社会って面白い!!~マンガでわかる地理・歴史・政治・経済~

2026年10月8日木曜日

「死スル者幾バクゾヤ」~越前手筒山攻落されの事

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(前略)

さて、こうして戦闘の準備が整い、いよいよ両軍の激突ということになります。『佐柿』は信長の兵力について、

…信長公が天筒城を攻めた時の全軍の兵力は、合わせて2万余騎であった。

…と記しますが、これが確かだとすると籠城する天筒山城の兵1500の約13倍もの兵力があったことになります。

信長は大軍でもって天筒山城に攻めかかることになるのですが、その様子について諸書には次のように記されています。

『信長公記』…信長公がしきりに「攻め入るべし」と御命令になられたので、みな命を惜しまず力の限り忠義を尽くして戦い、ほどなく城中に突入し、1370の首を取った。

『越州軍記』…諸軍勢は天筒山に向かったが、この天筒山は、背後には深い沼田が広がっているので、敵もここからは攻めてこないだろうと思い、少々の柵を置いておくにとどめていたが、信長は沼がどれほど深いかも気にすることなく、馬をさっと沼に駆け入らせて、まっすぐに渡っていくと、諸国の兵たちは負けじと我先に命を惜しまず攻め進んだ。すると、城の者たちは石弓を放ち、槍を振るい、大石を落とすなどして反撃したので、死ぬ者が大勢出た。天筒山が攻撃を受けたことを知った朝倉景恒は、月毛馬に乗り、小桜威の鎧(桜の花びらの文様のある鎧)を着、小仄刃の長刀をひっさげて、「鐘ガ崎」から天筒山に向かったが、時の勢いには逆らえないのか、わずか50騎だけで城内に入り、辰の刻(午前8時頃)から申の刻(午後4時頃)まで戦ったものの、信長は兵を入れ替え入れ替え攻め寄せ、水の手も切られてしまっていたので、「もうこうなってはどうしようもない、鷹場にいる鳥と同じようなものだ」と言って、お互いに刺し違えたり、火の上がる城中に飛び込んで死ぬものも多くいた。景恒は3度にわたって切り返し敵を撃退しながら、金ヶ崎城に戻った。この時朝倉方で戦死した者は、三段崎弥七・同四郎左衛門・上田兵部丞・真木五郎右衛門・西城・中村兵庫助父子・富田中務丞・土山新右衛門・脇田・小河・山田・前波藤五郎・菅六郎左衛門・水間・竹内・萩原入道・鷲田三郎右衛門・岩井彦左衛門・山本、この他、敦賀社家衆(気比神宮に代々奉仕してきた者たち)では、執当・石蔵・嶋・宇野・小木・寺谷、合わせて5百余が討ち死にした。敵方も森十郎三郎・桑原源左衛門・佐久間・村井・二輪与一・丹羽藤三・柴田源五など、千五百余が討ち死にし、負傷して近江北部を通り美濃に戻る者や、西の方に戻る者などもいた。

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2026年8月25日火曜日

信長、「難攻不落の城」国吉城(佐柿城)に入る

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●若狭入国

こうして一応の防衛体制を築きつつあった朝倉に対し、武藤征伐を名目として、朝倉攻めに向かった信長は、『信長公記』によると、「坂本を打ち越し、その日、和邇(滋賀県大津市)に御陣取。21日、高島の内、田中が城(田中城[滋賀県高島市安曇川町]。「高島七頭」の一つ、田中氏の城。田中吉政はこの一族であるという)に御泊」というルートを進んでいます(『朝倉始末記』には「江州西地ヲ歴テ」、『織田軍記(総見記)』には「西近江地高島郡を御通りあって」とある)。

『言継卿記』には「一条東へ坂本に令下、…今日(20日)鰐迄被行云々」、『多聞院日記』には「去20日信長ワニ・カタダに被陳取了」とあり、坂本→和邇と進んだことはこの2つの史料からも裏付けが取れます。

さて、信長は近江を経て若狭国に入り、『信長公記』によれば22日に熊川に進みますが、先に紹介した4月20日付の細川藤孝・飯川信堅・曾我助乘宛て明智光秀書状に、

…今日の午の刻(昼の12時頃)、熊川に到着いたしました。こちらの様子は変わりありません。武田家の家老(「武田家老中」)が当地までやって参りました。若狭国までやってくる信長を出迎えるためだそうです。

…とあるように、明智光秀が先行して若狭に入っていたことが確認できます。

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2026年8月17日月曜日

「朝倉と浅井の関係とは?~「先年よリ世々を経て、越州朝倉に入魂也」」の2ページ目を更新!

 「歴史」の「戦国・安土桃山時代]の[『織田信長伝』]のところにある、

「朝倉と浅井の関係とは?~「先年よリ世々を経て、越州朝倉に入魂也」」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2026年7月31日金曜日

朝倉と浅井の関係とは?~「先年よリ世々を経て、越州朝倉に入魂也」

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朝倉攻めは非常に大がかりな出陣となったわけですが、この出陣について、諸史料には次のように書かれています。

『二条宴乗記』…「信長は越前入とて悉立被申由也」

『継芥記』…「越州へとも云々」

『多聞院日記』…「越前へ手遣、江州北方及鉾楯云々、如何可成行哉」

『信長公記』…「信長公京都より直に越前へ御進発」

『甫庵信長記』…「越前の国発向せらるべきとて」

『織田軍記(総見記)』…「越前へ御出馬なり」

『佐柿国吉之城粟屋越中以下籠城次第』・『粟屋勝久戦功記』…「越前義景を御攻可有之とて」

『国吉篭城記』…「越前の国発向せらるべきとて」

『浅井三代記』…「越前國へ発向有べき」

『武徳編年集成』…「越前太守朝倉左衛門督日下部姓義景を攻撃ん」

『絵本太閤記』…「越前の朝倉義景を誅戮せんとて」

『徳川実紀』…「信長越前の朝倉左衛門督義景をうたんと軍だちせられ」

みな朝倉義景を討つために出陣した、と述べているのですが、研究者によってはこれを否定する意見があるのですね😬

朝倉討伐のための出陣、を否定するのは久野雅司氏です。

久野氏は、信長が7月10日に毛利元就に宛てて出した書状に「若狭国の端にいる武藤という者が「悪逆」(『日葡辞書』には「邪悪な行為」、『日本国語大辞典』には「主君や父にあだするような罪悪」とある。将軍に敵対行為をしたことを指すか)を企んだので、これを征伐するようにと、将軍から命令が下ったので、4月20日に出陣しました」(「若狭之国端に武藤与申者、企悪逆之間、可致成敗之旨、為上意被仰出之間、去四月廿日出馬候」)(「毛利家文書」)とあることから、「信長の目的は…武藤氏討伐だったことは間違いない」(『織田信長政権の権力構造』)とします。

※中略

浅井長政は肥田城主・高野瀬氏(『浅井三代記』は「高野瀬越中」、『浅井日記』は「高野瀬美作守秀定」、『近江輿地志略』は「備前守秀隆」とする)を寝返らせることに成功しましたが、肥田城は六角氏の本拠・観音寺城まで直線距離で6~7㎞ほどしか離れていない位置にあり、六角としてはこれを見過ごすわけにはいきませんでした。

承禎は大軍を率いて肥田城に向かい、周囲に包みを築いてこれを水攻めにしましたが、途中で堤が切れてしまいこれは失敗に終わります。その後、肥田城救援にやってきた浅井軍と肥田城にほど近い野良田で激突する事になるのですが、なんと六角は浅井軍に敗北を喫するのです(『浅井三代記』では肥田城は六角方の城で、六角軍はここから出撃して野良田で浅井軍と戦っている。そしてその後浅井長政は肥田城を攻めてこれを降伏させている。『浅井日記』では比叡山の仲介により浅井と六角は戦闘に及ぶことなく停戦している)。

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「華々しい出陣~信長公越州敦賀表御出馬事」の2ページ目を更新!

 「歴史」の「戦国・安土桃山時代]の[『織田信長伝』]のところにある、

「華々しい出陣~信長公越州敦賀表御出馬事」の2ページ目を更新しました!😆

補足・解説も追加しましたので、ぜひ見てみてください!

2026年6月30日火曜日

華々しい出陣~信長公越州敦賀表御出馬事

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

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織田ー朝倉の不穏な関係はすでに前年から見られていたようで、永禄12年(1569年)8月19日付毛利氏宛日乗書状には、信長が伊勢一国を平定した後、阿波・讃岐両国か、または越前国の攻撃を考えている(「阿波・讃岐か又は越前かへ、両方に一方申し付けられるべく体候」)、ということが記されています。

朝倉氏側もだいぶ警戒していたようで、『朝倉始末記』には二度越前で騒動があったことが記されています。

一度目は二条城築城の時の事で、信長は本国寺の変の後も大軍を京都に残していましたが、朝倉はこれを怪しみ、「普請だと言って実は越前に攻め寄せてくるのではないか」と考え、敦賀の金ヶ崎・手筒山の城を強化し、他にも「木ノ芽・中ノ河内(余呉町中河内)・椿坂(余呉町椿坂)」にも城を作っています。

当時、近江から越前に向かうルートは、

(1)東近江路…琵琶湖東岸から、椿坂峠→中河内と進む

(2)西近江路…琵琶湖西岸から、敦賀→木の芽峠と進む

…の2通りがありました。

しかし東近江路は当時は幅が狭い小道であったようで、柴田勝家が越前を治めるようになった後に拡幅工事が行われたと『越藩拾遺録』にあります。

…となると、大軍が移動しやすいのは西近江路であったわけで、そのため朝倉は敦賀周辺を重点的に固めたのでしょう。

2度目は永禄13年2月の信長上洛時でした。信長は諸国から兵を集めており、4月上旬には信長が坂本で兵をまとめ、越前に攻め入るとの噂が越前に流れ、その後、朝倉と懇意にしていた坂本商人の香取などからも報告が立て続けに入ったので、どうやら真実らしいとなり、越前は国中が大騒動となりました。

そこで、朝倉義景は敦賀郡司の朝倉景恒(朝倉四代目の孝景[初代孝景とは別]の弟、景紀の子)に対し、「早々に出陣して、金ヶ崎城を守るように」と命じます(敦賀郡司といっても普段は一乗谷におり、奉行が代わりに現地を統治していた)。これに対し、景恒は「信長の大軍を前にして、私が小勢で向かったとしても立ち向かえるかどうか案じておりますが、かねてから、このような一大事があれば、命を惜しまないつもりでおりました。この度は勝敗を決する場面ではありませんが、ともかく金ヶ崎に向かい、信長と一戦し、苦しい状況に及んだならば、その時は改めて軍勢を派遣していただきたい」と答え、4月11日、3千余の兵を引き連れて一乗谷を出発し、金ヶ崎城に入りました。すぐ近くにある手筒山城には敦賀社家衆(気比神宮に対し世襲的に奉仕する家柄。執当・石蔵・嶋・宇野・小木・寺谷などがあった)、上田・中村・吉川・萩原入道など千五百余が籠もっています。

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2026年5月21日木曜日

「名物狩り」、第二弾!~名物召置かるるの事

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信長は永禄12年(1569年)4月ごろに名物狩りを実施しましたが、永禄13年(1570年)の上洛中にその第二弾を行ないました。

『信長公記』には次のように書かれています。

名物 召し置かるるの事

去る程に天下に隠れ無き名物、堺にこれある道具の事

  天王寺屋宗及 (津田宗及)  一、菓子の絵

  薬師院          一、小松島

  油屋常祐         一、柑子口

  松永弾正(久秀)       一、鐘の絵

何れも覚えの一種共に候。 召し置かれたきの趣、友閑・丹羽五郎左衛門御使にて仰せ出ださる。違背申すべきに非ず侯の間、違議なく進上。則ち、代物金銀をもって仰せ付けられ候キ。

(堺衆の持っていた名物四点について信長がそばに置きたいと思っているということを、松井友閑・丹羽長秀が堺に赴いて伝えたところ、「ご命令に背くなど滅相もないことでございます」ということで、異議なく進上した。そこで、金銀をもってこれを買い上げた)

今回の名物狩りがいつ行われたか、ということについて『信長公記』には書かれていないのですが、今井宗久の書き残した茶会記(『今井宗久茶湯書抜』)には「四月朔日」とあります。日にちについては『甫庵信長記』にも「四月朔日」とあります。どこからこの情報を仕入れたんでしょうか。『甫庵信長記』は信憑性が低いと言われていますが、こういうのを見ると、正確な部分も多いのではないか?と考えさせられます。

名物狩りについて、その『甫庵信長記』は次のように記します。

「同四月朔日、和泉国堺浦にて富める者共が求蓄たる名物の道具共御覧有べしとて、友閑法印、丹羽五郎左衛門尉長秀に被仰付けり、両人承て、堺の南北触しかば、所持の者共、此度奉らではとて持参る程に、いくらともなく集けり、信長卿一々御覧有て、勝れたるを留置れしは、先天王寺屋の宗及が菓子の絵、薬師院の小松島、油屋の常祐が柑子ロなり、則応じたる貨(あたい)より遥に過分に玉わりしかば、三人の者共は、頓に徳付たるようにぞ見えたりける、松永弾正少弼も鐘の絵を進上申しけり」

『甫庵信長記』は、『信長公記』と異なり、松井友閑・丹羽長秀は名物狩りを触れ回っただけで、集まった名物は信長が直接一つ一つ確認し、特に優れた物を選びとったことになっています。

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2026年5月14日木曜日

信長宿所の門前市を成す!贈答品は山の如し⁉

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●信長の宿所

参内を終えた信長は『言継卿記』によれば「半井驢庵」の屋敷に赴いてここに泊まっていますが、半井驢庵とは誰なのでしょうか?

『甫庵信長記』を見ると「医師半井驢庵所」、『織田軍記(総見記)』には「典薬頭半井驢庵」とあり、半井驢庵とは医者、それも典薬頭…朝廷の医師の最高職に就いていた者であったことがわかります。

半井氏は石野瑛氏「大医和気・半井家系の研究」によれば、もともと和気清麻呂で有名な和気氏の家系で、和気清麻呂の五男・真綱(参議)の孫、時雨(ときふる。899~965年)の時にはじめて典薬頭となります。『日本人名大辞典』によれば、母が当時の典薬頭の娘で、その縁で医学を学び、それが認められて侍医・鍼博士・医博士となり、ついには最高職の典薬頭までのぼりつめたのだといいます。その後和気氏は代々典薬頭を務めるようになりましたが、その後、戦国時代に至り、「半井」に姓を改めることになります。

ナカライテスク株式会社(試薬メーカー)のサイト内の「半井のいわれ」によれば、「和気家は京都御所施薬院の故地(京都御所内の烏丸通りに面した正親町、現在の中立売)に住み、そこで典薬頭として仕えていましたが、その邸内に大井戸があり、その水が極めて清らかで美味であったので、その井戸水の半側で主上の御薬を製し、残りの半側を自家の日常用水に充てていました。そのことが後柏原天皇[在位:1500~1526年]の叡聞に入り、天皇から「半井」という姓を贈られ、以来「和気」を「半井」と改めました」といいます。

「大医和気・半井家系の研究」には、初めて半井姓を名乗ったのは明親(?~1547年)の代とありますが、石原力氏「三位法眼と半井明重」によれば、「一四五一年和気明茂が従三位に叙せられたとき半井姓が既に記されている」そうなので、実際は「半井」と名乗ったのはもっと早かったのでしょう。

さて、この半井明親は永正(1504~1521年)の頃、明に渡り、『半井先祖書』によればなんと中国の当時の皇帝の武宗(正徳帝。1491~1521年)の病を治すことに成功したので、銅硯と驢馬2頭を与えられ、帰国した後、朝廷にそのうち驢馬1頭を献上したので、「驢庵」の号を贈られたのだといいます。どこまで本当なんでしょうか…😅

その後、半井家の当主は代々「驢庵」を名乗ることになるのですが、信長が泊まった時の「半井驢庵」はその2代目で、正親町天皇から「通仙院」の号を与えられた光成(瑞策。1522~1596年)になります。

さて、半井驢庵がどういう人物かはわかったのですが、ではどうして信長は半井驢庵の屋敷に泊まったのでしょうか?

