伊勢平定を終えた信長は、そのまま京都に直行しますが、そこで人々を驚かせる行動をとることになります…😐
※マンガの後に補足・解説を載せています♪
●
『信長公記』には、伊勢平定後の行動が次にように記されています。
…信長は(岐阜に戻らずに)馬廻だけを従えて千草峠を越して上洛することにし、9日に千草に至った。その日、山中は大雪であった。10日に近江の市原(現東近江市市原野町)に泊まり、11日に京都に入った。…
大雪の山中を突破しているのはスゴイですね😅
11日に京都に入った、とありますが、
『御湯殿上日記』は10月13日条に「のふなか のほりて」(信長上りて)と記し、
『多聞院日記』は10月11日条に「10月11日条 信長「出」京(入京の誤りか?)、人数は3万であるという」と記しながら、19日条には「信長12日に上洛」と訂正し、
『今井宗久書札留』は12日巳の刻(午前10時頃)に上洛した、と記しています。
どうやら12日が正しそうですね。…となると、『信長公記』の10月10日が空白の時間になってしまうのですが、10日に滞在していた市原は京都からけっこう遠く(約60㎞)、歩いて13~14時間かかる距離にあるので、11日にはもう1つどこかで泊まったか、京都近郊に泊まって、12日に入京したか、どちらか、ということになるでしょうか。
入京後、『信長公記』には記述がありませんが、13日に内裏を訪問したようで、その時の模様について、『御湯殿上日記』には次のように書かれています。
「御しゅり みまい まいらせ候とてまいり。なかはしにて てんはいの御さか月たふ。なかはし御しゃくにてたふ。おとこたちみなみな しこうなり。かたしけなきとて。御たち。三千疋しん上申」[御修理見舞参らせ候とて参り(内裏の修理の様子を確認する[『日葡辞書』には「見舞…見に行くこと」とある]ために参内した)。長橋にて天盃の御杯答(長橋局にて信長は天皇から盃を賜った)。長橋御酌にて答(勾当内侍[当時は藤原好子]が酌をした)。男たち皆々伺候なり(公家たちは皆信長にご機嫌伺いに行った)。かたじけなきとて(天盃を賜ったのは畏れ多いことであると言って)。御太刀。三千疋(=30貫)進上申]
『信長記』には、…信長は日乗・島田所の介に、内裏のあらゆる面において修理を加えるように命令し、修理の開始を見届けて…という記述がありますが、内裏の修理が実際に開始されたのは翌年の1月5日であり(『御湯殿上日記』)、信長はこの時京都にはいませんでした。
ですので、『御湯殿上日記』の記す、「御しゅり みまい」と言うのは、内裏の修理の準備が順調に進んでいるかどうか確認しに来た、ということなのでしょう。
この時、信長は正親町天皇から天盃を賜っていますが、信長と天盃と言えば、以前に紹介したように、この年の1月19日、三毬打見物にやって来た信長に天盃を与える予定であったのが、手違いから遅れ、しびれを切らした信長が帰ってしまった、という事件がありましたね。今回はちゃんとスムーズにいったようです。また、前回の負い目があるからか、天盃を賜る場所も、小御所の庭から、御殿内部の長橋局に変更になっています。
桐野作人氏『織田信長』には「参内して、正親町天皇と長橋局で会見し、天盃を与えられている」とありますが、藤井譲治氏『信長の参内と政権構想』に「この時は天皇との対面はなく三献の儀も執り行われていない」とあるように、天皇と対面することはできなかったようです。藤井譲治氏は正式の「参内」とは天皇と対面し、三献の儀が執り行われることだ、と述べていますので、今回信長がやって来たのは正式な参内ではなかった、ということになります。
一方で将軍の足利義昭は将軍就任直後の永禄11年(1568年)10月22日と翌年2月26日に天皇と対面、三献の儀も執り行われる正式な「参内」をしています。
