社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~: 1月 2026

2026年1月16日金曜日

派手に遊ぶ札差

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

鈴木寿氏『近世知行制の研究』によれば、江戸時代、幕府の家来の武士(つまり旗本・御家人)の11%は自身の土地を持ち、その土地の年貢を得て生活していましたが、残りの中・下級の武士は自分の土地を持たず、米をもらって生活をしていました。

つまり、ほとんどの武士はサラリーマンのような生活を送っていたわけですね。その米(切米。俸禄米。旧暦2・5・10月の3季に分けて支給された。本来は秋の収穫後の10月のみであったが、1675年以後、その一部を前借するという形で2・5月にも支給されるようになった。2・5月がそれぞれ4分の1、10月が4分の2)の受け取り方について、『業要集』には、浅草の御藏(幕領から集まってきた年貢米を保管する倉庫)に出向いて、来た順に自身の名前が書かれた受け取り証明書である切米手形(札)を[藁苞(わらづと。藁を束ねたもの)に]差し、順番待ちをする、とありますが、末岡照啓氏『徳川家臣団と江戸の金融史』によると、順番待ちのために近辺の米屋で休憩している際に(『世事見聞録』には「昔は葭簀(すだれ)張りの水茶屋にて、御切米を請け取りに出でし侍どもの休息所」とある)、その「米屋と親しくなり、請取業務を代行」させるようになった…つまり、自分の名前を書いた差し札を代わりに差してもらい、米も受け取ってもらうようにした、この差し札を用いた受け取り代行サービスが、「札差」の名前の由来であり起源となったそうです(横井時冬氏の札差考には、「札差といふ名称は、昔庫米受取手形の渡るや、其人名をしるして、これを割竹に挟み、蔵役所の藁包に挿したるに濫觴す、⋯札差とは旗本の庫米受取方より売買までを受負ふ所の商人」とある)。

(※差し札は天和年間[1681~1683年]から名前を書いた玉に代わり、さらにその玉を使ってくじ引き[玉を穴のあいた柄杓を入れ、これを振る]をし、自分の玉が落ちた順番に米を受け取る方式に変更された)

武士が俸禄米の受け取りを札差に委ねたことについて、

『業要集』には「御外聞に拘り」とあり、

三田村鳶魚は「江戸時代の法定利率」にて、「御蔵の前に掛茶屋が数軒あって、俸禄を請取に来た本人若しくは代人が其処に休憩するだけであったのが、現米を請取って自邸へ引取り、それから商人相手に剰余米を払うという、不得手な事柄に迷惑したので、何時か払米を此の掛茶屋に託し、又た蔵米請取手続をも委ねて、依頼者たる武士等は御蔵へ出頭せずとも済むような便宜な事になった」と記し、

鈴木直二氏『江戸における米取引の研究』には、平沼淑郎(1864~1938年)が札差の起源について「旗本御家人達は自ら米蔵へ行つて扶持米を受取るのは武士の外面上それを嫌ひ、且又その受取方手数の繁雑にしてそれによる無駄な日時の空費を避ける為め、米倉附近の茶屋店人をして自分の扶持米を代理受取らしめ、以て叙上の不便を取除かうとしたのである、それが札差業務の濫觴である」と講述した、とあります。

また、札差のサービスは受け取り代行にとどまらず、受け取った米を武士の食べる分を除いて現金化し、食べる分の米と現金を武士に渡すようになります。至れり尽くせりですが、もちろんタダではなく、手数料(『江戸物価事典』によると、米100俵につき、受取手数料が金1分[1分は1両の4分の1]、売却手数料が金2分)がとられました。

武士は、その後札差に対して受け取り代行・現金化サービスだけでなく、「蔵米を引当に家計費を借用するようにな」ります。蔵米を担保にして借金をするようになった、というのですね。本当は受け取った米を売ってお金に換えて、それで生活するのですが、それだけでは不十分な時、米を売って得られるもの以上のお金を借りたわけです。

借金の利息について、25%であったのを、幕府は1724年に15%と公定しましたが、それではやっていけない、せめて18%は欲しい、と札差たちが泣きついたので、これに対し幕府は「15%を超える少々の分は当事者同士の相談で決定する事」と返答していますから、その後の利率は15%を超える数字であったようです。1749年には、幕府は利率を改定して18%と定めています。

この利率は高い方なんでしょうか、低い方なんでしょうか。

他の金貸しと比べてみましょう。

・質屋…銭100文までは36%(後に50%)、2両までは28%(後に32%)、10両までは24%、100両までは20%、それ以上は相対(お互いの相談の上)で決定

・座頭金…盲人の金貸し。「草の実堂」のサイトによれば、鳥山検校は「5両1分」で貸していたという。1両=4分なので、5両=20分となり、1÷20×100=5、月々の利息が5%。年利は12を掛けて60%となる。

・からす金…その日の夕方、もしくは次の日の朝までに返す超短期の金貸し。100文を借りたら101文にして返した。日利1%、月利30%、年利360%。

これらと比べると良心的な利率と言えますね。

ちなみに現在は利息制限法により、10万円未満は20%まで、100万未満は18%まで、それ以上は15%までと決められています。

また、武士は利息とは別に「礼金」という者も札差に支払っていました。「礼金」とは何に対する礼なのか?実は、後でも述べますが、札差は資金が潤沢にあったわけではなかったようで、自身の持っている金だけをもって金貸しをしている者は少なく、そのため、他の金貸しから金を借りて、武士に渡していた…つまり借金の代行、借金の仲介をしていたのですね。武士の代わりに借金を取りまとめてくれた、その礼ということで「礼金」を払っていたようです(北原進氏『江戸の高利貸』によれば貸金額の1割[『世事見聞録』には「礼金一割二割など出し」とある)で、先引き[金を貸す際にあらかじめこの分を差し引くこと]であった)。もしこの「礼金」が無かったら、札差は利益が無くなってしまうことになります。金貸しへの返済をしなければなりませんから。金貸しの利率が15%を超えていたら、それは損をすることになってしまいます。だから、どうしても札差は15%を超える上乗せ分が欲しかったのであって、利率は高率にならざるを得なかったのです(三田村鳶魚は「掛茶屋が周旋した金融は、自分の資金ではないから、…資本主から借り出して来て、借款が成立した度毎に御礼を貰ったに違いない。借金する武士は資本主に払う利息の外に、此の御礼を負担しなければならぬ。利息と御礼とを合算すると此の借金は、世間一般のものよりも割の悪いものになる。慥に御礼だけ率が高いのだ。斯うした訳で蔵前の利息は率であるべき因縁を持つて居る」と述べている)。

しかし疑問なのは、武士はなぜ利率が高い札差から金を借りたのか?ということです。俸禄米の受け取り代行業をしていたので便利であった、というのもあったでしょうが、実はやむにやまれぬ理由があったようです。

幕府は1661年から1843年までの間に、8度も借金に関する訴訟は受け付けない…各自で相談して解決するように、との「相対済令」を出しています。つまり、武士が借金を返さない、と言ってきても金貸したちはこれを訴え出ることができなくなったわけです。

そうなると、金貸したちは武士に金を貸すことに二の足を踏むようになります(三田村鳶魚は又たも借金踏倒令を抛げ付けられて、貸方の町人は何とあろう。さもなくてさえ武士に対する債権は不安なのに、今は全く踏倒されるのである、斯ういう危険な放資は誰もする筈がない。此の際武士に金を貸す者があろうとは思えぬ」と述べている)。

そこで、8代将軍・徳川吉宗が考えた作戦というのが、武士専門の金貸しを創設する事であり、そこで白羽の矢が立ったのが武士の俸禄米受け取り代行を担当していた浅草御藏前の茶屋・米屋などの商人であったわけです。

1723年、吉宗はまず、伊勢屋八郎兵衛なる商人に、これまで札差たちが半ば独占的に取り扱ってきた蔵米を取り扱わせることとし、しかも「いきなり武士全員の蔵米を取り扱うのは難しいだろうから、まずはできる分だけ取り扱い、1年後に状況を見て取扱人数を増やすように」(『享保八録』)という指示まで与えました。

これに驚いたのが札差たちで、翌年、幕府に次の事を請願しました。

・以前から浅草御蔵前で蔵米を取り扱っていた109人を札差の株仲間として認可し、株仲間以外の者に営業を認めないで欲しい(「百九人限札差宿相勤外之者、猥不仕候様に御觸流被為成下候様奉願上候」)。

・認めていただけるならば、借金の利率は25%から20%に引き下げます。米相場に関する不正も行いません(北原進氏は「寛政の『棄捐令』について」で、「札差は、その経営の中に米売方仲間・米屋仲間と称する私的な米仲買株仲間を擁し、蔵前相場を自ら立てて自らの手に引落す体制を、この頃まだ保っていた。すなわち彼らは、蔵米の換金手数料と債務者旗本御家人から収奪する高利との、公認収益のほかに、米仲間として蔵前相場をある程度左右して得る収益も、莫大なものがあったとみられる」と述べている)。

幕府の作戦に札差たちはまんまと乗り、自分たちから利率を下げると言ってきたわけですね。

幕府は株仲間を認める代わりに、先に述べたようにさらに15%に引き下げるように求め、これでは営業が苦しいと札差が陳情したので少々の上乗せは許可することになるのですが、これで幕府は武士の金貸しを確保するとともに、その利率を統制下に置くことに成功したわけです。

三田村鳶魚は幕府の作戦について「貸人を限定し、其の利率を控制すれば、旗本御家人等が乱暴な借金及び不法な利息から免れられると思い立たれたらしい。そうならば蔵前に札差を創業させたことは、武士等の家道庇護に他ならぬ」と評価しています。

しかし時間が経つにつれて、統制も次第に緩んでいったようで、安永6年(1777年)には札差仲間のリーダーが奉行所に呼び出されて、次のように言い渡されています。

…札差の中には、規定の金利を超えて貸し付ける者や、受け取り代行業務の際に高い礼金を受け取っている者がいるようだが、その者の名前や住所を報告せよ。…

これに対して札差たちは回答期限の延期を願う・申し渡しの内容を否定するなど、問題解決に消極的な姿勢を見せましたが、幕府はこれを許さず、61人に罰金、12人に注意、という処罰を与えています(25人はお咎めなし)。

ここからもわかるように札差は暴利をむさぼっており、これに加え、北原進氏『百万都市 江戸の生活』で述べているように、武士が借金を「返せないと元利を合計して新借金証に書きかえ、月数をごまかして二重利子を取るなど、不正な利殖手段」をさまざまに行った結果、財産もかなりのものになっていたようで、文化13年(1816年)に書かれた『世事見聞録』には「浅草御蔵前の礼差といふ者、希有に十分の勝手を得、富めるものなり」「いづれも大造(たいそう)に奢り暮し」とあります。そのことがよくわかるのが「十八大通」という言葉です。

山東京山が『蜘蛛の糸巻』で「天明の比、花車風流を事とする者を大通又は通人、通家などと唱へて、此妖風世に行はる。その中にも十八大通とて、十八人の通人ありけり」と述べているように、明和・天明(1764~1789年)の頃、「十八大通」と呼ばれた者たちがいました。

「十八大通」といいますが、18人の決まったメンバーがいたわけではなかったようで、川崎房五郎氏『十八大通の話』には、「十八大通は、十八人の粋人の意だが、どうも明和時代の人々で通人とよばれた人々、更に天明になって通人とよばれた人のいわば、近接して二期があって、その混乱が、十八人は誰と誰ということがはっきりしない原因のようである」とあります。

また、川崎氏は「吉原で、「きれいに遊ぶ」ことを見栄にして、豪快な金の使い方をした人を十八大通とよんだのだが、それにはあつさりしている。しつっこくないということが条件だったようだ」と述べています。

派手なお金の使い方をして、さっぱりしている、それが「十八大通」と呼ばれた者たちであったようですが、川崎房五郎氏が「十八大通の多くは札差であったという。札差でなくては豪奢な振舞いは出来なかったといえる」と述べているように、その多くは札差によって占められていたようです。

その派手な暮らしについて、三升屋ニ三治(みますやにそうじ)が『十八大通 一名御蔵前馬鹿物語』(1846年刊)に書いています(脚色もあるかもしれないが、本人は「此草紙は、土地柄の馬鹿馬鹿敷異風を、有の儘にあらはしたる書にて、啌(うそ)いつはりなし」と記す)が、その一部を紹介すると、次のようになります。

・大口屋八兵衛という札差は、博奕で一晩で四百両(現在の約800万円)を使い、手持ちの金が無くなると1200両の不動産価値のある屋敷を賭けたものの、博奕に負けてこれを失った、といいます。

・下野屋十右衛門という札差は、大山神社に太刀を奉納するために、自身は駕籠に乗り、町の者4・50人を集めて供にして、念仏を唱えながら進ませる、ということをやり、途中で役人に分不相応なことをして不届きである、と駕籠から引きずり降ろされ、十右衛門は処罰として入牢を申し渡されています。

・笠倉屋平十郎という札差は、札差の中でも大身代(大金持ち)で、所持していた小判に勝手に「平」の字を刻印して使用したので、世間の人々はこれを「平十郎小判」と呼んだ。橋場町に築いた別荘は、「平十郎屋敷」と呼ばれ、庭の石や樹木は、なかなか大名も及ばないほどの、美を尽くした住居であった。寛政の改革で取り締まりに遭い、別荘は撤去、庭石は大名などに引き取られ、土地は没収された。

・伊勢屋宗四郎(全吏)という札差は、妾の「おみな」と太鼓持ちの連中を連れて歩いている時に、歩きながら俺が「おみな」にキスをするから、それをいちはやく見つけた者に1両(現在の約2万円)やろう、と言い、3・4間(300~400m)の間に12回キスをして、結果太鼓持ち達に12両やった、といいます。

「全吏妙見詣

二代目宗四郎は、四郎左衛門別家にして全吏といふ。至て金遣ひにて、月の十五日には柳島妙見へ参詣する。ある年の春、妾におみなといふ婦人有て、たいこ持五六人を連て、柳島船宿小倉屋より船に乗て、堅川筋より程なく船は妙見の川岸に着、おのおの上りて妙見へ参詣し、それより吾妻の森え土手つたいに向ふへかかり、むだ口大しやれかたがた行折から、其日の大尽全吏が思付に、おれがおみなの口を吸ながら先へ行から、跡より付て来て口を吸のを見付けた者には、一両づつやろふといふ故、是は能御趣向、左様ならあなたがおみな様の口を吸のを見付升たら一両下さり升か有難と、全吏を先に立て行程に、ここぞ能所と全吏おみなが襟元引寄てちよいと口を吸ば、跡の人々伺ひ来る故見付て、ソレ旦那見付升たといへば、南無三ソレ一両と紙入より出して投て遣る、又一二間行て例の通りくちを吸ふ、ソレ旦那ソレー両と、吾妻の森まで行道わづか三四町の土手の間に、おのれが妾の口を十二両が吸たといふ事、恐く此よふなたわけた金遣は、今の世の中にはあるまじ」

[※当時は1両=銀60匁=銭4000文で、1792年における京都の日雇いの1日の賃金が1匁でしたのでキス1回につき1両やった、というのは日雇い労働者の賃金の2か月分ちょっと(1か月で働く日数は25日程度であったため)もポンポンやっていたことになりますね。文化・文政期には大工の賃金は1日4匁程度であったので、こちらだと15日分程度になります(それでも十分すごいですが…)。合計12両というのは、日雇いだと2年5か月分ほど、大工だと7か月分くらいになります。ちょっとの遊びでスゴイ浪費ですね…💦]

