社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 12月 2024

2024年12月30日月曜日

血戦、大河内城!~大河内国司退城の事

 阿坂城を攻略した信長は、続いて北畠氏の本丸である大河内城に迫ります。

岐阜を出陣してからわずか8日間という凄まじい進撃ぶりでした。

しかし信長は、ここで約40日間にわたる苦しい攻城戦を強いられることになるのです…!

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


●大河内城について

阿坂城を攻略することに成功した信長は、その後、

…他の城には目もくれず、国司父子(北畠具教・具房)が籠もる大河内城に攻め寄せた。

…と、『信長公記』に書かれています。

『伊勢国司記略』には、「阿坂より西の山際を通られ、勾(まがり)の辺をすぎて」大河内に向かったのだろう、とあって、この推測が正しければ、現在の三重県松阪市曲町のあたりを通っていった、ということになります。

曲町は船江城まで1.8㎞(徒歩で20分ほど)と、かなり近い場所にあり、船江城の者たちは織田軍が目の前を通過するのを黙って見ていられなかったようで、『勢州軍記』によると、次の出来事があったといいます。

…26日の夜に信長が先手を呼び戻した際に、船江の城兵は打って出て、小金塚で信長勢を追い散らし、首を少々得たという。これにより船江の者たちは名を挙げたという。27日夜、信長勢が大河内城に向けて進んでいたときに、船江勢は昨日の夜のように、小金塚でこれを遮ろうとした。信長の先手の兵は用心してこれを待ち受けていたので、船江勢は敗北した。不意を衝く時は利を得ることができるが、もう一度同じように不意を衝くことは難しい。この夜の出撃は不覚(油断して失敗すること)であった。山辺次郎右衛門尉が出撃を思いとどまらせようとしていたが、公門六郎衛門尉が昨日夜討ちの際に敵兵に出会えなかったことを後悔して強く夜討ちを提言したので、夜討ちをすることに決まったのだという。

「小金塚」というのは、現在の「黄金塚稲荷神社」周辺の事で、曲町からは1.7㎞ほど北西にあります。

アクティブすぎる船江勢ですが、『勢州軍記』によると、

…信長勢の東海船手衆が上陸しようとしたところを、船江の本田勢・曽原の天花寺勢が黒部においてこれを夜討ちしたという。

…とあり、別方面でも戦闘を繰り広げていたようです😅

ここで出てくる「東海船手衆」は、志摩国の九鬼水軍であると考えられます。

九鬼氏について、『勢州軍記』には、

…九鬼家は志摩の武士である。志摩の武士はほとんど北畠氏の支配下にあった。先祖の九鬼隆義は熊野から来て波切城を守った。法名は珍持(『寛政譜』では「椿寺」)と名乗った。その後は珍山(『寛政譜』では「椿山」)、大和守、山城守、宮内少輔と続いた。

…とその由緒が書かれています。拠点は志摩半島南部、英虞郡の波切にあったのですが、『寛政譜』によると、『勢州軍記』に「大和守」とある隆次が志摩半島北部の答志郡に進出して堅神村を支配下に置き、続いて『勢州軍記』に「山城守」と書かれている泰隆が同じく答志郡にある加茂郷(豊田祥三氏『九鬼義隆と九鬼水軍』に加茂「郡」とあるのは誤り)岩倉に進出して田城城を築いてここを居城としたそうなので、これが事実であるとすると波切城は支城になったわけですね😕

泰隆はまた、北畠氏の山田との戦いに協力したそうです。

『勢州軍記』は続いて、

…少輔の子の宮内大輔が早くして死ぬと、その子の弥五郎は幼少であったので、伯父の右馬允が波切・片田の城を守り、弥五郎を後見した。英虞郡の七人衆と呼ばれたのは、相(大)差・国府の三浦・甲賀の武田・波切の九鬼・和具の青山・越賀の佐治・浜島であったが、右馬允は七人衆の掟に背いたので孤立し、残る6人の攻撃を受けて波切城は陥落、船に乗って安濃津に逃れた。

…と記していますが、ここで出てくる「右馬允」があの九鬼嘉隆(1542~1600年)です。

『勢州軍記』には「英虞郡の七人衆」とありますが、豊田祥三氏は『九鬼義隆と九鬼水軍』で、これは志摩の七人衆の事で、また、七人衆のメンバーは浦氏で、九鬼氏は含まれていなかったとしています。

確かに、「英虞郡の七人衆」と言いながらも、相差(大差)は答志郡にありますからね(;^_^A

七人衆に九鬼氏が入っていない、というのは意外ですが、途中からやってきた新興勢力だったからでしょうか?一方で『志摩軍記』には志摩の国に地頭11人有り、と記されており、その中に九鬼氏が入っていますので、七人衆に準じる勢力ではあったようです。

『勢州軍記』には「右馬允は七人衆の掟に背いたので孤立し、残る6人の攻撃を受け」た、とありますが、『寛政譜』には、嘉隆の兄で九鬼6代目当主の浄隆(『勢州軍記』にいう「宮内大輔」)の時に既に七人衆の攻撃を受けていたとあります。

九鬼氏が七人衆の攻撃を受けたというのは、九鬼氏が英虞・答志の2郡に勢力を拡大しており、その威勢に七人衆が危機感を抱いたためでしょう。

『寛政譜』には七人衆は北畠氏に援兵を借りた、とありますが、永禄6年(1563年)に志摩に進攻したことが確認できる書状が残っているので、このことかもしれません。

兄の浄隆が死んだ後、幼少の兄の子、澄隆を支えることになったのが波切城主の九鬼嘉隆でしたが、七人衆に加え北畠氏まで敵に回した九鬼氏は衆寡敵せず敗北して没落しました。『勢州軍記』には嘉隆は安濃津に逃れた、とありますが、『寛政譜』では澄隆は伊勢神宮に近い朝熊山に逃れた、とあります。

その後の嘉隆について、『勢州軍記』には、

…安濃津にしばらく引き籠った後、尾張に渡り、滝川一益を頼って信長の家臣となった。永禄12年秋、信長が大河内城を攻めた際、「船手」(水軍)の大将となって志摩国に進んだ。

…とあります。織田家臣となった時期について、『寛政譜』には「織田右府京師に出張(『日葡辞書』によれば「戦争に出発すること」)のとき見参し、麾下に属す」とあり、これは「信長が京都に出陣した際にその配下となった」という意味であるので、『寛政譜』の記述が正しければ、家臣となったのは永禄11年(1568年)の上洛戦の時であった、ということになります。

家臣となった嘉隆は、その後織田氏の支援を得て、志摩国に復帰を果たし、志摩征圧に向けて活動していくことになります🔥

さて、織田軍が向かった大河内城ですが、この読み方は「おおこうち」ではないのですね。正しくは「おかわち」と読みます。自分はずっと「おおこうち」だと思っていました…😅

『多聞院日記』9月7日条には、

…本所(16世紀に入って興福寺東門院院主は北畠氏出身者が務めるようになっていた。当時は北畠具教の弟、具親が興福寺東門院院主であった。ここでいう「本所」のことは北畠具教のことであろう)は「オカツツチ」の城にいる。

…とあり、大河内を「オカツツチ」と書いていますが、これは誤りですね😓

聞き馴染みが無い城だったので、誤って伝え聞いた「オカツツチ」と書くしかなく、漢字を当てることもできなかったのでしょう。

この大河内城は、大河内村神社由緒調査書によると、応永10年(1403年)に北畠満雅が築かせたのに始まるそうです。

その後、「永禄年中(1558~1570年)、八代の国司具教卿は大いに修築を施し、国司家の居城と」しました(大河内村史蹟名勝誌』[昭和16])。

この城はどのような城だったのでしょうか。

『勢州軍記』には、

大河内城は七尾七谷にあり、南は大河内と言い、北は野津(現在は「矢」津)と言う。大木が茂り、大きな竹が生えている。追手(大手)門は北の広坂にある。搦手門は南の龍蔵庵坂にある。…東には大河内川があった。

…と書かれています。

「七尾七谷」というのは、尾根(山の一番高い部分の連なり)が7、谷が7ある…つまり、とても起伏が激しい場所にある、ということなのですが、大西源一氏は『古蹟』で、「七尾七谷ありて極めて険要の地の如く思はるれども其の実、要害は遥かに多気城に及ばず。七尾七谷といふも只丘陵のウネリに過ぎざるなり。而して伊勢名勝志の記するが如き懸崖躋(のぼ)り難きが如き所は多からざるが如し」とあり、そんなに険しい地形であるわけではない、と書かれていて、「所謂平山城に類する形状」であるとされています。

たしかに大河内城はもっとも高い所で約110mです。そこまで低くは無いようにも感じますが、山から降りた平坦地でも約60~70mあり、その差で考えると40~50mほどの山でしかありません。

信長が尾張に築いた小牧山城は86mですが、麓との差は約65mあり、小牧山城の方が高い城であると言えます。

先に紹介した『勢州軍記』に「東に大河内川があった」とありますが、これは現在の阪内川(坂内川)の事で、『伊勢名勝誌』には「坂内川南麓を巡り矢津川西北を流れ共に会してーとなり自ら濠塹(城の堀)の形をなす」とあります。

これを見ると堅固なように見えますが、本居宣長は『玉勝間』で「川水すくなく潮もささねば舟かよはず」と記し、『大河内村史蹟名勝誌』には「水量は豊ではない。此の川を一名笹川とも称する。「往年此の河畔は籔林の地にして川中に水少なき為年中笹の川の如くなるより名づく」(飯南郡史)」とあり、渡るのはさほど難しくない川であったようです(川の内側と外側では標高差が3mほどあるので、空堀のように利用していたのかもしれないが)。

ならば何が織田軍を阻んだのかと言えば、その1つは『勢州軍記』にも書かれている、「大木」「大竹」で、これは大西源一氏が「されど大竹、大木生ひ茂れるは事実」と言っているように、実際に大木・大竹が茂っており、そのため、『木造記』の言う「道見えず」、『伊勢兵乱記』の言う「人馬の駈引自由ならず」という悪路になったようです。

(1894年の地形図には、大河内城の北東部[大手広坂口と搦手龍藏庵口の間]に竹林の地図記号が書かれていた。現在の地形図では、大河内城北東部には広葉樹林の地図記号が書かれている。1982年の地形図ですでにそうなっている)

他に織田軍を阻んだのは、標高は高くないけれども、

西側は本丸方面に向かうのに、約40mほどの距離で標高が約25m上昇(傾斜角度は約32度)するという急傾斜があり、

南側は崎谷という谷になっており、両側が本丸と出丸に挟撃される場所で、

北西側は魔虫谷という谷になっており、両側が本丸と西の丸に挟撃される場所で、

北東側の大手にあたる広坂も谷の形状で、両側を櫓に挟まれる場所になっており、

『伊勢国司記略』には、攻めることができる場所が「一方のみ外郭へ通じ」ている、「無双の要害といふべき」城で、「織田殿七万の大軍にて五十日の間攻められたれど落城せざるも理り」である、と書かれています(この唯一攻めることのできる東側の搦手門も、上がろうとするとその側面に出丸があり、攻撃を受ける仕組みになっていた)。

以上のような、挟撃の容易な谷の多い地形が、織田軍を苦しめた最大の要因と言えます。

大西源一氏は『古蹟』で、「地の険ならざる割合には要害に富めり」と記していますが、これが大河内城についての的確な表現であると言えるでしょう。

さて、続いて城内の様子を見てみることにします。

『伊勢国司記略』の著者、斎藤拙堂(1797~1865年)は、実際に大河内城跡を登って、次のように書いています。

…城墟に登るに大河内川を渡り龍蔵菴阪を上れば、右の方に広く平なる所あり、今は畑と成れり。二の丸の跡なるべし。…

龍藏庵坂は『勢州軍記』に搦手門があったと書かれている場所ですね。

『大河内村史蹟名勝誌』は「昔、坂の中腹に龍蔵庵があったので名づくと云う」と記し、大西源一氏は「もと此の地に龍蔵庵なる一大伽監ありしによりて坂名に負はせたりとぞ。今大河内の村社に接して薬師堂あり。これ当年龍蔵庵の奥の院なりと云へり」と述べています。