信長と義昭の待遇が異なることがわかりますが、それもそのはず、信長はそもそも無位無官の身で、昇殿が許された殿上人ではなかったのです(信長が位階を得るのはだいぶ遅れて1574年)。有馬真一氏もブログに「(大河)ドラマ[「麒麟がくる」のこと]では殿上人ではない信長が、殿上で天皇に会った風に描いていましたが、あんな無礼なことは絶対にあり得ません」と書いていますね。しかし、無位無官の身である信長が、御殿内部に入って(昇殿して)天盃を賜るというのは、異例の好待遇であったと言えるでしょう。
公家たちがこぞって信長のもとにご機嫌伺いにやってきた、ということからも、信長に対する特別扱いが伝わってきます。みな信長を効力のある判断を下してくれる存在とみなし、頼りにし、それだからこそ、気を遣っていたのでしょう。
内裏を訪問した後、信長は将軍・足利義昭と対面したようで、『信長公記』には、「勢州表一国平均に仰せ付けられたる様体、公方様へ仰せ上げられ」とあり、伊勢一国を平定したことを報告したようです。
『信長記』には、
…義昭公に、今回伊勢にて、兇徒らをことごとく攻め滅ぼし、万民撫育(万民を慈しみ育てること)につながる功績を挙げたこと、諸関を停止して、旅をする者の煩いを取り除くように命令を出したことを申し上げたところ、義昭公は非常に感じ入って、国光の脇差を信長に与えた。
…とあり、対面の模様が親密な様子であったように書かれていますが、実際はこの時に深刻な事態が発生していたようです。
『信長公記』は、
…(義昭との対面後)4・5日京都に滞在して、その間に畿内の事について話を聞き、10月17日、岐阜に戻った。
…と簡潔に帰国を記していますが、この帰国は尋常なものではなかったようで、
10月17日に、正親町天皇は女房奉書(天皇の意思を伝えるための書状。女官が仮名で記した)を作らせていますが、その内容は次のものでした。
「信長にわかに帰国のよし、おどろきおほしめし候、いかやうのことにてかと心もとなきよし、たつておほせられたく候、はるはるの道にてわつらわしさながら、きと下かう候て、えい心のおもむきをつたへられ候はは、よろこひおほしめし候へきよし心え候て申とて候」(信長が突然帰国したと聞いて驚いている。いったい何があったのかと不安に思っているので、無理は承知しているが、その理由を信長に尋ねてきてほしい。信長は遠い所にいるので大変な事であるのだが、必ず岐阜に向かい、朕[われ]の思っていることを伝えてくれると喜ばしく思う)
信長の帰国は人々を驚かせるほど突然なものであったことがわかります😨
また、『二条宴乗記』には、年月不詳ですが、おそらくこの時期とされている記事があり、それには、
「19日 四時より雨降。…道春、菊殿より…書状遣。金吾、夜前、京より下向之由にて、石隼□使有。公方さまにて信長はをぬ、俄ニ帰国之由、各坂本迄追手ニかけ御留之由。然共不被帰よし申。…」
…とあり、途中「はをぬ」など意味が分からない部分もありますが、信長が「俄ニ帰国」したので、公家たちが坂本まで追いかけ、引きとめようとしたものの、京都に戻ることは無かった、と記されており、こちらも「俄(突然)」であったという表現がなされています。
(この記事が永禄12年(1569年)のものであるならば、信長は京都を出た後、坂本にしばらく滞在していたということになる)
驚いたのは天皇・公家だけではなく、なんと織田家臣も同様であったようで、
11月21日付の今井宗久宛の柴田勝家の書状には、
…先日上洛された際に、「俄にお下りあり」、(それに至る事情について)詳しくうかがっていなかったので、「所存の外」(意外)の事でした。
…と書かれています。
なぜ信長は突然帰国してしまったのでしょうか?
『多聞院日記』には「16日に上意とせりあいて下了」とあります。
「上意」とは『日葡辞書』に「公方の命令、また、公方自身のこと」とあり、将軍・足利義昭の事を指しますが、「せりあい」とは、1867年に編まれた『和英語林集成』に「言い争うこと。口論」という意味だと書かれており、つまり、『多聞院日記』のこの記述は、「信長は義昭と口論になって帰国した」、ということを意味しています。
信長と義昭はなぜ口論になってしまったのでしょうか??
