が300文を持って米屋に米を買いに行ったが、米屋は米は無いと言ってついにはこの大工を殴って追い返してしまった、これを聞いた人々は50人ほどで夕方にこの米屋に押しかけ、300文分の米を売るように要求したが、またしても同じように対応しようとしてきたので、大勢で米屋に踏み入り、米屋の主人を引きずり出して打ち殺した。…
エスカレートしてきました。
当時、日本各地では打ちこわしが発生していました。『天明六丙午饑饉之記』には、
「一、京都別条なし。
一、伏見八九軒、同六地蔵にて 米屋一軒、薬屋一軒
一、大津にて三四軒
5月7日8日
一、摂州兵庫 西ノ宮
同11日
一、同木津村 難ン波村
同12日
一、大坂町中にて所々打壊、呉服店小橋屋打壊、江戸同様に米等押買押取致候由」
…と全国の被害状況が書かれています。
住友家記録には、…天明7年夏に米価が騰貴したので、京都・大坂・江戸などで「暴行者」が蜂起して、各地で騒乱となった。当家は貧民を救助した。…とあり、
『分恭院殿御実記』には、…肥前国長崎・摂津国大坂・陸奥国石巻・紀伊国和歌山・大和国郡山など、騒動の起こらなかった国は無かったという。…とあり、
『宇下人言』には、…「かろきものども」は生活が苦しくなって、「御府内」の富豪の家を打ち潰し、乱暴をした。この頃、大「阪」・長崎・堺や各地の城下町も、みな同様であった。…とあります。
各地で打ちこわしが起きている、という情報が江戸にも伝わったことで、江戸の者たちは、「よし、では俺たちも」という思いになったのではないでしょうか。
そして5月20日の夜、困窮に耐え切れなくなった江戸の人々はついに蜂起し、打ちこわしを行なうことになります。
●天明の江戸打ちこわし
先ほど、打ちこわしの開始日を「20日」と書きましたが、これには異説もありまして、
杉田玄白の日記には、19日条に、この頃米価の事で赤坂の米屋に人々が集まって打ちこわしを行なったという(「此頃米価に付赤坂米屋は雑人党し破■と云」)、とあり、
『親子草』にも19日夜に赤坂の米屋が襲われた、とあり、
『北窓雑話』には19日に赤坂・田町で町人が大勢集まって米屋数軒を打ち潰した、とあり、
『一話一言』には、19日に永代橋の米屋が打ち潰された、とあり、
高山彦九郎日記に載る、打ちこわしを伝える瓦版には、19日朝、深川周辺で米屋が1軒打ち破られた、とあり、
大村家記録には、5月19日夜、山ノ手周辺の家々が打ち潰された、とあり、
『視聴草』には、18日に本所扇橋・深川六間堀の辺りで玄米屋・春米屋が多数打ちこわしにあったという、とあり、
『籠耳集』には、18日に江戸に着いたところ、昨日(17日)の夜、赤坂周辺で米屋が7・8軒も潰されたと聞いた、とあり、
5月17日付の三井家書状には、…あれやこれやと不穏な情報が伝わっており、なんとも苦々しく思っております。既にこの間糀町にて米屋1軒、赤坂にて春米屋1軒が打ち潰されたそうです。これまで地方ではこのようなこともありましたが、江戸ではこれまでこのようなことはありませんでした。さてもさても恐ろしき世の中(「恐敷世柄」)になったものです。
…とあるように、17・18・19日に、すでに打ちこわしが起きていた、というのですね(◎_◎;)
伝聞の史料のため、フェイクニュースも含まれている可能性もありますが…。
しかしこれらの打ちこわしは散発的なものでした。江戸中を巻き込むことになる本格的な打ちこわしが始まったのが、20日でした。
諸書には次のようにあります。
太田南畝『一話一言』…20日夕方、赤坂の米屋が打ち破られた。