二の丸周辺について、『大河内村史蹟名勝誌』は次のように詳述しています。

本丸の南方に二の丸があり、今、表忠碑を建つ。本丸と二の丸の間の凹地をお納戸といふ。西の丸、本丸、お納戸の西側を北方から入り込む溪谷を崎谷と云ひ、城地を截然(せつぜん。はっきりと区別していること)と断つて要害を保つている。崎谷に断たれた城地は二の丸から南方の出丸、秋葉山の丘陵に連亘してゐる。ニの丸の南方に搦手あり龍蔵庵坂といひ、その直下に蔵屋敷あり糧秣倉庫の跡といふ。二の丸から本丸の東及北に続く平地を馬場といふ。…馬場の東北に伸びる溪谷を廣阪と称し城の大手であり、市場の宿と相対してゐる。…

少しわかりづらいので、まとめると次のようになります。

・二の丸の西側、本丸との間のへこんでいるところを「お納戸」という(大西源一氏は「ヲナンドと字する地」は「国司の居れる所にして其の地、四方何れよりするも矢至らざる所と伝ふ」と書いていて、普段は国司が暮らす場所であったと書いている。「納戸」というのは本来物置部屋の事だが…)。

・二の丸の南側に「崎谷」があり、その向こう側に出丸がある。

・二の丸の東側の降りたところに「蔵屋敷」がある(大西源一氏は「クラヤシキなる地あり。往時城倉のありし所なるべし」と書いている)。糧秣倉庫の跡とありますが、城の外側にあるので、戦時に使用されていたのではないのでしょう。

・二の丸の東北に続く平地を「馬場」という。

また、『日本城郭大系』には、「二の丸とよばれる30m×35mの台状地がある」「一段と低い平坦地が広がり、馬場跡に比定されている」とあります。

さて、斎藤拙堂は二の丸に登った後のことについて次のように記しています。

「本丸はその左の端よりめぐりめぐりて阪を登ること二町許(ばかり)にて到れり」

本丸までの距離については、大西源一氏も「城址は坂内川の西岸にあり。和歌山街道より坂内川を渡ればやがて其の下に達す。之より路、坂にかゝり稻荷祠を過ぎ行くこと総て二・三町にして其の頂きに達す」と述べています。

1町は約109mなので、だいたい100mと考えればいいでしょう。

斎藤拙堂は二の丸から本丸までの距離、大西源一氏は龍蔵庵坂から本丸までの距離と違いはありますが、計測してみると、龍藏庵坂から本丸まではだいたい300m、二の丸から本丸は約100mになるので、斎藤拙堂は少し長く書いてしまったかな、と思います。

斎藤拙堂は続いて、本丸について次のように記します。

「山の巓(いただき。頂上)広さ一町四方ほどあり。東北は海を望みて眼界広し。西南は堀阪諸山折廻して立列なりて塞がりたり。土人八幡祠を草創して城墟に勧請す。祠の背は魔虫谷にて險組なること甚し」

本丸の広さについては、『大河内村史蹟名勝誌』は「約八畝步の平坦地」と書いています。

斎藤拙堂は100m×100m=10000㎡ほどだと言い、『大河内村史蹟名勝誌』は約800㎡だというのですね。かなりの違いがありますね😅

実際のところは、『日本城郭大系』によれば、60m×30m、1800㎡だそうで、両者ともに間違っています。

斎藤拙堂の記す「八幡祠」について、『大河内村史蹟名勝誌』は「北畠具教卿並に大河内家代々を祀る八幡社が在る」、大西源一氏は「頂上に一祠あり、北畠八幡と稱し、大河内城當時の創立にかゝれり。蓋(けだし)北畠氏が祖光の霊を祀る所なり。思ふに此の地本丸の遺跡なるべし」と書き、大河内城廃城跡に地元民が作ったとする斎藤拙堂・『大河内村史蹟名勝誌』と、北畠氏が作ったとする大西源一氏とで食い違いが見られます。

斎藤拙堂は最後に、「谷を隔て手の届くばかりの所に一ツの岡あり。これも七尾の一つなるべし。これを聞けば西ノ丸といへり。その昔は橋を掛て本丸へ通ひしならん」と、本丸から離れたところに西の丸があったと記しています。

方角については、『大河内村史蹟名勝誌』が本丸の西方に西の丸が聳(そび)える」と書いています。

斎藤拙堂は本丸と西の丸の間に谷があった、と記していますがこれは誤りで、実際は『大河内村史蹟名勝誌』が「人工濠は本丸西の丸間に一つ…ある」と記すように堀切です。地形図を見ても谷はそこまで続いていません。現在はここに小さな橋が架かって渡れるようになっています。

●織田軍、大河内城を包囲す

さて、織田軍と北畠氏の戦いに話を戻しましょう。

『勢州軍記』には、…西に養徳寺があったがこれは火矢で自ら焼いた。

…とあり、北畠氏は戦いの前に養徳寺を自ら焼いたようです。

大西源一氏は養徳寺について、「今矢津村に養徳寺あり。而も矢津は城北にして共の南といへるに合はず。矢津の養徳寺は大河内城当時のそれと位置を異にせるか。はた全く別物にして其の名の偶然一致せるものか。はた亦北畠物語の誤れるにや」と記していますが、養徳寺は城の北西にあたる松阪市矢津町にあり、別に誤ってはいません。

ただ、位置が以前と異なるというのは確かなようで、「大河内村 歴史探訪」には、「元は、矢津町の崎谷に応永10年[1403年]北畠満雅が建立したもので、北畠由緒のお寺であったが永禄12年[1569年]織田軍の大河内城攻めの時、敵兵の足場にされるのを恐れ、北畠具教自ら火を放って焼いたと伝えられる」とあり、元は崎谷に存在していたようです。

また、松阪市文化財センターが出している「はにわ通信H30 6月号(No.279)」には、

…「大河内城跡西側の谷部から丘陵部にかけて」「嵜谷遺跡」が存在し、「とくに、丘陵部に「養徳寺」という寺院があったとの伝承が地元に残っており、…昭和 61 年から 62 年にかけて」行われた「発掘調査により、これらの伝承や記述を裏付けるような遺物」が見つかった、それは、「法華経が書かれた「杮経」や「銅製花瓶」、「五輪塔」など」で、「五輪塔の中には、永正・永禄の年号を刻むものがあり、このことは大河内城とこの遺跡が同時期に存在していたことを示している」。「さらに、養徳寺という名称を想起させる遺物として「『養』と朱書きされた茶碗の一部」も見つかって」いる。

…と書かれています。

その後、大河内城付近に到着した織田信長は、『信長公記』によると、次の行動をとりました。

「信長懸廻し御覧じ」(信長は乗馬して走り回り、現地の状況を確認し)、東の山に(陣を置くことが適当だと判断して)陣を置いた。

自ら乗馬して現地の状況を確認した、というのは、六角攻めの時といっしょですね。

『信長公記』はこの「東の山」が何という山なのか書いてくれていないのですが、

『勢州軍記』には、「本陣は東方の桂瀬山にあった」とあります。

しかし、この「桂瀬山」は松阪市桂瀬町に広がる丘陵全体を指すものであり、具体的な場所を指すわけではないのですね😔

それでは信長は「桂瀬山」の中のどこに本陣を置いていたのでしょうか??

『伊勢名勝誌』には、

織田信長本陣址 桂瀬村字勝負谷・船後・山神谷ノ辺を云ふ森林相巡り 大河内城址卜相対す里人伝へ云ふ文(「永」の誤り)禄中大河内城の役 織田信長此に陣すと 又丹生寺村・立野村に陣址と称するものあり」

…と書かれていますが、勝負谷・船後・山神谷というのは「桂瀬山」周辺のことであり、これではよくわかりません。しかも、丹生寺・立野にも本陣跡と言われる場所がある、と書いていて、さらにややこしくなっています。

一方で『大河内村史蹟名勝誌』の「茶臼山」の項には次のように書かれています。

「桂瀬山の最高峯にして、標高122・9米(㍍)、丘陵の北方に著しく隆起して桂瀬と松尾村丹生寺、立野三大字の境界点にある。茶臼山と称するは即ち、頂上に築造された堤塁を指す。長方形にして南北約四十米基底部の幅約十米、高さ約6米の大なるものと、その東北部に此の約半分程の塁相並んで形跡歴然と存してゐる。大塁に登れば西南方遙かに桂瀬、寺井を隔てて大河内城の情勢を審かに望見し得べく、脚下に阪内川流れて八幡沖の平地を俯瞰する。眼を東方に転ずれば櫛田、雲出の沖積伊勢平原を展望し、伊勢海の白帆も指呼の裡にある。大河内谷の咽喉を扼し、内外の情勢を観望すべき屈強の要地である諸書に見る信長本陣地桂瀬山と称するは即ち此の茶白山である。此の山の西方直下に入り込む渓谷を勝負谷といふ」

茶臼山が本陣跡であると断定しているのですね😲

(文中には桂瀬山の最高峰122.9mとあるが、現在は採石場となって削られてしまい、消失してしまった。現在は茶臼山があった場所とは別の所にある、約118mが桂瀬山の最高地点)

その根拠は「信長腰掛石」があるからでしょうか。

「信長腰掛石」の項には次のようにあります。

「茶臼山の南方五百米、桂瀬山脊梁線に在る。即ち桂瀬から立野高田に越す細径の南方嶺上に当る。径一米半程の巨石があり、その下は堀穿ちて岩窟の如く見えている。此の石が信長が腰を掛けたと伝へるもので、明治以前迄は里人決して、注連縄を張って尊崇すといふ。信長が果して腰を掛けたか否か不明であるが、蓋し、古代立野氏族の古墳かと思われる。此の近辺の山に原型の認め得られる古墳は西方斜面に二三存在するから、或は是も其の石郭の露出したものでないかと思はれる。但し詳細は後考を待つ」

ちなみに茶臼山から大河内城まで約2.7㎞あり、けっこう遠い位置にあります。

この位置に本陣を布くかな?とも思いますが、

『勢州軍記』には、後でも紹介しますが、「丹生寺」に氏家卜全の陣があったと書かれています。

丹生寺は茶臼山のすぐ北西に存在する地名(『飯南郡史』によれば、地名のもとになった丹生寺は北畠氏の菩提寺であったが、永禄年間に兵火によって焼失したという)なので、茶臼山周辺に信長軍が存在していたことは(『勢州軍記』の記述が正しければ)確かです。

大河内城から少し離れた茶臼山に布陣したのは、おそらく、船江城などからの援軍を遮る形をとりたかったからでしょう。茶臼山・丹生寺に布陣すれば、大河内城に至るルートに栓をすることができます。

さて、とりあえず本陣跡はこの茶臼山であったとすることにしましょう。

(本陣跡と考えられる「標高122・9米」地点は、残念ながら現在は採石場となって半分近く崩されてしまっている)

『信長公記』には、本陣を定めた後の信長の行動について次のように記しています。

…この夜は城下の町を焼き払い、28日に城の周囲の状況を確認し、

南の山に★織田上野守(織田信包。伊勢長野氏の養子となり、上野城に置かれて南伊勢の押さえとなっていた)・滝川左近(伊勢の奉行に任じられていた)・★津田掃部 (織田忠寛。伊勢安濃城に置かれて南伊勢の押さえとなっていた)・★稲葉伊予(のちの一鉄)・★池田勝三郎(恒興)・★和田新介(もと織田信清の家老。信長との戦いの際に信長に寝返った)・★中島豊後(和田新助と同じく織田信清の家老であったが信長に寝返った)・★進藤山城(賢盛。六角氏の重臣であったが信長に寝返った)・★後藤喜三郎(高治。進藤と同じく六角氏の重臣であったが信長に寝返った)・★蒲生右兵衛大輔 (賢秀。氏郷の父。元六角家臣)・永原筑前(重康。正しくは越前守か。元六角家臣)・永田刑部少輔(景弘。元六角家臣)・青地駿河(茂綱。名字は「あおぢ」。蒲生賢秀の弟)・★山岡美作 (景隆。元六角家臣)・★山岡玉林 (景猶。斎号[法名とは別に付ける名前]玉林斎。景隆の弟)・★丹羽五郎左衛門(長秀)を、