河内将芳氏は『織田信長と京都』で、「驢庵の屋敷が、『言継卿記』永禄十年(一五六七)四月二十二日条にみえるように、「山里」や「花園林」、あるいは「二階の亭茶湯座敷」をそなえた風雅なところであった点は理由のひとつとして考えられよう」と推測されていますが、先に述べたように半井驢庵の屋敷は「烏丸通りに面した正親町」(江戸時代前期に作られた『京雀』には「烏丸通」と「中だちうり(中立売。正親町小路とも)」が交わるその南側にあった「廬菴町」の中の「ひがし側」に「典薬頭廬菴法印」の家があった、とある。烏丸小路と正親町小路の交わる南側というと、南東部と南西部のどちらかということになるが、『中昔京師地図』を見ると、南西部には「親長卿」[甘露寺親長邸]と「浄花院」[清浄華院]が描かれており、「廬菴町」が南東部にあったことがわかる。つまり、半井驢庵の屋敷は南東部の東側、内裏に最も近接した場所にあったことがわかる。天皇の一大事にすぐに駆けつけられるようにするためであろう)にあり、この場所は内裏に非常に近く、二条城にも比較的近い場所にあります。

そのため、河内氏は、

・この場所であれば、義昭御所から北へ三〇〇メートルも離れていない。おそらく、そのような立地も、信長が「半井驢庵所」に入った理由のひとつと考えられよう。

・あらためて故地に立ってみると、この地が内裏にも近いことが実感できる。信長が「半井驢庵所」に入ったのは、義昭御所との距離もさることながら、内裏に近かったことも理由のひとつであったのかもしれない。

…と述べています。

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2026年5月8日金曜日

大歓迎を受ける信長~御上洛の事

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常楽寺で相撲大会を開いた 信長は、いよいよ上洛する事になりますが、常楽寺から京都に向かったルートについて『信長公記』は記していません。

手がかりとなるのは『言継卿記』の「公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、坂本、山中等へ迎に被行」という記述で、公家・奉公衆が信長の出迎えに行った場所というのが、おそらく信長の通ったルートであったと考えられます。

おそらく信長は常楽寺あたりから船に乗り、堅田に上陸、南下して坂本に至った後、山中越えで京都に入ったのでしょう。

京都に入った日について、『信長公記』は3月5日としますが、先に述べたようにこれは誤りで、

・『御湯殿上日記』2月30日条…「のふなか(信長)のほり(上り)たるとて…」

・『言継卿記』2月30日条…「織田弾正忠信長申刻(午後4時頃)上洛」

・『晴右公記』2月30日条…「信長上洛」

・『多聞院日記』3月2日条…「信長去晦日(30日)に在京了」

以上の日記に書かれてあるように、2月30日が上洛の正しい日にちになります。

『多聞院日記』に「無人数也」とあるように、信長は少人数で京都に入ったようで、これは、2月2日に参内のため3千人を引き連れて内裏を訪れた足利義昭と対照的です(『言継卿記』)。

●大歓迎を受ける信長

先に公家・奉公衆が信長の出迎えのためにわざわざ近江国まで赴いた、ということを記しましたが、他にも『言継卿記』にはなんと、京都の町人たちが「一町」(京の町は碁盤の目状にできていたが、その正方形の一辺と向かい合う一辺とで一つの町=両側町を形成していた。河内将芳氏『信長が見た戦国京都』によれば、一辺につき15~30軒の町屋が並んでいた)につき5人ずつの割合で、山中越えを終え京都に入る荒神口[白川口]に向かう途中にある吉田まで出迎えに行った(「上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向」)、という記述があります。

元亀3年(1572年)に書かれた『上下京御膳方御月賄米寄帳』には、上・下京にあった町の名前が記録されているのですが、それによれば上京には80町、下京には53町、合計133町があったので、1町につき5人、ということになると、665人ほどが信長の出迎えに集まった、ということになります。

1町につき5人、と書かれてあるのを見ると、自発的に信長の歓迎に赴いたのではなく、割り当てられて駆り出されたもの、と見るべきでしょう。それを指示したのは町の自治組織であったのか、それとも幕府がやらせたのかはわかりませんが、信長にだいぶ気を遣っていたことが伝わってきます。

山科言継もまた信長の出迎えのために「一条京橋」まで赴いた、と国書刊行会が大正4年(1915年)に出版した『言継卿記 巻四』にあるのですが、「一条京橋」という場所は存在しません。一条戻橋ならあるのですが…。原本を調べてみると、「一条京橋」の「橋」は次のように書かれていました。

なんと、これは「極」です😨
「橋」は、
これであって全然違います。これは翻刻のミスでしょう😓
つまり、正しくは一条京「極」まで出向いた、ということになります(『大日本史料』では「一条京極」となっている…必死に一条京橋を探していたのが悲しい😭)。

では、「一条京極」とはどこなのでしょうか?

京都では交差する道と道の名前を組み合わせてある地点を言い表す文化があります。

つまり、この場合も「一条通」と「京極通」が交わる地点、ということになるのですが、難しいのは「京極通」が二つある、ということです。

「京極」とはその名の通り京都の一番端、という意味なのですが、京都の端というのはもちろん東西二つ存在し、それぞれ「東京極大路」「西京極大路」と呼ばれていたそうです。

では言継は「一条(東)京極」、「一条(西)京極」、どちらの方に出向いたのでしょうか??

それを知る手がかりとなるのは、言継の邸宅の場所です。

『言継卿記』天文3 年(1534年)4月29日条の記述から、言継の屋敷が「六町」にあったことがわかります。

「六町」について、『惟房公記』には「一条二町・正親町二町・烏丸・橘厨子」の合わせて6町のことだ、とあります。

高橋康夫氏は「戦国期京都の町組「六町」の構成と沿革」で、『言継卿記』の記述から、言継の住んでいた町について、「烏丸通の一条と正親町の間」にあったこと、「言継邸がこの「町」の東頬に位置していたこと」を読み解き、その上で、「言継の住む町の固有名称を「烏丸」と推定しても大過ないであろう」としています。

この「六町」にある「烏丸」というのは今の烏丸町の事を指すわけではなく、京都府立府民ホール アルティなどがある龍前町北部周辺にあたり、言継邸は現在の京都御苑の内部、中立売休憩所の辺りにありました。

さて、言継の邸宅の位置がわかったわけですが、この位置は上京でも東の端の方になります。…となると、わざわざ西の端にある「一条(西)京極」に出向くのは不自然であるので、言継は「一条(東)京極」に出向いた、ということになります。

この「一条(東)京極」は、現在の本禅寺・京極小学校周辺になります。

中立売休憩所の辺りからは500mほど離れた場所にあるのですが、『言継卿記』によれば言継はそこまで歩いて行き、信長を出迎えたところ、なんと信長は「下馬」し、「一町」(約109m)ほど一緒に歩いた、といいます。言継に敬意を示したものでしょうか😕

そしてその後信長は再び馬に乗り、「明智十兵衛尉」の屋敷に赴いていますが、言継もここまでついて行ってから帰宅しています。

信長が上洛してまず訪ねたのが明智光秀、ということからその厚遇ぶりが伝わってきますが、この光秀の屋敷というのはいったいどこにあったんでしょうか。ちょっと考えてみようと思います。

ななふるさんのサイトでは、明智光秀の屋敷の場所について、硯屋町か大猪熊町だと推測しています。そう考える理由について、ななふるさんは『言継卿記』の「予、五辻步行之間、一條京極迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乗馬、則明智十兵衛尉所へ被付了」という記述を、「(言継)は五辻の間、馬を下り一町(約110m)ほど信長の行列に同行してまた馬に乗り、一行は明智十兵衛の家に到着した」と解釈し、五辻町を進む際に下馬して歩いて進んだ、五辻町は南北100mほどしかないので、光秀の屋敷は五辻町を通り過ぎてすぐ北にある硯屋町か大猪熊町にあったのではないか…と考えます。

しかしこれは明らかな誤りと言えるでしょう。下馬したのは「一条京極」であって、そこから100mほど進んだのですし、「五辻」というのは五辻町のことではなく、言継に同行した五辻為仲のことです。

それでは光秀の屋敷はどこにあったのか。

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2026年4月21日火曜日

大相撲のルーツ!?~常楽寺にて相撲の事

大河ドラマ「豊臣兄弟!」第13回「疑惑の花嫁」にて、常楽寺での相撲の場面が出てきましたね!

ドラマでは信長と浅井長政が相撲を取って信長の連戦連勝というものでしたが、実際はどのようなものだったのか、『信長公記』などから常楽寺での相撲の様子について見てみようと思います! 

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信長は1月23日に出した触状で「来月中旬」には上洛すると伝えていました。

奈良興福寺の坊官が書いた『二条宴乗記』2月6日条には、「信長、来廿日比上洛可有間、来六日比まで薪能延引。大坂ニても延引由、承也」とあり、奈良にも20日頃に上洛するらしいと伝わっていたようです。

しかし、信長は『信長公記』によれば2月25日と、遅れ気味に岐阜を出発しました。

ただし、この際の『信長公記』の日付はけっこう間違っていると考えられるので、信用できません。

なぜなら、『信長公記』より信頼できる史料である『御湯殿上日記』『言継卿記』『晴右公記』『多聞院日記』がすべて、2月30日に信長が京都に着いた、と記しているのに対し、『信長公記』は3月6日に京都に着いた、と記しているからです😓

6日ずれているので、出発の日にちも6日ずらして考えてみると良いのかもしれません。そうなると岐阜出発の日にちは2月19日となり、「中旬」に出発はできていることになりますね。

この日に信長は赤坂(岐阜県大垣市)まで進み、翌日(20日?)、近江国の常楽寺まで進むと、なぜかここにしばらく留まることになります。

谷口克広氏は『信長と将軍義昭』で、「信長の呼びかけに応じて、畿内・近国の大名たちがぽつぽつと上洛しているから、その様子を見ながら上洛の道を歩んだものと思われる」と述べていますが、各大名・国人衆の出方をうかがっていたのでしょうね。また、信長としては、京都に入るのは一番最後になるようにしたい、という思惑もあったのかもしれません。

信長が近江にとどまっている間に、信長のもとを訪ねてくる者も多くいたようで、『言継卿記』には「公家奉公衆、…江州…へ迎に被行」とあります。

また、『二条宴乗記』20日条には「金吾(松永久通)、信長迎に江州へ被参付、多門山へ、井戸表より、今夕被打入由」とあり、大和国の大名である松永久秀の息子、久通が信長を出迎えるために近江へ向かった、とあります。しかし大和国では松永久秀と筒井順慶の争いが続いており、近江に出かけた今がチャンスとばかりに筒井派が井戸城から打って出て多聞山城を攻撃した、とあります😓

この行動に対し、松永久秀は非常に厳しい対応を取ったようで、『二条宴乗記』には、「廿二日クモリ。…井戸人質ムスメ八ツニ成を犬ククリにて(犬を始末するように?)シメコロシ、井戸ノ城ノキハニ串ニサシテ置被申候。夜、城へ取入申由。同松蔵権介人質ナンジノ十一ニ成をシメコロシ被申候。奈良口ニ串ニサシテ置被申由」、『多聞院日記』には「今日井戸ノムスメ松藏権介息久クロウニ入、アエナク指縄(『日葡辞書』に「麻縄」とある)ニテシメコロシ城ノ近邊ニ串二指了、幷ツゝヰ八条庄屋カ子、菩薩山ニアリシ十七才若衆生害了、其外囚人四人キル、童女童男ニ罪ハナシ、只親ノ?(殺?)ル也、人質ニ出テ篇ヲ替レハ子ニトカナシ、害者モトカハウスキ事歟、アサマシ(嘆かわしい)アサマシ、自他ニヘテ恨敷時節見聞覺知付更不驚、一念菩薩心モ不発、サテモサテモ迷膠深重、サソ大聖キタナクキタナク思召覽」とあり、井戸良弘の8歳になる娘と筒井派の国人の松蔵権介の11歳になる息子が松永方の人質となったいたが、絞め殺されたうえ、娘は井戸城のそばに、松蔵の息子は奈良の町の入り口に串刺しにされ見せしめとされた、とあります。著者の多聞院英俊は、残念な世の中で、このような残酷なことを見聞きしても、驚くことなく、かわいそうと思う心も湧いてこない、なんと罪深い事だろうか、さぞお釈迦様も見苦しくお思いになられていることであろう、と述べており、当時の殺伐とした様子がありありと伝わってきます。

また、『多聞院日記』24日条には「金吾并竹下(竹内秀勝)江州へ信長の在京に付迎に越了」とあり、松永家老の竹内秀勝も近江に向かっていたことがわかります。

さて、信長は近江にしばらく滞在していたわけですが、その間何をしていたのでしょうか?

『信長公記』には、なんと相撲大会を開いた(!)、とあります😅

「三月三日に江州国中の相撲取を召寄せられ、常楽寺にて相撲をとらせ御覧候」

3月3日というのは誤りで、前述のように6日ずれているとするならば、2月27日に相撲大会を実施した、ということになります。

相撲大会の開催について、『甫庵信長記』はイベントを催して楽しむため(「御遊の興を催れんとて」)と記し、『織田軍記(総見記)』は共に上洛していた徳川家康をもてなすため(「是もひとへに徳川殿へ御馳走のためとぞ見えける」)としています。

『信長公記』には、この相撲大会について結構詳しく記してあります。

「人数の事

百済(ひゃくさい)寺ノ鹿・百済寺の小鹿・たいとう・正権・長光・宮居眼左衛門・河原寺ノ大進・はし小僧・深尾又次郎・鯰江又一郎・青地(あおじ)与右衛門、

此外随分の手取の相撲取共、我も我もと員(かず)を知らず馳集る。其時の行事は木瀬蔵春庵。

鯰江又一郎・青地与右衛門取勝(すぐ)り、これに依って青地・鯰江召出され、両人の者に熨斗付の大刀・脇指下され、今日より御家人に召加へられ、相撲の奉行を仰付けらる。両人面目の至りなり。

爰に深尾又次郎、能き相撲面白く仕候て、御感なされ、御腹(服)下さる。

忝き次第なり」

「百済寺の鹿」など変わった名前はあだ名みたいなもんでしょう。四股名の走りとも言えなくありません。「たいとう」は『織田軍記(総見記)』には「大唐」と書かれています。

特に優れていたのが鯰江又一郎と青地与右衛門で、太刀・脇差を与えられただけでなく織田家臣に取り立てられた、とありますが、『織田信長家臣人名辞典』によれば、鯰江又一郎(秀国)・青地与右衛門は共に元六角家臣であったようです。

このことについて、『戦国日本の津々浦々』さんのサイトでは「優勝した六角氏旧臣の一族を「御家人」に取り立てている。これには政治的儀式の意味合いもあったとみられ、その場所に選ばれた常楽寺の六角旧領における重要性がうかがえる」とあり、六角旧臣との融和も兼ねたイベントだったのかもしれませんね。

また、『今古実録相撲大全』(1884年)には、「元亀元年二月廿五日織田信長公江州常楽寺に於て国中の相撲取共を召集め給ひ勝負を御覧有けるに宮居眼左衛門と云(いへ)る者につづく相手なかりければ御褒美に御秘藏の重藤弓を賜はりける。此御弓は山城国伏見住島田喜内と云古今無双の上手と賞せられし名人の製作なり」とあり、どこから得た情報かわかりませんが、宮居眼左衛門にも弓を与えたとあります。

その後、宮居眼左衛門は相撲を取ることをやめたので、信長が不思議に思ってその理由を尋ねると、眼左衛門は「相撲は離れ者にて強き者が勝(かつ)に有ず弱き者が負るに定りたる事成ねば御持弓を取損じ若(もし)敵(あいて)に御大将の弓を渡しては高名空しく成べし」(相撲は組み合ってから始めるものでもないので、力の強いものが必ず勝つと決まっているわけではありません。もし相撲を取って不覚を取った場合には、信長様からいただいた弓を相手に渡すことになり、名声を失ってしまうことになります)と答えたので、それからは別の物を褒美として与えることにしたそうです(「其以後限左衛門相撲取事を辞したりける時に信長公不審し給ひ如何成故にやと御尋問(たずね)有しにと答ければ信長公彼が志ざしを感じ給ひ相撲取節御褒美に御持弓を遣さるる事を止り給ひ其以来御褒美には余の物を下し置給ふとなん」)。

そしてこれが「勝相撲に弓を渡す起り」であり、「勧進相撲の十日目の結びに勝たる関に弓を渡す事此余風なりとぞ」といいます。

現在弓を渡されることは無く、弓取式を行う力士が結びの一番に勝った力士の代わりに弓を受け取っているようです。

相撲を見ていると千秋楽の結びの三番(「これより三役」)において勝った力士に懸賞金の入った袋とは別に物が与えられています(最初の一番は矢[1952年までは扇]、次の取り組みの勝者には弦)が、これは「別の物を与えるようになった」というのと関係しているのでしょうか。『今古実録相撲大全』には、「役相撲三番なるに関ばかりに褒美を渡し其以下本意なしとて近来は関に弓、関脇に弦、小結に扇子(おうぎ)を渡す」とあり、当初は大関にだけ賞品を与えていたのを、他の者が不満に思うようになったので、他の2番にも賞品を与えることになったようです。

『甫庵信長記』には大会の様子が少し詳しく記されており(実際に小瀬甫庵が見たかどうかはわからないが)、「皆勝れたる上手にては有、今日を晴と取程に、鴨の入頸、水車、反、捻(ひねり)、投(なげ)なんど云手を、我劣らじと取しかば、何の道にても勝れぬれば奇異にこそ覚ゆれ(どんな物であれ、極めれば珍しいことだと驚かされる)とて、甚だ興ぜさせ給ふ、見物の老若も目をすましけり(見入っていた)」とあります。

鴨の入頸…以下は相撲の決まり手であり、「鴨の入頸」は『日本国語大辞典』に「双方が首を相手のわきの下にさしいれ、そりかえって倒す手。ただし、多くは同体に落ちる。今ではほとんど用いられない」とあります。「水車」は『今古実録相撲大全』(1884年)に「鴨の入頸」と共に四十八手に含まれない「十二の紛(まがい)」として載せられている決まり手です。他には向附(むかうづき)・逆附(さかづき)・鴫羽返(しぎのはがえし。『日本国語大辞典』には「両手を差し、相手の首を自分の胸につけ、その差した手でしめつけるもの」とある)・絹[くさかんむりに関](きぬかずき)・悔(とんぼうがえし)・[常の右に鳥]大意(つみのおおごころ)・繋前後(かけのまえうしろ)・磯并枕(いそのなみまくら)・立眼(たちがん)・居眼(いがん)・猿の一飛(ひととび)・夢枕(ゆめのまくら)があります。これらのほとんどは残念ながらどんな技かわかっていません😓