三井家書状…(20日)夜前に糀町・赤坂・今井谷辺りで米商売をしているところおよそ27軒が打ち潰されましたが、親分格の者が捕らえられ、今日牢に入りました。
伴家書状…20日夜、赤坂で17軒打ちこわされ、四ツ谷・糀町で4・5軒ほど打ちこわされた。
和泉屋記録…20日暮れ前に赤坂の米屋が20軒ほど打ちこわされ、夜に入って糀町の米屋14・5軒が残らず打ちこわされた。
島屋記録…20日夜、赤坂の米屋20軒が打ちこわされた。本所も同じく打ちこわされた。
『天明六年江戸中打ちこわし一件』…5月20日夜、赤坂中の春米屋が32軒残らず打ちこわされた。
『天明六丙午饑饉之記』…5月20日、深川森下町の平松屋という米屋に大勢が押しかけ打ちこわした。この日の夜から21日の朝まで赤坂御門外の米屋を20軒余り打ちこわした。
勝山藩家老日記…(22日条)大勢が集まり、一昨夜(20日夜)赤坂の米屋20軒ほどを打ちこわした。
『凶年起信』…20日夜、赤坂伝馬町・竹輪屋町・田町・今井谷周辺に、100人ほどが集まり、米屋21軒を打ち崩したという。
高山彦九郎日記…(6月2日条)江戸より送られてきた騒動の事を記した文書を見せられた。騒動は赤坂より始まって、江戸中を打ち潰すに至った。20日夕方より起こり、21・22・23日の昼夜の騒動、米屋を始め質屋・両替屋に至るまで打ち潰す。限りなく多い(「其の数を知らず」)。
水戸藩士見聞書…20日八ツ時(午後2時)、赤坂周辺の米屋23軒、続いて麴町5・6軒、深川六間堀7・8軒、本庄(本所か)周辺12・3軒が打ち破られた。
『文恭院殿御実記』…「卑賎の者ども」は仕方なく、飢え死にするよりはと、20日の夜赤坂にて集団で雑穀商の家々を打ちこわした。これを端緒として、南は品川、北は千住、首謀者がいるわけでもないのに、各地で3・400人ずつ集まって、鉦鼓(鐘)を打ち鳴らし、昼夜を問わず穀物商の家々を打ち潰した。
『智理安久多』…5月20日夜、赤坂・糀町・麻布周辺の米屋が居宅・土蔵に至るまで残らず「ミちんに打破」られた。抵抗した者は打ち殺され、ケガ人も多数出た。5・60人、または100人余りで集まった数組が、合言葉を用いて鐘・太鼓・拍子木を合図に押し寄せ打ち破った。
ほぼ共通しているのは赤坂の米屋が打ちこわされた、という事ですね。
高山彦九郎日記には、米屋だけでなく質屋や両替屋も襲われた、とありますが、実際、打ちこわし後に行われた調査によれば、襲撃を受けたのは米屋247・春[つき]米屋91・酒屋28・食糧品関係45・金融39・灯油10・衣料8・その他43で、米屋の割合は66%にとどまっていたようです。
打ちこわしの詳細については、『天明丁未江戸騒乱記』に次のように記されています。
…5月20日の夜5つ(午後8時頃)、赤坂御門外の大米屋・伊勢屋に数百人が押しかけ、家財をことごとく破壊し、米俵を切り崩し、道にぶちまけた[道は米によって1尺~3尺(30~90㎝)ほど高くなった]。臼を砕き杵を割り、建具はもちろん、鍋・釜・衣類まで微塵にした。段々参加する者が増えて、1500・600人にもなり、赤坂中の米屋を残らず壊し、酒屋は酒を振舞った店は見逃されたが、そうしなかった店は破壊された。奉行所から捕手役人30人ほどが駆けつけてきたが、相手は大勢で、提灯を破られるなど、抑えることが難しい状態であった。ここに赤坂の火消したちが火事かと思ってやって来たのを見て、奉行所は加勢を頼んだ。火消したちはケガ人・即死の者が出てもかまいませんか、というもので、奉行所はかまわない、と答えたので、火消しの者たちは火消しの道具や刀を持って大勢の中に向かっていった。これを見て(暴徒たちは)四散した。町人たちも人の声や提灯の光で火事が起きたのかと半鐘を鳴らし駆けつけてきたが、この様子を見て引き返した。…
