※マンガの後に補足・解説を載せています♪
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松永貞德(1571~1653年。父の松永永種[1538?~1598年]は連歌師で、高槻城主入江政重の子であった)は和歌を細川藤孝(幽斎)に、連歌を紹巴に学んだ歌人で、1644年に歌学書『戴恩記』(歌林雑話集)を著しているのですが、その末尾にてなぜか織田信長について書き記しています。
松永貞徳が11歳の時には信長は死んでおり、両者の接点は無かったと考えられるのですが、黒嶋敦氏は『天下人と二人の将軍』で、「貞徳は細川藤孝など義昭と同世代の人々から和歌を学んでおり、次の話も、そうした中で耳にしたものと思われる」と推測しています。
さて、どのようなことを書いているのか、見てみましょう。
…「御当家様」の御恩は山より高く、海よりも高いものである。日ごろ暮らしていると実感しにくいが、それはあまりにも「御情」が大きいためである。例えば闇夜を行くのに、知らない人が提灯を1つ与えてくれたら、非常にうれしく思い、一生の間、その恩を忘れないであろう。しかし、毎朝、太陽が出て照らしてくれても、ありがたいと手を合わせて拝む者はおるまい。これを「大同の慈悲」と言うとか。(中国の伝説上の君主の)尭の時、民が「日が出れば働き、日が沈めば休む。水が飲みたければ井戸を掘って飲む。物を食べたければ農耕をして収穫した物を食べる。皇帝の徳は私に何の関係があるというのだろう」と唄っているのを聞いて、尭は自分の徳が広く行き渡っていると逆に喜んだという。昔の事は知らないけれども、我らが生まれてよりこのかた、たびたび兵乱があったが、その際には町々の門戸を固め、辻々に堀をほり、あるいは新しく関所を作り、あるいは逆茂木を置き、一時的にも交通は自由にならなかった。近国や他国の情報もうまく入らず、さまざまな根も葉もない噂が流れては、肝をつぶし、財宝を抱えて逃げ惑った。光源院殿(足利義輝)を失った後、御舎弟の奈良の一条院殿におられた方に還俗していただき、各地の大名を頼って身を寄せられたが、手ごたえが無かったところ、織田上総守信長公はこれを引き受け、美濃国より出陣し、小敵には目もくれずに観音寺城を攻め落としたので、その勢いに恐れをなして近江の城は36も降参したので、わけもなく公方と共に上洛する事に成功し、その後自身は本国に帰ったところ、三好の三人衆が出てきて公方を取り囲んだと聞いたので、1月3日、雑煮の箸を「からり」と置くと、「続けや者ども」と言って、ただ一騎で近江路を進んだところ、馬が倒れてしまったが、その地の長が馬を提供したので、これに乗って七重八重に取り囲まれた六条本国寺に駆け行ったところ、公方はとても感動して喜んだ。信長公は与えられた湯漬けを「さらさら」と食べると、すぐに戦術をたてて軍に命令を出した。一方岐阜では、殿ははやくも上洛されたらしい、と大名・小名はお互いに誘うこともしないで、我も我もと京都に向かう様子は、何にもたとえようがなかった。…さて、六条に信長公がすでに入ったと聞いた包囲軍は、肝をつぶしてあわてふためき逃げ支度を始めた。歌を知らない者が(藤原)定家を恐れるように、信長公一人を恐れて、数千騎も籠もっているかのように震えたのも仕方のないことである。公方の御手勢は500人に過ぎなかったけれども、良将1人を得たので喜び勇んで1人で千人に匹敵するほどに気力がみなぎった。強将のもとには弱兵無しとはこのことである。信長公は敵が動揺しているのを見て取ると、「臆病風がやまないうちに打って出て追い散らすべし。我が今から言うとおりに皆々せよ。我は小唄を1つ作った。