社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 8月 2024

2024年8月26日月曜日

「フロイスと日乗の宗論」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「フロイスと日乗の宗論」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年8月22日木曜日

フロイスと日乗の宗論

 「宗論」とは異なる宗派・宗教の間で行われる論争の事です。

キリスト教が日本にやって来て、その勢力を浸透させ始めるや、

日本の仏僧たちはこれを黙視できず、仏教とキリスト教が衝突することになったのですが、これは、キリスト教が仏教と共存を図らず、仏教を悪い教えだと言ったのも関係していたでしょう😓

キリスト教を国教としたローマ帝国は寛容さを失い、それがもとで衰退した、という説もあるくらいですが、キリスト教は排他的なところがあります。

(キリシタン大名の領地では寺院が破壊された例が見られます)

さて、前回で日乗が信長に宣教師の追放を訴えたことを紹介しましたが、

信長はこれに対し、両者に論争を行なわせることにしました。


※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●キリスト教VS仏教

以前に紹介したように、フロイスは信長から、(信長が)美濃に帰国する前に、将軍義昭に会う際に着て行ったポルトガルの衣服を持ってもう一度会いに来てほしい、と言われていたので、フロイスはこの約束を守って信長のもとを訪れました。

書簡には「信長が帰国する前日」とあり、ここから、4月20日に会いに行ったことがわかります。

この時、信長の宿泊していた妙覚寺は客であふれかえっていました。信長の帰国が近いと知り、その前に会いに来た人が多くいたためでしょう。

フロイスは待たされることになると思ったでしょうが、フロイスがやって来たことを知った和田惟政が信長にこのことを知らせに行った結果、信長はやって来た順番に関係なくフロイスと会うことにしています。ファストパスというやつですね。

フロイスは今回も贈り物を携えてきており、書簡によれば、それは中国製の紅紙(紅花で染めた紙)(※アルカラ版では「赤い大きな印の入った紙」)1帖、ロウソク1束であったようです。

信長はこのロウソクに自ら火をつけた、と書簡にありますが、驚きなのは火をつけた後長い時間手に持っていた、と書かれていることです。直接持っていたらロウが溶けてきて危険なので、燭台を手に持っていた、という事でしょう。

信長は「いつも通りの愛想の良さで」フロイスに公方様に会った時に着た服を持ってきたかどうかをフロイスに尋ね、フロイスが持参したと答えると、それを着るように要望します。

書簡では、この服について、「オルムス(ホルムズのこと。ペルシャ湾の入り口にあたる部分にある港湾都市[現在はバンダレ・アッバースという都市名になっている]。1515年にポルトガルによって征服されていた)のダマスコ織(日本でいう緞子)でつくったはなはだ短く古い潅水式(水を頭に注ぐやり方で洗礼を行なうときに着る服)用の外套で古い金襴の飾りがついたものと、黒い縁なし帽」であったと記しています。

一方で、『日本史』は「オルムス製の金襴(金の糸で模様を表した織物)でできた袖なしの外套」(capa de borcadilho de Ormuz)と記すのみです。

信長はこの衣服をとてもゆっくりと見て、これを賞賛した(『日本史』ではその華やかさをほめている)といいます。

フロイスは客を多く待たせているので、信長に別れの挨拶をしようとしますが、信長は「たいしたことではない」と言ってフロイスを引きとめています。

この後フロイスは、日乗が信長に宣教師の追放を要望したこと(別項で記述)を和田惟政から聞いていたので、仏僧が我らの事についてでたらめな事を言って中傷をするかもしれないが、それを信用しないでほしい、と信長に伝え、さらに、信長が帰国した後は、都の奉行として残る和田惟政を、宣教師の保護者とするように求めました。

信長は、なぜ仏僧たちは宣教師たちを憎むのか、と質問し、これにロレンソは、仏僧たちとキリシタンは、熱いものと冷たいもの、美徳と悪徳のような違いがあるからです、と答えています。

続いて信長は、神(camis) や仏(fotoques)に敬意を払うのかどうかについて尋ねると、ロレンソはいいえ、と答え、「彼らも私たちと同じく妻子を持ち、生まれ、死んでいった人間で、彼らは自分自身を救うことも、死から解放することもできなかったのだから、まして人間を救えるわけがないからです」とその理由について述べました。

この時、日乗は信長の側にいたのですが(フロイスは日乗を知らなかった)、信長は「日乗上人はどう思うか、何か質問してみよ」と日乗に対し、キリシタンに質問することを促しました。

日乗は「では何を崇めるのか」と質問、これに「天地の創造主であるデウスである」と答えると、日乗はそれを見せるようにと要求、これに「見ることはできない」と答えました。

日乗は続いて「デウスとは釈迦や阿弥陀より前から存在するのか」と尋ね、これに「無限にして永遠の存在であり、始まりが無ければ終わりもありません」と答えたところ、日乗は突然、信長に「彼らは詐欺師でありますから、都から追放し、戻れぬようにすべきです」と提案しました。

これに信長は笑いながら、「気を落ちつけて、質問を続けるがよい」と答えています。

しかし日乗が黙っているので、ロレンソが日乗に、誰が生命を作ったか、知恵と善の始まりは誰かと尋ね、日乗はわからないと答えたので、ロレンソがこれらの事について説明したところ、日乗は禅宗とデウスは同じだ、と言ったので、その違いについて説明していると、日乗は再度、信長に、「彼らを追放するのが遅れて、彼らが都にいたために前の公方様(足利義輝)は殺されたのです」と訴えました。

この訴えに対する信長の反応について、フロイスは次のように記します。

…信長はもともと神仏をそこまで崇拝しているわけではなく、むしろ坊主に対して厳しい表情を示すことが多かった。今回の場合も、日乗の言葉に対してほめることがほとんどなかった。

ここで信長がフロイスたちに質問します。

「デウスは、善行に対して褒賞を与え、悪事に対して罰を与えるのか」

これにロレンソは、「その通りです。褒賞は2通りあり、現世での一時的なものと、来世での永遠なものがあります」と答えました。

これに日乗が反応し、「つまり死後に褒賞や罰を受けるものが存在するという事か。不滅な物などある訳がない」と言ってあざ笑いました。

ロレンソは病気であり、また、ここまで2時間(『日本史』だと1時間半)も宗論をしてきたので疲労しており、ここで答弁する者がフロイスに交代しました。

フロイスは日乗の言葉に対し、「仏教は全てのものは「無」であるとし(色即是空の考え。全てのものは実体がなく、空虚なものである、とする)、目に見えるものに対する理解を深めようとしない。目に見えない霊魂について驚くのも当然である」と答えます。

これに対し日乗は、「霊魂があるというなら、それを見せてみよ」と言い、フロイスは、「人間には物を見る方法に2種類あり、1つは体の目、もう1つは心の目である。霊魂は体の目では見ることができない。しかし、心の目で見れば存在すると理解することができる。病気になった時、理性が衰えるならば、肉体の消滅と共に霊魂も消滅する、ということになるが、例えば肺病にかかった時に、肉体は衰えるが、理性には何の変化もない。牢屋にいた人は、肉体が衰えるが、解放された時、心は以前よりも大きな活力を得ている。これらのことから、霊魂が肉体と連動しておらず、合成のものでないことがわかるので、死後に霊魂が残ることがわかる」と答えました。

(『日本史』では肺病と牢屋の例え話は書かれておらず、肉体の最盛期は20代、30代だが、知恵の最盛期は50代、60代であることを示して、肉体と精神がつながったものでないことを説明している)

この返答を聞いた日乗は激高し、「霊魂があるというなら、それを見せて見よ!霊魂を確認するために、今から私はそなたの弟子の首を斬ることにする!」と言って、部屋の隅にあった長刀(なぎなた)を手に取り、鞘からはずそうとしました。これを見た信長は日乗を背後から羽交い絞めにし、和田惟政・佐久間信盛などは日乗の手から長刀を奪い取りました。