このように札差がもうかっているということは、武士たちはだいぶ借金をして苦しんでいた、という事になります。

松平定信は『宇下人言』に、「蔵宿(札差)のことについて、旗本・御家人はみなこれより金を借りていた。その利息はどんどん膨らんでいって、いつ返済できるか先が見えず、旗本・御家人は困窮の度合いがますますひどくなっていた」と記しています。



安永6年の処置も、金利を適正なものにしようとしただけで、武士の救済にはなっていませんでした。また、『よしの冊子』に「蔵宿(札差)共奢侈強く武士を軽じ、甚不届成者多御座候由」とあるように、武士を軽んじおごりたかぶる態度が見られていたのも、何とかしなければならない点でした。

定信は『宇下人言』に当時の状況を次のように記しています。

…蔵宿はだんだんと驕りたかぶるようになり、御家人などを悪く扱い、しかも恐れる様子もなかった。武士が借金を頼みに行っても、蔵宿の主人は応対せずに手代を出して悪いようにあしらうなどというのは、甚だしくひどい振る舞いである。…

なかなか簡単に金を貸そうとしなかった、というのですが、これは、利息分の引き落としだけでやっていけているので、お金を貸して、返ってくる見込みがない者の場合はお金を損するだけなので、貸そうとしなかったのでしょう。

この様子については、『世事見聞録』にも次のように書かれています。

「御旗本・御家人は大切の得意旦那にてありけんを、当時は格外麁略(そりゃく)に取り扱ひ、二階の狭き所へ通し、やや久しく待たせ置きて、応対を手代どもに任せ、自身は逢ふ事なく、いかやうに申し入れたりとも、病気または他行など断りて面会に及ぶ事なく、己れは日夜遊興にのみ過ぎゆくなり。…右の振合ひにて御旗本・御家人の取扱ひ向きは皆手代どもなるが、これまた応対方と唱へて、強情なる人物を選みたるものにて無礼至極のものなり。…右体無礼を堪へ、丁寧を尽し、詫びあやまりても、弁用致しくるる事まれにて、多くは詮なく帰るなり」

武士と町人の立場が逆転してしまっていますね💦

この状況を打開するには、武士の経済状況を良くし、借金しなくてもよいようにする事…またはそうでなくとも、返済能力があるようにさせることが必要となります。

そこで、松平定信による棄捐令が実行されることになるのです🔥

ついに殺人事件まで!札差と武士の仁義なき戦い

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

「四分通拝借金」の実施後、札差たちが支障なく用を務めるようになった、とあります。これで一件落着したのでしょうか。しかし、『札差事略』を見ると、そう簡単にはいかなかったようです。

8月16日

…去年の秋に「御改正」があった後、格別の「御仁恵」をもって「御下ヶ金」を下付し、その上、この度、(出資金の貸し出しの利息を)6%とし、(武家に貸し出した金額の4割まで貸し出す)「四分通御下ヶ金」なども下付した。これにより、札旦那の用を支障なく、少しも「渋滞」無くつとめなければならぬところ、札差どもの中には、春の申し渡しの内容を忘れ、心得違いをしている者がおり、武家への貸出が「渋滞」している例がある、と聞いた。厳しく取り調べるところ、貸し出しがこれ以上遅れてもいけないので、この度「四分通御下ヶ金」を願いの通り下付する事としたのだから、今後は滞りなく三季の用をつとめるようにせよ。もしこれ以上「渋滞」することがあったと聞いたときは、その方どもの貸出金の帳面を取り上げ、詳しく取り調べた上、「渋滞」が確かにあったことが判明次第、「御下ヶ金」は残らず取り上げ、厳しく処分するので、今後は心得違いを致さず、組合の中で互いに確認し合い、もし心得違いの者がいたらば、組合の者が早々に訴え出るようにせよ。万一なおざりにし、その組合とは別の者から報告があった場合、または札旦那から申し出があった場合は、当の札差だけでなく、組合全員、「御下ヶ金」を取り上げ、厳しく処罰するので、常に「渋滞」がないか気を配るようにせよ。…

札差の中にはなおも貸し渋りをする者がいた、というのですね。

放漫な経営をしていた札差などは棄捐令によって大打撃を受けており、「四分通御下ヶ金」を借り受けたとしても、なかなか武士の要求通りに金を貸し出すのが難しい状況にあったようです。

『江戸三百年②江戸ッ子の生態』には次の記述があります。

「札差業はかつてなく萎縮してしまった。だが廃業者が続出するという程ではなかった。何人かの者があきらめて転業したが、株の売買比率からすれば、田沼期とあまり変わらない。ただ寛政3年(1791)に廃業した、堺屋金兵衛の場合は、棄捐令の被害をもろにかぶった犠牲者であろう。彼は森田町三番組に属する享保以来の札差で、一万二百両の債権を棄捐している。中堅の営業株であったといえよう。廃業してからの経緯は、次の口上書に詳しい。すなわち、…段々身上不如意に相成り、家業取続き難く終に相仕廻、夫より種々手段を尽し渡世仕来り候所、近来病身ニ相成り作業意に任せず、これに依って発心剃髪致し、此の節漂泊流浪の体に相成り、難渋至極、申す可き様もこれ無き仕合せにこれ在り候間⋯⋯止む事を得ず、各々方え御合力頼み上げ奉り度く存じ候、旧来の同家業の好ミを思い出され、何分格別の御沙汰、偏に頼み奉り候、 文化六巳年十一月 堺屋金兵衛こと、当時旅宿仕り候 秀山…棄捐令後、廃業に追込まれ、病身となったこともあって仕事が手につかず、ついに勧進僧となって諸国を乞食して歩くまでに零落したことがわかる。札差業を閉じてから十八年目、両国吉川町に宿をとった金兵衛は、さして遠くない蔵前の、昔の仲間に金の無心を頼んだのである。旧来の同業者同志の誼みを想い出して欲しいと願う痛々しい言葉から、かつて大通人を生み出した同じ札差の姿を連想する事はむずかしい」

棄捐令後に経営が悪化し、廃業した札差が出ていたことがわかります。

廃業したのは堺屋金兵衛だけではなく、他にも次の札差たちが廃業しています。

寛政3年(1791年)…田村屋長左衛門・堺屋金兵衛・小玉屋庄八

寛政5年(1793年)…江原屋佐兵衛

寛政8年(1796年)…※「笠倉屋平十郎札差株譲渡退去」※伊勢屋宗四郎・坂倉屋八九郎

寛政9年(1797年)…相模屋久兵衛・木村屋藤右衛門・伊勢屋喜八

寛政12年(1800年)…※下野屋十兵衛・米屋政八

享和3年(1801年)…※大内屋市兵衛・町屋伊左衛門

文化元年(1804年)…大口屋平十郎

文化2年(1805年)…坂倉屋権八

文化6年(1809年)…伊勢屋善三郎・伊勢屋市三郎

文化7年(1810年)…溜屋庄助 札差業が思わしくなく、会所御下げ金の返納も滞る有様だったため、札差株を会所に返納しようとしたが許可が下りなかったので、札差仲間に譲渡することとし、坂倉屋嘉兵衛がこれを譲り受け、拝借金の返済にもあたることとなった。

文化12年(1815年)…伊勢屋源十郎

文化15年(1818年)…泉屋九兵衛

このうち、※マークがついている者は十八大通として名前が挙がっていた面々ですが、「平十郎小判」「平十郎屋敷」の笠倉屋平十郎・キス遊びの伊勢屋宗四郎も過度の散財がたたって廃業するに至ったことがわかります。

廃業者を先に述べたA~Eランクに分けてみると、Aランク(棄捐高2万両~)1人(Aランクのうち5%)、Bランク(1万両~)7人(23%)、Cランク(5千両~)2人(14%)、Dランク(1000両~)7人(37%)、Eランク(1000両未満)4人(29%)、となります。

多くの財産を持っていたAランクの札差はほぼ盤石であったようですが、それ以下の札差は軒並み苦しんだようです。

しかし苦しいからといって、札差が武士に貸し出しを渋るのであれば、武士は立ち行かなくなります。

この危機に武士はどのように対処したのでしょうか。

北島正元氏『幕藩制の苦悶』には、「かれらのなかには苦しまぎれに、弁舌にすぐれ、腕っ節のたつ浪人や町人を使って札差に金融の再開を強談させるものが現われた。この借金業者を蔵宿師とよんだ」とあります。

この「蔵宿師」について、『世事見聞録』には「近来、貸借利潤の稼ぎにて、武家を犯し掠むるを業としたる浪人あまたありて、所々へすみ込み、また家来ともあらず、出入りなど唱へて大禄の身上を請け負ひて、利潤を付くるなり。武家は一時の弁用へ引き込まれ、つひにこれらに手を食はれ、瀬もなき淵に沈む族多くあることなり」と記されています。

『業要集』には、「蔵宿師」というのは、最初は「御直取世話人」と名乗り、金貸口入(仲介・斡旋)浪人、あるいは、御家人の番代(欠員が生じたときに臨時に役職を務める者)を売却し、浪人となっていた者、または、御武家方の御用人などを勤めていたが、職を失った者がこれを務め、享保から宝暦の頃までは御直取の世話をもっぱら家業のように行って、生計を立てていた、とあります。

「直取」(じきとり)とは何でしょうか?

直取とは、武士が切米の受け取りを札差に代行させるのではなく、自分で直接受け取りに行き、また、自身で米屋に赴いて米の換金を行なうことです。「御直取世話人」というのは、これを代行する業務でした。つまり札差と同じことをやるわけです。

札差ではなく「御直取世話人」に代行を任せると、武士になにか旨味はあるのでしょうか?

北原進氏『江戸の札差』には、「俸禄米の支給手形を、なんとか札差に渡さずに、自ら受領手続きを済ませてしまえば、抵当の米を札差に押えられないし、借金の元利を、米の代金から差引かれないではないか」とあります。

札差は代行して米・金を受け取った際に、それを米屋に売却して得た金から、手数料だけでなく借金分も差し引いて武士に渡していました。

武士としては、「御直取世話人」に任せれば、借金分の引き落としが無くなり、より多くの金が手元に入ると考えたわけです。つまり武士には借金の踏み倒しが直取の目的にあったという事になります。

直取をされると札差としては商売の元手となる米が手に入らなくなってしまいますし、借金の引き落としもできなくなってしまう事にもなりますから、大変に困るわけで、何とかこれを阻止したいと考えて、武士と激しい攻防を繰り広げていくことになります。

「直取」について史料上に見られるようになるのは享保9年(1724年)のことで、

『札差事略』には、御蔵番の川井小助という者が、武士の直取の世話をしていたという事で免職になった、とあります。

享保14年(1729年)には、天野源次郎という武士が直取を行なっていた、とあります。

宝暦4年(1754年)には、札差たちが武士が「直取」をしないように、「直取」をする者が減るように幕府に嘆願しています。この際に、直取の例として山崎縫殿助(ぬいどののすけ)を挙げています。訴状によると、縫殿助は、上総屋忠兵衛に438両借りていたが、今年の冬に残る借金は毎年50俵ずつの返済にしたい、と持ち掛け、上総屋がそれは難しい、とこれを断ったところ、それならば切米手形を渡さない、というのでしぶしぶその通りにしたが、切米手形を渡すことなく、親類の家来である石渡音右衛門に直取をさせてしまった、そこで上総屋が話が違う、言われた通りにしたのだから、米金渡切手(引換券)をお渡しいただきたい、と言ったが、縫殿助は切手を上総屋に渡さず、別の札差に渡してしまった、とあります。

札差の嘆願を受けて、幕府は直取をする者の氏名を報告させています。

10月に幕府は直取をする者が減ったかどうかを札差に尋ねた際、札差は「5人解決しましたが、9月に報告した人数に加え、「御切米御手形」をお渡しにならない方が新たに109人追加でおられることがわかりました」、と報告しています。

じゃあ合計でどれくらいいたのかというと、11月の札差報告には「御直差」をされる方が170人様ほどいた、とあります。そしてこの報告書にはこのうち150人様ほどについて解決し、残りは20人様ほどです、と記されており、氏名報告の効果が大きかったことがうかがえます。

しかし、その後また直取をする武士が多く現れたようで、明和3年(1766年)11月29日には札差たちにより再度直取禁止の嘆願が行われています。

その訴状には、「近年、御切米の時期に差し掛かると、不相応の借金を要求されたり、借金の返済を非常に長い年賦に変更するように要求されたりして、これを受け入れないのならば、御切米御手形を渡さない、とおっしゃられるので、私どもの家業は苦境に陥っております。また、最近、御直取の方が時々見受けられるようになっていましたが、特に今年の冬には御直取の御方がおびただしく増え(『札差事略 六』には、一季に100人余り増えた、とある)、この具合では、来年の春にはさらに人数が増え、難儀の極みに至ることでしょう」とあります。

これを受けて、翌明和4年に幕府は札差たちを呼び出し次のように話をしています。

…7月9日、依田豊前守様から呼び出しがあったので、翌日に出頭したところ、1人ずつ呼び出されて次のように話を受けた。「武家方の浪人の者が、切米直取・借金の世話の件で、無理な金銭の要求が行っていると聞く。包み隠さずその内容について報告せよ」…

その後どのような処分が行われたかはわからないのですが、その後も直取をめぐるトラブルは続いています(安永7年[1778年]2件・寛政9年[1797年]・享和2年[1802年]・文化元年[1804年]5件・文化12年[1815年])。それでもまぁ、「直取」に対する締め付けが厳しくなり、やりにくくなったのは確かなことであるので、「御直取世話人」たちは別の稼ぎ方を探す必要がありました。

『業要集』には、借金・御宿替え(担当する札差の変更)の仲介に当たり、札差方にやって来て無理難題を吹っ掛け、金を無理に借り受けて、礼金などをもらい受けることで生計を立てるようになった、これを「蔵宿師」と呼ぶようになったが、いずれも浪人風の者たちであり、手荒なことはしてこなかったが、寛政元年の御改正による棄捐により、札差が困窮し、金を貸し出すことが容易ではなくなると、浪人風の者たちでは埒が明かないと考えたのか、寛政の中頃には武家の御隠居・御二男などで、借金・御宿替え(担当する札差の変更)の仲介に当たるものが多く現れ、「御手荒長談」(動作が乱暴なこと・長々と話をすること)をするようになったので、札差は皆迷惑するようになった、とあります。

「御宿替え」というのが出てきましたが、担当する札差を変えることで、武士に何のメリットがあったのでしょうか。

竹越与三郎『日本経済史』には、「彼等は已に、多額の借金を有し、新に借金を申込むも成立せざるを慮り、突然蔵宿を変改して、他の蔵宿と約束するものあり。之を「転宿」といふ。多額の貸金を有する蔵宿は、之に由りて旧借金を取立る能はずして、困迫すること甚し。故に蔵宿側にても、新規引請は慎重に取扱ひ、新に申込を受けたる蔵宿は、充分依頼者の負債状態を調査したる後、諾否を決し、一旦引請たる以上は、新蔵宿にて其負債を旧蔵宿に支払ふべき義務を負担するを常とせり」とあり、借金をしやすくする目的があったようです。

しかし、札差としては、変えられたら客が減って困りますし、別の札差も引き受けるとしても借金の立て替えをしなければならないので気が進むことではありませんでしたから、蔵宿師はどうにかして、旧札差と新札差にうまいこと転宿を了承させる必要がありました。

さて、棄捐令以後に札差に対する交渉が暴力的なものになった、というのですが、実際は棄捐令以前にも暴力的な事案は発生しており、「蔵宿師」という表現は出てこないのですが、『札差事略』には、明和7年(1770年)9月19日夜に、上総屋庄助方に札旦那大河原源八郎の借金の事について、窪田文左衛門・山田一学の2人がやって来て、非常な難題を吹っ掛け、その上、悪口を言い、刀を抜いてきたので、町奉行所に訴え出た、という事件が載っています。