●常楽寺

さて、この相撲大会の行われた「常楽寺」についてですが、残念ながら現存しておらず、「滋賀県近江八幡市安土町常楽寺」として地名に残るのみです。

『近江蒲生郡史』(1922年)には、常楽寺について次のように記述があります。

「常楽寺は安土村大字(おおあざ)常楽寺にして寺名の村名となりしものなり。常楽寺は沙々貴神社の神宮寺たり。戦国時代に回禄(※火災に遭う事)して其寺名を存するに過ぎず。小字大堂と称する地は古趾なり。其趾より嘗て仏像を発掘せり。今善德寺に保存す。又礎石は法福寺にあり。又百間堀と称する地よりも巨大の毘沙門天像を発掘す。今西性寺に保存す。大正四年耕地整理を行ふに当り地中より花瓶を発掘する等大寺が不慮の災に遇ひ滅亡せし狀を推想せしむ」

常楽寺は戦国時代に火災に遭ったために現存していないようですね😰

文章中の「小字大堂と称する地は古趾なり」というのは場所を知る手がかりとなります。

信長ゆかりの和菓子の老舗、「万吾楼」のサイトには、「梅の川の由来…音堂(おとんど)川ともいう。常楽寺の大堂に所在する湧水をさす。織田信長の臣・武井夕庵が、難波から求めてきた珍茶を、ここの水でいれたところ織田信長が非常に喜び、その後の茶の湯には常に使用したと伝える。また、そう見寺の茶会にも必ずこの水を使用したという」とあり、大堂という場所が「梅の川」近辺であったことがわかります。

梅の川は安土駅(近くに万吾楼がある)から西に徒歩6分の距離(400m)にあり、近くには『蒲生郡史』の記述にもあった善徳寺があります。

また、梅の川から北に徒歩4分(250m)の場所には「常浜」があり、案内看板には「常浜は、かつて琵琶湖に面しており、室町時代は六角氏の観音寺城外港として栄えていました。戦国時代に織田信長の上洛戦で支配下に入り、安土城の港として機能し、信長がこの地を物資輸送・交易・軍事拠点の中心として捉えていたことが伺われ、長浜港や坂本港、湖西高島にある勝野港と琵琶湖の航路を通じて繋がっていました。昭和初期までは実際に船の往来があり、琵琶湖を周航する蒸気船の寄港地として賑わっていました。現在は常浜水辺公園が整備されて人々の憩いの場となっています」と書かれていますが、この「常浜」の港というのは、「滋賀ガイド」のサイトによれば「室町時代から賑わっていた常楽寺港跡を整備して生まれた」とあり、常楽寺港のことであったことがわかります。

滋賀県教育委員会が作成した『近江戦国探訪ガイドブック2 信長の城と戦国近江』には、「常楽寺港…中世からの荘園年貢の積出港として知られています。長命寺文書の中には、赤野井(滋賀県守山市)の年貢を長命寺まで運んできた「常楽寺船人」に対し、食事と宿を提供したことが記されており、中世の常楽寺に水運を生業とする人々がいたことが確認できます。織田信長も、安土築城前から常楽寺を頻繁に利用しており、その港湾機能に注目していた様子がうかがえます。現在は、常浜公園として整備された中に、船入の痕跡が残ります」とあって、常楽寺が港の近くにあった大寺であったことがわかります。

「常楽寺港舟入跡」が常浜の近くに存在していますが、場所を地図で確認すると北川(梅の川・音堂川湧水・北川湧水などから湧き出た水が流れこむ)の上流地点で、北川はまもなく盆川に合流した後さらに山本川に合流、最後に琵琶湖の内湖の一つである「西の湖」につながっており(約1㎞)、直接琵琶湖に面しているわけではありません。

●相撲モニュメント

安土駅南側にはなんと相撲モニュメント(力士の像)があります😦これは2019年に設置されたもので、滋賀報知新聞の記事には、「織田信長が催した常楽寺相撲を伝える JR安土駅の南口広場にこのほど、織田信長が相撲を愛した地であることを伝える相撲モニュメントが設置され、(2月)10日、除幕と入魂式が行われた。…旧安土町時代には1988(昭和63)年、同駅南広場に土俵や相撲やぐらが設置され、大相撲の巡業も行われるなど相撲がまちのシンボルとして親しまれていた。老朽化のため同駅整備事業の着手とともに2014(平成26)年に撤去されたが、地元有志がモニュメントの設置を企画。市民の寄付を募り、同駅南北広場の整備完了に合わせて完成を迎えた。モニュメントは地元の石材店が力士2人の力強く取り組みあう姿を白色の御影石で2か月かけて彫り上げた。高さ1・6メートル、縦横1・8メートルで、製作費は350万円。高さ1・3メートルの台座に鎮座している」とあります。相撲やぐらなどが撤去されていたのはもったいないですね…😓

相撲モニュメント近くの石碑には、次の文章が刻まれています。

「安土と相撲 元亀元年(一五七〇)三月三日、織田信長は近江国中から相撲取りを集め、常楽寺で相撲を取らせました。多くの相撲取りが集まり、成績のよかった鯰江又一郎 青地与右衛門に太刀・脇指を与え、家臣として取り立てました。安土築城後は安土山を会場として、天正六年(一五七八)に二月・八月・九月の三回、天正七年(一五七九)に七月・八月の二回、天正八年(一五八〇)に五月二回と六月三回、天正九年(一五八一)四月に一回と毎年のように相撲を行っています。いずれも大勢の相撲取りを集め、成績の優秀なものに褒美を与えるとともに、相撲を大勢の家臣たちに見物させるなど、こんにちの大相撲のような興業として実施しています。相撲は元来、神事でしたが、奈良時代以降「相模節会(すまいのせちえ)」として宮中の年中行事となりました。また、鎌倉時代以降、武芸の鍛錬として武士の間にも広く定着していきました。そうした相撲のあり方を、相撲興業のような形に変化させたのが織田信長なのです。ここ常楽寺で織田信長により行われた相撲は、大相撲のルーツといえるでしょう」

意外ですけど信長は事あるごとに人々を楽しませるようなイベントを実施、その見物を民衆に開放しているんですよね(例えば二条城の建設の様子も自由に見ることを許し、大石を運ぶ様子もエンターテインメント化した)。

宮中で行われていた三毬打(さぎちょう)も民衆に公開されていましたし、当時はいろいろとオープンで、為政者と民衆の心理的な距離は実はそれほど遠くなかったのかもしれません。




2026年4月8日水曜日

上洛要請の触状~呼ばれなかった男

 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


『二条宴乗記』2月15日条には、信長が諸国の大名に上洛を求めた書状の内容が載せられています(奥野高広氏の『織田信長文書の研究』と天理図書館報『ビブリア』にその全文が収められているが、『ビブリア』の翻刻のほうが正確だと思われるのでこちらを採用する)。

一、就信長上洛、可有在京衆中事

[信長上洛に就きて在京あるべき衆中の事]

北畠大納言[具教](同北伊勢諸侍中)

德川三河守殿 [家康](同三河遠江諸侍衆)

姉小路中納言殿[嗣頼](同飛騨国衆)

山名殿父子[韶凞(祐豊)・棟豊](同分国衆)

畠山殿[秋高](同奉公衆)

遊佐河内守[信教]

三好左京太夫殿[義継]

松永山城守[久秀](同和州[大和]諸侍衆)・同右衛門佐[久通]

松浦孫五郎[光。孫八郎の誤りか。和泉国岸和田城主。義継の弟。和泉国守護代家松浦氏の養子となる](同和泉国衆)

別所□(小?)三郎[長治](同播磨国衆)・同孫左衛門[孫「右」衛門の誤りか。重宗。長治の叔父](同国名衆)

丹波国悉(「衆」の誤りか)

一色左京大夫殿[義員](同丹後国衆)

武田孫犬丸[元明。永禄11年(1568年)に朝倉氏の信仰を受け越前国に拉致され、以後、天正元年(1573年)に朝倉氏が滅亡するまで越前国にあったので、この時も越前国にいた](同若狭国衆)

京極殿[高吉。妻は浅井長政の姉であるが、台頭する家来筋の浅井氏に抵抗して浅井氏と争い、敗北して北近江の支配権を失う。当時は浅井氏の庇護を受けて上平寺城(米原市)に隠居していた](同浅井備前[長政])

同尼子[尼子氏は京極の一族。1566年に戦国大名としての出雲尼子氏は滅亡しているので、近江尼子氏の事だと思われる]

同七佐々木[近江国高島郡にあった佐々木一族の高島七頭のことか。高島・平井・朽木・永田・横山・田中・山崎の七家があった]

 同木林源五父子[木「村」の誤り。近江の国人。高重・高次のこと。高重は『織田信長家臣人名辞典』によれば元六角家臣で、その後信長の奉行衆として活躍している]

同江州[近江国]南諸侍衆

紀伊国衆

越中神保名代

能州[能登畠山氏]名代

甲州[甲斐武田氏]名代

淡州[淡路安宅氏]名代

因州[因幡]武田[高信]名代

備前衆名代[宇喜多氏か]

池田[勝正]・伊丹[忠親]・塩河[長満。『織田信長家臣人名辞典』には「摂津多田の人。塩河党を率いて摂津国内に勢力を張る。…摂津の三守護と同じ幕臣の身分であろう」とある]・有右馬[有馬の誤りか。則頼]

此外其寄々之衆として可申触事[この内容を以上の者たちの近辺の者たちにも伝達する事]

同触状案文[下書きの文書]

禁中御修理武家御用、其外為天下弥静謐[その外天下いよいよ静謐のため]、来中旬可参洛之条[来たる中旬参洛すべく候条]、各御上洛、御礼被申上[御礼を申し上げられ]、馳走肝要候。不可有御延引候[御延引あるべからず候]。恐々謹言 

正月廿三日 信長 

依仁躰、文体可有上下[受け手の立場に応じて文体を変えるべき事]


各地の大名や国人衆に宛てて、「来月中旬に私は上洛するつもりです、貴方たちも上洛して天皇や幕府に挨拶に赴き、内裏の修理や将軍への奉仕など、天下が治まるようにするために、働くべきです、このことを先延ばしなさらないようにしてください」…という内容の書状です。

気になるのは、興福寺の坊官である二条宴乗がなぜこの触状の下書を入手できているのか、ということですが、このことについては、橋本政宣氏が「織田信長と朝廷」(『戦国大名論集』所収)で次のように詳細な検討を加えています。

…これを筆録した興福寺一乗院門跡の坊官二条宴乗は、京都より北小路俊直の許に到来したのを写したと記している。宛名の交名・注記を伴う点からして、これが作成者ないし関係者側から流れた写しであることは誰しも異論はなかろう。俊直は、近衛家の諸大夫で、この頃には、近衛前久の息尊勢が一乗院に入室していた関係からか、同院に寄寓しており、大坂浪居中の前久の許にもしばしば赴いていたことが『宴乗記』によって知られる。また信長の意をうけ義昭への条書承認の交渉に当った日乗は、近衛家とは密接な関係にあり、京都の日乗よりの来信記事は『宴乗記』にも散見する。これらのことを勘案すると、宴乗が筆録した触状案は、日乗から伝えられたものと推定して大過ないように思われる。…

近衛家と関係の深かった日乗が、近衛家に仕え、当時は興福寺に身を寄せていた北小路俊直に渡したのではないか、というのですね。

また、この触状は1月23日に出されていることがわかるのですが、これは「五ヶ条の条書」と同日であり、ここから、橋本氏は「触状は諸大名等に対するものではあるが、その内容は義昭も承知しておくべきものであったであろうし、条書は義昭によって承認されるべきものであったから、触状は条書と共に日乗・光秀を通して義昭に呈示され、『宴乗記』所引の触状案こそ呈示されたときの形式を伝えるものものと考えられるのである」とし、触状と条書との関係性を指摘しています。

他にも池上裕子氏は『織田信長』で、信長は条書により、「みずからの名において、天下静謐のためという大義名分を掲げて、一定の範囲の大名を動員する権限を獲得」していたが、これを触状を出すことで「行使」した、とし、

桐野作人氏は『織田信長』で、「諸国の大名や国衆に対する軍事動員権は本来、室町殿たる義昭が有している。ここで想起されるのが先の条書の第四条である。信長は「天下の儀」を義昭から委任されているのだから、義昭の上意を得ずとも、自分の裁量で処置できるという趣旨だった。信長はこの触状を独自に出すために、条書が必要だったという見方も可能である」と述べています。

諸国の大名へ上洛を求めるというのは、本来は将軍権力に属する事です。それを信長は実行するために、信長は「五ヶ条の条書」で、「天下静謐に関する問題に対する権利」の委任を義昭に認めさせ、「天下静謐のため」という名目で諸国の大名や国人衆に上洛の号令をかけた、というのですね。

※残りの部分は公開いたしません<(_ _)>

2026年3月27日金曜日

小泉八雲と西田千太郎

 

※マンガの後に補足・解説を載せています♪


1890年

・昨夜籠手田知事(※籠手田安定。1885年から島根県知事を務めていた)の使者が、珍しい形の箱に入れて籠手田令嬢(※淑子。1872年生まれ。節子の4歳年下にあたる)からの贈り物(ウグイス)を拙宅に持参しました。

小泉八雲はウグイスについて「「法華経」と唄う功徳により…(さまざまな)善い性質を与えられているはずで」ある、その中でも言語についての善い性質が与えられていると信じたい、その声が「絶美」だから、と言っています。

・1月21日…貴君の訪問、多謝々々。たとい短い訪問でも、私にとってはいつも良薬です。

八雲はこの頃体調を崩していました。

・1月23日…私の親愛なる西田様ーー貴君の親切は実に至れり尽くせりです!

早くも八雲の信頼を勝ち得ている西田千太郎。

・御子供様のために少しばかり餅を差し上げます。

・今日三年級へ始めて書取の課業をやってみました。私はただ詩を書き取らせるのです。ロングフェロー訳の『母の幽霊』と題するノルウェーの美しい小さな物語の詩をやり出したのです。生徒はこれを好いたように見受けられました。…生徒はいつも極めて善良ですーー尤も下級で書取の際、生徒悉くに書かせるという点に、幾分困難を感ずるのですが、しかし私共は日を追って親密になって行きます。もし私が現在、授業をすることが出来なかったら、私は非常に悲観することでしょう。授業は私に取って、ますます愉快と慰藉(※なぐさめ)になりつつあるのです。

その後、八雲は八橋(やばせ。鳥取県琴浦町)に旅に出ます。この旅には結婚したばかりの妻のセツも同行していました。新婚旅行的な旅であったようです😄八橋について、八雲は「水泳には最上の場所です」と西田への手紙に書いています。「鳥取中部癒しの旅紀行」のサイトには、八橋海岸について、「小泉八雲も感嘆した白い砂浜、エメラルドグリーンの海は絶景。以前は海水浴シーズンには大勢の家族連れや若者で賑わっていましたが、現在は海水浴場は開設されていません。冬には、上空に数百羽のウミネコが優雅に飛んでいる姿を見ることができます。小泉八雲が海水浴をした場所であることは有名ですが、当時(明治24年)日本人は海水浴をする習慣がなかったため、見物客がたくさんいたといわれています」とあります。

・1891年8月 八橋にて 私は諸所の眠そうな小さい海村で、楽しい時日を過ごしています――寝て、食べて、酒を飲んで、遊泳をして。ここで逗留した場所のうちでは、八橋は殆ど一番愉快な所です。…盆踊りを見るため、徒歩で行った大塚(逢束[おおつか]。八橋駅から約3㎞離れていて、徒歩で40分ほど)では、特殊な冒険に出逢いました。大塚は乱暴な土地らしいのです。人民は退しく騒々しい田合漢で、酒に酔うと、悪戯を演じ勝ちです。彼等は外国人を見るために踊りを中止し、外国人は群集の圧迫を脱して、或る家に避難しました。そこで床に座って喫煙していると、群集は家の内外へやってきて、珍らしい文句を言って、外国人に砂を投げ、水をかけたのです。そこで、外国人と伴われ立って来た八橋の人達は、蹶然猛烈に反抗しました。して、私共は一同八橋へ引上げました。八橋では、巡査と数名の有力者達は、大塚の人民の無礼な振舞いに対して、私に大いに詫びを入れました。実際私はかくまで世話を続いてもらって、恥じ入るばかりでした。して私は大いに歓待を受け、巡査は私に何でも相談或は助力を要することがあれば、唯だ言ってよこせばよいと告げました(大塚の人民の乱暴は、実際極めて子供らしいことで、騒ぎ立てるほどでもなかったのです――西洋の群集ならば、石や腐れ卵を投じたのでしょう。私は群集が果たして実際些少なりとも敵意を含んでいたか、どうか、判然知りません。彼等は外国人の動くのを見たかったのだと、私は寧ろ考えます。――檻中の獣のように――だから、彼等は彼を起ち上がらせやうと試みたのです)。明日私は美保の関を経て松江へ帰ります――実際八橋を去るのは惜しい心持ちがします。村民は何とも云えないほど親切で、正直で、率直です。また私は数名の知人を得ました。――ここの日蓮宗の寺院では、美しい御符を手に入れました。