信長は日乗に「我の前でこのようなことをするのは無礼であろう」と言い、和田惟政は、信長殿の前でなければそなた(日乗)の首を刎ねていた、と告げました。

フロイスは信長が、無礼を働いた日乗を許した理由について、前日に内裏の修理費用として4・5千クルザードを渡していたからだろう、と推測しています。

フロイスが信長に、「私は彼を挑発したわけではなく、ただ教えの内容を明らかにしようとしていただけで、ただ今の騒乱は彼が勝手に引き起こしたものです」と伝えたところ、日乗はフロイスを手で押しましたが、信長はこれを厳しく注意しています。

日乗は信長に何度も宣教師たちを追放するようにと繰り返し言い、「釈迦を悪く言う者には必ず罰が下るだろう。拙僧の弟子になれば、名誉と恩恵が受けられるであろう」とフロイスに告げました。

これにフロイスが「前から言っているように、私たちは世俗のものを欲しがっていません。弟子になさりたいなら、あなたから仏教の教えを詳しくお聞かせ願いたいものです」と答えると、日乗は追放の事ばかりを口にするようになり、ここで宗論は終わっています。

宗論について、書簡と『日本史』ではその内容が大きく異なっており、『日本史』では、

①ロレンソが日乗に何宗に属しているか質問

②日乗が何宗にも属していないと返答

③ロレンソ、それではなぜ頭を剃り、僧の身なりをしているのかと質問

④日乗、世間の煩わしさに嫌気がさしたからだと返答。

⑤ロレンソ、日乗に、比叡山であなたが学んでいたことを知っている、どのようなことを学んだのか、と質問。

⑥日乗、忘れたと返答

⑦ロレンソ、自分も比叡山で学んだことがある、そこでは、死ねば何も残らない、という話を聞いたが、このことについて、あなたは信じているのか、と質問

⑧日乗、私はわからない、それよりも、そなたたちの教えの要点を述べよ、と返答

⑨ロレンソ、デウスの事について説明。

⑩日乗、デウスの色や形について質問。

⑪ロレンソ、目に見えるものは無限の存在ではない。だからデウスは目に見えない。しかし、立派な存在であることはわかる。立派な芸術品を見れば、それを作ったものが立派であることが十分推測できるが、デウスがおつくりになられたこの地球を見れば、私たちを超越した存在であることがわかる、と返答。

⑫日乗、どのようにしてデウスに仕えるのか、と質問。

⑬ロレンソ:仏僧は貨幣や食物を供えるように説くが、デウスは全ての源であり、始まりであるから、それらを必要としない。デウスの祝福を得るためには、デウスを愛し、畏れ、デウスが私たちのためにお作りになった戒めを守ることである。 デウスは、自身に代わって世に定め置かれた人々…特に、父親、領主、主人など…に対して大きな崇敬と尊敬を抱くことと、恩義ある人々を畏れ敬うように、困窮している人々を助けるように、また、求めても救済を得られない人々に慈悲と憐れみを示すようにと命じている。これらのことに心を砕く者は、現世では平安と平穏を、来世では無限の栄光と永遠の至福を与えられる、と返答。

⑭日乗、なぜデウスを賛美しなければならないかと質問。

⑮ロレンソ、 デウスから絶えず受けている恩恵は莫大なものであり、特に、デウスを知り、愛することができるようにとデウスが与えてくださった生命と知恵に対して、崇拝と奉仕の義務を負っているからだ、と返答。

⑯信長、では、知恵のない、あるいは生まれつき愚かで無知な者たちは、デウスをたたえる義務は無いのではないか、と質問。

⑰ロレンソ:彼らも他の人たちと同じように、デウスを賛美する義務があります。デウスから多くの知恵を与えられた人間が、与えられた目的のためにそれを使うことを怠り、その知識で多くの邪悪な方法を考え出し、罪のない人々を破滅させるなどして国を乱すのをしばしば目にしますが、デウスから知恵をあまり与えられなかった者たちはこの点から、デウスを賛美しなければならないのです。なぜなら、もしデウスが彼らに知恵を与えたなら、彼らもまた、与えられた目的のために知恵を使わない者の中に入ったでしょうから、と返答。

⑱信長、この考え方は自分にはよく思える、よく理解できると返答。

⑲日乗、信長に、宣教師たちは民を欺いているので、都から追放し、畿内に二度と戻ってこれないようにすべきです、と進言。

⑳信長、笑いながら日乗に「興奮するな、尋ねよ、そうすれば彼らは答えてくれる」と伝える。

㉑日乗、なぜ目に見えないデウスとやらをたたえなければならないのか、と質問。

㉒ロレンソ:目に見えないものは存在しないとお考えなのか。例えば空気は目に見えないが、風が吹けばそれが体に当たるので、存在するとわかる。あなたは、人間の目に見える部分…肉体と、見えない部分…生命や知恵、どちらが重要だと思われるのか。肉体は目に見えない生命や知恵によって支配されているのである、と返答。

㉓日乗、目に見えない者が真の実体であるとは思えない、と返答。

㉔信長、デウスは、善には褒美を与え、悪には罰を与えるのかと質問。

㉕ロレンソ:そうです。しかし、現世での一時的なものと、来世での永遠的なものと、二通りあります、と返答。

㉖日乗:ということは、人が死んだ後も、その人の中に褒美や罰を受けるものが残っているとでもいうのか?と言って大笑。

㉗宗論が1時間半にわたり、ロレンソに疲労の様子が見えていたので、信長はこの後はフロイスが宗論を引き継ぐようにと命じる。

㉘フロイス:あなた(日乗)が私たちの話を聞いて驚くのも無理はない。日本の仏教は「無」であることを前提としており、日本の学者の知識と理解は、目に見えるもの以上に及んでいないからである。生命の実体である霊魂は目には見えないが、理性でそれが実在すると判断することができる。人間には2つの生命の形態があり、ひとつは動物的な生命…肉体で、もうひとつは知的な生命…霊魂である。霊魂は、肉体に依存することなく独立して人間の中に存在する。そういえる理由をたとえ話で説明しよう。深く考えようとする人はどうするだろうか?目に見えるものすべてに目をつぶり、音楽には耳をふさぎ、匂いや柔らかな香りには鼻をふさぎ、あらゆる食物を遠ざけて、人との触れ合いを排除する。つまり、肉体が鈍感で、使わない道具になればなるほど、霊魂はより自由に活動するのである。また、霊魂が肉体から独立していないとすれば、肉体が老いれば老いるほど、理解力は弱くなるはずであるが、肉体が完璧な力を発揮するのは20歳から33歳までである一方で、 理解力は、50歳、60歳と年齢を重ねるにつれて、物事に対する経験と知識が深まるため、より強くなる。このため、肉体を使う仕事をする時は、強くたくましい力が必要になるので、体力のある若い男性が雇われるが、深刻で重大な事件について話し合う際には、彼らは参加せず、老人たちの成熟した思慮深い助言によって決定される、 以上の事から、肉体と霊魂が独立した存在であることがわかる。そのため、肉体の死が訪れても、霊魂は破壊されることなく、滅びることも無いのである。

㉙日乗:肉体から分離した生命があるとは思えない。あると言うならば、ここに出して見せてもらおうではないか。

㉚フロイス:今までそれが実在するという証拠を数多く述べてきたではないか。

㉛これを聞いた日乗は、信長のいる場所であることも考慮せず、弓から放たれた矢のように立ちあがり、フロイスを押しのけて、部屋の隅にあった信長の刀を手に取り、刀を抜き始めて、「私は今からこの剣でお主の弟子のロレンソを殺すから、お主の言う霊魂とやらを見せて見よ!」と言った。