(★が付いていない武将は、『信長記』の大河内城攻めの布陣の記述に載っていない武将。滝川左近は確かに、阿坂城にいるはずであるから、これは『信長記』が正しそうである)

(池田恒興は『勢州軍記』ではまずの大手の広坂口を攻撃しているのだが…)

西側に★木下藤吉郎・★氏家卜全・★伊賀伊賀守(安藤守就)・★飯沼勘平(長継。元斎藤家臣。小瀬甫庵によれば氏家卜全の与力)・★佐久間右衛門(信盛)・★市橋九郎右衛門 (長利。元斎藤家臣)・★塚本小大膳(史料によって出身が尾張、美濃に分かれる。同じく西側に布陣していた諸将が美濃衆なので、彼も美濃出身だったのではあるまいか)、

(これは『信長公記』『信長記』ともに布陣メンバーは同じ[書かれている順番は佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・氏家左京亮・飯沼勘平・市橋九郎右衛門 ・塚本小大膳・伊賀伊賀守と異なる。また、『信長記』には飯沼勘平以下は「与力」であると書かれている)

(氏家卜全は『勢州軍記』によれば北東の丹生寺にいたはずだが…)

北側には、★斎藤新五(利治。道三の子)・★坂井右近(政尚)・★蜂屋伯耆(頼隆)・★築田弥次右衛門(以前に登場)・★中条将監(家忠。信長の馬廻)・★磯野丹波(員昌。浅井家臣)・中条又兵衛(家忠の一条か) 、

東側に、★柴田修理(勝家)・★森三左衛門(可成)・★山田三左衛門(勝盛。信長の馬廻)・★長谷川与次(信長の馬廻)・★佐々内蔵介(成政)・佐々隼人(成政の兄、隼人正の子か)・★梶原平次郎(景久。尾張羽黒城主という)・★不破河内(光治。元斎藤家臣)・★丸毛兵庫頭(長照。光兼とも。元斎藤家臣) ・★丹羽源六(尾張岩崎城主)・★不破彦三(直光。光治の子)・★丸毛三郎兵衛(兼利。長照の子)を配置した。

(『総見記』には「東」と書かず、「寄手先陣」と書かれている。確かに、東側は比較的攻撃しやすい搦手門がある方向である)

そして城の周囲を鹿垣で二重三重に取り囲み、内部への通路を遮断した。

また、柵際の見回り役として、★菅屋九右衛門 (長頼)・塙九郎左衛門 (直政)・前田又左衛門(利家)・ 福富平左衛門 (秀勝。名字は「ふくずみ」。信長の馬廻。赤母衣衆の1人)・★中川八郎右衛門(重政)・★木下雅楽介(中川重政の弟。信長の馬廻。赤母衣衆の1人)・★松岡九郎二郎(信長の馬廻。黒母衣衆の1人)・★生駒平左衛門(信長の馬廻)・★河尻与兵衛(秀隆)・ ★湯淺甚介(直宗。信長の馬廻)・★村井新四郎(信長の馬廻。貞勝の一族か)・★中川金右衛門(信長の馬廻)・★佐久間弥太郎(信盛の伯父?信長の馬廻)・★毛利新介(あの今川義元を討ち取った男ですな)・★毛利河内(長秀。斯波義統の子という)・★生駒勝介(親正の従兄弟。『信長記』では「庄」介)・★神戸賀介(信長の馬廻。『信長記』では「加之」介)・★荒川新八(柴田勝家の福谷城攻めの時に共に戦っている)・★猪子賀介(小瀬甫庵によれば犬山織田家の家臣であった。こちらも『信長記』では「加之」介)・ ★野々村主水(美濃出身の武士)・★山田弥太郎(信長の馬廻)・★滝川彦右衛門(信長の近習)・山田左衛門尉(信長の馬廻)・佐脇藤八(前田利家の弟)が任じられた。

信長本陣の警固は、馬廻・小姓・弓衆・鉄砲衆が命じられた。…

信長軍は大河内城の四方を囲んだわけですが、具体的にどのあたりに布陣していたのかはわかりません。

南側だけ「南の山」と記しているので、南以外は平坦部に布陣していたものでしょうか。

それにしても気になるのが、『勢州軍記』の記述との齟齬です。

『勢州軍記』では氏家卜全は北東にいるのに、『信長公記』では西側、

『勢州軍記』では池田恒興は北の広坂口を攻撃しているのに、『信長公記』では南側に布陣しています。

位置が正反対なんですよね…もしかすると『信長公記』は位置を逆に書いてしまっているのでしょうか…??

さて、こうして、戦いの準備は整い、後は両軍の激突を待つのみとなりました…!

●大河内城の戦い

『信長公記』では、28日に城の周囲の状況を確認し、城の四方に兵を配置した、そして城の周囲を鹿垣で二重三重に取り囲み、内部への通路を遮断した、と記した後、次の場面はいきなり9月8日となっていて、その間の10日間の様子が書かれていません。

そのため、この間のことについては、他の史料によって補うしかありません。

『勢州軍記』には、

…この夜、池田勝三郎信輝(恒興。諸書によく「信輝」と出てくるが、「信輝」と署名したものは見つかっていない)が広坂口市場の宿を攻撃した。日置大膳亮がこれを防ぎ、他の者たちがこれに加勢した。池田の先陣は土蔵四郎兵衛尉・八木篠右衛門尉で、鬨の声を挙げて攻めかかった。家木主水佑が防衛戦において抜群の槍働きを示して名を挙げた。戦うこと数度に及んで、日置たちは城内に引き退いた。

…とあり、28日の夜にさっそく戦闘が行われた事がわかります。

この戦闘の行われた「広坂口市場」というのはどこのことなのでしょう。

『大河内村史蹟名勝誌』には、

「市場 大手口の東北で現今大字笹川、寺井の一集落である。蓋し市場の名は大河内城下の物資集散地として繁昌した取引地、即ち市場に起る。此所は古戦場であると共に、付近に比類少ない室町時代商巷の遺跡でもある」と貴重な情報が載せられています。

大字笹川、寺井」というのは、現在の笹川町のことです。これだとまだ範囲が広いのですが、「いいなん.net」には、「年配の方々は、九蓮寺から南の範囲を「市場」…と当時の名称で呼んでいる」とあり、これでかなり範囲を絞り込むことができます。なぜなら、笹川町であり、かつ、九蓮寺の南である場所は、わずかな部分しかないからです。どこかというと、笹川町小字浦屋敷の、九蓮寺より南の部分になります。

この場所で織田軍と北畠氏の戦いが繰り広げられた、ということになりますが、北畠氏側はすぐに退いています。これは、「市場」が坂内川よりも外側にあり、維持することが困難だと考えたからだと思われます。

前哨戦に勝利した織田軍は、いよいよ大河内城攻撃に移ります。

『勢州軍記』には、

…29日、明け方に信長勢は大河内城を四方より攻撃した。敵味方の弓鉄炮は疾風雷雨のようであった。その日から数日激しく争ったが、城が落ちることは無かった。信長卿は柵際に廻番を置いて夜討ちに用心させたという。

…とその様子が書かれています。

この戦いについては、小瀬甫庵の『信長記』にも、

…29日の明け方、四方から五万余の軍勢が、楯や箙(えびら)を叩いて攻め寄せた。鬨の声、矢鉄砲の音、肝がつぶれ、魂が消えるようなすさまじさであった。城内の兵はこれを聞いてここが運命の分かれ目だと覚悟を決めて必死に防戦したので、なかなか落城するようには見えなかった。

…と、ほぼ同じ内容が書かれています。

『信長記』が1622年に刊行、『勢州軍記』は1638年に成立した、と言われていますので、『勢州軍記』が『信長記』をもとにして書いたものでしょうか。

他にも、『朝倉始末記』には、

…信長はこの城に攻めかかり、昼夜を問わず厳しく攻め立てて、城内からしきりに鉄砲が放たれたが、新手を次々に繰り出して戦った。

…とあり、『足利季世記』には、

…信長衆は28日(29日の誤りか?)から、兵を入れ替え入れ替え攻め立てた。

…と書かれています。

信長は必死に防戦する北畠勢に苦戦を強いられたわけですが、このことは『多聞院日記』9月7日条の次の記述からも裏付けが取れます。

…昨日6日、松永右衛門佐(久通)と竹下(竹内秀勝)が同道して、伊勢を訪問しようとしたが、伊勢の合戦の状況が思わしくなく、織田軍に多くの損害が出ている上に、甲賀・伊賀で一揆が起こりそうな不穏な情勢になっているため、10日まで出発を延期したという。

また、『勢州軍記』によれば、この頃に次の出来事も起こっていたようです。

…国司は遠方の諸城に信長勢を夜討ちするように命じていたが、信長勢が大軍なので、これを恐れて声を挙げるものが無かった。ただ船江城の「溢者共」(ならず者たち)はこれに応えて9月上旬(『勢州四家記』には「9月初」とある。1か月の最初の頃、ということであるが、『総見記』は何をもとにしたかはわからないが9月「2日」と断定して書いている)丹生(にゅう)寺を夜襲した。ここは市場・寺井の北方にあり、美濃国大垣城主氏家常陸入道卜全の陣所であった。夜更けに不意を突いてこれを襲い、火を放ちながら鬨の声を挙げて攻めかかった。大垣衆は追い立てられたが、蜂屋般若助などが名乗りをあげて戦いを挑んだが、高島椋右衛門に討ち取られてしまった。大垣衆は36人が討ち死にした。船江衆は首を持ち、勝鬨を挙げて引き返していったという。…

丹生寺に布陣していた氏家卜全が、船江勢の夜襲を受けてかなりの損害を受けた、というのですね。船江勢、ちょっと前に小金塚で敗れているのに凄まじい敢闘精神です💦

丹生寺は「川口保のブログ」によれば、「松阪市丹生寺町本里の集落の北方に広がる標高40mの丘陵地」にあった寺院で、『飯南郡史』によれば永禄年間に兵火によって焼失した、とあるので、この時に炎上したか、織田勢がやってくる前に北畠氏が燃やしたのでしょう。

この戦いで死亡した蜂屋般若助(『信長公記』では「介」)は、以前に赤塚の戦いでも登場した人物ですね。

苦戦が続く攻城戦の中で、信長は『勢州軍記』によれば攻め方を変えて、9月8日に新たに城を攻撃させますが、これも散々な結果に終わってしまいます。この戦いについては、『信長公記』にも次のように記されています。

9月8日、稲葉伊予・池田勝三郎・丹羽五郎左衛門の3人に対し、西(東の誤り)の搦め手を夜襲するように命じた。その夜、3方向から西搦手に攻め寄せた。雨が降っていたので、味方の鉄砲は役に立たなかった。池田勝三郎配下の朝日孫八郎・波多野弥三郎が討ち死に、丹羽五郎左衛門配下では、近松豊前・神戸伯耆・神戸市介・山田大兵衛・寺澤弥九郎・溝口富介・斎藤五八・古川久介・河野三吉・金松久左衛門・鈴村主馬らの屈強の士20余人が戦死した。

ここで戦死した朝日孫八郎については、『武家事紀』に「尾州人也、信長の馬廻につかえて度々勇名を顕、伊勢大河内の戦に討死、此者死去の後、信長馬廻の武士、勇功のかせぎ軽くなれる(手柄を立てる量が少なくなった)といわれたるほどの勇士也」と書かれており、かなりの勇士であったようです(『武家事紀』が何をもとにしてこれを書いたかは不明)。

