「歴史」の「戦国・安土桃山時代」の[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、
「信長とフロイスの出会い」の3ページ目を更新しました!😆
補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!
4月3日頃、二条城築城の指揮を執っていた信長のもとに、1人のポルトガル人が訪れます。
その人物の名は、ルイス・フロイス。
フロイスはなぜ日本にやってきたのでしょうか。
先ずはその背景について見ていこうと思います😊
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●イエズス会の誕生
イグナチオ(英語読みイグナティウス)・デ・ロヨラは1491年頃、スペインのバスク地方にあるロヨラ城で小貴族の子として生まれました。
本名はイニーゴ・デ・オニャス・イ・ロヨラで、1537年からキリスト教の聖人、イグナティウス(35?~110年?)にあやかって、イグナチオと名乗るようになりました。
最初の頃のイグナチオは、本人が語ったことをまとめた自叙伝に「世俗の虚栄に溺れ、空しい大きな名誉欲を抱き、武芸に喜びを見出していた」と書かれているように、キリスト教に対し深い信仰心がある訳ではありませんでした。
1521年、フランスがスペインに攻めこんできた時に、イグナチオは軍人としてこれに抗戦しましたが、砲弾により右足が完全に折れ、片方のふくらはぎも重傷を負うことになりました。イグナチオはこの負傷のため、生涯足を引きずることになります。
このケガの療養期間中、することがなかったので読書をすることにし、侍女たちが用意したのが『キリストの生涯』と聖人伝集の『黄金聖人伝記集』で、これを読んだことがキリスト教に深く傾倒するきっかけとなりました。
その後もイグナチオは貴婦人について思いをはせることがあったのですが、ある時、イグナチオは次のことに気づきます。
貴婦人について思い終わった後は、寂しく、不満が残るが、
キリストのことを思い終わった後は、満足感や喜びが残る。
ここからイグナチオは、考えには「魂を憂鬱にするものと晴れやかな気分にさせるもの」の2種類がある事に気づき、憂鬱にするものは悪霊のもの、晴れやかにするものは神からのものであると考え、この2つを見分けるために修練が必要になると考えます。
この結果生まれたのが霊魂の鍛錬法をまとめた『霊操』(ラテン語Exercitia spiritualia。直訳すると「精神的な訓練」)です。
その意味は、身体を整えるのが「体操」であるように、魂を整えるのが「霊操」である、ということだそうです。
イグナチオは『霊操』で、「霊操」の目指す所は、邪な愛着を自分から取り去り、自分の生活をどのように整えるか、という事について、神の考えを探し、見つけ出すことにある、と言っています。
そして『霊操』には、次のような1か月にわたる修行のプログラムが書かれています。
①1週目…自分の罪を思い起こし、神に赦しを願い、改善を誓う。
(日々実行すべきこととして、朝起きると、夜眠る前に考えていた改善したい罪・欠点を避ける決心をし、昼食後に罪・欠点を何度行なってしまったかを思い出して記入し、夕食後にもう一度同じことを行う)
②2週目…キリストの生涯について観想(真の姿を見究めようと、深く思いをめぐらせる事)する。
③3週目…キリストの受難(キリストの処刑)について観想する。
④4週目…キリストの復活について観想する。
この「霊操」という霊魂鍛錬法を、この後イグナチオは各地に広めていくことになります。
1523年に聖地エルサレムに巡礼した後、イグナチオは司祭になるためにスペイン・パリで学問にはげみました。
そして、1528年、パリ大学で出会ったのがフランシスコ・ザビエル(1506~1552年)でした。
ザビエルは「才能にみちあふれ、美しく、且つ純真」で、「人づきあいも極めてよく、すべてといってよい人々とよく語り、よく飲み食いした」(垣花秀武氏『イグナティウス・デ・ロヨラ』)人物でしたが、ザビエルはイグナチオに対し、最初は嫌悪感を覚え、5年間にわたりザビエルの方から口をきくことは無かった、といいます。垣花秀武氏はこれは「父祖の敵対関係に由来」していた、と書いています。2人は同じバスク人のナバラ王国の出身でしたが、ザビエルはフランス影響下のナバラ王国、イグナチオはスペイン併合側のナバラ王国出身という違いがありました。
そのため、なかなか2人は打ち解けなかったのですが、ザビエルの書簡(1535年3月25日)によれば、イグナチオが、ザビエルにとって必要な金や友人を紹介したり、悪い友人たちを遠ざけてくれたりしたことなどによって打ち解けることになります。
ザビエルは兄への書簡で「私がイグナチオを知ることができたのは主なる神のどれほど大きな恩恵であるか…私は一生をかけて彼から受けた恩義をお返しするつもりです」と書いていますが、ザビエルはイグナチオに対して非常に恩義を感じていたようです。
イグナチオと打ち解けたザビエルは1534年、イグナチオより「霊操」の指導を受け、「生れかわったような状態」(垣花秀武氏『イグナティウス・デ・ロヨラ』)となり、一族から期待されていた「大学教授、高位聖職者への道」に「全く興味を失」い。イグナチオによれば、「神の意志を最も正確に知り、最も勇敢に実現する騎士」となりました。
ザビエルのような同志が次第に増えて来た中で、団結を強めるために、彼らは1533年、「清貧(貧乏を苦としない)・貞潔(心や行動を正しくすること)・聖地巡礼」という3つの請願を立てました。
1537年には教皇パウルス3世の前で同志の者たちが神学の議論を行い、これに満足した教皇はイグナチオとその同志の者たちを司祭としました。
司祭となったイグナチオとその同志たちはイタリア各地で説教活動をすることにしましたが、その前に、自分たちのグループの名前を決めることにし、「イエス・キリストが自分たちの模範であり、この方に自分たちの全生涯を捧げるのであるから」(『イエズス会の歴史』)、グループ名を「イエズス会」とすることにしました。「イエズス」とはラテン語で「Iesusu」と書き、イエススともいいますが、これはイエス(・キリスト)という意味です。英語ではjesus、ジーザスと読みます。つまり「イエズス会」は「イエス会」という意味なのですね。
1538年、ローマを厳寒のための飢えが襲った時は積極的に救済活動に当たりました。
イエズス会の活動の特徴はこの「積極性」にありました。
この年、イエズス会は教皇に対し、教皇が望む場所にどこでも布教に出かけることを申し出ています。
イエズス会は1539年、『基本精神綱要』を作り、「十字架の旗印のもとに神の兵士として奉仕しようと望む者は」カトリックを布教する使徒的精神・教皇への忠誠・私有財産を放棄する清貧の姿勢・総長(イエズス会の長)への従順を定め、教皇に正式の認可を申請しました。イエズス会はここまでは非公式の私的な団体であったわけです。
1540年にイエズス会は正式の認可を得ることに成功、全会一致でイグナチオを初代総長に選ぶと、カトリック教会のために積極的な活動を開始しました。
このイエズス会に期待をかけたのがポルトガル王ジョアン3世(1502~1557年)でした。
ジョアン3世は「敬虔王」とも呼ばれますが、その二つ名の通り、キリスト教の信仰が篤い人物でした。
信仰心が強いだけならばいいのですが、彼の場合は、キリスト教以外を認めない(キリスト教の中でもカトリック以外認めない)カトリック原理主義者で、1536年に異端審問所を設けカトリック以外を厳しく弾圧し、国外の植民地においても、1540年、インドのポルトガル領で仏教・イスラム教・ヒンドゥー教の儀式を行う事を禁止しています。
この頃のポルトガルの支配姿勢がよく分かるのが、1558~1561年のインド総督、コンスタンティーノ・デ・ブラガンサ(1528~1575年)の次のエピソードです。
コンスタンティーノは地元民を無理やりキリスト教に改宗させようとし、反発を招いていました。
これに対し、役人が、統治が困難になる、と諫言したところ、コンスタンティーノは、「利益よりも改宗を選ぶ」と答えたそうです。
キリスト教に対する強い熱情があった時代だという事がうかがえますが、現地民にとってはたまったものではなかったでしょう。
さて、「敬虔」なジョアン3世は、海外領土の住民のキリスト教化😓を望み、イエズス会に協力を求めました。これを受けて、2人が海外布教に選ばれましたが、1人が病気に倒れたので、代わりに行くことになったのがザビエルでした。
ザビエルは1541年にポルトガルを出発、翌年、インドのゴアに到着、インド南部の漁夫海岸、次いで香料諸島とも呼ばれるモルッカ諸島(現在のインドネシア中部)で布教活動を行いました。
この間、ザビエルは口元に笑みを絶やさずに任務に当たっていたそうですが、本心のところでは、イグナチオ宛の手紙に、インド人は未開で無知であり、キリスト教は宣教師がいる間しか続かないでしょう、と書き、ジョアン3世に対しては現地のポルトガル人の腐敗と圧制により、せっかくキリスト教を受け入れたものも棄教している、現地人よりまずポルトガル人を何とかしなければなりません、と書いているように、非常な苦難を感じていたようです。
その中で1547年に出会ったのが人を殺してマラッカ(マレーシア西部)に逃れていた日本人のヤジロウ(もしくはアンジロウ。ザビエルは書簡で「anjiro」と書いているが、山口のことを「amanguchi」と書いており、「y」を抜かして書いている可能性がある。日本語の文法の書を書くなど日本語に通じていたジョアン・ロドリゲス[1561?~1633年]は「yajiro」と記している)でした(ヤジロウは日本人として初めてキリスト教徒となり、パウロ・デ・サンタ・フェという洗礼名を授かった)。
ザビエルは1548年1月20日の書簡で、ヤジロウについて次のように書いています。
…彼は青年時代に犯した罪について、私に告解したいと思ってマラッカに来ました。彼はかなりポルトガル語を話すことができるので、私の言ったことがわかりましたし、私も彼の言ったことがわかりました。日本人すべてがヤジロウのように知識欲が旺盛であるならば、新しく見つかった地域の中で、日本人はもっとも知識欲が旺盛な民族という事になると思います。
また、1549年1月14日付のイグナチオ宛の書簡では次のように書いています。
…ゴアの学院には3人の日本人がいますが、特にパウロ(ヤジロウ)は優れ、8か月でポルトガル語を読み・書き・話すことを覚えました。
コスメ・デ・トルレス(1510?~1570年。ザビエルとともに日本を訪れる)はヤジロウについて1549年1月の書簡で次のように書いています。
…彼は明晰な判断力の持ち主で、デウス様について深い知識を備え、優れた記憶力と才能の持ち主でもあります。私は彼に「霊操」の指導をすることになりました。また、2度にわたって聖マテオ福音書の説明をしました(フロイスによれば、ザビエルからの依頼)。彼はキリシタンになって6か月になります。
また、ルイス・フロイスは1548年にヤジロウを見ており、そのことを『日本史』に次のように記しています。
…彼は36・7歳くらいであった。彼は私たちと一緒に食事をし、毎土曜日に告解(自分の罪を司祭に告白する事)をし、毎日曜日に聖体を拝領(パンをキリストの肉体に、ぶどう酒をキリストの血に見立て、キリストのことを思いながら、この2つを食することで、キリストとの一致を願う儀式)した。彼は20日以上も霊操を行ない、兄弟のジョアンにもその修行をさせていた。ヤジロウはとても有能で、すでにポルトガル語を話すことができていた。トルレス師によれば、2度説明を受けただけで、聖マテオ福音書の内容をすべて記憶したという。
ザビエルはこのヤジロウから日本のことについて話を聞いています。
ザビエル:日本人はキリスト教徒になるだろうか。
ヤジロウ:日本人は聞いたことをすぐに受け入れるわけではありません。さまざまに質問したことに対して満足のいく回答をしたり、言動が一致しているかどうかを見て、立派な生活をしていたりすれば、キリスト教徒になるに違いありません。
