社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 5月 2024

2024年5月30日木曜日

帝人事件③~議会で帝人問題が取り上げられる

 朝ドラ「虎に翼」で主人公の父親が逮捕された共亜事件。

この元ネタとされているのが、1934年(昭和9年)に起こった帝人事件でした。

どのような事件であったのか、見ていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

関直彦・岡本一巳、議会で帝人事件を取り上げる

1月22日の時事新報には、

「本社が抑えがたい正義感から敢然として和製タマニー「番町会」に筆誅を加えるや、議会再開を控えて政界、財界各方面にほとんど名状しがたいほどのセンセイションをまき起こし、寄ると触わると今更のように「番町会」のあくなき魔手について語り合い、驚愕をともにすると云う有様」となった、特に「商工大臣中島久万吉男が、この「番町会」に重要な役割を持つ事実は軽々に看過ごしがたい」との意見が台頭してきた、その意見を総合すると、「問題となっている例の台湾銀行保有の帝国人絹株…を時価よりも安く肩替わりさせたことについては、…合法的なやり方で法律的犯罪は構成しないと云うかも知れないが、この非常時局打開を使命とする内閣のイスに在る閣僚がこれに関係していることは、非常時局のかげにかくれて行われた重大な綱紀紊乱である。よって徹底的に議会で糺弾しなければならぬ」というもので、23日に再開される議会で中島商工大臣に対する追及は痛烈なものになる事が予想され、問題は「政治的に重大化せんとする形勢である」と記されています。

しかし、23日に議会が再開されたものの、なかなか議会でこの事件が取り上げられることはありませんでした。

ようやく2月2日になって議会で最初に帝人事件について取り上げたのは、貴族院議員の関直彦でした。

その発言を要約すると次のようになります。

…台湾銀行が帝国人絹会社の株を不当に売却したという事について述べたいと思います。鈴木商店への貸し付けの為に倒産の危機にあったのを、国庫から補償したさいに、担保となったのが帝人株です。この株価がが上がってきた時に売れば、(返済に充てられるので)国庫の損失を減少させることが出来ます。しかし今回は「誠に面白くないやり方」をやった。今は人絹株が非常な活況を呈して、帝人株は、年に15%もの配当を出すまでになっている。今は株価が200円に上がろうとしており、台湾銀行が売却する少し前は195円でした。これが経済変動と、関係者が安く売り叩いたために、一時125円まで下がりました。この時に売ったのは、「誠に失当な処置」と言わなければならない。1株につき70円の安値という事は、売却した11万株合計で77万円は損失になっている。極度に下った時に売るというのは、何らかの秘密があるのではないかと思わざるを得ない。買う側と売る側の中間に立って斡旋をした3人は不当の「コンミッション」を得て、1株につき買う側、売る側から1円ずつの「コンミッション」を取り、それだけでなく、配当を得てから買う側に株を渡している。合計すると、仲介者は63万2500円の「コンミッション」をせしめている。また、この利益は3人だけが得たと思えず、台湾銀行の総裁は関係しているでしょうし、政府の高官に口添えを頼んだという事も世間には伝わっております。仲介者の利益がどこに渡ったか、私は直接これを見たわけではないのでわかりませぬが、政府は大蔵省なり政府の機関を使えば必ずわかる事であります。どうか、十分に調査をされて、正確な報告をお待ちしたい。そうして、監督不行き届きや臭いことがわかったならば、政府の手でこれを正されるのがよろしいと思います。…

発言の途中には当局はよくご調査を願いたい、1月25日発刊の時事新報は御参考になるでしょう、と言っていますので、関直彦の発言は時事新報に影響されていたことは間違いないでしょう。

これに対し、2月5日の貴族院で、政府委員・銀行局長の大久保偵次は次のように答弁しました。

…台湾銀行が帝人株を所有するに至ったのは、債務弁済の為に引き受けた結果でございまして、台湾銀行法第11条に該当します。また、株式の売却については、法律上別段制限はなく、台湾銀行が自由に処分できることになっております。昭和2年に台湾銀行調査会というものができまして、台湾銀行の債務整理のためにたてた方針には、巨額の債務を速やかに返済すること、そのために株式をなるべく早く資金化すること、そうして債務に返済に充てること、とありました。株式の処分については、監督官庁の認可が必要な事項ではありませんから、台湾銀行の判断で進めることになっていました。売却の時期についてはもちろん時期・方法を選ぶ必要がある事は当然でありまして、銀行は慎重に考慮を重ねていたのでございます。人絹株は昭和7年の下半期に至って人絹工業が非常に好転し、人絹の糸値が200円以上に上がったのに連動して、帝人株は12月に最高159円となりました、速記録(関直彦の発言)には195円となっていますが、我々の調べでは159円でございます。台湾銀行は、これを機会ととらえて適当の買い手を物色し始めたのですが、適当な買い手を見つけられなかったのでございます。そうしているところ、昨年1月に入って、糸値は200円台を割るようになり、国際連盟における我が国の対外情勢の悪化を受けて、急転直下暴落をいたしまして、120円台となり、2月に入って100円台を割り、最低95円という大波乱を示しております。帝人株も最低104円、これも速記録では125円となっていますが104円でございます。さらに3月に入ってインドの関税引き上げ実施、アメリカの金融恐慌などの影響もあって、前途多難であることを考えるようになったのであります。4月の上旬になって帝人株の売却の相談が始まりましたが、この時、5月の決算期の配当が15%になると伝えられたにもかかわらず、株価は112円あたりに低落していました。銀行としては、国際関係・アメリカの金融恐慌の鎮静を待って、業界がいくらか落ち着きを見せた時に、株価120円以上で処分するという方針を定めました。銀行が10万株を125円で売却することを決めたのは5月18日のことで、30日に売却契約が成立しました。この時株価は122円となっていました。売買成立後、株の値段は高騰いたしまして、6月中には最高148円、最低132.5円、7月中には最高151円、最低121円と変化しました。株式を大量に売った後に高騰を見せるというのは往々にみられる現象でありまして、例えば、昨年10月に東洋レーヨンは10万株を売却しましたが、その時42.5円であったのに、2日で62円、半月後に79円となりました。また、株式売却にあたって、一般に売り出す方法を取らなかったことも問題になっていますが、銀行としては次のように考えております。絶対過半数の株式を所有している場合には、株式の処分について、①実力ある資本家が真面目な投資を目的としている、②事業について良く了解し、今までの経営を尊重している、③一部株主が独占する状況にならないようにする、④支払いは必ず現金即時決済という方法を取る、このように考えておりましたので、円満な取引を実現するためには、一般売り出しの方法を取るよりは、むしろ今回取った方法のほうが適当であったと考えております。…

2月7日には同じく貴族院で菊池武夫議員が帝人事件に触れて中島久万吉商工大臣を厳しく追及し、司法が動くべきだと発言しました。

…台銀問題で、確かに司法権を発動する余地があると確信いたします。3円75銭に当たる配当を手に入れるために、先月にするか、今月にするかの日付のやり繰りをしている。そこに色々なことがあって、背任罪、あるいは文書偽造、先だって関さんがおっしゃる通りのようなことが現実あれば、聞いた分でも発動があって然るべきである。

2月8日、岡本一巳議員(政友会)は「台湾銀行の所有株式売却に関する質問」を行ない、衆議院で初めて帝人事件について取り上げます。

内容は要約すると次のような物でした。

…政府は台湾銀行を救うために日本銀行に資金を融通させた。この後、日本銀行は台湾銀行の負債状況を政府に報告することとなった。政府は台湾銀行の内情について詳しく分かるようになったのだから、国庫・日本銀行に損失が無いようにしながら、台湾銀行にはなるべく多くの利益が受けられるように指示をすべきであった。しかし、台湾銀行は昭和8年6月上旬に帝人株10万株を公売の方法を取らずに売却したので世論は非難囂々となっている。世の人々は、帝人株が高騰するとわかっていながら、売却したことを不可解としている。しかも、その売却価格は当時の取引価格に対し、驚くほどの低額でもって行われた。常識では考えられないことである。世間では、政府大臣が斡旋し、政商と結託して私腹を肥やそうとしたのだという意見が飛び交っている。台湾銀行を監督する立場にあった政府は、果たして手抜かりなく監督したといえるか、これを問いただしたい。

私は今から、天下の耳目を集中致しておりまする一大疑獄事件について質問を進めようとしているのですが、大臣席を見ると1人の大臣の姿も見えない。大臣がいないままに質問を進めるのは意義を欠くと考えますので、綱紀に関する事項であるので総理大臣と、事件にかかわる事項を担当する大蔵大臣、治安維持を担当する司法大臣、台湾銀行の株式売却斡旋にあたったとされる商工大臣、以上の大臣の出席を、議長が取り計らうように願います。

[議長は総理大臣・商工大臣に出席を促す手続きを取ったが、2人は議会にいないとのことであった]

いったい政府は何を考えているのでありましょうか、議会開会中に議会内に姿を見せない、こういう態度をとるということは、議院政治にとって、はなはだけしからぬことと思いますので、大臣が出席するまで待ちたいと思います。

[「2時間でも3時間でも待ちたまえ」「休憩せよ」「休憩の必要無し」「国務大臣が1人もいないなんてそんな馬鹿な話があるか」と発言するものあり]

[43分にわたって休憩するも、大臣は姿を見せず]

審議中に関わらず議会の外にいて出席できないというのは、まったく議会を侮辱し、国政に対しての誠意を疑わざるを得ないのであります。このような政府であればこそ、いたるところで綱紀がゆるみ、いたるところで国民の目を盗んで不正の行為が行われるのは、当然の結果であると思うのです。

綱紀が乱れては国家は健全な発達を遂げることは無い。パリで内乱に等しい大暴動が起こっているが、この原因は政府の高官が政商と結託して不正を働いたのに、下院がこれを取り上げなかったので、民衆は怒りあのような大暴動となったのであります(拍手)。(1月23日に)本議会が開かれてから、いまだにこの問題に触れられていないのは、パリの暴動のことを考えると、遺憾に思わざるを得ないのであります(拍手)。台湾銀行が昭和2年、全国民を戦慄させたあの金融「パニック」は、今日もいまだに国民に多大な負債を課している。台湾銀行はそれまでに色々なところに金を貸していましたから、その保証として相当多数の株式を保持していることは当然であります。大蔵省は、株式の売却については、法律の制限を受けることなく、銀行が自由に処分できると言っている。法律上ではそうであるかもしれない、しかし、台湾銀行は3億余の負担を国民にかけ、国家に対し返済するべきであり、返済資金となる株式を何の制限を受けることなく処分できると言うのは、私としては国が監督権を放棄して、銀行と一体となっていると称せざるを得ないのであります(拍手)。

[発言の途中で「岡本君、商工大臣は辞職したそうだ」との声が飛び、これに対し「商工大臣は辞職しても国家の問題だ、やれ、やれ」との声があがった]

株式の処分の時期、方法を選ぶことは当然であるが、果たして帝人株式の処分が好い時期を選んだものなのかどうか、お尋ねしたい。私たちが未熟なる経済眼をもってしても、帝人株式が非常なる勢いをもってその値が高値に向かうことは、昨年の4・5月頃に十分に予見する事ができる材料が存在していたのであります。昨年我が国の人絹の世界における地位は5・6位であったものが、今年は2位となり、アメリカに近づこうとしておりますし、昭和7年下半期の帝人の利益率は34.6%であたのが、8年の上半期になると47.7%に達しており、その増進ぶりは驚くべきものがありました。こういう営業状態であったので、帝人の株価は時に安かったこともありますが、上がり続けていました。7年の最高は159円、最低が82.4円。8年の1~5月の最高が158.3円。最低が102.5円。5月29日~6月3日の、今回の売買が行われた時期は、最高が145円、最低は132円でした。売買後はどうなったかと申しますと、6月5日~6月10日の、おそらく金銭の授受が行われた時には、最高145円、最低139.5円、これは配当後になりますので、3.75円を加えなければなりません。大蔵当局が示した株の取引き値段ですが、私がいま読み上げたものと比べ、はるかに安値の方を低く示されている。このように徐々に株価は上がってきているのであって、大蔵省の言うように、時期・方法が適当であったというのは、断じて詭弁であると思わざるを得ないのであります(拍手)。大蔵当局は株の高騰することは当時は予期し得ざることであった、と断定されていますが、まるきり嘘でございましょう、騰るべき趨勢を示している内容を会社が持っておりますが故に、当然騰ってきたのであります。

私が色々な方面において事実を掴まんとして足を運びました時、こういう図解を書いて私に渡した人がある、それはこういう図解でありました。台湾銀行総裁島田茂、第六高等学校出身、秘書岡崎旭、第六高等学校出身、番町会永野護、第六高等学校出身、山一證券太田某、第六高等学校出身、三土鉄相(政友会)の秘書官米田規矩馬君(政友会)、第六高等学校出身、鳩山文相(政友会)の秘書官林譲治君(政友会)、第六高等学校出身、これを横に書きまして、さらに縦に、岡山財閥という名前を上に冠しまして、黒田大蔵次官、島田台湾銀行頭取、さらにこれにクロスいたしまして番町会、これで分かるだろうとその人は言ったのであります。この説明によりますと、第六高等学校出身の一団が、この問題で活躍した人々であり、番町会はこれと交錯して、それまで色々な人が申し込んでいた買取の申し込みを一蹴して、契約の成立を見るように事を運んだのである。話がまとまるようにブローカーの役を務めたのは、今辞めたか知れませぬが、中島商工大臣であります。しかし、これらの人々だけでは、到底買取を求めた人々を一蹴するほどの力があったとは思えない、その背後にはバックがあった、とその人が私に言っているのであります。

[「バックを言え」「はっきり言え」と言うものあり]

今、我が国の社会状勢は非常なる不安に包まれております、ある人はこれを非常時と言い、ある人は革命の雰囲気に一歩を進めつつあると称するのであります。この不安なる状態において、社会の民心を正し、綱紀を維持して、来たらんとする国際関係の悪化、これらに備えるためには、検事が世の中の隅々にまで観察を致さなければならぬ。雑誌に新聞に問題のことが載って相当の日数が経過しているのに、司法当局は何らの捜査・検挙の手段を尽くしていないのは何ぞ怠慢なるやと、私は言わざるを得ないのであります。…

これに対して政府委員・銀行局長の大久保偵次はこう返答します。

…台湾銀行の人絹株売却は台湾銀行法第11条に該当しますが、株の売却について、別段法律上制限はございません。

[「法律上のことを聞いているのではない」と言うものあり]

台湾銀行調査会が昭和2年にたてた方針には、巨額の債務を速やかに返済すること、そのために株式をなるべく早く資金化すること、そうして債務に返済に充てること、こういうことが必要だと述べられておりまして、この方針に基づいて台湾銀行は進んでいるのであります。

[「安く売れと誰が言った」などと発言する者多し]

監督官庁としては、認可が必要な事項ではありませんから、これは台湾銀行が判断すべきことであります。

[「ノーノー」]

売却の時期についてはもちろん時期・方法を選ぶ必要がある事は当然でありまして、銀行は慎重に考慮を重ねていたのでございます。株価は今日になっては騰貴しておりますが、株価と人絹の価格は密接な関係になっておりまして、当時はだいぶ波乱を見せていたのであります。売買前、株価は最高159円で、糸値は200円以上になっていました。しかし、国際連盟脱退など色々な波乱がありまして、糸値は非常な変化を示し、200円を割り、150円を割り、さらに100円を割って95円という所まで下りました。それに伴って株価も段々に下がって104円という数字を示しました。昨年3月にはインドの問題、アメリカの金融恐慌もあって、財界の前途については誰も見当が付きませんでした。4月に入って、ようやく株価、糸値も持ち直したので、この時期を見計らって売却をしよう、という事になりました。その頃、株価は110円~112円となっていましたから、これを120円以上で売ろう、となり、結局は125円で売却することになりました。