『勢州軍記』にはこの戦いについてより詳しく、次のように書かれています。

9月下旬、信長卿は攻め方を変えて、南方から城を攻撃させることにした。池田勝三郎信輝・丹羽五郎左衛門尉長秀・稲葉伊予入道一鉄(出家したのは1574年の事)等に命じて、搦手を攻撃させた。三大将は、闇夜に紛れ、ひそかに龍蔵庵口に入り、朝日孫八郎が先頭になって二の丸に忍び込んで鬨の声を挙げた。鬨の声を挙げたのは攻め手側の不覚であった。本丸に入ってから鬨の声を挙げるべきであった。国司勢は鬨の声を聞いて本丸から松明を投げ入れ、弓鉄炮をさんざんに放った。攻め手側はことごとく倒れ伏した。死者は山のようであった。その後門を開き、日置大膳亮・安保大蔵少輔・家木主水佑・長野左京亮(『勢州四家記』では「左京進」)などが槍を引っ提げ、太刀を振るって打って出て、合戦となった。黒煙が立ち込める中、敵味方が入り乱れる乱戦となり、しばらく戦った後に両軍は引きあげた。信長勢は侍大将朝日孫八郎以下13人が討ち死にし、その他屈強の武士が多数討ち死にした。城内の空円入道は智謀の士で、門を開いて打って出る際に、「老兵は足が遅いので、若武者は先に出て早めに退くように」と指示し、時刻を計ってこれを引かせた。門の中に戻る際には、敵味方を見分けるために合言葉に応じて起ったり座ったりするようにした。国司はこれに感じ入ったという。…

斎藤拙堂は二の丸跡を訪ねた時のことを、『伊勢国司記略』に「池田信輝、丹羽長秀等が軍勢龍藏菴阪より忍び入て本丸と思ひ鬨をあげて城兵に破られしといふは此処ならん」と書き記していますが、これは『勢州軍記』や同様の内容を記す『北畠物語』などの記述を受けてのものなのでしょう。

ちなみに、『勢州軍記』のもとになった『勢州四家記』には、この戦いについて、池田・丹羽・稲葉が搦手から夜討ちした、日置・安保・家「来」・長野が戦って功名を立てた、信長方は朝日以下侍大将13人が討ち死にした、と簡潔に記されているのみで、空円入道云々は脚色かもしれません。

『勢州軍記』の記述で気になるのは、攻め方を変えて南方から城を攻撃させた、という部分です。

なぜかというと、『勢州軍記』は先に、これより前の攻撃について四方から攻撃、と書いており、すでに南方からも城を攻めているので、つじつまが合わないからです。

攻め方を変えた、というのは、夜襲に切り替えた、ということなのではないでしょうか。

他にも気になるのはこの戦いの日にちです。『信長公記』は9月「8日」としているのに対し、『勢州軍記』はそれよりだいぶ後の9月「下旬」としています(『勢州四家記』も同じ。「いいなん.net」によれば『大河内御所記』には「28日」、『多芸録』には「29日」とある)。他にも、『総見記』は9月「3日」としています。

果たしてこの戦いは9月上旬であったのか?下旬であったのか?

後述しますが、『多聞院日記』など当時の信頼できる一次史料と照らし合わせると、『勢州軍記』が20日近く日にちを間違えていることがわかります。

ですので、この場合も、『信長公記』の記述が正しいと考えるべきであり、『勢州軍記』の日にちは書かれているものから20日ほど引くことが必要なのだと思います。

…となると、次の『勢州軍記』の話はどうなるでしょうか。

…滝川左近将監一益は、10月上旬に信長のもとに馳せ参じ、「この城を長い期間落とせないでいるのを無念に思います、それがしが一度戦ってみようと思います」と言い、伊勢衆を率いて西方の魔虫谷から攻め入った。城内から隙間なく弓鉄炮が放たれ、滝川勢は多くが死に、人馬によって谷が埋まった。しかし一益はこれを物ともせず、ひたすらに攻め登り、塀に至ってこれを乗り越えたが、城内から数万もの、竹槍…尖らせた先端に油を塗り、火であぶったもの…をくりだし、塀の外に突き落とした。それでも滝川勢は立ち上がって攻め登ろうとしたが、再び竹槍によって突き落とされた。一益はついにこらえかねて、兵を引き上げた。…

10月上旬とあるので、20日ほど引いて、9月中旬頃のことかな、と考えることができるのですが、そうなると、『信長公記』と話が合わなくなってしまうのですね😟

なぜかというと、後述しますが、『信長公記』には9月9日頃から信長は力攻めによる攻撃をあきらめているからです。

ならばこの魔虫谷の戦いはいったい…?創作…?

そこで、『勢州軍記』の元ネタの『勢州四家記』にあたってみると、この戦いについて、「魔虫谷にて攻る方の侍多死と也」とだけ記されていて、いつ行われたかも書かれていないのですが、その記述は、池田恒興の広坂口の戦い→織田軍、四方から大河内城を攻撃→魔虫谷で織田軍多く死傷→9月初、船江勢が丹生寺の氏家勢を夜襲…という順で書かれているのですね😯

つまり、『勢州軍記』が9月初の船江勢夜襲の後に魔虫谷の戦いを書いているのはおそらく誤りなのです。

魔虫谷の戦いの実際のところは、大河内城を、8月29日から9月8日頃までの数日間にわたり四方から攻撃した戦いの一部だった、ということなのでしょう(滝川一益が戦ったのかも不明)。

ちなみに、魔虫谷を訪れた斎藤拙堂は、『伊勢国司記略』で次のように書いています。

「(八幡)祠の背は魔虫谷にて険阻なること甚し。瀧川一益ここより攻め登らんとしたれども、城兵に打すくめられて死傷多く、引退きしもむべなりけり。…敵此谷より攻上らんとすとも、本丸、西丸、両方より夾(はさ)みうたば寄りつくべき様なかるべし。此所屈強の矢懸りなり」

魔虫谷の守りはかなり堅固であったことがわかりますね😵

斎藤拙堂は魔虫谷を攻め登ろうとしても、本丸・西の丸から挟撃を受けて先に進むこともできない、と記していますが、先にも述べたように、「七尾七谷」と呼ばれる、大河内城のある山(城山)の挟撃を容易なものとする特殊な形状が織田軍を苦しめました。

『勢州四家記』も、「大河内は七尾谷あり。信長公四方を厳しく囲と雖も落城せず」と記しています。

また、『大河内村史蹟名勝誌』には、「信長は一拳に大河内城を屠る心算であつたが、各所に接戦の結果は、案外に大河内の要害が堅固であり、城兵又意外に勇猛であつた。南山以来傳統の忠烈の血は躍る伊勢武士である。まして國司家浮沈の際に立つての決戦である。城兵の決意結束は牢固たるものがあった」とあり、北畠勢の結束が強く、勇猛であったこともその一因として挙げられています。

織田軍が伊勢に進攻したのは8月20日で、日乗は10日以内に伊勢一国を平定できる、と書状に書いていましたが、平定できるはずの30日になっても戦いは終わらず、攻防は20日が経とうとしていました。




2024年12月23日月曜日

「木下藤吉郎、奮戦!~阿坂の城退散の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代マンガで読む!『信長公記』ところにある、

「木下藤吉郎、奮戦!~阿坂の城退散の事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

「木造家、謀叛!~勢州国司家騒動の事」の2ページ目を更新!

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2024年12月19日木曜日

木下藤吉郎、奮戦!~阿坂の城退散の事

 5月の木造家の謀叛を受けて、8月、信長は北畠家を攻略することを決意します。

しかし、好機をすぐ生かそうとする信長にしては、出兵がいささか遅くなった気もしますが…なぜなんでしょうか😟

信長が大軍を率いるのは上洛戦に続いて2度目のことになりますが、上洛のため出陣したのは9月7日の事であり、日にちが近いことがわかりますね。

おそらく大軍を動員するため、収穫期を待って出陣していたのでしょう(上杉謙信が最初に関東に出兵したのも8月29日でした)。

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


以前に紹介した朝山日乗の8月19日付の書状には、次の内容も書かれていました。

…信長は、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の兵約10万を率いて、「国司」(伊勢の北畠具教)攻めに取りかかり、10日以内に伊勢一国を平定されることになると思います。その後、伊賀・大和を通過し、9月10日頃に京都に到着されると思います。…

織田方が、北畠家との対決を非常に楽観視していたことがうかがえます。

一門の木造家も寝返った事だし、他の者たちも大軍で攻めたら続々と寝返るだろう、と思っていたのかもしれません。

しかし、あに図らんや、織田方に寝返る城主は現れず、北畠家は頑強に抵抗して、結局南伊勢平定は10日どころか40日以上を要することになるのでした…!😥

●木造城の軍議

織田信長が南伊勢に向けて出陣したのは、『信長公記』によれば8月20日の事でした。

先の日乗書状では、10万を動員して…とありましたが、『信長公記』には何万と書かれているのか。

意外なことに、『信長公記』はその軍勢の数を記録していません。

実は、上洛戦についても、その人数を記していないのです(◎_◎;)

『信長公記』は、その後も、朝倉攻め・姉川の戦い・甲州征伐においても、織田軍の兵数を記してくれていません。長篠の戦いは「3万」と記していますが…。

このため、織田軍の数を知るには他の史料に頼らざるを得ない、ということになります😥

では、他の史料には織田軍の数がどれほどだと書かれているのか、見てみましょう。

『多聞院日記』9月7日条…先月の20日、信長が8万余の兵を率いて伊勢に入り…

『神宮年代記抄 河崎』「伊勢国司城大河内へ信長数万騎にてせむる」

『細川両家記』…8月末、信長は東国勢を動員した。その数10万余騎という。

『勢州軍記』…8月20日、信長卿は…美濃・尾張・伊勢・近江の兵に出陣を命じた。合計7万余であった。

『朝倉始末記』…その軍勢は5万余であったという。

『足利季世記』…東海道勢・五畿内衆・美濃・尾張衆を動員して、10万余騎が伊勢に出陣した。

5万~10万余とだいぶ幅があることがわかりますね💦

当時、信長の領地は尾張57万石+美濃54万石+近江77万石の南半分+伊勢56万石の北半分…であったので、合計するとだいたい170万石ほどになりました。

『関ヶ原合戦』(中公新書)によると、動員兵数は1万石につき250人前後であったようなので、そうなると、織田軍の動員兵力は42500人ほど、ということになります。250人「前後」なので、300人で計算すれば51000人で、約5万人ということになります。このあたりが実際のところだったのではないでしょうか。

日乗は、三河・遠江・尾張・美濃・近江・北伊勢の兵を率いて…と記していますが、この戦いで三河・遠江の徳川軍が参加している形跡は見られません。

徳川がまとめた『武徳編年集成』にも、参戦したとは記されていません。

『勢州軍記』のいう、美濃・尾張・伊勢・近江の兵、というのが正しいでしょう。

ちなみに、浅井家臣の磯野丹波(員昌)が参加していたことが『信長公記』に記されていますので、織田軍に数千程度の軍勢が加わっていたと考えられます。

さて、出陣した信長ですが、『信長公記』には、その後の行程について、

…その日は桑名まで進んだ。翌日は鷹狩をして1日滞在し、

…と記されています。

出陣中に鷹狩をするなんて悠長な、と思いますが、

『信長記』には、

「伊勢国の山野の難易を御覧じがてらに」(地勢の様子を調べることも兼ねて)鷹狩を行なった、とあります。

『勢州軍記』には、

…8月20日、信長卿は伊勢に出発して桑名に着いた。その際、ひそかに美濃・尾張・伊勢・近江の兵に出陣を命じた。信長卿は鷹狩と称して一両日「山野の難易を窺い」、南方に攻め寄せた(『木造記』には「二手に分かれて」とある)。これは不意を衝くための謀であった。鷹狩というのは鳥を捕るためのものではない。ある時はその土地の地勢の難易を見、ある時はその土地の人々の労苦を知るためにするのであって、だから鷹狩は大将は行ってもよいが、家来の者たちはしてはならないのである。

…とあり、鷹狩は油断させるための方便で、これは、鷹狩に来たのか、と安心させた隙に、密かに動員させていた軍勢を伊勢国に入れることで、北畠の不意を衝こうとする計略であった、と記しています。

ちなみに、『足利季世記』は、その日は桑名に着いて軍議を行なった、と書いています。

『信長公記』はその後の事について、

…22日は白子観音寺、23日は「小作」(木造のこと)に陣を構えた。雨が降ったのでここにとどまった。

…と記しますが、『勢州軍記』はより詳しく、

23日、信長卿は滝川勢・関勢を先陣として、小森上野城の押さえとし、織田掃部助・工藤勢を今徳山城の押さえとして、軍勢を前進させた。(小森上野城を守る)藤方御所(北畠一族)と(今徳城を守る)奥山常陸介は忠義心が強く、織田軍と戦おうと思っていたのだが、信長卿はこれを攻めずに木造城に入り、ここで一両日にわたって軍議を行なった。