㉜これを見た信長や居合わせた者たちはすばやく立ち上がり、刀を背後から奪い取った。

㉝信長は日乗に、「そなたは間違った事をした、武器を持たず、暴言を吐くことなく、仏法について弁護しなければならなかった」と言った。

㉞この騒ぎの間、フロイスとロレンソはその場から動いていなかった。

㉟日乗は、その後もキリスト教を誹謗し、宣教師たちをこの場から連れ出すことを進言することを繰り返したが、その場に居合わせた人々は耳を貸さなかった。

㊱これに対しロレンソは次のように言った、「この場所はあなたのものでも、私たちのものでもありません。神父(フロイス)が帰りたがってから長い時間が経ちますが、それは、信長殿が引きとめていたからです。ですから、あなたが私たちを見ることが気に障るのであれば、あなたがここから去るべきです。私たちも信長殿の許しが出れば帰ります」。

㊲信長は「ロレンソの言う事は正しい。日乗は信用を失った」と述べた。

㊳居合わせた300人の者たちや、これを伝え聞いた都の人々は、「日乗は仏僧なのに冷静さを失い、信長の面前で刀を抜くという礼節を欠いた行動をとった。これは、日乗が宗論で負けた明白な証拠であるというべきだ」と語り合った。

…と書かれており、書簡と一致する部分は⑲・⑳・㉔~㉜しかありません💦

松本和也氏は、「『日本史』の方が(書簡)より問答の数が多く、内容も詳細」であり、「書簡に記される内容よりも一層宗論らしく、そしてキリスト教の勝利を強調するかのように表現していることが読みとれる」が、「これらの点から…『日本史』の記事は事実を相当脚色しており、史料価値という点で書簡より質が落ちると言わねばならない」と述べていますが、

書簡が書かれたのは1569年であるのに対し、書簡などをもとにして『日本史』がまとめられたのは1584年以降のことであって、この点からも、書簡の方が史料としての信頼度が高いと言えます。

『日本史』の宗論の記述の方が論理的で、書簡を読んでいて、「?」と思った部分も、そういうことか、と納得できることが多いのですが、漫画では、信頼度を考慮して書簡の内容を中心に書かせていただきました💦

さて、宗論後の様子に目を向けてみましょう。

書簡では、フロイスたちが暇乞いをすると、信長は愛情深い言葉をかけ、またゆっくり話を聴きたい、と言い、暗いので提燈を持っていくようにとフロイスに伝えた、佐久間信盛と和田惟政はキリシタンたちが待っているところまでフロイスを見送った上、兵たちを教会まで同行させた、とあります。

『日本史』では、信長が「とても遅くなり、雨も降っているし、道も荒れているだろうから、神父たちは帰るのがいいだろう」と言って、提灯を持ってくるように命じた、和田惟政は何人かの者を遣わして、教会までお供をさせた、和田惟政は日乗に腹を立てていたので、もし信長の面前でなければ、殺さないのは難しいことであった、と書かれており、だいたい内容は一致しています。

さて、このようにして宗論は終わりましたが、恥をかかされた形になった日乗のキリシタンに対する憎悪は一層強くなり、朝廷に対しキリスト教排撃の運動を盛んに行っていくことになるのです。

2024年8月16日金曜日

信長は他人の事を「貴様」と呼んだ?

 信長は他人を何と呼んでいたのか。

『戦国無双』シリーズでは、織田信長は1000人を撃破した際に「うぬこそ、古今無双の武士であろう!」とほめてくれるように、他人を「うぬ」と呼んでいます。

『へうげもの』では、「お前」と呼んでいます。

大河ドラマの『麒麟がくる』でも「お前」でした。

では、実際はどうだったのか。

知る手がかりとなるのが、フロイス『日本史』と『日葡辞書』の2つになります。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●信長は他人を何と呼んでいたか

フロイスの書簡によれば、日乗はフロイスが信長に会いに行った(後述)前日に、信長のもとを訪れ、信長に宣教師たちを都、そして畿内の国々から追放するようにと訴えています。

その理由は、「彼らが滞在していたところは、みな反乱が起き、破壊されてしまっている」というものでした。

これに対し、信長は笑いながら次のように答えたといいます。「お前の心が狭いことに驚いた!私と公方様は彼らに都だけでなく、どこの国に住んでもよいとの特許を与えている」

この部分について、中公文庫版『完訳フロイス日本史』は、「信長はほとんどすべての人を「貴様」と呼んだ」…「予は貴様が小胆なるに驚き入る」…と訳していますが、原文を見ると、「Nobunaga, que quazi a todos fallava por tu」と書かれており、これは、「信長は、ほとんど全ての者を「tu」と呼んでいた」という意味になります。

「tu」(トゥ)とは何か?

これは英語でいう「you」に相当する言葉です。

しかし、ポルトガル語では英語の「you」に相当する語が2つあります。

「tu」と、「voce」です。

この違いは何かというと、「MEGA★BRASIL」のサイトによれば、

「voce」は非常に丁寧な言葉で、「貴殿」などという意味があり、

「tu」と呼ばれたくないポルトガル貴族などが使うように(使わせるように)なった言葉なのだそうです。

一方の「tu」ですが、現在のポルトガルでは「tu」は、「家族や子供、幼馴染に対してのみ使用される二人称であり、それ以外の人に使用することは失礼に当たると考えられています」とのことで、「tu」は対等だと思っている相手…目下に思っている相手…非常に親密な相手…つまり、敬意を必要としない相手に対して使われる語であるようです。

FRAZOU」のサイトでは、フランス語でも「tu」と(voce)に相当する「vous」の2語があり、「①立場の上の人には「vous」を使えば間違いない」「②立場の上の人から「tuで話そう」と提案されたら「tu」を使う。「tu」を提案されたにもかかわらず「vous」を使い続けていると、相手は年寄り扱いされている・距離を感じる、と感じてしまい「vous」で話すことが逆効果になってしまいます」と書かれています。

ここからも、「tu」は親密さを表す言葉かもしれないが、礼儀は欠く、という言葉であることがわかります。

では、「貴様」はそれに当てはまるのでしょうか?

「貴様」は、明治時代に作られた国語辞書である『言海』には、次のように書かれています。

「元来、敬称なるが、今は、多く、下輩に用いる」

昔は敬意を持った二人称であったが、今はそうではない、ということがわかります。

敬意を持った二人称であれば、「tu」ではなく「voce」が適当であるので、「貴様」は「tu」の訳として適当ではない、ということになるのですが、「貴様」が敬意を持った二人称として使われていた時期はいつになるのか?というのが問題です。

そこで、戦国時代の香りを色濃く残す、1603年に作られた『日葡辞書』で確認してみようと思います。

!?

なんと、「貴様」の項目がありません!