これには火消し人が奉行方に加勢した、とありますが、勝山藩の家老の日記には、騒ぎを聞きつけて火消したちがやって来たが、火事ではなかったので引き返した、とあり、『麦の落穂』には、火消人足も打ち崩しに加わった、とあって三者三様で、よくわかりません(;'∀')
また、「酒を振舞った店は見逃された」とありますが、多くの史料にそのような記述があります。
『縮地千里』…酒屋は2樽も3樽も鏡(蓋)を抜き、店の前に並べておいた[昌平橋外内田屋は15樽も出していた]が、打ちこわしのものたちはこれを飲んで堪忍し、先に進んでいったが、酒を飲んで元気になり、以後はますます強く暴れたそうだが、見物に行った者によると、道には酔って倒れ、打ち臥せている者が多くいたそうである。
『凶年起信』…酒店では酒樽の鏡を開き、呉服店丸屋などは慌てて飯を炊き、握り飯などを提供した。夜は「箪食壺漿」(たんしこしょう。『孟子』にある言葉。竹の器に入った食べ物と、壺に入った水を用意して、軍隊を出迎える事)して(暴徒を)出迎える様子であったという。
『一話一言』…三ツ目泉屋という木綿屋は手拭・ふんどしを提供して許されたという。
『天明丁未江戸騒乱記』…(暴徒は)米屋だけでなく、すこしでも財産のある者は狙われて打ち崩された。餅屋・酒屋・蕎麦屋はこれを聞きつけると、酒屋は店の前に酒樽を3・4つも出して置き、餅屋は蒸籠を出し、蕎麦屋は数百人前を出して置き、望みのままに振舞った。財産のある者は打ちこわしを逃れるために、これをまねて酒樽を店の前に置いたという。または米や金銭を積み出して置いたという。
水戸藩士の見聞書…鎌倉河岸では角大・伊勢・萬屋などが酒樽の鏡(ふた)を抜き、ひしゃくをつけ、戸板に干物・するめ・茶碗を載せ、店の前に置いておいた。(暴徒は)これに寄り集まって、飲むだけで、(樽を)壊すことはしなかった。よろめき歩く者もあり、樽に入って持ち帰る者もあり、樽の側で横になっている者も多くいた。
米や酒などの提供によって切り抜けるパターンの他、別の対応を取った者もいたようです。
『後見草』…やがて自分も狙われると思い、女子どもを引き連れて貧しい者の家に身を避ける者もあらわれた。
『親子草』…浅草御蔵前の児玉屋には「頓智」のある者がいて、家の中の「がらくた道具」を取り出して家の者たちに破壊させ、通りかかった暴徒に、「ここは我らが打ちこわすから、先に行け」と言ったので、被害に遭わずに済んだ。
さて、赤坂周辺から始まった20日の打ちこわしの事ですが、次の史料は21日のことであったか、と書いてあるものの、おそらく20日の事を書いていると思われるので、紹介します。
『宝暦天明災異録』…5月21日の事であったか、1つの騒動が起こった。いずれの町であったか、1人の飢えた者がいて、このまま何もせずに飢えて死ぬのも本意ではないと思い、近くの米屋に寄り、米をねだったところ、言い合いになり、それが高じて大きな口論となり、ついには米屋を殴り、家財道具を壊した。これが周辺に伝わると、近隣の飢えた者たちは欲深い米屋の奴らを片っ端に打ちこわして、思い知らせてやろうと考え、我も我もと馳せ集まり、数十人で米屋をさんざんに打ちこわし、それから隣町の米屋に押し掛け、米屋がお互いに話し合って、このように米の値段を引き上げたのは憎いことだと言って打ちこわした。この間に人数は数百人に増え、近辺の米屋をあらかた壊し、また、財産のある者は何の商売をしているにかかわらず打ちこわされたが、大勢であったので誰も防ぐことはできなかった。家の者は高齢者や子供を助けながら家を捨て、打ちこわされるのを見ながら逃げるしかなかった。打ちこわしの人数はさらに増え、何万人かわからないほどにまでなった。…