また、『江戸三百年②江戸ッ子の生態』には、出典は不明なのですが、次の事例が紹介されています。

「明和七年(1770)、ある御家人の家に借金返済の督促にいった札差の手代が、失礼な言辞を吐いたため刀で斬りつけられるという事件が起こった。手代が血を流して帰ったので大騒ぎとなり、町奉行所でも捨てておけず両者を吟味した。その結果は、武士がいったん斬りつけながら、とどめも刺さずに逃げ帰すとは御家人とはあるまじき行為であるとして、扶持を召しあげられ牢人にさせられてしまった。一方の手代に対して慮外千万ということで罰金を仰せ付けられた」

これは武士が札差のもとに出向いているわけではないので毛色が違いますが、借金をめぐり物騒な事件が起きていたことがうかがえます。

安永7年(1778年)11月20日には、和泉屋才兵衛が次のような届け出をしています。

…担当する札旦那の石川徳次郎様が御直取をなされたので、私方に(米を売買して得た)金子をお渡しください、と伝えたところ、私方にお出でなされ、相談も済み、証文を作る段になって、直取の御世話をなされていた徳次郎様の御舎兄・石川四郎左衛門が二階で刀を抜き振り回し、「直取の金子は持っていく、歯向かうならば相手になるぞ」と大声で仰られ、金子を私どもにお渡しになられずに帰られてしまった。…

安永8年(1779年)6月2日には次の事件の判決が下されたと『業要集』にあります。

…若山衆浪人 黒沢半右衛門。その方は一旦は御先手組の同心を勤めたが、病気のため暇を請い、浪人となって自宅にいた。御蔵前札差どもの店に行き、武家の借金の交渉や担当する札差の変更の世話などをし、その代わりに武家から祝儀として目録(金の包みの事)などを受け取り、それで生計を立てていたというのは、浪人の身分でありながら、不届きである。家財没収の上、所払(追放)とする。…

天明5年(1785年)4月6日に次の事件があったと『業要集』にあります。

…小間遣衆(雑用に使われた下役)の長谷川庄八郎。伊勢屋四郎兵衛方にやって来て、同じ小間遣衆の岡田浅五郎の宿替の交渉に行った際に、支配人の勘右衛門に手傷を負わせて逃げ去った。16日に勘右衛門はこの傷がもとで死亡した。7月11日、次のように判決が下された。長谷川庄八郎→追放(判決理由に「武士なのに打ち留めず宿に帰ったのは不埒につき」とある。「打留」は「斬り殺す」「中止する」などの意味があるが、ここでは、一発で仕留めそこない、苦しめたことを指すか)、岡田浅五郎→重押込、四郎兵衛支配人・源右衛門→押込50日・支配人の役職を解く、手代・善右衛門と万蔵→急度御叱り…

ついに死者まで出てしまいました💦

天明9年(1789年。途中改元により寛政元年)1月12日には次の事件が起こっています。

…同心の中野五郎左衛門。札差の菱屋政次郎方にやって来て、借金をしに来たが、その際に手代の宇兵衛に手傷を負わせた。その後、取り調べの上、追放と処分が決まった。…

札差の史料がまとめられている『札差事略』で、蔵宿師の初出は寛政7年(1795年)5月になるのですが、その初出史料というのが、札差が蔵宿師を訴えた、というものなのですね。その訴状の内容を見てみましょう。

…先年より、蔵宿師と名乗る浪人風の者が、御武家様方の御勝手向(家計)を御世話(面倒を見る・仲介をする)していると言ったり、自分は御武家様の親類であるとか、御家来であると言ったりして、蔵宿へ入り込み、その御武家様にとって不相応の金額の借金を申し入れ、難しいので断ると伝えたところ、彼らは長時間にわたって話をはじめると、次第に話す声が大きくなり、そのうえ、「手荒成振舞」(乱暴)などをするので、とても恐ろしくなり、仕方なく、不相応の金額をお貸しすることになりました。このように貸した金について、世話人(蔵宿師)たちは、借りるのに骨を折った(苦労をした)と言って、過分の礼金を要求するので、御屋敷様(武士)の手元に入る金は少なくなっています。御武家様は利子付の金子を借りることになるのに格別の礼金を彼らに差し出しているため、非常に御武家様にとって不利益なことになっています。だいたい、世話人(蔵宿師)どもは御武家様のためになる、ならないに関係なく、借金さえできれば、その額に応じて、謝礼金を要求できるので、善悪を無視して、いろいろと迷惑な話し合いをして来るので、札差一同迷惑しております。以上のような世話人(蔵宿師)を務めるのは、浪人だけに限らず、「御歴々様」(身分や家柄の高い者)方も加わっており、札差仲間のもとにやって来られて、これまた対応に困る内容を要求なされ、思い通りに事が進まない場合は、手荒なことをなされるので、その度に非常に迷惑しております。このことについて訴えたいと思っていたのですが、そうなると、御札旦那様(旗本・御家人)方の御名前、「御歴々様」の姓名も申上げることになるので、恐れ入り、なるべく穏便に済まそうとしておりました。しかし、このまま放置しておいては、次第に世話人は増長し、私ども札差仲間一同の家業にもさし障ることになり、そうなると、御武家様方の不利益となってしまうので、やむを得ず、訴訟に及んだ次第であります。もっとも、これまで受けた被害について訴訟申上げるわけではなく、今後、世話人が増長しては、非常に苦労することになると思われるので、なにとぞ、(幕府の)御威光をもって、今後、世話人と申す者が札差仲間の所にやって来ないよう、「御慈悲之御沙汰」を賜りたく、仲間一同、願い奉る次第であります。…

文章の中に、浪人が武家の親類であると言って…とあるのは、安永7年(1778年)に札差が定め、幕府に提出した六か条の規約(『日本財政経済史料 巻1 財政之部』所収)の中に、「御屋敷様方より、米金その他の事についての御対談のことについて、御当人様がいらっしゃるのが難しい場合は、御親類様・御家来衆様を代理とされるならば、御対談いたします。しかし、その他の御方様、浪人や町人を代理とされる場合は、御対談いたすことはできません」と書かれていたためでしょう。

さて、訴状を受けて、幕府は同心たちを札差宅へ毎日見廻らせることにしたので、世話人はだんだんと見かけないようになっていったのですが、8月6日、幕府は武士・浪人・町人に至るまで、世話人の者を一斉に逮捕し、厳しく取り調べ、翌年7月22日に判決を下しました。

その判決の内容を見てみましょう。

・佐野十左衛門(小普請組)51歳

菅沼友之丞に頼まれ、利倉屋勘兵衛方に向かい、金を借りたいと言って断わられると、勘兵衛に菅沼友之丞宅に来るように伝え、勘兵衛がその通りに友之丞宅に来たのに、佐野十左衛門は憤って、勘兵衛を鞘がついたままの刀で打擲し、そのうえ、十左衛門の屋敷へ呼び寄せると、あれやこれやと難題を吹っかけた。また、河野助次郎に頼まれ、蔵宿政次郎方で借金の話を持ち掛けたが、その後、助次郎から世話の依頼取消の申出があったのを、これは(札差の)政次郎の手代庄兵衛が手を廻して断らせたのではないかと疑い、庄兵衛の胸を壁に押しつけ、手荒に取扱った。また、長坂又右衛門に頼まれ、蔵宿次郎右衛門方に向かい、又右衛門・萩原久五郎らとともに、借金を持ちかけたところ、手代の新兵衛が平伏しなかったといって、胸ぐらを掴み、荒々しく叱るなど、手荒く取扱い、金を差し出させた。その上、小尾宇右衛門が川井七之助に頼まれ、年賦金の支払いを遅らせると共に、金を借受けた際に、一緒になって世話をした。宇右衛門は、川井七之助が借用した金額のうちから強引に半分を借受けたが、十左衛門はこの中から金を借受けた。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。

判決→重追放(家・財産を没収の上、江戸・京都・東海道周辺への立ち入りを禁止する事)

※菅沼友之丞[小普請組]38歳は差控[自宅謹慎]・長坂又右衛門[小普請組]38歳は逼塞

小尾宇右衛門(大番組)49歳

赤井伝蔵に頼まれ、上遠野権太郎を担当する蔵宿の店へ行き、縁故のある者であると伝え、借金のことについて、あれやこれやと、難題を吹っかけた。岩瀬政之進に頼まれ、蔵宿宅へ行き借金について掛け合った際に、脅して金を差し出させた。そしてその金の一部を借用した(小野武雄氏『札差と両替』には、「ここでいう借用とは、俗にいう「お借し下され」[※『日本国語大辞典』…【貸被下】「貸した物が返却されないで、そのままになっていること。または、借りても、そのまま返さずにもらっておくこと」]の意で、返す意志など毛頭なく、口先だけで、借りるぞといったものである。体裁のいい強奪であった」とある)。また、川井七之助に頼まれ、蔵宿への年賦金の支払いを延期させると共に、金子を借受けたが、その半分を強引に借り受けた。その金を、佐野十郎左衛門等に貸し、残る金子は雑用などに使った。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。

岩瀬政之進[小普請組]24歳は逼塞

判決→重追放

・中村吉次郎(小普請組)53歳

中村源七郎に頼まれ、親類でもないのに、親類であるかのようにふるまい、蔵宿八兵衛方で借金の仲介をした際に、八兵衛が年が若く、どう答えればよいか困っていると、大きな声を出して掛合って、金を差し出させた。その後、また八兵衛方に借金の仲介に行ったところ、普通に頼んでも貸してはくれないだろうと思い、源七郎が買い取った家の代金の支払いが終わっていないという設定にし、催促されている様子を見せれば、貸すのに納得するだろうと考え、住所不詳の太兵衛という者を家の売主として扱って催促をさせた。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼物などを貰い受けていた。

判決→重追放

※中村源七郎[小普請組]34歳は逼塞

・池田巳之助(小普請組)43歳

蔵宿へ行き、年賦金の返納を延期して欲しいと頼みに行き、受け入れられたが、手落ちがあったので、再び頼みに行ったが、これは断わられたので、手厳しく談判する必要があると思い、親戚でもない萩原久五郎を親類ということにし、弟の捨五郎も同道させて蔵宿に向かい、われわれは覚悟して参ったのだから、承知せねば凶事が起こるぞと、手代の善蔵を脅迫した。また、久五郎は「お帰り下さい」と善蔵が言うのに対し、声を荒らげてこれを咎めた。そのほか、懇意の者から頼まれて、借金の仲介などをしていた。

判決→軽追放

・赤井伝蔵(小普請組)39歳

甥の上遠野権太郎が金が必要となったので、蔵宿酉之助のもとに行き、話をしたが折り合わなかった。小尾宇右衛門という者がさまざまな札差たちのもとに行って交渉をしているという話を聞きつけ、借金の仲介を頼み、縁戚関係にあるということにし、宇右衛門が掛けあったところ、酉之助が、宇右衛門の交渉が厄介で迷惑だ、と伝えてきたので、伝蔵が酉之助の店に向かい、金を借り受けようとしたところ、宇右衛門が立腹しており、宇右衛門は酉之助の手代どもの礼儀がなっていない、もう一度酉之助の店を訪ねてこれを問いただしたい、と言うので、気の済むようにしてください、その際に金を借りてくれるように、と頼んだ。しかし酉之介方には、宇右衛門に金を借りてくれるように頼んだが、金はお貸しする事は出来かねます、とこいねがうだけにしてほしい、と伝えに行った。

判決→差控

竹本退休(小普請組)58歳

知人の松永太郎右衛門に頼まれ、蔵宿幾次郎方に赴き、借金のことについて掛け合ったところ、玉落の際に金を用意すると返答があったので、その際に間違いなく金を用意すると書いたうえで捺印するように要求したところ、断られたので、声を荒らげて要求して書類を差し出させた。また、池田巳之助・捨五郎・萩原久五郎らが、蔵宿久四郎方で、声を荒らげて掛合った際に、退休も加わるように頼まれていたのでこれに参加し、久四郎から金を差し出させた。また、小尾宇右衛門が、川井七之助に頼まれて、年賦金の支払いの延納と共に、借金の仲介をした際に、退休と佐野十郎左衛門もこれに加わって、金を用意させた際に、宇右衛門は川井七之助に直接話をして、借受金の半分を借用したが、この際に退休は宇右衛門から二両二分を借用した。その他の知人からも、頼まれて同様の世話をし、礼金を貰い受けていた。このような行為は、御扶持を受けている者の隠居の身分にある者としてあるまじき振舞である。

判決→軽追放

・萩原久五郎(小普請組)24歳

池田巳之助に頼まれ、蔵宿久郎方に巳之助の親類と偽って巳之助と共に赴き、巳之助が手代の善蔵を脅迫するのを止めもせず、帰るように言われた際には善蔵に声を荒らげて争った。また、佐野十左衛門が長坂又右衛門に頼まれて蔵宿次郎右衛門のもとに赴き、十左衛門が手代の新兵衛の胸をつかんで手荒に扱った際に、参加する事になっていた久五郎が立ち寄り、「頭を下げろ」と言いながら新兵衛の襟先に手をかけ床に押し付けた。この他にも頼まれて札差から金を引き出させていた。このような行為は、御扶持を受けている者の息子としてあるまじき振舞である。

判決→軽追放

一方で、被害を受けた側の者たちにも処罰が下っています。喧嘩両成敗というやつでしょうか。

・源助(札差小島屋酉之助手代)

小尾宇右衛門が酉之助に会いたいとやって来た時に、2度にわたって留守であったが、本来ならば翌日は在宅するように取り計らうべきであったのにそれをしなかった。宇右衛門が書類を出すように言ったときもそれを断り、その上、宇右衛門が話をする際に多葉粉(たばこ)を吸っていたのは、不敬にして不埒につき、手鎖を申し付ける。

・善蔵(札差伊勢屋久四郎手代)

その方は池田巳之助がやって来た時に、その内容が受け入れ難いものであり、時間がかかると思われたので萩原久五郎に先に帰るように伝えたが、実際は久五郎は同席であったのに挨拶もせず、勘違いのために言い争いに及ぶ結果となったのは、不束につき手鎖を申し付ける。

その後、約2週間後の8月21日に札差行事大口屋八兵衛など6名が次のように申し出ています。

…先年より、「蔵宿師」と名乗る、浪人風の者が、御武家様方の御勝手向きの御世話をしていると申し、私どもの店に立ち入り、さまざまな難題を吹っ掛けてくるので迷惑し、その上、御屋敷様方の不利益につながることでもあり、今後、世話人風の者がやって来ないように、去年の5月に行事どもからお願い申し上げましたところ、その後、世話人風の者たちがやって来なくなり、全く見かけることも無くなりました。これもひとえに御威光・御仁慈のおかげであると、一同その恩恵について、極めて有難き幸せであると思っております。…