どうやら、「貴様」は江戸時代以後に用いられた言葉であるようです。

…ということは、「貴様」は今回の場合の訳として、適当ではない、ということになります(当時使用されていない言葉であるため)。

それでは、「貴様」が正しくないのであれば、なんと訳するのが正確なのでしょうか。

『日葡辞書』から、二人称の語句を拾ってみました。

①「貴公」(Qico)…貴き公。あなた、貴下、貴殿など。文書語。

②「貴殿」(Qiden…貴き殿。あなた、貴下、貴公など。

③「貴辺」(Qifen)…貴殿。

④「貴方」(Qifo)…貴き方。貴辺に同じ。

⑤「そなた」(Sonata)…あなた。あるいは、貴殿。

⑥「その方」(Sonofo)…あなた。または、そちら。

「お主」(Vonuxi)…Sonataに同じ。あなた。同等の人と話すのに用いる。

「汝」(Nangi)…お前。文書語。

「そち」(Sochi)…お前。身分の低い者に向かって言う。

「主」(Nuxi)…身分の低い者に対して言う語で、お前、そなた、の意。

「おのれ」(Vonore)…おまえ。下賤な者と話すのに用いる。

「こいつ」(Coitcu)…Conomono(なぜか『日葡辞書』にこの項目が無い)に同じ。卑しめて言う語で、この者の意。

「我」(Vare)…私。または、おまえ。本来の正しい言い方ではないが、下賤な者と話したり、人を軽しめたりするときに用いる。

「奴」(Yatcu)…あいつ。いくらか軽蔑の念をもって言う語。やつばら。やつめ。

びっくりしたのは、「うぬ(汝)」の項目も無く、「お前」の項目も無い、ということでした。

信長は「うぬ」のイメージがあったんですが…💦

さて、「tu」に適した語の事です。

敬意が含まれているならば「voce」になるので、①~⑤は適当ではありません。

…となると、⑥~⑭にしぼられるのですが、⑧は口語ではなく、⑪~⑭は侮蔑語なので、さすがにこれは使わないだろうという事で、これらも候補から外れることになると思います。

残りの中で、⑦は同等の相手、⑨・⑩は目下の相手、と使い方が限られている語になりますので、一番適当な語になるのは「その方」になるかな、と思います。

「その方」は同等の相手・目下の相手、どちらにも使用されていたので、「tu」の訳としてはまさに適した言葉であるといえるでしょう。

ですので、「信長はほとんどすべての人を「貴様」と呼んだ」…「予は貴様が小胆なるに驚き入る」は、

「信長はほとんどすべての人を「その方」と呼んだ」…「予はその方が小胆なるに驚き入る」とするべきなのでしょう。

ちなみに、一人称で「予」を使用していますが、この読み方は「よ」ではありません。

『日葡辞書』には「余(予)」(YO)は「私。文書語」とあり、口語ではないので、これは適当ではないからです。

正しい読み方は、どうやら「われ」であるようです。

「我」(Vare)…私。(『言海』では「われ…我・吾・余・予」とある)

信長の一人称としてこれは適当なのか、『日葡辞書』に載っている残りの一人称も見てみましょう。

「私」(Vatacuxi)…私。vye,Vatacuxi主君と臣下と。または、主君と私と。

「拙者」(Xexxa)…拙い者。すなわち我。私。自分を謙遜して言う。

「某」(Soregaxi)…私。一般に、重々しくて、敬われている人の用いる言葉。(『言海』には「夫(それ)が主の約かと云」とある)

「身ども」(Midomo)…私。

「わし」「俺」「僕」は無し。

この中でいうと、「某」を使っている可能性もありますね…。

でも、ここはイメージに近い「われ」が良いのかな、と思います😅

ちなみに、調べている中で知った『Fate/Grand Order』というゲームに登場する信長は、一人称…俺(織田吉法師)・わし(織田信長)・我(魔王信長)

二人称…そなた/その方(共通)・お前(織田吉法師)・貴様(織田信長、魔王信長)だそうです。けっこう正確ですね(◎_◎;)

2024年8月13日火曜日

怪僧・日乗とフロイスの宗論

 これまでにも何度か登場した朝山日乗。

織田信長上洛後、信長に気に入られて様々な仕事を任せられるようになった人物ですが、その出自は不明なところが多く、荻野三七彦氏は、「怪僧」と日乗の事を表現しています。

どのような人物であったのか、フロイスの記録と、断片的に残る諸史料から見ていこうと思います。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●怪僧・日乗

フロイスは日乗について次のように述べています。

・キリシタンからは人の姿をしたルシフェル(悪魔)と呼ばれ、穏健な仏教徒からは詐欺師と呼ばれる

・黒い血筋(家柄が明らかでない、下賤の身分)の男

・小柄

・財産家

・仏教徒の中では文才も知性も低いほうであるが、頭の回転が速く、口が達者で自由奔放に発言する、日本のデモステネス(古代ギリシャの雄弁家)

・妻子がいたものの、貧乏のため離縁し、その後、兵士となる。兵士として活動するうちに自身の罪に対して恐怖を覚え、出家し、国々を渡り歩いた。

・尼子氏に対して反逆を犯したので、山口の国主のもとに逃亡し、毛利殿の信任を得た。

・10、もしくは12年前(1569年の書簡に書かれているので、1557年か、1559年ということになる)に中国製の金襴(模様を金糸で織ったもの)の布切れを買い、諸国をめぐり、「私は悟りを得た際、お釈迦様から内裏が昔のような権力・地位を取り戻させるための道具として選ばれた。これは内裏から賜った天子様の衣服であるが、このありがたい衣服を皆のものに分配するために私は来たのだ」と言った。これを聞いた人々は一筋の糸を求めて金を支払った。この金を使って、山口に寺院を建てた。

・松永久秀と三人衆が争い、久秀が奈良の城に追い詰められ、窮地に陥ったと知ると、久秀から金が得られる好機と考えて、毛利殿から、軍勢を送ること・日乗の忠告に耳を傾けてこれに従うことについて記した久秀宛の書状を作ってもらい、久秀のもとに向かったが、その途中で三人衆側に捕まり、日乗は6・7000クルザード(約2400~2800貫)を支払うから許してほしい、と言ったが、認められず、篠原長房は日乗を鞭打たせた上で、首に鉄の鎖をつけ、両手を木の杭に縛り付けて牢屋に入れた。日乗はごく少量の食事しか与えられず、死に瀕したが、手を尽くして法華経八巻を手に入れ、付近の農民たちに、この法華経を聞けば、健康は回復し、来世で救われる、と説いた。農民たちはこれをありがたく思って日乗に食物を持って行ったので、日乗は生きながらえることに成功した。その後、信長が上洛して、三人衆が失脚したので、日乗は解放された(書簡では、信長の上洛前に、日乗が朝廷に働きかけて赦免された、と書かれている)。

・内裏は窮乏を切り抜けるために、日乗を信長との仲介人とした。日乗はうまく信長に気に入られ、その家臣となり、自由に信長のもとに出入りすることを許された上、内裏修理の奉行に任命された。

さて、このフロイスの文章が正確なものなのかどうか、日本の諸史料を用いて見ていくことにします。

まずは「素性が明らかでない、低い身分の生まれであった」というものですが、

江戸時代中期に作られた「朝山家系図」によると、出身は出雲国(島根県東部)神門郡朝山郷、ということになっています。

一方で、日乗の(おそらく)史料における初見となる『兼右卿記』弘治元年(1555年)閏10月8日条には、「美作(岡山県北部)より朝山がこの度上洛してきた」とあります。

出身は出雲なのか美作なのか?