当時の史料にはその理由を示したものがありませんので、推測するしかないのですが、現代の研究者たちはどのように考えているのか、見てみましょう。
・臼井進「室町幕府と織田政権の関係について」(1995)…「確証はないが北畠攻めが将軍との不和の一因で有った可能性がある」
・武田鏡村『大いなる謎・織田信長』(1995)…「信長が独断で進めた伊勢の支配をめぐって、義昭と意見が対立したようである」
・谷口克広『織田信長合戦全録』(2002)…「喧嘩の原因はだいたい想像がつく。それは、この3か月後、信長が義昭に承認させた条書があるからである。…信長は義昭の将軍としての行動を封じようとしたのである」
・谷口克広『信長の政略』(2013)…「北畠氏攻め自体、義昭は反対だったのかもしれない」
・谷口克広『信長と将軍義昭』(2014)…「あくまでも憶測にすぎないけれど、そうであるとすれば、信長は、将軍の力によってなんとか勝利をつかむことができたということである。義昭に「借り」ができたということは、信長としてはたいへん不本意な事態に違いない。逆に義昭には、大いに自信を与えるきっかけになったのではなかろうか。義昭のことである。一時的にしろ、将軍の権威が回復したものと過度な思い込みを持ったかもしれない。いずれにしても、信長と義昭とのカ関係に微妙な変化が生じてしまった。それが信長と義昭との衝突の原因になったのではないだろうか。」
・桐野作人『織田信長』(2014)…「伊勢国司家=北畠氏は室町幕府体制の構成員である。たとえば、将軍義輝時代の奉公衆や大名を書き上げた『永禄六年諸役人附』の「外様衆 大名在国衆」のなかに北畠具教・具房父子の名前が見える(「北畠中納言」「同少将」)。それだけでなく、伊勢の在国衆として「長野若狭守」の名前も見える。これは具教の二男で長野氏を継いだ長野具藤のことだろう。また、北畠氏は毎年のように朝廷にも礼物を献上している。ところが、信長は北畠・長野両氏を攻め、その家督を自分の連枝によって差し替えてしまった。義昭がこれを見て、室町殿の自分に断りもない独断専行だと感じて異議を唱えたため、信長が怒って帰国したと考えるのが比較的自然である」
・谷口克広『織田信長の外交』(2015)…「では、喧嘩の原因はなんだったのだろうか。タイミングからいって、北畠攻めに関係することに違いない。義昭が仲介した可能性のある講和にからむことか、あるいは北畠攻めそのものをめぐる意見の対立か、具体的なことは不明だが…」
・久野雅司『足利義昭と織田信長』(2017)…「時機的にみて、信長による伊勢北畠氏の征討に起因していると考えられている。北畠氏との合戦での講和の背景には義昭による調停があり、それが両者間に齟齬をもたらしたことや、義昭が信長の伊勢平定を快く思わなかったことなどが指摘されている。しかし、これも義昭と大名との関係における、政権構想の枠組みから検討する必要がある。家格についての義昭の意識を踏まえると、信長は自分の実子を北畠家の継嗣としたことから(「原本信長記」)、義昭にとっては武家の家格秩序を乱すことであるため容認し難く、これによって齟齬が生じた可能性が考えられる」
信長と義昭の口論の原因となったのは北畠氏をめぐる問題だったのではないか、と考える方が多いですね😕
北畠氏関係で何が両者を対立させたのか、これは意見は2つに分かれます。
①信長が室町幕府の構成員の1人である北畠氏の家督を自身の子に継がせることを独断で決めたことに対する義昭の反発。
②信長は義昭の力を借りて北畠氏と和睦することに成功したが、それにより、義昭が自信を深め、信長との力関係に変化が生じた。
この2つの説だと、前者はあまり正しいとは思えません。
なぜなら、北畠氏との和睦には前述の通り幕臣の細川藤孝が関わっており、「独断」であるとは考えられませんし(水野嶺氏も『戦国末期の足利将軍権力』(2020)で「この衝突は、義昭が伊勢平定を快く思っていなかったための衝突であると説明される。ところが、義昭自身が織田・北畠間の和睦に動いていることもあり、問題は伊勢攻めのみではないように思われる」と書いている)、北畠氏は滅亡するわけではなく、家は存続します。家督は織田信長の子が継ぐものの、北畠氏の娘と結婚することになっていて、北畠氏の血は続くことになっていますし。
可能性が大きいのは後者の説でしょう。永禄12年(1569年)は、義昭の自信を大いに深める年になっていました。