ザビエルとヤジロウは次のような面白い問答もしています。
ザビエル:日本人は、(左から右に文章を書く)私たちと違って文章を上から下にまっすぐ書くが、これはなぜだろうか。
ヤジロウ:人間の頭は上にあり、足は下にあります。ですから、字を書くのは上から下に書くのが正しいのです。
また、日本から戻ってきたジョルジュ・アルヴァレスは日本報告記を記し、次のように日本について書いていました。
…日本人はポルトガル人を家に泊めてくれる。好奇心が強い。頑固でない。8歳から刀を持つ。わずかな窃盗でも死罪となる。一夫一婦制で、不倫をした女性は死罪となる。賭け事をしない。感情をあらわにすることを嫌う。酒を飲むとすぐに寝る。婦人でも1人で外出できる。奴隷は少ない。監獄は無く、罪人は家に監禁される。川や温泉に入るのを好み、裸を見られても気にしない。食事は粗末で、少ない。家畜は少ない。
これらの話を聞いたザビエルは、1549年1月20日に書いた書簡で次のように書いています。
…日本人はとても理性的で、デウス様のことについても、(キリスト教以外の)学問についても知識欲が旺盛だということです。以上のことから、日本で我らの聖なる教えが非常に広まるように思われるので、私は4月に、日本に赴くことを決意しました。
ザビエルはヤジロウから聞いた話や、アルヴァレスの報告記を読んで喜び勇んで日本に行く決意を固め、コスメ・デ・トルレス、フアン(ジョアン)・フェルナンデス(1526?~1567年)、ヤジロウと共に4月にインドを出発し、日本を目指しました。
日本へ向かう途中で、ザビエルはヤジロウに次の質問をしています。
ザビエル:霊操の修行でどれが一番好きで、心が安らぐか。
ヤジロウ:(3週目にあたる)キリストの受難の部分について観想する事です。
ザビエル:私たちの教えで、何が最も良いか。
ヤジロウ:告解と聖体拝領です。
そして、1549年8月15日にザビエル一行はついに日本の薩摩(鹿児島県)に到着しました。
ザビエルは11月5日に書簡で日本のことを次のように報告しています。
…日本人は今までに発見された人々の中で最高であり、日本人より優れている者は、異教徒の中では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、善良で、悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人々で、他の何物よりも名誉を重んじます。大部分の人は貧しいのですが、貧しいことを不名誉とは思いません。他人との交際は礼儀正しく、武具を大切にしています。彼らは14歳になると刀と脇差を持ちます。彼らは食事は少量ですが、飲酒の節度はやや緩やかです。日本にはぶどう畑が無いので、米から作る酒を飲んでいます。人々は賭博は一切しません。賭博をする人は他の人のものを欲しがり、結果盗人になると考え、たいへん不名誉なことだと考えているからです。盗人は厳しく罰せられ、死刑になります。盗みについてこれほど行いを正しくしている人々は見たことがありません。大部分の人々は読み書きができますので、キリスト教の教えを短時間で学ぶのに役立ちます。彼らは(ヨーロッパと同じく)1人の妻しか持ちません。
日本で盗人がいないことに驚いていることが書かれていますが、後に京都に向かう途中のことについて、盗賊がたくさんいる、とか、日本人は強欲で身につけているものを奪うために船に乗っているものをすべて殺してしまう、などと書いているので、盗賊がいない、というのは島津氏統治下のみのことであったようです😓
薩摩でキリシタンになったのが新納伊勢守(康久)の老臣で、彼はミゲルという洗礼名を与えられました。
このミゲルは『日本史』によれば、後にザビエルが薩摩を離れる際に、ザビエルから「病気を患った者がいれば、イエスとその聖母マリアの名を唱えながら、軽く5回叩くがよい。そうすれば彼らは健康になるだろう」と言って鞭を渡され、これによって多くの病人の健康を回復させたそうです。
また、病人が鞭の回数を増やしてほしいとか、強く叩いてほしいと言ってきても、ミゲルは鞭が傷むことを嫌ってこれを断ったそうです。
ミゲルは非常にこの鞭を大切にして、首にかけていた、ともフロイスは書いています。
薩摩の大名は島津氏(島津貴久)で、ザビエルは島津氏が白い十字架を家紋にしているのを見て、自分が来る前にキリスト教が伝わっていたのか、と期待しましたが、キリスト教徒は関係ないとわかったと落胆しています。
また、ザビエルは過去に日本にキリスト教が伝わった形跡を日本の文書や伝承から熱心に探していますが、キリスト教の影響があるものを見つけることはできませんでした。
ザビエルと会った島津貴久は、ポルトガル人の生活の様子や気品の高さなどについて質問し、ヤジロウがこれによどみなく答えたので、貴久は満足した様子を見せ、ヤジロウが聖母マリアの絵を見せるとこれを拝み、家臣たちにもそうするように命じたといいます。
ザビエルは約1年間薩摩に滞在していましたが、「領主が神の教えの広まるのを喜ばないこと」(河野純徳訳『聖フランシスコザビエル全書簡』)がわかったので、ザビエルは薩摩での布教をヤジロウに任せ、自身は京都に上り、天皇から日本での布教の許可を得ることにしました。
ちなみに残ったヤジロウですが、『日本史』によれば、貧困であったため、1551年、中国に向かう海賊船に加わり、そこで殺された、とあり、『日本協会史』には、ヤジロウは僧侶たちからの迫害に耐えられなくなり、ザビエルたちが薩摩を去ってから5か月後に中国に逃れようとしたが、その途中で死んだ、と書かれ、『東洋遍歴記』(1614年)には、僧侶たちからの迫害がひどかったので中国に渡り、そこで海賊に殺された、とあります。
(しかし、ザビエルは1552年7月22日付の書簡で、日本からマラッカに戻っていた日本人ジョアンに、日本に行ったらパウロによろしく伝えてください、と書いているので、1551年に死んだのではない可能性もある[死んだのを知らなかったのかもしれないが])
山口の大内義隆のもとに移り、その許可を得て布教活動にあたっていたザビエルは、この地にコスメ・デ・トルレスを残し、1550年12月17日、京都に向かって出発しました。
山口から船に乗る岩国までの道中の積雪はひどいもので、『日本史』には、積雪は膝くらいまで、またはそれ以上ある所もあった、道中に出会った男からは、「あなた方は天竺から来たというが、なぜこれほどの雪を降らすことのないように言ってくれなかったのか」と文句を言われた…と書いてあります😅
ザビエルは書簡で、「日本では厳しい寒さに苦しまなければなりません。寒さをしのぐ方法はほとんどありません」(『ザビエルの見た日本』)と書いていますが、ザビエルは寒さに苦しみ、『日本史』によると、泊まった家では床の畳をはがしてそれを被って寝たそうです😓
ザビエルは後に、1552年7月22日付の書簡で、日本に渡航するならば、厚手の毛織物を持っていくように、と助言しています。
これらの苦難を乗り越えてザビエルはついに京都にたどり着いたのですが、書簡に「都は昔大都市でしたが、戦乱が続いてどこもかしこも荒れ果てていました。都市を囲む壁の大きさを考えるとさもありなんと思われます」「王の命令は大半が他の諸侯や主権者に疎んじられていた」と記しているように、都が荒れ果て、天皇に実権が無く、将軍(義藤[後の義輝])も京都から逃れている(1549~1552年にかけて、義藤は三好長慶と対立し、京から近江に逃れていた)のを知ってわずか11日間で京都を去り、4月に山口に戻りました。
そしてその布教活動の中で感じたのは、日本人が中国を畏敬の対象として扱っているという事で、ここからザビエルはヨーロッパのイエズス会宛の書簡で「中国人がキリスト教を受け入れれば、日本人はこれまで中国人から教わったさまざまの教義を捨てるようになるでしょう」と書いているように、中国でキリスト教を広めれば、日本も自然にキリスト教化するのではないか、と考えました。
そして1551年、日本を去り、インドに戻った後、中国を目指しましたが、その途中で高熱を発し、1552年12月2日に46歳で亡くなりました。
イグナチオはザビエル宛の書簡で、生きているうちにザビエルと会いたい、と書き、ザビエルはこれに対して、この言葉に大きな感動を覚えました、この言葉を思い出すたびに涙を流しています、と返していましたが、再会することはかなわなかったわけです(イグナチオはザビエルに遅れる事4年、1556年に65歳で亡くなっている)。
ザビエルは日本を去った後、日本について感じたことを次のように書簡に記しています。
・日本は大きな島国ですが、どこも同じ言葉(日本語)を話しています。その言葉を覚えるのは難しいことではありません。
・日本人の欠点の1つは、時間を平気で取り上げることです。しつこく質問しに来るものが跡を絶たず、質問も途切れることなく延々と続くので、祈りや瞑想をする時間がほとんど無くなってしまいます。
(日本人から質問されたことについて、フアン(ジョアン)・フェルナンデスはザビエルは次のように報告している。デウスが人間を作ったというが、なぜ悪いことをするように作ったのか。デウスは慈悲深いというが、なぜ、人間が天国に至るまでの道をこんなにも苦しいものにしたのか。デウスは慈悲深いというが、なぜ子どもを望むのに得られない人に子どもを授けないのか。デウスが神であるならば、なぜ今まで日本にありがたい教えを示して下さらなかったのか。)
・日本人は私が見たほかのどの国民よりも明らかに優秀なので、布教には大きな苦しみを味わうことになります。日本人は納得するまでキリスト教を受け入れようとしませんし、僧侶たちは厳しく批判をしてきます。しかし、日本人はひとたび納得すれば、キリスト教を受け入れ、迷わずに教えを守り、子孫に教えを伝えていきます。ですので、日本には特に優秀な宣教師を派遣していただけるとありがたいです。
・僧侶たちは次のように私たちを罵ります。「キリストの神なんて聞いたこともない。悪魔の中でも最上級のものに違いない。キリストを神として崇拝するようになれば日本は滅びるだろう」。また、彼らはデウスのことを「大嘘(ダイウソ)」と呼んでいます。彼らの言葉では大きな嘘という意味のようです。
(僧侶たちの悪口について、フアン(ジョアン)・フェルナンデスは書簡で、悪魔がバテレン[宣教師]たちは俺の弟子だと言っていた、悪魔がバテレンたちの願いを聞いて、国主様の館に稲妻を落としたのを多くの者が見た、バテレンたちが人肉を食べていた、というものがあったと書いている)
また、コスメ・デ・トルレスも日本について感じたことを次のように書簡に書いています。
・日本人は分別があり、温厚で、理性に基づいて行動する。
・好奇心に富む。
・宮廷で育ったかのように礼儀作法が身についている。
・めったに悪口を言わない(外国人に対しては別)。
・他人をねたまない。
・賭博をした者は死刑となるので賭博をしない。
・小さいものを盗んだ者でも死刑となる。
さて、志半ばで亡くなったザビエルが、日本布教の前後にインドに滞在していた際、会っていた若者がいます。
その人物こそが、『日本史』を書いたルイス・フロイスでした。
●ルイス・フロイス
フロイスは1532年、もしくは1533年にポルトガルで生まれました。
フロイスがイエズス会に入ったのは1548年のことです(五野井隆史氏『ルイス・フロイス』では「フロイスが、なぜイエズス会に入ったのか、その動機と理由は明らかでない」と書かれている)。
フロイスはどんな人物であったのか、イエズス会の上司に当たる人物たちの評価を見てみましょう。
・ヌーネス・バレト…言葉巧みで頭の回転が速い。手際よく事に当たることが出来る。人に気さくに話しかける。トラブルメーカーなところがある。
・フランシスコ・カブラル(後に日本布教の第3代責任者となる)…優れた才能、徳性は普通。文筆の仕事を手際よく処理する事務能力がある。甚だ的確な判断力を持つ。語彙が豊富であるので、立派な宣教師となるだろう。
・クァドロス…身体強健で、好人物であるが、信心深くはない。よく冗談を言う。