我が音頭を取って唄うから、皆もそれについて唄うべし。小唄の間は皆座って膝を組み、槍を膝の上に横たえて持ち、歌を三段唄ったところで一斉に立ち上がり、大声を上げて敵に突撃してこれを崩すべし」と手はずを整えた。その唄の内容は次の通りであった。「織田の上総は果報の者や 一番槍を突く程に しかも上意(足利義昭)の御前にて」。さて、本国寺の北の木戸を開かせると、手はずの如く唄を歌い、四方八方一挙に敵を追い散らした。崩れ去った敵兵は取って返す者も無く、包囲の外に控えていた伊丹・鳥養などの摂津・河内より来た軍勢が鬨の声を挙げてこれを追撃したので、 死者は数知れないほどであった。鼓打ちの高安なども戦いの中で桂川にて首を取られた。六条の六日崩れとはこの事である。今は知らないけれども、最近まではあちこちに多くの首塚があったものである。さて、信長公は上京に公方のために城郭を築いて備え置いたが、築城の際に百人かかっても引けないような大石があったが、信長公が指揮を取って、ただ一声「えいや」と声を出されただけで鳥が飛ぶように進んだという。いつの時であっても、人々の気力というのは、奮い立つかどうかによって変わるのである。この方の御声はとても大きかった。馬揃えの際に、まろが見物した三条衣棚(ころもたな)で、「なにとて先はつかえて行かぬぞ」とおっしゃった御声は東西南北四・五町ほどずつ聞こえたと皆言っていた。…
そしてこれに続く部分が、今回紹介するエピソードになります。
「新城の出きし正月に、御門のからゐしきに、われたる蛤貝を九つならへ置たり、いかなる心そとしる人なかりしに、信長公さとき御智恵にて、これは公方の御心のうつけて、くかいかけたるといふ事を、京童か笑ひてしたる物そと、さゝやかせ給ひしと也」
(義昭二条城のできた後の正月に、城門の唐居敷(門柱の敷石)に割れた蛤貝が9つ並べて置いてあった。これはどんな意味があるのだろう、と誰も分からずにいると、信長公は頭の回転が速く、理解力が鋭かったので、その御知恵でもって、「この意味は公方様の御心が空っぽ(馬鹿)で、公界(くがい=9つの貝)が欠けていると、京童が笑い者にしてやったことであろう」と囁いたという)
「新城の出きし正月」とありますが、これはいつなのでしょうか。信長が正月に京都に滞在していたのは永禄12年(1569年)と天正5年(1577年)のみであり、永禄12年の際にはまだ城が完成していないので、天正5年に絞られるのですが、天正5年の際にはすでに足利義昭は追放されて京都にいなくなっていたため、この話はおそらく創作だと考えられるのですが、当時の人にこのような話が伝わっていた、というのは興味深いことではあると思います。
次に義昭について、「公界」が欠けている、とあるのですが、この「公界」とは何でしょうか?
網野善彦氏は、『岩波講座日本歴史 7 (中世 3)』(1976年)・『無縁・公界・楽』(1987年)で、「この語はもともと中国に源をもつものと思われ、日本の文献では、「霊堂公界の坐禅」(『正法眼蔵』)、「円覚公界」(『円覚寺文書』)など、禅宗寺院に関連してまず現れる」、1250年の九条道家処分状には、東福寺の長老・知事などの禅僧を「公界人百人」として書き上げており、ここから、公界とは「俗界の縁をたち切って修行する場」を指していたと考えられる」、戦国時代に至っても、1561年、北条氏繁は江嶋(えのしま)岩本坊(江島神社・奥津宮の別当寺[神社を管理運営するために付属して建てられた寺院]である「岩本院」のこと)に宛てた書状で、「江嶋坊住之儀は公界所之事に候間…」と記しており、寺が「公界」の場として認識され続けていたことがうかがえる、としています。
つまり「公界」とは「寺」のことなのでしょうか?