札差たちが蔵宿師が一掃されたことを喜んでいる様子が伝わってきますが、

実はその2年後の寛政10年(1798年)にも、次のような事案が発生、翌年10月18日に判決が出されています。

・宇野幸四郎

その方は貧窮のため、札差酉之助に対し分不相応の借金があった上に、さらに1年以上の扶持米を担保に金を借り受けていた。それでもまだ金を借りようと、手代の者たちに掛け合ったが埒が明かないので、酉之助に直談判しようと思い、手代に酉之助が店にいるようにしておけと言い残し、その後、夜分に再びやって来たところ、「もう戸締りをしてしまいましたから、案内したいのはやまやまなのですが、明日また来ていただけませんか」と戸越しに応対されたのに憤り、小刀を使って戸をくり抜き、そこから中に鞘のままの刀を差し入れたところ、内部で鞘を叩かれたために鞘が損傷し、抜身の刀になったのに気が付かず、戸を破り中に入り、酒に酔って騒ぎ立て、奉公人の長次郎をわずかばかり傷つけた。町役人がやって来てなだめたので帰ったが、その後酉之助方も人を寄こしてこないのを心外に思い、番人(町の自警組織。持ち回りで番所に詰めて警戒に当たった)を連れて、酉之助方に再びやって来て、無理難題を吹っ掛けた上、刀を抜いて酉之助を出せと呼ばわったので、店の者が町奉行所に駆けこんでこれを訴えた。以上の顛末、御家人の身分であるまじき行い、それに加え酉之助方に手荒な真似をしたのにこれを認めようとしなかったのは不届きであるので、重追放を申し付ける。

・酉之助召仕(奉公人) 弥兵衛

宇野幸四郎は、去年の10月10日夜、酉之助が留守にしているところにやって来て、戸を叩き、名を名乗り、戸を開けるように訴えた。その方はこれに応対し、「夜も更けていますし、御切米の時期であり、店の者も疲れておりますから、明日また来ていただけませんか」と戸越しに答えた。これに対し、幸四郎が「戸を開けないのならば、破って入るまで」と言い、小刀を使って戸をくり抜き、そこから鞘のまま刀を差し込んだのを、抜いた刀が差し込まれたと勘違いをし、ケガをしたくないと、この鞘を払いのけて傷つけた。以上の事、不届きであるので、手鎖を申し付ける。

小島屋酉之助は以前にも蔵宿師の被害に遭っていましたが、『札差事略』によれば酉之助は行事を務めており、棄捐高は上から46番目と、貸している金額はあまり多くないものの、なかなかの立場の札差であったようです。

この後も札差と武士の間の金をめぐるトラブルは続くことになるのですが、1つ紹介して残りは割愛して、ここで筆をとどめることにしようと思います。

天保4年(1833年)に、借金の申し出を断った店の者を武士が脇差で殺害するという事件があったのですが、このことについて、『天保雑記』は、「御蔵前開け、百何十年のむかしより、切つたはつたは儘あれ共、此の度のごとく花々しき即死なんどは初て也と云」と驚きをもって書き記しています。これまでに紹介した事件の中にも死者は出ていましたが、あれは数日後の死亡でしたね。

しかしこの事件を見ても、際立つのは蔵宿師の暴力性ですね😓

田村栄太郎『歴史の真実を衝く』(1935年)には、「無理に札差から借りねばならぬ必要に應じて、蔵宿師といふ旗本ギヤングが発生した。旗本の不良隠居や不良青年がグループをつくつて、札差に借りのある旗本の代理として強談し、応じなければ暴行を加へて、無理に用金を命ずるとか、借金するとかする。そこで札差の方でも、応対方といふ暴力団を雇つて対抗する」…ギャングだの暴力団だの、表現がユニークですね😂しかし、的確な表現だと言えるのではないでしょうか。

札差の攻勢、譲歩を重ねる幕府

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

12月26日、会所の貸し付けのことについて、次のように改めることに決定します。

・今後は、証文に札旦那が借りたいと言っている金の金額、誰に金を貸すのか、決まっている通りに金を返す事を記入し、その札旦那を担当する札差一人の押印の上、会所に証文を差し出せば、この証文に書いてある分の金を直接貸し出すことにするので、この金をもって用立てるようにせよ。返済期間は3季分割の1年返済とする。

・利息の事について、改正のあった当日(9月16日)には、札旦那から25両につき1分(1両=4分なので、25両=100分となり、1÷100=1%、年の利息は12を掛けて12%)の利息を受け取り、10%分は役所に納めるようにと伝え、24日には、町人どもの出資金の利息について、8%(これに加え1%を会所経費として納める)としていたがこれを改め、札旦那からは12%の利息を受け取り、会所へは6%を納め、残る6%は札差の「助成」としてこれを与えることとする。

『札差事略』に、会所から借りた金について、ある札差が返済できなかった場合、同じ組合の者が会所から金を借りていないものであっても返済しなければならないという取り決めにより、組合の者の連判がないと会所から借りられないような仕組みになっており、これが札旦那に金を貸す事を難しくしていた、とあるように、連帯責任制にもとづき、借り入れには組合の者の連印が必要であるという事が、会所からの借り入れのハードルを高くしていたので、これを緩め、連印でなくても、1年で返せる範囲までなら貸し出すことにすることで、会所から金を借りやすくしたのですね。


寛政2年(1790年)1月18日、札差たちは次のような請願を行なっています。

…去年の9月の御改正があって後、札差どもの家業は手狭になり、御屋敷方が支障があっても、金銭を融通することが難しくなってしまいました。以前のように手広く家業を行ない、御屋敷方が支障がないよう、札差どもが家業に精を出せるように、双方が折り合い、関係が長く続くことができるようにするため、仲間一同で次のように仕法の内容を考案しましたので、恐れ多いことでありますが、この内容を申し渡していただけるよう、お願いする次第でございます。

・以前は年利18%で貸し出しをし、その利潤でもって御用立てをしてまいりましたが、この度、古借金の棄捐・利下げを命じられ、一同手元に金が少なくなり、以前のように御用立てをすることが難しくなってしまいました。もちろん御貸附金を拝借しておりますけれども、前々のように手広く家業をしたいと思っておりますけれども、このように利潤が少なくなっては、家業は手狭にならざるを得ません。そこで、御用立金の利息を以前のように(18%に)していただけましたら、自然と貸し出しも好ましい状態になると思われます。

・札差どもは、御扶持方に代わり米を受け取り、これを売却し、御屋敷に送付するなど多岐に渡る仕事を行なっているため、召使いを多数必要とし、そのために費用が多くかかっております。御下げ金・御貸付金を下されましたけれども、恐れながら、9%の利息を上納し、12%で貸し出しを行なっては、千両を用立てたとしても、1年でわずか30両にしかならず、利潤がありません。一方で、諸経費は年に200両かかっているのです。これが、家業がはかどらない理由であります。利息さえ、以前のようにして下されれば、自然と「窮屈」にならず、貸出ができるようになるのです。

・「御足高」「御役料」の御方の御用立金の件ですが、以前の利息にしていただければ、以前のように用事を済ませることができます。

・「御貸付金拝借仕法」の件ですが、札旦那方に御用立てをするという証文に、札差が押印し、これに仲間内の親類の者などの印を加えて提出することで、1人単位で御貸付をして下るようお願い申し上げます。現在のように、組合の者すべての印が必要であると、御金を拝借したく思っても、組合の者が承知しなければ、「御仁慈之御貸付金」が目の前にあるというのに、拝借することができません。仲間一同で借金を返済しなければならない、という事に恐れ入っているので、このような次第になっているのでございます。

…以上のように、利息を以前のようにされ、御貸付金を1人単位で拝借できるようにしてくだされれば、仲間一同、家業がはかどり、御屋敷方が支障のないように取り計らうことができるのでございます。なにとぞ、御慈悲をいただけますよう、願い申し上げる次第でございます。…

この請願に対し、2月19日には札差全員が呼び集められ、次の内容が伝えられています。

・(会所の貸金のうち)町人の出資金より借り受けたもので武家に貸し出す場合、年利12%のうち、6%は会所に納め、残り6%は世話料としてその方どもに与えることになり、出資金の利息が安くなったのであるから、「足高」「役料」を担保にする場合、「仕法通之利足」(つまり12%)で以前の18%の時と同じように、支障なく取引をすること。

・出資金をその方どもに貸し渡す件についてこれを改正し、例えば(札旦那に貸した)年賦金高1000両の手形を会所に担保として差し出すことと引き換えに、400両まで貸し渡すこととする(「四分通拝借金」「四分通御下ヶ金」「四割拝借」「四割御下ヶ金」)。

・武家に用立てる金が不足している場合は、札旦那より受け取った証文にその方どもの印を押し、会所に差し出せば借り受けることができることとする。この借入金手形の押印について、札差仲間の内の親類の印を加えること。

これに対し、札差たちは次のように反応しています。

…この度、御会所金御貸付方について、新規の御定が下され、貸付方法を「御手軽」にお改め下さり、札旦那より受け取った証文に印を押して差し上げれば、その書面にある金額を拝借できるということになり、札差どもはみな経営状況が改善され、札旦那に御用立てする金を滞ることなく用意できるようになり、有難き幸せにございます。…

6月には札差の行事が会所に呼び出され、次の事を命じられています。

…2月に言い渡した通り、天明4年から今年の5月までに貸した金について、利息を6%に引き下げたことを示す証文を会所に差し出すことと引き換えに、今年の夏までに(武士に)貸し出している金額の4割までを会所から貸し出すことになったので、札旦那達の年賦金高を調べ、6月22日に会所に提出するようにせよ。…

7月にはさらに次の内容が伝えられています。

・天明4年から今年の5月までに貸した金について、利息を6%に引き下げたことを示す証文を会所に差し出すことと引き換えに、今年の夏までに(武士に)貸し出している金額の4割までを会所から貸し出すこととする。返済は、15年賦とし、これに利息を加え、期限を守って返済する事。


『札差事略』には、7月時点における札差たちの「四割御下ヶ金」を借りた金額が載せられていて、合計約5.5万両貸し出されていたことがわかります。

ちなみに一番多く借りていたのが十一屋善八と泉屋茂右衛門の2200両で、一番少ないのは町屋伊左衛門の100両でした。借りている者の合計は66人で、約69%が借りていたことになります。借りていない人は棄捐高トップの伊勢屋四郎左衛門などがいるんですが、借りていない人は棄捐高に関わらず、まんべんなく存在しています。堅実に商売してきたかどうかによるのでしょうね。一方で、借りていない人のうち、約43%(13人)が、その後廃業しています。借りることもできないくらい経営状態がひどかった、という事なのでしょうか。

7月28日

役所に札差行事(代表人)を呼び、次のように伝えています。

…盆前の貸出金があった後、札旦那たちの用を取り扱う事、札差ども皆支障なく、精を出してつとめているとお聞きになられ、賞美になられたことを、札差一同に申し渡すようにお命じになられたので、このことをもらさず札差組合の者に伝えること。また、10月の切米も近付いているので、これもまた支障なく取り扱うようにせよ。…

貸し渋る札差、慌てる幕府

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

さて、棄捐令の後、札差と武士の関係はどのように変化したのでしょうか。

10月22日、定信は奉行たちに次のように伝えています。

…蔵宿改正の事で、新しく借りるのが非常に困難になっていると聞く。これまでは暮れに20両借りることができていたのに、今ではやっと4・5両借りられる有り様だとか。これまでのように貸し借りを行なうように伝えていたのに、「軽きもの」が年を越すのに難儀しているようでは、「御仁恵」も虚しいものになってしまう。蔵宿どもは趣旨をよくよく理解して、手持ちの金が少ないのであれば、会所に申し出るようにすべきである。会所にある金が乏しいのであれば、「御蔵金」を出しても構わない。…

武士たちが札差から借金するのが以前より難しくなってしまった、というのですね💦恐れていたことが現実になってしまったわけです。

定信は、この時の事を振り返って、『宇下人言』に次のように書いています。

「町奉行・勘定奉行などと深く話し合い、5年より前の借金は棄捐とし、それより後の借金の利息は安くした。これにより、一時は武士はひどく喜んだが、蔵宿たちは貸す金が無いと言って貸さなくなったので、借りる金が無いと言って武士たちは嘆いた。公金3万両を下賜して蔵宿に貸して、その金を武士に貸し出すようにしたので、武士に金を貸すことに支障はないはずであったのに、足りることを知らないためにこのように言うのであった。卯年(1783年)よりうち続いて米価が高かったが、酉年(寛政元年。1789年)にはそれが落ち着いたので、金にならないと蔵宿たちは知っていてこのようにしたのだろうと思われる。これまでであっても快く貸すことはしていなかったが、今回の(札差仕法の)改正によって貸すのがより難しくなったと蔵宿は言う。しかし古い借金は棄捐となり、新たな借金が多く行われることが無いというのは、「永代の御恵」である。古い借金が棄捐となっても、今快く金を貸し出すならば、また遠くないうちに、棄捐令を出した日のようになるだろう。だから金の貸し出しが少なくなったというのは「実之御仁術」と言えるのである」

借りにくくなったというのは逆に良いことなのだ、と強がっていますが、先に紹介した奉行へ伝えた内容を見ると、当時の定信はそんな心境ではなかったようですね💦

定信が「札差が貸し渋るのを解決できるなら幕府の金を放出しても構わない」、とまで焦りを感じていたのは、次のような捨訴(老中や奉行の屋敷の門前に密かに置かれた訴状)があったからでした。

…(棄捐令は)武家御救のために出されたものでありますが、武家は「却て大難儀」となり、逆に札差は「大仕合」で札差にとっての御救となっております。なぜなら、5月以降の借金については冬(10月)の切米で支払うことになっておりますが、これにより札差は多くの金を手に入れることができるからです。(一方で武士は借金返済で冬の切米の多くを失うので苦しい目に遭う)このようであれば、夏までの借金はすべて棄捐ということして、夏以降の借金は年済(年ごとに一定額を分割して支払う)としていただきたい。そのようにしていただけないのであれば、旗本・御家人の武士が示し合わせて、「一大事」を近いうちに伝え知らせる使者がそちらに向かうことになりますので、そうお知りおきください。…

かなり脅してますよね💦

捨訴はもう一通あり、次のような内容でした。

…この度札差に関する「御仕法」をお出しになられ、これまでは身の丈に合わぬ贅沢のために借金をしていた者も、または養う者が多くて家計が苦しかった者も、さてもさても有難いことであると言っております。この上は身を慎むことはもちろん、「御奉公」を大切に行っていく所存であります。しかし、今回の冬の切米をもって、札差の借金の返済に充てるというのは、大身・小身に関わらず、皆困っております。これまでは、例えば冬に10石受け取っていた者は、10石を担保にして、札差に3両を渡し、新たに7両を借り受けて、暮れから春にかけてまた2・3両借りることができてやっていけていたのですが、今回は夏以降の借金を冬の切米で返し、春の切米で借金をすることになるので、10月の切米が多いとはいえ、手元に残る金は少なく、これでは到底やっていけませぬ。格別の御慈悲による御救が、却って貧乏にさせることになっております。また、御救の内容も、6年前までの借金は棄捐、その後は年払いなどと入り組んでおり、理解しづらく、誤りを犯すことになります。町人はいくら助けようが命を投げ出すことはしませぬ。武士は命を捧げて御奉公をしております。「小の虫」の例えもありますが(「小の虫を殺して大の虫を助ける」…小さなものを犠牲にして重要なものを守ること」)、「大の虫」を助けることに専念すべきであります。夏までの借金は棄捐、その後の借金については残らず「年済」とし、利息は50両1分(年利6%)にするとお命じになられれば、これこそ真に武士の御救となります。武士の必要な道具・稽古の品、または衣服を用意しようにも、手元の金が少ないため難しく、これでは御奉公しようにもできません。切米を残らず持ち帰ることができたとしても、さまざまな物の値段が高くて苦労するのに、手元にある金が少ない者は、新たな借金が少なく済むわけにはまいりません。武術の道具・弓矢なども殊の外高くなっております。これについてもよくよく調べ確かめていただきたい。また、武士の品行の事についてですが、「かくし遊女」(認可されているところ以外で売春を行なった女性が町にいるので日ごろの行いが乱れるようになっております。これについては、これまで遊女の持ち主にばかり、100日手鎖や罰金といった処分が与えられてきました。しかし、遊女を置いて商売しているということは、地主や町名主などの承知のうえでやっているはず。今後は、地主や町名主も厳しく処分するとお命じになられれば、自然と遊女は町からいなくなるはずであります。この他にも申し上げたいことは山のようにありますが、この書面が無駄になる可能性も考えて、まず少しばかり申し上げておくことにいたします。…