・ゴンサロ・シルヴェイラ…体は華奢。人間味がある性格をしている。機知に富む。
さて、フロイスはイエズス会に入ったその年のうちにインドに派遣されました。
いっしょにインドに向かった者の中にはザビエルと共に日本に行くことになるフアン(ジョアン)・フェルナンデスがいました。
インドのゴアに到着したフロイスは、その後バサインに移って布教活動をしていましたが、1549年にこの地を訪れたのがザビエルであり、ザビエルはフロイスに対し、居館の管理やキリスト教界維持のための寄付について指示をしています。
その後ゴアに戻ったフロイスは、日本から戻ってきたザビエルと1552年に再会します。ザビエルはゴアにてイエズス会員に対して講話を行ないましたが、これについてフロイスは次のように書いています。
…彼の口から出る言葉には多くの力と恵みがあると思われ、聞く者すべては興奮し、気持ちが変わった。
1554年、ヌーネス・バレト(1520~1571年)は日本に向かうにあたり、「神父たちの通訳になるために言葉を覚える能力のある」者たちを選んで同行させましたが、その内の一人がフロイスでした。
しかし、この時フロイスは日本に赴くことはありませんでした。
日本に向かう途中、マラッカに至ったところで、フロイスはマラッカの神学校の管理を命じられたからです。その後、フロイスは1557年にゴアに戻りました。
フロイスはゴアの神学校で学問に励み、1561年に司祭となりました。
そして翌年、フロイスは日本布教を命じられ、ゴアを出発することになります。
日本に到着したのは1563年7月6日のことで、到着した場所は肥前(佐賀・長崎)の横瀬浦(現・長崎県西海市西海町)というところでした。
横瀬浦はキリシタン大名の大村純忠(1563年6月にキリスト教徒となった。洗礼名ドン・バルトロメオ)によってイエズス会に寄進された土地で、ここに来る商船は10年間関税を免除されることになっていました。
ジョアン・パプティスタは書簡で「全員がキリスト教徒である港」と書いています。
しかし、この横瀬浦の繁栄は長くは続きませんでした😨
なぜかというと、大村純忠に対する謀叛が発生したためで、横瀬浦は11月17日頃に放火されて焼失しました。
フロイスはやむなく、松浦隆信領の度島に逃れることになりました。度島の領主はキリシタンの籠手田安経(洗礼名ドン・アントニオ)で、350人ほどの島民は全員がキリスト教徒となっていました。
しかしフロイスはこの島について早々に、次の苦難に遭うことになりました。
1564年10月3日付のフロイスの書簡によれば、フロイスたちがいた修道院で、ある日本人が蝋燭を作るために蝋を溶かしていたところ、誤って修道院に火をつけてしまい😱、修道院が炎上してしまった、とあります。
フロイス、日本に来てから、なかなかに散々ですね…。
ザビエル後の日本布教の中心人物となったのはザビエルとともに日本をまわっていたコスメ・デ・トルレスで、山口、その後は豊後(大分県)を根拠地として布教を続けていましたが、このトルレスは1564年にフロイスに都に行くことを命じました。
フロイスは京都に向けて出発、1565年1月27日に堺に到着し、1月末には京都に入りました。
京都ではガスパル・ヴィレラ(1525?~1572年)が1559年から長きにわたって布教に当たっていました。
フロイスはヴィレラについて、「40歳であったが、髪はすでに白く、60歳のようであった。…京言葉を甚だ流暢に話し、それでもって説教をしている」と書いています。
本人も1561年に書簡で「日本語はそう難しいものではない。私はその大半を知っており、少なくとも聞き取ることにかけてはそうである」と書いています。
ヴィレラははじめ迫害に苦しみましたが、1560年に将軍・足利義輝に謁見し、ヴィレラの書簡によれば、義輝は「京都に居住する許可を書面をもって与え、我らに危害または妨害を加える者は死罪に処することを定めた」ので、迫害は止んだといいます。この「書面をもって…」というのは、次の「幾利紫旦(キリシタン)国僧 波阿伝漣(パーデレ[パードレ]。司祭の事)」宛の禁制のことで、これには①ヴィレラたちがいる建物に押し入って乱暴を働いてはならない、②寄宿を断ってはならない(ヴィレラの書簡には、僧侶たちが、ヴィレラたちを泊めた者に対し、すぐさま追い出すように要求し、追い払わなければ人間でない、と言った、と書かれている)、暴言を吐いてはならない、③正当な理由のない諸役[労働をさせたり、税を取る事]を課してはならない、といったことが書かれています。
こうして、幕府から公認を受けたキリスト教ですが、僧侶たちは①彼らが仏教の教えや神々に対し悪口を言うので、人々は信心を失い、罪を犯すことをためらわなくなっている、②彼らがいた場所である山口や博多はその後戦争によって破壊されている、主にこの2つの理由を挙げて、キリシタン追放を三好氏の重臣・松永久秀に要請しました。
これに対し、久秀は、尋問もしないのに追放することは良くないので、キリシタンの教えを調べさせ、国に有害な物とわかれば、都から追放し、教会も没収する、と約束しました。
ここでキリシタンの取り調べにあたったのが結城忠正(『日本史』によは、「結城山城殿という老人がおり、著名な学者で、また、偉大な剣術家でもあった。特に天文学に通じており、高貴な人々から敬われていた」と書かれている)と清原枝賢で、尋問を受けたのが洗礼名ディオゴという日本人キリシタンでした。
当時の日本には堺に日比屋了珪というキリシタンがおり、洗礼名はディオゴで、『日本史』には「堺ではなはだ名望があり、広く親族を有する」人物で、1561年、堺にやって来たヴィレラたちを受け入れ、この年に了珪の数人の子どもと親族がキリシタンとなり、2年後には了珪もキリシタンとなったが、「彼は常に堺におけるキリシタンの中心人物で模範的人物であった」と書かれているのですが、今回尋問を受けたディオゴは『日本史』に「都にはディオゴというキリシタンがおり、彼は都にいた者で最善の、そして確乎不動の信仰心を持つキリシタンであった」と書かれており、これは日比屋了珪の説明の後に出てくる記述なので、これが日比屋了珪であれば、「ディオゴという」と書かないでしょうから、どうやら日比屋了珪とは別のディオゴであったようです。了珪は都ではなく堺にいますしね。紛らわしい😓
さて、尋問を受けたディオゴですが、1564年のフェルナンデスの書簡には、ディオゴが霊魂が不滅なこと、デウスという創造主がいて、全ての物を支配していることを語った、山城殿(忠正)はディオゴの話に真理があるように感じられ、司祭(ヴィレラ)の話も聞いてみたいと言ったが、ヴィレラは山城殿がキリシタンを敵視していることを知っていたのでこの誘いを危ぶみ、代わりにロレンソ(肥前国[佐賀・長崎県]生まれの日本人キリシタン。『日本史』によれば、賎しい生まれで、容貌は醜く、サンチョというキリシタンの子が逃げ出すほどであった。また、片目が見えず、もう一つの目もほとんど見えなかったため、琵琶法師をして生計を立てていた。しかし、キリスト教に関する深い学識を身につけていた)を派遣、このロレンソの話を聞いた山城殿はキリシタンになる事を願い、ヴィレラと会って外記殿(清原枝賢)と共に洗礼を受け、キリシタンとなった、と記されています。『日本史』には、討論の場面が詳しく書かれており、それによれば、結城忠正が「私は宣教師を都から追放し、教会を没収しようと決心している」と言ったところ、ディオゴは「この世で起こることはデウスが決めないと起こりません」と答えたので、忠正は「デウスとは何か」と質問し、ディオゴは「デウスは天地の主で、現世、そして来世を支配し、人類の救い主であり、見えるもの、見えざるもの、全ての造り主であります」と答えた、その後霊魂についてなど、宗教討論を行ったが、ディオゴは全てにおいて完全に満足な解答をしたので、忠正は畳を手で打って、深い眠りから覚めたように額をさすり、賛嘆の言葉を発し、キリシタンになる事を願った、と書かれています。
こうして、尋問にあたった結城忠正と清原枝賢はキリシタンとなったのですが、この時、沢城主の高山図書(右近の父)も熱心なキリシタンとなってダリヨ(ダリオ)という洗礼名をもらい、他にも結城忠正の子や7名の三好家の武士がキリシタンとなりました。
僧侶たちはこれに驚きましたが、なおもあきらめず、三好長慶を動かすことでキリシタンを排斥しようとする動きを見せたので、三好家のキリシタン家臣たちは、三好長慶に会って、キリストの教えが優れていることを説明するべきだとヴィレラに勧め、これを受け入れたヴィレラは1564年、長慶と会ってキリストの教えについて話しました。
これに対して、三好長慶はヴィレラの書簡によれば「私はデウスのことを聞きたいと思っているが、禅宗を極めておらず、この状態でキリシタンになると、禅宗の奥義に達することが難しかったのでキリシタンになったと言われるので、禅宗を極めた後に、デウスの教えを聞こうと思う」と述べ、家臣がキリシタンになる事を認め、キリスト教の教えを正しいものと考えていた、とあり、ジョアン・フェルナンデスの書簡やフロイスの『日本史』によると「キリストの教えの内容は、非常に良いものだと私は思う。私はできる限り、キリシタンの者たちを保護しよう」と答えたといいます。
こうしたヴィレラの奮闘が実り、京周辺ではキリスト教が広まりを見せ、『日本史』によれば、いくつかの教会が建ち、三好の家臣約200名がキリスト教徒となっていたほどでした。
さて、京都に着いたフロイスですが、2月に将軍・足利義輝と会っており、その時のことを『日本史』に次のように記しています。
…公方様の宮殿は深い堀に囲まれていて、そこには幅の広い、良くしつらえられた木橋がかかっていた。公方様は、丁重に応対された。奥方も喜んで私たちを迎えた。公方様の母親は、私たちが日本の礼法に通じていることに驚いていた。
このように、1560年代前半におけるキリスト教徒をめぐる状況は非常に良いものであったことがわかるのですが、義輝が1564年の6月17日、永禄の変に遭い死亡したことにより、暗転していくことになります。
『日本史』によると、反キリシタンの急先鋒であったのは「竹内三位」(季治。1567年に出家して「真滴」と名乗る。1518~1571年)・「下総殿」(秀勝)の兄弟でした。
竹内季治は「三位」と呼ばれている通り、1557年に従三位、1562年に正三位になった人物でした(『公卿補任』)。三位以上が貴族の中でも上位層の公卿と呼ばれるので、季治は高位の貴族であったことになります。季治は日蓮宗の熱心な信者で、フロイスの書簡によれば、大きな寺院を作り、僧侶の服を着て毎日説教をしていたが、その内容はキリスト教を排撃するものであった、といいます。一方の弟の秀勝は松永久秀の重臣だった人物でした。
竹内兄弟は教会に一部隊を派遣し、宣教師たちを殺そうとしますが、これを知った三好家臣のキリシタンたちが司祭を守るために教会に駆けつけ、教会に立て籠もりました。
当時畿内にいた司祭はヴィレラとフロイスだけであり、家臣たちは司祭を2人とも失うことを恐れ、2人の内、日本語に通じているヴィレラを生き延びさせるために教会を出て落ち延びるように説得、これを受けてヴィレラは7月1日未明に教会を密かに出て河内国に向かって逃れていきました。フロイスは死を覚悟して家臣たちと共に教会に残ります。
包囲する敵軍は、同じ三好家臣と戦うのをためらい、手を出せずにいました。そこで、竹内兄弟は一計を案じ、朝廷に要請して宣教師追放の詔勅を出してもらうことにします。
宣教師追放の要請については、『言継卿記』7月5日条に「今日三好左京大夫、松永右衛門佐以下悉罷下云々、今日左京大夫禁裏女房奉書申出、大うす(デウス)逐払之云々」(三好義継・松永久通たちが内裏にやって来て、キリシタンを追い払うことを命じる女房奉書[天皇の意思を女官が仮名書きで書いて発給する文書]を出してほしいと申し出てきたという)、『御湯殿上日記』7月5日条に「大うすはらひたるよし、みよし申」(三好がキリシタンたちを追い払うように朝廷に要請してきた)と書かれています。