また、打ちこわし後の赤坂の様子を観察した次の史料もあります。
森山孝盛日記…20日夜に入り8時頃、元馬場町が騒がしいので起きて見てみると(絵図を見ると元馬場の近くに森山家がある)、火事ではなく、物音ばかりするので、人を遣わして見に行かせたところ、大勢が集まって米屋を打ち潰しているとのことであった。翌朝わかったことには、赤坂の米屋20軒が残らず打ち潰されたのだという。そこで「何となく」赤坂を見に行ったところ、赤坂御門までの道筋にある米屋は「散々」な様子であった。衣類・諸道具などは泥にまみれ、米・大豆などは道にまき散らされていたものの少しも取られず、火の元には念入りに注意をし、隣家には被害が及ばないようにしていたという。米小売が欲張って高い値段にしたので、恨みを持たれたのだという。四ツ谷・深川でも騒動が始まっているが、赤坂がその初めであった(「赤坂を初とす」)。
この史料には、店の物が取られなかった、と書かれていますが、諸書にも同様の記述が見えます。
『縮地千里』…「徒党の者は一品にても私欲にいたさず」
『真佐喜のかつら』…「大勢之中より高声に盗はならぬぞならぬぞと呼ばる者之有り」
材木問屋記録(『川辺一番組古問屋文書』)…困窮した人々は、21日、江戸の米屋に向かい、狼藉に及び、江戸は昼夜を問わず騒動となった。米商人・酒屋・呉服商人は大変な目に遭い、建具・帳面・道具は壊された。しかし、けが人はおらず、金銀を盗み取る者は一切なかった。
『智理安久多』…「ちり一本にても盗取候者は仲摩之内にて即時に打殺し申候申合之由」…酒屋が店の前に置いておいた酒樽には手を付けず(「一吸も給は致さず候」)、水ばかり好んで飲んでいた。
敦賀藩士書状…5月12日・13日に大坂中の米屋その他米を多く買い占めていた町人が打ちこわしに遭った。呉服屋も1、2軒壊されたという。この場合は織物や緋縮緬をまき散らし、川に運んで流した。…また、小判なども多くまき散らしたが、一銭も盗む者は無かったという。米なども同様であった。
『蜘蛛の糸巻』…「道路に散りたる物を取りて逃る者あれば、打ちこわし人取返し、打擲して取りたる者は引破り、捨て置く事、町火消の掟によく似たり」
『麦の落穂』…打ち崩す者共は大きな声で、「紙一枚・米一粒取ってはならぬ、もし取る者あらば打ち殺せ打ち殺せ」と叫んだという。
水戸藩士の見聞書…小酒屋は逃げ去っていたので、酒はもちろん、諸道具まで「みぢんに」壊され、米屋では白米に玄米・豆・小豆・麦を通りに持ち出してまぜこぜにし、盗むことはしなかった。20日の夜4つ(22時頃)から翌朝の7つ(4時頃)にかけて、音羽町の米屋21軒は残らず打ちこわされた。家の中は残らず壊され、諸道具も残らずくだかれ、衣服などは引き裂き、土蔵が壊され、米俵は道に持ち出されて、3種類の雑穀を1つに混ぜて、井戸に入れたり、川中に入れたりして、一粒も取らなかった。水道町・音羽町の道は、米・豆が砂のようになっていて、酒樽・油樽・醤油樽が壊されて道に流されていたが、これを見て恐ろしく思った。…今日(23日か?)は(暴徒は)芝・中橋・品川に押し掛け、だいたいを打ちこわしたが、その行動は手早いものであった。この集団は各地で見かけたが、食事をとり、落ち着いて準備をし、目標だけを打ちこわし、隣の家は少しも傷つけなかった。「誠に丁寧礼儀正く狼藉に御座候」。
米は井戸や掘や川に投げ込まれたり、近くにそういったものがない場合は酒・油・醤油・酢などをその上にぶちまけて路上に流したりしたようです。米を食べられないようにするためでしょうか?