どちらも「棄捐令で逆に生活が苦しくなった」と訴える内容です。

定信は『宇下人言』に次のように記しています。

…しかし棄捐令を出したのが秋で、まもなく年の暮れになるというのに借金をすることができず、年を越すにはどうすればいいのだと言って罵るのであった。新しいことを始めるにあたっては、はじめの内は何事もうまくいかないものである。…

定信は上手く行ったと思っていたのに、会所がうまく機能せず、札差が貸し渋り、武士が不平の声を挙げ始めたことに対して動転してしまっていたのです。

これに対し北町奉行・初鹿野河内守と勘定奉行・久世丹後守は、札差が会所から借りて貸し出したお金について、武士たちが札差にどんな金額であれ返済次第、10両でも20両でもすぐに会所に納めるようにすれば、会所の資金が増え、札差は会所から金を借りやすくなり、結果、武士に貸し出しやすくなるでしょう、と返答しました。

これを受けて、10月28日、勘定方の役人が札差に対し、次のように伝えています。

…(武士が)借り返しをするのに支障がないようにするため、会所に御下げ金を下されたが、その方らはこれを借り受け、貸し出し、札旦那が金銭に窮することの無いようにすべきであるのに、会所から借り入れた金は、元金を返せる見込みがつくまでは返済できないことになっているので、手元に1か月・2か月と残っているうちに、利息を支払う必要が生じるようになってしまう、と言って、会所から金を借り受けようとしていないと聞いている。これは仕方のない面があるので、そこで、重ねてお恵みを与えて下さることになり、会所から借り受けて貸し出した金について、(武家から)返済があり次第、少額でもいいので、会所に納めてよい、と規定を改めたので、これなら金に困っている者も会所から金を借りやすくなるであろう。今後は、借り返しに支障がないようにせよ。…

それでもなお定信はよりよい解決策はないかどうか、煩悶し続けます。

…法外な要求は問題外であるが、これまで行ってきたと同じ程度の借換は滞りなく行うようにと、札差どもに命じたということを周知させれば、騒がしいのも止むのではないだろうか。また、暮れの貸し出しを渋っては来年の切米を担保にしづらくなるであろうから、今年の暮れは今まで通りにするように、と申し付けるべきだろうか。…

貸し出しを渋る札差に対する、抜本的な解決方法を考えあぐねている様子が伝わってきますね💦

10月30日、定信は久世丹後守に、札差たちへの申し渡し案を渡し、この内容について評議するように伝えました。

…札差の貸金の事について改正した後、その趣旨をよく心がけ、仕事に励みつとめるようになった者や、以前から心がけがよろしく、堅実に商売をしている者もいると聞いている。そこで、札差の者たちをよく調べ、心がけがよろしい者、また、改正の趣旨をよく理解している者について、近いうちに賞美(ほめたたえること)しようと思う。しかし一方で、(札差が改正で多くの財産を失ったので)借り返しの事などについて、支障があると聞いている。先に、貸し借りの事については、これまで通りお互いよく相談のうえ取引をするように、と伝えているのだから、この事をよく心がけるようにせよ。俸禄の少ない御家人などは、年末に貸し借りがこれまでのようにできなくては、支障が生じるのは明白である。札差から借金ができないので、札差以外の者から高金利で借金するようになっては、改正が無意味な物になってしまう。以前から、武家の用事を請け負うのをなりわいとしておるのだから、武家の者が生活に支障が生じることの無いように、励みつとめるべきである。もっとも、「不法不筋」(法に反したり、道理に合わなかったりする)の借金の申し入れは、あるはずが無いことだと思うが、万一こういうことがあれば、これまでと同様に断ればよろしい。以上の事は、進行が滞れば、支障が生じることになる。皆々励みつとめ心を打ちこみ、借り返しや、その他の取引の事について、とどこおりなく、支障が生じないないように心がけるべきである。…

これを受けて、11月3日に札差に対し、定信案とほぼ同じ内容で申し渡しが行われています。

また、11月5日には、武士に対し、先に札差に申し渡した内容を伝えた上で、次のように申し渡しています。

…(武士は)身の程をわきまえ、自分の利益ばかりを考えないようにと、先に伝えたというのに、身分の低い者で、ゆとりがないからといって、心得違いの道理に合わない要求をする者もいるという。今後は一途に倹約をし、自身の俸禄に合わせて、借り返しの金もこれまでより減らし、誠実に生計を立てるようにせよ。借金については、これまで通りお互いの相談のうえで支障が生じないようにせよ、と札差には申し渡したが、これに乗じて身の程をわきまえずに法外の借り方をするのはあってはならないことである。吉事や凶事など、臨時の出費もあるだろうが、出費はなるべく省き、身の程に応じて話し合いをし、借金がかさまないように心がけるようにせよ。この上、異論がましいことを言ったり、自分勝手なことを言って道理に合わない要求をしたりする心得違いの者がいたら、必ずこれを処罰する。これまで借金が多かったのは、やむをえない事情もあったにせよ、まず不束(ふつつか。能力や考えが足りないこと)であったからである。今回多くの借金が棄捐となったのに、節約しないのであれば不本意である。そのうえ、棄捐のことについて不平や文句を述べ立てるのは、いよいよ不本意である。節約をしないのに、元のように借金を重ねるばかりなのは、身の程をわきまえないことであり、不埒なことである。よくよく以上の事を承知するようにせよ…

12月5日、札差たちは次のように役所に伝えています。

…御屋敷様方に金を貸したくても、御屋敷様方からの返済が多数滞っております。そこで、御会所から金を借りたいと思っているのですが、御屋敷様方からの返済が滞っていては、御会所へ元利を返済しようと思っても、手元に金の少ない我らでは、「御大切」の「御貸付金」の返済を滞らせてしまうことになり、迷惑をおかけしてしまっては申し訳が立たないので、御会所から金を借りられないでいるのです。また、御会所からお金を借りかねているもう一つの理由は、金を借りるにあたって多人数の印を必要とするためです。なにとぞ、御屋敷方より頂戴した年賦の御証文・御当用金の証文を担保として、各自が御貸付金を拝借できるようにしたいただけないでしょうか。…

12月11日に、定信は久世丹後守に次のように伝えています。

…蔵宿の一件は容易ならざる勢いである。(天明4年から今年の5月までの貸金の年払いの)上限額としては、(禄高100俵につき3両まで、としていたのを)5両とすれば、蔵宿どもは納得するだろうか。年末も迫っていて、このままだと、これまでの(棄捐令制定までの)多くの苦しみが無になり、気の毒なことになってしまう。蔵宿ばかり抑えつけるのではなく、法外な借り方をする武士を1人か2人(見せしめに)厳しく処罰するのはどうだろうか。…

…会所に札差どもを1人ずつ呼び寄せて、12%では貸し出しができないのかどうかを尋ね、できると言った者は札差のままにし、渋った者は札差をやめさせたうえ、これまで奢侈かつ怠慢、今になっても改心せぬのかと𠮟りつけ、土地も取り上げ、それを「宜しき」札差に与え、また、やめさせた札差が担当していた札旦那を分割して担当させることにすれば、世間の者たちにとっても「愉快之事」であると思うが、どうだろうか。…

…「不承知之者」を罰する場合、これまでの棄捐・利下げで御家人が潤っているのは間違いの無いことであるので、来年以降の利率については、札差と札旦那がお互いに話し合って、18%を限度に取り決めさせるのはどうだろうか。…

…しかし、(役職に就いている間だけもらえる)「足高」「役料」はその後代々もらえる俸禄でなく、しばらくの間かぎりのものであるから、これを担保にするのは難しいと言ってくるのも、やむを得ない面がある。そこで、札差と札旦那のお互いの相談のうえ、もともとの俸禄の分は12%とするが、「足高」「役料」の分については12%から18%までの間で利率を決めて取引をさせるのはどうだろうか。…

…様々な意見を述べ立てて、迷わせることになってしまわないかと思ったが、大切なことであるので、「一寸(ちょっ)と」申し上げた次第である。…

2日後には定信は続けて次のように述べます。

…蔵宿の件について、これまで支障が多かったので、大変なことであるけれども、「改正之法」を作り、貸借についての支障を取り除こうとしたのだが、札差が、改正のために取り分が無くなってしまったと言って、貸すのを控えるようになってしまったので、借りる側も、改正のために借りづらくなった、と心得違いの者が出るようになってしまった。そこで、その後たびたび触れを出した上、勘定方の役人を会所に詰めさせることで、何とかなっている状態となった。しかし来年になっても、年中勘定方の役人を詰めさせるのも穏やかなことでないので、これをやめたいのだが、かといって、そうすれば、札差と札旦那の軋轢がひどくなって、札差どもが札差業をやめて他の仕事をするようになり、その上、新たに札差業をやりたいと思う者がいない場合は、支障が生じて、改正が無駄になってしまう。…

かなり不安を感じている様子がうかがえますね💦

定信はその上で、自分としては、「篤実」(情が深く誠実なこと)な札差とそうで無い札差の2つに分けて、「篤実」な札差については言い分を聞いて、限定的な利上げを認めるべきであると思うが、どうだろうか、と言っています。

札差救済策

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

棄捐令で幕府は札差窮乏対策として、無利息で金を下付する事、貸金会所から利率10%の低利で金を借りられるようにする事、両方とも20年で返済させる「つもり」である事を伝えていましたが、どれだけの金額を下付するのか等、具体的な内容はまだ伝えていませんでした。

その理由について、9月17日に定信は次のように述べています。

…札差どもが苦しむことになるのは自業自得の事ではあるが、札差どもも「四民之一ツ」であるので、会所に下げ渡した3万両のうち、1万両か2万両を札差どもに下賜し、3年で返済させることにすれば、苦境を切り抜けるのが難しいと言っている者たちも、切り抜けることができるようになるであろう。「最初之厳令(厳しい命令)にて恐怖いたし、死地(窮地)におちいり候処、蘇息(息を吹き返す事)いたし候心に成候わば、必ず会所改正之法永久之基に相成申すべくと存候」。…

後で救済の詳しい内容を伝える二段構えの作戦を取ることで、札差たちは感激して棄捐令の内容を遵守するようになるであろう…というのですね。

しかし気になるのは20年返済と言っていたのが「3年返済」になっていることです。たしかに「つもり」とは言っていましたが、これでは札差たちはより厳しくなった、と感じて逆効果になってしまうのではないでしょうか?それとも無利息で下付する方は3年、利息付きの会所から貸し出す方は20年、と言っているのでしょうか。他の箇所を読んでみると、「2万両を下付するとしても、残る1万両は会所に下付し、その上3年の間は、1年に6千両ほどは納められてくるのだから、会所の金銭的な余裕になるだろう」とあるので、どうやら無利息の方を3年返済と考えていたことがわかります。

これに対し奉行たちは23日に次のように返答しました。

…下付金を返済させるとのことですが、返納が滞る者がいれば、連帯責任で他の札差が分担して返済しなければならなくなるので、暮らし向きが苦しい札差には下付金を分割して渡さなくなる恐れがあります。そこで、1万両は暮らし向きが悪い札差に限定して下付する事とし、返済も不要とするのはいかがでしょうか。また、会所から借りたお金で蔵宿どもが武家に貸し出す分については、利率は12%でありますが、1%は会所の諸経費用として納め、3%分は蔵宿どもの世話料とし、5%分は下付金の元金の20年返済費として納め、3%分は会所の貸出資金とするのはいかがでしょうか。…

これに対し定信は次のように返答しました。

…1万両を返済不要とするのは「御憐憫に過候」。先に出した内容とも齟齬が生じるので、1万両は10年の間返納は不要で、10年が過ぎてから、20年で返済させることとするのはどうだろうか。また、札差の武家への貸金の利率12%のうち、会所の貸出資金に充てる3%分も、5年は札差の取り分とし、その後は会所に納めさせることにするのはどうだろうか…

定信がだいぶ譲歩したことがわかります。

結局、この定信案の通りに札差たちに申し渡すことになります。

幕府は24日に惣札差・町役人を呼び集め、次のように言い渡しました。

…その方らは、代行受取手数料・米売却料で少なくない利益を得ているうえに、金を貸し、その利息を得、加えて近年米価も高騰していたので、商売に専念し、身を慎んでおれば、裕福であれたものを、過度な贅沢をし、商売は手代に任せっぱなしにし、町人の道に背いたので、だんだんと貧窮となり、他所から借りた金でもって金を貸すようになったと聞き及んでいる。この度、棄捐・利下げを命じたことに対し、これまで経営状態が悪かったものはまずます悪くなるので困っている、と言うが、それもこれも普段の心掛けが悪いことに起因しているのである。しかし、その方らが武士の用を引き受けられなくなっては不便なことであるので、2万両を下付する事とした。うち1万両は格別のお恵みで、困窮する蔵宿に下げ渡し、10年の間は返納せずともよく、その翌年から20年で返済すればよいこととする。もう1万両は会所に下付し、勘定御用達や他の町人どもの出資金にこれを加え、その方らが金を借りたいと言えば会所で確認の上これを貸し渡す。この場合、武家へは下付金・出資金共に利率12%で貸し出し、1%分は会所の諸費用として差し出し、3%分は世話料として自身が受け取ればよろしい。残る利息分のうち5%は、元金1万両を20年で返済する分とする。残り3%は元金の利息ということにするが、5年間はその方らが受け取ってよいこととする。また、町人どもの出資金から借りる分については利息は8%ということになったので、そのことを良く心得、組合の内で返済が滞る者がいないかよく調べること。10年返済が滞っている場合は連帯責任として分割して払うこと。以上のお恵みの趣旨を忘れることなく、態度を改め商売に励むようにせよ。…

これを受け、札差たちは慈悲願いを26日に撤回しています。

その後、実際に無利息の1万両が札差に下げ渡されたのは10月7日の事でした。この際に、10年後から500両ずつ、20年で返済するように申し渡しています。

返済については、『札差事略』に、今年の文化13年(1816年)で18年目になるが、9千両返納が済み、あとは2年分が残るのみである、と書かれており、しっかりと返済がなされていたことがわかります。

棄捐令の反応

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

棄捐令の反応

『よしの冊子』9月17日条

一、「蔵宿棄捐利下げ之儀」につき、借金のある旗本・御家人、それに御三卿に仕える者たちはいずれも、喜ばない者はいなかったという。まことに、今まで苦しいのを我慢できずに、ただ蔵宿にばかり奉公する者が多く(何度も借金を頼みに行っていたという事)、今年は年を越せるか、金銭のやり繰りがうまくいかず、行き詰っている者が多かったので、まことに(幕府の棄捐令の)おかげで「生(いき)かえり候」と有難がり、各地で越中(松平定信)様に御神酒を供えて拝まない者はいないのだという。堀帯刀組の与力の中で、かなりの借金をしていた者は、子を養子に出そうかと相談していたが、今回の法令が出たので、養子に出さなくてもよくなり、さっそく断りの連絡を入れた者もあるという。近々家などを売ろうとしていた者たちも、その相談を止め、蔵宿の出方をうかがっているという。以上のように、蔵宿の事で江戸中が大騒ぎとなり、有難がり喜んでいるという。

一、蔵宿借金に関する法令はさてもさても小気味の良い(胸がスッとする)ことである。ただ蔵宿は小言を言うであろうが、気にしなくてもよいことである。「かるい御家人」(下級の御家人)などは「あまり結構過る」と言っているという。