三好の要請を受け入れた朝廷は翌日7月6日、「伴天連たちは悪魔の教え、虚偽・欺瞞のデウスの教えを説いたので、都から永久に追放し、教会を没収する」という内容の布告を京都に出し、京都からの宣教師の追放を命じたことにより、フロイスたちはやむなく京都を去って、堺に移ることになりました。
フロイスはその後長く堺に滞在することになりますが、1568年、足利義昭が織田信長と共に上洛したことにより、状況は変わっていくことになります。
1569年、以前に紹介したように、信長に矢銭を渡さず三好に味方していた堺は、本国寺の変で三好勢力が敗れ去ると動揺し、堺から次々と避難する騒ぎとなりました。
この騒動の中で、フロイスも堺を離れることを決意し、摂津国の尼崎に移ります。
尼崎について、『日本史』には「堺から5里隔たったところに、尼崎という立派な町がある。そこに数名のキリシタンの貴人がおり、親族や友人たちにも洗礼を受けさせたいと願っていたので、1567年、フロイスは尼崎に向かい、かなりの数の身分の高い異教徒たちが改宗した。その後も要請があれば、フロイスは度々尼崎を訪れた」と書かれており、キリシタンが多く、友好関係にあったのでフロイスは避難先に尼崎を選んだことがうかがえます。
フロイスはしばらく尼崎のキリシタンの家に泊めてもらっていましたが、織田軍が尼崎の家財を没収しにやって来ると聞き、さらに高山ダリオのもとに移ることになりました。
●和田惟政の奮闘
一方、堺は破壊されること無く、織田軍から派遣された5人の武将による統治が始まっており、騒動は収束しつつありました。
『日本史』には「信長の軍勢の5人の首脳である司令官」と書かれているこの5人の武将とはいったい誰だったのかというと、『天王寺屋会記(宗及茶湯日記 自会記)』2月11日条に、上使(幕府から派遣された使者)衆の佐久間衛門(佐久間信盛)・柴田(勝家)・和田(惟政。幕臣)・坂井右進(政尚)・森三左衛門(可成)・蜂屋(頼隆)・結城進斎(忠正。松永久秀家臣)・竹内下総(秀勝。松永久秀家臣)・野間佐吉(長前。三好義継家臣)100人ほどをもてなした、とあるので、佐久間信盛・柴田勝家・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆の5人の事だったことがわかります(4月1日付で出された堺宛の書状が残っていますが、これも柴田勝家・坂井政尚・森可成・蜂屋頼隆・佐久間信盛の連名で出されたものです)。
『日本史』には、「これらの司令官の中には、すでに都の奉行となっていた和田惟政殿もいた」とあるのですが、和田惟政は「信長の軍勢の5人の首脳である司令官」には入っていないので厳密にいうと誤りですが、堺に派遣された武将の1人であったことは確かです。
高山ダリオはこの和田惟政の家来でしたが、ダリヨは惟政にフロイスたちの堺への復帰を要望、惟政はこれを受け入れています。
惟政がダリオの要望をすぐに快諾したのには、惟政がキリスト教に好感を持っていたことがその背景としてありました。
『日本史』には、1565年、フロイスたちが都から追放される前に、近江国の甲賀にいた和田惟政が高山ダリオとともに京都の教会にやって来て、約1時間、キリスト教の説教を聞いたが、これによって惟政はキリスト教に非常な敬意を抱くようになった、とあります。この後、惟政はキリシタンにはなることこそなかったものの、「彼ほどデウスの教えに大いに傾倒し心から愛情を示し、司祭を優遇し、機会あるごとに頻繁にこれを行なった殿はかつてだれもいなかった」とあるようにキリシタンの最大の後援者となるのです。
ダリオは堺に戻ってきたフロイスと、豊後国(大分県)からやって来た日本人修道士ロレンソを和田惟政の屋敷に連れていったところ、惟政の屋敷は来客でいっぱいで忙しい中であったのにかかわらず、惟政はこれを非常に丁重に出迎えたので、来客の者たちは皆驚いたといいます。
惟政はそれだけでなく、来客の1人であった柴田勝家に出そうとしていた食事を出すのを遅らせて、来客の前でキリスト教の説教をロレンソに2時間にわたって行わせました。
柴田勝家などにキリスト教を理解してもらい、その支援者となるようにしたい、との思惑がそこにはあったようです。
惟政は続いて、フロイスを連れて織田軍のすべての武将の屋敷を訪問し、フロイスたちが帰京できるように援助を頼んでいます。
ここまでする理由について、惟政はロレンソに次のように語っています。
…私はできる限り彼らを優遇し保護しようと思っているが、これは見返りを求めているものではなく、ただ、彼らが説く教えが正当で聖なるものであると思っているのでそうしているのである。
その後約1週間経ってから惟政は京都に戻りましたが、そのわずか数日後には、高山ダリオに対し、信長殿の許可が出たので、フロイス殿を連れて京都に行くように、と伝えています。京都に戻ってから信長に対し、精力的に帰京を求める運動を行なっていたのでしょう。
そして永禄12年(1569年)3月9日(『完訳フロイス日本史』では5月になっているがこれは誤り)、高山ダリオはフロイスのもとに迎えの者たちを派遣しました。
フロイス一行はこの日は富田まで行き、翌日は天神馬場の辺りでダリオと合流して、ダリオの居城である芥川城に入りました。
この時、城内のキリシタンの武士がフロイスのもとに集まってきましたが、フロイスが話す前に、ダリオはデウスのことについて長時間しゃべり続けたので、フロイスは「その熱意と感動ぶりはそこに居合わせた誰か私たちの仲間が行ってもかなわないほどであった」と記しています。
3月11日、フロイス一行は桂川の辺り(書簡には「上桂川」と称するところ、とあるので、現在の西京区の上桂とつく地名[上桂前田町・上桂御正町・上桂北村町など]の辺りだろうか)で都のキリシタンたちの出迎えを受け、立派な輿に乗せられ、250名ほどのキリシタンと共に都に入りました。約4年ぶりに京都に戻ってきたわけです。
この時、教会のあった場所には水野信元が宿泊していたので、ソウイ・アンタンという、京都で最初の頃にキリシタンとなった者の家に泊まることにしました。
3月12日、京都にいた和田惟政はフロイスのもとを訪れ、水野信元に教会を明け渡すよう掛け合ってみることを伝えた後、織田信長が、フロイスが堺から都に到着したかどうかを惟政に尋ねてきたので、明日(書簡では「適当な時期が来たら」とある)、フロイスを織田信長に紹介しようと思っている、ということを告げます。
●信長とフロイス
3月13日、フロイスがロレンソなどと信長のもとを訪れたところ、信長は部屋の中に籠もって音楽を聴いていて出てこなかったので、佐久間信盛と和田惟政がフロイスの持参した贈り物を信長に手渡しに行きました。その贈り物はビロードの帽子・鏡・ベンガル産の籐の杖(ステッキ)・孔雀の尾などであり、フロイスによると「重要性に乏しく価値の低い」物しか用意できなかったようです。信長はこの中で帽子のみを受け取り、「他の物は必要としないが、司祭の訪問はうれしく思っている。別の手が空いた機会に会おう」という言葉をフロイスに伝えさせました。その後、佐久間信盛が多くの肴が入った金の塗ってある手箱を持ってきて、その中のどれをフロイスに与えようか、という事を和田惟政と長く相談しました。フロイスは退出した後、信長が佐久間信盛・和田惟政に対し、「司祭と会わなかったのは、遠くからやって来た異国人に対し、どう応対すればいいかわからなかったのと、また、人目につかない場所で司祭と会うと、信長がキリシタンとなったと他人から思われると考えたためだ」と話したことを伝え聞きました。
これが、フロイスの書簡からわかる、信長とフロイスの初めての出会いなのですが、『日本史』ではところどころ異なる記述が見られます。
①贈り物について、「非常に大きなヨーロッパの」鏡・「美しい」孔雀の尾・「黒い」ビロードの帽子・ベンガル産の籐の杖で、「すべて日本に無い物」を用意した、と書かれている。
②信長は部屋に完全に籠っていたわけではなく、奥の部屋から、若い武士2人を前に立たせ、2人の間から司祭の様子をうかがっていた、とある。
③食事が運ばれてきたのは信長が帽子以外を返品する前のことになっていて、どれを食べさせるかを佐久間信盛と和田惟政は相談しておらず、好きな物を食べられるように、とフロイスに伝えている。
④信長は物を受け取る時に、他の人からもらった場合においても、気に入った物だけを受け取り、他の物は返品していた、と記している。
書簡・『日本史』と、どちらの内容が正しいのかはわかりませんが、『日本史』に書いてある流れの方が自然に思えますし、信長ならこっそりのぞくこともありえそうです😅
こうして、フロイスは都に復帰することができたのですが、反キリシタンの急先鋒である竹内兄弟はどちらも体制側に生き残っていたため、キリシタンをめぐる情勢はまだ予断を許さないものがありました。
3月15日早朝、朝廷の使者がフロイスの泊まっている家にやって来て、立ち去らないなら家を破壊する、と伝えてきました。フロイスはやむなく家を出て別のキリシタンの家に密かに逃れ、ロレンソはこの状況を和田惟政・佐久間信盛などに伝えに行きました。
これを受けて、和田惟政・佐久間信盛は、「司祭の身の安全は我らが保証するので、元いた家に戻っていただきたい」とフロイスに伝えたので、フロイスは元の家に戻ることができました。
朝廷(竹内季治)と幕府・織田方でキリシタンの扱いをめぐり意思の統一が取られていなかったことがうかがえます。
その後、フロイスは3月24日の復活式に向けて準備を進め、当日はできる限り盛大にこれを祝い、昼食の時には狂言や音楽などが催されました。
4月1日、フロイスは本国寺にいた足利義昭を訪問しましたが、義昭は病気だったため会うことができず、代わりに義昭の乳母が応対し、義昭が、司祭たちの必要なことがあれば何でもする、と言っていることをフロイスに伝えました。
和田惟政はフロイスが信長と義昭、両方に対面できなかったことに心を痛め、その対面の機会をうかがい、4月3日頃に信長がフロイスと会おうと言ったことを知るや、すぐさまフロイスのもとを訪れ、フロイスを「乗り物」(輿)に乗せて信長のもとに連れていきました。
信長はこの時、二条城築城の指揮を執るために堀の橋の上にいるところでした。
この時の信長の服装についてフロイスは、「常に座るための虎の皮を腰に吊るし、はなはだ粗末な衣服をまとっていた」と記しています(フロイスは『日欧文化比較』で、「われわれの間では身分のある人が帯の後に狐または山犬の皮を吊して運んだならば狂気染みたことと思われる。日本では貴人等が仕事をする際にそれを身に着け、また侍童がそれを運ぶ。その上に座るためである」と記している)。
また、書簡には「彼は筆頭の現場監督として鍬を携え、大半の時間は手に竹を持って工事を指図した」とありますが、これはポルトガル語版(原文)の書簡集に載っている文章で、スペイン語訳版の書簡集の場合は、「手に刀を携え、あるいは時に肩にかついで、その他の時は杖を持って、彼が考えた指示を与えていた」となっています。だいぶ表現が異なっていますね💦原文の方が正確であると思うのですが、『日本史』には「信長は杖(cana)を手にして作業を指示した」とあり、スペイン語版に近い表現がなされていて、よくわかりません😓
フロイスは遠い場所から信長に敬意を表しましたが、信長はフロイスに気づくと、近くに来るように伝え、フロイスが側に寄ると、信長は日光を避けるために帽子をかぶるようにフロイスに伝えました。
フロイスはこの時、信長に金平糖入りのガラス瓶1つとロウソク数本を贈っています。この頃の金平糖は今の物とは違い、植物(ケシ)の種を砂糖で覆ったものだったようです。また、ロウソクについて、フロイスは『日欧文化比較』で「われわれの蝋燭は本が太くて先が細い。日本人のは先が太くて本が細い」と書いています。
そしてここから、信長とフロイスは1時間半~2時間ほども話すことになります。
まず、信長はフロイスに次の質問をしました。
①年齢はいくつか
②いつ日本に来たのか
③どれくらい学んだのか
④司祭の両親は再びポルトガルで会うことを期待しているのか
⑤毎年ヨーロッパから書簡を受け取っているのか
⑥ポルトガルから日本までどれくらいの距離があるのか
⑦日本に滞在しようと思っているのか
⑧デウスの教えが日本に広まらなかった場合は、ヨーロッパに帰るのか
