社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 1月 2025

2025年1月31日金曜日

延暦寺、信長を訴える!~山門領勘落訴訟の事

 突然帰国した信長ですが、そのすぐ後に、ある騒動が起こります。

それはなんと、延暦寺が織田信長を訴えた、というものでした😕

いった、何があったのでしょうか…⁉

※マンガの後に補足・解説を載せています♪



『朝倉始末記』にはその騒動について次のように記されています。

…信長は洛中辺土(畿内周辺。『総見記』には「洛中洛外畿内近国」とある)の成敗(政治を行うこと)のために佐久間(信盛)・村井(貞勝)・森三左衛門尉(可成)・丹羽(長秀)・御長(菅屋長頼か)の5人を置いていた。森三左衛門尉は宇佐山に城を構えて、大津・坂本を担当していたが、延暦寺の荘園をことごとく押領した。延暦寺の僧たちは「これは我が寺の破滅につながることだ」と言って、内裏に書状を提出した。その内容は、「ぜひ綸旨を出していただいて、延暦寺の荘園を安堵し、違法行為をやめさせ、天下泰平の祈祷に励めるようにお願いしたい。延暦寺は鎮護国家の寺院であり、天子様にとって第一の霊場であります。内裏を建てる時は三回(鬼門に当たる場所にある)比叡山の土地を鎮め、延暦寺を創建するときは、悪魔の障害が都にやってくるのを防ぐために七里四方に結界を張りました。内裏と比叡山が一体であることは、世の人が知る所です。去年、織田信長が張良(前漢を建国した劉邦を支えた謀臣)の策、樊噲(同じく劉邦を支えた猛将)の威を振るって将軍(足利義昭)を助け、京都を守った。また、天子を敬い、皇居を修造した。その結果、今の世を(古代中国の聖王である)尭舜の頃と同じようなものとし、民を(古代中国の)周・漢の民と同じような気持ちを持たせるに至った。それだけでなく、厳命を下し、延暦寺が支配する荘園を昔のように安堵したので、仏法・王法(政治)がようやく再興できるのだと、喜悦の眉を開いていた(非常に喜んでいた)ところ、不測の事態が起こり、延暦寺に関わるすべての荘園が錐(きり)を立てることができないほどに無くなってしまったという。ああ、これは天魔の所行か。また、謀臣の讒言によるものか。事実であれば、延暦寺の破滅の時が来たということであります。神の加護が無ければ、どうして王法が守られるだろうか。仏の威光が無ければ、どうして武運を保つことができるだろうか。一刻も早く天子様にこのことをお知らせして、弾正忠(信長)に対して綸旨を出し、横領された荘園の返還を命じるべきです。そうなれば、我々は丹誠をこめて国家の安全と、玉体(天皇)の安穏を祈ることができるようになるでしょう。…永禄12年(1569年)10月24日 大衆(延暦寺の僧侶)等 錦小路右大弁殿(宛)」というものであった。

延暦寺の三塔(東塔・西塔・横川[よかわ]。延暦寺は3つの地域に分かれ、それぞれに仏堂がある)の僧侶たちが以上の内容の書状を提出したところ、これを天子様がお聞きになり、次の内容の綸旨を出された。「延暦寺領勘落(土地を横領されること)の事、三院の衆徒山訴(寺社が集団で訴えを起こすこと)を企て、牒状斯くの如し。『台嶺(比叡山のこと)破滅に及ばば、朝廷忽ち退転(『日葡辞書』に「中絶すること、または、消え去ること」とある)』の条、(正親町天皇は)歎き思し食(め)す所なり。『且つは(一方では)国家安寧の為、且つは(信長の)武運長久(戦場での幸運が続くこと)の為、早く還補(元の持ち主に戻すこと)せしめば、神妙たるべき(立派で優れた行いである)』の由、天気候所(天皇が仰せになっている)なり。同10月26日 (甘露寺)右大弁経元 織田弹正忠殿」綸旨の内容はこの通りであった。