岡本一巳は再び登壇します。

…ただ今の答弁は、私のお尋ねした点に少しも触れていません。

[「属僚(下級役人)を相手にするな」と言うものあり]

属僚相手に話しても何にもならぬかもしれませんが、人絹株売却後、新たに帝人の重役となった人物、台湾銀行にいて、売却手続き後に帝人の重役となった人物、この人と大久保銀行局長は兄弟の関係にあるのです。

さて、答弁のことでございますが、契約の当事者について一言も触れられておらぬ。なるほど属僚が大臣の名前をここに出すことはできないでありましょう。私は暴露いたします、某大臣が昨年の盆に130人に金を配りましたが、あれはどこから出た金か、暮れに130人に配った金はどこからとった金であるか。私は確然たる証拠もなしに発言しない。私はこれらの点について、神聖なる司法権の発動を要求して、それによって国民に明らかにすることが一番良い方法であると考えるものであります。この問題を曖昧にしたまま闇に葬り去れば、将来の我が国の綱紀は絶対に維持できるものではない(拍手)。

これを受けて国会では、2月15日、「岡本一巳君の発言に関する事実調査の件委員会」第1回が開かれ、以後、調査を重ねていくことになります。

2月16日に開かれた第2回では、武富済委員が、次のように熱弁をふるいました。

…岡本君は、なんぼ何でも全く事実無根の事を、議会壇上において天下に発表するということは、気違いか、馬鹿でなければできぬ所行であるように考えられますので、…そのような事実があったと確信すべき事情があるのかも分からぬと見なければならぬ。…岡本君が投げた一石というものは、非常な波紋を政界に及ぼしたのでありまして、事実をあくまでも明瞭にしなければならぬ…のでありまして、国民の議会政治に対する信頼というものが、やや回復の曙光を見ている好ましき今日において、…我が議会の全体の威信と品格というものを保持する上から、徹底的に取り調べをいたしまして、事実の真相をつかんで、これを天下に闡明するにあらざれば、この査問委員会の所期の目的は達成せられぬことが明瞭でありますから、委員はもちろん委員長におきましても、その根本的態度をお取りください…。

3月3日の衆議院では、調査委員会の委員長の島田俊雄(政友会)から、その調査の結果が次のように報告されました。

六高会(第六高等学校出身の会)の人々の活動関係の図解を提供した人として、指摘された窪井義道君は、六高会の人々の姓名について言ったことがあるけれども、図解を示して、これについて説明を加えたことは無い、むしろ岡本君の話したことを聞きながら書いたものを、岡本君に手渡したに過ぎないと述べられ、岡本君の発言の取り消しを要求しております。また、森田政義君は、某大臣より130人とかに分配する金を預かって、これを分配するという事を話したと指摘されましたが、森田政義君はそのようなことは絶対に無いと言明されました。調査を終えて、政友会・民政党・国民同盟それぞれから報告の案文の提出がありました。

<政友会案>(与党多数派)

一、台湾銀行所有株式(帝国人絹株式会社株券)の処分に関し議員林讓治、米田規矩馬両君が関与したりとの事実根拠なし

一、前項の処分に関し三土鉄相、鳩山文相が斡旋尽力を為したりと認むべき事実根拠なし

一、某大臣が130人とかに金錢を贈与したりとの件は其の事実根拠なし…(以下略)

<民政党案>(与党少数派)

一 文部大臣秘書官林譲治君、鉄道大臣秘書官米田規矩馬君、文部大臣鳩山一郎君及鉄道大臣三土忠造君が昭和8年6月中台湾銀行持株の売却処分に干与し不正の行為ありとの事実は本委員会に於て審議不尽の余儀なきに至りたる為其の有無不明なり

二 文部大臣鳩山一郎君が昭和8年中130名に対し不正の金円を分配したりとの事実は之を認め難し…(以下略)

<国民同盟案>(親軍部政党)

2月8日并15日の本院本会議に於ける議員岡本一巳君の演說中に顕われたる事実は本調査委員会の経過に依り概ね其の事実存在したるものと認むべく議員の職責に鑑み当然の発言なりと認む

委員会ではこの3つの案について採決を取り、まず、国民同盟案は少数を以て否決と相成りました。続いて民政党案、これも少数を以て否決されました。最後に政友会案、これは多数を以て可決した次第です。…

これに対し、杉山元治郎(社会大衆党)が次のように質問を行いました。

…今の報告で、3つの案が示されましたが、かくの如く見解が非常に違うというのは、いったいあり得る事かどうか、私は非常に不思議に考えるのであります。政友会の案は、すべてを事実根拠なしと断定し、民政党案は、審理を十分尽くすことができず真実かどうか不明であるとし、国民同盟の案は、むしろその事実が存在したと考えるのが妥当でないかと言っております。この事実を総合するに、どうも疑いはあるのではないか、そういう気分が致します。今日の議場において、政友会の方々が多数でございますから、委員会において政友会案が可決されましたように、本議場においても、この案が可決に相成るであろうと信じまするが、

[「それが立憲政治だ」と言う者あり]

私がお伺いしたいのは、議場ではそういうように可決されても、今日の都下の各新聞の社説を拝見すると、どうも網紀の問題が取沙汰され、政党と財閥の関係について疑いを十分持っているようであるというのは、私が申すまでもなく、皆さんは御承知のことだと思いますが、私はこの政友会の案で決定になった時に、新聞の社說世論が示しているように、どうもまだ政党というものと、財閥というものが何等かの関係があり、網紀において臭い所があり、まだ政党の浄化は難しいというような世論を、国民の心持に起こしはしないかと、こういうことをお伺いしたいのであります。…

これに対し、島田俊雄は、

…私は委員会における議事の経過結果を報告したまでで、私の意見を述べたわけではありませんから、答弁の必要はありませぬ(拍手)。…

と答え、質問に返答しませんでした。

この後、民政党・国民同盟から、次の修正案が出されました。

<民政党修正案>

一 文部大臣秘書官林讓治君、鉄道大臣秘書官米田規矩馬君、文部大臣鳩山一郎君及鉄道大臣三土忠造君が昭和8年6月中台湾银行持株の売却処分に干与し不正の行為ありとの事実は本委員会に於て審議不尽の余儀なきに至りたる為其の有無不明なり

二 文部大臣鳩山一郎君ガ昭和8年中130名に対し不正の金円を分配したりとの事実は之を認め難し

まったくいっしょですね😓

<国民同盟修正案>

2月8日并15日の本院本会議に於ける議員岡本一巳君の演說中に顕われたる事実は本調査委員会の経過に依り概ね其の事実存在したるものと認むべく議員の職責に鑑み当然の発言なりと認む

こちらも一切修正されていません😓

これに対し、政友会案に賛同する浜田国松(政友会)は、次のように述べました。

…岡本君の演說の根拠はすべて伝聞証拠を主にしておられる。風の吹く音、この風が南から吹いて来るか、西から吹いて来るか、風の吹きはじめる方角が分からず、どの程度の風かも分からぬ風が耳を打てば、直ちに是が真実であると言う。是は此の法廷におきましても[笑声]、議会内においても、判断をするについて論理に外れた、真理に外れた判断というものは為すべきものではない。どこでも物の判斷の原則というものは、だいたい決まっているのである。この壇上は憲法の保障によって、議員の言論は責任を負わずとの理由によりまして、何事も自由に発言し得るのですが、しかしながら我々がこの憲法の大特權を有している反面、議員の壇上において述べる言葉というものは、一言一句といえども、ことごとく政治上、道德上の大責任を負わなければならぬ[拍手]。一面に言論の自由を振りまわすが、一面において自己の言論について責任を感じないというならば、是は言論の斬捨御免ではないか[拍手]。―・二の新聞紙の伝える所によれば、近頃政党政治を排撃せんと欲する所のある政治主義を持っている一部の人々は、政党主義を破壊せんには先ず有力なる政党員を葬るべし、人を射んと欲すれば先ず馬を射よ、有力なる政党員を葬るには、手段方法を選ばずしてこれを実行しようという一種の暴露戦術、一種の宣伝戦、これらのものが政界の一部に行なわれつつあるという記事を掲載致しております。いかに政党政治排擊論者といえども、衆議院の壇上に籍って毒ガスを放射するほどの悪辣な行動をとらるるとは諸君はまさかあるまいと私は信じまするが、天下の新聞紙の一部は、斯様に情報をもたらしております。私は岡本君ほどは人の不名誉、迷惑になることをこの壇上で放言する勇気を持たない者であります。故にこの程度で推測をとどめることが穏当であると信じて、これ以上の推測は述べませぬ。…

岡本一巳が帝人事件を取り上げたのは政党政治排撃論者と手を組んで、政党政治に打撃を与えるためではないか、というのですね。

政党政治排撃論者、というのは、おそらく軍部独裁政権を目論む者たちのことでしょう。

親軍部政党の国民同盟が帝人事件を否定せず、これを積極的に肯定していることからも、そのことがわかります。

一方で、民政党が与党でありながら帝人事件について一部認めるような案を出しているのは、与党多数派である政友会に打撃を与えることで、与党多数派の座を奪おうとしたためでしょうか。

岡本一巳が首謀者と挙げた政治家の面々が、政友会だらけで民政党の者は入っていないことからもそれをうかがうことができます。

政党政治家は軍部に対して共闘して戦わなければいけない状態であったのに、お互いに足を引っ張りあっていたことがわかります😓

そして、各党案の採決に移ります。

まず、国民同盟案が賛成少数で否決。

続いて、民政党案も賛成少数で否決。

そして、政友改案の採決に移りますが、この際、国民同盟の清瀬一郎は無記名投票を提案したものの、これは賛成少数で否決されます。

政友会としては、無記名にすることで、寝返りが出るのを防ぎたかったのでしょう。

しかし、無記名にしないというのは、世間からやっぱり実際はあったんじゃないかと疑われる結果を生むだけだと思うのですが…。

こうして採決は記名投票で実施され、賛成206、反対120で可決されることになりました。

議会では帝人事件は「無かった」ということになったのですが、事件はこれで収まることはありませんでした…。

2024年5月27日月曜日

「偽造されたお金でも店は商品と交換せよ!?~撰銭令」の3ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「偽造されたお金でも店は商品と交換せよ!?~撰銭令」の3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月23日木曜日

偽造されたお金でも店は商品と交換せよ!?~撰銭令

  福井県警は2024年1月4日、ある男を逮捕しました。

その容疑は、カラープリンターを使って1万円札を偽造したというもの、

本人は動機について、「遊ぶ金が欲しかった」と供述しているといいます。

いつの時代もお金の偽造は行われるものですが、

戦国時代の場合は、どうやら違う理由があったようで…!?

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

※漫画の5ページ目は都合により公開いたしません<(_ _)>

●撰銭とは?

永禄12年(1569年)2月28日、織田信長は京都に対し、撰銭に関する法律を出します。

この「撰銭」とは何でしょうか?😕

高木久史氏は「売買や納税などで銭を受け渡しするときに、特定の銭を排除したり、受け取りを拒む行為」としています(『撰銭とビタ一文の戦国史』)。

受け取ってもらえない銭があったというのですが、店側はなぜ受け取る銭と受け取らない銭とを区別したのでしょうか?

現在であれば、受け取ってもらえない貨幣というのは偽造した物でしょう。

これと同じく、当時も偽造された銭があったのです。

では、撰銭令は何を命じた物であったのでしょうか。

偽造した銭を受け取るな、というものであった…と思いきや、なんと、「偽造された物でも受け取れ」という内容なのですね!😱

信長はなぜこのようなムチャを言ったのでしょうか?

その背景を見ていこうと思います。

●銭ききん!?

古代の日本は和同開珎などの皇朝十二銭を作っていましたが、人々の間には広まりませんでした。

その理由としては、次のものが挙げられます。

①当時の日本の生産力が乏しかったので、品物の数が限られており、物々交換をする方がシンプルで効率が良かった。

②当時の日本は生産力が乏しく、市場が開かれる場所は非常に限られていたので、銭を使う機会が少なかった。

③朝廷がつけた皇朝十二銭の価値設定がふざけたものだったから(和同開珎の次に出された万年通宝は和同開珎10枚分の価値があると設定したので、商人は万年通宝と商品を交換するのを嫌がったり、価格を上げたりして、市場が混乱した)。

しかし、次第に生産力が増し、余剰生産物が出てくると、売るために作物を作る者が現れたり、作物を作らず、作物を購入して生活する職人として生活する者が登場したりしてきます。

市場に多くの種類の商品があふれてくると、物々交換では効率が悪くなってきます。ある人が魚を持っていたとして、茶碗を買おうとしても、茶碗を作る職人が魚は足りているから入らない、と断ることもあったでしょうし、店頭に、商品と米はどれだけで交換、魚はどれだけで交換…と羅列して書くのも大変だったでしょうし、市場に持ち込まれる米や魚の量で米や魚の価値も変動するので、ややこしいことこの上なかったでしょう。

そこで人々は物々交換から一歩進んで、全ての人が必要とする物=米や布を交換手段として使用するようになったのですが、米や布はかさばりますし、いちいち米や布と交換してから物を買うのは面倒です。

そこに現れたのが宋銭でした。

宋銭は中国の宋(960~1279年)で作られた銅銭ですが、1080年頃には毎年600万貫(枚数にして60億枚!)あまりも作られており、非常に大量にあったので外国に向けて輸出もされていました。

横山知輝氏は『マーケット進化論』で「朝廷および鎌倉幕府は、当初、宋銭の利用を禁止していました。荘園領主が代銭納(中国銭による年貢の納入)を認めるようになると幕府は方針転換します。莊園領主にとっては、年貢・公事として輸送された物資を必要な物資と交換したりそのために換金することよりも、代銭納を認める方が早かったのです。」と述べていますが、人々は交換手段として便利な銭を好んで使用するようになり、1200年には土地の購入で使用したものの76%が米で、17%が銭であったのが、1250年には米が36%、銭が64%と逆転します。

こうして日本にも貨幣経済が浸透するようになったのですが、問題は銭の生産を外国に頼っているという事でした😓

大量に銅銭を作っていた中国ですが、次第に銅が欠乏してくると、12世紀末には「銭荒」(銭ききん)という状態になり、1199年には日本と高麗に対し銅銭を持ち出すことを禁止するまでになります。

生産量が増え、貨幣経済が進展し始めた矢先にこれです。

さらに、明(1368~1644年)の時代には海禁政策がとられ、貿易が制限されます。

明は民間の貿易を禁じ、国家間の朝貢貿易だけを認めるようにしたのです。

さらに、1436~1503年まで明は銭を発行しなくなり、その後は発行はしているものの少量で、しかも真鍮が混ぜられたものでした。中国の銅不足は深刻になっていたわけです。

これらの結果、日本の人々は銭不足にあえぐことになりました。

そこで人々が考えたのは、銭を作る事でした。

高木久史氏によれば、出土する銭のうち、14世紀の後半から、日本で作られた模造銭が見られるようになるそうです。

これに影響を与えたのは、14世紀に中国から硫化銅を精錬する技術が伝わった事でした。

それなら幕府が作ればいいのに、と思うのですが、14世紀は南北朝の動乱の時期で、幕府は銭を作るどころではありませんでしたし、動乱終結後も、室町時代は中央の力が弱く、守護大名の力が強い地方分権な時代であったので、幕府に銭を生産する力が無かった、というのもあって、幕府は銭を生産することはありませんでした。