⑨デウスの教えはなぜ京都で盛んになっていないのか(『日本史』では、教会がなぜ1つも無いのか)
(『日本史』では10個目の質問として「伴天連はなぜ遠くから日本にやって来たのか」が書かれており、フロイスはこれに対し、日本にデウスの教えを広めることで、デウスを喜ばせたいという以外に願いは無く、そのためなら困苦や危険も喜んで受け入れます、と答えている)
フロイスは、⑧の質問に対して、1人でもキリシタンがいれば、日本にとどまるでしょう、と答えました。
⑨の質問にはロレンソがたとえ話で答え、穀物が生じたとき、トゲが多く、生育を妨げられたので、多くの人がキリシタンになりたいと思っているのに、ためらいの気持ちが生まれてしまっているのです、と答えています。「穀物」とはキリスト教、「トゲ」は仏僧などによる妨害、「生育」はキリスト教が広まる事でしょう。
これに対し信長は、仏僧たちは金と肉欲のことしか考えていない、と答えました。
(『日本史』では、この時信長は、その体に「並外れたオルガン」[extraordinario orgao]を持っていたので、声を張り上げて、遠巻きに様子をうかがっていた仏僧たちを指さしながら、「彼らは人々をだまし、自らを偽り、傲慢で、出過ぎた態度を取ることはなはだしいものがある。私は何度も彼らを皆殺しにして消し去りたいと思うことがよくあるのだが、世の人々が彼らに関心をもっており、皆殺しにするとなれば動揺が避けられないので、煩わしいと思っていながらも、彼らをそのままにしているのだ」と語った、と書かれている。書簡と比べると内容がだいぶ詳細に書かれているが、なぜこの内容を書簡に記さなかったのだろうか?これを受け取ったヨーロッパの人々が喜びそうな内容であるのに。そう考えると、『日本史』のこの内容は、だいぶ修飾され、誇張されていると考えるべきだろう)
この返答を受けて、フロイスは信長に次のことを提案します。
…我々は俗世的なものは求めておらず、ただデウスの教えを広めたいだけです。殿下は今の日本で最高の権力を持っておられますが、娯楽として、我々と殿下の御前で日本の諸宗派と宗論を行なわせていただけないでしょうか。もし私が負けたならば、都から追放されればよく、逆に仏僧側が負けたと思われたならば、デウスの教えを広めることを妨害しないと強制すべきです。
これを聞いた信長は、大国の者が偉大な才能と不屈の精神を持たないわけがない、と家臣に向かっていった後、宗論については実現できるかもしれない、とフロイスに告げました。
続いてフロイスは、宣教師が都で自由に過ごせることを保証する信長の許可状(朱印状)が欲しいと伝え、これが実現すれば、信長の偉大さがインドやヨーロッパの国々にも広がるでしょう、とヨイショをします。
このヨイショに信長はうれしそうな表情を見せ、この反応を見たフロイスは、義昭を将軍職に就けた功績をたたえるという追撃のヨイショをしています。
約2時間にわたる話が終わった後、信長は和田惟政にフロイスを連れて二条城の普請工事を詳細に見学させるように伝えました。
フロイスが信長の前を通り過ぎる時に草履を脱いだところ、信長は2・3度にわたり、草履を脱ぐ必要はない、と伝えました(この部分はなぜか『日本史』ではカットされている)。
見学を終えて、フロイスが信長に別れの挨拶にやってくると、信長は非常に親切な言葉(『日本史』には、司祭との交際が気に入ったこと、今後も、フロイスと語るために人を呼びにやらせよう、と語った、と書かれている)をかけてフロイスと別れたといいます。
信長に謁見した2日後、和田惟政がフロイスのもとを訪れて、公方様(足利義昭)が信長と、フロイスと会うことについて話をした、そこで、これから公方様に司祭を紹介したいと思うので準備してほしい旨を告げました。
こうして、フロイスは信長に続いて足利義昭とも対面を果たすことになりました。
和田惟政はまず、義昭に対しフロイスのことを紹介しましたが、その内容はフロイスのことを褒めそやすものでした。
続いて、フロイスは義昭に孔雀の尾(堺の日比屋了珪から借り受けたもの)を進上しました。
これに対し、義昭は酒を注いだ自らの盃をフロイスに与えました。「盃を取らせる」というやつですね。
フロイスは、「公方様が訪問してきたものに言葉をかけることはきわめて珍しいことであったのに、公方様は2度にわたって私に酒を飲むように勧め、さらに進物を受け取り、うれしく思う、ということを話した」と書簡に記しています。異例の厚遇であったようですね😕
その後、フロイスは退出することになりましたが、その際、足利義昭はフロイスの背丈がどれくらいあるのか気になり、密かに座敷の入り口までついてきたといいます。入口にある柱や鴨居からフロイスの身長を測ろうとしたのでしょう。なんだかほほえましいエピソードですね。義昭、かわいすぎます…😍
ちなみにフロイスは、義昭との謁見の場面について、『日本史』では、①孔雀の尾を進上したこと、②足利義昭がフロイスの身長を測ろうとしたこと、の2点を省略しています。身長のエピソードを割愛するとはもったいない…💦
こうして、フロイスは信長・義昭との対面を果たすことに成功したのですが、一番の目的である、都に滞在することを許可する朱印状を手に入れることができていませんでした。
会見からしばらく経っても朱印状が得られないことに、キリシタンの者たちは次第に不安を感じ始めます。
当時、堺・大坂・各寺院が(安全を保障する)朱印状を得るために大金や金の延べ棒を贈っていたので、キリシタンたちは、自分たちも銭や金銀を贈らなければ朱印状は得られないのではないかと考えるようになりました。
フロイスは書簡に、堺は4万クルザード(1クルザードは約0.4貫であるので、16000貫。正しくは2万貫)、大坂は1万5千クルザード(6000貫。正しくは5000貫)、各寺院や諸城は金の延べ棒を10~20本贈った、このため、信長は信じられないほど多くの富を手に入れたので、今や信長はこれらを贈られるのを嫌がっている、そこで、人々は信長が興味を持っている、インドやポルトガルの物…緋色の外套と上衣、羽飾りと聖母マリアのメダルが付いたビロードのフチ無し帽子、緋色の朱珍の織物、コルドバの皮革製品、砂時計・日時計、洋ロウソク、中国の羊皮、テンの毛皮の服、ガラスの器、緞子の織物…を信長に贈るようになっている、と書いています。
信長が進物として金銀を忌避するくらいにまでなっていた、というのですが(本当かどうかはわかりませんが)、それを知らずにキリシタンたちはこれを贈ろうとしていたわけですね😓
しかも都のキリシタンたちが用意できたのは「銀」の延べ棒3本しかありませんでした。
永禄12年(1569年)の金銀の価格は、『多聞院日記』によれば、金は15貫であったのに対し、銀は2貫にすぎず、7.5倍もの価値の差がありました。寺院や諸城は10~20本の金の延べ棒を贈っていますが、10本の金の延べ棒と3本の銀の延べ棒では、25倍もの価格の差が生じることになります。
延べ棒を託された和田惟政は、これではいくらなんでも少なすぎると考え、自分の屋敷にあった銀の延べ棒7本を足し(『日本史』では銀の延べ棒7本を借り受けた、とある)、合計10本にして、信長と会い、「これは司祭からの進物ですが、司祭は貧しいのでこれ以上は用意できず、このようなわずか進物では無礼になると思って、本人は参上しませんでした、しかし、わずかな量であるといっても、信長殿に貢献したいと思って用意したものであり、その気持ちを汲んでいただきたい」と言ってこれを進上しました。
これを聞いた信長は笑みを見せながら次のように返答しました。
「異国人である司祭から、許可状を与える代価として金銀を受け取れば、異国に私の悪評が流れることになるだろう。司祭が金銀を贈る必要はない。私は無償で許可状を出すつもりであり、司祭が望む通りの内容のものを和田殿が作られるとよろしい。その作られたものに対して、私は朱印を押すだろう」
そこで作られた許可状の内容は次のような物でした。
…私は司祭に都に滞在する許可を与える。司祭の家は軍隊に陣所として取られることは無く、諸役は免除される。我が領国内のいずれの場所であっても、司祭が滞在する場所で乱妨を受けることは無い。害を加える者がいれば、必ずこれを罰する。…
この内容は『日本史』では微妙に省略されており、
…信長の特許状(Goxuin[御朱印])。都に住む司祭は諸役から免除される。領国内のいずれの場所であっても、乱妨を受けることは無い。害する者がいれば、必ずこれを罰する。Yeyrocu[永禄]12年4月8日。
…と書かれています。
特許状を得たフロイスは翌日、和田惟政と共に、謝意を伝えるために建築現場にいる信長に会いに行きました。
この時、フロイスは砂時計とダチョウの卵1個を進物として信長に贈っています。
信長は親しみを持った態度でフロイスを出迎え、建築現場を見て回るように伝えました。
フロイスは建築現場を見て回っている時に、和田惟政から、信長に①建築の見事さを褒め称える、②信長の寛大さを伝えるために特許状の写しをインドやヨーロッパに送ると話す、この2つのことをすると良い、とアドバイスを受けています。
フロイスは何から何までしてくれる和田惟政に対し、感謝してもしきれないが、あなたにしてあげられることは洗礼を授けてあなたをキリシタンにすることくらいしかない、と伝えますが、和田惟政は微笑みながら、自分はすでに心の中ではキリシタンのつもりです、信長殿が帰国したらデウスの教えについてまた詳しく聞かせてほしい、と返しました。
その後、和田惟政の尽力もあり、フロイスは足利義昭の特許状も得ることに成功しました(『日本史』では信長が義昭に「私はすでに朱印状を伴天連に与えたので、公方様も特許状を伴天連に下されるとよいでしょう」と提言した、と書かれており、信長もフロイスが義昭から特許状を得ることに一役買っている)。その内容は、書簡には信長のものと同様であった、としか書かれていないのですが、『日本史』にはその内容が次のように書かれています。
…公方様の制札[Xeisat]。都でも、どの国においても、司祭は滞在する場所での諸役を免除される。もし司祭を妨害しようとする者がいれば、その者は犯した罪に応じた罰を受けることになるであろう。永禄12年4月15日…
この2つの特許状は両方とも板に書かれたものであり、さっそく立て札として教会の外に掲げられることになりました。
それから4日ほどして、フロイスは和田惟政と共に再び織田信長のもとを訪れました。4月14日には二条城内に足利義昭が入っているように、二条城はある程度体裁を整え終えていた(この後も義昭の館の普請は続けられる)ので、この時は信長は建築現場にはおらず、妙覚寺に居所を置いていました。
フロイスは以前に何度か信長に見せていて、信長から賞賛を受けていた小型の精巧な目覚まし時計(relogio pequeno despertador, de grande artificio)を進上しましたが、信長は「とても欲しいと思っているのだが、修理方法がわからず、自分の手元に置いていても駄目になってしまうから、受け取らないでおこう」と答え、目覚まし時計を返却しています。
(1611年にスペインから徳川家康に贈られた目覚まし時計が現在も久能山東照宮博物館に残っているが、これは高さ21.5㎝である)
その後、信長は茶でフロイスをもてなした上で、「日本で最も珍重されている」(『日本史』)美濃国産の干し柿が入った小箱をフロイスに与えました。
その後、2時間にわたって信長はフロイスにヨーロッパやインドのことを尋ねました。
フロイスが退出しようとする際に、信長は、自分は美濃に帰国しようとしているところであるが、その前に、公方様のところを訪れた際に着て行ったというポルトガルの衣服を持って訪ねてきてほしい、とフロイスに伝えました。
「歴史」の「戦国・安土桃山時代」の[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、
「したたか家康~武田・徳川の今川領進攻」の2ページ目を更新しました!😆
補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!