朝山日乗上人がこれを受け取って、まず4人(5人では?)の奉行に内容を報告した。その後、朝山から内裏に返ってきた書状には次のように書かれていた。「延暦寺領のことについて、綸旨に書かれていた通りに、佐久間·村井·丹羽·林·於長に伝えて相談いたしましたところ、さまざまに考えをめぐらしたあげく、「その通りに致します」との返答を得ました。めでたいことであります。また、押領について、追及して明らかにするとのことです。このことについては、丹羽五郎左衛門と森三左衛門がまとめあげるとのことなので、安心なさってください。同11月11日 日乗上人 朝山 山門(延暦寺のこと)三執行代 人々御中」…

織田信長と延暦寺といえば、あの焼き討ちが真っ先に思い浮かびますが、最初から関係が悪かったわけではなかったようで、

織田信長が香禅坊という者に対し、近江国湯園荘の代官坊・被官人・竹林寺分を安堵する、という内容の永禄11年(1568年)11月付の文書が残っているのですが、この「湯園荘」は延暦寺の荘園ですので、信長が延暦寺の既得権益を認めていた、ということがわかります

このことは延暦寺が朝廷に提出した書状にも「…厳命を下し、延暦寺が支配する荘園を昔のように安堵した…」と書かれていますね。

しかしなぜ、延暦寺と対立するような織田方の押領事件が起こったのでしょうか。

『総見記』には、近年、寺社の者たちが領地を多く持ちすぎ、修行や学問をおろそかにして贅沢ざんまい、遊びほうけているという欲望まみれの心を持ち、それだけでなく、武士に対抗して兵乱に加わることもあり害悪となっているので、これを抑えるために五人の奉行たちが寺社の領地をことごとく押領させたのである、と書かれています。

領地が多すぎるために贅沢三昧で遊びほうけているのでこれを戒めるために押領を行なった、というのですね。

今谷明氏は『信長と天皇』で「江南地方は山門延暦寺領が多数散在し、当然のように織田家臣と山門との所領をめぐる紛議が絶えなかった」、藤井譲治氏は『天皇と天下人』で「六角氏を追った後の南の諸郡…は中世以来、比叡山延暦寺の勢力が強く及んだところで、その所領も多く存在した。そこに信長の支配が浸透していくことで、信長方と叡山方とがそこかしこで衝突した」とほぼ同じような考察をしています。

どちらも『総見記』と同じく、延暦寺領が多く存在していたことを原因に挙げていますが(ただし『総見記』は延暦寺に限定せず、全ての寺社に対して押領を行なった、と書いている)、延暦寺の領地はどれくらい多かったのでしょうか。

高橋昌明氏は『湖の国の中世史』で、現存する記録などから、近江にある荘園の4割は延暦寺のものだったのではないか、と考えています。

日本の荘園についての記録がまとめられている「日本荘園データベース」によれば、近江には498の荘園があり、そのうち146が延暦寺(山門)領なので、これだと約3割(29.3%)が延暦寺のものであった、ということになります。

今谷・藤井両氏は江南に延暦寺の荘園が多かったことを紛争の原因としているのですが、江南の諸郡(滋賀・栗田・野洲・甲賀・蒲生・神崎・愛知・犬上)における延暦寺の荘園の割合は約27%なので、江南に特に多かったわけではありません(むしろ江北の方が約35%と高い)。

また、両氏は「江南」に延暦寺領が多かった、と言っていますが、『朝倉始末記』には、先述したように大津・坂本を担当していた森可成が押領を行なった、としか書かれていないので、「江南」ではなく、大津・坂本がある「滋賀郡」に着目すべきなのですね。

滋賀郡に限定してみると、延暦寺の荘園は41%を占めているので、近江国全体の平均を上回っていることがわかります。

以上、延暦寺領が多すぎたことが紛争の原因であった、というのを検証してみましたが、他の説を挙げるのが渡辺守順氏で、『僧兵盛衰記』に「叡山の大衆はいつも信長に抵抗した。そこで、信長、まず家臣の森可成に命じて、近江国と美濃国にあった延暦寺領を没収した」と記していて、「延暦寺が信長に抵抗したこと」を原因に挙げています。