荻野三七彦氏は美作とする方が正確である、としていますが、朝山という地名は出雲にあり、フロイスも国々を渡り歩いた、と言っているので、出身は出雲であった、とするべきではないでしょうか。

フロイスによれば、日乗は初め出雲・美作など中国地方8カ国に勢力を持つ大大名尼子に仕え、その後、罪を犯して毛利氏のもとに逃れた、といいます。

日乗は朝廷や信長のもとで、特に中国地方方面の使者として活躍するので、このあたりの事は正確なのではないかと思います。

しかし、そうなると、美作から上洛した、というのはよくわからなくなります。

なぜならば、毛利氏は永禄8年(1565年)まで美作に進攻しておらず、弘治元年(1555年)の時点では美作はまだ尼子氏の勢力圏であったからです。

…ということは、この時の上洛は初めてではなく、交渉のために美作に向かっていて、そこから戻ってきた、という事だったのかもしれません。

しかし、弘治元年(1555年)には上洛していたとなると、フロイスの記述にある、1557年か1559年に諸国をまわって金襴の布切れを売って回り、それによって得たお金で山口に寺院を建てた、というのはつじつまが合わなくなります。

日乗は上洛後も毛利氏の領地と京都を行き来する生活をしていたという事なのでしょうか。

天正元年(1573年)9月7日付の、毛利氏に向けた足利義昭御内書には、「(毛利氏が)信長のもとに日乗を派遣して…」とあるので、日乗が毛利氏と親密な関係にあった事は確かです。

また、この時に既に上洛していたとなると、天皇の衣服だと偽って…というのは、本当に天皇から受け取ったものであった可能性もありますね。そしてそれを売って回り、朝廷のためのお金を用立てていたのかもしれません。

さて、先ほど紹介した『兼右卿記』閏10月8日条には、続けて上洛後の日乗について記した部分がありますので、それを見てみましょう。

…梶井宮(天台宗の寺院)において遁世(仏門に入る)し、朝廷から上人号(高僧に対し朝廷が与える称号。初見は1478年の真慧)を授けられた。

日乗はすでに出家していますので、梶井宮で出家…というのは、再出家のことでしょう。改めて別の寺院で出家しなおすことです。この場合は、箔付けでしょうか。

日乗は日蓮宗(法華宗)か?天台宗か?というものがあります。

日蓮宗とする人は、日蓮宗の僧に多い「日」が僧名についている、『言継卿記』永禄11年(1568年)7月10日条に、「近衛前久邸を訪れたところ、日乗上人がやって来ていて、法華経の一巻について講釈していた」とあるように法華経とのかかわりが深い、というのをその根拠として挙げるのでしょう。

前者は確かにそうですが、後者は、正しくありません。天台宗も、法華経を根本の経典とする宗派であるからです。

そして、驚きなのは、日乗が「上人」号を得たことです。地方出身の、素性も明らかでない僧が、突然「上人」号を朝廷から与えられたのですから、人々の驚きは大きなものがあった事でしょう。

『兼右卿記』を書いた吉田兼右なんぞは、「彼為体、恐者マイスか、為一難信用」(彼の様子を見るに、おそらく「マイス」か。信用しがたい)と記しています。

「マイス」というのは、漢字で書くと「売子」「売僧」で、『日葡辞書』には「人をたらす者、人をだます者、あるいは、詐欺師」とあります。

日乗はフロイスも「頭の回転が速く、口が達者で自由奔放に発言する」と記したように、とにかく雄弁家であり、面と向かって話すとすごい人物だと思わせてしまうものがあったのでしょう。

毛利氏の外交僧、安国寺恵瓊は、「恵瓊自筆書状」(天正元年[1573年])で、「日乗はしり舞異見者、昔之周公旦、大公望なとのことくに候」(日乗が忙しくあちこちを走り回り、自分の意見を述べる様子は、昔の中国の周公旦・大公望[どちらも周建国の功臣。よく主君を支えた]のようであった)と記しています。

各地を奔走した様子は、諸書に次のように書かれています。

『言継卿記』永禄6年(1563年)1月28日条

…日乗が最近安芸から戻ったという、晩に挨拶に来て、20疋を贈られた。

(朝廷から指示を受けて毛利と大友・尼子の講和斡旋に動いていたものか)

永禄12年(1569年)1月19日付の、吉川元春宛の松永久秀の書状

…毛利元就と大友宗麟の講和を斡旋する内容の物であるが、この書状には、詳しいことは日乗が述べます、と書いてある。

やはり出身地である中国方面に主に出向いていることがわかりますね。

日乗はその類まれなる弁舌だけで台頭したわけではありません。

その金策能力も大きな理由の1つでした。

『厳助往年記』弘治2年(1556年)5月

…「禁中小御所において仁王経百部読誦が厳重荘厳に行われた。日乗上人という買子(まいす)が費用を用立てたのだという。不思議な事である」

永禄6年(1563年)2月

…「禁中小御所において仁王会が行われた。武家(将軍の義輝)が費用を負担したというが、実際は日乗上人が用立てたのだという。日乗上人の計らいにより、安芸の金山庄の禁裏御料所より毛利が進上したものだという」

『御湯殿上日記』…「日乗上人が仁王会の費用として、500疋を進上したという」

朝廷の行事の費用を日乗が工面していたことがわかりますが、そのお金の出どころの1つが毛利氏だったということもわかります。

日乗は毛利氏との関係を生かして、毛利氏からお金を引き出すことに成功していたのでしょう。

毛利元就が永禄3年(1560年)に従四位下、永禄5年(1562年)に従四位上に昇進しているのはこれと関係あるのかもしれません。

以上のように、日乗が朝廷から重用されたのは、その弁舌能力と金策能力によるものでした。朝廷にしてみると窮乏を救ってくれるありがたい存在であったわけです。

また、『総見記』には、「才名(才知があるという評判)あって内外(国内と国外)の文に達しければ(通じていたので)、禁中(朝廷)方の故実(儀式におけるきまり)諸宗の取沙汰(取扱って処理すること)鍛錬なり(習熟している)とて、堂上(公卿)方幷(ならび)に寺社諸公事(公務)の支配に加えらる」とあり、日乗は儀式の事や仏教の諸宗派のことに通じていたので、朝廷・寺社に関する公務に加えられるようになった、とあります。多才な人物であったようです😕

こうして活躍していた日乗ですが、受難の時が訪れます。

フロイスは、日乗が松永久秀の窮状を救おうと動いたのを三好氏に見とがめられ、牢屋に入れられた、と書いていますが、これは事実だったのでしょうか。

『言継卿記』永禄11年(1568年)4月15日条には、

「朝山日乗上人去年以来摂州に籠者也、不慮之至也、依勅定遁之、今日上洛云々」(朝山日乗上人は去年から摂津で牢屋に入れられていた。全く思いがけない事であった。勅定[天皇の命令]があって牢屋から出て、今日上洛したという)

…とあり、また、

『御湯殿上日記』4月16日条には、

「日せう上人ろうよりめしいたされて、かたしけなきとて、十てう、とんすしん上申、御れいにまいる」(日乗上人は牢屋から出ることができたが、その御礼として、朝廷に緞子10畳を進上した)

…と書かれており、フロイスの記述が事実であったことがわかります。

フロイスは『日本史』では信長の上洛によって牢屋から出ることができた、とし、書簡では日乗が朝廷に働きかけた結果赦免された、としていて、言っていることが違っているのですが、『言継卿記』などによれば、後者が正しかったことがわかります。

この頃足利義昭はまだ朝倉氏のもとにおり、信長は上洛する段階にはありませんでした。

そして、信長が上洛した後、フロイスが記述するように信長にうまく取り入り、信長のもとで活躍の幅を広げていくことになるのですが、この日乗はフロイスの書簡では「悪魔の手先で、デウスの教えの大敵」と書かれ、ひどく忌み嫌われています。

その理由は、日乗がキリスト教に対して厳しい姿勢を見せていたことが挙げられます。


2024年8月7日水曜日

若狭をめぐる織田と朝倉の確執

 織田と朝倉の確執は約100年にもわたって続いてきました。

その理由は、

斯波氏の領国(尾張・遠江・越前)の守護代を初め務めたのは甲斐氏であったが、1402年に織田はそのうち尾張の守護代となった。その後、応仁の乱の際に朝倉氏は越前を手中に収め、守護代となった。この経緯から、織田は朝倉を下に見ていた。また、越前を奪った朝倉氏に斯波氏は怒り、何度も越前の奪還を試みたこともあり、織田は朝倉を正統な存在と認めていなかった。これに対し、朝倉は同じ斯波家臣としての過去を持つことから、織田に強い対抗心を抱いていた。

…というものであったと考えられます。

その確執が、一触即発の状態となるに至った要因の1つが、若狭をめぐる問題でした…。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●若狭武田氏とは