・私は鶯を貴君に贈呈しようと思います。この鶯は毛替わりをしたので、その新しい着物は綺麗です。彼はまだ病気に罹ったこともなく、あまり御面倒をかけることはありますまい。もしお困りの場合は、彼を愛し、彼をよく世話してくれる人にお遣わし下さい。もう暫くすると、また唄いだすでしょう。杵築に関する私の最初の論文は、大部分数箇月の中に印刷されるでしょう。貴君の名も、…その中に現われているから、貴君は御覧になることを愉快に感じなさるでしょう。必らず一冊をお送り致します。私の小さな洋燈(ランプ)をも差し上げます。それは大した価値のものではありませんが、燈光がよく輝らします。また、記念にもなるでしょう。…私は鶯が貴君のお気に入ることと信ぜざるを得ません。その恵与者なる彼女は、貴君も私も共に尊敬し、愛好していた人です――それは知事の親切な家族の楽しき記念となるでしょう。

籠手田知事の娘からもらったウグイスを「ばけばけ」では籠から外に逃がしていましたが、実際は西田に贈っていたことがわかります。

1891年11月、八雲は熊本の第五高等中学校に転任し、西田と離れることになりますが、かなりの量の手紙をやりとりすることになります。

・今日芳書を欣然拝見しました。丁度昨日ここへ到着した私の料理人が、松江は頗る寒かったと申したので、私は心配し始めていました。烈しい気候が貴君に寒冒を惹き起こしはしないかと、恐れたのです。貴君が御用心なされているのを私は大いに欣びます…。今では稍や熊本にも馴れた気分になりましたが、日本で私が行ったことのある中では、最も殺風景な都市です。郊外の飽田郡にある加藤清正の有名な神社と佛閣(加藤社と本妙寺)は、訪ねる価値があります。市には兵士が一杯います。品物は高価且つ拙悪。よいのは絹布だけ。全くここは綺麗な絹の場所で、値段も松江よりは安いのです。しかし漆器、陶器、或は青銅器の方面には、立派なものはなく、掛物も、骨董店もないのです。ここの天候は奇異で――桑港(サンフランシスコ)の北数百里に当たる太平洋斜地の天候に似た感があります。夜間と朝は寒冷で、満地暁霜(地面いっぱいに、霜が降りている)に白く、山々に靄(もや)がかかっていますが、真昼頃になると、暖かくなって、午後には暑い位。それから、日没後また寒くなります。(校長の)嘉納(治五郎。柔道の父、日本の体育の父。)氏は、譲遜にも、(嘉納)氏よりも外に、もっと英語を話すことのうまい数員が居ると私に云いましたが、実際は居ないのです(※治五郎は12歳の時から英語を学び始め、14歳の時には官立外国語学校[後の東京外国語大学]に入学している)。私の知っている如何なる日本人よりも、英語を話すこと、書くこと共に、一層上手です。しかし、京都から来た佐久間(信恭)氏というのは、文学的英語について稀に見る知識を有し、博識で、蔵書家で、古代英語と中世英語の専攻者で、英文学及び文典などを教えています。大澤氏[と私は思う]が第二席の英語教師です。私一個人としては、(大澤)氏が最も好きです。氏は貴君と同じく、他人に対する行届いた思いやりの念を有っています。それは何処でも、なかなか容易に得難い性質です。氏は佛語を話します。若くて、沈黙の教頭櫻井氏も佛語を話します。丁度すべての教師が、英語を話します――巨髯を蓄え、ソクラティースの如き頭を有する、愉快な漢学の老教師(秋月胤永)の外は。丁度片山(尚綗)氏を一見して好きになったように、私はすぐにこの漢学者が好きになったのです。漢学には人を温雅ならしめる力が存するのか知らんと思う。多分斯学講究に際して、始終必要な忍耐と、これに伴なえる美的情操が、かように人品を変えるのでしょう。しかし私は教員達について、多くのことは知りませぬ。私はお早うとか、今晩はとかいって、私の席隅に坐って、煙草を吸っているのです。今日までの所、彼等は皆温和で、丁寧に見受けられます。私は彼等と楽しく暮らして行けると思うのです。しかしその中の誰れに対しても、私が貴君と親しくなったようになることはあるまいと思います。実際ここには貴君のような人は一人もなくーー十分間の休憩に雑談もなくーー珍聞の報告もなくーー計画や発見事件もないのです。私は貴君の恵賜品なる、蟬と蜻蜒(やんま)の書かれた、美しい小さな茶盆を眺めーーして、玄関に貴君の声が聞こえたらばと、願うことが毎度あります⋯。

・私は余程丈夫になって、昨夏に比すれば、約二十斤(12㎏)も体重が殖えたのです。どういう理由によるか、はっきり分からないが、多分一日二食でなく、十分な三食を摂っているからでしょう。私の宅は松江で借りてるたものほど、大きくはありませぬ。私共は私と妻、料理人、車屋及びおよね(※松江時代から八雲の下女として働く。「ばけばけ」では熊本生まれになっているが、実際は松江生まれだったのである)の五人家内です。およねが始めて来た時には余程可笑かったのです。[彼女は今市生れです]彼女の出雲訛りは誰れにもわからなかったが、今では彼女と車屋、両人共に言葉が通じます。ここの宿屋は非常に高いのです――少くとも或る宿屋は。私は四楽園を安いといって、賞賛する訳には行きませぬ。茶代を合わせて、六日半の宿料に二十四円を支払いました。もう懲り懲りです。…日本人の敏腕な教師は、非常に働きます。目下私の受持の或る一二の級には、英語課業の準備を与えてくれる教師がないのです。私はその訳を知っています。外人教師の主要な役目は、アクセントと会話の習慣を数えることです。しかし次の時代になるまでに、英語のために外人教師を雇うことは、殆んど無くなるだろうと、私は想像します――高等な諸学校と特殊の目的以外には。完全にうまく英語を話す日本人教師が、幾千人もいるやうになるでしょう。私は貴君が新校長たらんことを希望します。追伸。節子が是非貴君に告げるようにと申します。それは当市の車屋は鬼だから、雇うときに注意せねばならぬということ、だから、貴君が気候がよくなってから当地へ御来遊の節、東京に於けると同様御注意なさらねばならぬこと、また家賃も高いということです。私の家賃は十一円です。

11月30日
貴君からかかる天晴れのお便りに接したのは、愉絶快絶!私はいつもになく御心配申し上げて、貴君が数箇月間も御病気ではなかったかと思いました。貴君が再び御外出なされたと承って、私共まことに嬉しく存じます。

12月
私はまだ教師的に親友を得ません。一昨晚、初めて、諸氏と日本食の宴会に列しましたが、貴君がいなかったため、料理について、箸を使うべき場合など、奇妙な失策を演じたことと思います。
私は気候のことを貴君に書くのに、頗る慎重を加えています。もし貴君が当地へお出で下さるならば、是非最も御都合のよいようありたいからです。今日までの所では、気候はこうです。即ち朝と夜は寒くて、霜が白く、午後は暖かくて、外套なしても外出ができるほどです。雨は極めて少く、まだ雪を見ませんが、やがて降るだろうとのことです。私については、数年来初めてこんなに丈夫になりました。すべて私の衣類は、日本服さえも、小さ過ぎるようになったのです!しかし、気候のお蔭か、食物のためか、何だかわかりません。節子は私が良い妻を持っているからだと申しています―しかし彼女の説は我田引水でしょうよ!私の肺は鐘の如く強健です。毫も咳?を催しません。現在申し上げ得るのは、これだけです。否、お米は私共に隨いて参ったのです。お芳が母親の方へ帰った時、お米が代りにきました。気の毒ながら車屋は追い還さねばなりませんでした。彼は妻を松江に置き去りにしたので、妻は稲垣家へ泣き附いて、哀れな話しを訴えたのです。私はそれを聞いて、彼は帰国せねばいけないと告げました。しかしその同日、後になってから、私は彼が非常に悪事を行っていたことを発見したのです――他の召使の者どもの間に紛紜(もめごと、ごたごた)を起こそうとしたり、私共を欺いて商人輩と密約を結んでいました。私は彼に着物を買ってやり、食事と室の外に、総計十四円五十銭――五円の帰国費を含めて――を与えたのです。しかし彼はその金を浪費してしまって、それから後、どんな工面をしてやっていたのか、わかりません。もはや彼に対しては我慢ができませんでした。その狡猾と愚かさとで、一日も家に置くことは出来なくなりました。…車屋の地位は、善良な男なら、その人に取って好い地位であったでしょう。私は今後、月極めで車夫を雇い入れる場合、大いに注意を払いましょう。…さて、私は貴君が御身を御大切にされ、貴君の克己的な武士精神のため、寒威凛烈の日に無理に御出勤ないよう希望します。貴君並びに御家族に、幾多幸福なる新年のめぐり来たらんことを。

『ばけばけ』では車屋さんは不器用で良い方でしたが、実際はよろしくない人物であったようです(-_-;)

1892年4月12日
私の親しき西田――(最早私共の同柄では『様』という敬称をやめねばならないと思う)…幾多の死亡や不幸のことを承って、非常に気の毒に感じます。当地に於ても必らずしも一切無事とは行きません。熱病が行われ、流行感冒が多いのです。私の妻は二週間ほど余程の病気に罹りましたが、私は約四日間の発熱で免れました。最も悪るい季節は三月で、一昼夜に寒暖計が四十度の変化を示すこともあります。私共は博多へ行ってきましたーー日本で、これ位の大さの都会中では、極めて立派な都会です。私は博多帯の製造場を見物して、天晴れ驚嘆すべき絹物が織られるのを見ました。それから、太宰府へ行って、松江を出てから始めて、最も興味多き神社を見ました。博多の土地に住みたいものですが、冬季は屹度寒い所でしょう。

『ばけばけ』でも途中で「西田さん」「ヘブンさん」呼びに変わっていましたよね。実際は呼び方が変わったのは熊本時代の事だったようです。

7月27日
稲荷社に関するお手紙は甚だ面白うございました。それで私は大事にとって置くことにしました。もう一度松江にいたいような気持ちにさえなったのです。出雲に確実なことがあったら、愉快に永住ができるでしょう。しかし日本では、外人に取って、一つも確実なことはありません。外人として唯一の道は、解雇されるまでに、十分金を貯えることです。して、小さな都会では、なかなかそれが出来かねます。熊本は私が初め思った通りですーー日本で最も醜く、最も不快な都会です。冬季寒くはなく、また降雨がひどいこともありませんが、天気が怖ろしく変化し易く、また堪まらないほど黴くさく、熱病の多い土地です。私はまだ教師の多数を知りませんが、私の知っている少数に関する最初の印象は、結局、変ってはいないのです。私共は学校以外では、殆ど面会しません――皆学校から余程の距離に住んでいますーー教頭を除いてーー教頭は頗る立派な紳士です。仏語を話します。授業は松江に於けるほど容易ではありません。今学期私は二十七時間受持っていました。しかも全部教科書なしです。そのため一層困難です――それだけ白墨を使用せねばなりません。新教科書はまだ到着しないのですが、到着の上でも使用されないでしょう。生徒は書物によらないで教えられる方を好むようですから(下級は会話と作文、上級は会話と講義)しかし生徒は極めて善くて――理想的に善良てす。私は何れの生徒に対しても、少しも面倒の起こったことはありません。が、万事松江とは異っています。何となくこの大きな学校は一種の工場のようです。お互に対し、また生徒に対し親密な感じを持たないで、ただ規則的に一定の時刻に仕事に出かけ、一定の時刻に帰るという風です。余裕の時間はなく、一切隔絶していて、兵営のようで、実務的です⋯⋯⋯しかし私は今一つ東京へ行く機会があったのを、断わりました。熊本では文筆に務める時間を沢山得られるのですが、東京ではむつかしいでしょう。貴君から承った太宰府の神社は、実際壮麗です――殊にその立派な境内のために。お話しの通り、建築は両部神道のやうです。私共は此の頃あまり健康がよくはなかったのですが、今では快方に向っています。

熊本ディスりが始まりましたね(;^_^A

7月28日
お手紙をいただいて、愉快に存じました。節子は非常によくなりましたから、天気さえよければ、私共は屹度松江附近まで行けるでしょう。私は隠岐、境、美保関への旅行免状を受けました――隠岐は『旅行案内』に関し、チェンバレン教授を喜ばせるためと、また私の愉快のために。私が貴君の前回のお手紙を受けた際、医師の警告についてのお話しがあったので、貴君が九州へ御来遊の出来ることとは、夢にも思わなかったのですーーそれで、私は美保関でお目にかかろうと計画していました。しかし此際九州へ御旅行なさるならば、目下在熊の嘉納氏にお手紙を封入しておきます。私は現在では、いつ帰熊するか、確に申し上げかねますーー沢山文学的仕事を企てていまして、しかもそれを成す機会は、兎角定まりなき気候如何によるのですから。ただ確実なのは、九月十日までに、長崎を経て熊本へ帰らねばならぬということです。次便を美保関から差上げます。貴君が京都についてのお言葉は、全く真実です。この市(熊本)は私を絶望させます。私は仏教の研究に、ここ(京都)で五年間を費やしたいのです。熊本が醜く、不凡であるように、ここは美しく、驚くべき所です。…私は神戸へ立つ前、都合次第で明日又は明後日、奈良へ行く積りです。しかし一両日滞留が長くなるかも知れません。貴君の健康と幸福を願いつつ。

ディスりが止まりません💦

8月4日
貴君の第二回のお手紙を受取りましたが、鉄道の破壊のため、私の計画を幾分変更せざるを得なくなったので、今まで御返事を差上げられなかったのです。私は宮島をやめて、今日ここから境に向けて出帆し、それから隠岐へ行かねばなりません。帰途にお勧めの通り浜田へ寄り、または境或は美保関に留まることができます。帰りには、境で香川旅館へ泊まりますから、そこへ宛てて御発信下されば落手するでしょう。時に、嘉納氏から今月は二週間ほど、鹿児島へ行く積りだといってきました。だから、貴君が今月熊本へお出になっても、同氏は不在だろうと思われます。しかし貴君は鹿児島を見るのはお好きでしょう。熊本よりは必らず一層の興味があるだろうと私は考えます。その上に、そこは海浜です。帰路には出来うるならば一両日を博多で過ごしなさるようお勧め致します。そこは美しい所で、また良い浜辺があります。石田屋は悪くはありませんが、私が日本で見た最上の宿屋は、京都の日光屋です。小さいけれども、綺麗で、高価ではあるが、行届いています。給仕振りは、天使に待遇されるようです。私は奈良に遊んで、大仏を見、鹿に餌をやり、巫子の舞いを見ました。杵築の舞いとは異っていましたが、綺麗でした。また少女達は蕾の如く婉艶でした。しかし出雲の海岸の方が、京都や奈良よりも私には一層面白いから、そこへ行こうと熱望しています。節子は強健に回復中でありますが、以前に比すれば途程瘠せています。彼女は帰途貴君にお目にかかることを大いに期待しています。その都合はつくことと私は考えます。今月の末頃やっとお逢いすることが出来ても、まだ熊本へ帰るのに、十日間も残っているでしょうから。節子は最も懇切なる思い出を、私は最上の厚意を差上げます。

8月
貴君が(熊本の)私共の小さな宅へお泊まり下されたことを承って、私共両人とも非常に愉快に思いました。若い、小さな家ながら、出雲の女中共がいたので、熊本の大きな淋しい旅館よりも一層心安くお感じのことと思います。今度は暫く美保関で、私共と一緒に御滞在を望みます。私は隠岐が非常に好きですーー熊本よりは余程好きです。田舎の人達、漁師、水夫、原始的の風采、質素な習慣ーーすべてこれ等のものは私を娯しめます。して、これ等のものが隠肢に存しているのです。時間さえあれば、かかる人々の生活や習慣を注視することは、文学上私の利益になるでしょう。隠岐は私に取って六箇月間の文学的研究の価値があります。もう一度見たいと思います。唯だ不快なことは、烏賊のひどい臭気です。しかしお目にかかってから、一切私の印象をお話し申し上げましょう⋯⋯私と節子とから最も懇篤なる尊敬を以て――やがて拝眉(※「会う」を意味する謙譲語)の楽しみを期待しつつ。

全集には収録されていませんが、島根大学附属図書館によれば、8月25日に「節(セツ)は今朝、手紙を書くつもりでおりましたが、あいにく頭痛がして少し気分が優れないようです。間もなくあなたにお会いできることと思いますので、本日は筆を執りませんこと、なにとぞご容赦ください。さて、こちらへお越しになる途中で、少々頼まれていただけないでしょうか。もし大した手間でなければ、天神町(太田煙草店)で葉巻をいくらか買ってきてほしいのです。この辺りでは手に入りませんし、帰路も馬関(下関)に着くまでは手に入れることができません。品質については、あまりお手間は取らせませんが、一番高い小ぶりの葉巻を選んでください。もし箱が開いていれば、外側の葉が「テカテカ」していないこと(油を塗ったような見た目でないこと)を確認していただければ幸いです。もし在庫が少なければ、50本程度で構いません。ただ、もし面倒なようであれば、決して無理はしないでください」という手紙を送った、とあります。西田に煙草を買ってきて!とお願いしてるんですね(;^_^A しかもけっこう注文も細かい…💦

その後、西田は八雲に会うために美保関を訪れます。これも全集にありませんが、8月26日には美保関で次の手紙を西田に送っています。「わたしはあなたをわれわれのお客としてお誘いしました―だからあなたが、別の旅館へ行かれたことを残念に思っています。たぶんその別の旅館がこちらより涼しいでしょうが、こちらも悪くはありません。それに他の客がいないし、素晴らしい泳ぎができます。だからみんながあなたをお待ちしています。そこで、あなたをお招きするようにと、船頭を差し向けさせました。こちらに来られるよう願っています」