しかし、「延暦寺が信長に抵抗した」ということを示すような史料は管見の限りでは見当たらないのですよね…何をもとにそう書かれたのでしょうか?😵

また、「信長が命令した」と断定しているのもビックリです😓まぁ、独断でやると信長が怒るでしょうけど…。

渡辺氏が「美濃国」の延暦寺領にも触れているのは、『総見記』の次の記述に基づいたものでしょう。

…特に美濃にある延暦寺領を念入りに押領させた。この荘園は朝廷や公家によって寄進されたものではなく、越前の国主である朝倉の先祖が手に入れた土地であったが、越前と離れていて支配が難しかったので、何年か前の年に、「朝倉が苦しみ悩むことが起こった時には味方する事」との契約の上で延暦寺に寄進したものであった。朝廷や幕府に関わるものではなく、単なる朝倉の領地であったので、(気兼ねなく)ことごとく押領したのである。延暦の者たちはこれに怒り、訴えたが織田の奉行たちはこれに取り合わなかった。これを見て、近江国の織田家臣たちは、朝廷・幕府が寄進した延暦寺領を競って押領するようになったので、延暦寺は日を増すごとに衰えていくことになった。…  

どこまで本当のことを書いているかは謎ですが、信長が延暦寺は土地を多く持ちすぎている、と信長が考えていたのは事実かもしれません。

また、信長としては延暦寺の土地を奪わなければならない事情もあった、と考えられます。

なぜなら、信長は南近江を獲得しましたが、その際に六角家臣の主だった者たちは皆信長に従っており、新たに獲得できた土地は限られたものであったため、家臣に恩賞として与える土地が不足していたからです。

しかし解せないのは、先述したように信長が当初は延暦寺に対して安堵する対応を取っていたことと、1月14日に、義昭の承認のもと、信長の名で出された「殿中御掟」に、

・寺社本所領の当知行の地、謂なく押領の儀、堅く停止の事(寺院・神社の土地を不当に奪い取ることは禁止する)

…とあることです。

もしかすると、信長は延暦寺の土地を手に入れるつもりは無く、北畠攻めが長引いているうちに、出兵した者に代わり近江に残っていた者たちが狼藉を働いたのかもしれません。実際のところは不明、と言わざるを得ないのではありますまいか😓

さて、織田の押領に対し、延暦寺は訴状を朝廷に提出したわけですが、このことは『御湯殿上日記』に書かれており、裏付けが取れます。

「10月24日、かち井との なかはしまて 御まいり候て。山りやう のふなか おさへ候まま。山のものとも のほりてそせう申。ちょくしをと申候へとも。にはかに御ととのへなり候はぬとて。りんしいたされ候[やうに]とさす御申あり」(梶井殿[京都にある天台宗の寺である三千院の住持の事で、三千院は代々藤原氏や天皇家の子弟が住持となっていた格式の高い寺であった。当時は伏見宮貞敦親王の子で、 後奈良天皇の猶子≪養子と違い相続権が無い義子のこと≫となっていた応胤親王≪1531~1598年≫が住持となっていた。延暦寺の長である天台座主は、三千院と、青蓮院・妙法院の住持が交替で就くことになっており、応胤親王は天文22年≪1553年≫に天台座主となっていた。応胤親王の前は妙法院の尭尊親王であった]が長橋局までやって来て、延暦寺領が信長に押領されている件について、延暦寺の者たちが京都に行って訴訟に及ぶ動きがある事を伝えた。親王は朝廷の正式な書状である勅旨を出すことを願ったが、[勅旨は手続きが煩雑なので]急に用意はできないと回答すると、それならばと[格は勅旨・宣旨より劣るが、手続きが簡略な書状である]綸旨を出すことを願ってきた)