銭の私造は進展(?)し、15世紀には模造ですらない、文字の入っていない銭(無文銭)が堺を中心に日本で作られるようになります。

また、中国でも銭不足にあえいでいたので、私造が行われました(これを南京銭という)が、これが密貿易で日本に輸出されていました。

1561年に明の鄭若曽が書いた『日本図纂』には、「倭は自ら鋳銭せずに、ただ中国の古銭を用いる。千文ごとの価格は銀四両である。福建私新銭のごときは、千文ごとの価格は銀一両二銭である。ただ永楽通宝、開元通宝の二種は用いない」とあります。

「福建私新銭」というのは、中国で作られた模造銭のことですね。品質が落ちるため、4分の1の価格で取引されていることがわかります。

しかし、これらの私造や密貿易での輸入で得られる銅銭の量は限定的であり、人々の高まる貨幣需要を満たすものではありませんでした。

『妙法寺記』には、大永5年(1525年)の記事に「銭につまること無限」とあります。

「つまる」とは窮する、行き詰る、ということですから、銭について世の中がのっぴきならない状態に陥っていたことがわかります。

享禄2年(1529年)の項には「代一向無御座候。去間銭飢渇と申候」とあります。

これは、「代」(商品を買う時に渡す銭)が全く無くなってしまったが、そのため人々は「銭飢渇」(銭が欠乏して苦しむこと)と言った、…という意味になりますが、この後、「銭飢渇」についての記述が『妙法寺記』に頻繁に見られるようになります。

・天文2年(1533年)…「銭けかちにて御座候」

・天文3年(1534年)…「銭飢渇にて御座候」

・天文11年(1542年)…「銭飢渇にて御座候」

・天文16年(1547年)…「銭飢渇にて御座候間売買安し」

・天文23年(1554年)…「銭飢渇にて候」

・弘治2年(1556年)…「銭飢渇にて御座候」

天文16年に「売買安し」とありますが、これはうれしいんじゃないか、と思うかもしれませんが、良くないことなのですね。

みんな銭が欲しい、需要が高まっている。でも銭の供給が滞っている。需要が高くて供給が減れば、その価値は急騰します。例えばキャベツが銭の代わりだったとして、それまではキャベツ1玉でレタス1個と交換できていたとします。でも、みんなキャベツが欲しいのに、キャベツが不作になってしまったら、キャベツの価値が高騰し、人々はレタス3個を出すから、キャベツと交換してくれ、と言い出すようになります。そうなると、レタスの価格は、以前と比べて3分の1になってしまったということになります。

つまり、交換手段としているものが不足しているから、物の値段が下がっているのですが、その交換手段となる銭が無いから、人々はいくら安くても買うことができないわけです。

このように、日本の銭不足は深刻なものになっていました。しかし、そのような状態であるにもかかわらず、商売をする者は撰銭を行ない、正規の銭(精銭)と模造銭・無文銭などの悪銭を区別して、正規の銭でないと物を売ろうとしませんでした。

まぁ仕方ない面はあります。

現在の日本で、ある店がカラーコピーされた紙幣を受け取ったとして、店がそれを使って別の店で買い物ができるかといえばできないでしょうから。

●撰銭令の内容

[大内氏の撰銭令]

一、銭をえらふ事

段銭の事ハ、わうこ(往古)の例たる上ハ、えらふへき事、もちろんたりといへとも、地下仁ゆうめんの儀として、百文に、永楽、宣徳の間甘文あてくハへて、可収納也、

(段銭[田地の面積に応じて課された税]は、大昔からそうであるように、銭を選んで精銭で納めることは当然であるが、庶民のために大目に見て、100文につき永楽通宝・宣徳通宝[明の宣徳年間(1425~1435年)に作られた銅銭]を20文混ぜて納めてもよいこととする)

一、 り銭(利銭)并はいゝゝ(売買)銭事

上下大小をいはす、ゑいらく、せんとくにおいてハ、えらふへからす、さかひ銭とこうふ(洪武)銭(なわ切の事也)、うちひらめ(打平)、此三いろをはえらふへし、但、如此相定らるゝとて、永楽、せんとくはかりを用へからす、百文の内二、ゑいらく、せんとくを卅文くハへて、つかふへし、

(金の貸し借りや、売買の際に、永楽通宝・宣徳通宝は排除してはならない。堺銭[無文銭]・洪武通宝[明の洪武年間(1368~1398年)に作られた銅銭]・打平[中国の大型銭の周りを削って日本で通用している銭の大きさにしたもの、もしくは、銭銘の入っていない銭。無文銭との違いは穴が開いているかいないか]の3つは排除するように。ただし、このように定められたからといって、永楽通宝・宣徳通宝ばかり使ってはならない。100文のうち30文の割合で混ぜて使用するようにせよ)

…この法令からは、当時、洪武通宝・永楽通宝・宣徳通宝・堺銭(無文銭)・打平が精銭ではなく悪銭として扱われていたことがわかります。

大内氏はこの状況の中で、洪武通宝を除く明銭を宋銭と同価値で扱うこと、洪武通宝・堺銭(無文銭)・打平は使用を禁止することを命じています。しかし、明銭は使用する枚数の上限を定めており、宋銭と比べて一段低く扱っています。

この取り合わせの初見は、千枝大志氏の「15世紀末から17世紀初頭における貨幣の地域性」によると、1436年の伊勢国の記録にある、銭の貸し借りの際に「あくもん15文さし」[100文のうち、悪銭を15文混ぜて使用]であったようです。伊勢神宮地域ではその後も、「10文サシ」~「40サシ」…という割合で悪銭を混ぜて使用していたという記録が残っています)

鈴木公雄氏『銭の考古学』には、永楽通宝について次のように書かれています。

…出土備蓄銭の調査を行っていると、永楽通宝が含まれている場合はすぐにわかる。それは量が多いからではなく、永楽通宝がきわめてしっかりとした銭貨だからである。しっかりとした銭貨とはなにかというと、銭貨の大きさ(直径)、重さ、厚さなどが均一で、永楽通宝という文字も鮮明に鋳出されているからである。他の多くの銭が擦り切れて文字もあまり鮮明でなくなっていたり、薄っぺらな銭であったりするなかで、永楽通宝はひときわ目立つ存在なのである。…

明銭(とくに永楽通宝)は良質な貨幣なのです。1504年、九条氏が自身の荘園に対して出した撰銭令には、

…料足(銭)のうち、「永楽」は「往古」(大昔)から使用していたものであるのに、近年これを選んでいる。全く不当なことである。

…とあり、永楽銭が普通に精銭として通用していたことがわかります。それなのに忌避されるのは、やはり中国での明銭に対する信用低下の影響によるものでしょう(洪武通宝だけ悪銭扱いを受けているのはよくわからない。洪武通宝だけ1文、2文、3文、5文、10文の5種類が作られて、その大きさも違っていたことが関係しているのか?東野治之氏は『貨幣の日本史』で「洪武通宝については、当十銭以下、多種多様な大銭が発行されており、一文銭にも大小いろいろあったことが想起される。そうなれば、撰銭が起こるのも無理はないだろう」と述べている。また、洪武通宝について条文には「なわ切の事也」と但し書きがある[意味は不明。「新寛永通宝分類譜」のサイトでは「縄を切るぐらい薄い」ことだとしているが、これも関係しているのだろうか。高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、九州は他地方と比べ洪武銭の出土する比率が高く、普及していたことが認められること、また、洪武銭の模鋳が行われていたことを挙げ、「九州における洪武銭の特殊な流通状況と関連するものであろうか」と述べている)。

大内氏撰銭令から70年も後の事になりますが、1555~1557年にわたって日本の五島(長崎県五島市)→松浦(長崎県松浦市)→博多(福岡市)→豊後(大分県)に滞在した中国人から日本の情報を聞き取るなどしてまとめられた『籌海図編』には、「永楽通宝、開元通宝(唐銭)の二種は用いない」とあり、この時期になっても九州地方で永楽通宝が使われていなかったことがわかります。

貿易商人にとって中国との貿易で使用しづらいというのは大問題でした。

商人たちは、中国にならって、明銭で支払いをしようとする者に対し撰銭を行なって、受け取りを拒否するか、複数枚で1文として受け取ろうとしたことでしょう。

こうなるとどのような問題が起こるでしょうか。

1480年の中国では、官僚が次のような上奏を行なっています。

…近日、商人たちは法令を守らず、悪巧みをし、洪武・永楽通宝などを選別して使わなかったり、あるいは枚数を増やして1文と換算するので、米は高騰し、雑多な日用品もみな値が上がり、兵士や庶民はますます生活が苦しくなっています。…

撰銭が実施されると物価の高騰が起こるというのですね。例えばこれまで永楽通宝1枚でAの商品が買えていたのに、2枚出さないとそれが買えなくなったとすると、値段は2倍になった、ということになります。

これに加え、高木久史氏によると、当時は大内領国で物価をさらに上昇させる次の2つの出来事が起きていたといいます。

①大内氏は撰銭令を出した年に、家臣に対し山口への集住政策を実施していた(1485年、家臣に対し、自身の領地に滞在する日数を制限。翌年には、無許可で自身の領地に戻った家臣を追放すると規定)。

高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、この政策に「伴う人口増は、都市山口における食料需要を喚起するだろう」、撰銭令は「都市人口増加に伴う食糧需要増加への対策として発令された」のではないか、と述べています。

実は、大内氏の撰銭令には第三条が存在しており、そこには、

「一、米をうりかふにふたう(不当)をかまふる事

役人判形のますにとかき(斗概)をいかにも正直にあてゝ、うりかふへきところに、てをそへて、くりはかりにてうるによりて、諸人しうそ(愁訴)在之、所詮京都はうやう(法様)のことく、時によりて一日のうちたりといふとも、そうけん(増減)ハあるへし、たとへは、今日まては百文に壱斗充たりといふとも、はいはいの米方々より出さらん時ハ、役所へ案内をへて、わし(和市)をけんすへし、

(米の売買の際は、決められたサイズの升に、升を平らにならすための斗概を正直にあてるべきであるのに、手を加えてそうしない[売る場合だと奥から手前方向に升をならすことか。清水克行氏「米はまへがき」には、人は米をすくう時に手前側に米が寄るので、奥から手前にならすと普通にやるより升の中の米は減る、とある]ので、人々が困って歎き訴えてきている。しかし、市場に入ってくる米の量にも日々増減があるだろう。例えば、ある時は100文で1斗売っていたとしても、市場に入ってくる米が少ない時には、役所に報告した上で、1斗に満たず減量して売ってもよい)」

…と米の売り買いに関することが書かれているのですね。しかも、撰銭令は「右事かきのことく、米をうりかい銭を用へし、若此制札前をそむくともからあらハ、けんもん(権門)其外諸人被官たりといふとも、可被処重科者也」と結ばれています。高木氏はこれに注目して、「大内氏撰銭令は米需給に対しての統制を意図している。つまり、まず何よりも米需給に関することが問題となっており、その対処策として撰銭令が発令されていると解釈できる」と述べています。

②このころ、堺商人が琉球へ銭を輸出し、博多商人が琉球から銭を輸入する、つまり堺→琉球→博多という回りくどい経路で銭が流通していた。そこに応仁・文明の乱が起こり、堺を支配する細川氏と博多を支配する大内氏とが交戦した。乱中、細川氏は堺から琉球への銭の移出を規制した。これが大内氏の領国で銭を不足させた。

銭が入りづらくなったということは、精銭が手に入りづらくなる、ということでもあります。精銭の追加供給が乏しくなったうえに、精銭として扱われていた明銭の地位が低下し、精銭から脱落したとなると、精銭はかなり貴重なものとなったでしょう。

日本で一度に大量の銭が発見されることがあります(一括出土銭)。鈴木公雄氏『銭の考古学』によると、寺院の付近で発見された出土銭は、「きわめて大量の銭貨が埋蔵されている場合が多い」そうです。当時、寺院は寺に寄進された銭に加えて、永原慶二氏『下剋上の時代』に「大荘園領主として農民から年貢をとりたてる立場にあったとともに、…年利6割ー7割2分という高利貸をやっていた」とあるように、多くの土地を持つ上に金融業も営んでおり、相当に潤っていました。他に発見される一括出土銭も持ち主としては、土倉・貿易商人・馬借・武士・村内の有力者が考えられる、と鈴木氏は述べています。さて、この一括出土銭は1998年時点で約353万枚発見されているのですが、その77%は宋銭が占めており、ここから、人々が中国と同じように好銭(精銭)を退蔵していたことがわかります。

そうなると必然的に人々が使用するのは悪銭ばかりになるということになります。

1492年、大内氏領豊前で、近年悪銭使用を禁じているが違反してこれを使いがちで、昨年からは悪銭ばかり使っているというのはけしからぬ、という内容の命令が出されていますが、ここからも、悪銭使用が一般化していたことがうかがえます。

物価が高騰する中、米などを買うのに、価値の低い手持ちの悪銭だけでは足りなくなります。そこで人々は、どのような行動に出るか…銭を自分で作る(私鋳)ようになるのですね(中国の『泉南雑志』には、1606年、干ばつにより米価が騰貴し、「私銭」が盛んになった、「私銭」が禁止されると人々は市を開くのをやめてしまった、米が流入するようになると貨幣流通も元に戻った、とある)。

そうなると、商人たちは撰銭行為をさらに厳しくとり行うようになり、2枚で1文が、3枚で1文、4枚で1文というようになっていき、物価はますます上がることになります。

大内氏としてはこの状況に対応する必要にせまられることになりました。

こうして、撰銭令が出されることになるのです。

ところで、大内氏は物価高騰に苦しむ庶民を救うために撰銭令を出したのではありませんでした。

先にも紹介したように、大内氏は悪銭ばかり使っているというのはけしからぬ、と伝える命令を出していますし、人々が一般に使用していた(使わざるを得なくなっていた)悪銭の使用を撰銭令では禁じています。

ここから、大内氏の撰銭令の目的が悪銭使用の許可…流通貨幣数の増加にあったのではないことがわかります。

高木久史氏は『通貨の日本史』で、戦国大名の撰銭令は、「あくまで政治支配者層の利益の確保が目的であり、社会の通貨需要への対応という発想はない」と述べています。

では、大内氏が撰銭令を出した理由はどこにあったのでしょうか。

ポイントは①納税を精銭で行うように命じたこと、②上限はあるものの納税の際に明銭を混ぜることを認め、明銭忌避の動きを見せる商人に対しては、買い手に明銭だけでの支払いを禁じて配慮は見せてはいますが、明銭の受け取りを拒否してはならない、宋銭などの精銭と同価値に扱うようにと命じ、明銭の通用を維持させようとしたこと、③悪銭の使用を禁じたこと、の3つです。

まず①ですが、大内氏としては精銭の確保が必要でした。

精銭は中国との貿易に欠かせないものでしたし、大内氏は、1515年の書状で、納税の際に撰銭を行う理由として、安芸・石見、土佐の材木購入に必要だからだと述べており、ここから、精銭が遠隔地交易に有効な支払手段であったことがわかります。また、高騰する物価に対し、戦国大名として軍需物資を確保する必要があったので、価値が騰貴する精銭を手に入れてこれを購入しようと考えたのでしょう。