西田はなぜか別の旅館に泊まってしまったのですね💦なんででしょうか。そんなトラブルもありつつ、ついに二人は再会する事になります。

8月 美保関
私共は貴君がお帰りになった後、全く淋しく感じました。夕食の節は殊にそうです――…波が荒く、音が高いので、私は申しました。『これは西田さんが鶏卵を贈って下さったからだ』しかし午後、湾はまた鏡のようになりました。…夕方遅くなってから、小さな境丸が入港し、立派な卵箱とお手紙と一葉の『日本』新聞を齎しました。貴君の御親切誠に此の上なく存じます。かくまで御親切を蒙って嬉しく思うと共に、御面倒をかけたことをお気の毒に感じます。しかし卵については、大欣びをいたしました。宿の主人が小さな長方形の卵焼き鍋で料理してくれました。して、一個一個中央に紅い太陽を帯びた日本の国旗のように見えました。貴君並びに御尊母様へ多謝々々。それから、御家内様一同へ最も温かき敬意を表します。

ついに八雲と西田が再会しました!!かなりうれしかったでしょうね。波が荒くなったのを「西田さんが卵を贈ってくれたからだ」というのはよく意味が解りません(;^_^A

9月18日
貴君は今学期容易な時間割だと承って、欣然に存じます。して、気候もこれからまだ三箇月間は温和でしょう。熊本では甚だ暖かです。節子は帰ってから、すっかり変わりました。今ではいつも笑って、愉快でいます。して、来夏の旅行のことさえ語っています。全く貴説の通り。

全集に収録されていませんが、9月25日に八雲は西田に次の手紙を送っています。

「セツがもう一度あなたに手紙を差し上げて、あなたがお帰りになって初めて、われわれ皆が、蚊帳に穴があいていたことがわかったことに、どんなに申し訳なく思っているかお伝えするようにと申しております―したがって、あなたは蚊にたいそう悩まされたに違いありません。しかし、もしもう一度こちらにお出でになって、わたしたちに楽しい思いをさせてくださるならば、われわれは皆が蚊帳に穴がないことを約束いたします。…今年度の終わりには、どこかよそで職を得るよう努力するつもりです。どうやらここで長く居過ぎると危険なように思えます…先日わたしはここで「かたい」(Katai)(この言葉で合っていますか?)と思ったことを見ました。[嘉納]校長が、小屋のようなところで、生徒たちに訓話をしていました。すると、日が差し込んで、最後列の生徒たちの頭に当たりました。やがて三人の生徒がよろめいて倒れて、運び去られました―暑さに負けたのでした。一言指示があれば、他の全員も救われたことでしょうに。ところが校長は、10分間も話し続けてやっと生徒たちの苦痛に気づいたように見えました。それから命令が出されました―10歩前へ、陰の中へ、と。遊び時間には、嘉納氏は生徒たちに大変やさしく、彼らと一緒に遊んだりします。ところが、修身の時間になると、別人になります。これがその一例です」

熊本を訪れた際に八雲の家に泊まった西田でしたが、どうやらその際に使用した蚊帳に穴が開いたようです(;^_^A

10月23日
御全快の御報を得て、非常に欣びました。その前夜、節子は貴君のことを夢みたので、申しました「西田さんからお便りが来そうです。余程お宜しいか、左もなくば余程おわるいかです』して、吉報が参ったのです(※全集の註には、「夢は精神現象として、人生の事実として、先生に取って、また先生夫婦間に取って、大意義を有(も)っていた」とある)。私共は皆病気でした。私は幾分脂肪が滅じました。家内の者が同時に風邪にかかったのです―児童の正(熊谷正義。隠岐の島の士族の子で、八雲が養育していたが、1893年、ラシャメンの唄を歌ってセツを侮辱したので、送還された。1893年8月に八雲が西田宛に書いた手紙には、「私は熊谷正義については、不運でした。彼は私の一家のものを悩ました挙句、隠岐へ送り返さねばなりませんでした。彼は学校に於ても、また何事をしても、非常に怜悧な少年でしたが、少しも愛情を有たないし、且つ残酷で狡猾でした」とある)を除いて。正は他の人々が病気中、自分独り丈夫なことを悲しんで、着物を少し脱いて風邪に罹ろうとしたのを、私共は叱ったのです。それでも彼は元気でした。…時がたつにつれて、私はますます教師及び生徒の両者と交際が薄らいできました。私は最早宴会へも出席しません。結局私は孤立を欣んでいます。それは私の文筆の仕事に好都合です。しかし貴君のような人がいたならばと思うことが毎度あります。…私のため何か仕事をして下さる件については、来月になってから、大黒舞いの文句全部を求めていただくことを御相談申し上げたいのです。翻訳は東京でやって貰ってもよいのです。四つの歌(寧ろ俗謠)とその繰返しの文句を手に入れることと、またそれを筆写するために、いくらでも費用を払いたく思います。しかし貴君は余暇と体力が必要ですから、誰でも十分真面目にそれをやってくれる人を御存じならば、それでよろしいのです。しかしその件は後日に致しましょう。

『思い出の記』には、「(八雲は)この世より夢の世が好きであったろうと思います。休むときには必ず「プレザント、ドリーム」とお互いに申します。私の夢の話が大層面白いと言うので喜ばれました」とあり、夫婦間でよく夢の話をし合っていたようです。

11月24日
再び貴君の御筆蹟を封筒の上に見ることを得て愉快でした。私はかような好音信に接して、言ひ難き喜びを感じました。御地に山崎医学士が居られることは、貴君のために祝します。この冬は厳しい寒さだろうとは思われません。この徴候では、もし強い寒気が起こるとすれば、後になってくるらしく思われます。私は貴君が一季節の間、琉球へお出になったならばと、余程考えているのです。困難な点もあるでしょうが、出来る限りの御注意を申し上げるのが、友人としての任務なのです。熱帯の風土は、多年そこに滞在すると、体力に障わっても、六箇月間は有力な強壮剤となります。本校教師中川氏(嘗て大名であった人)は、今夏琉球へ蝶の探集に行ったのですが、蒸暑堪え難いということはなかったと、私に申します。氏はその土地を賞めています。土人は臆病で、日本人を恐れているそうです。日本の宿屋があります。主要食料は若い豚で、新鮮な豚肉は二十六種の料理法があります。米はその土地の食物ではないが、そこに住居せる日本人が買っています。土語はわかり離くて、中川氏は通訳者を要したのですが、無論、学校は日本語を教えます。もし貴君が来年そこで一冬を過ごすことが出来れば、よいだろうと思われます。それは私よりも山崎医学士の方が、一層よく判断を下しうるでしょう。…大黒舞いについて、誠に御親切を謝します。少しも急ぐことはありません。今年中、いつでもよいのです。それが手に入れば、新しい著述の材料に使います。新著作には、二年間位かかることでしょう。…この頃日中は温かで、湿気を含んでいます。して、軽い熱病が流行しています。しかし節子は驚くほど丈夫になりました。彼女は立派な体格を有っているから、もはや病気に罹ることはありそうもないと、医者は申します、彼女は貴君が再び御出勤のことを承って、
非常に嬉しいと申し出でました。

結核菌は温暖な気候では活動が抑制されるそうであるので、当時どこまでこのことがわかっていたかはわかりませんが、琉球療養は適切なアドバイスであったと言えるのでしょう。

12月13日
またいやな議会が開かれました――三個の高等中学廃止案――五高をも加えて!どうなろう共、夏休み以後ここに留まっていようとは欲しません。あまりにも不安です。政府に仕えて働くのは、流沙の上へ建築したり、灰を綯って縄を作らうとしたり、篩(ふるい)で水を運ぼうとするようなものです。政府は皆気が狂っています。家康のような人が出てて喧々囂々たる連中を破砕し、上品な専制政治を行うことを私は希望します。昨夜は堅い黒い霜(※水分が非常に少ない状態で凍りつくと、植物が壊死してしまい、黒く変色してしまうので、これを「黒霜」というそうである)がふりました。御身体を大切になさい。して、新年に対する私共の厚意を受けて下さい。

家康の事もきちんと把握しているんですね(;^_^A

12月27日
お手紙は珍らしく面白いことに満ちて、最も愉快に存じました。貴君が浜田の地位をお断りになろうとするのを欣びます。危険が大きいだろうし(過度の働きなどを指すのです)風土の変化もあまり有益ではなく、俸給は増加しても、松江に於ける幾多の親友から隔絶する償いにはなるまいと思われます。貴君がお尋ねの、熊本で引越しの場合の規則について、調べてみました。一般人民の間では『向三軒両隣』という習慣が守られてあるようですが、別に変ったことはありませんーー少量の酒を贈り物とするのです。しかし上流社会は全然西洋化してきて、隨ってますます慇懃な態度を減じ、段々殺風景になって行って、ただ両隣へ一種の形式的な挨拶をする外に、何もしません。…私の宅のことを、もっと詳しく申し上げます。硝子戸と暖炉と大工の手間代が、合計二十五円ほどかかりましたが、結果は頗る満足でした。最も寒い日にも、室内は夏の温度です。して、夜間空気が暖かい内は、私は決して咳嗽をしません。少しでも咳嗽をするのは、夜明けに火が消えた頃だけです。しかもその際にも、極僅少です。しっかり閉まった硝子戸のため、室は決してひどく冷えないからです。私は疾くの以前に、かような設備をすべきであったのですが、暖炉を持ち込むのに適当していて、また現在私の室のような孤立せる室の附いた日本式の家を求めることはむつかしかったのです。勿論、学校には各室に暖炉があるから快適です。…大黒舞いについて、何卒あまり御面倒をかけないように致したいものです。別段急ぎはしません。今この手紙を認(したた)める時には、まだその文句を写した物は参っていません。しかし学校へ到着しているかも知れません(学校は今月二十四日から冬休暇になったのです)どうかお送り致すべき金額を知らせて下さい。それから、この件のためお手許へ幾らかの供託金を差上げて置く方が、よくはないでしょうか。貴君が仰せられた古本を発見する誘因として、役に立つこともあるでしょう。もし部落の人が舞謠の文句を写す場合、文学的性質でないため、珍らしい繰返しの句を省略して、自作の文句を挿入することがあってはと、私はそればかり懸念しています。

1893年1月
学校が廃止にならなかったので、校内は大欣びです。貴君の予言が当たりました。

1月
多分私は夏休み中に新潟へ行くかも知れません。節子はいつも東京の事を語っています。私は彼女を東京へつれて行かねばなるまいと思います。それから、私は金比羅と善光寺を訪ねたいのです。すべてそれらの場所へ行った上に、猶おまた新潟へ行くこともできるでしょう。私はあの懐かしい、親切な知事(※島根県知事であった籠手田安定のこと。『ばけばけ』ではずっと島根県知事であったような感じだが、実際は1891年に新潟県知事に、その後1896年には滋賀県知事にと転勤を繰り返している)と令嬢に再び逢いたく熱望します。かような種類の知事は稀です。して、やがて日本には無くなるでしょう。いつも私には昔の面白い型ーー絵本の大名の如く思われました。現代化した知事は、殆ど種が異っているようです。次の時代の日本人は、親切で、率直で、また無私ではないだろうと懸念されます。西洋人の如く冷酷な性格となり、智力は進歩して、徳性は減じてくるでしょう。旧日本は利己的でなかった点に於ては、物質的に後れていたと同じほどに、西洋よりも進んでいたのです。…私は迅速記憶法によって節子に英語を教えています。果たして成功するか否か知りません。その勉強が彼女にあまり苦しいなら、止めねばなりません。ーーこの方法は人を疲れさせるのです。教えて行くうちに、貴君から承った出雲発音の点が、稍や気につきます。それで猶お更困難が加わってきます。

八雲は籠手田知事と娘の淑子のことを気に入っていたようです。

2月8日

私は京都の何処かへ口を求めようかと思っています。熊本に留まることに比すれば、今の俸給の半分でも結構です。これまで私が住んだうちで、ここが一番不愉快な場所です。ただ私の小さな家は綺麗です。お目にかけたいものです。(西田は一度来たがその後12月に改装したからか?)…万歳!議会は解散されました!私は軍閥派が権力を握るのを見たく思いますーー家康(Iyeyasu)や家光(Iyemitsu)のような将軍が出て、この地震の国、変動の国に一種の秩序を樹立するのを望みます。即ち憲法の一時停止です。今日までの所では、憲政はただ金銭の浪費でした。自治の経験なき人民に取って、議会は何の功用がありますか。その結果は、壮士と混沌と一次的精神錯乱です。

2月19日
『金比羅、ふね、ふね』の歌、有難う御座いました。それは歌の控え帳へ書きこんで置きました。…貴君の二つの質問について。拉甸語の句は、前後の本文がなくては、甚だお答え申し上げにくいのですーーこの句には、動詞もなく、主格もないからです⋯貴君は何故私が熊本を嫌うかと、不思議にお考えのようですが、先ず第一には、近代化しているからです。それから、あまり大き過ぎて、且つ寺院も、僧侶も、珍らしい習慣もないから嫌いです。第三には、醜いからです。第四には、私は依然として知り合いのない、外客に止まっているからですーーまた、恐らくは文学的材料を得られないからでしょう。しかし節子は、私に勧めて机の抽斗(引き出し)にあった私の頭願書を郵送して、待つことにさせました。もう一二年ここに居る方が得策だと、彼女は申しますーー他所では、もっと悪いかも知れませんからと申します。多分彼女の考えが正しいのでしょう。彼女も貴君と同様に、私が当地の人達を理解し得ないのが、一番困ったものだと思っています。

2月21日

このつぎに上手紙を下さる折、御教示を願いたいのですが、仏陀の指のように見えるのは、仏手柑(ブッシュカン)の果実ですか、または花ですかーーそれとも、果実の葉状の外殻ですか。チェンバレン氏は果実だと考えています。して私は花だと書きました。私共両方ともに間違っているような気がします。

3月3日
節子は英語に立派な進歩を示して行っています。この夏は貴君に少々英語を話すようになれるだろうと、彼女は思っています。私はただ二十八回教授を施しただけです。まだ彼女は英語の女字をよく知りません。しかし言葉を学ぶ自然の順序は、先ず第一に話すこと、それから書くこと、して、最後が文典です。これはスペンサーの説です。この実験は頗る興味があります。もし成功すれば、私は大いに愉快を感ずるでしょう。

節子への英語教育が順調に言っていると報告していますが、実際はこの後行き詰ってしまったようです。

3月7日

大黒舞いの原文封入のお手紙が、無事に到着しました。私は原文を翻訳して貰い、またローマ字で現わして貰って――それから、始めての試みをやって見ようと思います――即ち、日本の歌詞を、これと対応する英語の音律に訳してみようというのです。が、どうするのか未だわかりません。多分余程奇異な小冊を作るようになるでしょう。或はまた別の方法にその材料を使うかも知れません。しかし一切これは大急きで書いているのです――数分の後には、登校せねばなりませんから。深く御礼申し上げます。仏手柑のことについても、有難う御座いました。私はその花に關して、ひどい間違いをしました(※八雲は仏陀の指のように見えるのを花だと書いたが、実際は果実であったため)。しかしまだ訂正する機会があります。

去年の10月からお願いしていた大黒舞いの件が、ようやく完了したようです。この大黒舞いの件について、後に八雲はチェンバレンへの手紙の中で、「私がこれまで従事したうちで一番退屈な仕事はあの三つの大黒舞バラッドを我慢が出来る英語散文にする仕事でありました。大抵出来上がりましたが、非常に厭になりました。尤も私はーーより好い仕事の代りにそれへ私の心を専らならしめて置くという手段としてで無ければーー全くそれをやることは出来なかったでしょう」(94年7月2日)と書いています。相当大変な作業であったようです(;^_^A

4月
節子は今年旅行が出来ないと思います。私は九月頃、或はもっと早く、父になる筈です。だから、私共は結局今年は東京を見ないでしょう。また私はあまり遠い旅行ができなくなります。

6月7日
節子は貴君のお手紙に対して返事を差上げなかったので、恐縮に存じています。それで、彼女に代ってお詫びを述べ、よろしく申し上げるよう私に頼みました。実はお手紙を戴いた当時、彼女は気分が勝れなかったのですーーしかしかような苦痛も、今では全く了わりました。子供は十月頃か、遅くとも十一月早々生まれるだろうと思われます。稲垣老夫婦は私共の宅へやって来て、同居する筈です。兎に角、皆一緒になつた方がよいのです。

8月16日
暑さは今はたまらないことはありませんが、昆虫が非常な厄介です。二種の甲虫がいて、脅かすと、ひどい臭気を放つので、夜間困るのです。蝉やその他の鳴き虫は、出雲のものと同種ではありません。して、余程珍らしい騒音を発します。…節子は熊本について、よい点を発見しました。百姓、小さな商店の人々、行商人、及び商人は、非常に実直だと、彼女は申します。これは九州人が自分で、粗暴だが正直であるといっている意見を、確めることになります。貴君が九州のことを非常に尊重なさるから、私は出来るだけ、あらゆる美点を発見するよう努めています。…私は日本に関して、もう一冊、変わった種類のものを書いている所です。その一部分は、九三年から九四年に亙って、雑誌に載るでしょう。私は封建時代でなく、今日の日本人の美しい方面を示す小話を書こうとしています。私は子供の思想や、百姓、僕婢、労働者など普通人民の行動について、観念を得ようと試みています。何故となれば、民衆は樹木――根、幹及び枝―であって、教養ある階級は花に過ぎないからです。もし貴君が今後二箇年の間に、民衆生活に於て、何か高尚なこと、美わしいこと、感動すべきこと、勇ましいことをお聞き及びになったら、して、それを私に御報知下さる時間があったら、私は非常にお蔭を蒙ることでしょう。