…と書いています。

信長は木造城へ向かう途中にある今徳城・小森上野城を攻めることなく、押さえの兵だけを置いて先に進んだ、というのですね。

信長は六角攻めの際もこの作戦を取り、『信長公記』に「わきわき数ヶ所の御敵城へは御手遣いもなく」(道中の城には目もくれず)本拠の観音寺城とその近くにある箕作城に攻め寄せています。信長のお得意の作戦だったのでしょう。

太平洋戦争においてアメリカ軍がとった飛び石作戦(アイランドホッピング)と似たような作戦で、前線にある敵の拠点を1つずつ落としていたら、その間に敵軍は後方の拠点の防備を強化する時間の余裕ができてしまうが、後方の拠点を先に攻撃することで、敵にその猶予を与えない、というのがこの作戦の目的ですね。

『勢州軍記』のもとになった書物とされる『勢州四家記』には、滝川勢・関勢を小森上野の押さえとした、としか書かれおらず、今徳城の押さえについては触れられていません(『木造記』も同様の記述で、織田軍は二手に分かれて進み、そのうちの1つが小森上野城の押さえとなった、と書いている)。

しかし、織田領と木造城の間には、小森上野城だけではなく、今徳城もあったので、押さえの兵は必要だったはずです。

『信長公記』『信長記』『勢州軍記』は、信長は木造城で軍議を行なった、と記しているのですが、『氏郷記』は、

…信長卿は23日に木造の持つ戸木城に着いて、一両日に渡って軍議を行なった。

…と書きます。

また、『氏郷記』には軍議の様子が次のように書かれています。

…木造は次のように言った。

「当国の事情についてはそれがしはよく分かっております。国司父子が籠もっている大河内城に向かうにあたっては、ふつうは本道を通るべきなのですが、途中に船江城という「大難所」があります。その上、城主の本田如人・左京亮父子は、共に剛の者であり、また、森中・高島・山辺などの屈強の兵、合わせて数千余りの軍勢で立て籠もっているので、これを攻めようとすると、味方は人馬を多く失うことになります。脇道ではありますが、浅香(阿坂)口を進まれるのがよろしいでしょう」

これに信長卿は、「そなたの考え通りにいたそう」と言って、戸木城を発ち、浅香(阿坂)城を攻めた。…

『勢州軍記』にも、

…伊勢の南方に至る道は船江通であり、そのため、本田が船江城を守るのに、各地から多くの者が加勢してきていた。そのため、信長は城を落とすことは容易ではないと見て、その枝を置いて根本を断とうとして、迂回して山際を通ったという。

…と書かれていますが、織田勢は大軍でありながら、船江城攻めは回避して、迂回路の山際を通る作戦を取ったようです。慎重ですね😲

今徳城や小森上野城も攻撃しませんでしたし、なるべく短時間で、なるべく損害を押さえようとして、戦いを進めている様子がうかがえます。クレバーですね😲

『氏郷記』には、一両日の軍議中にも織田軍の先手は進軍しており、「先手の兵たちは早くも八田城を攻撃した」と書かれています。

『勢州軍記』には、

…織田軍はまず八田城に攻め寄せようとしたが、この日は霧がたちこめていて敵の場所がわからなかったので、八田城を攻めなかったのだという。

…とあります。

八田城は別名「霧山城」ともいい、これは、秀吉がこの城を攻めた時、突然霧が立ち込めて、城兵が秀吉を撃退するのを助けた、という言い伝えに因るのだといいます。

地元の言い伝えだと織田軍は八田城を攻めていて、しかも撃退されたことになっているんですね~。

●阿坂城の戦い

木造具政の勧めに応じ、信長は西の山際(阿坂口)を通って大河内城に向かいます。

『勢州軍記』には、その移動中の事について、

…26日、信長卿は木造城を出て、木造勢(『勢州四家記』ではこれに工藤勢も加わる)を先導として前進し、通過した場所にあった民家はことごとく放火された。

…とありますが、このことについては、

『神宮年代記抄 松木祢宜 上』に、

…永禄12年 尾州上総介伊勢国入悉焼失す

…とあり、この記述を裏付けています。

信長は、六角氏との戦いにおいても、『言継卿記』永禄11年(1568年)9月14日条に、近江はことごとく燃やされたという。…と記されているように、この戦法を使っていることが確認できるので、信長の常套作戦であったことがわかります。

戦争に勝ったら自分の土地になる場所なんですけどね…😓

『勢州軍記』は続けて次のように記します。

…信長卿は使者を阿坂城と岩内(ようち)城に派遣し、和睦して開城するように迫った。岩内城の返答は、大河内の城の意向に従う、というもので、阿坂城は返答しなかった。これを受けて、信長は先手を呼び戻して27日に阿坂城を攻めた。…

こうして阿坂城の戦いが始まるわけですが、阿坂城の戦いが起こった日にちについて、『勢州軍記』は27日としていますが、

『信長公記』は26日、『足利季世記』は23日と、史料によって違いが見られます。

『勢州軍記』は木造城を26日に出発して、27日に阿坂城を攻めていますが、

木造城から阿坂城まで約10㎞、歩いても2時間ほどで行ける距離なのに、出発して翌日阿坂城攻めは遅すぎるような気もします。

『勢州軍記』には26日夜に先手の兵を呼び戻した、とあるので、そうなると、26日の動きは次のような物だったのでしょうか。

26日朝、先手出発。八田城を攻めようとするも、霧が濃くて攻められず、先に進む、

26日午後、本体出発。阿坂城の側に着いて、投降を促す使者を送って、返事を待ち、その返事を聞く。

26日夜、大河内城に向かっていた先手の兵に戻るように指示する。

これならなんとなくつじつまが合います。

26日に阿坂城を攻めたとする『信長公記』の記述もおかしくないんですけどね…。

ちなみに『勢州軍記』の元ネタの『勢州四家記』は阿坂城攻めの日にちを記していません。

漫画では『勢州軍記』の日にちを採用しましたが、実際どうだったのかは闇の中です。

さて、織田軍の攻撃を受けた阿坂城(現在は「あざか」と読むのだが、明治22年に作られた『伊勢名勝誌』には「阿射加」に「アサカ」とルビが振ってあり、「あざか」と読むようになったのは比較的最近のようである。「阿坂」は「朝香」「浅香」と書かれることもあり、これを見ても「あざか」の当て字であるとは思われない。江戸時代後期に書かれた『伊勢国司記略』にも、読み方が珍しい地名にはルビが振ってあるのに、阿坂城にはルビが振られていない。ふつうに「あさか」と読まれていたからであろう)は、以前に紹介したように、1414年~1415年にわたって室町幕府に反旗を翻した北畠満雅の拠点となった城であり、『勢州軍記』によれば白米を水に見せかけた作戦で幕府方を撃退したと書かれている堅城でした。

『南方紀伝』には「此の城高山にして登り難し…北に天花寺城有り、東に両出城有り、南に地獄谷有り」と、その堅城ぶりが書かれています。

「高山」とありますが、その高さについて『伊勢国司記略』は「山高きこと18町、その嶺にあり」と記しています。

18町とは約2000mのことです。なんという高山!!

…しかし実際の阿坂山は高さ312mです。18町は盛りすぎですね😓

しかし312mというのはけっこうな高山であり、岐阜城が329mですから、それとほぼ同等ということになります。

これに対し、北畠具教が籠もっていた大河内城は標高約110mしかありません。

なぜ具教は阿坂城に籠もらなかったんでしょうね😕

『南方紀伝』に水の手が乏しい、と書かれているように、水源に不安を抱えていて、長期戦に不向きだと考えたからでしょうか。

阿坂城について、『日本城郭大系』には、

「城はニ郭からなり、南郭は25m×30m、高さ12mの台状地とそれに続く一段と低い堀切と小さな台状地を周囲にもつ。松阪市街地から遠望して山頭に台形をいただいた形はこの南郭に当たる。そして、南郭中心から北に250m離れて北郭があり、椎の木城とよばれてきた。東西幅40―70m、南北の長さ150mと、規模は南郭より一段と大きく、三か所の台状地の周りに堀切と土塁とを備えたものである。しかし、郭の構成は複雑であり、規模などから考えて北郭が阿坂城の主郭であったと思われる」

…と書かれています。

『伊勢国司記略』に、「東に両出城有り」と書かれていますが、これは、東南にある枳(からたち)城と、北東にある高城のことです。

また、「南に地獄谷」があった、とも書かれていますが、これは「東」の誤りです。

この地獄谷は山頂の321mから、わずか300mほどの距離で一気に半分の160mまで下るという急峻な谷です。

『阿坂史跡マップ』によると、「昔、地獄谷には妖怪が住み、猛火がところどころ燃え上がり熱湯が吹き上がり、村人は恐れて近づくことができなかった。文明4年(1472年)この話を聞いた僧 大空玄虎が、皇大神宮に参詣し、夜を徹し禅定したら神のお告げがあった。直ちに地獄谷に隠棲し、7日にわたりこの石の上で座禅の日々を重ね、威を振って喝破すると、山谷は静まり、妖怪は姿を消したとの言い伝えがある」そうです。

出城あり、急峻な谷ありで、だいぶ防備が固かったことがわかりますね😥

この阿坂城を守る城将について、『勢州軍記』には、

…城主は大宮入道(『勢州四家記』には名前は九兵衛とある。『氏郷記』『信長記』によると斎号は含忍斎)で、他に息子の太之丞(『勢州四家記』では大丞)などがいた。

…とあります。

大宮入道は『信長記』には80歳であった、と書かれており、その真偽は定かではありませんが、その記述を信じるならば、かなりの高齢の人物であったようです。

『氏郷記』には、

…城主・大宮九兵衛尉は大河内城に籠もっていたので、その父の大宮含忍は…

…という記述がありますが、『勢州四家記』では「九兵衛」は父親の含忍の事ですし、含忍は他の史料では皆城に籠もって戦った、という記述があるので、これはおそらく誤りなのでしょうね。

さて、『勢州軍記』には、戦いの準備について、

…彼は浄眼寺を焼いて敵を待った。敵にこの寺を使わせないためである。

…と書かれています。

浄眼寺は、現在も阿坂山(桝形山)のふもとにある寺で、松阪市観光協会によると、浄願寺は1478年、北畠政郷の代の時に、先に出てきた、地獄谷を治めた僧、大空玄虎によって創建された北畠氏の菩提寺(!)で、「織田信長の兵火にかかり広壮な殿堂を焼失。現在の寺の本堂、重層の禅堂、総門は宝暦年間(1751~1764)再興」されたもの、であるようです。

しかし『勢州軍記』にあるように、浄眼寺は自ら焼いたもので、信長の兵火にかかったものではありません。

さて、いよいよ織田軍による阿坂城攻めが開始されることになります。

その戦いについて記述のある諸史料を見てみましょう。

非常に簡潔に記しているのが『足利季世記』と『氏郷記』で、

『足利季世記』…23日から浅香城(阿坂城)を攻めた。城兵が少なかったのでこらえることができず、開城して退いた。

『氏郷記』…浅香城主・大宮九兵衛尉は大河内城に籠もっていたので、その父の大宮含忍はかなわないと思ったのか、降参を申し出て城を明け渡した。信長卿は城に滝川左近将監一益を入れた。

…と書かれています。

一方でかなり詳細に書いているのは『勢州軍記』で、

…信長の先陣の木下藤吉郎秀吉は阿坂城を包囲してこれを攻撃した。城兵はしばらくこれを防いで戦った。大宮太之丞は力が強いうえに、弓の名手(「大力にて弓の上手」とある。『勢州四家記』には「弓の達者」とある)であった。太之丞が弓をさんざんに射たので、寄せ手はなかなか進むことができなかった。秀吉は左腿を負傷したという(『勢州四家記』『木造記』は「左の脇」と記す。『勢州兵乱記』ではなんと「左の眼」!😱)。しかし劣勢であるのを覆すことはできず、大宮の家老、大宮(遠藤、結城とする史料もあり)源五左衛門尉・条助が裏切って鉄砲の火薬に水をかけたので、大宮入道は降参して開城した。信長は滝川勢をこの城に入れて守らせたという。