大河ドラマ「どうする家康」では、ピュアだった徳川家康が世間のイメージのような古狸になるのは築山殿事件(1579年)がきっかけだった、ということになっていましたが、実際は最初の頃から「したたか者」(人の思うようにならない者)でした。
ピュアな男が今川に反旗を翻すとは思えませんしねぇ…。
まずどう考えてもピュアな男が戦国という荒波を渡っていけるとは思えません😓
しかも後に天下を取っているのであればなおさらです。
今回は、家康の「したたか」ぶりがよくわかる、武田との今川領分割を見ていこうと思います!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●武田信玄、今川との同盟を破り駿河に進撃
以前に述べたように、永禄4年(1561年)4月に徳川家康(「徳川」に改姓したのは永禄6年[1563年])が今川氏を離反、ここから今川氏の崩壊が始まっていくことになります。
永禄5年(1562年)2月、家康は上ノ郷城を攻略して城主の鵜殿長照を討ち取ります。
今川氏真はこの状況を捨て置けずに永禄6年(1563年)7月に三河に出陣、各地で戦闘が展開されることになりますが、この年の12月に遠江の引馬城主・飯尾連龍が反乱、これに西遠江各地の武将たちも続いて遠江は「遠州忩劇」と呼ばれる混乱状態となり、氏真は危機を迎えますが、同時期に三河でも反徳川の一向一揆が発生したこともあり、永禄7年(1564年)10月頃までに飯尾連龍と和睦することに成功、遠江の状況を持ち直すことに成功したものの、一方の家康は永禄7年(1564年)2月に一向宗と和睦、4月までに西三河を平定した勢いをもって東三河に攻勢を強め、永禄8年(1565年)3月には田原城・吉田城が陥落、残る牛久保城も永禄9年(1566年)5月に降伏し、氏真は三河を失うことになりました。
それにしても、氏真、よく粘りましたね…💦徳川家康は三河を制圧するのに5年もかかっているのですから。ただの暗愚な武将ではなかったことがわかります。
しかし、三河に出陣するのが2年以上も遅れたり、和睦した飯尾連龍をその後殺害して遠江の武士たちのさらなる離反を招いたりと、「この時期にそれはダメだろう」という行動をとっていること、徳川家康は織田信長と同盟していると言っても三河の一地方武将にすぎず、一方の氏真は駿河・遠江・三河の大半を支配し、しかも武田・北条と同盟して背後に敵がいなかったこと…を考えると、凡庸な武将という評価を下さざるを得ません😓
この状況を見て心変わりをしたのが武田信玄でした。
「遠州忩劇」が起こって混乱に拍車がかかった今川氏の様子を見て、信玄は永禄6年(1563年)閏12月6日に駿河方が敗れるようなことがあれば、この好機を逃さず、駿河の制圧にとりかかろうと考えている、状況をしっかりと報告するように、という書状を家来に対して出しています。
信玄としては今川氏真に対して義理は無く、徳川家康に今川領国がすべて奪われるくらいなら、駿河を手に入れたいと考えたのでしょう。
以前にも述べましたが、信玄は永禄8年(1565年)、徳川家康と同盟関係にある信長との同盟交渉を進め、これに反対した親今川派の息子、武田義信などを排除するなど、急速に方針を転換していきます。
この様子を見て今川が武田を信用できるはずもなく、永禄11年(1568年)年4月には「信玄の表裏、程あるまじく候」(信玄の裏切りはそう遠くないことだろう)と述べていますが、武田の裏切りに対する備えをするために、越後の上杉氏との結びつきを強めていくことになります(『松平記』には「北国の輝虎と氏真入魂の筋目有」と書かれている)。
平山優氏『徳川家康と武田信玄』によると、どうやら今川・上杉の同盟交渉に乗り出したのは上杉輝虎(後の謙信)のほうであったようです。この頃、信玄は永禄9年(1566年)~永禄10年(1567年)に上野国、永禄11年(1568年)に北信濃に出陣して上杉方と激しく争っていました。永禄9年(1566年)に上野国の上杉方の拠点・箕輪城が陥落、永禄11年(1568年)3月には信玄の調略を受けて北越後の本庄繁長が反乱を起こすなど、上杉輝虎は劣勢を強いられていました。この窮状を打開するためにも、上杉は今川との同盟を必要としていたのでしょう。
永禄11年(1568年)4月、今川と上杉は、互いに裏切ることをしない、輝虎は氏真の要請があれば信濃に出陣する、などということを約束しています(この中で先に述べた、武田の裏切りはそう遠くない、というのが出てきます。この文章は、だから連絡を密にしよう、と続いています)。
一方で、信玄も信長や家康と連携の交渉を重ねていきます。
永禄12年(1569年)7月29日、信長が上杉輝虎に送った書状には、信玄と和睦した、と記した後に、「駿・遠両国間、自他契約子細候」と書かれており、今川領国について織田と武田が話し合っていたことがわかります。
どのようなことを話し合ったのか、それがわかる具体的な史料があり、永禄11年(1568年)12月23日付の信玄が家康に送った書状で、そこには、「駿河に出陣したところ、約束通りに「急速御出張」(すばやく今川領国に出陣)されたこと、「本望満足」です」と書かれており、今川領国に期日を合せて攻めこむことを約束していたことがうかがえます。
また、『三河物語』には、武田信玄と「家康殿は遠江を「河切」(川を境)に取られるように、私は駿河を取ります」と約束して、それぞれ両国に攻めこんだ…と書かれているので、今川領国の配分についても取り決めていたことがわかります
この「河切」の川がどの川を指すのか、ということについて、『三河物語』には、武田信玄が天竜川を境に川東は武田が、川西は徳川が切り取る、という取り決めだったのに、大井川まで徳川が手に入れてしまった…という話が載っているので、この通りに読めば天竜川のことだった、ということになりますが、武田側の史料である『甲陽軍鑑』には、徳川家康が信玄に「駿河は信玄殿がとられませ、私は遠江を取ります」と申し出た、と書かれており、よくわからなくなってきます。そこで、柴裕之氏は『徳川家康』で、具体的な川について取り決めていなかったので、武田方は天竜川、徳川方は大井川と解釈していた、とし、平山優氏は、川を境目とすることは決めていたが、どの川かは決めておらず、切り取り次第としていたのではないか、としています(平山優氏は駿河も含めた切り取り次第だった、と述べているが、これは行き過ぎだろう)。
さて、以上のような取り決めの上で、両軍は永禄11年(1568年)12月に今川領に進攻を開始します。
軍勢を動かしたのが12月であったことについて、本多隆成氏は『徳川家康と武田氏』で、「敵対する上杉謙信が冬場には軍を動かせないという時期を狙ったから」と述べています。
12月6日に出陣した武田軍は、事前の調略の成果もあり今川方の武将を次々と味方につけ、順調に軍を進めて12月13日には今川氏の本拠、駿府に入ることに成功しました。
今川氏真は這う這うの体で遠江の掛川城に向かわざるを得ませんでした。
一方で、その遠江にも徳川軍が12月13日に進入を開始、12月18日には引間城を攻略するなど、西遠江を次々と手に入れていきます。
同時期に武田軍も先鋒隊の秋山虎繁が遠江に入りますが、徳川方に降っていた遠江衆と衝突するという事件が発生しています。また、秋山虎繁が降伏させようとしていた高天神城の小笠原氏助が12月21日に徳川氏につくなど(『三河物語』には氏助は秋山に降ろうとしていたが、馬伏塚城の小笠原長忠が「遠江は家康のものになったので、あなたも秋山につくのはやめて、家康に従いなさい」、と助言したため、氏助は家康に降った、とある)、遠江は両軍の激しい草刈り場と化していきました。
●したたか家康
しかし、突然状況は一変します。
永禄12年(1569年)1月8日、武田信玄は次の内容の書状を家康に送っています。
…聞けば、秋山虎繁など信濃衆が遠江に進入しているとか。このため、家康殿は遠江を「競望」(争って手に入れようとする)しようとしているのではないかとお疑いのようですので、秋山には武田軍本隊と合流するように申し渡しました。掛川城を家康殿が落城させることが肝要であります…
信玄が家康の抗議(『三河物語』には「大井川を切て駿河の内をば信玄の領分、大井川を切て遠江の内をば某(それがし)領分と相定て有処に、秋山出られ候事、謂無。早々引帰らせ給え」と抗議した、とある)を受けて秋山虎繁を撤退させたというのですね😕
(『松平記』には秋山伯耆守が信濃の伊奈より兵を引き連れて遠江の愛宕山から見付に移り、家康に味方した遠江衆と合戦してこれを破り、伯耆守はさらに引馬城まで進出し、家康と合戦して遠江を手に入れようとしたが、停戦となり、大井川を境に、駿河は信玄に、遠江は家康に渡すことになった、とある。『松平記』は一貫して武田氏と密約を結んだうえで今川領に攻めこんだとは書かない。『三河物語』は大井川の件は進攻前のこととしているが、『松平記』はこれを秋山虎繁との停戦時という事にしている。しかし、『松平記』のこの記述は先に紹介した書状などの史料からするに誤りであろう。もしくはわざと誤って書いたか。後述する家康の武田に対する行動を考えると、武田と結んでいたという事実を書くと、家康が信義のない人物ということになるので、都合が悪いと考えたためか)
なぜ信玄は簡単に遠江をあきらめたのでしょうか。それには、武田軍の窮状がありました。
武田軍が苦しんでいたのは、北条氏が今川の援軍を駿河にすばやく派遣したためでした。
北条氏は12月12日に出陣、駿河東部を抑え、13日には駿府と甲斐の途中にある薩埵峠に軍を進めました。
武田氏としては甲斐との通路を寸断されてしまったことになります。
それだけでなく、駿河各地には今川氏の勢力が根強く抵抗を続けており、信玄は駿河で反武田方に包囲される形となってしまったのです。
このため、信玄はさらに徳川も敵に回すことを恐れて秋山虎繁を撤退させたのでしょうし、徳川家康が今川氏を滅ぼすことで状況が好転する事を期待して掛川城攻略を催促したのです。
しかし、そうなるとつじつまが合わなくなってくるのが永禄11年(1568年)12月23日の武田信玄が徳川家康に送った書状です。
この書状には、
…早く遠江に軍を送らなければならないところですが、駿河を平定するのに時間がかかってしまい、進軍が遅れております。3日以内には、遠江に軍を送ろうと思っております。家康殿が掛川城に軍を早急に進められることは何よりも大切なことだと思っております。
…と書かれているのです。
これを見ると、徳川は、武田が駿河を攻略した後、遠江に武田氏が入ることを了承していたように思えます。
他にも、信玄の永禄12年(1569年)1月9日付の信長宛の書状には、
…駿河に進軍し、戦う事も無く氏真は敗北して掛川城に籠城しました。これを攻撃して決着をつけようとしていたところ、家康がやってきて、どうしてかはわからないが、武田に対して疑心を抱いているようであるので、掛川城を攻めることを「遠慮」して駿河に滞留しています。
…とあり、ここでも、武田が遠江に攻めこむことは既定路線であった、ということが書かれています。
それなのに家康が武田軍が遠江を望んだことに抗議した、というのは、信玄が困惑しているように、つじつまが合わないのですよね…。
おそらく、次のようだったのではないでしょうか。
①本当は、武田軍も遠江を切り取り次第で手に入れるはずであった。
②しかし、北条氏のすばやい登場などで思わぬ苦戦を強いられ、武田本軍は遠江に進攻できる余裕が無くなった。
③武田の窮状を見て、徳川家康は大井川を境目にすると言ったではないか、掛川城もこちらが手に入れる、と吹っ掛けた。
④信玄は弱みに付け込んでくる家康を苦々しく思いながらも、敵に回すことを恐れ、家康の言い分を吞んで遠江を放棄することにした。
徳川家康は後年の様子を見ていても相当のしたたかさがあったことがわかりますから、実際にこのようであったのではないか、と思います。
しかし、この時のことが、武田信玄が徳川家康に対して不信感を持つきっかけになったと考えられます。
今川を切った信玄も信玄なんですけどね…😓
信玄としては得意の謀略で家康の後塵を拝する結果になったのが悔しかったのかもしれませんが…。
遠江の獲得を確定させた家康は、永禄12年(1569年)1月中旬に掛川城攻撃に取りかかりますが、今川方は必死に防戦し(北条氏から海路300人の援軍も送られてきていた)、長期戦の様相を呈することになります。