『思い出の記』には、小泉八雲が西田について語った言葉として、「私の悪い事、皆言うてくれます」というのがありますが、熊本について不平ばかり言う八雲を、この時も西田はたしなめたのでしょう。

8月
津田三蔵の狂行(大津事件。1891年5月、来日したロシア皇太子ニコライが、沿道警備の警察官津田三蔵に襲われ右側頭部を切りつけられた事件)の後、陛下が宸襟を悩まし給うたため、京都で自殺した哀れな女子(畠山勇子)について、事実を獲ようとしています。しかしまだ成功しません(1895年に刊行される『東の国から』に「勇子」が収録されることになる)。序に、津田三蔵は後世からは、もっと親切に判断されるだろうと私は考えます。彼の罪はただ忠君のため狂激に陥っただけです。彼は瞬間発狂したので、その狂気は善い主義と好機会に於てならば、最高の価値が有ったでしょう。彼は英国をも戦慄させる、恐ろしい強国―西欧列国が千五百万以上の軍隊を備えて、対峙している強国の生ける代表者を、眼前に見たのです。彼は日本の敵を見たのです、或は見たと思ったのです(多分彼は実際に見たのです。それは後世になって始めてわかるでしょう)そこで彼は熱情に駆られて、頭脳に謀ることなくして、一撃を加えたのです。彼は甚だ悪いことをしました――悲むべき失行を演じました。しかし一切彼の愚かさにも拘らず、彼の心は高尚で且つ誠実であったことと、私は考えます。彼はもっと良い境遇の下には、一個の傑士であったのでしょう⋯私は熊本の恐ろしい甲虫の一種は、ガネブンブン(カナブンブン。カナブン)という名であることを、只今聞きました。して 百姓はガネブと呼びます。『一昨日お出なさい』といつて、その虫を窓から投(ほう)り出すのです。すると、決して帰ってきません。…私は間違っていました。ガネブンブンが、私の一番不平をこぼす厄介物ではなくて、フウムシ(※九州ではカメムシをフウムシといった)というのでした。まだもう一つ小さな虫があるのですが、その名を知りません。彼等は室中を臭気紛々たらしめます。大きなフウムシと小さな虫を、単に緑と黒に区別するだけで、同名で呼ぶ人々もいます。序に、私はこの手紙ヘフウムシを一匹封入してお送り申し上げます。始終私の机上へ襲来しますから、出雲へそれを一匹送ったなら、移住するよう同類を誘うだらうと思ったのです。

西田がどんな反応をしたのか気になります(;^_^A

10月23日
松江に於ける怖ろしい天気と、ひどい災害(大雨のために、宍道湖が増水して、松江市内はほとんど浸水した)のため、この手紙御落手の頃、貴君の御健康が如何だろうかと、心配申し上げます。だから貴君のお手数を煩わしたくありませんが、しかしまた、些少ながら私の与え得るだけの救助を送って、松江に対する私の悲みと愛情を表したいのです。貴君の労をはぶくため、私は山陰新聞社へ救済寄附金五十円を送りました――貴君以外に、それを発送すべき宛て名を知りませんが、貴君にはまた御面倒な用事があるだろうと思ったのです。もし目下他の費用で逼迫していなかったら、もっと送りましょうが、これが現在都合のつく全部ですーー私の金は殆どすべて公債になっているから。貴君が間もなく御恢復なされて、御消息を承るようになることと私は信じます。私が松江の出来事を知ったのは、小豆澤によってであります。彼は立派な手紙をくれました。それには、貴君は御無事であったが、御健康はよくないと書いてありました。一同から心配し乍ら、好意を表わします。

11月
私は小都会が好きです。多度津(香川県)、隠岐の菱浦、石見の温泉津、中海の大根島(島根県)のような所に住んだなら、私の心は欣びに満たされるでしょう。私は新日本を好むことができません。官史、外国風の模倣、気取った風、自惚れ、天保時代に対する侮蔑などが嫌いです。愚考によれば、あらゆる善いもの、高尚なもの、真実なものは旧日本でした。私は永久に明治から飛び去り、『時』の流れを溯って、天保時代へ、または千四百年前の雄略帝の時代へ行きたいものです。昔の扇子、昔の屏風、小さな村の生活――それが私の愛する真正の日本なのです。兎に角、熊本は毫も日本の如く私には思われません。

熊本をディスることは忘れません。

11月
夜間子供が生生まれました。余程丈夫な男の子です――黒い目と髪で、私の容貌を少し許りと、節子の容貌を少し許り有っています。節子は十分健全て、貴君へ宜しく申し上げました。又私が申し上げようと思っていたこと、即ち、今年は貴君が頗る御健康なのを一同欣んでいます旨を述べるよう申し出でました。もっと書こうと思ったのですが、只今私はあまりに疲れています―一昼夜以上にわたって、まだ寝に就きませんので。だから、ちょっと左様ならを申し上げます。

11月17日に八雲の長男一雄が生まれています。

11月23日
貴君の御親切な祝賀状は、丁度私の手紙を投函後に落手致しました。私は子供をレオポルド・ケー・ヘルン(Leopold K. Hearn)と呼びます。ーーKはKadzuoを表わすのです。少なくとも、これは外人に対する場合の名称です。子供は余程強健になりそうに思われます。

11月
今日まで、誰れも無事でいます。子供は日々美しくなって行って、あまり面倒をかけません。殆ど泣きません。沢山の人が来て見て、非常に日本人らしいのを驚いています。しかし大きくなったら、屹度私のような鼻を持ちそうです。節子は一つ別の事件について、貴君に手紙を書くよう私に勧めました。私は節子を私の正式に結婚した妻として、戸籍に録したいので、熊本へ参ってから数回試みましたが、いつも役所の返答は同じことでした――むつかしい事件だから、試みるなら、東京で手続きをする方がよかろうということ。一昨日子供の出産届をする場合に、又試みました。戸籍吏共は、当事者両人が出雲松江から来た以上、ただ結婚届を松江の当局へ出せばよいのだから、松江へ書面を送った方がよいと云いました。しかし同時に、彼等はこんなことを申しました。『規則はむつかしい。もし子供が日本市民でもであるようにとならば、ただ母の名で戸籍を附けて置かねばなりません。もし父の名で登籍すれば、外国人になるのです』無論私共はこの子供が日本市民たることを望みます。私の没後、彼は一家の後継者、且つ支持者となるのですから――たとえ数年間勉強のため、海外へ行くことがあろうと、あるまいと。慎重な考えから申せば、後者が得策のように思われます。しかしこれは全く難問題です。私自身が日本市民となれば、一切解決されるでしょう。が、それさえ予想外に困難なのです。また、私が直接に政府へ請願して日本市民となりうる事と信じますが、目下の場合、その結果は好都合でもないようです。横浜に居る英人で、日本市民になったのが、『日本市民となった以上は、日本市民のような生活で満足せねばならぬ』と、俸給を滅ぜられました。私には減俸の趣旨がわかりません。何故なら、勤労は少くとも市価に随って払わるべきであるから。しかし屹度減俸をされるにきまっています。米国の友人と英国の親戚へ対しては、私は結婚したのだと、正式に発表しているのです。多分私は数年を待ってから、市民となった方がよいのでしょう。無論、日本市民となることは、海外文明国に対する私の関係上、何等の差異を生じないでしょう。ただ革命叛乱の多い南米の如く、文化が低くて、英仏米などの保護を有利とする感に於てのみ幾らか差異があるでしょう。しかし畢竟するに、私の唯一の憂慮は、節子と子供の利害如何ということです。私一個の利害は、私の不利が節子に取って損害となる場合だけ、問題に関係を有つのです。私は運命と神々とに委せねばならないだろうと、想像しますが、もし何か御教示下さるなら、有難い次第に存じます。どんなに僅かしか日本人のことを知り得そうにもないということを、私は毎日ますます感じてきます。私は拮据勉勵、新著述に従事して、今や半分出来上がりました。それは主もに哲学的小品で、『知られぬ日本の面影』とは、非常に異っているでしょう。して、どんなに日本の天地が、私に取って変化したかを貴君に示すでしょう。外人は同情と友誼を得ることは、殆ど不可能だと、私は想像します―――民族の心理に驚くべき相違があるからです。私共は理解しないで、お互にただだ臆測し合っているのです。して、実際広い経験を有する極めて鋭い臆測家にして、始めて正確に臆測し得るのです。私は貴君のような人を他に見たことはありません。普通東京の現代化した階級の人々と一緒に坐って、数時間談話するほど、奇異なことはないのです。私共は相手の語ることを一切理解し、相手は私共の語ることを一切理解します――しかし双方とも、言語以上のことを理解しません。言語の裏面に潜める思想が、非常に相違しているから、談話すればする程、お互にわからなくなるばかりです。学生の場合には、私は新しい教授法を発明せざるを得ないようになりました。私は只今上級学生を心理学的に教授します。例えば、前置詞の種々なる難点について、講義したり、書取を授けたりもしますが、劈頭先ず学生に向って、毫も日本語の前置詞のことを心に浮かべてはならぬと告げて置くのです⋯私は冠詞や、英語の成句の価値や、動詞の比較上の強さなどを教える場合、この方法に随って、余程成功を収めています。しかしこれは外人が日本人の心底へ立入ることの、どんなに絶望的なるかを示すものです。

だんだん日本人不信が募っていく八雲。熊本時代後半の八雲は精神的に病んでいたと思われます。

1894年2月13日
お子様達の写真を有難う御座いました。御長男は隨分貴君に似てくるようてすが、御次男は猶お更そうです。どんなに御成長なされたことでしょう!私が松江を去った時、まだ生まれてから六箇月位でした。それから、私にお茶を一杯運んできた少女ーー彼女もまた筍の如く伸びました。御長男は私を見ても、今は最早泣かないでしょう。非常な御成長です。これらの小団体の写真は、愉快なる御進物です。私は大切にしておきましょう。誠に有難う御座いました。私の子供は、言葉を発しようと、ひどく試みています。彼の眼は余程青いのです――それが唯一の困ったことです。何故なら、少くとも少年時代の間、彼は日本で勉強し、日本市民となっていなければならぬため、私は彼が今少しく日本人らしく見えた方を好むからです。

4月
手紙の数の稀少といる事実によって、判断を下すならば、貴君は甚だ冷淡な通信者となりつつあるのですーーだから、何か異常なことが起こらない限りは、貴君からお手紙を受けることはあるまいと思われます。そんな風に、世の中が遠ざかって行きます。が、もう決して私は『最も東の東方』人民を理解することは出来ないでしょう。さて、私は金比羅へ行ってきました――金比羅船々で多度津まで、それからは鉄道で、驚くべき奇異な古い都会へ行ったのです。私共は一雄を伴れました。彼は今泣きません。して、非常に行儀がよかったので、汽車や汽船の道中を通じて、人々が彼を好いて、彼を戯弄して遊びました。彼は沢山の政客、測量師、数名の絹商人、海軍軍医の二名の大佐、幾多の上品な婦人、琴平の巫女、それからーー遺憾乍ら――数名の芸妓などと知り合いになりました。しかしそれは彼が幼くて、訳がわからないからでした。私は彼が大きくなってからは、もっと彼の微笑を控え目にするよう希望します。ただ一つ彼の良趣味を示したことがありました。彼は特に二人の若くて、真に愛らしい、綺麗な巫女に心を惹かれたのですーーして、一人の巫女をして舞踊の間にも微笑を洩らさせました。

西田からの手紙の減少に愚痴を言う八雲(;^_^A

6月2日
さて、貴君の御令息は、やがて英語をお始めなさるのでしょう。だから私は日本お伽物語叢書を、御令息のためにお送り申し上げます。私は貴君が万事に御好運ならんことを望み、またその中に拝眉の楽みを得んことを望みます。

7月8日
お手紙に対して、早速御返事を差上げませんでした――どうなるかわからなかったし、また今でも先のことは姿もわからないから。しかし、その問題については、後に申し上げます。先ず東京行の件については、昨日出立の筈でしたが、明八日に立ちます。小豆澤は門司まで私と同行します。門司から私は横浜へ行きます。…私が貴君にお目にかかるまでは、八月一日以後東京か、又は横浜に滞在します。それから、貴君の御帰途、熊本の私の小さな家へ御来遊下さるやう、お誘い申し上げたく思っています。…私は三年間熊本で、神経衰弱になる位、不愉快に暮らしました。私の就任以来絶えず私を学校から退かしめようとする手段が講ぜられていたように思われます。私は不幸にも誰れかの道を塞いで、妨害物となっているものと想像されます。さて、数週前の事、私はこれまでは決してしなかった事をせざるを得ない気分になりましたーー私の立場の困難を校長に訴えたのです。彼は親切に答えて、私の秘密を保って置き、幾分制度に変更を加えると約束してくれました。というものの、どうなることか私に一向わかりません。日本の官吏間に於ける外人は、全く一個の碁石に過ぎません。彼には友人もなく、同情もありません。実際彼の感情の存在は、考慮されないのです。「自分の家庭以外には、同情を求めるな」と、英国人で、日本人の妻を有ち、また、大きくなった立派な男の子供達をもった私の友人が申しました。私はこれが殆ど真実であることを恐れます。私は当地でひどく孤立していて、生活が退屈なほどです。普通の意味で、全然孤立しているのは、家族がある以上、十分愉快なことですが、私を利用すること、或は私を排斥するの外には、私に対して何等の興味をもたぬ人々と始終接触を強いられているのは、退屈なことです。家族の心配もなく、子供が幼少だということさえなければ、私は一日も日本に留まっていないでしょう。さて、随分不平を並べました。私は御健康な貴君にお目にかかり、大いに快談を致したく望みます。節子並びに一同から、宜しく申し出でました。

家族がいなかったり、子どもが幼かったりしなければ、すぐにでも日本を去りたい、と言っています💦セツと一雄の存在によってかろうじて日本につなぎとめられている状態だったのです。

8月5日
…しかし兎に角、御都合次第熊本へお出て下さい。ただ一日や二日御滞在の積りでなく、お出でてから、ゆっくり御休養なさい。して、御滞在の出来る限り、拙宅を貴君のものにして下さい。一雄は這い廻わったり、抽斗を開けたり、歌を唄おうとしたりします。して、驚くほど生長して行きます。…当校に於ける私の契約は、来春三月まで期限が延長されそうです。しかし友人をもたないから、どうなるか断言ができません。私共は――すべて外国人はーー来年の議会で追い払われてしまうだろうと期しています。最早日本で英人の英語教師には、前途がなくなりました。もし私が一たび政府の雇から離れたら、私は復帰しようとは思いません。半分の俸給でも、横浜か神戸の会社に、或る地位を得た方がよいのです。…私は拙い手紙を書きましたが、貴君の東京御出立前の間に合うよう、可也急いで投函したいのです。一同がどんなにお待ち申しているか、言葉に述べ難いほどです。私の宅はさほど暑くないでしょう。それから私の小さな室は、どうなりとも隨意に御使用下さい。もし御都合がつきますなら、何卒お出で下さい――御帰国の道中、唯だ八時間でお立寄りができます。

8月
貴君の立派なお写真と最も親切なるお手紙を有難う存じます。お写真は、私のために幾多の事物を見てくれた親切なる眼、幾多の賢い善いことを私に語りきかせ、私に勧告を与え、私を非常に助けた親切なる唇を、再び鮮かに私の前に齎しました――それを眺めて、私は貴君と別かれたことを、今更ながら悲まざるを得ませんでした。…一雄は這い廻わり、抽斗を開きながら厄介をかけています。彼の眼は再び色が変わりました――青から褐色に変わって、私の眼の如くになりました。しかし毛髪は依然鳶色です。上歯は十分に伸び、誰れも彼の丈夫さを驚いています。彼は一つ日本的の美点を有っています。即ち、泣かないことです。怪我をした時さえ、自制心を保っています。私は彼がすべて、これ等の特徴を失わないことを望みます。私の心配は今や一切悉く彼に関しています。私は彼を外国へ送るか、或は出来ることなら、私が彼を外国へ伴れて行かねばなりません。若し彼が立派な頭脳を有っていたなら、科学的教育を受けさせるのです。それは費用のかかることでしょうが、私は実行したいのです。成るべくは、子供を独り外国に置かないで、成年に達するまでは、父が始終側に居るべきものと私は思います。また節子はフランス又はイタリアに於ては、間もなく土地に馴染んでくるでしょうーー少くとも一雄の課程を了えるまで、十分気樂に暮らして行けることと思われます。在留外国人は戦争の起こったのを悲しんでいます――それも当然です。商売が不振に陥ったのです。誰れも日本が個々の戦闘には勝つものと信じています。しかし誰れが全体の戦争に勝利を占めるでしょうか。それは財力の問題となるでしょう。日本は欧州の最富国さえ躊躇していることを敢行しつつあるのですーー何故なら、支那と戦うのは、非常に費用を要するから。出雲の青年も朝鮮の野に渡っていますが、彼等は無事にすべての危難を切りぬけることと私は信じます。何卒彼等に関するお話しの材料がありましたら、お送り下さい。