…と書かれています。

木下秀吉が負傷したと書かれていますが、これは地元の武士を称える誇大な創作などではなく、『信長公記』にも、

…26日、阿坂城を木下藤吉郎を先鋒として攻撃し、木下藤吉郎は塀際まで攻め寄せて、軽傷を負って退いた。「あらあら」(荒々しく?)と攻め立てたので、こらえきれないと思ったのか、降参して城を出ていった。ここには滝川左近の兵を入れておいた。

…と書かれており、確かな事だとわかります。

木下秀吉が負傷したという記録はこれしか残っておらず、唯一の史料に残る負傷ということになります😧かなり貴重ですね…💦

秀吉の見せ場の1つであると思われるのですが、小瀬甫庵の『太閤記』にはこの場面は登場していません。

『総見記』(1685年頃成立)には、

…木下藤吉が先陣となって進んだところ、「無双の弓の上手」である大宮大之丞が散々に弓を射てきたので、藤吉の兵たちがひるんでいたところ、藤吉は少しもひるまずに名乗りを上げて先頭に立って攻め寄せた。そこに大之丞の放った矢が左腿に当たったが、藤吉はこれを物ともせずについに惣門を打ち破って突入した。…信長は「古の朝比奈三郎義秀の勇力にも劣らない剛の者である」と藤吉をほめた、藤吉はこれをありがたく思って、朝比奈「義秀」の字を逆にして、「秀義」と名乗ることにしたが、「義」は公方家の通字なので遠慮して、「秀吉」と名乗ることにした。

…と書かれており、表現が多少オーバーになっています(「秀吉」の名の件については、実際は永禄8年(1565年)11月2日付の、坪内利定に対して土地を与えている書状に「木下藤吉郎秀吉」と書かれており、この戦い以前にすでに「秀吉」と名乗っているのが確認できるので、誤りである)。

時代が下って『絵本太閤記』(1797年)になると、

26日に阿坂城へ押し寄せ、鬨の声を挙げてこれを攻めた。これを守るのが、「勢北第一の勇将」大宮入道含忍斎、その嫡子大之丞景連、次男九兵衛為之などで、1千余人が籠城し、織田軍を防ぐために矢石を備えて待ち構えていた。信長の先陣木下藤吉郎直兜(鎧兜をつけた完全武装の兵士)800余人がどっとわめいて掘際に押し寄せ、脇目も振らずに攻め上った。城将の大宮大之丞は「近代無双の精兵」で、総門の櫓に登って近寄る敵を矢継ぎ早に射たが、矢をはずすことは無かった。勇んで攻めかかった木下勢も、死傷者は数を知らず、大之丞1人の弓矢のために進みかねていた。藤吉郎はこれを見て大いに怒り、大声で、「弓を射る者は(平)教経であるか、(源)為朝であるか、ただ一人の弓矢を恐れて見苦しく引き下がることがあってよいものか、かかれやかかれ、進めや進め」と言って馬に乗って駆け出したので、家来の者たちは「えいえい」と声を挙げて攻め上ったところ、城兵はこらえがたい様子になった。大之丞はこの状況に心中穏やかでなく、弓矢を引きしぼり、木下の胸板めがけて弓矢を放ったが、藤吉郎の運が強かったのか、弓の弦が切れて、藤吉の「高股」(股の上部)にあたった。藤吉郎はこれを物ともせずにその矢をかなぐりすて、項羽・樊噲のような勇気を発揮して、城戸を打ち破り、城内に乱入した。城兵は乱れ騒ぎ、討たれる者は麻の如くであり、城兵は本丸に引き籠り、二の城戸を固めて防戦した。これを見た信長は、明智光秀・坂井右近・森可成たちに命じて四方から城を攻めさせたので、城内は大いに苦しみ、大将の含忍斎は一族を集めて、「もはや城を保つことは難しい。こうなっては、信長に降参し、対面の際にとびかかって刺し違え、冥途の供にすべきではないだろうか」と尋ねたところ、皆同意したので、九兵衛は櫓に登って降参を告げた。しかし、信長卿は「先に山路弾正は偽りの降伏をした。これも偽りの降伏であろう」と言って、なおも攻めさせようとしたのを、家臣の者たちが、「降参を申し出ているのに、それを許さなければ、この後降参する者無く、征伐は容易ではなくなるでしょう。仁慈をもって許されるべきです」と諫めたので、信長卿はこれを受け入れ、降参を許した。そこで秀吉がひそかに進み出て、「これは殿の言うとおり、真実の降参ではないでしょう。ここは、大和国に領地を与えて大和に送り、途中で誅殺するのがよろしいでしょう」と言ったところ、信長卿は「我もそう思っておった」と答え、対面せずに大宮一族10余人を大和に送り、大宮入道が当てが外れてすごすごと大和に向かっている途中、数十人の者がこれを待ち受け、捕まえて首を刎ねた。信長卿は、今回の城攻めでの秀吉の武勇に感じ入り、秀吉が阿坂城の総門を打ち破ったのは、古の朝比奈義秀が鎌倉御所の南門を破ったのに劣るまい」と、深く称賛した。

…と、活躍がかなりオーバーに書かれるようになっていきます😅

『絵本太閤記』では城主の大宮入道はその後殺害されていますが、

『信長記』は、

…城の大将・大宮兵部少輔の父で80歳になる含忍斎が髪をそり、よろめきながら出てきて、降参を願い出てきたので、これを哀れに思って、命を助け、財産と共に大和国に送った。

…と記し、『氏郷記』・『総見記』もほぼ同様の内容になっています。

『勢州軍記』にはその後も大宮大丞が登場しているので、大宮入道殺害云々は完全な『絵本太閤記』の創作でしょう。

さて、こうして、室町幕府の追討軍を苦しめた堅城・阿坂城も、織田軍の前に1日の攻撃で陥落してしまいました。

勢いに乗る織田軍は、いよいよ北畠具教・具房父子が籠もる大河内城攻めに移ることになります…!


2024年12月13日金曜日

木造家、謀叛!~勢州国司家騒動の事

 京都に二条城を築き、三好氏への備えを十分にした信長は、

続いて南伊勢の攻略に乗り出します。

南伊勢にいるのは、あの北畠親房・顕家を輩出した名門・北畠氏でした…🔥

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



●伊勢の国司・北畠氏

北畠氏は伊勢の国司を長く務めた名門です。

その始まりは村上天皇(926~967年)の第七皇子、具平親王の子が臣籍に降下し、源氏の姓を与えられて「源師房」(1008~1077年)と名乗ったことに始まります。

源氏といえば鎌倉幕府を開いた源頼朝が思い浮かびますが、頼朝は清和天皇(850~881年)の子孫であり、北畠氏とは関係はありません。

清和天皇の子孫は「清和源氏」、村上天皇の子孫は「村上源氏」と呼ばれますが、北畠氏はこの村上源氏出身だったわけです。

源師房は藤原道長の娘・尊子を妻にし、師房の娘の麗子は道長の子、頼通の子で関白となった藤原師実に嫁いでおり(しかも産んだ子の師通は関白となり、その子孫は藤原氏の本流である近衛家となっている)、藤原氏と関係を密に結んだ人物で、その関係のためか自身も右大臣まで昇っていますから、なかなかに力のあった人物でした。

師房の長子の俊房は父を超える左大臣となり、次子の顕房も右大臣となっていますが、次子の顕房の子の雅実は、白河天皇が愛した中宮・賢子の弟で、その賢子が堀河天皇を産んだという関係から白河天皇に引き立てられ、源氏で初めて最高職の太政大臣にまで昇っています。そしてこの人物が、北畠氏の祖先にあたる人物なのです。

雅実の子・顕通(権大納言)の時から久我家と呼ばれるようになり、この顕通が41歳の若さで亡くなったため、弟の雅定(右大臣)が中継ぎとなり、兄・顕通の子を養子として跡を継がせました。これが雅通(右大臣)です。2人の名前を合体させていますね。その子が通親(内大臣)なのですが、この5男の通方(大納言)の次男の雅家(1215~1274年。権大納言)が洛北の北畠に屋敷を構えたことから、その子孫は北畠家と呼ばれるようになるのです。

雅家の子の師親(権大納言)の子が師重(権大納言)、そしてこの師重の子が、あの南北朝の争乱で活躍し、『神皇正統記』を著した北畠親房(1293~1354年。大納言)なのです!親房の子で、足利尊氏をさんざんに苦しめた顕家も有名ですね。1336年、親房は子の顕信・顕能と共に伊勢に下り、ここを南朝方の拠点とするために玉丸城を築きます。1338年、親房・顕信は常陸に移り、伊勢を任されたのが顕能(権大納言)で、この年には伊勢国司に就任しています。青年はわかっていませんが長男の顕家が1318年生まれなので、それ以降に産まれたと考えると、この時まだ10代の若さだったことになります。これが伊勢国司家の始まりです。顕能は北朝方に押され1342年に玉丸城を失って多芸(多気とも書くが、『伊勢国司記略』は、古本には皆「多芸」とあり、「多気」とは書いていないので、「多気とかけるはよからず」「多気」とは郡名で、これと混同している、多芸が多気郡にあると思っている者がいるが、これは誤りで、多芸は一志郡にある、と書いている。また、読み方は現在は「たげ」であるが、正しくは「たき」であるという。その根拠として、日本書紀や万葉集では「芸」は「き」の万葉仮名として使用されていることを挙げている。後述するが、永禄元年[1558年]に多芸谷を訪れた山科言継は、『言継卿記』に多芸のことを「多木」と書いているが、これはおそらく当て字で、ここからも、当時は「たき」と呼ばれていたことがわかる)に逃れますが、この後、伊勢国司北畠家が滅びるまで、この多気が本拠となります。

顕能が1383年に亡くなると、長男の顕泰(権大納言)が跡を継ぎますが、1392年、南北朝が北朝のもとに統一されると、北畠家も北朝に従い、その領地を安堵されています。『勢州軍記』には、その領地は、南伊勢の一志郡・飯高郡・飯野郡・多気郡・度会郡と、大和の宇陀郡の計6郡であった、と書かれていますが、実際は、南伊勢5郡のうち北畠家の領地は一志郡・飯高郡のみで、残りの3郡は伊勢神宮領であったようです。顕能は1393年、伊勢神宮を参詣した足利義満をもてなしています。この際、子の親能は義満の「満」の字を与えられて「満泰」と名を改めています。1399年に応永の乱が起こると、顕泰・満泰父子はこれに参加、満泰が戦死しています。『応永記』によるとこの際、顕泰は「子や若党(若い家来)を多く失ってこそ、軍功を立てることができるのだ」と言ったといいます。