(『三河物語』には、信長のもとに仕えていたが牢人して駿河に下り、氏真に仕えていた伊藤武兵衛[伊東夫兵衛。黒母衣衆の1人。信長の「女おどり」の際に弁慶の仮装をした。坂井迫盛(赤川景弘?[小豆坂で活躍])を殺害したため信長の不興を買い、牢人となっていた]が家康配下の椋原次右衛門に討ち取られた、とある。『武家事紀』には、今川氏の宴会で、今川氏の若者が、小鼓を転がして、武兵衛にこれをたたくことを求めたが、武兵衛は「私は信長に近侍して朝夕樫の柄を握って乱舞・詠曲を習う暇が無かった。また、小鼓をたたくのは勇士のやることではない」、と言ってこれを断った。今川の若者たちは、「小鼓をたたくときは叩き、樫の柄を握る時は握るのがまことの武士というものだろう」、と言って一触即発になったことがあった、掛川城の戦いでは、今川の若者たちに、「小鼓をたたいていただきたい」と言った。若者たちが「今は樫の柄を握る時ではないか」と答えると、「この外に知るる所あらじ(わしは樫の柄を握るしか能が無い)」と罵って何度も徳川軍に突撃、ついに1月22日に戦死した、とある)
この状況の中、織田信長は、2月4日、家康に次の内容の書状を送っています。
…新年の祝儀として鯉が贈られてきたこと、うれしく思います。遠江のことですが、船に軍勢を乗せて援軍を送ろうと思っております。詳細は佐久間信盛に伝えさせます。…
2月11日に家康は織田信長の家臣の加藤順盛に、
…陣中まで来られて、白鳥と鱈を贈っていただきうれしく思います。
…と書かれた書状を送っているので、これが織田の援軍だった可能性があります。
信玄は家康が掛川城を落とすことに一縷の望みをかけていたのですが、掛川城はなかなか落ちません。時間が経つごとに、信玄が不安に感じたのは上杉輝虎の動向でした。
2月8日に足利義昭は上杉輝虎に対し、
…今回、兇徒たちが京都を襲ったが、織田信長が馳せ上ってきて、ことごとく思いのままになった。次に越後と甲斐が和睦し、将軍のために働くべきである。信長とよくよく相談することが大事である。
…という御内書を送っていますが、これは武田信玄が依頼したためでしょう。
同時に、織田信長も2月10日付の書状で上杉輝虎に、
…越後・甲斐の和睦について、(義昭が)御内書を下されました。この際和睦を受け入れ、公儀(幕府)のため働くべきであり、そうして下されれば、信長としても「快然」(気分が良い)であります。
…と伝えています。
動揺の御内書は信玄のもとにも送られたようで、信玄は3月10日付の信長宛の書状で、
…上杉との和睦について、御内書の内容を了承しました。「信長御異見」について、信玄の領国ではその通りにするつもりです、…と記しています。
しかし一方の輝虎はこれを承知しませんでした。
なぜかというと、この頃輝虎はなんと長年にわたって戦ってきた仇敵の北条氏と和睦交渉を進めるという外交革命をやってのけていたからだったのですね😱
北条氏は12月19日付の書状を上杉輝虎に宛てて送りましたが、その内容は次のような物でした。
…駿(今川)・甲(武田)・相(北条)は強固な同盟を結んでいましたが、恨みがある訳でもないのに、武田が駿河に「乱入」しました。武田が伝えてきたのは、「駿・越(上杉)が示し合わせて、「信玄滅亡の企て」を図ったので、同盟を解消することにしました」というものでした。(上杉と)通じたために今川殿滅亡は間近に迫っています。こうなった以上は、当方に「一味」(味方)していただきたいと思います。(武田に対する)長年の「御鬱憤」を晴らされるのはこの時をおいて他にありません。…
輝虎は書状を受け取った後、和睦に向けて交渉を進めていくことになります。
それにしても、なぜ輝虎はこれまで何度も戦ってきた北条氏と和睦するという外交の転換を行なったのでしょうか。
関東の諸将は仇敵である北条氏との和睦など考えてもいませんでした。北条氏に武蔵国岩付城を奪われて常陸の大名・佐竹義重を頼っていた太田資正はこれは北条氏が困った時にやるいつものやり方なので、北条の甘言に乗ることの無いように、と釘を刺し、佐竹義重はこれは絶好の機会だからこれを逃さずすぐに関東に出陣してほしい、と輝虎に要請していました。
輝虎は北条氏と和睦した後、北条氏からしきりに武田氏の北信濃を攻撃するように要請されたにもかかわらず、武田氏を攻撃することはありませんでした。そのため、不信感を抱いた北条氏は、元亀2年(1571年)に上杉との同盟関係を解消し、武田氏と結ぶことになります。
この同盟で上杉が得たものは乏しいというより、関東諸将の期待を裏切り、不信感を与えたという点でマイナスでした。
実際、本人も北条が武田と結んだという事を聞いて、「馬鹿者のせいで里見・佐竹・太田と関係が切れてしまったのは後悔しかない」と悔しがっています。
いったい輝虎は何がしたかったのでしょうか。
西股総生氏は『東国武将たちの戦国史』で、北条氏との和睦中に北信濃を攻めずに越中に進攻したことに代表されるように、その後輝虎の主戦場が越中・能登にシフトしていったことから、「謙信の関心は…西へと移りつつあった」「関東や北信濃での消極的な姿勢を見ていると、謙信はこれらの戦場に興味を失っていた、としか思えない」と述べています。
輝虎としては、北条と結べば、成果の乏しい関東出陣を止めることが出来るし、北条と結んだという事で武田が北信濃に攻めこんでくるリスクを抑えられるし、関心のある越中・能登方面に気兼ねなく進出出来て一石三鳥であると考えて、北条氏と結ぶことの方を選択したのでしょう。
信玄は謙信との和睦交渉が進まないことにだいぶ気をもんでいたようで、3月23日付の家来に宛てた書状で、
…信濃・越後間の国境の雪も消えたので、輝虎が信濃に出陣するのは「必定」である。武田・上杉が和睦できるように、信長に仲介を催促するように。信玄は、信長を頼むしか他ない。信長を疎略に扱い、機嫌を損ねることがあれば、信玄は滅亡するしかない。慎重に信長と交渉するように。
…と述べています。
また、この書状には、
…家康は信長の意見に従って行動しているのだろうが、家康が氏真と和睦しようとしているという話を聞いた。いったいこれはどういうつもりなのか、信長に尋ねるように。
…とも書かれていて、信玄のもとに家康と氏真が和睦しようとしていることが伝わっていたことがわかります。
『松平記』によると、3月8日、家康が氏真に和睦を持ちかけたのだといいます。
その和睦の内容は、
…私は今川義元殿に取り立てられた身なので、これ以上今川と戦いたくありません。遠江を下されれば、永代にわたって、「御無沙汰」(無礼な・不利益となる)はしないとお誓いいたします。家康が遠江を取らねば、必ず信玄が取る事でしょう。信玄ではなく、家康にお与え下さるならば、北条氏と連携して駿河から武田氏を追い出して、氏真が帰還できるように尽力いたします。
…というものでした。
北条氏の名前が出てきていますが、実際、5月1日付の北条氏康の家康重臣・酒井忠次宛の書状に、
…蔵人佐殿(家康)と駿州(氏真)の和睦のことは、氏康が念願していることであります。
…とあり、家康と北条氏は連携して事に当たっていたようです。
ここでも家康のしたたかぶりがわかります。信玄と手を結びながら、その劣勢がわかるや今川・北条と手を結んで武田を切ろうとしているのですから…(しかも当の家康は遠江を得ている)。
家康が今川と和睦を進めていることに危機感を持った信玄は、4月7日付の家康宛の書状で次の3点について述べています。
①掛川城近辺に砦を築いて地の利を得、これを攻めるのが大切であること。
②武田と上杉の和睦について、「公方」(足利義昭)が命令され、「織田信長」が仲介して、まもなく成立すること。
③佐竹・里見・宇都宮などの関東の諸将の大半と交渉をし、共に北条を攻めることを取り決めていること。
2つ目の武田と上杉の和睦について、同じ日付の足利義昭の上杉輝虎宛の御内書には次のように書かれています。
…甲斐・越後和睦のことについて、先々月に使者を派遣したが、まだ京に戻ってこない。いかがしたのであろうか。そこで、もう一度使者を送ることにする。和睦のことをよくよく考えるように。軽率に軍を動かすことはあってはならない。
信長もまた、同じ日付の、同様の内容の書状を上杉氏重臣の直江景綱宛に送っています。
この後、和睦の話はどうなったかというと、8月10日付の御内書に、「この度の儀、然るべく候、輝虎の存分、急度申し上ぐべき段、喜び入るべく候」(和睦の件に従うという輝虎の思いを確かに伝えます、と聞き、うれしく思う)とあり、輝虎が和睦を受け入れたことがわかります。
輝虎はこの後、信玄と戦うことはついぞありませんでした。それどころか、信玄死後も、輝虎は死ぬまで武田氏と戦っていません。逆に言うと武田氏も上杉氏の領国に攻めこんでいないことになるのですが、この理由について、本郷和人氏は、「内陸に領土を持つ武田信玄にとって、塩が取れ、貿易の拠点となる海辺の地を手に入れるのは念願でした。一方で太平洋側に進出できた分、日本海側の重要度は下がり、戦いのリスクと、得られるメリットを天秤にかけて戦いを止めた」としています。輝虎としても本拠に近い北信濃に武田氏が進攻して来さえしなければそれでよかったのでしょう。両者の思惑が一致して、武田・上杉の和睦は長期にわたって続いたわけです。
話を戻して3つ目の関東の諸将と互いに北条を攻めるという取り決めをした、という内容ですが、これについては4月6日付の信玄の佐竹義重宛の書状が残っており、それには、
…武田と北条が駿河でにらみ合っていますが、北条氏政が本拠を離れているこの好機を逃さずに、御味方とともに北条を攻められることが肝要です。掛川城には「松平蔵人」(徳川家康)が攻めかかっており、まもなく落城する見込みです。また、「織田弾正忠」が先月下旬に京都から美濃に帰国し、今月末に加勢のため軍を送ると伝えてきました。そこで、駿河のことは織田に任せ、自分は小田原を攻めるつもりです。佐竹殿は、その内容を上杉に伝え、北条と上杉が和睦しないように調略をお願いします。
…とあります。ここで信長の話が出てきていますが、信長が京都を立ったのが4月21日、帰国したのが4月23日なので、これは虚報でしょう。関東の諸将を動かすためにデマを流したのだと考えられます。プロパガンダというやつですね。
掛川城が徳川との和睦に応じて開城したのが5月15日なので、まもなく落城する、というのは正しかったのですが、信玄としては、徳川が今川を滅ぼすことで、信玄を包囲していた今川勢力が消滅することを期待していたのに、両者が和睦を進めていて、徳川が今川の駿河復帰を支援するという形になる事を知って、状況が好転するどころか和睦が成立することで状況がさらに悪化する(挟み撃ちにあうわけですから)ことを悟り、信玄は和睦が成立する前に撤退することを決断します。
(『松平記』には信玄が家康・北条の和睦を受けて出陣した北条と100日ほど対陣しているところに、家康の先陣が駿府に攻め寄せ、留守を守っていた山県三郎兵衛[昌景]を追い出した。信玄はこれを知って、両側から攻撃を受けてはかなわない、と言って甲斐に退却した。氏真は北条と家康のおかげで再び駿府に帰ることができた…とあるが、実際は和睦成立の前に信玄は帰っているし、信玄と家康が戦った事実も無いので、これは明らかな創作であろう)
信玄は横山城(興津城)に穴山信君、久能城に板垣信安を残して両城の死守を命じた後、4月24日、密かに駿河から撤退しました。
それからしばらく経った5月15日に掛川城は開城、今川氏真は迎えの北条氏の兵と共に駿河の大平新城に移り、駿河の回復に闘志を燃やすことになります。
さて、帰国した武田信玄ですが、次の内容の5月23日付の書状を、信長側近の武井夕庵に宛てて送っています。
…掛川城は落城し、今川氏真は駿河の河東地域に退いたという事をお聞きしました。去年信玄が駿河に攻め入ったところ、氏真は落ち延び、遠江もことごとく武田の手に落ち、掛川城1か所を残すのみとなっていました。それから10余日経って、信長の先陣だと言って家康が出陣し、先に約束していたように、信玄が駿府を手に入れて確保していた遠江衆の人質を家康のもとに送りました。その後、北条氏政が氏真を救うべく駿河の薩埵山に出陣してきたので、武田軍はこれと対陣することになりました。家康は掛川城に対して数か所の砦を築いてこれを攻め立てて、これを落城させましたが、氏真は切腹させるか、三河・尾張周辺に幽閉するべきであったのに、北条と徳川は会見して和睦し、掛川城に籠城していた者たちを、無事に駿河に送り届けましたが、これはまったくもって「存外」(思いもよらない)のことでした。今川氏真・北条氏康と和睦しない、ということを徳川と取り決めていたのに、信長殿はこのことをどう思っておられるのか。しかし、このことはもう過去のことだから仕方ないので、せめて家康が氏真・氏康と和睦を止めて敵対関係となるように、信長殿が催促されることが肝要だと思います。
信玄の憤懣やるかたない気持ちが伝わってくる書状ですね😅
この家康の行動が独断なのか信長と話し合った上のものなのかどうかはわかりませんが、家康の行動は確実に武田氏の不信感を醸成し、後の織田包囲網参加につながっていくことになるのでした…。
戦国時代、朝廷と幕府の関係はどのような物であったのでしょうか。
その様子がよく分かる事例として、「大工騒動」が挙げられます。
そしてこの事件に、織田信長も関わることになるのですが、信長が見せた対応は意外な物で…?