八雲は一雄がある程度成長したら、外国で教育を受けさせようと考えていました。そしてそれに八雲とセツも帯同する構想を立てており、もしかするとセツが外国で暮らすことになっていた可能性もあったのですね…。

・私は早速熊本から去るように致したいのです。たとし薄給でも、私が親切な待遇を受けるような地位をお聞き及びでしたら、何卒お知らせ下さい。

・これは私が熊本から貴君へ差上げる最後の手紙です――非常に病気だという公務的口実の下に、私は一両日の中に去るのですから。校長は私に対して実に親切でした。彼は善い人だと私は考えます。して、困難から私を救おうとしてくれました。私に訳のわからない色々のことが学校内で行われています―しかし私は思うに、ただそう思うだけですが、熊本と文部省の両方にわたる陰謀があるようです。嘉納氏に関しては、氏からは過般私が送った手紙に対して、返事もきません。それから学校の不思議な状態については、道徳的根拠のありそうな何等明白な理由もないのです。実に奇怪且つ険悪の極です。だから私は去って行くことを欣びます。学生達は善良なのですから、私は彼等に別かれるのを遺憾に思ひます(彼等は事件については少しも知りません)しかし学校の現状では、真面目な授業も困難です。さて、私の幸運を祈って下さい。何故なら、行先きどうなるかわかりませんから。

※続きは後程公開いたしますm(__)m



2026年2月12日木曜日

確執時代の第一歩?~「五ヶ条の条書」

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

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織田信長による永禄13年(1570年)1月23日付の書状がありますが、これは朝山日乗・明智光秀を通して、将軍・足利義昭に五ヶ条の項目の内容の承認を求めて作られたものであり、通称「五ヶ条の条書」と呼ばれます。義昭はこの内容を受け入れたようで、黒印を据えているものが石川武美記念図書館(東京)の「成簣堂文庫」に残されています。

この「五ヶ条の条書」について、これまで各研究者には次のようにとらえられてきました。

渡辺世祐氏「足利義昭と織田信長との関係に就いての研究」(1911年)…(殿中御掟から)僅に一年ならずして、今またその政治上の勢力をも奪わんがため、義昭との間に新たに条約を締結せり。素より義昭は信長の扶助によりてその旧業を恢復したりと雖も、かく頻繁に拘束を受くるは喜ばざる所なりしなるべし。…要するに、この各条は漸くにして旧業を復し得たりし義昭をして将事職にありと雖も、空しく尸位素餐(しいそさん。※高い地位にありながら働かないこと。少し使い方が違うか?)の地位に置かしめんとせしものにして、義昭としては耐え得べからざりし事なり。…その条約は強請的のものにして、義昭にとりては最も不利益なる条項をもって成り、義昭は実質上将軍としての資格を失墜せるの感あり。

永原慶二氏『日本の歴史14 戦国の動乱』(1975年)…(五ヶ条の条書について)一言でいえば、天下のことは万事信長に任せられたのだから、義昭はなにひとつ勝手な行動をしてはならないということになる。

桐野作人氏『織田信長』(2011年)…義昭にとっては信長から一方的に種々の規制を受ける内容だった。

池上裕子氏『織田信長』(2012年)…義昭の行動を非難し、義昭を信長の監視下において手足を縛るような内容となっている。

谷口克広氏『織田信長の外交』(2015年)…信長と義昭の「連合政権」はこの後、連携時代を終了させて確執時代に入る。その第一歩が…一月二十三日付で出された五ヶ条の条書である。

しかしこの解釈をめぐって、近年で異説も出されるようになってきています。

意見が分かれるその内容とはどのような物なのか、その内容について見てみましょう。


2026年2月6日金曜日

第51回衆院選に最年少の25歳で立候補した4人の紹介!

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪


20代立候補者…28人

共産党…5人

参政党…12人

中道…3人

みらい…1人

社民…1人

自民党…1人

維新…1人

国民…4人


●佐藤理々香 国民 党県副幹事長 学習塾非常勤講師 宮城2区 2000年12月生まれ

早稲田大学卒業と同時に結婚、23歳で息子を出産。

趣味は息子や愛犬と遊ぶことと史跡巡り。

座右の銘は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

(国の歴史や人の人生は、河の流れのようだ。ずっと同じ川があるように見えて、二度と同じ瞬間は訪れ訪れない。だから私は仙台、そして日本に生きる人々の、その瞬間、瞬間を輝かせたい。)

【毎日新聞候補者アンケートの回答】

憲法改正賛成(自衛隊明記)・核保有も核共有もすべきではない・日米関係強化、中国には毅然と対応・消費税率一律5%に引き下げ・原発最大限活用・積極財政を進めるべき・選択的夫婦別姓賛成

【公約】

私には夢があります。『すべての人々が、自分の生きたい生き方で、誇りをもって歩んでいける社会』を実現するという夢です。そのためには、日本国の豊かさ、国力が必要です。私はこの豊かさの実現にとって最も限壁となるのが少子化だと考えています。子どもが減れば内需中心の我が国の経済が停滞する。経済の停滞により現役世代の手取りが伸び悩む。そうすると介護・福祉を支える人材と費用が不足する。出生数が70万人を割った今、もう時間はない。子どもが増える、経済が成長する、手取りが増える、福祉が充実する。この方向に、地元仙台を、日本を変えていきます。

・子育てにかかる費用を抑える…出産・育児に関する医療・福祉の無償化
・子育てを楽しむことができる環境を整える
・介護の質を向上させる
・市民・国民の命を守り抜く…防災庁の地方拠点の仙台市への誘致
・教育を受ける権利を守る
・手取りを底上げする…社会保険料抑制・自衛官の給与・待遇向上
・産業を育て、地元を守る…米の増産・輸出拡大
・経済格差を小さくする…若者の所得税・住民税を減税
・家計応援×エネルギー安全保障

毎日新聞の衆院選特設サイトの「最も力を入れたいこと」には、「『子どもを増やす』『手取りを増やす』『福祉を増やす』の 3 つの柱の好循環を生み出します。『子どもを増やす』で内需を増やし、国内外からの投資を呼び込み、経済成長を目指します。経済成長による賃上げや、税・社会保険料負担の軽減で『手取りを増やします』。経済成長による税収の自然増や、子供が増えたことによる福祉の担い手の増加で『福祉を増やします』。福祉が行き届く安心できる社会では『子どもが増えます』。私はこの好循環を徹底的に回していきます。」と記入。

朝日新聞の衆院選特設サイトでは、最も訴えたい公約として、「もっと手取りを増やす(社会保険料抑制、中小企業の人件費の価格転嫁を推進、中小企業の株式上場支援、所得税住民税控除引上げ、生活コスト引下げ)」を挙げ、その理由を、「国民の皆様の手取りを増やすことが名目GDP1000兆円という国民民主党の目標と、私の目指す『すべての人々が、自分の生きたい生き方で、誇りをもって歩んでいける社会』への第1歩であるため」と答えている。

【立候補にあたっての会見】

「豊かさの実現には、少子化が最も障壁となっていると考えています。子供が減れば内需中心の我が国の経済は停滞します。経済の停滞による現役世代の手取りの伸び悩みは、さらに子供を減らしてしまいます。私はこれを食い止めたいです」

【選挙第一声】

「人口が増えて、そして手取りが増えて、税収が増えれば、安定すれば、介護や福祉をしっかりと充実させていく、その原資にすることができる。私はこの好循環を徹底的に今回の選挙戦、訴えてまいります」

【候補者の訴え】

「子どもが増えて人口が確保されて手取りが増えて、現役世代が元気になった日本では何が起こるか。税率を全く変えなくても税収が上がるんです。それをしっかりと暮らしの安全安心、将来の安心安全、介護福祉につなげていきます」

●堀川哲郎 参政 自営業(ウェブ制作業) 元塾講師 東京29区 2000年9月生まれ

Twitterのプロフィール欄には「デジタルメディア運営 教育・子育てをあきらめさせない現役世代代表」とある

選挙公報には「利権や保身で変わらない時代遅れの政治を変えるため」に立候補とある。

読売新聞アンケートには取り上げたい争点として「1位 景気・雇用 2位 外国人政策 3位 子育て支援」を挙げる。

【候補者の訴え】

(TOKYOMXのサイトより)「東京29区から、25歳という若輩者だが、当たり前のことを当たり前に言う政治を行いたい」と語ります。塾講師だった経験から、子どもたちが早い段階で受験勉強を始める現状を変えたいとし、教育改革の必要性を掲げます。また、地元出身であることを生かし、地域の知り合いを通じて一人一人に訴えを広げる選挙戦を展開しています。堀川さんは「私個人の名前は全く知られていないというゼロの状態からのスタートなので、覚えてもらうということをやっていくしかない」と話しています。

●酒井遼 参政 会社員(アパレル会社員) 兵庫7区 2000年5月生まれ

参政党公式サイトより

「兵庫県西宮市出身、25歳の酒井遼です。小学1年から大学4年まで野球一筋。勝負の世界で培った継続力と粘り強さ、仲間を信じて動かす力が私の原点です。社会に出て現場で働く中で、若者が挑戦しにくい空気や、頑張りが報われにくい現実を痛感しました。だからこそ、同世代の不安や焦りを希望に変える側に立ちたい。若さの勢いと行動力で、声を上げ、動き、形にします。現場発の政治へ。」

神戸新聞のサイトより

「立候補を決めたのは、同世代への思いからだった。「若者が希望を持てる社会に変えたい」社会保険料の負担や未婚率の高さなど、若者を取り巻く環境に危機感を持つ。とりわけ、賃金や手取りの少なさには思い入れが強く「さまざまな要因があるのかもしれないが、根本には政治がある」と強調する。

 甲南大在学中に父親に勧められ、神谷宗幣党代表のセミナーに参加。「話している雰囲気を見て、直感的に本気度を感じた」という。前回選では兵庫7区から出馬した候補者の陣営に入り、ポスターを張ったり、チラシを配ったりして応援した。今回は、その候補から急きょ、後任を託されたという。驚きつつも「重たいバトンを受けた」と気を引き締める。選挙戦では「一人一人の有権者と話すことを大切にしたい」と話す。

 西宮で生まれ育った。小学1年から大学4年まで野球漬けの日々を送り、負けん気の強さを培った。最後まで「次の社会は僕たちでつくる」と訴えるつもりだ。

【メモ】車が好きで、マニュアル車のトヨタ・セリカ(2000年製)に乗る。母親がかつて乗っていたと聞き「受け継がないと」と思った。乗りにくく、すぐ壊れるが「見た目が良い」。漫画も好きで「ワンピース」の主人公、ルフィのリーダーシップに引かれるという。」

産経新聞のネット記事より

「若者の視点で社会を変えたい」。賃金問題や出生率の低下、若者が挑戦できる機会の不足といった問題を抱える現在の日本社会に危機感を覚え、立候補を決意したという。

大学生のときに参加したセミナーで参政党代表、神谷宗幣氏に出会い、政治に興味を持つように。「次の社会は僕たちで作る」をテーマに若者が挑戦しやすい環境づくりを目指す。

漫画・アニメ鑑賞が趣味。『ワンピース』の主人公のリーダーシップにあこがれるという。小学校から野球一筋。投手として高校時代は背番号「1」。

朝日新聞のネット記事より

25歳、政治経験はない。「挑戦しても無理と言われるが、挑戦しづらい社会を変えたい」。小学1年から大学4年まで「野球しかやってこなかった」と振り返る。

 政治を志したきっかけは、大学生の時に参加した参政党・神谷代表のセミナーだった。「演説から伝わる本気度に直感的に何かを感じた」。在学中に入党した。

 賃金や貧困、出生率などは若者に関わる問題。今のままではだめだと強く感じ、「次の日本はぼくたちの世代がつくる」と訴える。

 マンガやアニメ、スポーツカーが好き。マンガ「NARUTO―ナルト―」の主人公の「オレが知りてーのは楽な道のりじゃねェ、険しい道の歩き方だ」という言葉が胸に刺さった。「険しいけれど楽しいことが一番充実感があるから」

【毎日新聞候補者アンケートの回答】

憲法改正賛成(自衛隊明記)・核共有は検討すべき・日米関係も大事だが、他の国との関係も強化すべき、中国には友好関係を優先すべき・消費税廃止・社会保障は給付水準を下げて国民負担を抑えるべき・原発最大限活用・積極財政を進めるべき・選択的夫婦別姓反対・同性婚反対・外国人受け入れ抑制

【選挙第一声】

「挑戦しづらい、将来が見通せないという不安を友人から聞くことが多く、僕自身も実感している。こうした状況を変えたいと、若者代表として出馬した。若者の賃金と使えるお金を増やすことを訴えたい。(税金や社会保険料などの)国民負担率を35%に抑えることを第一に考え、若者が将来に希望を見いだせる社会にする。」

●浦上奈々 維新 元IT会社員 愛知9区 2001年1月生まれ

選挙公報のプロフィール欄には「2023年IT企業に入社。現在は愛西市でテニスサークルを主催。こども食堂や地域イベントのボランティアに積極的に参加」とある。

名古屋を拠点とする人気ご当地アイドルグループ「dela」の元メンバー。delaは2012年に名古屋で誕生し、活躍している人気アイドルユニット。ライブ活動のほか、ドラマやバラエティなどTV番組や全国誌グラビアにも出演。地元では名古屋観光交流特命大使として地域文化の発展に貢献している。「dela」では「松浦奈々」の名義で活動していた。2026年1月21日にグループを卒業。

愛知維新の会は、2025年10月24日に「2026(令和8)年4月告示の愛西市議会議員選挙の公認候補予定者として、「浦上なな」を内定いたしました」と表明していた。

グループ脱退が発表される直前のTwitterで「この度、日本維新の会愛知第9区(津島市、稲沢市、愛西市、弥富市、あま市、海部郡)支部長を拝命しました」と報告。また、それ以前にも街宣活動を行っていたことを明かした。

Twitterには「25歳、若い世代として将来に責任を持つ政治を実現する。その役割を担う覚悟です。身を切る改革を軸として、経済再生と少子化対策、教育改革などを推し進めてまいります。」と意気込みを記している。

選挙公報には「25歳最年少出馬!若者たちのために教育の無償化、教育の質の向上も考えます!」とある。

【毎日新聞候補者アンケートの回答】
憲法改正賛成(自衛隊明記)・核共有は検討すべき・日米関係強化、中国には毅然と対応・消費税食料品税率ゼロ・社会保障は給付水準を下げて国民負担を抑えるべき・原発最大限活用・積極財政を進めるべき・同性婚賛成・外国人受け入れ抑制

【公約】

毎日新聞の衆院選特設サイトの「最も力を入れたいこと」には、「日本はかつてジャパンアズナンバーワンと呼ばれ、企業の総資産額ベスト50に30社が入っていた超経済大国であった。それがGDPはドイツにも抜かれて4位となり、まもなくインドにも抜かれて5位となる。失われた30年の間、給料もGDPもほとんど伸びてこなかった。私は日本が再生するためには、経済の再生の道しかないと考える。無駄な公共投資を減らし、有効に経済に投資し既存企業が発展し、スタートアップ企業が増え、GDPが増える政策を実現させたい。」と記入。

【選挙第一声】

皆さま、おはようございます。本日はお忙しい中、朝早くからお集まりいただき、ありがとうございます。

 私はこのたび、衆議院議員選挙に立候補いたしました、浦上奈々と申します。まず、選挙が始まる前から準備をサポートしてくださった皆さま、本当に感謝しております。今日この日を迎えることができたのも、皆さまのおかげです。ありがとうございます。

 私は25歳1カ月で、この国政選挙に挑戦いたします。そこで、私が成し遂げたいことが二つあります。まず一つ目に、社会保険料を引き下げることです。皆さま、給与明細を見てください。税金がたくさん引かれています。私はこの負担を減らし、皆さまが自由に、そして好きなことに使えるお金をもっと増やしていきたいと考えております。

 次に二つ目に、教育の無償化、そして教育の質を高めることです。今、日本には、夢があってもお金がなくて夢を諦めてしまう子どもたちがたくさんいます。私は全ての子どもたちが夢や希望を持って、そして平等に教育を受けられるように、教育の無償化も掲げていきたいです。そして、教育の質の向上も同時に必要だと考えております。

 日本維新の会は、将来世代のための政党です。まずは行政の無駄をなくし、将来世代の皆さまの方々に投資することが一番大切だと考えております。これが実現できるのは、日本維新の会しかありません。私は国民の皆さまのお声、そして若い人のお声を国政へ届けたいと考えています。

 また、私は元アイドルグループに所属しておりました。その時から応援してくださったファンの方が、この会場にも来てくださっています。今まではファンの皆さまの笑顔のために頑張っていましたが、これからは国民の皆さまの笑顔のために、必死で働いて、働いてまいりたいと思っております。

 選挙戦12日間、とても寒い中ですが、皆さま、体調に気を付けて、一緒に勝利を勝ち取っていきましょう。どうぞ浦上奈々をよろしくお願いいたします。ありがとうございます。


2026年1月16日金曜日

派手に遊ぶ札差

 ※マンガの後に補足・解説を載せています♪

●

鈴木寿氏『近世知行制の研究』によれば、江戸時代、幕府の家来の武士(つまり旗本・御家人)の11%は自身の土地を持ち、その土地の年貢を得て生活していましたが、残りの中・下級の武士は自分の土地を持たず、米をもらって生活をしていました。