「武田」の名字は、源義家の弟・新羅三郎義光が三男の義清(1075~1149年)に与えた常陸国(茨城県)那賀郡武田郷(ひたちなか市武田)に由来しています。

この義清は1130年に甲斐国(山梨県)市河庄の荘官となって甲斐国に移り、その後甲斐源氏として甲斐国に勢力を広げることになります。

義清のひ孫の代の信光(1162~1248年?)の時に安芸守護に任じられ、安芸国にも武田氏が根付く端緒となりました。

信光の4代後の武田信武(1292?~1359年?。「武」が名前に2つも入っている…!)は南北朝の争いや観応の擾乱においても一貫して足利尊氏に味方して活躍したため、武田氏庶流出身で、甲斐守護であった武田政義が死んだ後、安芸守護に加えて甲斐守護も得ることになりました。

そして信武は長男の信成に甲斐守護を、二男の氏信に安芸守護を任せました。

しかし氏信は安芸守護職を、はやくも1371年に失ってしまいます。

河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』でその理由について、守護としての能力を問題視されたためではないか、と述べています。

こうして守護職を失ってしまった武田氏信ですが、その後も安芸国の中央部の3郡(安南郡・佐東郡・山県郡)における支配権は続けて持つことを許されていたようです。

その後しばらく安芸武田氏は守護職に就くことが無かったのですが、

1440年、武田氏栄は将軍・足利義教の密命を受けて若狭・三河・丹後守護である一色義貫を謀殺した功績により、若狭守護職を得ることに成功します。

この信栄の跡を継いだ弟の信賢は応仁の乱で活躍し、西軍に味方していた一色義直(義貫の子)から没収された丹後守護をも得ることに成功しましたが、丹後守護職はその後、一色義直が東軍に味方したため、義直に返還されることになってしまいました。

一時的にとはいえこの時に丹後守護職を得たという事が、後々、若狭武田氏が丹後にこだわる遠因となっていきます。

信賢の跡を継いだのが弟の国信(1437~1490年)でした。

国信は1487年、将軍・足利義尚の六角征伐に参加、

その子の元信(1461?~1521年)は1491年に将軍・足利義材(のちの義稙)の六角征伐に参加、1493年には義材の河内出兵にも付き従っているように、義材に忠実であったのですが、明応の政変で義材が失脚するや、その首謀者である細川政元の与党となっています。

1506年、丹後一色氏の内部で混乱が起きていることを見て取った元信は、念願の丹後を得るために出陣、9月には細川氏と共同で丹後一色氏の本拠地にほど近い宮津山城を攻略することに成功したものの、続く府中と加悦城攻めでは苦戦、その中で1507年、細川政元が暗殺されるという事件(永正の錯乱)が起こると、慌てて細川勢が撤退を開始、やむなく元信も兵を引いたものの、追撃を受けて大敗を喫してしまいます。

武田元信を撃退した一色義有ですが、1512年に25歳の若さで死去、その跡目をめぐり、石川直経と延永春信が再び丹後国内で内乱となります。石川直経が若狭武田氏に支援を求めたので、元信はこれに加勢しますが、ここでなんと丹後に隣接する地域を治める逸見氏(若狭武田氏の有力一族)が反乱、もう一方の延永春信に味方するという事件が起きます。

これによって延永勢の優位は確実となり、石川直経は若狭に逃れざるを得ない状況にまで追い込まれてしまいます。

この状況を受けて幕府の依頼を受けた越前の朝倉氏が両者の和睦にあたり、朝倉氏の当主・孝景は武田元信の娘婿であった関係もあり、元信と提携する石川直経の推す一色五郎(義清)が一色氏を継ぐことになりました。

これに不満を持つ延永勢は反抗しますが、朝倉氏の軍勢によりこれは平定されました。

戦後、若狭武田氏は若狭に隣接する丹後の加佐郡を得ることとなります(河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』で、「加佐郡の少なくとも田辺以東は、戦国末期まで武田氏の支配が一定程度及んでいた」と記している)。

元信はその後1521年に亡くなりますが、亡くなる前に山城である後瀬山城を築き始めており、元信が亡くなった翌年にそれは完成することになります。

元信の跡を継いだのは子の元光(1494~1551年)でした。

この頃、畿内の実力者であったのは管領の細川高国(以前に別項で紹介)ですが、1526年、讒言を信じて家臣の香西元盛を自害させた際、その兄の波多野元清・弟の柳本賢治がこれに反発し、高国と対立していた四国の細川晴元と組んで高国に戦いを挑みました。

これに対し高国は近隣の大名たちに応援を頼み、武田元光は要請を承諾して、自ら2000の兵を率いて京都に向かい、桂川に陣を構えました。

そこに細川晴元の主力・三好勢3000が猛攻撃を仕掛けてきて大敗、これをきっかけに細川高国軍は敗北を喫することになりました(桂川原の戦い)。

元光はその後も細川高国の要請に応じて、家臣の粟屋氏を派遣していますが、結局、細川高国は1531年に追い込まれて自害しています。

1538年に元光は家督を子の信豊(1514~1580年?)に譲って引退するのですが、この信豊の代に若狭武田氏は大きく勢力を落とすことになります。

その発端となったのは後継をめぐる問題で、信豊は後継に長男の元栄(のち義統)ではなく、二男の元康(のち信由)を選ぼうとしたのですが、これにより家臣団が2つに割れ、内乱に発展することになりました。

この争いは元栄(義統)有利に進み、1558年、信豊は妻の実家である六角氏を頼って近江に逃れることになりました。

その後、周囲の仲介もあり、1561年、信豊は若狭に復帰が叶いましたが、信豊派と戦いを続けていた逸見氏(若狭武田氏の有力一族)はこれに不満を持ち、丹波国の内藤宗勝と手を結んで若狭武田氏に対し反乱を起こします。

武田義統は朝倉氏に救援を要請、これを受けて朝倉氏は1万人の軍勢を派遣、3か月で逸見氏の反乱をおさえこむことに成功します。

以前も若狭武田氏は朝倉氏に助けてもらっていましたが、今回も助けてもらって、本当におんぶにだっこのような状態です😓

若狭に朝倉氏の影響力が強まることは避けられず、逸見氏の乱後は、小浜に朝倉氏の家臣が常駐するようになっていきます。

その後、義統にとって大きな出来事が訪れます。

後に将軍となる足利義秋が、1566年、妹の婿である武田義統を頼って若狭にやってきたのです(経緯については別項で前述)。

このことについて、『多聞院日記』の閏8月3日条には、

…去る(8月)29日の夜、上意(足利義秋)様は(近江国の)矢島を離れ、若狭へ御移りになった。…若狭でも武田殿は親子で対立していると聞く(「武田殿父子及取合乱逆と云々」)が、どのようなことになるのだろうか。

…と記されていますが、「親子で対立」とは何が起きていたのかというと、

反義統派の家臣たちが、なんと義統の4歳の息子である孫犬丸(のちの元明。1562?~1582年)を擁して反乱を起こしていたのです。

残っている書状によれば、閏8月24日に、武田義統の弟の信方が反乱軍を小浜東部で迎え撃ち、これを破った、とあり、足利義秋が若狭武田氏を頼った時はまさに内乱の最中であったことがわかります。

『足利季世記』には、

…若狭国は狭く、武田義統も上洛に必要な名案を何も出そうとしなかったので、これでは幕府を再興できないとして、続いて越前(福井県北部)の朝倉義景のもとに向かった。

…とありますが、実際は、内乱中で上洛の支援を期待できそうにも無かったので、若狭武田氏の元を離れて越前の朝倉氏のもとに向かったのです。9月8日の事でした。若狭には1か月ちょっとしか滞在しなかったことになります。