さて、顕泰死後、跡を継いだのは戦死した満泰の弟の満雅で、満雅は応永22年(1415年)2月、なんと伊勢にあった幕府奉公衆の城を攻撃してこれを攻め落とし、幕府に対して反乱を起こします(『南方紀伝』によると、前年の9月に既に挙兵、関一党・大和・伊賀・伊勢・志摩の者が集合した、とある)。南北朝合一後も南朝方の勢力はなおも残存しており、満雅は南朝を復活させるために挙兵したのです。一方で弟の俊泰は北朝方に味方したので、満雅はこれを攻めて居城の坂内城を攻め落とします。そして木造・阿射賀(阿坂)・大河内・坂内・玉丸などの城に兵を送ってこれを守らせたのですが、弟の雅俊に木造城を、顕雅に大河内城を守らせ(『伊勢国司記略』には、この後「子孫代々ここにすみ、大河内御所と称す」とある。しかし実際は、小林秀氏『伊勢国司北畠氏の領域支配の一側面』によれば、初代顕雅の次は甥である本家当主の子が継ぎ、その次は本家当主の兄の子、次も本家当主の兄の子…といったように、大河内当主の子が跡を継いでいったわけではないのだという)、自身は阿射賀(阿坂)城に籠もりました。しかし討伐にやって来た北朝方の前に満雅は敗北、木造城が落とされて城主の雅俊は坂内城に逃走して(『伊勢国司記略』には、その後雅俊の「子孫代々すみて坂内御所と称す」とあるが、小林秀氏によれば、雅俊の次は子の具能が継いだが、その次は本家当主・教具の子が継いでおり、その後は大河内家と同じように本家当主の子が継いでいったようで、親から子に受け継がれていったわけではないようである)、ここに幕府に味方していた俊泰が入り、その後長く木造城を領有することになったので、木造家(『伊勢国司記略』には、「子孫代々伝え守られ、木造御所と称す」「俊康将軍家に属してより京都に出仕し、油小路に別館ありければ油小路家とも称す。俊康の孫 教親卿の時、京都中山の第にも居給い、中山殿とも申す」とある)と呼ばれるようになります。『大乗院日記目録』8月19日条には、伊勢国司は攻撃を受け、「没落」した、戦いに向かっていた大名たちが帰陣した、とあり、満雅の敗北に終わったと書かれていて、反乱が失敗に終わったことがわかりますが、しかし、意外なことに満雅は罪を許され、その後も伊勢を任されています。幕府の南朝方への(過激化しないようにとの)配慮によるものでしょうか。『勢州軍記』は、水の手を断たれても、白米を使って馬を洗っているように見せ、遠目から水がまだある、と誤認した北朝方が撤退し、その後和睦となったので、領地を保つことができた、と書いており、これが事実ならば、つじつまは合うのですが…。さて、寛大な処置を受けた満雅は幕府への忠誠を誓…いませんでした。1428年、北朝の称光天皇が子無くして亡くなり、南朝方は合一の際の約束に従い、次は南朝方の者が天皇になるはずだ、と期待したのですが、そうはならず、北朝方の者が天皇となった(後花園天皇)ので、これに怒った南朝方の後村上天皇の孫、小倉宮が多気にいる満雅のもとに出奔、この年に新たに将軍となっていた足利義教は満雅に叛意ありと見て追討を決意します。今度は満雅は許されず、12月に敗れて首を討たれて殺された上、さらし首にされてしまいます。北畠家は南伊勢5郡のうち一志郡・飯高郡を領地として持っていましたが、そのうちの一志郡は戦功のあった長野氏に奪われてしまいます。1430年、満雅の弟の顕雅は「3万疋・太刀・馬」を献上して義教から許され、義教は満雅の子の教具に飯高郡・一志郡を領有することを認めました。顕雅が中継ぎをした後、教具(権大納言)が跡を継ぎ、1467年、応仁の乱が起こると、将軍足利義政の弟の義視が伊勢に下向し、教具はこれを厚くもてなしています。

教具が亡くなった後、跡を継いだのは子の政郷でした。政郷は戦国時代にあって北伊勢に勢力拡大を図り、子(もしくは孫)の具盛を神戸氏の養子に送りこみます。文明11年(1479年)、これに反発する長野氏と争って敗北しますが、翌年に関氏と長野氏が争うと関氏に味方して長野氏を破ることに成功します。

政郷は早くに隠居して子の具方(のちに材親。権大納言。1468~1518年)が跡を継ぎますが、1508年に政郷が亡くなるまでその後見を受けます。1488年、北畠家は幕府から、「伊勢神宮への参道に関を新たに設け、往来を妨げている・幕府への奉公を怠っている・伊勢神宮領の3郡を横領している」と厳重注意を受けます。これから、北畠家が戦国大名化していたことが明らかに読み取れます。伊勢神宮には内宮と外宮がありますが、この2つは仲が悪く、外宮のある山田の者たちが内宮への通路をふさいだので、内宮のある宇治の者たちが怒り、北畠家に訴えたところ、文明18年(1486年)、北畠家は山田を攻撃し、なんと外宮を燃やしてしまいます。世間に衝撃を与えた事件でした。その後も内宮側と外宮側の争いは止まず、内宮の神殿以外が炎上するなどし、その度に北畠家はこれに介入して外宮側と戦うことになりますが、この介入を通して、伊勢神宮領を次第に押領していったのでしょう。

具方の跡を継いだのは子の晴具(参議。1503~1563年)でした。『勢州軍記』には、天文年間(1532~1555年)に、足利将軍家は衰え、諸国は大乱となり、どこもかしこ合戦ばかりになった、と書かれていますが、天文年間に北畠家の党首であったのは晴具です。『勢州軍記』は続けて、次の事を記しています。

…北畠家の場合は、東は志摩国と戦い、南は大和国吉野郡・宇陀郡、そして紀伊国熊野山と戦い、西では伊賀国の仁木家と戦い、北は工藤家と争った。勢南国司多芸御所は武威を隣国に振るい、近隣の諸郡を支配下に置いていった。東では鳥羽城を攻めてこれを従わせ、志摩1国2郡を支配下に置き、南は大和国吉野郡・宇陀郡、紀伊国熊野山・尾鷲・新宮を支配下に置き、西の伊賀国は名張郡・阿賀郡を支配下に置いた。(伊勢国内では)天文3年(1534年)に山田衆を破り、天文年間に反乱を起こし、田丸弾正小弼を自害に追い込んだ山岡一党を攻め滅ぼした。

各地で順調に戦いを進めており、なかなかに有能な人物であったようです。

天文22年(1553年)、病気が重くなった晴具は伊勢神宮に願文を捧げていますが、翌年から子の具教が文書を発給するようになるので、この年頃に隠居したようです。その後、晴具は永禄6年(1563年)に亡くなりました。

さて、ここで当主となったのが、信長と戦うことになる北畠具教(権中納言。1528~1576年)です。

当主となって最初に起きた事件について、『勢州軍記』は次のように記します。

…弘治元年(1555年)12月に飯高郡・多気郡の者たちが徳政一揆をおこし、斎宮城に籠城したのを攻め破って、首謀者の豊田五郎右衛門尉を敗死させた。

こうして国内を治めた具教は、続いて北方の宿敵・長野工藤氏を屈服させ、弟(具藤)をその養子に送りこむことに成功、また、神戸家に従う赤堀城を攻めてこれを落とし、国司の命を無視するようになった宇陀郡の秋山父子の居城の神楽岡城を攻め、これを従わせてその父を人質として得ることに成功、永禄3年(1560年)には志摩の九鬼氏を攻めて田城を攻略、永禄4年(1561年)には宇陀郡沢城に攻めてきた松永久秀を撃退するなど、さらなる勢力拡大に成功します。

この中で、永禄元年(1558年)に山科言継が伊勢を訪れて具教と会っています。その目的は、前年に亡くなった後奈良天皇の喪明けに新調する服の費用を提供してもらうことでした。言継は9月3日に具教と会見する予定でしたが、折悪く虫気(腹痛)になってしまったので延期となり、9月5日に会見することができましたが、「黄門(中納言の唐名)はまだ咳をしていた」と記しています。言継はこの時具教の子の「少将具房」にも会っています。また、言継は具教に太刀・後小松院の書・杉原紙10帖を、具房に太刀・薫物(お香)・菊の花を贈っています。翌日、言継のもとに具教がやって来て、「めんりん」(綿綸子という織物)1反、杉原紙10帖を言継に贈りました。杉原紙10帖を贈って、杉原紙10帖をもらうとは…!?ただ返品されただけでは…!?9月8日、別れのあいさつに訪れたい、と申し出たところ、具教はまだ咳が出るので、暇乞いに来てくれなくても構わない、と返答しています。また、喪服の費用については、『御湯殿上日記』に「いせのこくしより3千疋まいる、りょうあん(諒闇。喪に服する期間の事)御あかりのことになる」とあり、3千疋(=30貫)を提供したようです。また、翌年12月には「いせのこくしより、御しょくゐ(即位。正親町天皇の即位の事)の御れい2千疋まいる」と『御湯殿上日記』にあるように、新天皇の即位に当たっても2千疋を献上したようです。このことから具教の勤王精神が篤かったことがわかるのですが、具教に限らず、北畠家は代々勤王家だったようで、例えば晴具の頃は、一部を挙げると、

享禄元年(1528年)

3月10日 くくい(鵠。くぐい。白鳥の事)まいる

8月1日 あわ(鮑。あわびの女房詞)千ほん まいる

享禄3年

4月10日 くくいしん上(進上)申さるる

5月22日 こつくりより、あわ・な(海鼠。なまこの女房詞) まいる

享禄4年

6月4日 くくいまいる

天文元年(享禄5年)(1532年)

3月28日 くくいまいる

天文2年

5月8日 くくい しん上

5月 太刀1腰・馬1疋

天文3年 

4月18日 千疋・御ちゃ(茶)百ふくろ まいる

4月 太刀1腰・馬1疋

9月15日 こつくり、あわ千ほん まいる

天文4年

5月25日 くくいまいる

5月 太刀1腰

天文5年

3月19日 こつくり あわ千ほん しん上あり

4月19日 御ちゃ百ふくろ まいる

4月 太刀1腰・馬1疋

7月 太刀1腰・長蚫(あわびを薄く長くはいで、乾燥させたもの)5千本到来

12月22日 御ちゃ三百ふくろ

…というように、毎年のように朝廷に何かを献上しています。

具教もまた、次のように朝廷に進上を行なっています。

弘治2年(1556年)

12月22日 北はたけの中納言(天文23年[1554年]に権中納言に任じられた)、くくい・かん(雁)2・御ちゃ二百しん上あり 

弘治3年

12月22日 御く御(天皇の飲食物)まいる、8月1日の御れいは御ちゃ三百たい、せいほ(?)の御れいには かん3まいる、御かうてん(香典)千疋まいる

面白いのは、永禄元年(1558年)・2年の記述で、

永禄元年(1558年)12月19日

くくい・かん2まいる、いつもの御ちゃ御まいり候はす候

永禄2年(1559年)5月4日

つる2,ねんしの御れいにまいる、いつもくくいまいり候へとも ことしは つる まいる

いつもと違うものが進上されてきたのでびっくりしたことが記されています。

さて、伊勢北部に順調に勢力を拡大していた北畠家ですが、そこに突然、他国のある大名の勢力が入り込み、急速に広がっていくことになります。その大名というのが、織田信長でした。

信長は、永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)の2度にわたる攻勢だけで、伊勢北部を支配下に置くことに成功してしまいます。しかも、この際に、長野工藤家の当主となっていた具教の弟、具藤は兄のもとに逃走する羽目に陥ります

伊勢北部を奪い、弟の具藤を追放した信長と、具教が対立するのは必然でした。

●木造家の反乱

北畠家と織田家は境界を接して、どのような状態になったのか。『勢州軍記』には次のように書かれています。

…伊勢国司北畠中納言具教卿は、永禄の末年頃に織田家の攻撃を防ぐために御殿を飯高郡細頸に作り、その後に城郭を同郡の大河内に築いた。そして家督を嫡子の信意(信意は織田信勝の事なので、正しくは具房。以後、具房と記す)に譲り、具房は大河内御本所と呼ばれた。具教卿は隠居して出家し、法名を不智と名乗った(実際は出家したのは元亀元年[1570年]5月)。この際に、大河内家(当主は具教の叔父、頼房の子、具良)は多気郡大淀に移した。その後工藤家が逆らい、織田掃部助と共に今徳城主の奥山・小森上野城の藤方に合戦を挑んできたので、国司は救援のために兵を北方に進ませて戦うことが数度あった。…

具教は織田に備えて、細頸(ほそくび)と大河内(おかわち)に城を築いた、というのですね。ただし、大河内には以前から城があったので、大規模に改修したことを言うのでしょう。

れまで、北畠家は本拠は多芸、本城は多芸にある霧山城でしたが、具教は本城を北の大河内に移しています。

その理由について、『伊勢国司記略』は、「多芸は大敵を防ぐに便りよからず」と書いています。後方にあって他の支城と連絡が取りづらいと考えたのでしょう。日本も日清戦争の際は大本営を東京から広島に移していますし。