一、この度の蔵宿利下げの事は、全ての点でよろしく、「誠に深き御考より出候事也」、と有難がっているという。この機会に財産を直さなければ直すときは無い、と放蕩無頼の者たちまでも言っているという。

一、伊勢屋四郎左衛門は貸付金7800両、扱っている米は15000俵ほどあったという。4・5万石の大名並みの暮らし方じゃと噂されているという。四郎左衛門が蔵宿で一番と噂されているという。

一、蔵宿利下げについて、次の狂歌があったという。

「借銭を 浅草川で あらわれて おごりはならず 己(み)からなす宿」

一、田付四郎兵衛(幕臣、代々幕府の鉄砲方を務める)は2000両ほど棄捐となったという。2・3代にわたる古い借金が多かったからだという。

10月2日条

一、知行取り(領地を持っている幕臣)で困窮している者は、自身の領地における借金も棄捐になった、と言いふらしているというが、このことは、先日出された棄捐令において禁止されていることである(棄捐令は札差限定である)。知行取りの者は百姓からも12両1分(年利約25%)、10両1分(年利30%)の高利で借金をしており、自身の領地に用人を派遣して頼みこみ、あういは飛脚・書状を送って度々借りるので、ついには利率は8両1分(年利37.5%)、7両1分(年利約43%)までなっているという。これについても利下げを命令してほしいものじゃと勝手なことを言っているとのこと。

一、末吉摂津守(利陸。元長崎奉行)は蔵宿に2千両を預けていたが、棄捐令の出る一両日前に蔵宿に急に2千両が必要になった、ただ見せるためのものだから、ニ・三日中には返せるので、とにかく2千両を送ってほしい、と言うので、蔵宿が確認した上で2千両を送ったところ、棄捐令が発令され、2千両は末吉摂津守の手元に残ることとなった。「末吉はどうして知ったのか、あぶなく2千両を捨てることになる所だったが運の良い男だ、棄捐になったら困るであろうが取り返したところが末吉だと噂しているとのこと。

一、棄捐令の事を町にも伝えたところ、「これは札差以外の借金はこれまで通りだから安心いたせ、とのお考えをお知らせになるために伝えて下さったのであろう、有難いことじゃ、これで御家人から不法を言われても、こちらで事情を理解しているから、うろたえず困らずに済む」と町人どもは有り難がっているとのこと。

『札差事略』

9月中に、(朝倉御蔵前)中ノ口に、封書の落書があった。内容は次の通りである。

「今回の仕法の改正を受けて、札差仲間では恐れ入っている者もいれば、かえって公儀を恨んでいる者もいる。しかし、現在の仕事の中で、札差ほど利益が安定している者は無いのである。例えば大船に様々な売り物を載せて、難風にて船が壊れる恐れもなく、蔵に商品や質物を保管して、火災のためにこれを失う心配もしなくてもよい。まことにこの度の命令は、天が命じたもので、今後は天道を恐れ身の程をわきまえるべきである。これまで札差は、ただ利欲に目がくらみ、家業の本分を忘れ、御武家のおかげで成り立っていることも忘れ、御武家方に無礼を働くことが多かった。心を正しくつとめていれば、許されることもあっただろうに、主人だけでなく、支配人や対談人までも正しい心を失っていたので、御武家方もこれを聞き流すことができなくなったのである。札差は御武家方のおかげで大金をもうけ、家を立派にこしらえ、美服・美食に満ち足りて、その上、御武家方に姿を見せることもせず、家業を面倒くさく思い、壮年にてもう隠居し、家業の事は支配人・手代に任せて自身は過度のぜいたくをし、別荘を築くなど、さまざまな派手でぜいたくな暮らしをして得意がっていたので、御武家方もこれを憎むようになったのである。さて、こうなった上は、変事に心を乱すことなく、慎重に判断をし、正しい道を守り、よくよく思いをめぐらせて考えることが必要である。札差仲間の中で金が余っている者は、生活が苦しい人々に身の程に応じて低利で金を貸し与え、仲間の間で一致協力して倹約を心掛け、道に背くことが無いようにすれば、御武家方も物事を良く処理できるようになり、支障がなくなる。このようにすることが、御上への忠節にもつながる。人の為は自分の為になることであるので、丹誠を尽くし、自他ともに平穏無事になるように取り計らうことが肝要である」

『菅沼家文書』

〇やくはらい

やあら今度の御触を申さは 年賦は三両(6年以内~5月までの借金は、年利6%となったが、それとともに、元金は禄高100俵につき年に3両ずつ返済と決められていた) きゑん(棄捐)は万両 方々藏宿九十軒から惣し 此上六分利(今後の利息が1両につき6分[年利12%]になったことを指す)みんなのおごりは百年め 旗本御家人大悦 是も白川御くふうと あつたらむけ俸引とられ 大川はさらはさら(田沼時代に大川中洲の一部を埋め立て、『花散る里』に「両国の中州と云所、殊の外繁昌して、賑いたるよし。遊女芸者軒を並べ連ね、家を並べ互に競い、鳴物料理総て数寄を極めたり」とある納涼地・遊興地「中洲新地」が作られていたが、松平定信は川の流れを悪くし、洪水の被害を悪化させたとして寛政元年にこれを取り壊し、翌年には埋め立て地は川に沈んだ。埋立地の土を運ぶ際には、1人につき銭200、米1升が与えられたので、人々は「誠の御救普請」と有難がったと『よしの冊子』にある。また、この埋立地の土で人足寄場が作られている)

〇ちょんがれ(ちょんがれ節。卑俗な文句を早口で唄う)

皆さん聞ねいェ 今度の徳政辰年以前の古借へ皆セイ 五ヶ年以来ハ五十両壱分(年利6%)だ うれしいこんたにくら宿なんとは 頭痛はち巻あたまかとうやらしぶくる(うまく機能しなくなる)よふだよ かふなることとは札さしなんどは 夢にも白川武士の氏神 御恩はわすれぬ不勤之面々励をしなせへ 五ヶ月なんどはかならすよしねへ 金もいらすにそきらの励を 田沼時分のまいない(賂。わいろ)けいはく(軽薄)音物いたごと(痛事。費用が多くかかること) 明和九なんとはさらりとよしねへ まことに是から徳政元年 よい事菊月(旧暦9月の事)大吉日とうやまつて申ス。

・雪ほとに 古借金のきゑんとは 日の出かゞやく白川の恩

・御家人を しほる(絞る)油の万灯も まつ蔵宿のきへかゝりけり

・借金の ふちにしつみし武士を はらはせ給ふ白川の君

●札差が受けたダメージ

さて、棄捐令によって困ったのが札差たちです。

棄捐令によって吹き飛んだ貸金の総額はなんと118万7808両に及んだといいます。

『癸卯雑記』によると、1789年の幕府の歳入が190万両、1793年は118万両、1814年は139万両であったそうなので、かなりの金額であったことがわかりますね💦

一番損をしたのが伊勢屋四郎左衛門で、棄捐高はなんと8万3千両にものぼりました。

そこで9月23日、札差たち28名が連名で次の内容の御慈悲願いを出しています。

…私どもはもともと経営状況が苦しく、これまで他の金貸しから金を借り、これにこれまで貸し付けてきたお金の利息を加え、「札旦那」の方々に金を御用立てしてまいりました。しかしこれまで貸してきた金が棄捐となり、5年以内のものは利下げとなり、今後貸すお金については利率が12%となってしまっては、私どもが札差の家業を続けることが難しくなるのはもちろん、家族を養うことも難しくなり、途方に暮れております。これまで私どもが引き受けていた札旦那方にも、これまで通りに対応する手段が無く、どうしてよいかわからず、非常に困っております。16日の法令について、何とぞ御慈悲をお願いいたします。…

慈悲願いを申し出た28日の札差について、末岡照啓氏は『徳川幕臣団と江戸の金融史』にて、次のように分析しています。

札差を棄捐令による棄捐高でA(2万両~)、B(1万両~)、C(5千両~)、D(1000両~)、E(1000両未満)の5つのランクに分けた時、28人はAランクが8人、Bランクが11人、Cランクが4人、Dランクが3人、Eランクが2人で、棄捐高の大きいABCランクが20人と多かった。

被害の大きかった札差が中心となって訴え出ていたことがわかりますね。被害が大きかった=富裕であった、ということなので、そこまで困ることも無い(そもそも他人から金を借りる必要がない)者たちであるはずなのですが。

28人の中でもっとも棄捐高が多かったのが、全体2位の伊勢屋喜太郎で、なんと6万696両もの借金が帳消しにされてしまっています。

ちなみに伊勢屋喜太郎は十八大通の一人です。

先に紹介した十八大通はどんな損害をこうむったのか見てみますと、

賭け事大好き大口屋八兵衛は1万6001両、豪華行列で処罰を受けた下野屋十右衛門は1万9460両、「平十郎小判」「平十郎屋敷」の笠倉屋平十郎は1万9756両、キス遊びの伊勢屋宗四郎は1万3876両…となっています。いずれもBランクであったんですね。笠倉屋平十郎と伊勢屋宗四郎は慈悲願いを出したメンバーに名を連ねています。

棄捐令のできるまで

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪


寛政年間(1789~1801年)はじめには、武士の生活を苦しめる事象が発生していました。

それが、天明8年・寛政元年と2年連続の豊作です。これにより米価が低下したのですが、武士は米を売ってお金に換えて生活していたので、米価の低下はつまり、武士の収入の低下を意味します。

それなのに、物価は依然として高いままでしたから、武士は生活に困り、さらに借金を重ねる…というように、生活の悪化が深刻なものになっていきました。


松平定信は膨れ上がる借金に苦しむ武士を救うため、次の作戦を考え、勘定奉行の久世丹後守(広民。1737~1800年)に提案しました。

20年以上前の借金は「棄捐」とし、10~19年前までのものは20年返済、もしくは無利息とする、5年以前のものは15年返済とする。借金の利率は今のまま(18%)とする。

「棄捐」とは破棄すること、つまり、借金を帳消しにすることを指します。

隈崎渡『日本法の生成』には、「棄捐の語義は元、単に物の棄却、破棄に在つた。御成敗式目に「右妻依有罪科於被棄捐者」云々とあるのも、夫による一方的離婚で、要するに妻を棄却するの意である。…棄捐が専ら経済的に用いられるに至つたのは江戸時代に入つてからであり、幕府が旗本御家人を救済すべく、彼等と金融業者の間の貸借関係を消滅せしめるものであった。しかし、それは頻発されたものではなく、江戸時代を通じて前後三回を計えるに過ぎない」とあります。前後三回と言っている1回目が定信の棄捐令なのですね。

3月13日、これに対し久世丹後守は松平定信に次のように提案をしました。

…近年、旗本・御家人は一様に困窮していると聞いております。もちろんこれは本人の器量や善悪、運不運も関係しているものではありますが、贅沢の風潮が激しくなり、世間一般に広まった結果、家計の状況が苦しくなったものと考えられ、その上、米価は上がったり下がったりするのに、それ以外の物価は一向に下がらず、質素倹約を守っても、もし米価が引き続いて安くなるようなことでもあれば、より一層苦しむ者が出てくると考えられる中で、今回の作戦が立てられたことに対し、みな有難く思い、家計を立て直し、誠実な心も取り戻す事でしょう。しかし、近年の米価の高騰で、札差たちの取り分も減少しており、経営状態が苦しくなっているようで、調べたところ、札差97軒のうち自分のお金だけで営業できている「上之分」が7軒、他所から借りているお金より自分のお金が勝っているまぁまぁの状態の「中之分」が22軒、他所から借りているお金の方が多い「下之分」が68軒…ということがわかりました。よそからお金を借りて経営をしている者が多い中で、この作戦を実行されると、「下之分」の札差たちはただでさえ大変なのに、生活がより一層苦しくなる、と申し立ててくるでしょうし、今後武士への貸し出しを渋ることにもなりかねません。そのようになっては、武士たちは恩義を忘れ、逆に迷惑なことであった、と考えるようになってしまうことでしょう。だからといって、これまでの札差を残らず営業停止とし、札差の新規開業を命じるのも難しいことです。そこで、越中守殿の作戦を、次のように変更するのはどうかと思い、提案させていただきます。

20年以上前の借金は「棄捐」、10~20年前までのものは無利息30年返済、ただし、これまで通りの利息であれば50年返済、9年以内のものは利息10%10年返済、ただし、他所からの借り入れの方が多い札差で、利息収入の方が下回ってしまうことになり経営が厳しくなってしまうという者は、金を借りたものに対し、相談をして解決するようにする事。

これに加えて、浅草御蔵前に、江戸・京都・大坂の「豪富之町人」(豪商)の者たちが出資したお金でもって「会所」を作り、自分のお金だけで営業できている札差に運営を引き受けさせ、武家に貸し出す利息は10%とする。ただし、札差に全く利益が無いと苦しくなってしまうので、10%の利息のうち、1割は札差に、9割は会所のもの、とすれば、札差も他所から金を借りることが無くなり、富豪がため込んでいたお金も世間に少しは流通するようになり、武士の家計も改善できる事でしょう。さて、会所の武士への金の貸し方についてですが、札差どもと相談のうえ、わずかな金額を借りるのであっても、その訳を会所に説明させ、急にお金が必要になった場合であったとしても、証文に会所の「改印」が必要なこととし、借りるのを難しくする。ただし、もっともな理由である場合には速やかに金を貸し出せるようにする。金利は低くなったものの、借金がかさむことの無いように、厳しくお命じになられれば、武士たちは皆ありがたく思うようになり、札差たちも、(もうかりにくくなるので)不埒なふるまいをする者がいなくなることでしょう。また、札差に対し、幕府の「御金」5万両を無利息で貸し付け、今後各方面(庶民)に対して行う貸金の利息でもって、年に5%ずつ上納させ、20年で返済させることとすれば、幕府の「御仁恵」に感服し、質素を守るようになって、(経営状態が改善されることで)金の貸し出しもよくできるようになり、世間に困窮する者はいなくなることでしょう。…

(※Wikipediaでは、会所の貸出先が武家ではなく「経営困難となった札差」になっているが、これは誤りである。史料には「武家え貸渡方之儀」とあり、札差に貸すとは書かれていない。また、後でも出てくるが、定信は会所が武士に金を貸す事に言及している)

久世案のポイントは定信案より内容は厳しいものにしつつ、札差の経営状況を鑑みて札差救済策も提示したことと、「会所」(取引所)を作るという事です。

この会所について、長田権次郎『時代乃面影』には、「今日でいう機関銀行」と説明がなされています。

機関銀行とは、あまり耳慣れない言葉ですが、寺西重郎氏『日本の経済発展と金融』によると、「機関銀行とは少数の事業会社と資本的、 人的に密接な相互関係をもち、 その企業や関連する企業へ融資を集中させる銀行」のことであるそうです。

つまり今回の場合では、武士に限定して融資を行う…という事を指しているのですね。

また、札差救済策として、幕府の金5万両を無利息で札差に貸し付ける、というのを挙げていますが(北原進氏は「寛政の棄捐令について」で公金貸下げについての久世丹後守の立案は、「棄捐令」の発布により札差の抵抗ないし没落、その結果として武家金融の逼塞という事態を恐れたからにほかならない」と述べている)、末岡照啓氏『徳川幕臣団と江戸の金融史』によると、幕府が札差に貸金を行なうというのはこれが初めてではなく、1774年・1779年・1781年と田沼政権時に3度にわたって実施されたようです。1774年は町奉行所から札差に年利5%・10年返済で、1779年は札差に武家へ年利12%で貸し付ける、札差は利息の2%分をとり、残りの10%分を町奉行所に納める、という条件で1万両が貸し付けられ、1781年には79年と同様の貸し付けが実施されています。この3つの場合は幕府の収入を増やす目的で行われたわけですが、今回の久世案では札差救済が目的なので無利息で貸し付け、ということになっていました。