次は②ですが、大内氏はなぜ明銭を保護しようとしたのでしょうか。

それは、永楽・宣徳通宝は国内の遠隔地交易ではまだ有効であり、中国との貿易においても2枚で1文と扱ってもらえる余地があった(堺銭[無文銭]・打平だと受け取ってもらえない)ので、利用価値があると考えられて割合は制限したものの残されたのでしょう。

しかし、この撰銭令は、はた目から見ると明銭の地位向上を狙ったもののように見えますが、大内領国においてこれまで税を納める際に、永楽・宣徳通宝には制限がかかっていなかったのが、明での明銭忌避の傾向を受けて貿易に支障が出ると考えた大内氏が永楽・宣徳通宝での納税に制限をかけたもの、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

最後の③の悪銭の使用禁止については、農民が米を売る際に、商人が悪銭で支払うと、農民が精銭で納税することができなくなってしまうからでしょう。

つまり、この法令は大名側が悪銭を排除し、明銭での納税を制限して、納税される精銭の確保を図ったものだったといえるでしょう。

大内氏と同様の行為は、次第に中国とかかわりの深かった地域である西日本に広まっていくことになります。

(中略)※この部分は公開しません<(_ _)>

良質でありながら、中国で嫌われているという理由で精銭から格落ちした明銭。しかし、この明銭には受け皿がありました。中国との縁の薄い東日本です。

日本で出土した永楽通宝のうち、約66%は中部・関東地方で見つかっています。

出土銭は先に述べたように退蔵する必要のあった精銭ですから、東日本で永楽通宝の価値が高かったことがうかがえます。

また、鈴木公雄氏によれば、15世紀末から出土銭に永楽通宝が多くみられるようになるとのことなので、中国で明銭の評価が下がり、それが西日本に波及し、大内の撰銭令が出された頃に、東日本では逆に永楽通宝の価値が高まっていったことがわかります。

時代は下りますが、東日本における永楽通宝の地位の高さを示す、弘治・永禄年間(1555~1570年)の次の史料が残っています。

・1556年、下総国の結城氏の定めた分国法(結城氏新法度)には「撰銭が行われていて売買に不自由なので、これからは領内で使用する銭を永楽通宝に一本化するのはどうか」という議論が行われたが、悪銭以外は使用することに決着した、ということが記されている。

・1560年にある僧が北条氏に対し意見を申し述べたが、その中に「近年、永楽通宝ばかりを使い他の銭を嫌っているが、銭を良し悪しを問わずに、商品の売買が円滑になるようにすべき」とある。

伊勢国の1565年の記録には、伊勢の大湊へ入る際の入津料について、米がなかったら「永楽」で支払うように、と書かれている。

また、江戸時代に入ってから作られた史料ですが『北条五代記』には、次の内容があります。

…年寄りの人が言うには、近年まで関東では精銭と永楽は同じ値で扱われていたが、北条氏康公が「銭はいろいろあるが、永楽に勝るものはない。以後は関東では永楽一銭だけを使うべしと天文19年(1550年)に高札を立てたので、その後は関東では永楽通宝だけが使われるようになった。当時、他の地域では精銭の中でも永楽は選別して除かれていたので、関東にあった永楽以外の精銭はいつの間にか関西に移り、永楽は関東にとどまって用いられるようになった。

関東では永楽通宝が珍重されたので、それ以外の精銭は関西に移ったというのですが、その逆、関西の永楽通宝が関東に移ることもまたあったことでしょう。

室町幕府が出した1506年の撰銭令には、「あくせん売買の儀一切可停止事」という条文があります。精銭でない悪銭の売買が行われていた、というのですね。

当時、各地でこの銭は精銭、この銭は悪銭で何枚で1文、というのは統一されていませんでした。これを利用してもうけを企む輩がいたのです。

例えばAの地域では悪銭Xが2枚で1文、悪銭Yが4枚で1文だとします。そうなると、悪銭X2枚=悪銭Y4枚ということになります。ある商人が、悪銭Xを2枚出せば(売れば)、悪銭Yは4枚手に入る(買える)わけです。そして別のBの地域では逆に悪銭Xが4枚で1文、悪銭Yが2枚で1文だとします。商人がここに来て、先に手に入れた悪銭Y4枚を出せば(売れば)、悪銭Y4枚は2文分ですから、悪銭Xを8枚手に入れられる(買える)ことになります。こうして、商人は最初にもっていた悪銭Xを4倍に増やせたことになります。こんなボロい商売はありません。その銭が特定の地域でのみ精銭扱いされているならなおさらです。

永原慶二氏は、『戦国期の政治経済構造』で、「銭貨の流通と評価に西国と東国という2つの地域圏が存在」し、「それはおそらく東西商業の結節点である伊勢をおよその境界線として展開したであろう。傾向として、西国の人びとは宋銭を主力とする良銭を残し、永楽銭を伊勢商人等に支払う。伊勢商人等はその永楽銭を東国向け取引にあて、受取り勘定は精銭たる宋銭などで取り、畿内西国との取引にはそれで支払う。伊勢商人等はこうすることによって通常の意味の商業利潤だけでなく、永楽銭と精銭の評価差から生ずる一種の為替利潤を大きく手にすることができるはずである」と述べています。

ここに出てくる伊勢商人は、当時東日本において手広く活動していたようで、次の事例が見受けられます。

・鎌倉時代…伊勢神宮の所領である御厨が東海・関東地方に多く存在しており、この年貢の輸送を請け負う船が伊勢と関東を盛んに行き来していた。

・南北朝末期…綿貫友子氏によると、南北朝末期に関東の品川にあった船のほとんどが伊勢で作られたものであった。

・戦国時代…東海の駿河国を占領した武田氏は、小浜氏を水軍の将としているが、この小浜氏は伊勢出身であった。また、伊勢御師の蔵田五郎左衛門は越後国の上杉謙信に仕えて御用商人になっている。

また、金児紘征氏は「秋田と伊勢商人」で、「日本海に比べ太平洋は海が荒れることが多いが、操船に長けていた伊勢海賊衆はすでに中世には伊勢と東国の間で海上輸送を盛んに行っていた。船団を組んで物資を運び、それは「伊勢廻船」と呼ばれた。戦国時代末期には伊勢商人は各地の戦国大名と結びつき、物資を運んでいた」と述べています。

これらの事実から、永原慶二氏は「西国と東国の結節点的位置」にある伊勢の「大湊が東国商業の中心的港湾都市であったことは明らか」であり、伊勢において、先に紹介したように米が無ければ永楽通宝を納めさせていたほど重視されていた永楽通宝が東国において「高い評価を受けていたのも、納得できる」とし、東国では「伊勢とくに大湊をカナメとする東国永楽銭基準通貨圏」が成立していたと推測しています。

東日本の経済に大きな影響力を持っていた伊勢商人が永楽通宝を主に使用していたことが、東日本における永楽通宝の主要流通銅銭化を促したのでしょう。

さて、この「東国永楽銭基準通貨圏」にどっぷり浸かっていたのが、誰あろう、織田信長その人でした。

織田信長といえば有名なのが旗印に永楽通宝を使っていたことですね。

小瀬甫庵が江戸時代初期に書いた『信長記』には「信長公の旗は、一幅の黄絹に永楽の銭を付け、招きには南無妙法蓮華経のはね題目を書付けたる」と、信長が永楽通宝を旗印として使用していたと書かれ、1637年に作られた『諸将旗旌図』には信長の永楽通宝の旗印が描かれており、17世紀中期に書かれた『長篠合戦図屏風』にも信長の側に永楽通宝の旗印が描かれています。

また、服部英雄氏は「日本中世国家の貨幣発行権」で、信長が永楽通宝を旗印として採用しているが、「信長が永楽通宝に強固なパワーの根源を見いだしたのは、自身の鋳造に関連すると思われる」貨幣博物館には「日本公鋳銭」として分類されている100枚以上の永楽通宝がある。金銭のみならず永楽通宝銅銭自体を秀吉が鋳造したとみることに、さほど多くの異論はあるまいが、それは信長の時代にまで遡ると考えたい」と記し、信長が永楽通宝の鋳造を行なわせていたのではないか、と推測しています。

信長が銭を作っていた!…ビックリですが、考えてみれば、全国的に中国銭の私鋳が行われていたのですから、財力のある信長が銭を作らせていなかった、とする方が難しいのかもしれません。

さて、この永楽通宝推しの信長は足利義昭を奉じて上洛した際に、おそらく永楽通宝の旗印と共に入京したと考えられますが、これを見て公家や京都の人々は驚いたことでしょう。

なぜなら、先に記したように、京都では明銭は忌避される存在であったからです。

上洛した織田信長と悪銭をめぐっては、次の話があります。

『言継卿記』永禄11年(1568年)10月8日条に、「織田弾正忠は禁裏に不便があると聞いて、今朝一万疋(=100貫文)を進上した」とあり、織田信長が朝廷に100貫文を献上したことがわかるのですが、この100貫文は朝廷内の関係各所に配られたようで、10月11日条には、山科言継が「(誠仁親王の元服式の際に着る)服の染色費用として100疋(=1貫文)を受け取った」とあります。

しかし、この際に次の問題があった、と書かれています。

「しかし『悪物』であったので、150疋(=1.5貫文)を受け取って退出した」

はじめ受け取った100疋が悪銭ばかりであったので、5割増しで150疋を受け取った、というのですね。悪銭は精銭の3分の2の価値とみなされていたことがわかります。

また、10月18日に足利義昭の将軍宣下があった際、義昭は朝廷に銭を贈った(おそらく信長が用意した銭)が、「以ての外悪物」であったので、公家たちが受け取りを渋ったという事があった、と書かれている書状も残っています。

さらに、『言継卿記別記』12月条には、「織田弾正忠信長」が誠仁親王の元服費用として300貫を進上したというが、「一向悪物」(まったく話にならないほどの悪銭)であったため、衣服を省略しなければならなくなった、と書かれています。

これらに共通しているのは、織田信長が用意した銭に悪銭が多く混じっていた、ということですが、これは不思議ですよね😟

信長ほどの財力があれば、すべて精銭でそろえるということは難なくできたはず。

それなのになぜ進上した銭が悪銭ばかりなのでしょうか…?

考えられるのは、「東国永楽銭基準通貨圏」で生活していた信長が永楽通宝を大量に含んだ銭を進上した、ということです。この可能性は高いでしょう。

しかし、信長は以前に記したように、桶狭間の戦い前に上洛していたことがありますので、京都では永楽通宝は嫌われているということは知っていたはずです。

そうなるとこれはわざとやったことなのでしょうか?

信長としては、「東国では永楽通宝は問題なく流通している。だから京都でも流通させられるはずだ。自分がそのようにしてみせるから、進上する銭に永楽通宝を大量に混ぜたとしても、問題ない」と考えたのかもしれません。

●信長による撰銭令

さて、いよいよ、信長の撰銭令の内容について見ていこうと思います。

撰銭条々(永禄12年(1569年)2月28日)

①ころ・やけ銭・せんとく 二文たて、

(洪武通宝・焼銭[火災で焼けた銭]・宣徳通宝は2枚で1文として扱う)

②ゑミやう・大かけ・われ・すり 五文たて、

(恵明[不明。「穢冥」をあて、汚い銭とする説もあるそうである]・大きく欠けたもの・割れているもの・文字が摩耗して見えづらくなっているものは5枚で1文として扱う)

③うちひらめ・なんきん 十文たて、

(無文銭・南京銭は10枚で1文として扱う)

④此外不可撰事、

(これ以外の銭は選んではならない。つまり、同一に扱うということで、①~③以外の銭は1枚で1文として扱う、ということである

⑤反銭・地子銭幷諸公事等、金銀・唐物・絹布・質物・五穀以下、此外諸商売有来時のさうは(相場)以テ、此代にてとりかわすへし、付、事を撰銭ニよせ、諸商売物かうしき(高色)になすへからさる事、

(税金や物の売り買いは、①~④に記したように悪銭を取り扱う事。今回撰銭令が出たからといって、以前より高い値段で商品を売ってはならない)

⑥諸事も(の)とりかわし、撰銭と増銭と半分と宛たるへし、但此外ハ其人のあい台したるへき事、

(銭を渡すときは、精銭と増銭[複数枚で1文となる銭]を半分ずつ使用する事)

⑦悪銭売買堅停止事、

(悪銭を売買することは禁止する)

⑧撰銭の料未究ニ押入、狼藉ニおいてハ、其町として相支、注進すへし、至見除之輩、同罪たるへき事、

(撰銭令の内容に違反したものの処罰が決まる前にその店に入り乱妨をした者は、その町の者が取り押さえること。見逃した場合は、同罪とする)

過料事(処罰について)

⑨壱銭売買、於撰銭輩者、過料十文可出定、

(1文単位の少額の売買について撰銭令に違反した者は、罰金10文とする)

⑩十銭、同過料壱百文、

(10文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金100文とする)

⑪百文以上於撰銭ハ、過料一倍、

(100文単位の売買について撰銭令に違反した者は、罰金200文とする)

精撰追加条々(永禄12年3月16日)

①以八木売買停止之事、

(米を銭の代わりとして使ってはならない)

②糸・薬十斤之上、段子十端之上、茶碗之具百の上、以金銀可為売買、但金銀無さハ、定之善銭たるへし、余之唐物准之、此外ハ万事定之代物たるへし、然而互有隠密、以金銀売買有之ハ、可為重科、

(糸・薬10斤[6㎏]以上、緞子[絹織物の一種]10反[約120m]以上、茶碗などの道具100個以上を購入するときは、金や銀を使用すること。金や銀が無い場合は、基準銭を用いてもよい。中国からの輸入物は同様に扱う。これ以外の品物については、撰銭令で定めた銭を使用する事。隠れて金銀を使用した者は、重罰とする)

③付、金子ハ拾両之代拾五貫文、銀子ハ拾両之代二貫文

(金10両は15貫文[=15000文。つまり、金1両は1500文]と交換できる。銀子10両は2貫文[=2000文。つまり、銀1両は200文]と交換できる)

④祠堂銭、或質物錢、諸商売物并借銭方、法度之代物を以て可為返弁、但金銀於借用ハ、以金銀可返弁、付、金銀無之ハ、定善代物たるへき事、

(寺院から借りたお金や質物、商売、その他の借金については、撰銭令で定めた銭を使用する事。金銀で借りた場合は金銀で返すこと。ただし、金銀を持っていない場合は、基準銭で支払う事)

⑤見世棚之物、銭定に依而、少も執入輩あらハ、分国中末代商売停止たるへし、

(店の商品について、撰銭令で定められた悪銭と交換するのを嫌がって、商品を売らないような者がいれば、信長の領国では子々孫々に至るまで商売を禁止する)

付、諸商売に依て、金銀両目替停止、并売手かたより金銀を不可好之事、

(金銀と銭を両替してはならない。売り手側が金銀で支払うことを要求してはならない)

⑦大小に不寄、荷物・諸商売之物、背法度輩有之ハ、為役人申届可相究、若不能信用ハ、荷物悉役人可被投之事、

(金額によらず、荷物や商品のことで、撰銭令に反する者がいれば、役人に報告する事。信用できない銭を使用している者がいれば、預かった荷物を役人に引き渡すこと)

⑧科銭之儀、一銭より百銭二至らハ百疋たるへし、百疋之上にいたらは、千疋たるへし、其外准之事、

(罰金について、1銭~100銭までの場合は100疋[1疋=10文。つまり、1000文=1貫文]、100銭以上の場合は、1000疋[10000文=10貫文]とする)