「10月25日、こよひも さす御まいりにて、いかやうにも りんし いたされ候やうにと御申」(今晩も座主がやって来て、ぜひ綸旨を出してくださいますように、と話していた)

これを受けて、10月26日に、『朝倉始末記』にあるように綸旨が出されるに至ったのでしょう。

織田方が「綸旨の内容通りに致します、事態の糾明に手を尽くします」と回答したのは翌月の11日と遅れました。その後はどうなったかは『朝倉始末記』には書かれていません。

今谷明氏は『信長と天皇』で「はたしてどの程度押領地の返還が行われたかは疑問である」、藤井譲治氏は『天皇と天下人』で「実質的には返還の引き延ばしをはかる内容といってよい」と書いていますが、『総見記』には、

…一寸の土地も大切であるので、あれやこれやと言い訳をして、返還は1日、1日と延びていった。

…と書かれていて、結局土地は返還されなかった、と記しています。

『信長公記』には、後に延暦寺が朝倉方に肩入れした際、信長は延暦寺に「こちらに味方すれば領国内にある延暦寺領は元の如く返還しよう」と持ちかけているので、『総見記』の言うように返還されずに終わった可能性は高いですね。

今回の話で出てきた書状や綸旨の内容は、同時代の史料では『朝倉始末記』にのみ見える物で、他の史料には書かれていないという不思議なものです。『朝倉始末記』は何をもとにして書いたのでしょうか?いったい、どのようにして内容を知ったのでしょうか?

『総見記』には、

…(織田方の対応に)延暦寺の者たちはますます怒り、信長に謀叛することにし、越前の朝倉義景に密かに使いを送り、延暦寺が滅亡に瀕していることを伝えた。また、『明日にでも朝倉殿は何とぞ帝都に攻め上られ、信長を退治していただきたい。そうすれば我らは先手となって朝倉軍を京に引き入れましょう。とにかく早々に出馬されることを願います』と朝倉方に訴え、しきりに謀叛を勧めた。すでに大兵乱の予兆は現れていたのである。

…とあります。『朝倉始末記』は朝倉氏旧臣が書いたとされていますが、『総見記』の言うように、延暦寺と朝倉氏が永禄12年(1569年)の段階で既に密かにつながっていたので、謀叛を勧めた際に訴状と綸旨の写しを渡したのでしょうか。そうなればしっくりくるので、『総見記』の内容が真実味を帯びてくるのですが…。

ともかく、今回の押領事件は、後に延暦寺が朝倉方に肩入れするきっかけとなり、比叡山焼き討ちにもつながっていく重要な事件であった、と言えるでしょう。

2025年1月27日月曜日

「突然帰国した信長~義昭との「せりあい」の理由とは⁉」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代『織田信長伝』ところにある、

「突然帰国した信長~義昭との「せりあい」の理由とは⁉」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2025年1月24日金曜日

突然帰国した信長~義昭との「せりあい」の理由とは⁉

 伊勢平定を終えた信長は、そのまま京都に直行しますが、そこで人々を驚かせる行動をとることになります…😐

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


『信長公記』には、伊勢平定後の行動が次にように記されています。

…信長は(岐阜に戻らずに)馬廻だけを従えて千草峠を越して上洛することにし、9日に千草に至った。その日、山中は大雪であった。10日に近江の市原(現東近江市市原野町)に泊まり、11日に京都に入った。…

大雪の山中を突破しているのはスゴイですね😅

11日に京都に入った、とありますが、

『御湯殿上日記』は10月13日条に「のふなか のほりて」(信長上りて)と記し、

『多聞院日記』は10月11日条に「10月11日条 信長「出」京(入京の誤りか?)、人数は3万であるという」と記しながら、19日条には「信長12日に上洛」と訂正し、

『今井宗久書札留』は12日巳の刻(午前10時頃)に上洛した、と記しています。

どうやら12日が正しそうですね。…となると、『信長公記』の10月10日が空白の時間になってしまうのですが、10日に滞在していた市原は京都からけっこう遠く(約60㎞)、歩いて13~14時間かかる距離にあるので、11日にはもう1つどこかで泊まったか、京都近郊に泊まって、12日に入京したか、どちらか、ということになるでしょうか。