大西源一氏も『古蹟』にて、『伊勢兵乱記』には、「多気は要害宜しからずとて」大河内に移った、とあるが、「其の多気は其害宜しからざれば大河内に移れるといふこと怪むべし。要害の険に於ては大河内は到底多気の比にあらざればなり。さらば北畠氏が大河内城に拠れる所以のものは如何、蓋(けだし。「思うに」という意味)多気は僻陬(僻地。辺鄙な土地)にありて地狭く大軍をを用ふるに悪く。且(かつ)北畠氏が其の根拠地たる南伊勢五郡に令する(命令する)に便ならざりし(都合が悪い)を以てなり」と記しています。

さて、『勢州軍記』の記述からは、境界を接してすぐに、織田掃部助と長野工藤家が対織田の最前線に当たる今徳城・小森上野城(正しくは上野城であるが、『伊勢国司記略』には、「上野という所伊勢に数所あり。まぎるるをもて、一志郡の上野は、隣村の小森に負うせて小森上野と呼」んだ、とある)に攻撃を仕掛けていたことがわかります。織田は北畠とやりあう気満々だったわけですね。

北畠家が織田の事に神経を使っている中、『勢州軍記』によると、次の事件が起きました。

永禄12年(1569年)年正月に、平(織田)信長は伊勢南部を攻めようと考えた。これが伝わると、9日に伊勢国は騒動となり、日置(ひおき。映画『忍びの国』に「日置大膳」が登場し、これを「へき」と呼んでいるが、正しくは「へき」とは読まない。三重県一志町日置は「ひおき」と読む)大膳亮は他の場所が燃えているのを見て、細頸を焼いて大河内城に移った。他の者たちはそれぞれの城に籠もった。大御所(具教)と御本所(具房)は伊勢国南五郡の兵と共に大河内城に立て籠もり、城外には柵を二重に構え、兵糧を蓄え、城を堅固に守った。

大河内城以外では、今徳(こんどく)山城を奥山常陸介、小森上野城を藤方御所、木造城を木造御所(具政。具教の弟)、八田城を大和多兵部少輔(大「多和」の誤り。『勢州四家記』では「大多北」)、阿坂城を大宮入道、船江城を本田右衛門尉(『勢州四家記』では「左京亮」)、曽原城を天花寺(てんげじ)小次郎、岩内城を岩内御所(北畠一族。『伊勢国司記略』には、波瀬・岩内(いおち)・藤方に、「いつの頃よりにや、国司の一族すまれ」とあり、よくわかっていないようである。小林秀氏も、岩内氏について、「全体的にきわめて史料に乏しく」と記している)がそれぞれの兵と共にこれを守った。しかし、三好一党が畿内において反逆したために、信長卿はまず京都に攻め上ったので、伊勢を攻めなかったという。この時に、国司が足利家・織田家と和睦していれば、子孫は栄え、北畠の家が滅びることも無かったのである。…

信長が攻めてくると聞いてパニック状態になったことがうかがえます。しかし、北畠家はこれによって早めに防備を整えることができました。この時に攻めることができていれば、信長の北畠との戦いはもう少し容易なものになっていたことでしょう。

信長の攻撃を先送りにできたと一安心していた北畠家ですが、その後に大事件が勃発、これが織田と北畠の血戦につながることになります。

…5月、木造父子が謀叛したので、再び伊勢国は騒動となった。この木造御所というのは北畠晴具卿の弟である(『北畠物語』では、「晴具卿の子息の具教卿の弟で」、『勢州四家記』には「国司の甥」と書かれている)。亡くなった木造具康(『尊卑文脈』には、父の俊茂に殺害されたとある)は晴具卿の妹婿で、女子はあったが男子が無かったので、北畠晴具卿の子息を婿養子として迎え、木造兵庫頭具政と名乗った。この具政には正妻に子が生まれなかったので、側室の子に家督を譲った。これが木造左衛門佐長政である。隠居した具康は戸木(へき)に移り住み、戸木御所と呼ばれた(『伊勢国司記略』には、「永禄年中木造中将具政入道して、木造の城をば男左衛門佐長正にゆずり、自らは此城に移りすみ、戸木入道と称す。国人は戸木御所と申けり」「『蒲生記』は日置に作れり、誤なり。日置は和名鈔に比於木と訓し、其時は一志郡の郷名なれど、今は下りて村名となり、戸木とは別なる所なり」とある)。しかし、この木造父子はいささか不満なことがあったので(『北畠物語』では「宿意」(以前からの恨み)があった、とある。)、北畠氏の一族であるということを忘れ、謀叛を企み、織田信長卿のもとに降ったのである。これは、出家していた木造源城寺(『木造記』には「源城院主玄」とあり、僧名は「主玄」であったようである)という、木造具康の庶子にして、文武に優れ、国の治め方をよく知る者が、木造の家老・柘植三郎左衛門尉と話し合い、木造父子に諫言したことによる(『勢州四家記』には、「木造家が信長についたのは、木造家の菩提所源浄院[『木造記』には「法花宗」とあり、法華宗の寺であったようである]と柘植三郎左衛門が勧めたためであった」とあり、『木造記』には、一門の筆頭である木造家は、多芸の祭で国司に続いて馬を引く栄誉を得ていたが、近年は田丸・大河内・坂内の三御所の後に馬を引くことが続き、これに抗議したのに、具教卿はこれを受け入れなかったばかりか、去年から馬も引かせないようになったので、怒りの気持ちが募っていた、と謀叛の理由が書かれている。また、木造家に対する織田掃部助の誘いに対し、具康(具政の誤り)は「たしかに国司に対し面白く思っていないけれども、同族の国司を攻めるのには賛成できない」と迷ったが、これに対し源浄院と柘植三郎左衛門が、「国司は一族なので、味方すべきところであるが、近年は不和である。信長に味方すると返事をせねば、ば、木造城は信長との境目にあるので、真っ先に攻められることになります。国司と関係が良いのであれば、その援軍を期待して城に籠もり、長く城を保たせることができましょうが、関係が悪化している今では、謝って援軍を頼むことも悔しいことです。だからといって、国司にも、信長にも逆らっては、籠城を成功させることは到底できません。ここは信長に味方するしかないでしょう」、と言って信長に味方することを勧めた、とあり、『総見記』には、木造の一族に源城寺という会下僧(自分の寺を持たず、修行している僧侶)がいたが、この僧は優れた才覚を持ち、弁舌に優れ、勇気も盛んであった。また、木造の家老に柘植三郎左衛門という者がいたが、この者が現在の情勢を考えて見るに、信長の威光はついには天下全体に知れ渡ることになるだろう、一方で国司方は柔弱で、何事においても衰微の風があった。このまま公方の味方につかなければ、国を保ち、家を残すこともできないであろう、行く末は危うく、滅亡が差し迫っている…、そこで、家のため、主君のため、自分のために、主君の具正・長正に(源城寺と共に)何度も諫言して、遂に信長の味方になることに同意させた、とある)。…

なんと一族、それも具教の実の弟の木造具政が織田方に寝返ったというのですね(◎_◎;)

北畠一族の特異な点は、分家は子に跡を継がすことができず、代々、本家から養子を迎えている、というものです。

その中で、木造家は例外的に親から子へ、代々家督を継がせることができていました。先に述べたように将軍家に直接仕える家であったことも関係していたでしょうか。木造家は北畠一族の中でも特別な地位にあり、プライドが高かったと言えるでしょう。このことが謀叛につながったのかもしれません。

木造家の謀反に対し、具教は次のように反応をした、と『勢州軍記』にあります。

…国司はこれに怒り、人質としていた木造家の家老・柘植三郎左衛門尉の9歳の娘を、母と共に殺害した(『勢州四家記』には、柘植三郎左衛門尉が信長の家老滝川伊予守のもとに行き内通したので、「雲つ川」の端で「串指」にした、とある。『木造記』には「雲出川の端で張付にした」とある。また、その翌日、死体を奪取して弔った、と書かれている)。その後、沢・秋山などの南方衆(沢・秋山はどちらも大和国宇陀郡の武士である。沢は沢城主、秋山は神楽岡の城主。『木造記』には、本多左京亮・大田小兵部少輔が大将であった、とある)は数度にわたって木造城を攻めた。木造城中には海津喜三郎という鉄砲の名人がおり、攻め手がやってくる度にこれを撃退した。その頃鉄砲はまだ多くなかったという。木造城は特に頑丈な城であった上に、北方から織田掃部助・工藤・関・滝川が救援に駆けつけてきたので、木造城を短時間で攻め落とすことは不可能になってしまった。…

具教は木造城を攻めたものの、木造勢の奮戦と織田の増援もあり、攻略に失敗した、というのですね。

これについて、『木造記』には次のように詳しく記されています。

…沢・秋山がやって来たと聞いて、木造城からは柘植三郎左衛門が前川原まで打って出、雲出川を挟んでにらみ合った。日が暮れてきたので、敵方が4・5町南に後退したのを見て、木造勢は川を越え、木曾左衛門・海津六郎左衛門を先頭に敵を追いかけたところ、沢・秋山は取って返して木造勢を迎え撃った。海津・木曽は鉄砲の名人であったので、隙間なく敵を撃ったところ、敵方はこれにひるみ、逃げ崩れた。この時、秋山の家来は坂甚次郎をはじめとして多く討ち死にした。木造勢では、金子六ノ助・柘植彦次郎(柘植三郎左衛門の弟)が槍で敵を突き伏せ、首を取る手柄を立てた。木造勢は勝ちに乗じて追撃したが、だいぶ日も暮れてきていたので、勝鬨を挙げて木造城に戻った。敗北した国司勢は悔しく思い、色々と話し合いをしていたとところ、沢源六郎が進み出て次のように言った。「木造城は、そのすぐ目の前に雲出川があるので川を渡るのが難しく、勝利をあげづらい。ここは、須ヶ瀬の渡しを越え、川を背にして、まず戸木城を攻めるべきです。昔より今まで、川を背にして勝利をあげなかった例はありません」。本田左京亮はこれに対し、次のように言った。「言うことはもっともな事であるが、戸木城は北は沼田、南は稲代川、西には深き谷があり、平らな地は東にしかない。この東側には木造の一族の河方・牧が固めており、敵が攻め寄せてきたら、すぐに木造・戸木に報告すべく遠くを見張る兵を配置しており、油断が見られない。また、名将である具康が籠もっており、勝利は難しいだろう。私が思うに、小森上野城主・藤方刑部少輔に使いを送り、木造城を南北から挟み撃ちにすべきであろう」。一同はこれに納得し、何度も使いを送ったが、藤方は、もし上野を出れば、(安濃)津城から織田掃部助(津田一安)が出てきて上野城を攻めるのではないか、と用心して、ついに上野城を出なかった。この時、(安濃)津城側も、刑部が出陣したら上野城を攻め取ろうとして監視役を置き、監視役から合図が送られて来ればすぐに攻める手はずになっていたという。…


ここまでの顛末について、『足利季世記』には少し違った内容が記されています。

…信長は伊勢半国を手に入れ、残るは国司だけとなったが、どうにかして国司を滅ぼして伊勢一国を平定することができれば、伊賀も国司に従う者が多いので、自然と伊賀も手に入れることになるとして、謀をめぐらした。その結果、国司の一族である木造殿の家臣の柘植三郎左衛門・源城寺という禅僧が信長に味方し、信長方となった。源城寺は信長家臣の滝川左近一益[この時伊予守](谷口克広氏は伊予守となったのは天正3年「1575年]のことではないか、としている)の名字をもらってその養子となり、滝川三郎兵衛と名乗った。この2人は信長に召し出されて国司領を多く与えられ、信長衆を案内してこの年の5月、滝川一益を大将として伊勢の「ほうくみ」という所に出陣し、周辺を放火した。これに国司方が応戦して信長衆は負けて引き返した。…

木造家が謀叛した5月中に、織田勢が木造勢と共に「ほうくみ」(おそらく「ほそくみ」[漢字で保曹久美・細汲・細組]とも呼ばれていた「細頸」城のことか)を攻めて、負けてしまった、というのですね。『勢州軍記』にある、織田勢が救援にやって来た、という時に起きた小競り合いでしょうか。

さて、木造家が謀叛したことにより、北畠にくさびを打ち込むことに成功した織田信長は、これを好機と見て、伊勢に出陣することになるのです…!

2024年12月6日金曜日

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