⑨銭定違犯之輩あらハ、其一町切に可為成敗、其段不相届ハ、残惣町一味同心に可申付、猶其上ニ至ても手余之族にをいてハ、可令注進、同背法度族於告知ハ、為褒美要脚伍百疋可充行之事、

(撰銭令に違反する者がいた場合、その町の者で処罰せよ。撰銭令に違反した者を報告しない場合は、惣町[町を束ねる組織。京都でいえば、上京や下京]が処罰せよ。惣町でも手に余る場合は、信長に報告せよ。違反している者がいると知らせた者には、褒美として500疋[=5000文=5貫文]を与える)

…だいぶ細かい法令となっていますね😧

これまでの撰銭令は、売買の際における、精銭と撰銭の対象となる銭との取り合わせの割合を指定していました。これを信長の撰銭令と比較してみましょう。

1485年大内氏撰銭令:100文に30文(永楽通宝・宣徳通宝)

1503年幕府撰銭令:100文に32文(永楽・洪武・宣徳・破銭)

1512年幕府撰銭令:100文に20文(古銭・洪武・宣徳・永楽)

1542年幕府撰銭令:100文に32文(永楽・洪武・宣徳・嘉定・かけ銭)

これに対し、信長の撰銭令では、100文に50文と精銭以外の銭の混入割合を高く設定しており、さらに、混ぜることが許された銭の種類についても、洪武・「やけ銭」・宣徳・「ゑミやう」・「大かけ」・「われ」・「すり」・打平・南京と、かなり増えていることがわかります。

また、信長撰銭令がそれまでのものと大きく違う点は、永楽通宝が撰銭対象の銭となっていないことです。これは信長が「永楽銭基準通貨圏」で暮らしていたためでしょうか。

そして、信長撰銭令の大きな特徴は、現在確認できている畿内で出された撰銭令の中で、初めて複数枚で1枚とカウントする「増銭」の存在をおおやけに認めていることです。

増銭については、畿内以外では1493年に肥後国相良氏が出した「相良氏法度」に見ることができます。

その第五条に、「悪銭之時之買地之事、10貫字大鳥四貫文にて可被請、黒銭十貫文之時者、可為五貫」とあるのですが、これは、悪銭を使って土地を買い戻す際は、精銭4貫文の場合は「大鳥」10貫文、精銭5貫文の場合は「黒銭」10貫文で支払うこと、というもので、つまり「大鳥」は2.5枚で精銭1枚、「黒銭」は2枚で1枚と扱われていたわけで、「大鳥」や「黒銭」が精銭と同価値とみなされていなかったことがわかります。

法令に「増銭」の事が記されているものはわずかですが、書状には実例がけっこうのこっていて、いくつか紹介したいと思います。

・1488年、加茂別雷神社は、悪銭1000文を「本銭」511文として扱った。この場合、悪銭はだいたい2文で「本銭」1文として扱われていたことがわかる。

・豊前国のある土地について、1555年の書状には「定銭(加地子。領主に納める税金)反別40文」「加地並銭反別100文」とあり、精銭だと40文だが、「並銭」であれば100文納めることになっていたことがわかる。つまり、「並銭」は2.5枚で1文扱いであった。

・1557年、益田氏は毛利と和睦するにあたり必要となった礼銭を用意するため、家臣たちにその費用を割り当てたが、ある家臣には「精料50文」を負担させたものの納められてきたのは「南京200文」で、益田氏はこれの受け取りを認めている。これから、精銭1文=南京4文の交換レートであったことがわかる。

・1557年の周防国の記録には、60石を売って得た「新銭96貫文」で、「古銭」「38貫400文」と「二和利半」の割合で交換した、とある。この場合、「古銭」1文=「新銭」2.5文である。

・1559年、周防国の記録には、「35貫文…但新銭105貫文」、「200文…但南京2貫文」とあり、この場合、「新銭」は精銭の3分の1、「南京」は精銭の10分の1として扱われていたことがわかる。

・1569年?、越前国二上国衙領が大徳寺に納税した際の書状に、1貫450文は悪銭4貫500文を「三文立」で売って得たもの、634文は悪銭2貫143文を「三文立」で売って得たもの、とある。ニ上国衙領は、精銭を得るために悪銭3枚=精銭1文の交換レートで売却していたことがわかる。ただし、ぴったり悪銭3枚=精銭1文になっているわけではなく、1貫450文の3倍は4貫350文のはずであるし、634文の3倍は1貫902文のはずである。つまり、それぞれ3倍分よりも、悪銭を150文・241文多く売っていることになる。

これらを見ると、だいたい悪銭は2~4枚で精銭1枚扱いされている場合が多かったことがわかります。

その中で1559年周防国の書状に見える「南京」=精銭の10分の1という、すさまじい低価値扱いが目につきますが、この「南京」は信長撰銭令でも打平とともに「10文たて」となっています。

いったい、このひどい扱いを受けている「南京」とはどういう銭なのでしょうか?

南京といえば中国南部の中心都市なのですが、この場合はどうやらその「南京」を指すのではないようで、『大辞泉』には「南京…中国から、また東南アジアから中国を経て渡来したものの意を表す」とあり、日本は中国からやって来たものを「南京豆」とか「南京米」というように、「南京」とつけて呼んでいました。

『日本一鑑』(1556~1558年に日本に滞在していた鄭舜功により執筆)には、倭人は中国の銭を貴び、龍渓(福建の漳州にある私鋳銭生産の拠点)の偽造銭さえも意に介さず輸入している、とあり、『籌海図編』(1562年成立)には、日本はもっぱら中国の旧銭を使っている。旧銭1000文は銀4両、「福建私新銭」1000文は銀1両2銭にあたる、と書かれていて、日本が弘治・永禄年間(1555~1570年)に福建産の銭を輸入していたことがわかりますが、『李朝実録』中宗39年(1544年)6月壬辰条には、「中国から漂着してきた者になぜ来たのか、と問うと、銀を得るために日本に向かったが、風に吹かれてここにやってきたのだ、と言う。…元の時代、唐人は遼東に送還していた。南京出身者なら、南京に送還していた。この者は福建出身であり、福建とは南京のことですから(「福建乃南京也」)、南京に送還するべきです」とあり、どうやらこの福建で作られた銭を「南京」と呼んでいたようです。

『籌海図編』によると「福建私新銭」は「旧銭」の3.3分の1ほどの価格で取引されていたようで、悪銭に分類されるような銭であったようです。

福建銭(南京)について貴重な記録を残してくれているのが1596年に書かれたオランダのハウトマン艦隊の日誌で、これには、「カイシィ…と名付けられた小銭…は、中国の福建で鉛に銅を混ぜた低質の金属から作られた。…純粋な銅のチエン(銭。精銭か)…は15カイシィに値する。カイシィは強く落とすと割れる。一晩塩水につけておくと錆でくっついてしまう」とあり、かなり劣悪なものであったことがわかります💦(また、ハウトマン艦隊の日誌にはカイシィのスケッチもあり、そこには「咸平元宝」とあるので、北宋銭を模造したものであったようである)。

中国の記録にも次のような物があります。

・『燕聞録』…中国では正徳年間(1506~21年)には3枚で1文、4枚で1文の質が悪い新銭が現れ始め、嘉靖年間(1522~66年)になると10枚で1文というひどい銭が出現した。この銭は、ほぼ鉛で、紙のように薄っぺらい銭であった。

・『碧里雑存』…1517年の北京では人々は「板児」(薄っぺらい銭)と呼ばれる「低悪之銭」を用いて、2枚で1文として使っていた。

・『明実録』嘉靖15年(1536年)…当時の偽造銭は触れれば崩れ、文字は何が書いてあるかはっきりしないまでに極まっていたようです。おそらくこのような銭が「南京」と呼ばれる銭の正体であったのではないでしょうか。

嘉靖年間に登場した、このような銭が日本で「南京」と呼ばれるようなものだったのでしょう。

『日本一鑑』『朝鮮王朝実録』によると、1530~1540年代に福建人が日本に多く渡航するようになった、とあります。この際に日本に「南京」が多くもたらされたのでしょう。

黒田明伸氏「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」には、日本で「なんきん」「きんせん」と呼ばれた福建の悪質銭は1540年頃から流入し、日本の撰銭問題に拍車をかけていた、とあります。

ただし、「きんせん」と読む「今銭」「京銭」は、1504年九条領撰銭令・1506年撰銭令に登場しているので、「京銭」が「南京」であれば1500年代初めには早くも日本に入ってきていたことになります。

中国の1456年の上奏には蘇松(江蘇省)で私鋳銭が作られ、それは大きさが不揃いで、錫や鉄が混じっている、とあり、1477年の上奏によると、このような悪質な私鋳銭の生産地はさらに杭州(浙江省)・臨清(山東省)に広がっていたことがわかります。1500年代初めに入ってきていた「京銭」というのはこれらの場所で作られた銭だったのではないでしょうか。

さて、日本の「南京」については、甲斐の『勝山記(妙法寺記)』には「此の年(1555年)銭に南金と云銭出き候て、代をえる事無限」とあり、弘治年間には東日本まで使用が広まっていたようです。

さて、この質の悪い「南京」(京銭?)ですが、これまで出された撰銭令を見ると、1542年の幕府撰銭令では排除対象になっていたのですが、次の幕府撰銭令である(三好氏が出したとされる)1566年幕府撰銭令では排除対象になっていません。一方で1566年幕府撰銭令は「新銭」を排除対象としています。

この「新銭」とはなんなのか?

鈴木公雄氏は「出土銭貨から見た中・近世移行期の銭貨動態」で、模鋳された日本製の明らかに新銭とわかる銭貨を指して、「新銭」とか「日本新鋳料足」と呼んだのであろう、と述べていますが、先に述べたように品質の高いものならいざ知らず、排除されるような状態の悪い銭が日本製か中国製か、区別がついたとは思えません。ではひっくるめて「新銭」と呼んだのかと思いきや、先に紹介した1559年の周防国の記録では「南京」と「新銭」が別々に登場しているため、「南京」と「新銭」が同じ銭ではなかったことがわかります。では「新銭」は何なのかといえば、日本で作られたとはっきりわかる銭、「打平」などと呼ばれた無文銭のことだったのではないでしょうか。代々出された撰銭令を見ると、排除対象に「打平」が書かれている場合は「新銭」が無く、「新銭」が書かれている場合は「打平」がありません。このことからも、「新銭」=「打平」(無文銭)説を裏付けることができます。

さて、この「新銭」「打平」ですが、1565年東福寺撰銭令・1566年幕府(三好氏)撰銭令では「新銭」が、1566年浅井氏撰銭令では「打平」が、それぞれ排除対象となっています。

しかし、信長はこれを排除対象としませんでした。それどころか、排除対象とする銭を定めず、全ての銭を使用可能にするように命じています。

ここから、信長が畿内で初めて「増銭」を公認した理由もわかってきますね。状態の良さに関わらず全ての銭を同価値でOKとしたら、市場で混乱が起きるのは必至だからです。

しかし疑問なのは、信長がなぜ全ての銭の使用を許可したのか?ということです。

それには当時の切迫した銭事情が関係していたのです…!

●銭払いから米(現物)払いに変化したナゾ

日本は奈良時代まで現物払い(物々交換)が主で、皇朝十二銭が作られてからは銭払いに進みました(使われていたのは畿内が中心であるとは思いますが)。それから貨幣政策の失敗により11世紀に現物払いに戻りましたが、渡来銭の流入により13世紀後半には貨幣経済が再び進展するようになっていっていました。

物々交換から貨幣経済に移行するというのは自然な流れです。

アダム・スミスは『国富論』で次のように言っています。

「ある人がある商品を自分で必要とする以上にもっているのに、他の人はそれをもっていない、と仮定しよう。すると前者は、この余剰物の一部をよろこんで手放すだろうし、後者もそれをよろこんで購買するだろう。ところがもしこの後者が、前者が必要とするものをたまたまなにももっていないなら、かれらのあいだにはどんな交換も行われるはずがない。…このような事態の不便を避けるために、社会のあらゆる世事にたけた人たちは、…おのずから事態を次のようなやり方で処理しようとつとめたにちがいない。すなわち、…ほとんどの人がかれらの勤労の生産物と交換するのを拒否しないだろうと考えられるような、なんらか特定の商品の一定量を、いつも手元にもっているというやり方である」(中公文庫版・大河内一男訳)

ある商品を欲しいと思っていても、買い手の持ってきた物品が売り手の欲しいものでない時、それを手に入れることができない…これが物々交換の不便な点です。そこで、みんなが価値がある(欲しがる)と思うようなものを貨幣として利用する事になります。

日本だと米や布であり、朝鮮半島でも長く布が物品貨幣として用いられてきました。しかし、物品貨幣は金属貨幣にとってかわられることになります。その理由について、アダム・スミスは次のように述べています。

「…どこの国においても人々は、反対しようのない理由から、貨幣として用いるために、他のあらゆる商品に勝るものとして最終的に金属類を選ぶことにきめたように思われる。金属類ほどもちのよいものは他にないのであって、金属は他のどんな商品にくらべても保存による損耗が少ないばかりか、なんの損失もなしに任意の数の部分に分割できるし、またこの分割部分は、損耗なしに鎔解によってふたたび容易にひとつにするこる。この性質こそ、同じように耐久性のある他のどんな商品にもないものであり、そしてこの性質が、他のどんな性質にも勝って、金属類を商業と流通の用具に適するものにしているのである

三上隆三氏は『貨幣の誕生』で、金属貨幣の優れた点を次のように挙げています。

①どの部分をとっても同じ質を持つ(品質の均一性)

②容量に比して価値が大きい(持ち運びに便利)

③時間・空間を貫いて価値が保全・維持される(摩滅[へら]ない・腐敗[くさら]ない・破損[つぶれ]ない・燃亡[もえ]ない

④量的に分割でき、そしてその分割したものが再び元の状態に合成できる

米だと重いですし、くさりますし、燃えたらなくなります。しかも食料需要を圧迫します。布は軽く、6~8年ほど長持ちするんですが、燃えたらなくなりますし、偽造しやすいというデメリットがあります。

その点、金属貨幣は貨幣に求められている点を高レベルにクリアしているといえます。繰り返し使われていると摩滅や損耗は避けられませんが(造幣局のホームページには「おおよそ30年ぐらい使われると、摩耗したり汚れが目立つようになります」とある)、こだわらなければかなり長く使うことができます。

以上のように、物の取引というのは、物々交換から貨幣経済、貨幣経済の中でも物品貨幣から金属貨幣へと移っていくものなのですが、16世紀の日本では不思議な変化が起こりました。

浦長瀬隆氏『中近世日本貨幣流通史』によると、各地の取引手段は次のように変化しました。

奈良:1568年まではほぼ銭であったが、1569~1586年には米の使用が77%となる。主に高額取引で米が使用された。

奈良以外の大和国:1570年までは銭の使用が見られるが、その後は米のみ。

京都:1570年までは銭が67%を占めていたが、その後は米が90%以上になる。

近江国:1568年まではほぼ銭であったが、その後は米。

河内国:1570年代以後は米が中心となる。

和泉国:1551~1560年は銭の使用は約90%以上あったが、1561~1570年になると68%、1571~1580年になると41%に減少する。

丹波国:1573年以後は米が主。

播磨国:1570年以後は米が主。

若狭国小浜:1573年以後は米が主。

美濃国:1560年代から米の使用が始まり、1580年代から米が主に。

越前国:1580年代から米の使用が始まり、1590年代から米が主に。

伊勢国:1570年までは銭が主であったが、1571~1580年は金・米の使用が主になる(金・米の使用はほぼ同数)。

西日本:1560年代後半から1570年代はじめにかけて、銭による支払いから米による支払いに変化。

『多聞院日記』にはところどころ何々を購入した、という記事があるのですが、それには次のようにあります(一部)。

永禄10年(1567年)