この混乱の中、武田義統は永禄10年(1567年)に急死してしまいます。

跡を継いだのはまだ5歳でしかない孫犬丸で、家臣団の動揺は避けられず、その中で追い打ちをかけるように大事件が起こります。

永禄11年(1568年)8月、なんと孫犬丸が朝倉氏によって越前に連れ去られたのです。

これについては、元亀元年(1570年)頃に出された朝倉義景宛の武田信玄の書状が残っており、これには、

…同族である義統が亡くなった後、「孫犬丸幼少」のために親族や家臣が逆心を抱くようになり、国中が錯乱状態になり、(若狭)武田氏が断絶寸前となったところ、越前に招かれて大切に扱われていると聞きました。誠に優れた行いです。

…と書かれています。

朝倉氏は何を目的としていたのでしょうか。

河村昭一氏は『若狭武田氏と家臣団』で、2つの説を挙げています。

①「元明を越前一乗谷で養育し、成人した暁には若狭に帰して朝倉氏のコントロール可能な国主にし、彼を通して若狭国人を統制することで、若狭を事実上の朝倉領国にしようというもので、短期的には、武田旧臣らが元明を推戴して反朝倉に転じるのを防止するための人質だったのではなかろうか」

②「一乗谷に移った足利義昭が、織田信長の誘いで越前を去り岐阜に着いたのが7月25日で、…義景にしてみれば、自身の力不足を思い知らされ忸怩たる思いにかられていたであろう。この8月に決行された朝倉氏による元明連行は、…隣国の次期国主候補を「奪取」することで少しでも晴らそうとする心理はなかっただろうか」

2つ目の説について、自分的に考えると次のようになります。

ポイントは連行の8月が信長の上洛軍出発の9月7日の直前であったという事だと思います。

義景としては、孫犬丸を連行することで、若狭武田氏が上洛軍に参加できないようにしようとしたのではないでしょうか。

実際に、若狭武田氏が上洛軍に参加したという形跡はありませんし。

上洛する信長への当てつけであり、また、若狭を朝倉氏の影響下に置いておきたいという思惑が重なって、孫犬丸の連行につながったのではないでしょうか。

●織田信長と若狭武田氏

織田信長と若狭武田氏との関係をうかがうことができる書状があります。

(年代不明)4月16日付、梶又左衛門宛の丹羽五郎左衛門尉長秀・木下藤吉郎秀吉・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀の連名の書状

…今回、36人の方々が申し出られたことを、信長に伝えたところ、信長は義統に対する忠節は明白であるとし、永禄9年(1566年)12月13日付の義統の書状の内容に従って、領地を安堵するとの朱印状を出された。今後は孫犬殿に忠誠を尽くされることが肝要です。

梶又左衛門なる人物がどのような人物なのかよくわからないのですが、「義統」「孫犬」とあり、若狭武田氏の家臣であったことは確かです。

この梶又左衛門を含む36人の若狭武田氏家臣が信長に領地の安堵を求め、信長はこれを了承して彼らの領地を安堵した、という内容の書状なのですが、この書状を読んで疑問に思うのは、なぜ若狭武田氏の家臣たちが信長に領地の安堵を求めるのか?ということです。

この書状は書かれた年代が不明なのですが、前回紹介したように、この4名が連名で出している書状は永禄12年(1569年)4月に複数出されているので、これもおそらく永禄12年(1569年)のものだろうと考えることができます。そうなると、この書状は孫犬丸(元明)が連行された永禄11年(1568年)8月の翌年のものという事になります。つまり、36人の者たちが信長に領地の安堵を求めた時は、主君の…領地の安堵を求める対象である…武田元明がいなかったということになり、そのため、彼らは信長に領地の保証を求めた、という事になります。

主君である孫犬を失った後の若狭衆が動揺したであろうことは容易に想像できます。

朝倉につくべきか迷っていたところ、信長がさっそうと上洛し、義昭を将軍に就けた。

これを見て、若狭衆は、信長に心を寄せるものが多く出たことでしょう。

実際、永禄12年(1569年)1月に勃発した本国寺の変では若狭衆の山県源内・宇野弥七が参加していることが、『信長公記』の記述からわかります。

さて、この書状では、信長は36人の者たちに対し、「孫犬殿」に対する忠誠を求めていますが、この孫犬は朝倉に連行されていて若狭にはいませんでした。それなのになぜ孫犬に対して忠誠を求めたのでしょうか?

藤井譲治氏は「大阪青山短期大学所蔵「梶又左衛門宛織田氏宿老連署状」をめぐって」で、「具体的に元明を頂点とする家臣団の再構築をめざしたのではなく、信長による領知安堵を踏まえ、主人のいない若狭衆に名目的な主人として元明を戴かせることを通して再編し、それを織田氏が若狭衆として掌握しようとした極めて政治的な措置であったといえよう。またそれは、現実の場では越前の朝倉氏に対抗するための一方策であったといえよう」と自説を述べておられます。

朝倉氏に従え、といっているわけではもちろんなくて、孫犬を若狭衆を結束させるための名目的な主人として利用した、というのですね。また、信長としては、「朝倉に連行された孫犬を取り戻し、若狭国主として復帰させる」ことを朝倉氏を討伐するための大義名分にできると考えたことでしょう。

若狭を影響下に置いておきたい朝倉氏ですが、その若狭の者たちは続々と信長に従うようになっていっていました。朝倉氏と織田の衝突は間近に迫ってきていました…。

2024年8月2日金曜日

信長による「復古政治」~旧秩序を回復させようとする信長

 信長はよく旧秩序を破壊した革新的な人物だと言われますが、

どうもそうとはいいきれない部分も持ち合わせた人物であったようです😕

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●信長による「復古政治」⁉

渡辺幾治郎(1877~1960年)は、『皇国大日本史』で、

天正3年(1575年)、越前国(福井県北部)を統治することになった柴田勝家に与えた書状の中に、「京家領の儀乱以前まで知行せし分は返付すべし」とあることなどを理由として、信長が、「皇室尊崇、公家の保護に注意」した、と記し、

別の機会には、信長の政治について「復古政治」であると述べています(『皇国大日本史』では「信長の革新政治」という項目があって、よくわからなくなるのだが、復古的である、革新的でもあった、という事なのだろうか)。

信長の「復古政治」について、現存する書状などを用いて、具体的に見ていきたいと思います。

〇禁裏御料所(天皇家の領地)について

禁裏御料所について、信長は永禄11年(1568年)10月21日に、

…禁裏御料所について、当知行(武家法では長年にわたって実効支配している地域は、その者に任せるという慣例の事を指すが、公家法では、その権利を持っているという由緒があるものがその地域を支配することを指す。この場合は公家法の事を指すか)に従って、直務(朝廷による直接支配)とする。

という朱印状を出しており、禁裏御料所の回復を認めていましたが、この朱印状が出たからといって、禁裏御料所を押領している者たちが、はいわかりましたと、あっさり手放すことは無かったようで、次のような話が『言継卿記』に記されています。

『言継卿記』4月13日条に、

烏丸一品(光康)・同弁(光宣)・万里小路(惟房)・同黄門(輔房)・予(山科言継)で信長のもとを訪れた。万里小路は山国・小野・細川の荘園等の事で…信長のもとを訪ねたのであった。

…とあり、その後、4月15日条に、

烏丸父子・万里小路亜相(「亜相」は大納言の事)・予など、妙覚寺にいる織田弾正忠を訪ねた。…万里小路は禁裏御料所である山国・小野・細川等についても裁決を求めに来たのであったが、これもだいたい具合良くまとまることになった。

…と続報が載せられているのですが、この「山国・小野・細川の荘園等の事」とは何なのでしょうか。

これについては、次の2つの書状が残っています。

4月16日付、立入宗継(朝廷の財政を担当する禁裏御倉職についていた土倉)宛の木下藤吉郎秀吉・丹羽五郎左衛門長秀・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀による連名の書状