『縮地千里』…米は道に山のようになり、帳面は堀へ投げ込まれた、とあります。
『親子草』…裏伝馬町の木綿屋で米商売もしていた者がいたが、これも米を蓄えていたので、俵を切り解き、道へまき散らし、木綿はことごとく下水に投げ込んだ。
『智理安久多』…「通り迄酒流れ川の如くに相成申候。…穀物は往来へ雪の如くにつもり居り申候」
また、『智理安久多』には、井戸に魚油を樽のまま投げ込んでいたので、付近の者は水をくむことができなくなり難儀そうにしていた、とあります。これは迷惑ですね…(;^_^A
ふつう暴動には略奪がつきものなのですが、とても珍しいですね😲
人々は「我々がここにやって来たのは、米の値を下げ、世の中を「やすく」(穏やかに)するためである」(『宝暦天明災異録』)、「日頃米を隠し置いて、人々を悩ませていたのを「思い知れ」(懲らしめてやる)」(『麦の落穂』)などと言いながら打ちこわしを行なっていたそうですから、自分たちの行為は正義の行いであると考えていたので、盗みを働くなど思いもよらないことであったのかもしれません。
しかし次のような記録もあります。
『兎園小説』…京橋南伝馬町の米商人・萬作が打ちこわされた跡を通りかかって見たことがあるが、道にばらまかれていた米を、「貧民の妻・婆々・少女さへ乞児と共にうちまじりて」、ふもとにかきいれたり、袋に入れたりする様子は、恥を知らない者のようであった。
『天明丁未江戸騒乱記』…「悪徒共の党類」はその後四組や五組に分かれて各地の米屋を打ち崩した。おそらく、この者たちが打ちこわしにやって来た時に、どさくさまぎれに町内の者たちもこれに加わったので、大人数となったのであろう。米などを奪い取った。この際に拍子木や太鼓を打ったという。
勝山藩家老の日記…米穀をまき散らし、あるいは持ち去った。22日頃、用事があって外出したところ、騒動によって店は皆閉まっていた。和泉町の米屋に大勢がやって来て、低い値段で売るように吹っ掛け、あるだけの米をザルに入れ、風呂敷に包み、また、俵のまま、2・3人で引きずるなど、ひどい様子であった。帰りの際には、人形町の煮瓜屋か酒屋に大勢が乱入し、酒を奪って飲み、道に酒をこぼす様子は、まるで水打(水まき)のようであった。人が大勢集まっていたので境町は通れず、別の道から帰った。
『天明6年江戸中打こわし一件』…白子屋という米問屋は憎まれていたのか、二階まで大八車を引き上げ、奥の方までことごとく壊し、河岸の蔵の戸を打ち破り、中に米100俵ほどもあったのを、残らず外に出し、小口を切って米を近辺にまき散らし、雪が降ったようになったが、夜中には残らず消えていたという。
『蜘蛛の糸巻』…「盗を禁じたるは、いわゆる江戸子なるべし。されども、蜂起散じたる跡には、盗もありしとぞ」
『縮地千里』…衣類や諸道具を大量に道に投げ出していたが、「徒党之者」は私欲にかられることなく、盗む者は一人もいなかったが、近所からやって来た者が紛れ込んで、色々と盗み取り、主に米を盗み取る者が多くあった。「誠に乱世の節のごとし」。
『文恭院殿御実記』…昼夜を問わず穀物商の家々を打ち潰し、あらん限りの穀物を道に引き出し、切り破って奪い取った。はじめは穀物ばかり奪ったが、後に盗人が加わって金銀・衣類まで同じように奪い取った。
『宝暦現来集』…店の前に置かれた酒樽に、「崩人」は手をつけなかったが、この騒動を見物しに来ていた者たちが思うがままに酒を飲んで、酔って倒れる者もあり、悪口し喧嘩などしている者もあったが、多く召し捕られて牢に入れられた。
『親子草』…最初は決して米一粒も盗まなかったが、参加人数が増える中で盗人も入り混じるようになり、金銀米銭が盗まれるようになったという。