1月17日 ソトハノ代 10疋 ユエン5丁 100文

2月25日 ユエン600文ノ代米7斗

5月4日 ソメチン 200文

5月6日 脇差 2貫330文

6月3日 米1石 737文

9月3日 油1升 60文

9月9日 草履 70文

10月4日 ススノ代 180文

11月9日 干菜 50文

11月23日 菜ナヘ 60文 クイヌキ 23文 たく天 250文

12月19日 天川ススシノ装束 170文の代米2斗4升

12月26日 餅米5斗 419文

永禄11年(1568年)

1月22日 酒代 450文 油煙代 170文

2月29日 茶1斤半 50文

3月15日 米代 230文

5月27日 竹1本 8文 破木2束 8文

6月1日 ツリノカヤ1帖半 120文

6月28日 フセハシリ 15文

7月8日 布5丈5尺 250文

7月15日 染賃 150文

11月23日 「カマ」1丁 20文

永禄12年(1569年)

2月26日 塩1石 1石2斗

3月8日 朱1包 3文

3月9日 炭1荷、「クノキ」1荷を買ったとあるが、それぞれ「36文、米6升」「42文、米7升」と併記されており、銭・米どちらで買ったか不明。

3月21日 備前より年貢が送られてきたが、銭ではなく米1石5斗であった。

3月29日 油1升80文、代米1斗

閏5月7日 灯明油 12文

閏5月23日 塩1石5升:7斗・布長尺(金1尺)、7尺7分、二丈二尺:5斗4升、これは銭だと335文であった、とある。

6月29日 油5合 40文

9月8日 衣帯2筋:値段150文だったのを、3斗で購入・草履1足:値段50文だったのを、9升で購入。

10月29日 「ウラ絹」 700文

11月26日 小袖を染色 600文

こうしてみると、永禄12年(1569年)になって米を銭の代わりに使用している回数が増えていることがわかりますね。

1573年の観心寺文書には、近年、「都鄙一円」(国全体)で「料足」(銭)によるやり取りが無くなっている、と書かれています。

また、交換手段だけではなく、税の納め方も変化したようで、この観心寺文書にはこれまで1貫文を納めるように言っていたのが、米6斗を納めるようにと変更を伝えており、これに先んじて元亀元年(1570年)12月の京都妙心寺の文書には以後は米で納めるように荘園に命じている内容が記されています。

他にも、北条氏は1564年頃には段銭について米の代納を認め、1568年に棟別銭の支払いについても、もし「精銭」が「手詰」なようであれば、米や金で代納しても良い、と伝えています。

織田・幕府に関する事だと、永禄12年(1569年)4月2日には丹波国佐伯南北庄をめぐるトラブルがあったものの、木下秀吉が間に入って佐伯南北庄は80石納めることに決着したのですが、税について米の単位である「石」を用いており、米で納めさせていたことがわかります。

4月10日には、幕府の飯尾貞遙・諏訪俊郷が、山城賀茂荘に対し、毎年400石を納めるように伝え、14日には、明智光秀・木下秀吉も同様の内容を山城賀茂荘に伝えています。

税に関連して、この時期には、土地の収穫高の表し方も変化しています。

信長は、永禄8年(1565年)11月3日に、坪内惣兵衛・坪内玄蕃允・坪内喜太郎に美濃国内の土地687貫文を与え、永禄9年(1566年)12月には浅井四郎左衛門に対し7貫200文の土地を安堵、永禄10年(1567年)11月には坂井利貞に美濃国内の20貫文の土地を安堵、矢野弥右衛門尉に美濃国内に20貫文の土地を安堵、兼松正吉に美濃国内の土地10貫文を安堵、永禄11年(1568年)7月には深尾二郎兵衛に300貫800文の土地を与えています。

収穫高は全て銭で表されています。これを貫高というのですね。

様子が変わるのは永禄11年(1568年)の12月16日で、織田信長は沢与助に対し近江国内の土地に関して「米方」64石分と「小物成」(年貢以外の雑税)12貫文分を与えています。ここで米の単位である「石」が登場しています。

『言継卿記』7月6日条には、朝山日乗が織田信長から伊勢国において1000石の土地を得た、とあります。

11月6日には、織田信長が津田一安に3510石の土地を与えています。

このように、永禄12年(1569年)になると土地の収穫高が米によって表されていることがわかります。これを「石高」といいます。

先に貫高であったのは税を銭で得ていたので、その方がわかりやすかったからです。それが石高に変化したのは、税を米で得るようになったからです。

中学や高校で「貫高」「石高」を習って何の気にも留めていなかったのですが、思えば税が銭から米に変化したというのは不思議なことです。なんで学校の先生はこれについて考えさせてくれなかったんでしょう。

以上のように、16世紀の日本では取引手段や納税方法が金属貨幣から物品貨幣へと変化するという、経済の基本原則に逆行するような現象が起きていました。

黒田明伸氏は、「16・17世紀環シナ海経済と銭貨流通」で「歴史は非常識に満ちている。例えば「実物経済」から「貨幣常経済」へと社会の分業は発展するということが常識であるとするならば、16世紀末の日本が銭を規準とする収租方式である貫高制から米を規準とする石高制へ移行したことなど、およそ常識に逆らう事例であろう」と述べています。いったいなぜこのような変化が起きたのでしょうか…⁉

●東アジア情勢の変化に伴う銭事情の悪化

(中略)

【浅井氏の撰銭令】

一、ワれ・うちひらめ(文字のなき)、この2銭以外、撰銭をして排除しようとする者は重罰に処する。

一、他国商人が取引の際に撰銭をし、「清銭」(精銭)を送ることを禁止する。

一、この法令が出されたからといって値段を高くして売ってはならない。

一、馬借で米を売り惜しみ、値段を吊り上げようとする者がいれば、その者は馬借職を永代に渡って停止する。

【幕府(三好氏)撰銭令】

一、洪武・宣徳通宝、新銭、「ゑみやう」(恵明?)、「われ錢」、「かけ錢」(少し欠けている程度なら受け取るべし)、これらは撰銭して排除してもよいが、残りは受け取ること。

一、悪銭であれば取引はしないなどと言ってはいけない。

一、撰銭令にかこつけて、値段を吊り上げてはいけない。

以上の内容に違反した者は、身分の上下を問わず、罰金10貫文とする。撰銭対象ではない銭を撰銭しようとしている者がいることを報告した者には、褒美として5貫文を与える。…

この2つの撰銭令に共通している点は、「銭不足なのだから、複数枚で精銭1文と同価値とする「増銭」をせず、排除対象に指定した銭以外は等価値で、かつ、支払いの際にどの銭であっても上限なく使用できるようにすること」というものです。

このやり方について、大田由紀夫氏は『銭躍る東シナ海』で「銭遣いを維持しようとすれば、最劣悪銭以外の多様な流通銭をみな等価通用する方向した選択肢はなかっただろう。それゆえ、浅井氏撰銭令は必ずしも現実を無視した乱暴な法令ではなく、むしろ当時の銭貨流通の状況を踏まえた現実的な解決策であった」と評価しますが、実際は、浦長瀬隆氏が『中近世日本貨幣流通史』で述べているように、「流通界では、悪銭の受け取りを拒否したり、悪銭に対しては増銭をしていたのであるから、悪銭が善銭と同価値で通用することを受け入れることは困難」なことでした。

浅井氏撰銭令には、「最近きまりを定めたのにかかわらず、何かと理由をつけて、撰銭をしている者がいる」とあり、確認はされていませんが、この法令以前に撰銭令が出されており、それが守られていなかったことがわかり、また、幕府(三好氏)は、この撰銭令を出した後、9か月後に、「撰銭の事を先に高札を立てて知らせたが、何かにつけ、きまりに背きがちであるという。全くもって曲事である」と再度高札を立てていることから、人々が撰銭令の内容を守らなかったことが確認できます。

さて、信長撰銭令ですが、信長はこれらの撰銭令の失敗をふまえて、銭不足にどのように対応しようとしたのかといえば、「銭不足なのだから、どのような銭であっても受け取るように。ただし、「増銭」は認めるし、「増銭」を取引で使用できる上限も50%とする」というものでした。信長らしからぬ、商人に配慮した、だいぶ現実的な内容であることがわかりますね😕

また、特筆すべきは金・銀を高額貨幣として使用を許可していることですね。これにより希少化し高額貨幣化していた精銭の不足を補うことが可能になります。

撰銭令を出した時点では信長は金山も銀山も有していなかったのですが、『信長公記』には信長が4月頃に実施した「名物狩り」について、「信長、金銀・米銭御不足これなき間…」とあって、信長が金銀を大量に保有していたことがわかります。他国から流入していたのでしょう。中島圭一氏「京都における『銀貨』の成立」によると、石見銀山を手に入れた毛利氏が朝廷・幕府へ寄進したことをきっかけに1564年頃から京都で銀が流通し始めたようです。

本多博之氏は『天下統一とシルバーラッシュ』で、信長撰銭令の目的について、「織田政権としては、流通する銭貨の間に価値の差があることをまず認め、「精銭」を基準に比価を設定することで、それまで取引現場から排除されていた多くの銭貨を呼び戻し、商取引の安定化をはかったものと思われる。…信長の追加令は新たに市場に参入した金銀の(高額)通貨としての使用を公認し、その価格(価値)を「精銭」(善銭)を基準に公定することで、銭貨だけでなく金・銀を含めた新たな通貨体系を作り上げ、円滑な商取引がおこなわれるよう通貨環境を整備するものであった。…信長は永禄12年 2月末〜3月半ばの通貨法令によって、米を通貨として使用する必要性を無くそうとしたものと思われる」と記しています。

撰銭令は米を通貨として使用させないために出された、というのですね😕

米の通貨利用が永禄12年頃から広まった、ということは先に述べましたが、これは慢性的な銭不足に加え、1550年代頃から中国から粗製乱造された銅銭が流入したことによる銅銭に対する信用の低下(価値の暴落)と、1564年以後、中国との密貿易が大幅に減少したことで精銭(信用のある通貨)不足が深刻化したために、銭では取引に支障をきたすようになった(撰銭が複雑化しすぎて取引がスムーズにいかなくなった)ので、その代替品として米が選ばれたことによるものでした。

畿内、特に京都での精銭信仰はすさまじいものがあり、

・『言継卿記』天文元年(1532年)2月12日条には、山科言継が、長橋局(朝廷)から預かった銭のうち、2貫700文を井上氏に渡したところ、悪銭があるとして受け取りを担否され、言継が交渉してなんとか1貫文排除の排除だけで済ませた、とある。

・『鹿苑日録』天文9年(1540年)11月17日条には、相国寺護国廟(八幡神社)から送られてきた銭のうち、2貫150文が悪銭で、これを精銭で送り返すように命じたところ、やって来た銭のうち850文がまたしても悪銭であったので、悪銭を除いた1貫300文だけ受け取った、とある。

・『鹿苑日録』天文13年(1544年)12月11日条には、公文銭(幕府に納入した礼銭)3貫文について、悪銭を排除して、2貫427文を受け取った、とある。

…などの記録が残っています。銭不足なのに、その中で入ってくる銭は悪銭ばかりで精銭不足だというのに、あくまでも精銭にこだわったのです。

精銭では商売が成り立たないことをさとった畿内の人々は、悪銭の使用を広く認めるのではなく、米を精銭の代替品として使用する道を選んだのです。

本多博之氏『天下統一とシルバーラッシュ』はこの動きについて、「銭の信用低下は逆に米の信用を高め、その結果、米での商取引や通貨としての利用は一層活発となった」と述べています。

数あるものの中で米が取引手段として選ばれたことについて、浦長瀬隆氏は『中近世日本貨幣流通史』で「①誰もが手にいれやすい②数えやすい③価値が安定している④持ち運びに便利である」ことを理由として挙げています。

人々は通貨として米を使うことを選んだのですが、信長は撰銭令を出してこれを禁止しようとしました。信長はなぜ、米の通貨使用を認めようとはしなかったのでしょうか?

実は信長としては米を通貨として使用してほしくない事情がありました。

撰銭令を出した永禄12年(1569年)2月~3月というのは、本国寺の変の際、足利義昭救援のため各国から兵が救援のため集まってきたのを、帰さずにそのまま二条城築城に振り向け、さらには近国の農民たちも動員していた時期であり、食糧需要が非常に高まっていた時期でした(4月14日に一応完成し、義昭が二条城に入り、将兵は帰国が許された)。

4月8日には、下京丑寅組(京都の米市場を含む地域)が京都への米の移入を乞う書状を提出しています。これについて、高木久史氏は『日本中世貨幣史論』で、「交換手段として米の使用が普及したことで、京都に入ってくる米が減少し、食用米の需要を満たすことができなくなったからではないだろうか」と推測しています。

食糧問題を解決するためにも、さまざまな方策を立てて米の通貨としての使用を防ごうとした信長でしたが、

信長が精銭の代替品として提示した金・銀は、いかんせん米と違い「誰もが手に入れやすい」ものではなく、

精銭不足の対応のために増銭を認めたということについても、黒田明伸氏が『歴史のなかの貨幣』で、「何を精銭とし、何をそれ以外の、たとえば並銭とするかは、絶対的な基準によったわけではなく、現場の合意によった」と述べているように、地域ごとに何の銭を何枚で精銭1文扱いするというのはバラバラで、千枝大志氏『中近世伊勢神宮地域の貨幣と商業組織』によると、例えば伊勢大湊では銭は1:1.5:3:8:10の5段階に分かれたといいますから、信長撰銭令の4段階区分と異なっていたということになります。価値というのは量(野菜など)や信用の程度(株価など)によって日々変動するものであって、商人たちにとっては増銭の公定などたまったものではなかったでしょう。銭は種類によって偏在していたでしょうし、地域によって信用の度合いも違っていたでしょうから。

全ての銭の使用を許可した、ということも、現場にとっては困ったことであったでしょう。当然排除されるべき最底辺の銭でも、支払いの際に半分まで混ぜることができるようになるというのですから。

信長の撰銭令はうまくいかず『細川両家記』の永禄12年2月条に「一銭取渡の事雖被仰出候不相調、売買は米なり」(銭で商品の売買をするように申し渡したが、結局米で取引が行われた)とあるように、銭から米への転換の流れを押しとどめることはできませんでした。

いかに信長といえど、経済を統制することはできなかったのです。

ちなみに先に述べた「名物狩り」について、『信長公記』には「金銀・八木遣わし、召し置かれ…」とあり、「名物」を金銀と「米」(八木)を使って購入したことがわかります。

信長、米使って買ってます!!!

信長は敗北したのでした。

2024年5月20日月曜日

信長のプレゼント攻勢

 信長は将軍・足利義昭の為に二条城(旧二条城・二条古城・義昭二条城とも)を作りこれをプレゼントしましたが、朝廷に対しても、さまざまな物をプレゼントしたことが諸書の記録からわかります。

今回はこれについて見ていこうと思います!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●信長のプレゼント攻勢

『御湯殿上日記』は宮中で働く女官たちによって書き継がれてきた日記で、

内容は何と1477年から1826年までの長期にわたっています😕

今回は、その記述の中で、信長が朝廷に対しプレゼントを贈りまくっていたことがわかる部分を紹介しようと思います🔥

信長が本国寺の変を知って上洛したのが1月10日で、三毬打(左義長)を見学したのが1月19日でしたが、信長のプレゼント攻勢が始まったのが1月27日のことでした。

1月27日「のふなか かん しん上申」(雁)

28日「のふなか 山ふき一おりしん上申。みなみなへも御くはりあり」(山蕗)

29日「のふなか はくてう しん上申」(白鳥)

2月2日「のふなか くしら しん上申。おなしく ます 一おりしん上申。…みなみなへ御くはりあり」(鯨・鱒)

11日「のふなか くしらのうちの物と申物一おりしん上申」(鯨の内臓?)