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●禁裏大工惣官職をめぐる朝幕間の争い
朝廷の大工仕事を担当するのが禁裏大工で、そのトップが惣官職であり、代々 木子家が担当していたのですが、この惣官職をめぐって、16世紀に入ってから長く幕府と朝廷の間で対立が続いてきました。
神田裕理氏『朝廷の戦国時代』によると、禁裏大工惣官職には領地の給付・仕事を優先的に回される・諸役の免除などの特権が与えられていたため、惣官職をめぐる争いが起きたようです。
惣官職を狙ったのは常に公方御大工(幕府の大工仕事を担当する)の右衛門尉家でしたから、いきおい幕府と朝廷の代理戦争の様相を呈していたのです。
まず第1ラウンドは10代将軍・足利義稙の時代にあたる1509年の、右衛門尉宗広と木子国広の争いでした。
右衛門尉宗広は禁裏大工の惣官職を狙ったものの、朝廷はこれをしりぞけました。この事件では、義稙が関与していた形跡は見られないそうなので、右衛門尉宗広単独の暴走であったのでしょう。
第2ラウンドは1515年のことで、右衛門尉宗広は再び惣官職を狙い、木子広宗と争いました。朝廷はもちろんこれをしりぞけようとしましたが、今回は義稙が積極的に関与して宗広を支援したため、朝廷は宗広を惣官職にせざるを得ませんでした。
その後、12代将軍・足利義晴期のあたる1540年には右衛門尉家の定宗が惣官職に任じられていることが確認できます。
1566年には、定宗の息子の宗次が惣官職に任じられることを願い、朝廷はこれを認めています。
しかし、14代将軍・足利義栄期にあたる翌年の1567年には、正親町天皇は木子宗久を惣官職に任命することを強く望み、義栄の反対もはねつけてこれを実現させることに成功しています。
神田裕理氏は、「義栄の、朝廷への影響力はさほど大きいものではなかったのだろう」と述べています。
そして、義栄の次に将軍となった足利義昭の時に、最後の室町幕府と朝廷の惣官職をめぐってのバトルが勃発することになるのです🔥
『言継卿記』によれば、木子(六郎太郎)宗久は永禄12年(1569年)3月23日、朝廷に藤棚を作るように命じられ、翌日、午の刻(昼の12時頃)、作成にあたるなど、惣官職を粛々と務めていた様子がうかがえるのですが、26日になって事態は急転します。
幕府の奉行人・松田頼隆と諏訪俊郷が次の文書を木子宗久に渡してきたのです。
…禁裏大工惣官職のことであるが、去年、朝廷の許可もあり、幕府が右衛門尉定宗が惣官職につくように裁決をしたのにもかかわらず、木子宗久はこれに従おうとしない。改めて(義昭が)定宗を惣官職に任じるようにお命じになられたので、これに従うようにせよ。…
なんと、永禄11年(1568年)中に義昭が天皇の同意も得て右衛門尉定宗を惣官職に任じていたのにかかわらず、木子宗久がこれに従わずに惣官職を続けていたというのですね。
4月3日、山科言継のもとに禁裏御大工惣官(宗久)がやってきて、「武家(義昭)から右衛門を惣官職に任じるとの命令書を受け取ったのだが、このことについて、織田に取り成しに行っていただきたい」、と頼みに来ました。
宗久が幕府の命令を無視して惣官職に居座り続けていられたのは、朝廷からの後押しがあったからのようで、天皇は信長のもとに向かう言継に次の書状を渡し、信長に伝えさせています。
…そうかん(惣官)事、御所(義昭)から右衛門を任命するとの命令書が木子に渡されたそうだが、真実であれば「くせ事」(曲事。けしからぬこと)である。のふなか(信長)にこのことを伝えるように。…
そして、言継はこのことを信長に伝えたのですが、信長は「武家(義昭)と取り決めたこともあるし、武家はこの件について意志が固いようなので…。また、大工風情のことで、武家に無理にお願いするのもいかがな事かとも思うので、私から武家に伝えることは難しい」(「此間武家与申結子細有之、又武命此段堅固之間、大工風情之儀、達而申入事如何之間、難申入」)とこれを断ります。
この後、惣官職はどうなったかというと、『言継卿記』6月12日条に次の記事が見えます。
…禁裏御大工惣官の宗久がやって来て、「右衛門の違乱(ルール違反)がやまないので、なんとかしてほしい」と訴えてきた。そこで、幕府の一色駿河守(孝季)にこのことを伝えようとしたが、ちょうど美濃に行っていて留守であったので、龍雲院(『永禄六年諸役人付』において「奈良御供衆」と書かれている人物)に取り成しを頼むことにした。…
続いて6月25日条には、
…「禁裏御大工惣官職のことで、武家は禁裏修理の釿初(工事を開始する際の儀式)を延期するように、右衛門に命じたという。信長から武家に意見を伝えるように」との女房奉書(天皇の書状)が出され、これを持って宗久が美濃に下っていったという。右衛門はすでに5・6日前に美濃に向かったという。…
とあり、木子宗久と右衛門尉定宗の両者が美濃にいる織田信長のもとに向かい、裁定を望んだ、ということが書かれています。
ここからは、実力のある信長に朝廷と幕府のトラブルを解決することが求められていたことがわかります。
それにしても、義昭、露骨な嫌がらせをしてますね…💦
惣官職の争いの結末がどうなったかについて、その後の続報が存在していないので、知ることができないのですが、後述するように、この頃の信長は「京の事存じ間敷」(京都のことは幕府に任せて、信長は関わらない)(『言継卿記』永禄12年[1569年]11月12日条)という態度をとっていたので、おそらく幕府の意見が通ったのではないか、と思います。
信長と義昭は蜜月の関係にありました。
織田信長が自治都市・堺に対し、本国寺の変で三好方に味方したことを責めて、町を焼き払う事を伝えた、という話は以前にしましたが、結局これは実行されませんでした。
やはり信長も常識人、ただの脅しでブラフ(ハッタリ)だったのだな、と思いますが、実はそうではなく、実際に焼き払われた町があるのですね😨
それは堺と同じ自治都市の尼崎でした…!
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●仁義なき戦い
尼崎市のホームページには、中近世の尼崎について、次のように書かれています。
「平安時代の末に、長洲の南に形成された大物と尼崎は、やがて港町として発展してゆきます。瀬戸内海を通して西国から都へ輸送されるさまざまな物資が往来し、なかでも京や奈良の巨大社寺を造営する材木を西国から運ぶ中継港として、大物や尼崎の港は栄えました。尼崎は大覚寺や本興寺を中心とした、中世日本有数の自治都市でもありました」
尼崎は堺や博多のような自治都市であったというのですね😕
その自治都市・尼崎に対して、信長は堺と同じように、矢銭(軍用金)を課すことになったのですが、この時に事件が発生します。
その模様について、『細川両家記』は次のように記しています。
…2月28日、尾張衆3千人ばかりで尼崎に矢銭を課すために別所に進んだ。3月6日、尾張衆は尼崎衆と喧嘩して、尾張衆が負けて4・5人が死んだ。そこで尾張衆は尼崎に討ち入り、男女30人ばかりを討ち取り、町を悉く放火して、長遠寺(日蓮宗)・如来院(浄土宗)だけが残った。
信長配下の者たちが矢銭の催促に行ったところ、尼崎の者たちとトラブルになり、信長の兵士数人が殺されてしまったので、これに激怒した信長の配下の者たちが、尼崎を焼き払った…というのですね。
ちなみに織田軍が進んだ別所ですが、別所と聞いて、ああ、別所氏の別所かな?と思ったら、尼崎にも別所という地域があるのですね💦
たしかに、別所氏の別所は播磨国で、尼崎のある摂津国と違いますし、尼崎よりも奥に行ってしまうことになります😅
別所の由来は、尼崎地域史事典によると、「尼崎町から西に広がった地を意味するという説や、重源上人が東大寺大仏殿再建のため各地に設けた事務所を別所と称したことから、東大寺の尼崎木屋所をも別所と呼んだことに由来するという説、本興寺の別所(寺院に付属する周辺地)とする説」などがあるそうです。
本興寺は先にも出てきましたね。現在も尼崎に残っている、日蓮宗の寺院です(織田軍の焼き討ちで生き残った寺として書かれていないので、この時に焼けた後、復興されたのだろう。信長は永禄11年[1568年]の上洛の際、9月に本興寺に対し、軍の乱妨・狼藉・放火などを禁じる文書[禁制]を出していることが確認できるのだが…)。
さて、この尼崎事件ですが、『細川両家記』を参考にしたと思われる『足利季世記』にも、次のような記述があります。
『足利季世記』…2月28日、尾張衆3千人が、尼崎に矢銭を課すために下っていったが、尼崎の者どもはこれに抵抗し、3月6日、小競り合いとなって、尾張の者たち4・5人が討たれたので、尾張衆は怒って尼崎に突入し、男女30人を斬り捨て、町に火を放った。長遠寺・如来院の二寺だけが残った。
ほぼ同じ内容ですね😅
同じく『細川両家記』『足利季世記』をベースにしたと思われる『総見記』にも、事件についての記述があるのですが、こちらは、先の両者には無い+αの内容が載っているので、紹介したいと思います。
『総見記』…2月28日に、尾張勢3千余人を摂津尼崎に派遣し、矢銭を課した。これは新たに行なったことではなく、尼崎が富裕の地なので、公方家が代々行なってきたことであったが、今回は「御代替」(将軍の代替わり)のことであったので、尼崎の者たちは困ってこれを出さなかった。3月6日、尼崎の者たちは喧嘩を仕掛けて、尾張の者を4・5人討ち取った。尾張勢は立腹して、尼崎に討ち入り、男女30余人をなで斬りにし、四町四方を焼き払った。長遠寺と如来院の2寺だけが残った。
トラブルに至った理由を書いてくれているのですが(出典は不明であるが)、「御代替」なので矢銭の支払いを渋った、というのはなかなかに意味不明です。
そこで『総見記』をよく見返してみると、「今度御代替なれば」とあり、「今度」という部分が気になりました。
「今度」の意味を調べてみると、「今回・次」といった意味だけでなく、どうやら「行われたばかり」という意味があるようなんですね。
前将軍・足利義栄が将軍となったのが永禄11年(1568年)の3月6日、義昭が将軍になったのが同年の11月7日ですから、たしかに間隔が(かなり)短く、尼崎としては、矢銭を支払ったばかりなのに、また…?という気持ちになったのでしょう。
しかし、そうだとしても織田軍の者を殺害したのはやりすぎでした😓
織田軍が横暴だったのかもしれませんけども…。
まぁ、金出せと言ってきて、ケンカになって、町を焼き払う織田軍はどう考えても暴〇団でヤ〇ザでヤバいですけどね…。
『信長公記』を読むと、その内容から、信長がどういう人間かわかってきます。 「声がでかいんだな」「ワンマンプレーが多いな」「気になったことは自分で確かめたがる」「意外とやさしいところがある」… 『信長公記』を書いた太田牛一以外にも、信長に直接会ったことのある人物である宣教師ルイ...