これに対し、松平定信は次のように返事をしました。

…もっともなる意見である。しかし、幕府による札差への無利息の融資は、(5万両ではなく)3万両でよいだろう。札差どもは身分をわきまえず言葉に言い表すことのできないぜいたくをしていると聞いている。町人で他に過度の贅沢をしている者は歌舞伎役者であろうが、特に札差は(武士に対する態度が)「失礼尊大之様子」が「不届之至」であるので、厳しい態度を示すことが必要である。札差どもは、身分をわきまえぬ贅沢などしておるので、経営状態が苦しくなり、他所から借りたお金で金貸しを行なうようになっていると聞き及んでいる。最初は札差を全員取り替えても良いように思っていたくらいなのだから、あまり憐れみをかけることも無いと思う。…

5万両から3万両に値切ったわけですね。

続いて7月5日に、町年寄の樽屋与左衛門(『日本経済史辞典』によると、樽屋は奈良屋・喜多村氏と共に「三年寄」と呼ばれ、江戸の市政の実務を管理する名家の一つであった。寛政2年[1790年]4月に名字を名乗ることが許され、「樽」を名字としている)が次のように提案をしました。

・仕法について布告される時期は、9月になされるようお願いいたします。俸禄米が支給される10月1日より前に20日ほど期間があれば、用意は残らず整えることができると思います。9月は冬服への衣替えの時期(9月9日に重用の節句がある)であり、お金が必要となる時期です。9月より前に布告されると、札差どもが驚いて、物入りの時期の前に金を借りることができなくなってしまいます。また、仕送りを受けて生活している者たちは、毎月初旬に仕送りを得ていますが、仕送りを得た後であるならば、札差どもがいくら騒ごうとも、10月の俸禄米支給までやり過ごすことができます。

・仕法の施行時期について、10月から改めなさるように申し上げます訳は、10月の俸禄米支給が3度の俸禄米支給の中で最も額が大きいので、仕法の変化による影響を一番大きく感じることができ、武士たちが特に有難く感じることになるだろうと思われるからです。

・仕法改正の内容についてですが、借金返済について天明4年(1784年)以前のものについては訴訟を取り上げず、「双方相対次第」(お互いに話し合って決める)とし、5年以内~今年の5月までのものについては利息を6%、5月以後のものは12%とされるのはいかがでしょうか。20年以上前のものは「相対」とする、という案も考えましたが、これだと借金を消すことにつながらないと思われます。6年もあれば十分でしょう。借金が高金利なので、数年の内には利息が最初に貸したお金(元金)と同じくらいになっており、札差はすでに元が取れ、以後は自分の収入とすることができるようになりますから。

・一方で札差に対する慈悲として、会所に貸与する5万両分の利息を下賜され、札差は今後会所から拝借して貸し付けを行なう際に、「世話料」として利息の中から2分(利息12%のうち2%分)を与えるようにでもすれば、札差は有り難く思うことでしょう

・6年以前の借金を「相対」とし、訴訟は取り上げない、という事にすると、町中の金貸しをしている者たちも勘違いをして、金貸しを渋るようになるかもしれませぬから、「相対」の件は札差に限る旨を布告されるのがよろしいかと思われます。

・武士に対しては、今回の法令が出されたからといって、心得違いをして、俸禄米を直接受け取るようなことをことをさせず、今まで通り必ず俸禄米はまず札差が受け取るということを伝えれば、札差どもは皆ありがたがることでしょう。

樽屋案のポイントは借金帳消しの対象が定信案・久世案は20年以上前であったのを6年以上前としたこと、「棄捐」の語は使わずに「相対」の語を使用したことです。

これについて、北原進氏は「寛政の棄捐令について」で、「樽屋は天明4年以前と5年以後とに大きく二分し、前者を相対済し、後者を年利6%(通常の三分の一)に下げることとしている。天明四年を境に二分したのは、公定年利が18%であるから、6年目に利子は元金を越えることになり、それ以前の債権はすでに元金を取り込んでいると見なしたためであり、延享年間に町奉行能勢肥後守が札差債権の6年以前相対済しを申渡した故事に学んだものであろう。また幕閣が棄捐という厳しい語を使っているのに対し、彼が相対済しとゆるめた根拠は、第一に言葉が柔かく、札差にいくらかは取返せる期待をもたせること、第二に、そのために若干は長年賦になるものがあろうが、「多分は棄捐に相成」ると相対済しが棄捐とまったく同じ結果になることをあげている」としています。

これに対し、翌日に定信は次のように返答しています。

…樽屋の意見は「よほど宜き主法もっともの事ども」であるが、札差どもは傲慢・奢侈(身分を超えた贅沢)であり、無利息の5万両を会所に下賜し、その利息を札差に与えるというのは、有難すぎる処置であろう。2・3万両で十分と思う。また、新しい法令が出れば、必ず悪い点を探そうとするのが人情というものであり、幕府が下賜した金でもって今後会所が武士に貸付を行うというのを、「蔵前の金元は、公儀にて遊ばされ候(会所の金主・出資者は幕府であるから、幕府が武士に金貸しをしているようなものである)」などと言う者が必ず出てくることであろう。そこで、(下賜する2万両は)「御用達町人」に1万両、札差に1万両を貸し、利息も無利息ではなく、1・2銖(1両の16分の1)ほど取ることにしたらどうであろうか。また、幕府が資金を出しているという事は、2・3か月を置いて伝えることにしたらどうであろうか。批判の出るのはできる限り無いようにしたく思う。また、ただ「相対」と言うのでは「うきたる様」(落ち着かない。いい加減だ)なので、「棄捐」とするか、「長年賦」(長期払い)とするかを「相対次第」にすることとし、これについての「出入」(訴訟)を受け付けない、ということにしたい

ここに出てくる「御用達町人」というのは、天明8年(1788年)10月に「勘定所御用達」に任命された(給料は3人扶持[3人が生活できるだけの米を支給する事。具体的には5.4石)、江戸の7人の豪商たちを指します(翌年12月に3人追加)。

その豪商たちというのは、

三谷三九郎…両替商。大坂の鴻池と並び称されるほどの豪商であった。東北諸藩に大名貸を行なっていた。御用達頭取に任命される。

仙波太郎兵衛…両替商。大名貸を行なう。

中井新右衛門…両替商。御三卿の一橋・田安など、多くの大名に金を貸していた。

提弥三郎…両替商。

松沢孫八…油問屋。幕府が使用する油を任せられていた。

鹿島清兵衛…酒問屋。飢饉の際には江戸で一番の施行を行なった。

田村十右衛門(豊島屋)…酒・醤油商人。薄利多売商法で成長する。大名たちの酒を任されていた。

…の7人です(寛政元年[1789年]8月28日には名字を名乗ることを許されていたので名字がある)。

これに後に竹原文右衛門(両替商)・森川五郎右衛門・河村伝左衛門の3人が加わり、合わせて「十人衆」と呼ばれたそうです。

「勘定所御用達」を新たに設けた理由として、「江戸の物価が高下に甚だしく偏り、人々がこれに苦しんだ際に、「平準之ため」金銭を出す」ことが挙げられています。物価の偏りを是正するためだというのですね。

金銭を出す、とありますが、どのようにバランスを取るのかというと、勘定奉行は「米は自由に売買させていると、米価が高くなった際は米を買い占め、さらに値段を吊り上げようとして、人々がこれに苦しむことになる。そこで、「江戸表において人々目を附候程之町人共」を御用達に任じ、米が安値の場合は大量にこれを買わせ、高値の際は米を大量に売って米の相場を下げさせる」と説明しています。

さて、この御用達町人ですが、どうやらいつの間にやら、御用達町人が会所を運営する、という事になっていたようです。

その後、9月12日頃には棄捐令を布告する段取りが進められることになり、その内容についても段々と詰められて、

・金の貸し出しについて、今後は武士の禄高に応じて貸す量を決めることとする。

・金の貸し出しについて、武士は今後は札差ではなく会所から借りることにする。

・武士が金を借りる際に勘定方の者が立ち会う。

・借りた者の姓名・役名・禄高について帳面に書き記して幕府に提出する。

…という内容が決定されたようなのですが、これらは武士が過度に借金をすることを防ぐとともに、会所へ出資した商人たちへ安心感を持たせるための作戦でした。

しかし、発令が間近に迫った8月25日に、なんと定信は次のように懸念点を伝えます。

…金の貸し出しについて、今後は武士の禄高に応じて貸す量を決めることとする、というが、これだと、これまで過度に貸していた金は道理に外れたものという事になり、分不相応に借金をしてきた者は返さなくてもいいと言い出すようになってしまうのではないだろうか。最近、恥辱の心が廃れてきている中で、武士が札差に対してしていた借金を、今後幕府の役所(会所)に申し出て借り受ける、ということにすると、ますます恥辱の心が廃れることにならないだろうか。または、恥辱の心がある者は、そのために借金を控えることになってしまわないだろうか。また、勘定方のものが立ち会う、というのもよろしくないので、樽屋与左衛門に御用達町人を添えるのみとし、与力同心を見回らせるのみとするのはどうだろうか。武士が会所に赴いて借りるのではなく、札差が金を貸す際に、不足分について会所から借りて武士に金を貸すようにした方が、今までと同じようなやり方になるので、人情が穏やかなものになるのではないだろうか。借り手について帳面に書き記して報告させるのも無しにしてはどうだろうか。

松平定信としては、できる限り幕府が市場に関与する(金の事に関わる)、というのを避けたかったのでしょう。前の田沼政権では札差に金を貸し、その利息で利益を得ていた、という前例がすでにあったにもかかわらず、定信は「幕府が金貸しをしているようなものだ」と噂されるのを嫌がって、これをできる限り縮小しようとしましたし。幕府が金の事に積極的にかかわるのは恥ずべきことだ、という思いがあったのでしょう。

これについて、奉行衆は、御用達町人など会所に出資する者たちは、踏み倒しを恐れているので、越中守殿の言うとおりにすると、出資を渋るようになってしまう、借り手の禄高・姓名・役名は帳面に記し、禄高に応じた借金の限度を定めるようにしたいのだが、と樽屋与左衛門に相談した上で、次のように定信に提案しました。

・武士の禄高に応じて貸し付けを行う。出資する者が踏み倒しを恐れてしまっては困るので、貸金は禄高100俵につき30両を目安とする。

・札差が武士に貸付ける金が不足する場合、会所に申し出る。会所は一通り是非を判断した上で、金を札差に貸し渡す。

・会所は樽屋与左衛門に御用達商人など出資者の手代によって運営し、与力同心が日々これを見回ることとする。

2・3番目については定信の意向に従った内容になっていますが、1番目についてはこれだけは譲れないと抵抗を見せています。

この後、いよいよ棄捐令が発令されることになるのですが、その内容は最終的にどのような物になっていたのでしょうか、見てみることにしましょう。

9月16日、北町奉行の初鹿野河内守(信興。1745~1792年)は惣札差・町役人を呼び出し、次のように告げました。

…その方(札差)たちは、旗本・御家人に下された御切米(俸禄)の受け取り代行や、金の貸し付けをして生計を立てているが、借りておる者たちは元金の利息を払うだけで精いっぱいで、何代経っても借金が無くなることがないので、旗本・御家人はますます生活が苦しくなっていっている。その方たちは、そのような事情も理解しようとせずに利息を重くし、年に三回入る御切米(俸禄)による返済で足りない分は元金に付け足し、ますます借金が多くなっても利下げをしようとせず、たやすく多くの利益を得て、過度な贅沢をするのはもちろん、奉公人たちにまで遊興の限りを尽くさせ、最もひどい場合は風紀を乱すような不届きな贅沢をする者までおる。その上に、借金を申し込みに来る旗本・御家人に対して失礼な振舞いがあるとも聞く。これは言葉に言い表すことのできないけしからぬ行為であり、厳しく処罰するところ、特別にお情けをかけられてお許しになられたので、今後は風俗を改め、身の程をわきまえ、御家人に対して失礼の一切ないようにせよ。さて、この度、そなたらの貸し出し金利を下げること、貸金の返済方法について別紙の通り仕法(物事のやり方。仕方)を変更することとし、また、浅草御蔵前猿屋町の空き地に「貸金会所」を建て、町年寄の樽屋与左衛門に任せることにしたので、以上の事を心得て、今後は新たな仕法の内容をしっかりと守るようにせよ。今後、仕法違反はもちろん、不届きな行為があった場合には厳しく処罰するから、そのように心得よ。…

…この度、札差に関する仕法を改正し、幕府は札差に幕府の金を無利息で下げ渡すこととし、これに「差加金」(町人からの出資金)を加え、貸金会所からこれを貸し渡すこととした。なお、幕府の下賜金は20年返済とするつもりであるのでそう心得よ。…

札差に関する改正?された「仕法」というのは、次のようなものでした。

①・旗本・御家人に対する貸金の利息は今後、(現在の18%から)月1両につき銀6分(銀の場合は「ふん」と読む。1両=600分であるから、月の利息は1%。年間の利息は12を掛けて12%となる)とすること。

②・浅草御蔵前猿屋町の空き地に貸金会所を建て、町年寄の樽屋与左衛門に任せ、幕府の金をこれに下げ渡す。札差たちが金繰りに困った際には、会所に申し出て、金を借りること。

③・武士が「法外」・「不相当」な金額を借りたいと言ってきた際には、これまで通り断ればよろしい。このことで会所に金を借りたいと申し出ないこと。

④・会所から金を借りる際は、天王町組・片町組・森田町組、それぞれに借りたい額を取り決め、その組合全員の連印の上、借入証文を会所に提出すること。会所から貸し出された金は行事が受け取り、組合の者に渡すこと。もし会所から借りた金を返済しなかったら、それは札差組合全体の「不正」であるから、組合の者たちでこれを返済すること。

⑤・6年以上前(天明4年[1784年]より前)に札差が貸した金について、昔のものも最近のものも関係なく、「棄捐」(破棄する事)とするのでそう心得よ(「旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年迄貸附候金子は、古借新借之差別無く棄捐之積り相心得べく事」)。

⑥・天明4年から今年の5月までに貸した金については、その多少に関わらず、50両につき1分(金の場合は「ぶ」と読む。1両=4分なので、50両=200分となり、1÷200=0.5%、年の利息は12を掛けて6%)の利息とすること。年払いの上限額としては、禄高100俵につき3両までとする。

⑦・今年の5月以後に貸した金については、利息は1両につき銀6分(12%)とすること。この借金については、冬(10月)の切米にて返済する。借金が多くあって、返済をすると生活が苦しくなる者がいる場合は、その者と取引をして支障が出ることが無いようにせよ。

7・札差で裕福なものは数少なく、ほとんどは他所から金を借りて金貸しを行なっていると聞く。札差で金を借りていた者は、今回の事で返済が難しくなると思うが、貸主から訴えられたとしても、5年より前のものについては幕府はこれを取り扱わないこととする。今後、金貸しから金を借りるのが難しくなるだろう、そうなると、武士に金を貸すのが難しくなってしまうだろう。武士への貸し出しが滞らないようにするために、貸金会所から金を貸し出すことにしたのであるから、武士への貸し出しが滞ることのないようにせよ。