本国寺の変では信長の援軍を待たずに三好三人衆を撃退することに成功し、伊勢平定では自身が仲介することで和睦を成立させることに成功しています。
以前に紹介したように、伴天連追放の綸旨が出された時に「都にいることを認めるか、追放するかどうかは、帝が決められることではなく、余が決めることである」と発言したのも、その自信の表れでしょうか。
自信を深めた義昭は、大恩のある信長に対する態度がぞんざいな…尊大なものになっていたのかもしれません。それに怒った信長が岐阜に引っ込んでしまったのではないか…、という推測を立てることもできます。
また、水野嶺氏は『戦国末期の足利将軍権力』で次のように言っています。
「『信長記』[『信長公記』]にも、この時の上洛に際して「天下之儀」を仰せ聞かせられたとあり、幕府運営に関わる問題の意見対立があったのであろう」
「天下之儀」とは、「天下」…当時は畿内周辺を指す、「儀」…『日葡辞書』に「往々’事柄’を意味する「事」という語の代わりに用いられる」、つまり、「畿内周辺の事ども」を意味しますが、
後にふれることになりますが、翌年1月に出される「五ヶ条の条書」というものに、
「天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は…」
という部分があり、これは、義昭が「畿内周辺の事どもを信長に委任していた」ということを示しています。
水野嶺氏は、信長に委任されていたはずの「畿内周辺の事ども」をめぐって対立が起きたのではないか、と考えているわけですが、
自信を得た義昭が信長の意見を聞かずに独断で物事を進めるようになっていて、これに信長が怒った、と考えることもできます。
久野雅司氏は、『足利義昭と織田信長』で「信長に任されたのは…敵対勢力を「成敗する」権限」であった、と言っていますが、
『細川両家記』には、10月26日に「御所様」(足利義昭)が、伊丹・池田・和田を播磨の赤松野州(政秀)の加勢に向かわせた。三人は浦上内蔵介の城を攻め落として帰国した。城主は討ち死にした…とあり、ここからは、義昭が自身の配下にある軍団だけでもって播磨に兵を進めていることがわかります。
おそらく、これは義昭の独断であって、これに対して信長は自身の「敵対勢力を「成敗する」権限」が侵された、と考えたのではないでしょうか。
(1月の堺仕置は織田家臣・幕臣の共同で実施、8月?に行われた播磨出兵は、織田家臣と幕臣の池田が共同で実施している)
久野雅司氏は、幕府と信長政権は幕府の権威を信長の武力がバックアップする、という相互補完関係にあった、と述べていますが、信長にとってはこの「武力」が自己のアイデンティティであり、譲れない点であったように私には思えます。
ですから、信長は義昭が播磨に対し、独自に兵を送ることを知って、自身のアイデンティティを傷つけられたように…自己の存在を否定されたように…自分を必要とされていないように感じ、怒って岐阜に帰国したのでしょう。
この子どもがすねたような行動について、水野嶺氏は『戦国末期の足利将軍権力』で「当時、将軍や管領などが不満を覚えると、交渉のために京都から離れるといった行為をみせることがあった。信長の急な離京も、こうした行動であったのである」と述べています。
天皇が伴天連追放令を出した時も、フロイスは岐阜にいる信長を頼り、公家たちも京都周辺に関することを解決してもらうために岐阜に赴いて信長に裁定を求めていますが、ここからは、義昭が自信をつけてきているといえど、実効力を伴った決定ができるのは信長である、と人々が考えていたことがうかがえます。
幕府運営が機能不全に陥ることを恐れた義昭は信長との関係の修復をはからざるを得ませんでした(『言継卿記』11月1日条からは、義昭の乳母である大蔵卿局が「岐阜へ下向」していることが確認できる)。
黒嶋敏氏は『天下人と2人の将軍』で、「岐阜に帰った信長と京都の義昭との間で、関係修復の意味も込めた交渉があったことは確かである。そして交渉時には、…とくに信長の立場と権限を明確にしておく必要があった」、と述べていますが、このようにして両者間で交渉が重ねられた結果、翌年の1月に出されるに至ったのが「五ヶ条の条書」だった、と考えられるでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