しかし寺が欠けている…というのでは意味が通じません。
どうやら、「公界」の意味は時が経つにつれて変質していったようです。
先ほど紹介した北条氏繁の文書の続きには、江嶋は「公界所」であるから、たとえ敵が押寄せてきても、「策媒」一政治的処置をして、平常の状態を保持せよ、という趣旨の文章が書かれているのですが、網野氏はこれを「江嶋が「平和領域」であることを保証されていた、とみることができる」とし、同様に、『蔭凉軒日録』延徳3年(1491年)10月26日条に、
…縦雖為朝倉御敵、含蔵寺事者為公界所上者、可為無為乎云々…
([朝倉がたとえ敵となったとしても]含蔵寺は「公界所」であるから、こうした戦乱にも関わりなく、平穏無事を保ちうるであろう)
…とあることから、「含蔵寺が江嶋と同じように、寺外の対立、戦乱と「無縁」な「平和領域」であったことは、推定してまず間違いなかろう」と考えています。
つまり、寺院が「平和領域」とみなされていたことがわかりますが、この理由について、網野氏は、天正七年(1579年)8月12日に発せられた北条氏照掟書を挙げ、その内容に、
一、江嶋に有なから、他人之主取致之事、令停止畢、…江嶋中之者、他人を主与号する事、令停畢…
…とあることから、「江嶋の人々は、主をもつことを許されなかった。つまり、逆にいえば、江嶋中の者は、主従の縁の切れた人々だったのである。それ故、外部の争い、戦闘と関わりなく、平和を維持することができたのであった」と考えます。
このことは、上野の長案寺住持の日記『永禄目記』の、永禄八年(1565年)7月29日条に武蔵の称名寺について、「敵味方きらいなき公界寺なる間、大途(北条氏)之しらべもあるまじき」と書かれていることからも理解できます。どこにも属さない中立地帯であったわけです。
このように、寺とは「公界」の地であったわけですが、一方で、全ての寺が「公界」であったわけではなく、1556年、下総国の戦国大名、結城氏の制定した『結城氏新法度』30条には、「諸寺・諸庵・諸房共に公界寺、我々建て候氏寺のごとく、…」とあり、武士が一族の寺として建てた「氏寺」と、そうではない寺が「公界寺」として区別されていたことがわかります。
この、「武士に所属しない」というのが、「公界」の意味としてだんだんと拡大して適用されるようになったようで、
伊勢の山田には「三方寄合」「三方老若」と呼ばれた自治組織があったのですが、1497年の文書には、「三方用銭之時、座中之儀申合候て、公界として曾祢彦左衛門殿を入申候」とあり、話し合って曾祢彦左衛門が新たに座に入ることを「公界」が認めた、とありますが、別の文書には「公界」の部分にあたる箇所に「以三方老若衆儀」「以衆儀」「為三方」などとあり、「公界」が「三方老若」=自治組織を指しているということがわかります。
また、伊勢大湊で天文22年(1553年)~永禄12年(1569年)にわたってつけられていた帳簿に「此の日記、てん(点)を御かけ候は、公界のいんはん(印判)にて御かけ可有候…」とあり、日記の文章の傍に点を打ってあるところには、「公界の印判」を押してある、とありますが、1561年の箇所には、「う(右)京殿会合にて点をかけ候」「会所之時老若かつてん(合点)」とあることから、「公界」とは「老若」を指していると考えられ、また、別の個所では「老若」は「会合衆」として登場もするので、老若=会合衆であることがわかり(「右京殿」は会合衆の一人であったと考えられる)、つまり、伊勢大湊の会合衆が自らを「公界」と称していたことがわかります。
自治都市、会合衆といえば堺が有名ですが、『蔗軒日録』文明18年(1486年)2月12日条には、「印首座今在北庄経堂、々々者地下之公界会厥也」とあり、堺の北庄には公界が存在していたことを確認することができます。
以上から、武士の支配から自立して都市を運営する者たちを「公界」と呼んだことがわかりますが、「公界」と呼ぶ範囲はさらに広かったようで、