⑪・米の代行受取料はこれまでと同じとする。

⑫・年3度の武士の給料日には武士を酒食などでもてなしていたそうだが、今後一切無用である。

・会所から金を借りられるようになったとはいえ、できる限り仲間内でお金を融通し合って解決する事。会所があるからといって、これまで貸すのを断っていた案件を受け入れることのないようにせよ。

1・今回の法令が出たからといって、今後貸し出しを渋ることが無いようにせよ。札差の行事は毎日見回り、貸し出しが滞っていないかどうかを、毎日夕方に1人が代表して役所に報告に出向くこと。

2・今回の法令が出たからといって、これまで金を貸していた相手に金を貸さないようにするというのは、心の中で幕府の命令に背いているのと同じことであるので、厳しくこれを取り調べる。

3・今後金を貸すのを渋るような者がいれば、5年以内の借金の支払いを禁止するよう命じることもあるので、心得違いが無いようにする事。「札旦那」(札差の顧客の武士)と札差は「和熟」(仲良くする事)して、何事においても「程能」(ほどよく)解決するようにせよ。

8・札差と取引(借金だけでなく米の代行受取なども含む)のある武士について、金の貸し借りに関わらず、名前と役職・禄高を帳面に書いて役所へ報告するようにせよ。

9・会所より借り受けた金の利息は10%とする。この金を使って武家に金を貸す場合、利率は12%とする。

そして幕府は武士たちに対しては次のように触れを出しました。

…借金について、棄捐・利下げとなったからには、今後はより一層生活を控え目にし、とりわけ倹約を心掛けるようにすること。幕府からの「御仁慈」を受けたというのに、不正なことを少しでも行う者がいたら、厳しく罰するのでよく心得よ。…

町人に対しては次のように触れを出しました。

…札差の貸している金について、棄捐や利下げを命じたのだが、これをもって札差以外から金を借りている者に対しても借金を踏み倒そうと考えるような心得違いの者が出るかもしれぬが、これは一切許さないので、今まで通り金を貸すようにする事。…

同日、御用達町人に対し、貸金会所の資金上納を命じています。

…この度、切米取の旗本・御家人を救うために(「御旗本御家人勝手向御救之為」)、武家が借りていた古い借金を棄捐とし、最近の借金は利下げとするように仕法を改正した。また、浅草猿屋町の空き地に会所を建て、その資金として「御下ヶ金」を下付するが、これに加え、その方たちも各自「差加金」(出資金)を上納するようにせよ。蔵宿どもが会所に借金を申し出てきた際には、確認の上、金を貸し、蔵宿が旗本・御家人へ金を貸すのに支障が無くなるようにしたいと思っている。会所の運営については町年寄の樽屋与左衛門に任せたので、上納する金額・利率などについて、与左衛門に指示に従い金を上納すること。…

これを受けて、10月5日、三谷三九郎・1万両、仙波太郎兵衛・7千両、中井新右衛門・5千両、提弥三郎・5千両、松沢孫八・3千両、鹿島清兵衛・2千両、田村十右衛門・千両、合計3万3千両が上納されることになりました。

義昭は「うつけ」で「公界」が欠けている将軍⁉

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

松永貞德(1571~1653年。父の松永永種[1538?~1598年]は連歌師で、高槻城主入江政重の子であった)は和歌を細川藤孝(幽斎)に、連歌を紹巴に学んだ歌人で、1644年に歌学書『戴恩記』(歌林雑話集)を著しているのですが、その末尾にてなぜか織田信長について書き記しています。

松永貞徳が11歳の時には信長は死んでおり、両者の接点は無かったと考えられるのですが、黒嶋敦氏は『天下人と二人の将軍』で、「貞徳は細川藤孝など義昭と同世代の人々から和歌を学んでおり、次の話も、そうした中で耳にしたものと思われる」と推測しています。

さて、どのようなことを書いているのか、見てみましょう。

…「御当家様」の御恩は山より高く、海よりも高いものである。日ごろ暮らしていると実感しにくいが、それはあまりにも「御情」が大きいためである。例えば闇夜を行くのに、知らない人が提灯を1つ与えてくれたら、非常にうれしく思い、一生の間、その恩を忘れないであろう。しかし、毎朝、太陽が出て照らしてくれても、ありがたいと手を合わせて拝む者はおるまい。これを「大同の慈悲」と言うとか。(中国の伝説上の君主の)尭の時、民が「日が出れば働き、日が沈めば休む。水が飲みたければ井戸を掘って飲む。物を食べたければ農耕をして収穫した物を食べる。皇帝の徳は私に何の関係があるというのだろう」と唄っているのを聞いて、尭は自分の徳が広く行き渡っていると逆に喜んだという。昔の事は知らないけれども、我らが生まれてよりこのかた、たびたび兵乱があったが、その際には町々の門戸を固め、辻々に堀をほり、あるいは新しく関所を作り、あるいは逆茂木を置き、一時的にも交通は自由にならなかった。近国や他国の情報もうまく入らず、さまざまな根も葉もない噂が流れては、肝をつぶし、財宝を抱えて逃げ惑った。光源院殿(足利義輝)を失った後、御舎弟の奈良の一条院殿におられた方に還俗していただき、各地の大名を頼って身を寄せられたが、手ごたえが無かったところ、織田上総守信長公はこれを引き受け、美濃国より出陣し、小敵には目もくれずに観音寺城を攻め落としたので、その勢いに恐れをなして近江の城は36も降参したので、わけもなく公方と共に上洛する事に成功し、その後自身は本国に帰ったところ、…

この後の文章は以前に紹介した本国寺の変の記述、二条城築城の記述となり、

そして続く部分が、今回紹介するエピソードになります。

「新城の出きし正月に、御門のからゐしきに、われたる蛤貝を九つならへ置たり、いかなる心そとしる人なかりしに、信長公さとき御智恵にて、これは公方の御心のうつけて、くかいかけたるといふ事を、京童か笑ひてしたる物そと、さゝやかせ給ひしと也」

(義昭二条城のできた後の正月に、城門の唐居敷[からいしき。『日葡辞書』には「門柱を建てる土台になる太い木材で、その上で門扉を閉じるようにするもの」とある]に割れた蛤貝が9つ並べて置いてあった。これはどんな意味があるのだろう、と誰も分からずにいると、信長公は頭の回転が速く、理解力が鋭かったので、その御知恵でもって、「この意味は公方様の御心が空っぽ[馬鹿]で、公界[くがい=9つの貝]が欠けていると、京童が笑い者にしてやったことであろう」と囁いたという)

「新城の出きし正月」とありますが、これはいつなのでしょうか。信長が正月に京都に滞在していたのは永禄12年(1569年)と天正5年(1577年)のみであり、永禄12年の際にはまだ城が完成していないので、天正5年に絞られるのですが、天正5年の際にはすでに足利義昭は追放されて京都にいなくなっていたため、この話はおそらく創作だと考えられるのですが、当時の人にこのような話が伝わっていた、というのは興味深いことではあると思います。

次に義昭について、「公界」が欠けている、とあるのですが、この「公界」とは何でしょうか?

網野善彦氏は、『岩波講座日本歴史 7 (中世 3)』(1976年)・『無縁・公界・楽』(1987年)で、「この語はもともと中国に源をもつものと思われ、日本の文献では、「霊堂公界の坐禅」(『正法眼蔵』)、「円覚公界」(『円覚寺文書』)など、禅宗寺院に関連してまず現れる」、1250年の九条道家処分状には、東福寺の長老・知事などの禅僧を「公界人百人」として書き上げており、ここから、公界とは「俗界の縁をたち切って修行する場」を指していたと考えられる」、戦国時代に至っても、1561年、北条氏繁は江嶋(えのしま)岩本坊(江島神社・奥津宮の別当寺[神社を管理運営するために付属して建てられた寺院]である「岩本院」のこと)に宛てた書状で、「江嶋坊住之儀は公界所之事に候間…」と記しており、寺が「公界」の場として認識され続けていたことがうかがえる、としています。

つまり「公界」とは「寺」のことなのでしょうか?

しかし寺が欠けている…というのでは意味が通じません。

どうやら、「公界」の意味は時が経つにつれて変質していったようです。

先ほど紹介した北条氏繁の文書の続きには、江嶋は「公界所」であるから、たとえ敵が押寄せてきても、「策媒」一政治的処置をして、平常の状態を保持せよ、という趣旨の文章が書かれているのですが、網野氏はこれを「江嶋が「平和領域」であることを保証されていた、とみることができる」とし、同様に、『蔭凉軒日録』延徳3年(1491年)10月26日条に、

…縦雖為朝倉御敵、含蔵寺事者為公界所上者、可為無為乎云々…

([朝倉がたとえ敵となったとしても]含蔵寺は「公界所」であるから、こうした戦乱にも関わりなく、平穏無事を保ちうるであろう)

…とあることから、「含蔵寺が江嶋と同じように、寺外の対立、戦乱と「無縁」な「平和領域」であったことは、推定してまず間違いなかろう」と考えています。

つまり、寺院が「平和領域」とみなされていたことがわかりますが、この理由について、網野氏は、天正七年(1579年)8月12日に発せられた北条氏照掟書を挙げ、その内容に、

一、江嶋に有なから、他人之主取致之事、令停止畢、…江嶋中之者、他人を主与号する事、令停畢…

…とあることから、「江嶋の人々は、主をもつことを許されなかった。つまり、逆にいえば、江嶋中の者は、主従の縁の切れた人々だったのである。それ故、外部の争い、戦闘と関わりなく、平和を維持することができたのであった」と考えます。

このことは、上野の長案寺住持の日記『永禄目記』の、永禄八年(1565年)7月29日条に武蔵の称名寺について、「敵味方きらいなき公界寺なる間、大途(北条氏)之しらべもあるまじき」と書かれていることからも理解できます。どこにも属さない中立地帯であったわけです。

このように、寺とは「公界」の地であったわけですが、一方で、全ての寺が「公界」であったわけではなく、1556年、下総国の戦国大名、結城氏の制定した『結城氏新法度』30条には、「諸寺・諸庵・諸房共に公界寺、我々建て候氏寺のごとく、…」とあり、武士が一族の寺として建てた「氏寺」と、そうではない寺が「公界寺」として区別されていたことがわかります。

この、「武士に所属しない」というのが、「公界」の意味としてだんだんと拡大して適用されるようになったようで、

伊勢の山田には「三方寄合」「三方老若」と呼ばれた自治組織があったのですが、1497年の文書には、「三方用銭之時、座中之儀申合候て、公界として曾祢彦左衛門殿を入申候」とあり、話し合って曾祢彦左衛門が新たに座に入ることを「公界」が認めた、とありますが、別の文書には「公界」の部分にあたる箇所に「以三方老若衆儀」「以衆儀」「為三方」などとあり、「公界」が「三方老若」=自治組織を指しているということがわかります。

また、伊勢大湊で天文22年(1553年)~永禄12年(1569年)にわたってつけられていた帳簿に「此の日記、てん(点)を御かけ候は、公界のいんはん(印判)にて御かけ可有候…」とあり、日記の文章の傍に点を打ってあるところには、「公界の印判」を押してある、とありますが、1561年の箇所には、「う(右)京殿会合にて点をかけ候」「会所之時老若かつてん(合点)」とあることから、「公界」とは「老若」を指していると考えられ、また、別の個所では「老若」は「会合衆」として登場もするので、老若=会合衆であることがわかり(「右京殿」は会合衆の一人であったと考えられる)、つまり、伊勢大湊の会合衆が自らを「公界」と称していたことがわかります。

自治都市、会合衆といえば堺が有名ですが、『蔗軒日録』文明18年(1486年)2月12日条には、「印首座今在北庄経堂、々々者地下之公界会厥也」とあり、堺の北庄には公界が存在していたことを確認することができます。

以上から、武士の支配から自立して都市を運営する者たちを「公界」と呼んだことがわかりますが、「公界」と呼ぶ範囲はさらに広かったようで、

遊女や、能役者・連歌師・鞠師などの芸能民もどの大名にも所属せず活動していたことから「公界衆」と呼ばれていました。

さらに、大内氏が延徳3年(1491年)11月13日に出した法令には、

「被放御家人之輩…事、或被殺害刃傷、或遇恥辱横難、縦又雖有如何躰之子細、既蒙御勘気之上者,可為公界往来人之准拠之間、其敵不可有御罪科之由、被定御法畢」

(網野氏は「大内氏の当主ー主君の怒りにふれ、その咎めをうけて、家人としての縁を切られたものは、殺害、刃傷されたり、恥辱を加えられ、思いがけぬ災離にあうなど、たとえいかなることがあろうとも、すでに「公界往来人」と同様のものなのであるから、その加害者については、なんらの罪にも問わない」、と訳す)

…とあり、大名家に所属しなくなった武士は「公界」の者と同様に扱われる、つまり、大名の家来でない者はみな「公界」であるというのですね💦

もともと「公界」は「世間とは無縁の場所」という意味でしたが、それが主を持たない、大名と無縁という意味に変質し、ついには大名に仕える武士以外、つまり世間一般をさすようになった、というのは不思議な事ですね😅

『戦国古文書用語辞典』でも、「公界」は①課役、②世間、③世間に出して恥ずかしくない人。世間の広いもの。世間人、④公領…とあり、「世間」がその意味として書かれているのですが、「公界」が「世間」だとすると、足利義昭の「世間」が欠けている、とはいったいどういう意味なのでしょうか?

「世間」とは『日本国語大辞典』には、「②人が生活し、構成する現世社会。この世の中。この世。④人々とのまじわり。世間づきあい。また、世間に対する体面」とあります。

今回の場合は④があてはまるでしょうか。「世の人々からの評価」が欠けている、ということなのでしょうか。

一方で、1603年に作られた、戦国時代の肌感覚がわかる『日葡辞書』には「公界…公の所。公界へ出づる…公の場所に出る。公界の大道…皆誰でもが通行する公の道。すなわち、街道。公界を致す…人を訪問したり、挨拶回りをしたりするなど、人前に出て行動する。公界を止むる…上述のようなことや、公的な用事であちこちに行くことをやめる。公界事…公的な事、または、公的な用事」とあります。

奥野高広氏はおそらくこの中の「公界事…公的な事」を採用し、「自分の住宅を信長に建ててもらうほど、将軍として表向きのことは何もできないとの悪口」と解釈しました。

「公的」を『Wiktionary』で見ると、①公共に関すること。また、そのさま。公共的。②表向きのこと、正式なこと、公式なこと。また、そのさま。③国や自治体、その他の民間機関に関すること。…とあります。

「表向き」とは何か、調べると、『日本国語大辞典』には、「世間体」というのも出てくるのですが、③ 公務。特に、江戸幕府や諸藩の政務をとる所。また、その仕事の方面。④ 公的な事柄や機関。官辺。そのすじ。また、それにかかわる事態。特に裁判沙汰。訴訟。公事。…ともあります。今回の場合は「政治」や「裁判」のことを指しているとみるのが自然でしょう。

黒嶋敦氏は、『天下人と二人の将軍』で、奥野高広氏の意見を紹介した上で、「だが、公界(公的なこと)が欠けているという批判は、義昭の人格と幕府の政治全般にも当てはまる。将軍の適性(「徳」)に疑問符がついた時、混乱に拍車がかかるのは、室町幕府の歴史のなかで繰り返されてきた情景であった。その混乱が、まもなく義昭にも訪れるのである」と述べていて、その範囲を広くとらえています。

また、安原眞琴氏は『「扇の草子」の研究』で、「「くがい」は「公界」つまり世間や公の世界のことであろう。世間あるいは政道が乱れたという意味の造り物のさとり絵ではないかと思われる」と述べています。

…ということで、「公界」が欠けている、というのは、政治的能力の欠如、と見るのが適当であるといえるでしょう。


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