入京後、『信長公記』には記述がありませんが、13日に内裏を訪問したようで、その時の模様について、『御湯殿上日記』には次のように書かれています。

「御しゅり みまい まいらせ候とてまいり。なかはしにて てんはいの御さか月たふ。なかはし御しゃくにてたふ。おとこたちみなみな しこうなり。かたしけなきとて。御たち。三千疋しん上申」[御修理見舞参らせ候とて参り(内裏の修理の様子を確認する[『日葡辞書』には「見舞…見に行くこと」とある]ために参内した)。長橋にて天盃の御杯答(長橋局にて信長は天皇から盃を賜った)。長橋御酌にて答(勾当内侍[当時は藤原好子]が酌をした)。男たち皆々伺候なり(公家たちは皆信長にご機嫌伺いに行った)。かたじけなきとて(天盃を賜ったのは畏れ多いことであると言って)。御太刀。三千疋(=30貫)進上申]

『信長記』には、…信長は日乗・島田所の介に、内裏のあらゆる面において修理を加えるように命令し、修理の開始を見届けて…という記述がありますが、内裏の修理が実際に開始されたのは翌年の1月5日であり(『御湯殿上日記』)、信長はこの時京都にはいませんでした。

ですので、『御湯殿上日記』の記す、「御しゅり みまい」と言うのは、内裏の修理の準備が順調に進んでいるかどうか確認しに来た、ということなのでしょう。

この時、信長は正親町天皇から天盃を賜っていますが、信長と天盃と言えば、以前に紹介したように、この年の1月19日、三毬打見物にやって来た信長に天盃を与える予定であったのが、手違いから遅れ、しびれを切らした信長が帰ってしまった、という事件がありましたね。今回はちゃんとスムーズにいったようです。また、前回の負い目があるからか、天盃を賜る場所も、小御所の庭から、御殿内部の長橋局に変更になっています。

桐野作人氏『織田信長』には「参内して、正親町天皇と長橋局で会見し、天盃を与えられている」とありますが、藤井譲治氏『信長の参内と政権構想』に「この時は天皇との対面はなく三献の儀も執り行われていない」とあるように、天皇と対面することはできなかったようです。藤井譲治氏は正式の「参内」とは天皇と対面し、三献の儀が執り行われることだ、と述べていますので、今回信長がやって来たのは正式な参内ではなかった、ということになります。

一方で将軍の足利義昭は将軍就任直後の永禄11年(1568年)10月22日と翌年2月26日に天皇と対面、三献の儀も執り行われる正式な「参内」をしています。

信長と義昭の待遇が異なることがわかりますが、それもそのはず、信長はそもそも無位無官の身で、昇殿が許された殿上人ではなかったのです(信長が位階を得るのはだいぶ遅れて1574年)。有馬真一氏もブログに「(大河)ドラマ[「麒麟がくる」のこと]では殿上人ではない信長が、殿上で天皇に会った風に描いていましたが、あんな無礼なことは絶対にあり得ません」と書いていますね。しかし、無位無官の身である信長が、御殿内部に入って(昇殿して)天盃を賜るというのは、異例の好待遇であったと言えるでしょう。

公家たちがこぞって信長のもとにご機嫌伺いにやってきた、ということからも、信長に対する特別扱いが伝わってきます。みな信長を効力のある判断を下してくれる存在とみなし、頼りにし、それだからこそ、気を遣っていたのでしょう。

内裏を訪問した後、信長は将軍・足利義昭と対面したようで、『信長公記』には、「勢州表一国平均に仰せ付けられたる様体、公方様へ仰せ上げられ」とあり、伊勢一国を平定したことを報告したようです。

『信長記』には、

…義昭公に、今回伊勢にて、兇徒らをことごとく攻め滅ぼし、万民撫育(万民を慈しみ育てること)につながる功績を挙げたこと、諸関を停止して、旅をする者の煩いを取り除くように命令を出したことを申し上げたところ、義昭公は非常に感じ入って、国光の脇差を信長に与えた。