18日「おたのたい(ん)正より くしかき 一折しん上申」(串柿)

27日「をたより うつら 4さほしん上申。みののとて。しやくのこもしとて見事のまいる」(鶉・鯉[女房言葉で「こ文字」])

3月16日「のふなかより大きなる たい しん上申。くしかき すすのほん(煤竹で作った盆?)にいり候てしん上申」(鯛・串柿)

18日「のふなかより 山ふき一おりしん上申よし」(山蕗)

4月13日「のふなかより さたうおけ20。かきのはこ1しん上申」(砂糖・柿[牡蠣?])

信長が京都から去ったのは4月21日ですから、京都にいた間、朝廷に対して断続的に贈り物を続けていたことがわかりますね。

また、『言継卿記』には、上記以外の贈り物もあった事が記されています。

2月6日 織田弾正忠が鮒を進上するので、これを汁物にして、臣下に分けられるという。近日中に「美物」(味の良いもの。ごちそう)が進上されるという。「奇特之至」である。御三間にて、晩飡の際にこれが与えられた。

2月28日 信長、朝廷に米100俵を進上したという。

3月16日 織田が朝廷に今朝串柿2盆、台物(大きな台の上に載せた料理)1つを進上した。

3月18日 朝廷から倉部(山科言継の子・言経)に鮒2つが与えられたが、これは織田が進上したものだという。

『御湯殿上日記』と被っているのは3月16日の記述ですね。串柿は2盆あったことがこれで確認できます。

これ等のプレゼント攻勢に対する褒章か、『言継卿記』3月2日条には次のような記述があります。

…万里小路大納言(惟房)・広橋右小弁兼勝(どちらも衣冠。正装)、信長のもとを訪れ、副将軍に任ずることを伝えるが、信長は返事をしなかったという。

朝廷は正式の使者を送り、副将軍に任ずることを伝えたのですが、信長は「御返事不申」、返答せず、ついにこれを受けなかった、というのですね。

副将軍については、以前に義昭も信長に打診したことがありましたが、信長はこれを受けていませんでした。今回の一件は、義昭が朝廷を通じてもう一度アタックしたものかもしれませんが、信長が副将軍に就くことはありませんでした。

副将軍を受けなかったことについて、今谷明氏は『信長と天皇』で、「信長にとって、副将軍への就任はなにを意味するか。それはすなわち、将軍義昭の下風に立たねばならないことを明示する。弾正忠からみれば、たしかに栄転には違いないが、副将軍の肩書きを称する以上、義昭への補佐はできても、陰で義昭を操り動かすことは困難となる。それならば、弾正忠のままでいたほうが都合がよい、と考えたに違いない」と記しています。

信長の珍しいところは官職にこだわらなかったことです。

幕府に対しては先に述べた副将軍だけでなく、守護職に就くこともありませんでしたし、

朝廷に対しては、天正3年(1575年)に至るまで上洛以前から名乗っていた弾正忠(正六位)で通し、天正6年(1578年)に右大臣(正二位)まで昇った後、あっさりとこれを辞め、以後官職につくことはありませんでした。

信長が何かに縛られるのを嫌がったのか、肩書きなんてバカらしいと思っていたのかは本人が言及していないので何とも言えませんが、

朝廷としては、信長がプレゼント攻勢をするのは官位などの見返りが欲しいのだろうと思っていたのに、官職や副将軍を受けなかったことはとても意外な事であったと思います。

信長のプレゼント攻勢の目的は何だったのでしょうか。単なる朝廷への尊崇の念の発露だったのか、ただ喜ばせたかっただけなのか…。

2024年5月18日土曜日

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の5ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の5ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月16日木曜日

軍人は政治に関わるべきではない~河合栄治郎『ファッシズム批判』

 朝ドラ『虎に翼』31話で帝大経済学部教授・落合洋三郎が登場しました。

その著書が「安寧秩序を妨害」する疑いがあると起訴された落合を、雲野六郎が弁護し、第一審を無罪判決に導く…というものでしたが、

この落合洋三郎のモデルとされる人物が、河合栄治郎なのですね(名前もかなり似ている)。

河合栄治郎は、1926年から東京帝国大学経済学部教授となっていますから、ドラマで肩書きと同じですし、起訴されるもととなった著書が6冊出てきましたが、書の書名は河合栄治郎が書いたものとほぼ同じでした。

今回は、この河合栄治郎が書き、発禁処分を受け、裁判の対象となった『ファッシズム批判』について見ていこうと思います🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●軍人の政治参加を痛烈に批判

河合栄治郎は『ファッシズム批判』を書いた理由について、「昨年(1933年)に帰朝してから、…2箇月病床に閉じ籠められている間に、日本の将来に就いて色々のことを考えさせられた」「日本がファッショ的に転回しつつあることは…悲しむべきことだと思われた」ためだ、と冒頭に書いています。

「ファッショ」とはファシズム、また、ファシズム的な傾向を示すことです。

ファシズムとは何でしょうか?

河合栄治郎は1938年の『ファッシズム論』にて次のように言っています。

「ファッシズムの特質として、我々は次の4点をあげることが出来る。即ち、

第一、国家主義をとること。

第二、独裁主義、即ち反議会主義をとること。

第三、反資本主義をとること。

第四、その負担者が中産階級なること。」

この中の国家主義・独裁主義について説明します。

①国家主義

「国家主義とは国家という全体を以て最高の価値あるものとする主義をいう。これと対立するものが個人主義である。…個人主義は個人を以て最大の価値あるもの、即ち価値の根源となし、個人以外のもの(例えば、国家でも)は個人の為の派生的なものとするに対し、国家主義は国家を価値の根源となし、国家以外のもの(例えば個人をも)は、国家の為の派生的なものとするのである。」

また、河合栄治郎は、『ファッシズム批判』で国家主義について次のようにも説明しています。

「国家主義とは、国家を以て第一義的に終局的に価値あるものとして、他の一切のものは之に従属し、国家の手段として役立った場合にのみ、その価値を認めるに過ぎない思想を云う

②独裁主義(反議会主義)

議会主義とは『ファッシズム批判』によると、「国民の意志を問い、その多数の意志によって政治を行うこと」ですが、独裁主義は、国民の意志を問うことなく、1人(もしくは一握りのグループ)の意志によって政治を行うことになります。

なぜ議会主義を無視しようとするのかというと、河合栄治郎は『ファッシズム論』でドイツの例を挙げて次のように説明しています。

「ドイツに於ては」「戦後重大なる政務山積している時に」「1918ー1933年の間に20余の内閣が更迭した」「これが議会政治に対する失望を起した」

議会政治に対する失望が独裁主義の台頭を生むというのですね。

では、日本ではなぜ議会政治に対する失望が生まれたのでしょうか。

河合栄治郎は『ファッシズム批判』で、当時の日本に次のような社会的不安があった、と説明しています。

富は少数の大資本家に集中されて、社会は之等少数者に左右せられ、⋯中産階級は⋯下層に没落しつつあり、新階級たるべき学窓の青年は就職難に苦しみ、労働者階級はその賃銀の低額なることと、その労働時間の長いことと、衣食住の消費生活の苦しいことと、何よりも解雇失業の普段の脅威に曝されている」

日本は1914~1918年の第一次世界大戦中は大戦景気に沸いていましたが、その後は戦後恐慌(1920年)、震災恐慌(1923年)、金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)とたてつづけに恐慌が発生し、国民は生活に苦しんでいました。

しかし「議会政治家は」「非常時状勢の根本的対策を示」すことができませんでした。

国民が議会政治家に代わる存在として期待したのが軍部でした。

軍部は閉塞的な状況を打開するために、1931年に満州事変を起こし、満州(中国北東部)を得ることに成功します。

その後、日本は「満州事変勃発以後最近1・2年間は、…社会的不安の声を減じたように見える。日満経済ブロックや軍需工業の繁栄や円為替安による輸出の増進や、多少のインフレ景気は、夫々何等かの湿(うるお)いを各階級に投じたに相違あるまい」という状況となったこともあり、軍部の台頭が進むことになりました。

しかし、当時の日本人の50%は農民でした(『ファッシズム批判』)が、好景気の恩恵は農村には及ばず、1935年10月に至っても、岩手県では欠食児童(昼食に弁当を持参できない児童)が5万人を超すか、と言われるような状況でした。

そこで、農村出身の軍人の中には、「革命独裁主義を真剣に唱えるものが出て来」るようになります。

革命独裁主義について、河合栄治郎は「少数の者が国民多数の意志如何を問わず、自己の是なりとする改革を強行せんとするもの」と説明しています。

具体的には、二・二六事件において、決起した軍人たちは「奸臣軍賊を斬除」(『決起趣意書』)…つまり、自分たちの意に沿わない大臣や軍の上層部の者などを殺害して、自分たちに都合の良い軍の人物による内閣を作ろうと考えていました。

これについて河合栄治郎は「その人の思想が何であり、その人の網領が何であるか少しも知られていない人物が、突如として現われて6千万の国民の運命を左右するかも知れない。而して国民は之に就いて一言も挿む余地ない立場に置かれている。誠に奇怪なる政治的状勢である」此の場合に於て国民の意志は唯無視され蹂躙されているのである「力を以て始まる政府は力を以て続」くことになる、つまり「強権」的で国民を「抑圧」する政治が行われることになる、と述べて国民の意志に基づかない革命主義に警鐘を鳴らします。

河合栄治郎はまた、革命主義の者たちが政権を取った場合にどのような抑圧が行われるかについて、次のように述べています。

「国内の思想を機械的に統一するために言論を圧迫し、能率を発揮するために多衆代表制度を無視する」「国家を批判することはありえず、国家の為すあらゆることは、そのまま承認し服従せざるを得なくなる」「領土の拡張や貿易の増加や軍隊の人数や軍艦の噸(トン)数のみが重要視されて、学問や芸術や宗教や之等の文化は軽視され」、「吾々各人は之が為に生き之が為に死し、之が手段として生き死ぬことによって吾々の存在価値が与えられる」ようになる…。

そしてその行きつくところは戦争だ、と河合栄治郎は言います。

「1932年ムソリニー(ムッソリーニ)は云った、「ファッシズムは平和主義の学説を排撃する…唯戦争のみが、一切の人間的精力を最高の緊張にまで引き上げ、それに突進する勇気ある人民に、高貴の印象を刻する」」。

すごい言葉ですね…💦

河合栄治郎が「国家主義は国家以上の価値を認めない。故に…国家を拘束するところの他国の利害、国際道徳、国際法等を認めないのである」と言うように、ファッシズムは自国を第一に考え「外国と対抗することを重要視」しますから、外国と対立します。外国との対立は外交で解決すればよいのですが、自国のことしか考えないので、これを戦争で解決しようとするのですね(現在のどこかの国と一緒ですね)。

そして戦争となると、「多数の生命と超巨額の財貨と夥しき生活の困苦を伴う。⋯戦時に国家は外国と交通のない卦鎖経済を甘んじねばならないから、在来の産業のあるものは倒壊し、市場は狭隘となって需要は減少し、巨額の軍事費を支弁するために税率は高められる。⋯中間階級はさらでだに抵抗能力の乏しいのに、此の負担を加えられて、其の没落が促さる。⋯物価騰貴となり、労働者の賃銀はたとえ増加したとしても、生活資料の高価によって実質的には低落する。のみならず戦時中は非常時の名の下に、彼等の労働条件改善は阻止されるだろうから、労働条件の向上は限界付けられる。」「予算の大部分は軍事費に投ぜられ.戦争と関係なき経費は延期される。」という最悪の状況をもたらすことになる…。

また、河合栄治郎は次のようにも予想しています。

日本を中心とする極東の戦争が仮定されるならば、その戦乱の広範囲なること、引続き諸国の渦中に捲き込まれる可能性の多いこと、その期間の長期に亙る危険性のあること、決定的の勝敗の困難なることに於て、我が国は歴史上空前の難関に逢着し、その惨害の著しき吾人をして疎然たらしめるものがある。

だから河合栄治郎は冒頭で述べたように、「日本がファッショ的に転回しつつあることは…悲しむべきことだと思」ったのです。

だから、河合栄治郎は日本がファシズムの国家にならないようにしなければならない、と考えます。

当時、ファシズムをめざす主体の勢力となっていたのは軍部でした。

そこで、河合栄治郎は「軍部が独自の対策を提げて自ら実行の衝に当たるとするならば、遺憾ながら反対せざるを得ない」と「軍部が政治の中心勢力となって、その政策を行なうことに反対」します。

『ファッシズム批判』にはその理由が次のように述べられています。

・軍人にとって軍事が専門であり、国民はこれを絶対に信頼している。しかし、この専門に精進すれば、社会的不安を検討しその対策を講ずる余裕はないはずである。余暇を以て為すには問題は余りに複雑だからである。もし軍部の中に社会問題の専門家があるとすれば、現在の軍部はかほどの過剰冗員を有するものと思ねばならない。

・軍人は軍事的立場に立って社会的不安を克服しようとするだろう。⋯その「解決に着手するならば、当然に生産力本位、能率本位に立つだろう。結局その被害者は弱者たる労働者階緑とならざるをえない。之こそが正に私の反対せんとする所なのである。軍的目的の為に力を総動員すれば、戦時経済、軍事経済となるが、臨時的なものであって、社会的不安の根本的解決にならない。社会不安は臨時非常に解決すべきものではなくて、永久的の解決を為さねばならない。

・軍人が政治にあたって失敗すれば、国民は軍人に不信を持つ。これは日本の国防の遺憾な結果となる。数年前軍人が不人気であったのは、軍人出身の藩閥政治家に対する反感が軍人全体に及んだもので、再び旧時の覆轍を踏まざらんことを祈る。

・私は軍部に毫も反感を持たず、祖国に対する熱情に尊教も感謝もするが、軍事の専門領域を固守されんことを切望する。

・もし軍部が欲する対策の政党がないと思うならば、自己の欲する新政党を樹立すべきである。⋯かかる新政党の出現は、世界観を持たざる既成政党と対立して、日本の政党史上に一転機を画するだろう。

・社会的不安の解決は武人ではなく、文人政治家によってなされるべきである。人々の公共へ奉仕するの路は、その各々の職分によって異ならねばなるまい。然し武人生を捨てるの覚悟を持つ時に於て、文人政治家亦一身を賭するの決意がなければならない。

…つまり、軍人は軍事に専念すべきである、軍人が政治を行なおうとすると軍人的思考に基づいて効率を重視した政治を行うことになるので、特に労働者が被害を受けることになる、政治に関わりたいならば、軍部が支持する者たちに新政党を作らせるか、軍人をやめて政治家となるべきである…というのですね。


2024年5月9日木曜日

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の3ページ目を更新!

  「歴史」「戦国・安土桃山時代」[マンガで読む!『信長公記』]のところにある、

「「天下奇観」と呼ばれた二条城築城~公方御構御普請の事」の3ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月7日火曜日

「帝人事件~戦前最大の疑獄事件」の2ページ目を更新!