つまり、ほとんどの武士はサラリーマンのような生活を送っていたわけですね。その米(切米。俸禄米。旧暦2・5・10月の3季に分けて支給された。本来は秋の収穫後の10月のみであったが、1675年以後、その一部を前借するという形で2・5月にも支給されるようになった。2・5月がそれぞれ4分の1、10月が4分の2)の受け取り方について、『業要集』には、浅草の御藏(幕領から集まってきた年貢米を保管する倉庫)に出向いて、来た順に自身の名前が書かれた受け取り証明書である切米手形(札)を[藁苞(わらづと。藁を束ねたもの)に]差し、順番待ちをする、とありますが、末岡照啓氏『徳川家臣団と江戸の金融史』によると、順番待ちのために近辺の米屋で休憩している際に(『世事見聞録』には「昔は葭簀(すだれ)張りの水茶屋にて、御切米を請け取りに出でし侍どもの休息所」とある)、その「米屋と親しくなり、請取業務を代行」させるようになった…つまり、自分の名前を書いた差し札を代わりに差してもらい、米も受け取ってもらうようにした、この差し札を用いた受け取り代行サービスが、「札差」の名前の由来であり起源となったそうです(横井時冬氏の札差考には、「札差といふ名称は、昔庫米受取手形の渡るや、其人名をしるして、これを割竹に挟み、蔵役所の藁包に挿したるに濫觴す、⋯札差とは旗本の庫米受取方より売買までを受負ふ所の商人」とある)。

(※差し札は天和年間[1681~1683年]から名前を書いた玉に代わり、さらにその玉を使ってくじ引き[玉を穴のあいた柄杓を入れ、これを振る]をし、自分の玉が落ちた順番に米を受け取る方式に変更された)。

武士が俸禄米の受け取りを札差に委ねたことについて、

『業要集』には「御外聞に拘り」とあり、

三田村鳶魚は「江戸時代の法定利率」にて、「御蔵の前に掛茶屋が数軒あって、俸禄を請取に来た本人若しくは代人が其処に休憩するだけであったのが、現米を請取って自邸へ引取り、それから商人相手に剰余米を払うという、不得手な事柄に迷惑したので、何時か払米を此の掛茶屋に託し、又た蔵米請取手続をも委ねて、依頼者たる武士等は御蔵へ出頭せずとも済むような便宜な事になった」と記し、

鈴木直二氏『江戸における米取引の研究』には、平沼淑郎(1864~1938年)が札差の起源について「旗本御家人達は自ら米蔵へ行つて扶持米を受取るのは武士の外面上それを嫌ひ、且又その受取方手数の繁雑にしてそれによる無駄な日時の空費を避ける為め、米倉附近の茶屋店人をして自分の扶持米を代理受取らしめ、以て叙上の不便を取除かうとしたのである、それが札差業務の濫觴である」と講述した、とあります。

また、札差のサービスは受け取り代行にとどまらず、受け取った米を武士の食べる分を除いて現金化し、食べる分の米と現金を武士に渡すようになります。至れり尽くせりですが、もちろんタダではなく、手数料(『江戸物価事典』によると、米100俵につき、受取手数料が金1分[1分は1両の4分の1]、売却手数料が金2分)がとられました。

武士は、その後札差に対して受け取り代行・現金化サービスだけでなく、「蔵米を引当に家計費を借用するようにな」ります。蔵米を担保にして借金をするようになった、というのですね。本当は受け取った米を売ってお金に換えて、それで生活するのですが、それだけでは不十分な時、米を売って得られるもの以上のお金を借りたわけです。

借金の利息について、25%であったのを、幕府は1724年に15%と公定しましたが、それではやっていけない、せめて18%は欲しい、と札差たちが泣きついたので、これに対し幕府は「15%を超える少々の分は当事者同士の相談で決定する事」と返答していますから、その後の利率は15%を超える数字であったようです。1749年には、幕府は利率を改定して18%と定めています。

この利率は高い方なんでしょうか、低い方なんでしょうか。

他の金貸しと比べてみましょう。

・質屋…銭100文までは36%(後に50%)、2両までは28%(後に32%)、10両までは24%、100両までは20%、それ以上は相対(お互いの相談の上)で決定

・座頭金…盲人の金貸し。「草の実堂」のサイトによれば、鳥山検校は「5両1分」で貸していたという。1両=4分なので、5両=20分となり、1÷20×100=5、月々の利息が5%。年利は12を掛けて60%となる。

・からす金…その日の夕方、もしくは次の日の朝までに返す超短期の金貸し。100文を借りたら101文にして返した。日利1%、月利30%、年利360%。

これらと比べると良心的な利率と言えますね。

ちなみに現在は利息制限法により、10万円未満は20%まで、100万未満は18%まで、それ以上は15%までと決められています。

また、武士は利息とは別に「礼金」という者も札差に支払っていました。「礼金」とは何に対する礼なのか?実は、後でも述べますが、札差は資金が潤沢にあったわけではなかったようで、自身の持っている金だけをもって金貸しをしている者は少なく、そのため、他の金貸しから金を借りて、武士に渡していた…つまり借金の代行、借金の仲介をしていたのですね。武士の代わりに借金を取りまとめてくれた、その礼ということで「礼金」を払っていたようです(北原進氏『江戸の高利貸』によれば貸金額の1割[『世事見聞録』には「礼金一割二割など出し」とある)で、先引き[金を貸す際にあらかじめこの分を差し引くこと]であった)。もしこの「礼金」が無かったら、札差は利益が無くなってしまうことになります。金貸しへの返済をしなければなりませんから。金貸しの利率が15%を超えていたら、それは損をすることになってしまいます。だから、どうしても札差は15%を超える上乗せ分が欲しかったのであって、利率は高率にならざるを得なかったのです(三田村鳶魚は「掛茶屋が周旋した金融は、自分の資金ではないから、…資本主から借り出して来て、借款が成立した度毎に御礼を貰ったに違いない。借金する武士は資本主に払う利息の外に、此の御礼を負担しなければならぬ。利息と御礼とを合算すると此の借金は、世間一般のものよりも割の悪いものになる。慥に御礼だけ率が高いのだ。斯うした訳で蔵前の利息は率であるべき因縁を持つて居る」と述べている)。

しかし疑問なのは、武士はなぜ利率が高い札差から金を借りたのか?ということです。俸禄米の受け取り代行業をしていたので便利であった、というのもあったでしょうが、実はやむにやまれぬ理由があったようです。

幕府は1661年から1843年までの間に、8度も借金に関する訴訟は受け付けない…各自で相談して解決するように、との「相対済令」を出しています。つまり、武士が借金を返さない、と言ってきても金貸したちはこれを訴え出ることができなくなったわけです。

そうなると、金貸したちは武士に金を貸すことに二の足を踏むようになります(三田村鳶魚は「又たも借金踏倒令を抛げ付けられて、貸方の町人は何とあろう。さもなくてさえ武士に対する債権は不安なのに、今は全く踏倒されるのである、斯ういう危険な放資は誰もする筈がない。此の際武士に金を貸す者があろうとは思えぬ」と述べている)。

そこで、8代将軍・徳川吉宗が考えた作戦というのが、武士専門の金貸しを創設する事であり、そこで白羽の矢が立ったのが武士の俸禄米受け取り代行を担当していた浅草御藏前の茶屋・米屋などの商人であったわけです。

1723年、吉宗はまず、伊勢屋八郎兵衛なる商人に、これまで札差たちが半ば独占的に取り扱ってきた蔵米を取り扱わせることとし、しかも「いきなり武士全員の蔵米を取り扱うのは難しいだろうから、まずはできる分だけ取り扱い、1年後に状況を見て取扱人数を増やすように」(『享保八録』)という指示まで与えました。

これに驚いたのが札差たちで、翌年、幕府に次の事を請願しました。

・以前から浅草御蔵前で蔵米を取り扱っていた109人を札差の株仲間として認可し、株仲間以外の者に営業を認めないで欲しい(「百九人限札差宿相勤外之者、猥不仕候様に御觸流被為成下候様奉願上候」)。

・認めていただけるならば、借金の利率は25%から20%に引き下げます。米相場に関する不正も行いません(北原進氏は「寛政の『棄捐令』について」で、「札差は、その経営の中に米売方仲間・米屋仲間と称する私的な米仲買株仲間を擁し、蔵前相場を自ら立てて自らの手に引落す体制を、この頃まだ保っていた。すなわち彼らは、蔵米の換金手数料と債務者旗本御家人から収奪する高利との、公認収益のほかに、米仲間として蔵前相場をある程度左右して得る収益も、莫大なものがあったとみられる」と述べている)。

幕府の作戦に札差たちはまんまと乗り、自分たちから利率を下げると言ってきたわけですね。

幕府は株仲間を認める代わりに、先に述べたようにさらに15%に引き下げるように求め、これでは営業が苦しいと札差が陳情したので少々の上乗せは許可することになるのですが、これで幕府は武士の金貸しを確保するとともに、その利率を統制下に置くことに成功したわけです。

三田村鳶魚は幕府の作戦について「貸人を限定し、其の利率を控制すれば、旗本御家人等が乱暴な借金及び不法な利息から免れられると思い立たれたらしい。そうならば蔵前に札差を創業させたことは、武士等の家道庇護に他ならぬ」と評価しています。

しかし時間が経つにつれて、統制も次第に緩んでいったようで、安永6年(1777年)には札差仲間のリーダーが奉行所に呼び出されて、次のように言い渡されています。

…札差の中には、規定の金利を超えて貸し付ける者や、受け取り代行業務の際に高い礼金を受け取っている者がいるようだが、その者の名前や住所を報告せよ。…

これに対して札差たちは回答期限の延期を願う・申し渡しの内容を否定するなど、問題解決に消極的な姿勢を見せましたが、幕府はこれを許さず、61人に罰金、12人に注意、という処罰を与えています(25人はお咎めなし)。

ここからもわかるように札差は暴利をむさぼっており、これに加え、北原進氏『百万都市 江戸の生活』で述べているように、武士が借金を「返せないと元利を合計して新借金証に書きかえ、月数をごまかして二重利子を取るなど、不正な利殖手段」をさまざまに行った結果、財産もかなりのものになっていたようで、文化13年(1816年)に書かれた『世事見聞録』には「浅草御蔵前の礼差といふ者、希有に十分の勝手を得、富めるものなり」「いづれも大造(たいそう)に奢り暮し」とあります。そのことがよくわかるのが「十八大通」という言葉です。

山東京山が『蜘蛛の糸巻』で「天明の比、花車風流を事とする者を大通又は通人、通家などと唱へて、此妖風世に行はる。その中にも十八大通とて、十八人の通人ありけり」と述べているように、明和・天明(1764~1789年)の頃、「十八大通」と呼ばれた者たちがいました。

「十八大通」といいますが、18人の決まったメンバーがいたわけではなかったようで、川崎房五郎氏『十八大通の話』には、「十八大通は、十八人の粋人の意だが、どうも明和時代の人々で通人とよばれた人々、更に天明になって通人とよばれた人のいわば、近接して二期があって、その混乱が、十八人は誰と誰ということがはっきりしない原因のようである」とあります。

また、川崎氏は「吉原で、「きれいに遊ぶ」ことを見栄にして、豪快な金の使い方をした人を十八大通とよんだのだが、それにはあつさりしている。しつっこくないということが条件だったようだ」と述べています。

派手なお金の使い方をして、さっぱりしている、それが「十八大通」と呼ばれた者たちであったようですが、川崎房五郎氏が「十八大通の多くは札差であったという。札差でなくては豪奢な振舞いは出来なかったといえる」と述べているように、その多くは札差によって占められていたようです。

その派手な暮らしについて、三升屋ニ三治(みますやにそうじ)が『十八大通 一名御蔵前馬鹿物語』(1846年刊)に書いています(脚色もあるかもしれないが、本人は「此草紙は、土地柄の馬鹿馬鹿敷異風を、有の儘にあらはしたる書にて、啌(うそ)いつはりなし」と記す)が、その一部を紹介すると、次のようになります。

・大口屋八兵衛という札差は、博奕で一晩で四百両(現在の約800万円)を使い、手持ちの金が無くなると1200両の不動産価値のある屋敷を賭けたものの、博奕に負けてこれを失った、といいます。

・下野屋十右衛門という札差は、大山神社に太刀を奉納するために、自身は駕籠に乗り、町の者4・50人を集めて供にして、念仏を唱えながら進ませる、ということをやり、途中で役人に分不相応なことをして不届きである、と駕籠から引きずり降ろされ、十右衛門は処罰として入牢を申し渡されています。

・笠倉屋平十郎という札差は、札差の中でも大身代(大金持ち)で、所持していた小判に勝手に「平」の字を刻印して使用したので、世間の人々はこれを「平十郎小判」と呼んだ。橋場町に築いた別荘は、「平十郎屋敷」と呼ばれ、庭の石や樹木は、なかなか大名も及ばないほどの、美を尽くした住居であった。寛政の改革で取り締まりに遭い、別荘は撤去、庭石は大名などに引き取られ、土地は没収された。

・伊勢屋宗四郎(全吏)という札差は、妾の「おみな」と太鼓持ちの連中を連れて歩いている時に、歩きながら俺が「おみな」にキスをするから、それをいちはやく見つけた者に1両(現在の約2万円)やろう、と言い、3・4間(300~400m)の間に12回キスをして、結果太鼓持ち達に12両やった、といいます。

「全吏妙見詣

二代目宗四郎は、四郎左衛門別家にして全吏といふ。至て金遣ひにて、月の十五日には柳島妙見へ参詣する。ある年の春、妾におみなといふ婦人有て、たいこ持五六人を連て、柳島船宿小倉屋より船に乗て、堅川筋より程なく船は妙見の川岸に着、おのおの上りて妙見へ参詣し、それより吾妻の森え土手つたいに向ふへかかり、むだ口大しやれかたがた行折から、其日の大尽全吏が思付に、おれがおみなの口を吸ながら先へ行から、跡より付て来て口を吸のを見付けた者には、一両づつやろふといふ故、是は能御趣向、左様ならあなたがおみな様の口を吸のを見付升たら一両下さり升か有難と、全吏を先に立て行程に、ここぞ能所と全吏おみなが襟元引寄てちよいと口を吸ば、跡の人々伺ひ来る故見付て、ソレ旦那見付升たといへば、南無三ソレ一両と紙入より出して投て遣る、又一二間行て例の通りくちを吸ふ、ソレ旦那ソレー両と、吾妻の森まで行道わづか三四町の土手の間に、おのれが妾の口を十二両が吸たといふ事、恐く此よふなたわけた金遣は、今の世の中にはあるまじ」

[※当時は1両=銀60匁=銭4000文で、1792年における京都の日雇いの1日の賃金が1匁でしたのでキス1回につき1両やった、というのは日雇い労働者の賃金の2か月分ちょっと(1か月で働く日数は25日程度であったため)もポンポンやっていたことになりますね。文化・文政期には大工の賃金は1日4匁程度であったので、こちらだと15日分程度になります(それでも十分すごいですが…)。合計12両というのは、日雇いだと2年5か月分ほど、大工だと7か月分くらいになります。ちょっとの遊びでスゴイ浪費ですね…💦]

このように札差がもうかっているということは、武士たちはだいぶ借金をして苦しんでいた、という事になります。

松平定信は『宇下人言』に、「蔵宿(札差)のことについて、旗本・御家人はみなこれより金を借りていた。その利息はどんどん膨らんでいって、いつ返済できるか先が見えず、旗本・御家人は困窮の度合いがますますひどくなっていた」と記しています。



安永6年の処置も、金利を適正なものにしようとしただけで、武士の救済にはなっていませんでした。また、『よしの冊子』に「蔵宿(札差)共奢侈強く武士を軽じ、甚不届成者多御座候由」とあるように、武士を軽んじおごりたかぶる態度が見られていたのも、何とかしなければならない点でした。

定信は『宇下人言』に当時の状況を次のように記しています。

…蔵宿はだんだんと驕りたかぶるようになり、御家人などを悪く扱い、しかも恐れる様子もなかった。武士が借金を頼みに行っても、蔵宿の主人は応対せずに手代を出して悪いようにあしらうなどというのは、甚だしくひどい振る舞いである。…

なかなか簡単に金を貸そうとしなかった、というのですが、これは、利息分の引き落としだけでやっていけているので、お金を貸して、返ってくる見込みがない者の場合はお金を損するだけなので、貸そうとしなかったのでしょう。

この様子については、『世事見聞録』にも次のように書かれています。

「御旗本・御家人は大切の得意旦那にてありけんを、当時は格外麁略(そりゃく)に取り扱ひ、二階の狭き所へ通し、やや久しく待たせ置きて、応対を手代どもに任せ、自身は逢ふ事なく、いかやうに申し入れたりとも、病気または他行など断りて面会に及ぶ事なく、己れは日夜遊興にのみ過ぎゆくなり。…右の振合ひにて御旗本・御家人の取扱ひ向きは皆手代どもなるが、これまた応対方と唱へて、強情なる人物を選みたるものにて無礼至極のものなり。…右体無礼を堪へ、丁寧を尽し、詫びあやまりても、弁用致しくるる事まれにて、多くは詮なく帰るなり」

武士と町人の立場が逆転してしまっていますね💦

この状況を打開するには、武士の経済状況を良くし、借金しなくてもよいようにする事…またはそうでなくとも、返済能力があるようにさせることが必要となります。

そこで、松平定信による棄捐令が実行されることになるのです🔥

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