…とあり、対面の模様が親密な様子であったように書かれていますが、実際はこの時に深刻な事態が発生していたようです。

『信長公記』は、

…(義昭との対面後)4・5日京都に滞在して、その間に畿内の事について話を聞き、10月17日、岐阜に戻った。

…と簡潔に帰国を記していますが、この帰国は尋常なものではなかったようで、

10月17日に、正親町天皇は女房奉書(天皇の意思を伝えるための書状。女官が仮名で記した)を作らせていますが、その内容は次のものでした。

信長にわかに帰国のよし、おどろきおほしめし候、いかやうのことにてかと心もとなきよし、たつておほせられたく候、はるはるの道にてわつらわしさながら、きと下かう候て、えい心のおもむきをつたへられ候はは、よろこひおほしめし候へきよし心え候て申とて候」(信長が突然帰国したと聞いて驚いている。いったい何があったのかと不安に思っているので、無理は承知しているが、その理由を信長に尋ねてきてほしい。信長は遠い所にいるので大変な事であるのだが、必ず岐阜に向かい、朕[われ]の思っていることを伝えてくれると喜ばしく思う)

信長の帰国は人々を驚かせるほど突然なものであったことがわかります😨

また、『二条宴乗記』には、年月不詳ですが、おそらくこの時期とされている記事があり、それには、

「19日 四時より雨降。…道春、菊殿より…書状遣。金吾、夜前、京より下向之由にて、石隼□使有。公方さまにて信長はをぬ、俄ニ帰国之由、各坂本迄追手ニかけ御留之由。然共不被帰よし申。…」

…とあり、途中「はをぬ」など意味が分からない部分もありますが、信長が「俄ニ帰国」したので、公家たちが坂本まで追いかけ、引きとめようとしたものの、京都に戻ることは無かった、と記されており、こちらも「俄(突然)」であったという表現がなされています。

(この記事が永禄12年(1569年)のものであるならば、信長は京都を出た後、坂本にしばらく滞在していたということになる)

驚いたのは天皇・公家だけではなく、なんと織田家臣も同様であったようで、

11月21日付の今井宗久宛の柴田勝家の書状には、

…先日上洛された際に、「俄にお下りあり」、(それに至る事情について)詳しくうかがっていなかったので、「所存の外」(意外)の事でした。

…と書かれています。

 なぜ信長は突然帰国してしまったのでしょうか?

『多聞院日記』には「16日に上意とせりあいて下了」とあります。

「上意」とは『日葡辞書』に「公方の命令、また、公方自身のこと」とあり、将軍・足利義昭の事を指しますが、「せりあい」とは、1867年に編まれた『和英語林集成』に「言い争うこと。口論」という意味だと書かれており、つまり、『多聞院日記』のこの記述は、「信長は義昭と口論になって帰国した」、ということを意味しています。

信長と義昭はなぜ口論になってしまったのでしょうか??

当時の史料にはその理由を示したものがありませんので、推測するしかないのですが、現代の研究者たちはどのように考えているのか、見てみましょう。

・臼井進「室町幕府と織田政権の関係について」(1995)…「確証はないが北畠攻めが将軍との不和の一因で有った可能性がある」

・武田鏡村『大いなる謎・織田信長』(1995)…「信長が独断で進めた伊勢の支配をめぐって、義昭と意見が対立したようである」

・谷口克広『織田信長合戦全録』(2002)…「喧嘩の原因はだいたい想像がつく。それは、この3か月後、信長が義昭に承認させた条書があるからである。…信長は義昭の将軍としての行動を封じようとしたのである」