 「歴史」「昭和時代」ところにある、

「帝人事件~戦前最大の疑獄事件」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2024年5月5日日曜日

帝人事件~戦前最大の疑獄事件

 朝ドラ「虎に翼」で主人公の父親が逮捕された共亜事件。

この元ネタとされているのが、1934年(昭和9年)に起こった帝人事件でした。

どのような事件であったのか、見ていこうと思います!🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


(続きは近日中に更新します)

●帝人(帝国人造絹糸)と台湾銀行

台湾は1894~1895年の日清戦争の後、日本領となっていましたが、

この台湾でとれる樟脳(クスノキからとれ、カンフルともいう。医薬品や香料の原料)や砂糖についての利権を獲得したのが鈴木商店で、

鈴木商店はその後急速に発展、鉄鋼やビールなどにも手を伸ばしていきましたが、

手を出したもののうちの1つが人造絹糸(略して人絹。レーヨンともいう)で、これは、薬品によって綿糸を絹糸に似たものに加工した製品でした。

人々はつややかな絹糸にあこがれを持っていましたが、高価で手を出せていませんでした。しかし、人絹は絹糸に比べて安価であったので、人絹は爆発的は人気を持つに至ります。

この人絹を扱う鈴木商店の子会社の「東工業」が山形県の米沢製糸場を買収して設立したのが米沢人造絹糸製造所で、これは第一次世界大戦下でヨーロッパから人絹の輸入がストップしていた間隙をぬって発展を遂げて、1918年に株式会社となり、社名は「帝国人造絹絲(略して帝人)」となります。

このようにして帝人は誕生したわけですが、その親会社の鈴木商店は第一次世界大戦終了後に大戦景気が終息して一気に経営が悪化していきます。

この鈴木商店と強い癒着関係にあったのが台湾銀行で、台湾銀行の貸出金額7億円のうち、なんと3億5千万は鈴木商店に貸し出されていました。

台湾銀行のみならず、銀行全体が苦境に陥ったのは1923年の関東大震災で、日本に大規模な被害が出ましたが、企業も大打撃を受けます。

なぜなら、企業は銀行から金を借りて、新たな設備投資を行なっていたのですが、これが大震災で破壊されてしまったので、借金返済が難しくなってしまったからです。

このため、銀行は企業に貸し出していた金の回収のめどが立たなくなり(いわゆる「焦げ付き」)、経営状態が悪化していきます。

その中で、1927年、若槻礼次郎内閣の大蔵大臣、片岡直治が国会において、実際は破綻していなかったのにかかわらず、「東京渡辺銀行が破綻いたしました」としゃべってしまったのがきっかけとなって、人々は銀行が危ない、倒産する前にお金を引き出さないと、と続々と銀行を訪れ、取り付け騒ぎが発生します。

銀行は預金を企業に貸し出して利益を得ているのですが、その貸したお金が大震災により返ってこない状態にある訳ですから、金庫には預金分のお金はなく、預金者に変えそうにも返せないわけです。

そのため、銀行は続々と倒産していくことになります(金融恐慌)。

この中で、台湾銀行は苦しむ鈴木商店に、返ってくる見込みのない追加の貸し出しを続けていましたが(倒産されると貸し出し総額の半分が返ってこなくなるため)、遂に見切りをつけることを決断し、3月26日、鈴木商店に対する貸し出しを停止することを発表します。

これを知った人々が台湾銀行から預金の回収を進めたため、台湾銀行は破綻の危機を迎えますが、台湾銀行が破綻することの危険性を知っていた政府は、なんと6億円もの資金を投入して、台湾銀行を救済しました。

一方で、自転車操業が不可能となった鈴木商店は4月5日に倒産しています。

これに伴い、帝人は独立企業となりましたが、鈴木商店と協力関係にあった台湾銀行は帝人の株を貸し出しの担保として大量に保有(40万株中22万株)していたため、帝人と台湾銀行の関係は残っていました。

独立した帝人を待っていたのは空前の「人絹ブーム」でした。

当時、日本円は円安が進んでおり、そのために輸出(主にアジア・アフリカ・オセアニア)が好調となったこともあり、人絹は売れに売れました。

昭和9年1月21日の時事新報には、「昨年は人絹万能時代を出現した。日本・倉敷・旭を初め増資または株式払い込みをして工場の大拡張をやる。三井の東洋レーヨンは株式を公開する。金を附けても貰い手のなかった町田徳之助君の東京人絹までが三、四割も儲かるようになる。新たに宮島君の日清レーヨンや岩崎清七君の国光レーヨン、さては金光庸夫君の日本人造羊毛をはじめ雨後の筍のように続出する。で、レーヨンでなければ夜も日も明けなくなった」とその「人絹黄金時代」の様子が書かれているのですが、これにあるように、絶好調な人絹関係の企業の株式は高騰していっていました。

帝人株は鈴木商店倒産(1927年)の頃は40円台をつけることもあったのが、1932年内には157円にまで上がっており、この株価はさらなる上昇が予想されていました。

こうなってくると、人々は帝人株が喉から手が出る程に欲しくなります。

先ほどの1月21日の時事新報には、「人絹事業中の玉ともいうべき帝国人絹株が台湾銀行の金庫の中で欠伸をしているのをなんで見逃そう。大小有象無象が手を替え品を替え、台銀島田頭取の処に参詣するに至ったのである」とその熱狂ぶりが記されています。

そしてこの帝人株をめぐって帝人事件が起こる事となるのです…!😥

●帝人事件のきっかけを作った「番町会を暴く」

1934年1月17日から、『時事新報』紙面上に「番町会を暴く」と題した連載が始まりました。

第1回は次の文章で始まっています。

「何が目覚しいといって、近頃番町会の暗躍位目覚しいものはない。寧ろ凄じいと云った方が良かろう。いや凄じいでもまだ足らぬ。全く戦慄に値するものがある。実際経済会社では、最近この一派の猛烈な暗躍に、非常な戦慄を感じているものが少くない。とりわけその一派の副総理格たる中嶋君が商工大臣になってから、この一派の暗躍は悪化した。実は中嶋君の商工大臣になったことそのことが既に此の一派の暗躍の結果だというが朝にいて中嶋君が大臣の名刺を振り廻し、野に物凄い面々が腕節を誘って、上下挟撃ちで経済界を掻廻すのである堪まったものではない。」

「番町会」なるグループが、経済界を牛耳って、やりたい放題をしている、というのですね😧

この「番町会」とは、どのようなグループなのでしょうか。

「番町会は今から12年前の、大正12年2月に旗揚げしたものである。酒と女には目がないが、我利亡者の多い財界には珍しい金に恬淡で、太っ腹の郷誠之助君を取巻く、少壮実業家連が、その太っ腹と親分肌を見込んで郷君とその弟分であり、秘書格である中嶋久万吉君を中心に、会員は互に精神的にも物質的にも助け合うという誓約を交し、別に会則などは設けなかったが堅い団結を作るに至ったものである。…そして毎月十四日の夜、全会員は麹町番町の郷君の邸に集まり、郷君、中嶋君から何か修養になる話を聞くということにして来たのである。…会の名を番町会というのは、こうして御大郷君の邸が番町に在って、その月々の修養会をそこで開くところから、いつとはなしに番町会というようになったのである。…会員数は初め9人であったものが、現在は11人となっている。…さてしからば専属役者たる番町会正会員11名の顔触れは如何、次に示す如く、中には真面目な人もあるが、大部分は相当風雲を起し兼ねまじい面々であり、その関係会社を見れば、如何に一派の手が各方面に延び、その職場が広いかに驚かされる。

河合良成君 (東京商工会議所議員、福徳生命専務、帝国火災、菊池電気軌道、日本ビルディング、中央毛糸紡績各取締役帝国人絹、留萌鉄道、東京湾汽船監査役)

永野護君(東京商工会議所議員、帝国人絹、大宮瓦斯、東京湾汽船、山叶、日本レール、東洋製油、東華生命各取締役、横浜取引所、南部鉄道各監査役、日本放送協会関東支部監事)

後藤圀彦君 (成田鉄道副社長、池上電気鉄道、京成電気軌道、京成乗合自動車各専務、王子環状乗合、王子電軌、北海道鉄道、京王電軌、渡良瀬水電、日本商事、大正生命各取締役、西武鉄道、玉川電気各監査役)

中野金次郎君 (東京商工会議所副会頭、国際通運、大日本自動車保険、大北火災海上、運送相互保証、門司合同運送、東京合同運送、横浜、京都、大阪、神戸各駅合同運送、郵船運輸各社長、上毛電気、朝鮮運送各取締役、日本空中電気鉄道監査役)

伊藤忠兵衛君 (伊藤忠商事、呉羽紡績、富山紡績各社長、三光紡績取締役)

金子喜代太君 (東京商工会議所議員、大阪石綿工業会長、浅野セメント、日本セメント各専務、浅野山倉製鋼、関東運輸、日之出汽船、富士製鋼、浅野スレート、浅野造船所、日本ヒューム鋼管、小倉築港、南部鉄道、日魯漁業、伏木板紙、三岐鉄道、浅野ブロック製造、青梅電気、五日市鉄道、信越木材、内外石油各取締役、関東水力電気、浅野物産、浅野石材工業各監査役)

春田茂躬君 (中日実業、大東京鉄道各専務、東亜土木企業、礼豊洋行各取締役、東洋塩業、大正電気各監査役)

渋沢正雄君 (昭和鋼管社長、富士製鋼社長、汽車会社、実用自動車、石川嶋造船、同自動車、同飛行場、秩父鉄道、大阪乗合、フラー建築、日本建築各取締役)

岩倉具光君 (合同運送専務、タクシー自動車、桜セメント、東亜石灰各取締役、阪急電車監査役)

正力松太郎君 (読売新聞社長)」

そうそうたる顔ぶれですね…💦

あの伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、あの読売新聞の正力松太郎、あの浅野財閥の中心企業である浅野セメントの専務である金子喜代太、そして、あの渋沢栄一の子の渋沢正雄、あの岩倉具視の孫の岩倉具光😧

さて、この番町会が、先にふれた、帝人株の取得に向けて動き出すのですね。

「番町会を暴く」によれば、まず、台湾銀行の帝人株は、愛国生命の原邦造のもとに渡る予定であったといいます。台湾銀行の島田頭取の考えとしては、原邦造は稀に見る人格者である、大量の帝人株を手にしても、帝人を自分の都合のいいようにしようとすることはしないだろう、というものであったそうです。

その後の経緯について、「番町会を暴く」に書かれていることを要約すると、次のようになります。

…しかしこれに待ったをかけたのが番町会のメンバーの河合良成で、島田に言う事を聞かせるために、台湾銀行の監督官庁である大蔵省に影響力を持つ、元大蔵大臣の三土忠造に動いてもらうことにした(河合と三土は遠縁でもあるという)。中島が三土に会った際、「台銀所有の帝人株を河合の手に渡すようにしたいが骨折ってくれないか」と言った。すると三土は「それは会えば私からも話するが正力君を頼んだが良かろう」と答えたので、話は「凄腕」の正力松太郎に回り、正力は黒田英雄大蔵次官を動かし、黒田が島田に話をするに至って、ついに台湾銀行は1933年5月にその保有する帝人株22万株のうち11万株を1株あたり125円(正しくは1円手数料を加えて126円)で手放すことになった。河合はこの11万株を根津嘉一郎(「鉄道王」と呼ばれる東武鉄道社長)、原邦造、中島久万吉と相談し、それぞれの関係筋に分割した(河合系は21500株、本人は500株にとどまる。根津系は23000株、原邦造は1万株。その他、伊藤忠兵衛が8300株など)。この帝人株は直後から急騰して、1株190円にまで至った。その差分は台湾銀行の損という事になる。台湾銀行は国家による貸し出しを受けているので、帝人株の処理はできる限り有利に処理して、返済に宛てなければならないはずであるのに、株価が暴騰すると思われていた情勢であったのにかかわらず、有利に処分できなかったのは、背任行為と言われても仕方がない。

また、時事新報の社長、武藤山治は1月18日に「本社は何故に番町会の問題を取り上げたか」で次のように言っています。

本社が此問題を捨て置き難きものと考えた主たる理由は、世間に問題にされている是等株式の売渡値段の当否にあるのではない吾々が此問題を最も重要視するのは、是等の株式は普通銀行の担保流れと違っている点である。台湾銀行は昭和2年の恐慌に際し何に依って救われたか、言うまでもなく我国民に6億円という多大の損失を負担せしむるに至った彼の特融法の御蔭である。して見れば台湾銀行の担保物は公有物とも見らるべきものである。即ち一円でも高く売上げて国庫の損失を軽めるべき義務あるは勿論、其処分方法に到っては極めて公明正大でなければならない。然るに台湾銀行の当事者は、之が処分に当って之を公売するの手段を採らず特融の監督取扱の責任者たる日本銀行の之を認可したるは如何なる理由に依るか、是れ第一に糺さねばならぬ点である。今回の如き問題の起るのも、元はと言えば台湾銀行が不透明なる売却手段を採った為めである。吾々は固より悪人を善人にする力は持たないが吾々の此問題を取上げたのは悪人に利用せらるる善人の反省を促し、斯の如き重要事件に対する世上の監視を要求する故である。今回の問題は単なる実業界に於ける通常一般の利慾問題でない。これを此儘にして置けば折角浄化されんとしつつある政界の腐敗をさえ再び誘発する危険がある。国家社会を思う正義公平の観念に富む人々は、何人と雖も我社の此挙を是なりとせらるることを信じて疑わない」

公売によらず、内々で帝人株のやり取りをしたのが問題だ、と言っているのですね。

まとめると、今回の事件の問題点は次の2つにしぼることができるでしょう。

①台湾銀行は国の貸し出しによって救われたのだから、少しでも高い価格で帝人株を売って、返済に充てるべきであったのに、そうしなかったこと。

②公有物ともいえる帝人株を公売の方法をとらず売却したこと。

まぁ、新聞を読んだ人々は、「一部の者たちが権力に物を言わせてうまい汁を吸った」ことに怒りを感じたと思うんですけどね。

さて、この「番町会を暴く」は、大きな波紋を呼び、一大騒動に発展していくことになります。



2月10日には、保守団体・国粋大衆党の執行委員長・蓮井継太郎が台湾銀行島田頭取・河合良成・永野護などを背任の嫌疑などで東京地方検事局に告発します。

告発の内容は次のものでした。

①該株を公売の方法によらざる点に関し、公売の結果は経営者の変更となり、経営方針の動揺を恐れたりと云っているが、売却後いくばくならずして同社の首脳部は根本的に変更された。

②該株が売却値以上に騰貴せるは最近のごとく弁解しているが、同株は既に昭和七年中に157円に達し、更に195円の市価を呼びたる事あり。それを株価が100円前後に低落せる頃より特に売買交渉を開始し、売却後に再び200円近くまで騰貴せる事実と対照するならば、125円の売値が台銀に不法の損害を与え、特定者を利せしむる不正の行為なる事が判然としている。

③帝人会社の総株40万株中22万株を台銀は所有し、大株主として同社経営の実権を掌握せり。故に台銀当局が該会社の良好なる収益状態より推知して、売却後に於いて株価が大騰貴を来たすべき事を予見し得ざりしはずなく、殊に売却に当って増資を約束し、親株195円子株プレミアム平均50円となりし事実に徴するも、125円が不法の安値たりし事は弁解の余地なし。

これを受けて、検事局は21日に事情聴取・証拠書類・証人などの提出を求めるために蓮井継太郎を検事局に呼びました。




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