遊女や、能役者・連歌師・鞠師などの芸能民もどの大名にも所属せず活動していたことから「公界衆」と呼ばれていました。
さらに、大内氏が延徳3年(1491年)11月13日に出した法令には、
「被放御家人之輩…事、或被殺害刃傷、或遇恥辱横難、縦又雖有如何躰之子細、既蒙御勘気之上者,可為公界往来人之准拠之間、其敵不可有御罪科之由、被定御法畢」
(網野氏は「大内氏の当主ー主君の怒りにふれ、その咎めをうけて、家人としての縁を切られたものは、殺害、刃傷されたり、恥辱を加えられ、思いがけぬ災離にあうなど、たとえいかなることがあろうとも、すでに「公界往来人」と同様のものなのであるから、その加害者については、なんらの罪にも問わない」、と訳す)
…とあり、大名家に所属しなくなった武士は「公界」の者と同様に扱われる、つまり、大名の家来でない者はみな「公界」であるというのですね💦
もともと「公界」は「世間とは無縁の場所」という意味でしたが、それが主を持たない、大名と無縁という意味に変質し、ついには大名に仕える武士以外、つまり世間一般をさすようになった、というのは不思議な事ですね😅
『戦国古文書用語辞典』でも、「公界」は①課役、②世間、③世間に出して恥ずかしくない人。世間の広いもの。世間人、④公領…とあり、「世間」がその意味として書かれているのですが、「公界」が「世間」だとすると、足利義昭の「世間」が欠けている、とはいったいどういう意味なのでしょうか?
「世間」とは『日本国語大辞典』には、「②人が生活し、構成する現世社会。この世の中。この世。④人々とのまじわり。世間づきあい。また、世間に対する体面」とあります。
今回の場合は④があてはまるでしょうか。「世の人々からの評価」が欠けている、ということなのでしょうか。
一方で、1603年に作られた、戦国時代の肌感覚がわかる『日葡辞書』には「公界…公の所。公界へ出づる…公の場所に出る。公界の大道…皆誰でもが通行する公の道。すなわち、街道。公界を致す…人を訪問したり、挨拶回りをしたりするなど、人前に出て行動する。公界を止むる…上述のようなことや、公的な用事であちこちに行くことをやめる。公界事…公的な事、または、公的な用事」とあります。
奥野高広氏はおそらくこの中の「公界事…公的な事」を採用し、「自分の住宅を信長に建ててもらうほど、将軍として表向きのことは何もできないとの悪口」と解釈しました。
「公的」を『Wiktionary』で見ると、①公共に関すること。また、そのさま。公共的。②表向きのこと、正式なこと、公式なこと。また、そのさま。③国や自治体、その他の民間機関に関すること。…とあります。
「表向き」とは何か、調べると、『日本国語大辞典』には、「世間体」というのも出てくるのですが、③ 公務。特に、江戸幕府や諸藩の政務をとる所。また、その仕事の方面。④ 公的な事柄や機関。官辺。そのすじ。また、それにかかわる事態。特に裁判沙汰。訴訟。公事。…ともあります。今回の場合は「政治」や「裁判」のことを指しているとみるのが自然でしょう。
黒嶋敦氏は、『天下人と二人の将軍』で、奥野高広氏の意見を紹介した上で、「だが、公界(公的なこと)が欠けているという批判は、義昭の人格と幕府の政治全般にも当てはまる。将軍の適性(「徳」)に疑問符がついた時、混乱に拍車がかかるのは、室町幕府の歴史のなかで繰り返されてきた情景であった。その混乱が、まもなく義昭にも訪れるのである」と述べていて、その範囲を広くとらえています。
また、安原眞琴氏は『「扇の草子」の研究』で、「「くがい」は「公界」つまり世間や公の世界のことであろう。世間あるいは政道が乱れたという意味の造り物のさとり絵ではないかと思われる」と述べています。
…ということで、「公界」が欠けている、というのは、政治的能力の欠如、と見るのが適当であるといえるでしょう。

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