・谷口克広『信長の政略』(2013)…「北畠氏攻め自体、義昭は反対だったのかもしれない」

・谷口克広『信長と将軍義昭』(2014)…「あくまでも憶測にすぎないけれど、そうであるとすれば、信長は、将軍の力によってなんとか勝利をつかむことができたということである。義昭に「借り」ができたということは、信長としてはたいへん不本意な事態に違いない。逆に義昭には、大いに自信を与えるきっかけになったのではなかろうか。義昭のことである。一時的にしろ、将軍の権威が回復したものと過度な思い込みを持ったかもしれない。いずれにしても、信長と義昭とのカ関係に微妙な変化が生じてしまった。それが信長と義昭との衝突の原因になったのではないだろうか。」

・桐野作人『織田信長』(2014)…伊勢国司家=北畠氏は室町幕府体制の構成員である。たとえば、将軍義輝時代の奉公衆や大名を書き上げた『永禄六年諸役人附』の「外様衆 大名在国衆」のなかに北畠具教・具房父子の名前が見える(「北畠中納言」「同少将」)。それだけでなく、伊勢の在国衆として「長野若狭守」の名前も見える。これは具教の二男で長野氏を継いだ長野具藤のことだろう。また、北畠氏は毎年のように朝廷にも礼物を献上している。ところが、信長は北畠・長野両氏を攻め、その家督を自分の連枝によって差し替えてしまった。義昭がこれを見て、室町殿の自分に断りもない独断専行だと感じて異議を唱えたため、信長が怒って帰国したと考えるのが比較的自然である」

・谷口克広『織田信長の外交』(2015)…「では、喧嘩の原因はなんだったのだろうか。タイミングからいって、北畠攻めに関係することに違いない。義昭が仲介した可能性のある講和にからむことか、あるいは北畠攻めそのものをめぐる意見の対立か、具体的なことは不明だが…

・久野雅司『足利義昭と織田信長』(2017)…「時機的にみて、信長による伊勢北畠氏の征討に起因していると考えられている。北畠氏との合戦での講和の背景には義昭による調停があり、それが両者間に齟齬をもたらしたことや、義昭が信長の伊勢平定を快く思わなかったことなどが指摘されている。しかし、これも義昭と大名との関係における、政権構想の枠組みから検討する必要がある。家格についての義昭の意識を踏まえると、信長は自分の実子を北畠家の継嗣としたことから(「原本信長記」)、義昭にとっては武家の家格秩序を乱すことであるため容認し難く、これによって齟齬が生じた可能性が考えられる」

信長と義昭の口論の原因となったのは北畠氏をめぐる問題だったのではないか、と考える方が多いですね😕

北畠氏関係で何が両者を対立させたのか、これは意見は2つに分かれます。

①信長が室町幕府の構成員の1人である北畠氏の家督を自身の子に継がせることを独断で決めたことに対する義昭の反発。

②信長は義昭の力を借りて北畠氏と和睦することに成功したが、それにより、義昭が自信を深め、信長との力関係に変化が生じた。

この2つの説だと、前者はあまり正しいとは思えません。

なぜなら、北畠氏との和睦には前述の通り幕臣の細川藤孝が関わっており、「独断」であるとは考えられませんし(水野嶺氏も『戦国末期の足利将軍権力』(2020)で「この衝突は、義昭が伊勢平定を快く思っていなかったための衝突であると説明される。ところが、義昭自身が織田・北畠間の和睦に動いていることもあり、問題は伊勢攻めのみではないように思われる」と書いている)、北畠氏は滅亡するわけではなく、家は存続します。家督は織田信長の子が継ぐものの、北畠氏の娘と結婚することになっていて、北畠氏の血は続くことになっていますし。

可能性が大きいのは後者の説でしょう。永禄12年(1569年)は、義昭の自信を大いに深める年になっていました。

本国寺の変では信長の援軍を待たずに三好三人衆を撃退することに成功し、伊勢平定では自身が仲介することで和睦を成立させることに成功しています。

以前に紹介したように、伴天連追放の綸旨が出された時に「都にいることを認めるか、追放するかどうかは、帝が決められることではなく、余が決めることである」と発言したのも、その自信の表れでしょうか。