…禁裏御料所である(丹波国)山国庄の事、数年にわたって宇津右近大夫(頼重)が押領(力ずくで奪い取る事)してきたが、この度、信長が調査を行い、宇津の不法を停止させるよう、山国庄の2人の代官に対し朱印状を以て次のように申しつけた。「これまでの通り、山国庄は朝廷が直接に管理することになるのだから、年貢などを確実に納めるようにせよ。宇津当人にも厳しく言い渡している」

宇津頼重本人に送った書状とは、次の書状になります。

4月18日付、宇津頼重宛の丹羽五郎左衛門長秀木下藤吉郎秀吉・中川八郎右衛門尉重政・明智十兵衛尉光秀による連名の書状

…以前から伝えているように、禁裏御料所である山国郷(その枝郷[新田開発などにより拡大した結果、新たに生まれた郷]である小野・細川も同じく)は、以前のように、朝廷が直接管理する、と朝廷から命令を受け、信長が朱印状を以て申し伝えたが、ほんの少しであってもこの命令に違反することがあってはならない。このことを伝えるようにと(信長が)私たちに命じられた。

宇津頼重というものが、朝廷の領地を押領していた、というのですね😕

この宇津頼重というのは、当時は丹波国の、現在は京都府の、京都市右京区京北下宇津町にいた、東丹波に大きな勢力を持った国衆のことです。「下宇津町」は「しもうつちょう」と読むので、宇津頼重の宇津は、「うつ」と読むべきなのでしょう。

宇津氏は天文4年(1535年)に小野山に勝手に関所を築くなど小野に対する押領を進め、天文15年(1546年)には宇津・山国庄などがある桑田郡だけでなく、隣の船井郡にも勢力を拡大しました。

これに対し、朝廷は六角義賢に対し、永禄5年(1562年)年4月に、宇津頼重に小野山での横暴を停めるように綸旨を出しましたが、頼重はこれを聞き入れず、

『御湯殿上日記』永禄8年(1565年)11月27日条に、

「おの(小野)の おさ(長?)大くら うつ(宇津)うちいりて しゃうかい(生害)させ。七かう(郷)へ うつ(宇津)かうにうふ(郷入部)し候よし」

…とあるように、小野を襲ってついにこれを我がものとしました。

どうやら相当なワルだったようですね😓

朝廷は今度は三好長逸に頼重を何とかするように綸旨を出し、これを受けて長逸は永禄9年(1566年)、『御湯殿上日記』7月21条に「おの(小野)の事。ひうか(日向。長逸の事)かたく(堅く)申つけ候て。うつ(宇津)いらん(違乱)しりそき(退き)候とて」とあるように、小野から退去するように頼重に厳しく申し伝えたところ、頼重は小野から退去しました。

これで一安心と思いきや、ほとぼりが冷めると頼重は小野などに対する押領を再開しました。

困った朝廷が次に頼ったのが織田信長で、こうして、永禄12年(1569年)に頼重に対する書状が作成される運びになったわけですね。

『御湯殿上日記』4月17日条には、「山くに(国)のふなか(信長)しゆはん(朱判)まいり候て。御しきむ(直務)にもとのことく(如く)まいり。めてたし(目出度し)」とあり、信長が山国庄などを朝廷の領地と認めた上で、この回復に動いたことに対し、朝廷が喜んでいる様子がうかがえます。

頼重が信長の書状にどのような反応を示したのかについてはわかっていないのですが、長逸の時と同じく、分が悪いと思って手を引いたと考えられます。

しかし、その後、信長をめぐる状況が悪化したのを見て、押領を再開したようで、結局、宇津氏の押領が終わるのは、明智光秀の丹波征伐を待たねばなりませんでした😓

〇東寺領について

4月21日付、東寺宛の信長朱印状

…東寺領については、代々の将軍の御内書や下知状によって保証されているが、この通りに東寺がこれを管理するように。

閏5月23日付、東寺宛の信長朱印状

…東寺領について、新規に課役をかけることを禁止する。

閏5月25日付、東寺領の百姓宛の木下藤吉郎秀吉書状

…東寺領について、信長が朱印状を出してこれを保証した。年貢などを早々に東寺に納めるようにせよ。

〇愛宕権現御供料について

元亀元年(1570年)5月7日付、柴田修理亮(勝家)・坂井右近(政尚)宛の信長書状

…愛宕権現の御供料所(神仏に供える金銭や物品を納めることを請け負っている地域)である外畑村について、去年(永禄12年[1569年])朱印状を以てこれを保証したのだから、これに異議をさしはさんではならぬのに、丹波国広田の渡部太郎左衛門尉という者がこれに背いた行動をとっているという。愛宕権現の運営が滞りなく進むように確実に御供料を納めるようにとこの者に申し渡すようにせよ。それでもこれに背いた行動をとり続ける場合は、これを処罰するようにせよ。

(渡部太郎左衛門尉は、他の書状によれば、外畑村を担当する下司[現地で実務を行なった役人]であったようである)

〇久我晴通の領地について

永禄11年(1568年)10月20日付、久我晴通宛の信長朱印状

…上久我庄・下久我庄、東寺領樋爪庄・東久世庄・大藪庄(久我氏は東寺領の一部について、その年貢を収得する権利を得ていた)について、紛れもなく旧領であるとして幕府が下知状を下された以上、これらの土地すべてを領有して支配することが肝要です。

〇烏丸光康の領地について

永禄12年(1569年)4月19日付、烏丸光康宛の信長朱印状

…摂津の烏丸家領、並びに、支配権があるのに、近年治めることができていなかった上牧について、今回の(足利義昭に対する)忠義により、改めて保証するとの下知状が出されましたが、以前のように、不入(外部権力の立ち入りを拒否する権利)の地として領有して支配されることを(信長からも)保証いたします。

〇忍頂寺の領地について

永禄12年(1569年)2月16日付、忍頂寺に住む僧宛の信長朱印状

…御祈願所(天皇・公家などから祈祷を命じられる指定寺院)である忍頂寺の領地について、御内書・下知状の内容の通り、以前のように守護不入(守護が段銭を徴収しにきたり、罪人を逮捕するのにやってくるのを拒否できる権利)の地として領有して支配されることを保証します。

以上の書状などから、信長が旧秩序の回復に努めていたことがわかります。

信長のこのような行動について、昭和18年(1943年)にはすでに、文部省が作った歴史教科書である『国史概説』に「当時多年の戦乱によって禁裏御料地の荘務の妨げられることが少なくなかったので、信長は…命を四方に下して御料地の恢復を図り、更に供御の料を上り、困窮せる公卿等の所領を復し」た、と書かれています。

一方で、次のような書状も残っています。

永禄11年(1568年)11月14日付、山城上賀茂惣中宛の明智光秀・村井貞勝連名の書状

…加茂別雷神社の領地の事、(幕府が)今まで通り変わらず治めることを安堵されましたが、その考えと同じく、(信長も)領地を支配することを保証するので、お互いに話し合って、早いうちにお礼を言うために訪れるように。

『織田信長文書の研究』では、このお礼参りのことについて、「礼銭を持参したであろう」と述べ、池上裕子氏は「所領安堵に対しては、信長への御礼参上、礼銭・礼物進上が命じられた」としています。

信長も慈善活動でやっているわけではなく、旧勢力を保護する事にはうまみもあったことがわかりますね😅


新着記事

信長は「勇猛なライオン⁉」~フロイスは信長をどう見たか

  『信長公記』を読むと、その内容から、信長がどういう人間かわかってきます。 「声がでかいんだな」「ワンマンプレーが多いな」「気になったことは自分で確かめたがる」「意外とやさしいところがある」… 『信長公記』を書いた太田牛一以外にも、信長に直接会ったことのある人物である宣教師ルイ...

人気の記事