『籠耳集』…20日午後、三井の春米屋に、米と塩・味噌が搬入されているのを見た人々は、飢え苦しんでいるので少しでも分けて欲しいと頼み込んだところ、米屋の者は外部の者でなくて同じ町内の者でもあったので、気の毒に思い、少し米を分けてやったが、これを聞きつけた町内外の者たちが施しがあるそうだ、とその店に大量に押し掛けた。店は門を厳重に締め切ったが、人々はこの戸をさんざんに打ち砕き、数千人が押し入り、米俵を盗み出す者数知れず、箱・桶・炭取(木炭を小出しにしておく入れ物)などの入れ物を持参して米を山盛りに入れて盗み持ち出した。また、米を盗んだ者を追いかけて打ち倒し、それを奪い取る者もあり、老人・女・子どもは踏み倒されて目を回している者もいた。それを乗り越えて力の強い者は米を2俵も盗み出し肩にかついで走る者もあった。やがて番所より役人が大勢駆けつけてきたが、すでに人々は逃げ散り、老人・女・子どもが残っているだけであった。役人はその者たちを捕らえたが、100人ばかりもいた。捕らえられた者たちは、早く牢に入れて下され、牢に入れば飯が食べられる、と口々にわめいた。当時捕らえたもので牢はいっぱいになっていたので、また、格別の罪人というわけでもなかったし、貧乏故の盗みだと不憫にも思ったので、家主を召し出して縄を解いて家に帰した。
杉田玄白『後見草』…穀物を道に引き出し、切り破り、奪い取り、あちこちへと持ち去った。はじめは穀物ばかり奪ったが、後で盗賊が加わって金銀・衣服まで奪われるようになった。…江戸には各藩から米が運び込まれてきていたが、警固が薄いと途中で奪い取られると報告があったので、わずか車1・2輌に対し武士4・50人で前後を囲んで運んだ。
杉田玄白の日記…5月22日条 今日、各地で「徒党人」が「乱取」(略奪)を行なった。…蝉が今年初めて鳴いた。
『天明未年の記』…22日からは盗賊や夜盗が加わったのか、物は残らず盗まれるようになった、と書かれています。
高山彦九郎の日記…「始めの程は只打潰のみなりけるが、段々裏店住居貧乏饑渇の者の共等、富家の町人へ金子無心を言ひ懸け争ひに及べり」(6月17日条)
また、『北窓雑話』には、著者で旗本であった片山松斎が19歳の時に麻布十番・飯倉片町・西久保土器町・三田松本町・通新町の辺りを見て回った際の事について、「賊徒」が金銀・衣類・道具・米・銭等を道に投げ散らしたのを、乞食・非人が群れ集まって拾い取り、また、見物人も非常に多くいて混雑していたので、誰が賊なのか見分けるのが難しかった、とあります。
これらの史料を見ると、途中までは統制がとれていたが、かなり貧しく、飢え死にを待っていたような人々などが参加するにつれ、統制が取れなくなっていった、ということがわかります。
ちなみに、打ちこわしに参加した者の服装について、『籠耳集』には、召し捕られて番所へ連れていかれる者は、大坂堂島の風俗と同じように、皆白い手ぬぐいでほおかぶりをしていた、とあります。
また、高山彦九郎日記6月10日条には、千住方面は赤地の錦の旗を立てて打ち潰して回った、とあり、旗も使用していたことがわかるのですが、この旗について、『政隣記』には、次の内容が書かれた「木綿旗」が浅草・御蔵前・小網町など各所に立てられていた、とあります。
「天下之大老中を初、町奉行共其外諸役人共に至迄、米問屋へ一味致しまいないを取、関八州之民を悩し、其罪によって如斯押寄る、若徒党之者一人にても被召捕、罪に行ふにおいては、大老中を初め町奉行所役人共生て置事無之候、人数何程にても指出可申、此義厭申間敷候、此上は成立候様取捌可申事」(老中をはじめ末端の役人に至るまで、みな米問屋に味方をして賄賂を受け取り、関東8カ国の民衆を悩ませたので、その罪に対する制裁として、このように押し寄せたのである。もし「徒党之者」を一人でも捕まえ、処罰するようなことがあれば、老中をはじめ末端の役人に至るまで生かしておかない、そのためにいくらでも人数を繰り出すことを厭わない。こうなった以上は、人々が暮らしていけるように取り計らうべきである)
めっちゃ幕府を脅してますね😓
さて、赤坂を発火点とした打ちこわしは、その後拡大の一途をたどっていくことになります。
※マンガの後に補足・解説を載せています♪ ● 松方デフレ 1883年 3月10日 東京日日新聞 大坂の不景気 何地(いずく)も不景気の三字は免れざるが、ここに大坂近情の一端を聞くに、同所には西国筋へ通う小汽船150余艘あるも、 先月以来乗客もなければ、積荷もなし。 故に定期日...