自信を深めた義昭は、大恩のある信長に対する態度がぞんざいな…尊大なものになっていたのかもしれません。それに怒った信長が岐阜に引っ込んでしまったのではないか…、という推測を立てることもできます。

また、水野嶺氏は『戦国末期の足利将軍権力』で次のように言っています

「『信長記』[『信長公記』]にも、この時の上洛に際して「天下之儀」を仰せ聞かせられたとあり、幕府運営に関わる問題の意見対立があったのであろう」

「天下之儀」とは、「天下」…当時は畿内周辺を指す、「儀」…『日葡辞書』に「往々’事柄’を意味する「事」という語の代わりに用いられる」、つまり、「畿内周辺の事ども」を意味しますが、

後にふれることになりますが、翌年1月に出される「五ヶ条の条書」というものに、

「天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は…」

という部分があり、これは、義昭が「畿内周辺の事どもを信長に委任していた」ということを示しています。

水野嶺氏は、信長に委任されていたはずの「畿内周辺の事ども」をめぐって対立が起きたのではないか、と考えているわけですが、

自信を得た義昭が信長の意見を聞かずに独断で物事を進めるようになっていて、これに信長が怒った、と考えることもできます。

久野雅司氏は、『足利義昭と織田信長』で「信長に任されたのは…敵対勢力を「成敗する」権限」であった、と言っていますが、

『細川両家記』には、10月26日に「御所様」(足利義昭)が、伊丹・池田・和田を播磨の赤松野州(政秀)の加勢に向かわせた。三人は浦上内蔵介の城を攻め落として帰国した。城主は討ち死にした…とあり、ここからは、義昭が自身の配下にある軍団だけでもって播磨に兵を進めていることがわかります。

おそらく、これは義昭の独断であって、これに対して信長は自身の「敵対勢力を「成敗する」権限」が侵された、と考えたのではないでしょうか。

(1月の堺仕置は織田家臣・幕臣の共同で実施、8月?に行われた播磨出兵は、織田家臣と幕臣の池田が共同で実施している)

久野雅司氏は、幕府と信長政権は幕府の権威を信長の武力がバックアップする、という相互補完関係にあった、と述べていますが、信長にとってはこの「武力」が自己のアイデンティティであり、譲れない点であったように私には思えます。

ですから、信長は義昭が播磨に対し、独自に兵を送ることを知って、自身のアイデンティティを傷つけられたように…自己の存在を否定されたように…自分を必要とされていないように感じ、怒って岐阜に帰国したのでしょう。

この子どもがすねたような行動について、水野嶺氏は『戦国末期の足利将軍権力』で「当時、将軍や管領などが不満を覚えると、交渉のために京都から離れるといった行為をみせることがあった。信長の急な離京も、こうした行動であったのである」と述べています。

天皇が伴天連追放令を出した時も、フロイスは岐阜にいる信長を頼り、公家たちも京都周辺に関することを解決してもらうために岐阜に赴いて信長に裁定を求めていますが、ここからは、義昭が自信をつけてきているといえど、実効力を伴った決定ができるのは信長である、と人々が考えていたことがうかがえます。

幕府運営が機能不全に陥ることを恐れた義昭は信長との関係の修復をはからざるを得ませんでした(『言継卿記』11月1日条からは、義昭の乳母である大蔵卿局が「岐阜へ下向」していることが確認できる)

黒嶋敏氏は『天下人と2人の将軍』で、岐阜に帰った信長と京都の義昭との間で、関係修復の意味も込めた交渉があったことは確かである。そして交渉時には、…とくに信長の立場と権限を明確にしておく必要があった」、と述べていますが、このようにして両者間で交渉が重ねられた結果、翌年の1月に出されるに至ったのが「五ヶ条の条書」だった、と考えられるでしょう


2025年1月8日水曜日

「血戦、大河内城!~大河内国司退城の事」の2ページ目を更新!

 「歴史」「戦国・安土桃山時代マンガで読む!『信長公記』ところにある、

「血戦、大河内城!~大河内国司退城の事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

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